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2015年7月4日土曜日

享楽 (a) とファルス化された対象a(Paul Verhaeghe)

幼児のセクシャリティは自体愛的ではない(Paul Verhaeghe)」補遺。

表題を「享楽 (a)とファルス化された対象a」としたが、この観点は次ぎの通り(論者によっては、二つどころか、より精緻に対象aの五つの定義を示す場合さえあるのは「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」で見た)。

……フロイトと対照的に、ラカンは欠如を二重化する。一方で、現実界的な対象aの喪失がある。他方、それは、二次的な欠如を通して象徴界と現実界の混淆において加工される(“ファルス化された”対象a)。(Paul Verhaeghe、Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real,1999)

「ファルス化された対象a」とあるが、ファルスは対象aの一形態である(ただしそれだけではない(「特別の地位」。ジジェク2012も同様の見解を示している)。

ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象aの一つの形象ーー他の形象のなかのひとつではない。それは特別の地位を負っている。(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001])

以下、もちろんのこと一つの解釈であり、別の(多様な)見解があることはいうまでもない。


◆Paul Verhaeghe ,OBSESSIONAL NEUROSIS. The Quest for Isolation 2001より(私訳)

どの神経症も、いやさらにどの神経症の症状でさえ、次のふたつのレヴェルをもっている。一方で、現実界の核、たとえば欲動の根あるいは固着、他方で、象徴界-想像界のレヴェルでのーーたとえば〈他者〉のレヴェルでのーーその防衛的な作り直しworking-overである。私の読み方では、神経症の一般的なスキーマは次の通り。



原防衛を通して、享楽 (a) と主体のあいだの最初の内的葛藤(a →$) は、主体と他者のあいだの関係に接続する。すなわち、$◇A。

菱形紋 ( ◇ )は、主体-他者の関係における疎外(結合/同一化)と分離にあいだのフライホイールflywheelの動きを示す。

この二つのレヴェルを通して、さらにまた別の対立が作用する。すなわち欲動自体の内的対立である。フロイトが快と不快にかんして抱いた問題ーー何が快で何が不快なのかーーは、この内的な矛盾に密接にかかわる。

生の欲動あるいはエロスは、融合を目指す。それは緊張の増大をもたらす。このことは、〈他者〉との融合として理解される疎外過程の基礎を形づくる。死の欲動あるいはタナトスは、分離を目指す。それは緊張の低下をもたらす。このように、フロイトによって使用された用語の観点にては、我々はパラドックスを押しつけられたままである。

いわゆる死の欲動は、(a) とAから隔離されるとはいえ、自我にとっての生の継続を目指す。他の欲動であるエロスは、自我の死を意味する。というのは、それは、融合を通して、(a) とA のなかに自我が消滅することを余儀なくさせるから。

(a) と主体のあいだの関係(a →$) の最初の防衛的エラボレーションは、エディプス構造を通して遡及的に処理される。こうして、その関係はファルス的-性的な関係に変わる。

原防衛は、(a)の享楽それ自体に向かったが、二次的な防衛は、つねにファルス的なもの(a/− φ)にかかわる。今度は、主体と〈他者〉のあいだなのである。彼(女)自身を分離あるいは疎外(タナトス/エロス)しなければならない代わりに、主体は部分対象へと向かうことが可能になる。

ここでのエロスが《自我の死を意味する。というのは、それは、融合を通して、(a) と大他者A のなかに自我が消滅することを余儀なくさせる》とは、ヴェルハーゲ解釈では次の文にかかわる。

エロスとタナトスの二つの欲動は、全く反対の目的を目指す。一方で、融合することが、フロイトがエロスと呼んだものであり、分離することがタナトスである。そしてそれぞれ独自の快を持っている。この観点から、我々はなぜ「とことんまでall the way」行かないのかという我々の問いへの答えを示唆しうる。

まず最初に二つの相克する方向のせいであり、第二にどの方向も主体にとって堪え難い最終的な代償があるせいである。

タナトス欲動は理解するのに簡単だろう。それは解放とゼロテンションにむけて励む。それは最終段階としての死、そして死に向かった強烈な踏み台としてのオーガズムである。フロイトにとって、タナトスの目標とは分離であり、より大きな統一体からより小さな断片への絶え間ない分裂である。主体の水準において、これが意味するのは、他者からの分離であり、強化された個人的特性ーー私はここにいる、独立した人間として存在する、である。

エロスの目標は全く反対だ。それは融合であり、異なった要素を統合して、より大きな全体とすることである。そこでは個々の要素は、その個人的特性を失う傾向にある。生は、絶えず増大する緊張の集合体であり、それは純粋な享楽である。もっとも個人にとってはそうではない。個人は集合体へと消滅してしまう。個人はこの消滅をきわめて怖れることになる。

単独でタナトス欲動に従えば、我々は孤立して最終的には死ぬ。もっぱらエロス欲動に従えば、同様に我々は消滅する。今度はより大きな統合に飲み込まれるのだ。どちらもそれぞれ固有の享楽がある。どの人間も彼(女)自身の道の地図を作らねばならない。フロイトは、標準的な環境においては、二つの欲動は混ぜ合わされ(欲動融合Triebmischung)、各個人の人生において絶え間なく変化するカクテルだと言う。

ラカンはこのフロイトの論拠を引き継ぐ。享楽と死はきわめて近いものだ。享楽への道は、死への道である(Lacan, [1969-70], p. 18)。享楽それ自体、生きている主体には不可能である。というのはそれは自身の死を意味するのだから。唯一残された可能性は遠回りの道筋を取ることだ。目的地への到達を可能なかぎり遠くに延期してその道筋を行ったり来たりすることである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains(「古い悪党たちの新しい研究 2009)ーー「フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって」)

ヴェルハーゲは、2004年に書かれた論文では(いささか挑発的に?)次のようにさえ言っている。

生の欲動(エロス)は死に向かい、死の欲動(タナトス)は生に向かう。

life drive aims towards death and the death drive towards life (『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』ーー部分欲動と死の欲動をめぐる覚書

挑発的としたがーーすなわち一般的な「常識」から外れる見解にようにみえるが、これは最晩年のフロイトのエロスとタナトスの解釈に基づく。

アクラガス(ギルゲンティ)のエンペドクレスは、ギリシア文化史中もっとも偉大な注目すべき人物の一人のようである。(……)彼は事物がそれぞれにみな異なったものであるという事実を、四つの元素、地・水・火・風の組合せによって説明し、自然のすべてに生命があるということと魂の輪廻とを信じていた。(……)

……この哲学者は、世俗の生活の中の出来事にも、魂の生活の中の出来事にも、互いに永遠の闘争を行っている二つの原理があると教えている。彼はその二つを 愛philia – Liebe と闘争 neikos – Streitと呼んだ。彼にとっては根柢において「本能的にtriebhaft作用する自然力であり、けっして目的を意識した知性ではない」これらの力のうちの一つ、すなわち愛は、四つの元素の原子を集めて一つの統一体をなそうとするものであり、他の一つ、すなわち闘争は反対にこれらの組合せを元に戻して元素の原子をばらばらに分離しようとするものである。彼はこの世界の時間的な発展過程を、さまざまの時期の持続的な、けっして熄むことのない交替と考えている。そして各時期においては二つの基本的な力のうちのいずれかが勝利を得て、あるときは愛が、あるときは闘争がその意図を完全に遂行して世界を支配するのであるが、その後、他の屈服した方の力がその持ち前を発揮して今度は相手を屈服させてしまうというわけである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳)

エロスは、《現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め》る。この融合によって個人としては死ぬ。タナトスは、《統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする》、すなわち個人の生へと向かう。

この観点をとると、幼児の初期にあるだろう融合不安と分離不安が豊かに解釈できる。

フロイトとともに、私はこの移行に、はるかに基本的な動機を見分ける。すなわち、最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的なsomatic未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安fusion anxietyと呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。る(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009ーー「幼児のセクシャリティは自体愛的ではない(Paul Verhaeghe)」)

※他の参照としては、「二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)」を見よ。