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2015年6月9日火曜日

二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)

まずはポール・ヴェルハーゲのEnjoyment and Impossibility2006から抜粋する(私訳)が、その意図は、「超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)」で注目した次ぎのふたつの見解との対照比較をすることにある。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)

以下に掲げるヴェルハーゲの論文はラカンのセミネールⅩⅦ(精神分析の裏側)の英訳の解説のひとつとして書かれたものである。この論文はそうそうたる執筆者たち論文のなかの二番目に記載されている。冒頭のミレールの論文は、「恥と罪Shame and Guilt」(セミネールⅩⅦの最終章のテーマ)に焦点が当てられており、実質上の『セミネールⅩⅦ』の全体的な解釈は、ヴェルハーゲの論文から始まっている。

執筆者は次ぎの通り

Jacques-Alain Miller, Paul Verhaeghe, Russell Grigg, Ellie Ragland, Dominiek Hoens, Mladen Dolar, Alenka Zupancic, Oliver Feltham, Juliet Flower MacCannell, Dominique Hecq, Eric Laurent, Marie-Helene Brousse, Pierre-Gilles Gueguen, Geoff Boucher, Matthew Sharpe

以下、おそらく見慣れない言葉が出現するが、ここでは煩雑さをさけて、用語説明はしない。

たとえば、

①「(たった)一つの特徴unary trait」とは フロイトの『集団心理学と自我の分析』に出現した語einziger Zugであり、この語の意味については、セミネールⅩⅦ英訳の同じ解説群のなかのひとり、 Alenka Zupancicによる“WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value”にややっ詳しい→ 「享楽とシニフィアン(ジュパンチッチ=ラカン)

②「享楽の侵入」については、a)享楽の「侵入」 、b)子どもを誘惑する母(フロイト)を見よ。

くり返せば、上に掲げたジジェク組の、たとえば《われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ》と折合いがつくかどうかの検討資料である。

…………

享楽はシニフィアン組織への入口である。というのは、一つの特徴unary trait が刻印されて享楽の徴として反復されるからだ。反復の目標は、それ自体享楽であり(享楽の侵入としての刻印の反復)、かつまたこの享楽に反対するものである(一つの特徴unary traitとシニフィアンはつねに喪失を意味する)。それゆえ、どの反復も反復しよとする未満のものである。

この考え方はセミネールXVIIを通して、異なった名のもとに現れる、"objet a 対象a" "déperdition 喪失" "entropy エントロピー" "plus-de-jouir 剰余享楽."。しかしながら、シニフィアンもまた喪失の原因である。すなわち、主体と有機体としての身体のあいだの分割の原因である。それゆえ、享楽を獲得する手段としてのシニフィアンは、必然的に失敗しなければならない。そしてこの失敗において、原初の喪失がなおいっそう確証される。ここで、我々は二番目の曖昧な関係に遭遇する。知、それがいったんシニフィアンに導入されたものとしての知は、享楽への手段でもあり、かつ享楽の喪失の原因なのだ。

喪失と欠如の考え方は、ラカンにとって中心的なものである。彼の以前のセミネール(特にセミネールXI)と比較したとき、セミネールXVIIにおける欠如の概念は、衝撃的に斬新である。ここでは、欠如はシニフィアンの効果として叙述されている。すなわち、享楽を回復する手段として、まさにその喪失が確証されるのだ。

鏡像段階についての論文に始まり、ラカンはつねに喪失を叙述した。その最も明晰な公式化は、セミネールXIに見出せる。そこでは「本性nature」の用語が使われている。性的存在としての個人の誕生は、永遠の生の喪失を意味する(セミネールXIのラメラの神話を見よ)。というのは、性的な生は、死を避けがたい成り行きとするからである。

しかし、セミネールXVIIでは、享楽の喪失を引き起こすシニフィアンの導入がある。それは一見、ラカンの以前の立場の転倒にようにみえる。が、私の読解では、そうではない。シニフィアンによって引き起こされたこの喪失は、性的生の導入によって引き起こされた喪失の上に重なるものだ。それは、この原初の喪失の別の反復iterationだけではなく、この喪失への応答を練りあげる試みである。

この応答の試みは、構造的な理由で、失敗せざるをえない。それゆえ、必然的に「もっとencore」、ーーフロイトの反復強迫である。他の場所で(“BEYOND GENDER. From subject to drive ”2002)、私はこれを、絶えまないしかしつねに失敗する循環運動として叙述した。それは、原初の原因が原初の喪失(永遠の生の喪失)であるというはずみ車flywheelの動きなのであり、原初の喪失は継続して不可能な関係を反復する。それはそのたびごとに異なったレヴェル(有機体-身体、身体的イマーゴ-自我、自我-主体、男-女)での反復である。その上、この喪失はたんに一つの喪失ではない。シニフィアンの導入は喪失とならんで獲得をもたらす。それはさらに別の多義的な表現plus-de-jouirによって完全に表現されている。

ラカンはこの剰余享楽plus-de-jouirをマルクスの「剰余価値」概念と結びつける。剰余価値の獲得は、喪失のために必然的に生じる反復と密接な関係がある。これは既に、いかに曖昧な獲得かということを示している。どこかほかの場所、原初の享楽とは異なった場所にある享楽だからだ。マルクスと比較するのは、偶然の一致ではない。というのは、この「どこかほかの場所」は、文化と産業の生産物にかかわるからだ。それは我々に(常に)一時的で部分的な満足のみを供給する。

生産物として、それらは享楽の喪失の効果であり、かつこの喪失への応答である。この意味で、それらは剰余享楽plus-de-jouirとして我々に与えられる。ラカンはこれに「享楽の欠片 les lichettes de la jouissance」という名を与えている。このように、ラカンはマルクス概念「剰余価値」にきわめて接近している。それは使用されなければならないだけでなく、浪費さえされなければならない。

しかし、ラカンの剰余享楽plus-de-jouir概念はさらに先に行く。彼はエディプスコンプレックスを完全に再定義した。享楽を異なった起源の何か、すなわちplus-de-jouirに置き換える狡猾な社会制度とした。ラカン曰く、分析中に我々にとても興味深いのは、いかに剰余享楽plus-de-jouirの機能が、ファルスの享楽の禁止の代替物として打ち立てられているかを学ぶことだ、と。… (Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 2006 私訳)

一見、折合いがつきそうもない。とくに黒字強調した箇所は、ヴェルハーゲは明らかにフロイトの快原則の彼方を想定して叙述している(参照:フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって)。

ジジェク組の見解は「超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)」でみたことを仮に「そのまま」とれば、象徴界(シニフィアン)の裂け目にのみ現実界、あるいは享楽が現われるという立場だ。すなわち「快感原則の彼方」はない。象徴界の非一貫性にしか現実界はない、という見解である。ここで吉岡実の戦慄的な詩句、《だからあらゆる絵画は/ナイフで裂かれた次元をもつ》と引用してもよい。

そしてLorenzo Chiesaは、ポール・ヴェルハーゲのサントーム論文(2002)年を、この論旨に従って、批判している(快感原則の彼岸に享楽があると想定していると読める、と)。Lorenzo Chiesaには同様に(いま確めずに記憶で記すが)、ブルース・フィンク批判もある。

ところで次ぎの文を読むとどうか?

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引き

この文にたいしてジジェクは全面的に賛同している。ところが「回帰」とある。これを現実界は、象徴界の非一貫性とのみ捉えうるのか。やはり現実界は、象徴界の彼岸にあるのではないか。このあたりはジジェクの曖昧さなのか、わたくしの理解の及ばないところなのか。


享楽への道とは死への道(ラカン)」から、もうすこしジジェクの見解を抜き出してみよう。

象徴界と現実界を分ける棒線は、厳密に象徴界の内部のものである。というのは、その棒線が、象徴界が「それ自身になる」のを妨げるのだから。シニフィアンにとっての問題は、現実界に触れ得ないことではなく、「それ自身に到達する」ことが出来ないことだ。シニフィアンに欠けているものは、特別な言語の対象ではなく、「シニフィアン」自身、棒線を引かれない、何物にも邪魔されない〈一者〉である。(ジジェク『為すところを知らざればなり』For They Know not What They Do; Enjoyment as a Political Factor - Slavoj Žižek 1996 私訳)
享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけsemblanceの地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、その内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけsemblancesは、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。(LESS THAN NOTHING)

ーー見せかけsemblancesとは、対象(剰余享楽plus-de-jouir)のことであり、ここでジジェクは、ほとんど剰余享楽一元論である。

それはラカンのアンコール八章の享楽の図に反して、と「とりあえず」言っておこう。


「ラカンの享楽の図とフロイトの三人の女」より


もちろん、より有名なボロメオの輪を掲げてもよい。こう並べてみるだけで、たとえばJΦがまったく異なった位置(上ではR-Iのあいだ、下ではR-Sのあいだ)にあるのが分かる。もっともLevi R. BryanのようにΦ=JΦとすれば、の話である(アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方)。彼が最近やけくそ気味?であるのは、「享楽について語ろうじゃないか、ボウヤたち!」にて見た。サヨウナラ、Bryan! 短いつき合いだった・・・


というわけで、上の図はラカン派論客によってもほとんど言及されることがすくない。




※このJA → JȺ については、超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)」を見よ。


さてLorenzo Chiesaの見解もかくの通りであるのは前回みた。

ラカン後期のセミネール、そのなかでも最も注目に値するのはセミネールXXIIIにて、ラカンは少なくとも四つの異なった享楽概念の形態を活用しているが、にもかかわらず、私の意見では、直接的あるいは間接的に、すべて対象aに繋がっている。(Subjectivity and Otherness A Philosophical Reading of Lacan” 2007)

※さらに初期ジジェクの見解などは、「ラカンにおける特殊相対性理論から一般相対性理論への移行」を見よ。


ところで、今度はジジェクの『LESS THAN NOTHING』2012から抜き出してみよう。

……同じことが資本主義にもいえる。資本主義の永続的な自己革新のダイナミズムは、不可能性のポイント(最終的な恐慌、あるいは崩壊)の絶え間ない延期に依っている。…資本主義において、恐慌は内面化され予め考慮に入れられている。すなわち、不可能のポイントとして、であり、それが資本主義を継続的な活動に駆り立てる。資本主義は構造的に常に恐慌のなかにある。それが、いつまでも拡大していく理由である。資本主義は「未来から借金する」ことによってのみ、それ自身を再生産することが出来る。fuite en avant(破れかぶれで前に突き進む)ことによって未来に向かう。全ての借金が支払われる最終的な決着など決して到来しない。マルクスが提示した、不可能の社会的ポイントの彼自身の名は「階級闘争」である。

たぶん、人はこれを人間性のまさに定義として拡張すべきである。人間を動物から究極的に区別するものは、あるポジティヴな特徴(会話する、道具を作る、反省的思考等々)ではない。そうではなく、フロイトやラカンによって「モノdas Ding」として表現された不可能性の新しいポイントの出現にある。「モノdas Ding」、すなわち欲望の不可能なリアルに究極的参照点である。しばしば注目度される人間と類人猿のあいだの相違は、ここであらゆる重要性を獲得する。類人猿が手の届かない対象に直面するとき、何度かそれを掴もうと試みた後にそれを放棄して、より穏当な対象に転ずる(例えば、より魅力の劣る性的パートナー)。他方、人間は、不可能な対象に釘づけになったままで努力をしつこく繰り返す。

これが、主体自体がヒステリー的な理由である。主体、享楽を絶対的なものとする主体。その主体は、満足されない欲望の形式としての享楽に絶対性に応答する。そのような主体はゲームの限界の外側にいるままの状況に関係し得る。実際、「ゲームの外」という用語へのこの関係性は、主体自体を構成する。ヒステリーは、このように絶対的な享楽の偽装のもとに不可能性のポイントを設置する初歩的な「人間的」方法である。ラカンの「性関係はないil n'y a pas de rapport sexuel 」も人間であることを構成する不可能性のポイントではないだろうか?(ZIZEK,LESS THAN NOTHING, 私訳)


ーーわたくしはこの文に、「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解をみることはできない。ただ、《絶対的な享楽の偽装のもとに不可能性のポイントを設置する》における「偽装」という言葉を読むと、断言するのを躊躇する気分にはなるが。

いずれにせよ、わたくしにとっては、臨床家のヴェルハーゲのほうがわかりやすいということはいえる。

そして、これは経験論(ヴェルハーゲ)と合理論(哲学組)の対照ということだろうか?

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」

《ラカンは休むことなしに続けた、次のような用語を再公式化したり言い換えたりと。「父の諸名」という複数形から、おそらく基礎的かつひどく格言的な「〈一者〉があるil y a de l'Un」まで。しかし、ラカンの絶え間ない問いは事態を明瞭化することに貢献しない。そして最終的な答が欠けている。皮肉なことに、これはラカンの新しい理論の本質と極めて首尾一貫したものだ》とするPAUL VERHAEGHE,の『New studies of old villains』2009を附記しておこう。

すこし長めに引用するが、わたくしの現在の理解は、この前半部分にて留まっている。

いずれにせよ、これらの問いは、《一見アカデミックなもののようにみえるが、そうではない。究極的には、人のアイデンティティにおいて要素を結びつけるものは何かという問いに関わる》。もしそう見えないのなら、わたくしの書き方がわるいだけだ。

そしてジジェク組の批判が気になりはするのだが、上に掲げたヴェルハーゲの見解、《セミネールXVIIでは、享楽の喪失を引き起こすシニフィアンの導入がある。それは一見、ラカンの以前の立場の転倒にようにみえる。が、私の読解では、そうではない。シニフィアンによって引き起こされたこの喪失は、性的生の導入によって引き起こされた喪失の上に重なるものだ。それは、この原初の喪失の別の反復iterationだけではなく、この喪失への応答を練りあげる試みである》が、当面もっとも納得させられるものだ。

実のところ、母が行ったり来たりすることは、幼児にとって予測できない。その意味は、母の欲望は予測できない、故に脅迫的だということだ。それが脅迫的というのは、幼児は、判然としない理由でそこにいたりいなかったりする誰かに依存しているからだ。そのとき、母は子どもを超えて別の関心があることがはっきりする。すなわち、母の行ったり来たりは、まずは〈父〉への欲望によって決定づけられている。母の欲望に対して不快感に襲われる幼児の感覚は、幼児が母の欲望を象徴的・ファルス的用語でシニフィアン(意味づけ)出来るときに鎮められる。この意味は、母もまた規則に隷属している、すなわち社会の法と構造に服従しているということだ。そしてそれは父の名を通してシニフィエされる。

これらの相違点にもかかわらず、この点までのラカン理論は、フロイト理論と根本的に異なるところはない。しかし父の隠喩を導入した後すぐさま、ラカンは1960年に、象徴秩序における構造的に決定づけられた欠如の考え方を提示する。これはラカン自身の(そしてフロイトの)以前の論拠からのラディカルな旅立ちをしるすものだ。そして、フロイト用語では殆ど言い表せない何か根本的に新しいものを導入している。父の名は、もはや〈他者〉の、すなわち象徴秩序の、保証ではない。逆も同様である。反対に、〈他者〉の〈他者〉はいない("il n’y a pas d’Autre de l’Autre")。

以前は、父の名は父(の機能)の保証だった。丁度、フロイトの原父がどの父をも基礎づけたように。今や、父の名が保証するものは〈他者〉における欠如である。あるいは主体の象徴的去勢である。そして象徴的去勢を通して、主体はあらゆるものを取り囲む決定論から離れ、彼(女)自身の選択が、たとえ限定されたものであるとはいえ、可能となる。

この変貌の波紋は、ラカンのその後の仕事全体を通して、轟き続けた。まさに最後まで、絶え間なく寄せてはかえす波のように。実に理論の最も本質的なメッセージは、どの理論も決して完璧ではないということだ。循環する論述によって組み立てられた閉じられたシステム、それを我々はフロイトとラカンとともに以前は見出した(原父や父の名によって保証される父、逆も同様)。だがそれは一撃で破棄された。

同時に、新しい問題が出現する。構造的欠如を基盤とする象徴秩序において、要素を結びつけたり統合するものは何か? この問題は一見アカデミックなもののようにみえるが、そうではない。究極的には、人のアイデンティティにおいて要素を結びつけるものは何かという問いに関わるからだ。このときまでに、ラカンは常に強調していた、主体性における根本的な疎外と分裂を。そこでは統一の感情は脇に置かれていた。後者(統一感)は父の名の効果だと想定された。

ラカンがこの理論から離れたとき、彼は、人のアイデンティティにおける主体の統一感のために別の説明を生み出さねばならない。ラカンは休むことなしに続けた、次のような用語を再公式化したり言い換えたりと。「父の諸名」という複数形から、おそらく基礎的かつひどく格言的な「〈一者〉があるil y a de l'Un」まで。しかし、ラカンの絶え間ない問いは事態を明瞭化することに貢献しない。そして最終的な答が欠けている。皮肉なことに、これはラカンの新しい理論の本質と極めて首尾一貫したものだ。

…………

※附記:たとえば、「享楽について語ろうじゃないか、ボウヤたち!」にて藤田博史氏の剰余享楽le plus-de-jouir の説明を引用したが、ここで、上に引用された文(ヴェルハーゲ、あるいはジジェク組の両方)からみれば、明らかに間違っているように思う。なぜこのような見解が三十年以上、ラカンを読んできた人から出てくるのかが、逆に奇妙ではある。

人間は、シニフィアンを掴んで、そこに意味を紡ぎ出し、価値を創り出し、悦びの連鎖すなわち「享楽 la jouissance」という独自の次元を創りだしてゆくのですが、その遥か彼方にある究極の享楽が l'oblet petit a です。いい換えるならば、わたしたちが日常体験している悦び以上の、いわば過剰の悦びなのです。ラカンはこれを le plus-de-jouir と表現します。もうこれ以上は享楽できないよ、という究極の享楽、わたしはこのニュアンスを出すために le plus-de-jouir を「極-楽(きょくーらく)」と翻訳しました。l'objet petit a は、生命の最終的な到達点つまり死 la mort でもあるわけですから、この究極の享楽を極楽(ごくらく)に掛けて、そこへハイフンを入れて「きょくらく」と読むことにししたのです。一般的な訳し方をすれば「剰余享楽」となるでしょう。(藤田博史「セミネール断章 2012年 11月10日講義より」

とはいえ、わたくしもあまり口幅ったいことをいえるほど分かっているわけではない(シツレイ! 藤田センセ・・・)。

ただ多くのひとがーーラカン研究者でさえーー、ラカンの核心であり最も基本的なものである「享楽」概念についてたいしてわかっていない、ということが、最近、明瞭にわかってきたというだけである。「享楽」に近寄るべからず・・・

享楽はラカンの最も札付きに難解な概念のひとつであり、それは、ことさらに彼の理論の発展に伴った変貌にもよる。基本的には、欲動から生じる統御できる快と統御できない快のあいだの限界領域を示す。そのためアイデンティティの感覚の喪失を伴って我々を脅かす(我々の想像力のなかで)ものである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009 私訳)
では正確に、享楽概念は何を意味するのだろう? ラカンは決してはっきりとは定義しない。ただ漠然と示唆するだけだ。この不明瞭さは故意のものである。ラカンにとって、享楽は定義上、定義されない。それは象徴化を逃れるものだから(Lacan,  [1969-70],)。もっともフロイトにも類似の概念を見出せないではないが。快原則の彼岸についての叙述に、ラカンは享楽の考え方の示唆を見出している。快原則の「彼岸」(jenseits) に何かがあるに相違ない。フロイトはそう結論する。…奇妙な反復があるのだ。奇妙なというのは、反復されるものが、快と呼ばれるものでは必ずしもないからだ。実際、享楽は快の反対物かもしれない。すなわち、"Unlust," あるいは" déplaisir"なのだ。 (Lacan, [1969-70], p. 77) (同上PAUL VERHAEGHE 2009)


(そのうち続く?ーーいやもうやめるかも)