2015年5月25日月曜日

ラカンの享楽の図とフロイトの三人の女

ボーシャ:……さあ、お選びください。
モロッコ大公:最初のは金の箱、銘が刻んであるな、「われを選びしものは、衆人の望みしものは得べし」。次は銀、これは約言か、「われを選びしものは、おのれにふさわしきものを得べし」。三番目は鈍い鉛だ、その警告もぶっきら棒だ、「われを選びしものは、おのれが持つものすべてを投げだすべし」。(シェイクスピア『ヴェニスの商人』 ――岩井克人訳 『ヴェニスの商人の資本論』より)

財産と美貌と美徳をかねをなえたボーシャは父から大きな遺産を受け継いでおり、亡父の遺志により、求婚者の中から、差し出された三つの小箱のうち正しい小箱を選んだ男を夫とすることになっている。モロッコ大公、アラゴン大公、バッサーニオが求婚者である。箱のひとつにはボーシャの絵姿が入っており、その箱を選んだ男がボーシャの婚約者となる。アラゴン大公は銀の箱を、そしてバッサーニオが鉛の箱を選ぶ。バッサーニオ曰く、《なかに何があるのか? (鉛の小箱を開ける。)美しきボーシャの絵姿ではないか!》

『ヴェニスの商人』の場合には、なにかモティーフの裏返しのようなものが現れている。

つまりここではひとりの男が三つの小箱を選ぶ。

これが夢のことならば、ただちにわれわれは小箱や小容器やボール箱や籠などと同様、その小箱もまた女性であり、女性における本質的なものの象徴、だから女性そのものなのだと考えたことであろう。(……)

(そうすれば)いまや一箇の人間的なモティーフ、すなわちひとりの男が三人の女たちのどれかを選ぶということが問題になっていることを知るわけである。(フロイト『小箱選びのモティーフ』)

フロイト『小箱選びのモティーフ』はシェイクスピア小論であり、『ヴェニスの商人』と『リア王』とにあらわれた三人の女について、最終的に次のように書かれている。

……ここに描かれている三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。

①母それ自身は金の箱

――「われを選びしものは、衆人の望みしものは得べし」。

②母の像を標準として選ぶ愛人は銀の箱

――「われを選びしものは、おのれにふさわしきものを得べし」。

③母なる大地は鉛の箱

――「われを選びしものは、おのれが持つものすべてを投げだすべし」


ところで、ドゥルーズは『マゾッホとサド』の「マゾッホと三人の女性」の章でこう書いている。

マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。

もちろんドゥルーズはフロイトの『三つの小箱』を参照しているわけだが、ドゥルーズ=マゾッホでは、金の箱、銀の箱、鉛の箱のそれぞれは次のようになる。

①子宮としてあり古代ギリシヤの娼婦としての母

②愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母

③口唇的な、死をもたらす母


これを①対象a、②ファルスの享楽、③〈他者〉の享楽とすることはできないだろうか(②③はそれでよさそうだが、①についてはやや無理があるか?)。





このラカンのセミネールⅩⅩ(「アンコール」)の第八章にある図は、ラカン派の論者でさえ言及することの稀な図だが、その稀ななかに、《RSI(現実界、象徴界、想像界)の三つの審級ordersに関して、享楽が取り得る異なった形を描写するためのもの》であり、剰余享楽a、ファルスの享楽Φ、〈他者〉の享楽(女の享楽)S(Ⱥ)という解釈があるのを少し前みた(アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方)。


Bryantのいうことをそのままとれば、すなわち次ぎのようなことになる。





フロイトの欲動理論の結論は、死は快楽の究極の形式だということだった。
セミネールXVII(「精神分析の裏面」)の冒頭近くで、ラカンはフロイトのJenseits(彼方、彼岸)概念をめぐって次ぎのように言っている、「人生は、自己流儀self-fashionedの死への廻り道であり、大抵の場合、人生は、急いで目標に到達するものではない。」

そもそも、S・シュナイダーマンの『ラカンの《死》』によれば、ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていたとされる。

なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだらしい(伊藤正博「ラカンの《第二の死》の概念について」による)。

とすれば、上の図の真ん中の享楽(死)からの廻り道としての三つの形式、剰余享楽、ファルスの享楽、〈他者〉の享楽ということがいえるのだろうか(おそらく〈他者〉の享楽についてはやや異なるかもしれない)。

だが、いまはそれに触れない(ようするになにやらわかっていない)。ここではラカンのセミネールⅩⅦでの態度変更のあり様を指摘するポール・ヴェルハーゲの文を掲げておくのみにする。

より広くラカンのセミネールを眺めるなら、セミネールXVII(精神分析の倫理)はセミネールVIIに反した位置にある。そしてSeminar XI(四基礎概念)とセミネールXX(アンコール)のあいだの移行の場を占める。倫理のセミネールでは、享楽は現実界と捉えられ、それゆえ象徴界とは全く反対のものである。そこでは、享楽は法の侵犯を通してのみ到達し得る。精神分析の裏側S.17のセミネールでは、対照的に、享楽は侵入に関わる。さらに、ラカンは享楽とシニフィアンの原初的関係性を唱える。(Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 2006)

他にも、《反復は享楽に到ろうとする試みを基にしている》あるいは、《享楽は侵入を通して、身体に生じる。この侵入は徴を得る。〈他者〉の介入を通して、身体に刻印される。享楽への道を歩みつつ、人は不可避的にこの道に沿ってかねて勃然とした徴に従わねばならぬ》などとされる。

ここで、フロイトはすでに、どの母親も、子どもを世話しているとき「誘惑する」としていることを想起しておこう。すなわちこれが最初の〈他者〉mOtherによる「侵入」である。

いずれにせよ享楽は「侵犯」から「侵入」に変わったわけだ。セミネールⅩⅦは1969-1970年になされており、おそらくドゥルーズの『差異と反復』の影響による転回とも憶測されないではない。

反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

とすれば象徴界と享楽のつながりが生じる。

ラカンは、その仕事の展開を通して、ずっと探し求めていた、S(象徴的見せかけsemblance)とJ(享楽の現実界)のあいだの「縫合点」、SとJをひとつにまとめる、あるいは少なくともそのふたつを仲介するリンクを。主な解決法は、まずは、ファルスを欠如のシニフィアンに昇格させること、すなわち去勢のシニフィアンとして、象徴秩序内の享楽の場を保持することだった。その後には、享楽の喪失から生み出される剰余享楽としての対象a自体がある。それは象徴秩序へのエントリーの相対物であり、現実界の享楽のサイドに位置する享楽ではなく、パラドキシカルにも、象徴界のサイドに位置する享楽である。

「リチュラテールLituraterre」(Autres écrits所収)にて、ラカンは、最終的に象徴的松果体(デカルトにとっての身体と魂が交流する身体的な徴である)のこの探求を断念し、ヘーゲリアンの解決法を取った。すなわち、S とJを永遠に分離するギャップ自体がこの二つを一つにまとめるというものだ。というのは、このギャップが各々の二つを構成しているのだから。

象徴界は、己れを十全な享楽から分離するギャップを通して生じる。そしてこの享楽自体は、象徴界のギャップと穴によって生み出された幽霊specterである。

この相互依存性を示すために、ラカンは「波打ち際littorale」という用語を導入する。それは「海岸のような」次元における文字を表している。それによって「ある領域、そっくりそのまま他にとっての前線を作る領域を描くこと、それらの存在は、相互の関係に陥いらない範囲で、互いに異物であるのだ。その痕跡とは知の穴の縁ではないか?」(ラカン「リチュラテールLituraterre」)

だからラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際littoraleがある」と言うとき、jouis‐senseの喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアンする形式signifying formula of enjoymentに縮減された文字のjouis‐senseを、である。ここに後期ラカンの最終的な「ヘーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)


さてBryantに戻れば、彼は、ファルスの享楽については、明晰に説明している。

ファルスの享楽を現実界の審級からの逃走として考え得る。すなわち、逃走とは、シニフィアンの審級の本質的な不完全性あるいは非一貫性を覆うとする格闘なのだ。

もともとファルスの享楽は、フロイトの快原則の此岸の享楽で、代表的なものは性的オーガズムである。

だが、剰余享楽と〈他者〉の享楽のBryantの説明は、わたくしには曖昧のままだ(これは別の論者を参照にして、そのうちもう少し詳しく書く予定? たぶん)。

我々は、ラカンが対象aを見せかけsemblanceの用語で言及した理由が分かる。対象aが見せかけならば、それは、有beingあるいは完全性を約束するからであり、同時になぜ存在existしないかの理由も与えてくれる。

同じように、ファルスが現実なら、それは現実が幻想の枠組みを通して接近される限りで、一貫的で完全な社会秩序の錯覚illusionを生み出すからである。

ラカンはセミネール11(『精神分析の四概念』)にてこう語った。我々が夢から目覚めるのは、まさに、真理、現実界、あるいは〈他者〉の去勢に接近したときである。目覚めて、幻想の中に居続けるのだ。すなわち、真理あるいは現実界 realから、幻想の中にかつ幻想を通して構造化された現実realityび逃れるのだ。

最後に、〈他者〉の享楽、あるいは女性の享楽が真理とつながっているのなら、それが、享楽の源として、〈他者〉の欠如S(Ⱥ)、その不完全性を取る享楽の唯一の形であるからだ。


(そのうちおそらく続く)


※「侵犯」と「浸入」をめぐっては、されに一歩進んだジジェクの見解がある。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』ーー「ラカンにおける特殊相対性理論から一般相対性理論への移行」)