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2017年8月4日金曜日

「死の欲動」という「不死の欲動」

フロイトは『快原理の彼岸』の最終章で、《ここは、さらなる研究を始めるべきところなのかもしれない Hier wäre die Stelle, mit weiteren Studien einzusetzen.》と記している。

この1920年に上梓された論文、フロイト64歳の論文にて、フロイトは新たな「出発点」に立った。エロス/タナトスの模索である。

死の枕元にあったとされる草稿には次のようにある。

破壊欲動の最終的な目標は、生きた物 das Lebende を無機的状態 anorganischen Zustand へ還元することだと想定しうる。この理由で、破壊欲動を死の欲動 Todestrieb とも呼ぶ。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

破壊欲動、すなわちタナトスの目標は、無機的状態に還元することだとしている。 これがフロイトの最後の言葉ではあるが、ラカンはこの「無機的状態」に反して考えた(いやむしろ、フロイトの思考を真に「忠実に」追求していけば、生前のフロイトとは逆の捉え方になる、と考えたとしてもよい)。

ラカンの考え方は、《非生命体(無機物 l'inanimé=死)への回帰傾向の彼岸》に死の欲動があるという彼の言明が最も明瞭に示している。


【死の彼岸にある欲動】

欲動自体、それは破壊欲動 pulsion de destructionなのだが、そのかぎりにおいて、非生命体(無機物 l'inanimé=死)への回帰傾向の彼岸 au-delà de cette tendance au retour à l'inanimé になくてはならない。(ラカン、S7、04 Mai 1960)

ラカンにとって死の欲動は無機的状態への回帰どころか「永遠の生(不死の生)」にかかわるのである。

リビドー libido、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドー。これは、不死の生vie immortelle、押さえ込むことのできない生vie irrépressible、いかなる器官 organeも必要としない生、単純化され、壊すことのできない indestructible 生、そういう生の本能である。 (ラカン、S11、20 Mai 1964)

フロイトにとってリビドーはエロス側にある。

(多細胞)生物のなかでリビドーは、そこでは支配的なものである死の欲動あるいは破壊欲動 Todes- oder Destruktionstrieb に出会う trifft。この欲動は、細胞体を崩壊させ、個々一切の有機体を無機的安定状態 Zustand der anorganischen Stabilität(たとえそれが単に相対的なものであるとしても)へ移行させようとする。リビドーはこの破壊欲動を無害なものにするという課題を持ち、そのため、この欲動の大部分を、ある特殊な器官系すなわち筋肉を用いてすぐさま外部に導き、外界の諸対象へと向かわせる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924)

だがラカンにとってはすべての欲動(リビドーを含む)は、潜在的に死の欲動である。

全ての欲動は、潜在的に(実質的に)死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)

以上より、ラカンにとって「死の欲動」とは、死の彼岸にある「不死の欲動」ということが言える。

これはジジェクが長年くり返していることでもある。

◆「不死」の生 'undead' life、「不死の」機械 'undead' Machine
生は、通常の死の彼岸に生き続ける、非主体的な「不死の」欲動という「ラメラ」の恐ろしい鼓動である。死は、象徴秩序自体であり、寄生物として生体を植民地化する構造である。ラカンにおいて死の欲動を定義するものは、この二重の亀裂である。生と死とのあいだの単なる対立ではなく、生自体の分裂、すなわち「通常の」生と恐ろしい「不死の」生への分割であり、そして死自体の分裂--「通常の」死と「不死の」機械への分割である。 (ジジェク『幻想の感染』、1997年、私訳)

◆「不死の」永遠の生 'undead' eternal life
フロイトの死の欲動は、自己消滅への渇望や、どんな生命緊張の無機的不在への回帰渇望とはまったく関係がない。それどころか死の欲動とは、死にゆくことのまさに反対ーー「不死の」永遠の生自体の名であり、罪と苦痛のまわりを彷徨う終わりなき反復循環に囚われるという悲惨な運命の名である。したがって、フロイトの「死の欲動」の逆説は、まさに「死」の反対の名だということである。精神分析内で「不滅性」が現れるあり方の名、生の不気味な過剰の名、生と死の(生物学的)循環の彼岸に生き続ける「不死の」衝動の名である。精神分析の究極の教えは、人間の生はけっして「ただの生」ではないということである。人間は単に生きているのではない。人間は、過剰のなかの生を享楽する奇妙な欲動にとり憑かれ、突出した剰余・物事の通常の成行きから逸脱した剰余に熱狂的に纏いつかされている。(ジジェク『パララックス・ヴュ―』2006年、私訳)

◆「不死の」衝動 'undead' urge
盲目的で破壊されないリビドーの執着を、フロイトは「死の欲動」と呼んだ。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的名だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、 生成と腐敗という(生物的な)循環の彼岸に生き続ける「不死の」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を反復する不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動に情動化された有機体の自然な限界を超えて、その有機体の死の彼岸においてさえ生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンは こう読め!』2006年、既存訳をいくらか修正、「死なない undead」→「不死の」等)

◆(生物学的)死の彼岸 beyond (biological) death
死の欲動とは、ニルヴァーナ原理(すべての緊張の解消へと向う奮闘・原空無への回帰渇望)と同じものであるどころか、ニルヴァーナ原理(涅槃原理)の彼岸、その原理に反して生き続け、己れを主張するものである。言い換えれば、ニルヴァーナ原理とは、快原理に対立するものであるどころか、快原理の至高の表現、最も根源的な表現である。この厳密な意味で、死の欲動は、ニルヴァーナ原理の正反対のものを表わす。死の欲動とは、「不死の」相、(生物学的)死の彼岸に己れを主張する妖怪的生の相を表わすのである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年、私訳)

この「不死 undead」とは、カントの無限判断における不死の相似形として捉えうる、《魂は不死である die Seele ist nichtsterblich》。

仮に私が魂について「魂は死なない ist nicht sterblich」と言ったとすれば、私は否定判断によって少なくとも一つの誤謬を除去したことになるだろう。ところで「魂は不死である die Seele ist nichtsterblich」という命題による場合には、私は魂を不死の実体という無制限の外延中に定置することによって、論理の形式面からは事実肯定したことになる。(……)

[後者の命題が主張するのは]魂とは、死すものがことごとく除去されてもなお残るところの、無限に多くのものの一つである、ということに他ならない。(……)しかし、この[あらゆる可能なものの]空間はこのように死すものが除去されるにも関わらず、依然として無限であり、もっと多くの部分が取り去られても、そのために魂の概念が少しも増大したり肯定的に規定されるということはありえない。(カント『純粋理性批判』)

ーーラカン用語を使っていえば、象徴的「生/死」の「非全体 pas-tout 」に外立するものが現実界的「不死」である。《現実界は外立する Le Réel ex-siste 》 (S22)

    生/死
 ーーーーー
 不死=非死



【涅槃原理】

上に引用した文のなかでジジェクは、《ニルヴァーナ原理とは、快原理に対立するものであるどころか、快原理の至高の表現、最も根源的な表現》あるいは《死の欲動は、ニルヴァーナ原理(涅槃原理)の正反対のものを表わす。死の欲動とは、「不死の」相、(生物学的)死の彼岸に己れを主張する妖怪的生の相を表わすのである》としている。

他方、フロイトは《涅槃原理は死の欲動の傾向を表現》するとしている。

バーバラ・ローはこのように仮定された志向を「涅槃原理 Nirwanaprinzip」と呼ぶことを提案した。われわれもこれに異存はない。ところがわれわれは、快不快原理 Lust-Unlustprinzip を不用意にもこの涅槃原理と同一視してしまった。そうなると、一切の不快は心のなかにある刺激緊張の高まりということにならなければならないし、また一切の快は同じくその低減と一致することとなり、涅槃(およびそれと同一のものとみなされる快)原理は、われわれの不安定な生命を無機状態の安定性 Stabilität des anorganischen Zustandes へと導いていくことを目標とする死の欲動 Todestriebe に全面的に奉仕することとなり、生命が突き進む経過を邪魔しようと努める生欲動 Lebenstriebe、リビドーの諸要求にたいして警告を発するという機能を持つことになるであろう。

しかしこのような考え方の正しかろうはずはない。思うにわれわれは刺激規模の増大と減少を緊張感情の系列の中で直接感じとるのであり、また、快をともなう緊張もあれば、不快な弛緩もあることは疑うべくもない。性的興奮の状態は、かかる快をともなった刺激増大のもっとも顕著な一例ではあるが、しかしたしかに唯一の例ではない。したがって、快不快は、刺激緊張と呼ばれるある量の増減に関係づけられてはなるまい。もっとも快不快は明らかにこの契機と深い関係を持っているのである。快不快はこの量的要因に依存するのではなく、 われわれが質的なものとして言い表すしかないところの、量的要因の一性格に依存するのである。(……)

いずれにせよ、死の欲動 Todestrieb に帰属する涅槃原理 Nirwanaprinzip が生物においてはある変様を受け、この変様のために涅槃原理が快原理となったであろうから、今後は両原理を同一物とみなすことを避けるべきであろう。(……)死の欲動 Todestrieb と相並んで、生の諸事象の調整にこのようにして無理やりに一役買って出たのは、生の欲動 Lebenstrieb、すなわちリビドー Libido 以外のものであるはずがない。

こうしてわれわれは、僅かではあるが興味深い一連の関係を手にした。すなわち、涅槃原理は死の欲動の傾向を表現し、快原理はリビードの要求を代表し、その変様である現実原理は外界の影響を代行する。das Nirwanaprinzip drueckt die Tendenz des Todestriebes aus, das Lustprinzip vertritt den Anspruch der Libido und dessen Modifikation, das Realitaetsprinzip, den Einfluss der Aussenwelt."(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

…………

以上、表層的にあらわれているフロイトの「死の欲動」の記述とラカン的な「死の欲動」(ジジェクの明瞭な解釈における)の捉え方は、まったく正反対のものであることを示した。

ジジェクにとってはーーおそらくラカンにとってもーーこれが真のフロイトの「死の欲動」なのである。

ジジェク2012の表現なら、《フロイトを「聖書解釈学的」に読む誤ち》を犯して、《フロイトが「死の欲動」概念において目指していたもの--より正確に言えば、フロイト自身が己の発見の十全な意味作用に盲目のままで気づいていなかった死の欲動の鍵となる相》を見逃してはならない。巷間の《素朴なフロイト学者》のように死の欲動を心理学的に捉えてはならず、ラカンやドゥルーズが繰り返したように《死の欲動とは超越論的概念》(参照)なのであり、《フロイトをよりいっそうラディカルに読まねばならない》ということになる。


2017年4月15日土曜日

「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行

以下、「自我理想と超自我の相違(基本版)」に記したことにかかわるが、なによりもの核心は、ジジェクの「眼差しー恥ー自我理想」/「声ー罪ー超自我」論ーーーーわたくしの知る限り2012年の書にはじめてあらわれたーーであり、その2016年版である。

◆Slavoj Žižek 2016、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? PDF

眼差しと声は、標準的社会関係の領野において、恥と罪の仮装の中に刻み込まれる。恥は、大他者の眼差しにつながっている。すなわち、私が恥じ入るのは、 (公的)大他者が剥き出しの私を見たり、私の汚れた内面が公けに曝露されたとき等々である。反対に罪は、他者たちが私をどう見るか、彼らが私について何を話すかについては関係がない。すなわち、私が自分自身において有罪と感じるのは、私の存在の核から送り届けられる声から生じる、内部から来る罪の圧迫による。

したがって、「眼差し/声」の対立は、「恥/罪」の対立と同様に、「自我理想/超自我」の対立とつなげられるべきである。超自我は、私に憑き纏い非難する内部の声である。他方、自我理想は、私を恥じ入らせる眼差しである。

この対立のカップルは、伝統的な資本主義から現在支配的な快楽主義的-放埓的ヴァージョンへの移行の把握を可能にしてくれる。ヘゲモニー的イデオロギーは、もはや自我理想としては機能しない。自我理想の眼差しに晒されたとき、その眼差しが私を恥じ入らせる機能はもはやない。大他者の眼差しは、その去勢力を喪失している。すなわちヘゲモニー的イデオロギーは、猥褻な超自我の命令として機能している。その命令が私を有罪にするのは、(象徴的禁止を侵害するときではない。そうではなく)、十全に享楽していないため・決して十二分に享楽していないためである。(ジジェク 2016、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint?)

冒頭にも記したとおり、2012年のLESS THAN NOTHINGにもほぼ同様の叙述がある。ただひとつだけ新しいのは、《伝統的な資本主義から現在支配的な快楽主義的-放埓的ヴァージョンへの移行》と「恥から罪への移行」(自我理想から超自我への移行)を明瞭に関連付けていることだ(もっともジジェクを読み込めば、1990年前後からすでにそれを暗示しているという観点もあるだろう)。

これは「資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式」で引用した岩井克人の「資本の主義/「資本の論理」にダイレクトにつながる。

じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。 

実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。(『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)

「資本の主義」の時代から「資本の論理」(資本の欲動)の時代への移行とは、ラカンの「主人の言説」から「資本の言説」への移行のことでもあり(参照)、現代ラカン派内では、「20世紀の神経症の時代から21世紀のふつうの精神病の時代へ」と言われたり、「ふつうの倒錯の時代へ」と言われたりすることにもかかわる(資本の言説が倒錯の言説でありうるのは、「四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説)」にやや詳細に記した)。

イデオロギーあるいは主人(父の名)の斜陽の時代とは、「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften」(フロイト)の観点からは、三者関係から二者関係への移行があったということである(それはエディプス的超自我から前エディプス的超自我への移行でもある[後述])。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』

中井久夫が、《今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である》(「アイデンティティと生きがい」)とするとき、やはりすくなくとも冷戦終結後1990年からーー実態は学園紛争後の1970年代から漸次である(ラカンが「主人の言説」から「資本の言説」への移行を指摘したのは、1972年である)ーー、世界的な文化病理として、三者関係から二者関係への如実な移行があったことを示している。

重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウ1999,Verhaeghe, P., Social bond and authority,PDF

ここで、名高いアーレントの見解ーー長い間、時代錯誤的として捉えられていたーーを引用することもできる、 《権威とは、人びとが自由を保持する服従を意味する》(ハンナ・アーレント『権威とは何か』)

※参照:「帝国」と「帝国主義」の相違(柄谷行人、ラカン)

もっとも一神教でない日本では、父の権威などかつてからなく(明治以降敗戦までの疑似一神教時代を除いて)、神経症的ではなくむしろ精神病的あるいは倒錯的社会と言われてきたので、この移行は、それほど鮮明には感知されていないかもしれない(参照:日本社会において自我理想は正常に機能しない)。

いずれにせよ、ここで一つの問いがある。日本では恥の文化ということが言われてきた、《日本は「恥の文化」だけあって恥のかかせ方も恥の感じ方も実に微妙で隠微だ》(中井久夫「暴力について」)。この観点を考え出すと、ジジェク風の「眼差しー恥ー自我理想」/「声ー罪ー超自我」は、安易には首肯しがたくなる。

それともある時期までの日本には自我理想に相当するものが何か機能していたのだろうか?

(日本において)主体がおのれの基本的同一化として、 単一の徴(一の徴 le trait unaire=自我理想) にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する。「おまえ le Tu」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支持されるということである。(ラカン、「リチュラテール Lituraterre, 1971, in Autres Écrits

この問いはここでは宙に放り出したままにしておくが、中井久夫には別に、「恥」ではなく「意地」を強調する日本文化論がある。

「日本人の意地は欧米人の自我に相当する」とは名古屋の精神科医・大橋一恵氏の名言である。中国人の「面子」にも相当しよう。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・外傷・記憶』所収)
意地について考えていると、江戸時代が身近に感じられてくる。使う言葉も、引用したい例も江戸時代に属するものが多い。これはどういうことであろう。

一つは、江戸時代という時代の特性がある。皆が、絶対の強者でなかった時代である。将軍も、そうではなかった。大名もそうではなかった。失態があれば、時にはなくとも、お国替えやお取り潰しになるという恐怖は、大名にも、その家臣団にものしかかっていた。農民はいうまでもない。商人層は、最下層に位置づけられた代わりに比較的に自由を享受していたとはいえ、目立つ行為はきびしく罰せられた。そして、こういう、絶対の強者を作らない点では、江戸の社会構造は一般民衆の支持を受けていたようである。伝説を信じる限りでの吉良上野介程度の傲慢ささえ、民衆の憎悪を買ったのである。こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である。そういう社会での屈折した自己主張の一つの形として意地があり、そのあるべき起承転結があり、その際の美学さえあって、演劇においてもっとも共感される対象となるつづけたのであろう。………(中井久夫「意地の場について」--「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ

「意地」とはおそらく二者関係的なものだろうが、このあたりは一神教の伝統内の理論であるフロイト・ラカン派の考え方をそのまま日本に適用できないことに注意しなくてはならない(ラカンの指摘する「自我理想」が機能しない日本とはこれにかかわる)。

さて難題は当面脇に置くことにして、ジジェクの「眼差しー恥ー自我理想」/「声ー罪ー超自我」論が大きく依拠しているのは、ラカンは学園紛争後、つまりは権威の実質的な死の時代に突入したときに言い放った次の言明であるはずだ。

きみたちは言いうるだろう、もはやどんな恥もないと。vous pouvez dire qu'il n'y a plus de honte. (Lacan,S.17, 17 Juin 1970 )

ーー恥とは去勢の敬意のことである。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972ーー四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説)

日本が西欧とは異なるとはいっても、旧世代の人間たちは、以前とくらべて今の若者たちに「恥」の喪失があるのではないかとは、たぶんわたくしだけではなく、多くの人が感じているのではなかろうか。

もっともこういう言い方は気をつけなくてはならない。ここで梅崎春生の名言を想い起しておこう、《近頃の若い者云々という中年以上の発言は、おおむね青春に対する嫉妬の裏返しの表現である》。

…………

【補足】

以下、この数か月の間に繰り返してきたことの拾い集めである。

表題をシンプルに眼差しから声への移行とせず、「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行としたのは、次の引用群などからのわたくしの想定である。

まず基本的な「超自我」の考え方のベースを提示する。

・超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、セミネール7)

・享楽を強制するものはない、超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「享楽せよ!」 Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »,(ラカン、セミネール20)

冒頭に引用したジジェクによる、現代の《ヘゲモニー的イデオロギーは、猥褻な超自我の命令として機能している。その命令が私を有罪にするのは、(象徴的禁止を侵害するときではない。そうではなく)、十全に享楽していないため・決して十二分に享楽していないためである》は、上のセミネール20の「享楽せよ!」にかかわる。

だが超自我の命令は不可能な命令である。というのは先ずなりよりも、われわれは言語使用による物の殺害(象徴的去勢)を経た存在ーー《言語によって囚われ拷問を被る主体  le sujet pris et torturé par le langage》(S3)--であり、《享楽欠如manque-à-jouir》(AE435)の存在なのだから。

もちろんラカンはファルスの彼方の享楽(フロイトの快原理の彼方=不気味なもの[参照])を語ってはいる、《ファルスの彼方には Au-delà du phallus、身体の享楽 la jouissance du corps がある。》(S20)。《非全体の起源 pas toute…それは、ファルス享楽 jouissance phallique ではなく他の享楽 autre jouissanceを隠蔽している。いわゆる女性の享楽 jouissance féminine を。》(S19)

だがその享楽はファルス秩序の裂け目に不可能なものとして現われるのみであり、出会い損ねとして遭遇するだけである。

テュケーTuchéの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね rencontre manquée」としての「現前 présence」である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ)

むしろ(標準的な)人間にとっては、耐え難い出会いなのである(参照)。

ここでやや文脈からはずれるが、ドゥルーズ=プルーストを引用しよう。

無意志的記憶の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。

…les révélations de la mémoire involontaire sont extraordinairement brèves, et ne pourraient se prolonger sans dommage pour nous…(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

よく知られているように(?)、無意志的記憶とは、トラウマのことである(参照:Involuntary memory:Wikipedia)

「レミニサンス réminiscence」 あるいは「無意志的記憶 la mémoire involontaire」は、基本的にはトラウマと同じ構造をもっている。《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である》(中井久夫)のと同じように。

トラウマの不透明性 l’opacité du traumatismeーーフロイトの思考によってその初期作用 fonction inaugurale のなかで主張されたものであり、私の用語では、意味作用への抵抗 la résistance de la signification であるがーー、それはとりわけ想起の限界 la limite de la remémorationを招くものである。(ラカン、セミネール11, 15 Avril 1964)
私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値 valeur を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。

…私は、現実界 le Réel は法のない sans loi ものに違いないと信じている。…真の現実界は法の不在を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

※参照:「 レミニサンス réminiscence」と「穴馬 troumatisme」

…………

次に、「父の眼差し」/「母の声」という想定をした核心的なラカン文を引用する。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

ーー上に自我理想から超自我への移行(資本のイデオロギーから資本の論理への移行) が、エディプス的超自我から前エディプス的超自我への移行である、としたのはこれらの文に依拠する。

超自我とは確かに「法」である。しかし鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴・正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「単一」unary のシニフィアンとしての法である。…超自我は、独自のunique シニフィアンから生まれる形跡・パラドックスである。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(……)

「母なる超自我」( surmoi mère) ……思慮を欠いた法としての超自我は、父の名によって隠喩化され支配される以前の「母の欲望」にひどく近似している。超自我は、法なき気まぐれな勝手放題 capricious whim without law としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996,PDF)

ミレールの文に出現する穴 trouとは、Ⱥとも書かれ、原トラウマ(原対象a)のことでもある。 《経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 》(フロイト『制止、症状、不安』1926年) 。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )
対象a、それは穴のことである。 l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

ここにあるように穴とは欠如ではない。欠如とはファルス秩序のみの用語である。ファルスの彼方にあるのは、欠如の欠如である。《欠如の欠如が現実界を作る。Le manque du manque fait le réel》(Lacan、1976 AE.573)

すこしまえテュケーとの出会いは人間には耐えがたいと記したが、テュケー、つまりブラックホールȺとの遭遇にいかに耐えうるというのか?

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ーーもちろんこのブラックホールであるヴァギナデンタータは、非全体の比喩として読んでもよい。

こういった「詩的な」表現がお嫌いな方々のために、初期柄谷行人が、マルクスの《超感覚的なもの、あるいは社会的なもの sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge》( 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」から読みとった「非全体」の記述にて補足しておこう、《無根拠であり非対称的な交換関係》(『マルクスその可能性の中心』1978年)。

…………

次に、上の記述を裏付けうる現代ラカン派の代表的論者たちの引用を列挙する。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)

 …………

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕 stigmata を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF
サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)

母の法は非全体を受け継いでいる、とある。母の法 S(Ⱥ)=サントームΣとはーーサントームには別に「縫合SUTURE」の意味もあるにしろーーまずなによりも原抑圧(原固着)であり、《享楽の原子》(ジジェク、2012)、かつまた初期フロイト概念の「境界表象 Grenzvorstellung」である。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。(フロイト書簡(フィリス宛)、1896年)

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung, (Freud, Briefe an Wilhelm Fliess,1896)

ーーもちろんここでの「抑圧」は--当時のフロイトには原抑圧概念はなかったーー、「原抑圧」として捉えなければならない。そして境界表象とは、上に引用したコレット・ソレール曰くの「原リアルの名 le nom du premier réel」・「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

…………

父親は不在で、父の機能(平和をもたらす法の機能、「父の名」)は中止され、その穴は「非合理的な」母なる超自我によって埋められる。母なる超自我 maternal superego は恣意的で、邪悪で、「正常な」性関係(これは父性隠喩の記号の下でのみ可能である)を妨害する。(……)父性的自我理想 paternal ego-ideal が不十分なために法が獰猛な母なる超自我 ferocious maternal superego へと「退行」し、性的享楽に影響を及ぼす。これは病的ナルシシズムのリピドー構造の決定的特徴である。「母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃欲動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り食う鳥としてあらわれるのである」(Christopher Lasch)(ジジェク『斜めから見る』原著1991年)

ーーここでジジェクは「父の名」を、父性的自我理想とし、「母なる超自我」を前エディプス的超自我としている。

以下のポール・バーハウの倒錯をめぐる注釈も同じことを言っている。

倒錯者の不安は、エディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安としてしばしば解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ2004、Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

…………

ところで超自我と、自我理想・父の名とはどう異なるのか。

超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)
ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School

超自我は、基本的に、「母なる超自我」である(幼児は誰もが最初に「母なる大他者」に世話をうける)。 父の名・自我理想・父の法に超自我の側面があるのは、父の名が母なる超自我・母の法(≒母の欲望)を覆いつつつも、それを徴示しているからである(これがコインの裏表の意味)。

ミレールの文を再掲しよう。

「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

父の名は、母なる超自我をたしかに覆う。だがそこには必ず「残存現象」がある。 これは、最晩年のフロイトが記述したことである。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり以前の段階の現象が部分的に進歩から取り残されて存続するという事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な様子を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

最晩年の微妙な表現は別に、標準的なフロイトにのみに依拠した超自我論は、--フロイトは超自我=自我理想としているーー父の名(自我理想あるいは父なる超自我、父の法)と本来の超自我(原超自我あるいは母なる超自我、母の法)の 関連がみえてこない(日本の大半の論者、たとえば柄谷行人の九条=超自我論の曖昧さはここにある)。

もっともある時期までは、ラカン派でさえ、超自我の機能については曖昧なままであった。

ラカンの教えにおいて「超自我」は謎である。「自我」の批評はとてもよく知られた核心がある一方で、「超自我」の機能についての教えには同等のものは何もない。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez, 1996、PDF

わたくしが今、上のように記したことは、最近になっての議論を参照にしつつの、あくまで「想定」であり、ラカン注釈者たちが明瞭に上のように言っているわけではない。 その意味で、ジジェクの最近になっての叙述は貴重である、とわたくしは思う。

フロイト自身は終生エディプスの父に固執したとされるが、いくつかの論でほとんど超自我の起源は母であると口に出しかかっている。

最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的であり、かつ永続的であるにちがいない。このことは、われわれを自我理想の発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代、すなわち幼年時代における父との同一化である(註)。(フロイト『自我とエス』旧訳p.278、一部変更ーー参照
註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわち陰茎の欠如に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。……(同『自我とエス』)

そして1939年上梓の論文と死後出版1940年の論文には次のようにある。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
・超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。

・患者が分析家を彼の父(あるいは母)の場に置いた時、彼は自らの超自我が自我に行使する力能を分析家に付与する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

あるいはこう引用してもよい。

誘惑者 Verführerin はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933年)
母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版1940、私訳)

※より詳しくは、「二種類の超自我と原抑圧」を参照。




2017年3月8日水曜日

それ自身に対して差異的であるところの差異体系(柄谷行人、ラカン)

言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系あるいは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あるいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・貨幣」『内省と遡行』所収、1985年)  

ーー柄谷行人の『内省と遡行』は、わたくしの手許にない。たまたまネット上から上の文を拾ったのでここにメモ。

この柄谷行人の言明はラカンのシニフィアンの論理とほぼ等価である。

たとえば柄谷曰くの《それ自身に対して差異的であるところの差異体系》とは、次の文と相同的である。

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(意味=徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

また《自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない》とは、次のジュパンチッチの文の「非全体」にかかわる説明と等価である。

……ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant 》。これは現代思想の偉大なブレイクスルーだった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態 state within a situation 」である。

この考え方において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるいは非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的な「無‐関係 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さった「逸脱する過剰 wandering excess」である。すなわち、表象は、「過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess」である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂け目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”2004)

《主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。》(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,私訳ーー「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない

シンプルに言おう。主体 $ は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象a は、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 plus-de-jouir と呼んだものである。剰余享楽のほかには享楽 jouissance はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。 (ジュパンチッチ、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value、ーーゲーデルの不完全性定理とラカンの Ⱥ

…………

 初期ジジェクによるシニフィアンの論理注釈のさわりを付記しておく(続きは、「価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)」を見よ)。

最も基本的なところから始めよう。何がシニフィアンの「差異的 differential」性質を構成しているのかと。S1 とS2 、シニフィアンの二個一組の用語(男-女、天-地、明-暗、陰-陽、等々)は、単純には同じレヴェルで現れるわけではない。…「差異性 differentiality」はもっと精密な関係性を示している。

その関係性のなかでは、一つの用語、その現前の対立物は、すぐさま他の用語ではなく、最初の用語の不在・それが記銘された場における空虚である(記名の場と合致する空虚)。そして、他の対立的用語の現前が、最初の用語の不在の空虚を埋め合わせる。これが、典型的二項対立おける、よく知られた「構造主義者」の命題ーー《一つの用語の現前は対立した用語の不在と等価である》--をいかに読まなければならないかのあり方である。
………シニフィアンの二個一組内部において、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在の背景に対して現れる。この不在は、その対立物の現前のなかで、物質化されたものーーポジティヴな存在として想定された不在である。ラカンによるこの不在のマテームは、もちろん、斜線を引かれたシニフィアン $ である。

すなわち、一つのシニフィアンはその対立物の不在を埋め合わせる。それは、その対立物の場を「表象」し所有する。…こうして、我々は既にシニフィアンの定式を生み出した。《一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]》。

ゆえに我々は理解できるだろう、ラカンにとってなぜ主体のマテーム $ が必要なのかを。すなわち、一つのシニフィアン S1 は、他のシニフィアン S2 に対して、その不在・その欠如 $ を表象する。

ここでの決定的な要点は、シニフィアンの二個一組において、一つのシニフィアンはその反対のシニフィアンの直の片割れでは決してなく、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在を表象(具現)するということだ。二つのシニフィアンは、三番目の用語である「空虚」を通してのみ「差異的 differential」関係性に入る。シニフィアンが差異的であるという意味は、主体を表象するどんなシニフィアンもない、ということである。 (ジジェク『為すところを知らざればなり』(Slavoj Žižek For They Know Not What They Do、1991、私訳)

《シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…

シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple 》(ラカン、S3、14 Mars 1956)

…………

主体の空虚、価値の空虚とは、フレーゲの次の文とともに理解することもできるが、冒頭の柄谷やジュパンチッチの文にみられる表象行為自体が非全体を生みだすという観点は、このフレーゲ文からだけでは導きにくいだろう。

あるものが賢くないという可能性を通してのみ、「ソロンは賢い」という主張は意味を獲得する。概念の外延が増大すれば、その内包は減少する。もし外延が全てを包括するものであれば、内包は完全になくなるに違いない。(フレーゲ『算術の基礎』)

柄谷の「洞察」はーーおそらく基本的にはーー、マルクスを読むことから来ている筈。

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。 le sujet de la valeur d'échange est représenté auprès - de quoi ? - de la valeur d'usage

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値と呼ばれるものである。この喪失は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン、S16、13 Novembre 1968ーー偉大なるフェティッシュ分析家マルクス



2017年3月3日金曜日

性別化と四つの言説における「非全体」




以下はほぼジジェク2012による次の「仮説」にもとづいた記述である。

S1 = Master = exception       S2 = University = universality
$ = Hysteria = no-exception   a = Analyst = non-All  (ジジェク、2012)

この仮定を冒頭の性別化の式にそのまま当てはめれば次のようになる(左側=男性の論理、右側=女性の論理である)。




ーー記号「∀」は、アルファベットのAを逆にした記号で、「全ての」という意味(ALLの頭文字)。 記号「∃」は、アルファベットのEを逆にした記号で、「少なくとも一つ存在する」という意味(EXISTの頭文字)。 Φはファルスである。ファルス関数 Φxとは、ほとんど概念に近い(フレーゲの定義では関数≒概念である)。記号の上にある棒線はもちろん否定のマークである。
 
さらにブルース・フィンクの性別化の式読解(2002)の記述に結び付ければ次のようになる(フィンク注釈はxを享楽として捉えている)。

S2:男の享楽の全体は、ファルス享楽である。
S1:だが(例外として)他の享楽があるという信念がある。

a:女の享楽の非全体は、ファルス享楽である。
$:ファルス享楽でないどんな享楽もない(どんな享楽も「ある」ことはない)。

ーー最後の括弧内の文は、《il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique》(ラカン、アンコール)のフィンクの読み方である。

より一般的に言えばたとえば次のようになる。

男性の論理の 「普遍性・全体(S2)」とは「例外S1」によって支えられている。たとえば、女は男にとって全てである、キャリア・公的な生活の例外S1を除いて。

他方、女性の論理の「非全体a」とは、「例外なし$」ゆえの非全体である。例外がないため全体・普遍性はない(非一貫性)。したがって非全体が「外立」する。たとえば女の性生活にとって、男は非全体 pas-tout である。なぜなら女にとって性化されない何ものもないから。

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。(ジジェク、2012ーー形式化の極限における内部崩壊


《非全体が「外立」する》における「外立ex-sitence」とは、ラカンにとって現実界である、《現実界は外立する  Le Réel ex-siste 》 (S.22)。もともとはハイデガー用語 Existenzの仏訳である。

ここではーーやや古い論文だがーー、リルケ研究者塚越敏による「リルケ文学解明に於けるハイデッガーの誤謬(1956)」から抜き出しておく。

・Ex-sistenz のEx はaus,heraus,hinaus を、即ち「外に出る」ことを意味している。ハイデガー自身の説明によればーー「存在の真理のなかに出で立つこと」 Hinausstehen in die Wahrheit des Seins と言い、Das stehen in der Lichtung des Seins nenne ich die Wahrheit des Seinsと言っている。(この語の訳語は「開存」「出存」「脱存」「脱我的実存」などさまざまであるが、以下では「開存」という邦訳語を使用する)この開存によって世界(世界とは存在の開示性 Offenheit,Offenbarkeit を意味している)は開かれる。ハイデガーは人間の本質をこの開存にありとする。即ち Lichtung des Seins, Offenbarkeit des Seins のなかに出で立つこと、逆に云えば、存在者を照らすLichtung des Seins, Offenbarkeit des Seins のなかに出会うことである。
・Lichtung とは、森のなかの開けた場所、森林の空地を意味する。また光を点ずるという意味もあるから、「存在の開け」「存在の明るみ」「存在の光」とも邦訳できるであろう。

この記述からすれば、非全体とは、森の空地 Lichtung (ラカン的にはファルス秩序のなかの裂け目、亀裂)のなかに出で立つこと、となる(わたくしはハイデガーにまったく不案内であることを断っておく)。

森の空地あるいは亀裂とは、おそらく次のようなものではなかろうか・・・

妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)

ーーとはいえ外立するために鉈の使用は必要はないはずである。通常、鉈の使用をファルス享楽といい、非全体に外立するものは、「無性的なもの (a)sexuée 」とされる。

ファルス享楽の彼方にある他の享楽とは、享楽する実体 substance jouissante(身体の実体substance du corps)にかかわる。ラカン曰く、これは分析経験のなかで確証されていると。 他の享楽は、性関係における失敗の相関物 corrélat として現れる。幻想は、性関係の不在の代替物を提供することに失敗する。

身体の享楽とはファルスの彼方にある。しかしながらファルス享楽の内部に外立 ex-sistence する。そして、これは (a)-natomie(対象a? の[解剖学的]構造)にかかわる。この(a)-natomie とは、ある痕跡に関係し、肉体的偶然性 contingence corporelle の証拠である。これは遡及的な仕方で起こる。これらの痕跡は、ファルス享楽のなかに外立 ex-sistence する無性的 (a)sexuée な残留物と一緒に、(二次的に)性化されたときにのみ可視的になる。すなわち a から a/− φ への移行。ファルス快楽、とくにファルス快楽の不十分性は、この残留物を表出させる。臨床的に言えば、真理の彼方に(性関係の失敗の彼方に)、現実界は姿を現す。この現実界の残留物ーー享楽する実体ーーは、対象a にある(口唇、肛門、眼差し、声)。(ポール・バーハウ2001 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDF)

ーー「無性的なもの (a)sexuée 」は「非性的なもの」と訳したほうがいいのかもしれないが、ここでは通常訳とした。

ところでジジェク2012は次のような言い方をしている、《La Femme n'existe pas》、しかし《il y a de jouissance féminine》。ーー「女は存在しない」、しかし「女は外立する」ともで訳すべきか。

ジジェクは直接には言及していないが、このジジェクの言葉を、わたくしは次のラカン文とともに読む。

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

ラカンによる「非全体」についての記述はーー大他者の大他者はない、すなわち非一貫性の思想家であるためでもあろうーー、けっして一貫性があるとは言えない(たえず問い直している)。ここでは一つだけ抜き出しておくが、これはもちろん「全てではない pas tout」。

非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)

…………

ここで性別化の式にあてはめられたマテームを、ラカンの四つの言説に適用してみよう。

主人の言説に当てはめれば次のようになる(上段=男性の論理、下段=女性の論理)。




ヒステリーの言説に当てはまれば次の通り(左側=女性の論理、右側=男性の論理)、




時計周りすれば、さらに分析家の言説と大学人の言説(知の言説)が現われるが割愛。

ここでは四つの言説の各々の基盤にある形式的構造の図を掲げる。



この図の最も基本的な説明は次の通り。

話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。こうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? )



上に掲げたヒステリーの言説を同じように読んでみよう。




「例外なしの主体$」は「例外S1」に話しかける。話し手の無意識を支える「非全体a」を元にして。この「非全体a」は間接的に「例外S1」に対しても向けられる。そして例外S1は「全体S2(知・理論)」の生産物にて応答する。

ーーということになる。

ジジェクはこのヒステリーの言説をめぐって次のように記している。

典型的なヒステリーのポジションは、理論家に直面した詩人のポジションである。詩人は、理論家が彼の作品を抽象理論の例証に還元してしまったことに不平不満を言う。しかし同時に詩人は理論家を挑発する、もっと続けて有効に作品を把握しうる理論を生み出すようにと。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

たしかにラカンは、人間の昇華形式の三様式として、芸術=ヒステリー、宗教=強迫神経症、科学=パラノイアとしている。

…l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science(Lacan,S.7)

$が芸術家=ヒステリーであるであれば、同じく$は詩人であるに相違ない。

私は完全なヒステリーだ、……症状のないヒステリーだな[ je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Lacan,Le séminaire ⅩⅩⅣ、1976,12.14)

ほぼ同時期のラカンは次のように言っている(ジジェクの言っている詩人とは意味合いが異なるが参考までに)。

私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème. (Lacan,17 mai 1976 AE.572)
ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。…

Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. Je ne suis pas poâte-assez (S.24.1977).(ラカン、S24. 17 Mai 1977).

…………

男でないすべては女だろうか? 人はそれを認めるかもしれない。だが女は「全てではない(非全体) pas « tout » 」のだから、どうして女でないすべてが男だというのかい?

Tout ce qui n'est pas homme… est-il femme ? On tendrait à l'admettre. Mais puisque la femme n'est pas « tout », pourquoi tout ce qui n'est pas femme serait-il homme ? (S.19, 10 Mai 1972)

ジジェクによる「非全体=女」の解釈のひとつは次のようなものである。

女性の非全体 pas-tout とは、次のことを意味する、女性の主体性には、ファルス的象徴機能に徴づけられないものはなにもない。それどころか、女は男よりもより「言語のなか」にいる。この理由で、前象徴的な「女性の実体」に言及するすべては、人を誤解に導く。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

このジジェクの言明は、次の文にある《女はファルス関数のなかに十全にいる[ elle y est à plein]》によって裏付けられる。

…全核心は、女はファルスに接近する別の仕方、彼女自身にとってのファルスを保持する別の仕方を持っていることである。女が「全てではない pas du tout」のは、ファルス関数において「非全体 pas toute 」であるからではない[parce que c'est pas parce qu'elle est « pas toute » dans la fonction phallique qu'elle y est pas du tout.]

女はそこで「全てではない 」のではない [ Elle y est pas « pas du tout »](ヘーゲル的二重否定・「否定の否定」:引用者)。

女はファルス関数のなかに十全にいる[ elle y est à plein] 。 しかし何かそれ以上のものがあるのだ mais il y a quelque chose en plus…

ひとつの享楽がある。il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps …ファルスの彼方の享楽 une jouissance au-delà du phallus!(ラカン、セミネール20、20 Février 1973)

これは十全に象徴界の住人であればこそ、非全体(ファルスの彼方の享楽)が外立するということである。森の空地に外立するためには、森を十全に熟知していなければならない、ということでもあろう。

女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、 S18、20 Janvier 1971ーーーー真理と嘘とのあいだには対立はない

女のほうが森という象徴界(見せかけ semblant)の熟知者なのである。他方、《男はマヌケにも信じている、象徴的仮面に下に、己の実体、隠された宝があって、それが彼を愛するに値する者にすると。他方、女は知っている、仮面の下にはなにもないことを》(ジジェク、2012)

《女は男よりもより「言語のなか」にいる》をめぐってのよりわかりやすい説明は、比較的初期ジジェクの次のレクチャアがよい。

◆Zizek Connectionsof the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture(1995

さて私の要点に戻ることにしよう、すなわち幻想に。もちろんラカンを読むことで、我々は知っている、究極的な幻想とは性関係の幻想だということを。だからもちろん幻想の横断の方法は、ラカンが意味する「性関係がない」ことを詳述化することだったわけだ。それはラカンの性差異の理論化、いわゆる性別化の式を通してのものだった。

ここでの私のポイントは何だろう? それは次の通り。性別化の式においてふつう気づかれていないことは、ラカンの断言、“La femme n'existe pas”――「女は存在しない」は、象徴秩序の外部にある、言葉で言い表せ得ない女性的エッセンスのたぐいに言及しているのでは決してないということだ。それは、象徴秩序に統合されえない、言説の領域の彼岸にあるものでは決してないということだ。

私はラカンにぞっこん惚れこんでいるのは、きみたちは気づいているかどうか知らないが、ラカンのスタイルがまさにレーニン風だからだ。なんのことかわかるかい? まったく寸分ちがわない何か。きみたちはレーニン主義者をどのように感知してるだろう? 典型的なレーニン主義者のひねりは、たとえば誰かが「自由」と言ったとすると、彼らの問いは、「誰のための自由だい? 何をするための自由かい?」だ。たとえば、ブルジョアが労働者を食い物にする自由とかね。

君たちは気づいているだろうか、『精神分析の倫理』にて、ラカンが「善」に対して、まさにほとんど同じひねりを加えているのを。そうだ、至高善について。だれの善なのか、なにをするための善なのか? 等々と。

だからここでも、ラカンが「女は存在しない」と言うとき、同じようにレーニスト風に考えなくてはならない。そしてこう問うべきだ、「どの女だって?」、「誰にとって女は存在しないんだ?」と。ふたたびここでのポイントは、女がふつう思われているような仕方、象徴秩序の内部に存在しないとか、象徴界に統合されるのに抵抗するとかではないことだ。私は言いたくなる、これはほとんど正反対だと。

単純化するために、最初に私のテーゼをプレゼンしよう。大衆的な紹介、ことさらフェミニストによるラカンの紹介では、ふううこの公式にのみ焦点があてられ次のように言うのだ、「そうだわ、女たちのすべてが、ファルス秩序に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、片足はファリックな秩序に踏み込み、もう一方の足は神秘的な女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」。

私のテーゼは、とても単純化して言うなら、全ラカンの要点は、我々は女を統合化できないから、例外がないということなんだ。別の言い方をすれば、男性の論理の究極の例は、まさに、女性のエッセンス、永遠の女性は、象徴秩序の外に除外されている、彼岸にあるという考え方だ。これは究極的な男性の幻想だ。そして、ラカンが「女は存在しない」というとき、私はまさにこう思うのだな、すなわち、象徴秩序から除外された言葉にあらわせない神秘的な「彼岸」こそが存在しない、と。わかるかい、私の言っていることが?

おわかりだろうか? もちろんおわかりでない方もいらっしゃることだろう・・・

男たちはサイバースペースを孤独な遊戯としての自慰装置として使う傾向が(女たちに比べて)ずっとある。馬鹿げた反復的な快楽に耽るためにだ。他方、女たちというのはチャットルームに参加する傾向がずっとある、サイバースペースを誘惑的コミュニケーションとして使用するために。

この例というのは標準的なラカンの誤読を取り扱うのに決定的である。その誤謬というのは女性の享楽というのは言葉の彼方にあるた神秘的至福、象徴秩序から逃れた領野にあるという考え方だ。まったく逆に、女たちは例外なしに言語の領域に浸かり込んでいる。(Slavoj Zizek、THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE、2004)

ーーさあてこれならどうだろう?

ラカン派臨床家の見解もかかげておくが、もちろんこの解釈も「全てではない」。

女が、自然、欲動、身体、ソマティック(流動する身体)等々を表わし、他方、男は文化、象徴的なもの、プシュケー(精神)を表わす等々。しかしこれは、日常の経験からも臨床診療からも確められない。女性のエロティシズムやアイデンティティは、男性よりもはるかに象徴的なものに引きつけられているようにみえる。聖書が言うように、またそうでなくても、女は大部分、耳で考え、言葉で誘惑される。反対に、なににも介入されない、欲動に衝き動かされたセクシャリティは、ゲイであれストレイトであれ、男性のエロティシズムの特性のようにはるかに思える。(ポール・バーハウ2004、Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender、Paul Verhaeghe)

…………

※付記

ファルスのシニフィアンとは、その現前・不在が、男 manと女 womanを区別する機能ではない。性別化の式において、それはどちら側(男性側 masculine と女性側 feminine)にも機能する。どちらの場合も、S と J (話す主体と享楽)とのあいだの不可能な関係(非関係)の作因子として作用する。ーーファルスのシニフィアンとは、象徴秩序に受け入れられた存在、つまり「話す存在」にアクセス可能な享楽を表す。

したがって、ひとつの性と、(プラスアルファの)それに抵抗する非全体しかないの同じように、ファルス享楽と、プラスアルファのそれに抵抗する X しかない。もっとも、正しく言うなら、その X は存在しない。というのは、《ファルス的でない享楽はない》(S.20)から。この理由で、ラカンが謎めいた幽霊的「他の享楽autre jouissance」を語ったとき、彼はそれを存在しないが機能する何ものかとして扱った。(ZIZEK.LESS THAN NOTHING、2012,私訳)

他の享楽 l'autre jouissance大他者の享楽 la jouissance de l'Autreとはまったく別ものであり、大他者の享楽は実質上は、ファルス享楽に過ぎない。《the jouissance of the Other is actually equivalent to phallic jouissance.》(ロレンツォ・キエーザ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)
享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「大他者の享楽 la jouissance de l'Autre 」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「大他者の享楽 la jouissance de l'Autre 」)は母-女を示していたことを。
これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる大他者 the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる大他者 the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。(ポール・バーハウ2009,PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、私訳,PDF

大他者の《新しい意味は、自身の身体を示している》とあるが、実際に《異者としての身体(フロイトの異物 Fremdkörper[参照]) corps qui nous est étranger》(S23)という表現がある他、さらに中期ラカンにも 《大他者は身体である L'Autre … c'est le corps ! (S14) 》という表現がある。これは前期ラカンのイマジネールな身体のことではけっしてない。

ーーさて仮にポール・バーハウのいうことが正しいとしてみよう。そのとき次のラカンの文はどちらの享楽(他の享楽、大他者の享楽)なのだろうか?

J(Ⱥ)は享楽にかかわる。だが大他者の享楽のことではない。というのは私は、大他者の大他者はない、つまり、大他者の場としての象徴界に相反するものは何もない、と言ったのだから。大他者の享楽はない。大他者の大他者はないのだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。

…que j'ai déjà ici noté de J(Ⱥ) .Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé, - qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (Lacan,Séminaire XXIII Le sinthome Décembre 1975)

ロレンツォ・キエーザは、J(Ⱥ)を「他の享楽autre jouissance」だとしている(ロレンツォによれば上のセミネール23の文はミレール版では奇妙な形で変更されているらしいが、今かかげた文は、音声聴き取り版)。


2017年2月27日月曜日

性別化の式と四つの言説の統合の試み

性別化の式 formulas de la sexuacion と四つの言説 quatre discours とはラカンの教えの華と言われる。

ラカンの性別化の式は次の通り。



左側が男性の論理、右側が女性の論理である。

上部のマテームの基本的読み方については、荻本氏のブログから貼り付けておく。



ところでジジェクは、LESS THAN NOTHING、2012にて、性別化の式と四つの言説を統合する試みをしている。


S1 = Master = exception        S2 = University = universality
$ = Hysteria = no-exception    a = Analyst = non-All

S1=主人の言説=例外
S2=大学の言説=普遍性
$  =ヒステリーの言説=例外なし
a  =分析の言説=非全体 pas-tout

とある。



このジジェクの驚くべき斬新で示唆溢れる提案を、性別化の式に当て嵌めれば次のようになる。




左右を入れ替えれば、ヒステリーの言説となる。



もちろん、これを回転させれば、四つの言説のそれぞれが現われる。




分析家の言説の詳細図のみをラカンのアンコールから抜き出しておく。




ブルース・フィンク(READING SEMINAR XX,2002)による性別化の式のマテームの読み方も貼付しておこう。




※四つの言説をめぐっては、「ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」」を見よ。それ以外に、マルクスの価値形態論と四つの言説を結びつける初期ジジェクの考え方は、「価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)」を参照のこと。

ラカン自身のマルクス価値形態論依拠をめぐっての参照は、「偉大なるフェティッシュ分析家マルクス」がある。






2017年2月17日金曜日

二種類の対象aとフロイトの快の獲得 Lustgewinnung

以下、おおむね資料。

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11、20 Mai 1964)

この《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》(S.11)が第一の喪失ーー《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuée》において齎された欠如である。

他方、主体の発生による喪失は次のように説明されている。

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(S17、26 Novembre 1969)

こうして対象a と呼ばれるものは、少なくとも二種類あることが分かる。

…………

現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l’extraction de l’objet a qui lui donne son cadre (Lacan,E.554,1966)

◆ミレールの古典的な注釈(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré 1984)
対象を〈現実界〉として密かに無視することによって、現実の安定が「ひとかけらの現実」として保たれているのだ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉がなくなったら、〈対象a〉はどうやって現実に枠をはめるのか。



〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実を枠にはめるのである。 〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを取り除くことが、それに枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、存在欠如であるから、この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。(ミレール,1984)

…………

さて、ミレールはどちらの対象aを語っているのか、《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》か、それとも《S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」》ときに生ずる対象aか? 上の説明はどちらにも当てはまるように読める(ただし1984年という比較的初期ミレールであり、用語遣い等も含め現在では古くなっている箇所もある)。

ラカンはセミネール11で、《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》と言っている。

一方の欠如は《主体の到来 l'avènement du sujet 》によるもの。つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢にかかわる欠如。そして、《この欠如は別の欠如を覆うになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》。

この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》であり、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された欠如のこと。

続いて同じ内容を重ねて強調している。このリアルな欠如は、生存在が性的な形で再生産された時に、己れ自身の部分として喪失した欠如である、と。《Ce manque c'est ce que le vivant perd de sa part de vivant : - à être ce vivant qui se reproduit par la voie sexuée》

このセミネール11の段階から、ラカンは対象aをさらに吟味・厳密化していく(参照:「一の徴」日記②)。

ここではその展開を端折り、ジジェク2012による、対象aの厳密な定義の試みを掲げる。核心的と思われる三か所をやや長く引用するが、下の文には三つの区分がなされている。

①欲望の(空虚の換喩的形象化としての)対象a
②欲望の対象-原因(空虚自体)としての対象a
③欲動の対象・喪失自体を上演する(絶え間ない循環運動としての)対象a

欲動は「超越論的」であり、その空間は原初に喪われた対象(モノ)の空虚を穴埋めする幻想の空間である。……この喪失と重なり合う対象としてのラカンの対象a ーー、それはまさに喪失の瞬間に出現する(乳房から声・眼差し迄の全ての幻想的化身は、空虚・無の換喩的形象化である)ーーこの対象a は、欲望の地平内部にあるままである。真の欲望の対象-原因としての対象a は、幻想的化身によって穴埋めされる空虚自体である。

他方、ラカンが強調しているように、対象a はまた欲動の対象である。ここでの関係性は欲望の対象a とは徹底的に異なる。もっともどちらの場合も、対象と喪失の繋がりはきわめて肝要ではある。

欲望の対象-原因としての対象の場合、原初的に喪われた対象がある。それはそれ自体の喪失と一致する。喪失として出現するのである。

欲動の対象としての対象a の場合、「対象」とは喪失それ自体である。欲望から欲動への移行において、われわれは喪われた対象から対象としての喪失自体へと向かう。

言い換えれば、「欲動」と呼ばれる奇妙な運動は、喪われた対象への「不可能な」探求によってドライブ(欲動)されるのではない。それは直接的に「喪失」自体ーー裂け目、切り傷、距離ーー自体を上演する。

したがって、ここで為されなければならないのは二重の区別である。幻想的な地位の対象a とポスト幻想的な地位の対象a とのあいだの区別だけではない。そうではなくまた、ポスト幻想的領域自体内部において、欲望の対象-原因と欲動の対象-喪失とのあいだの区別が必要である。

ゆえに次のように主張するのは誤謬である、「純粋な」死の欲動は、(自己)破壊への不可能な「全的」意志・エクスタシー的自己消滅であるとするのは。そこでは主体は母親なるモノの全体性に融合しようとするが、その意志は実現されえず、遮断され・「部分対象」に付着して身動きがとれなくなっている、とするのは誤謬である。

このような考え方は、死の欲動を欲望とその喪われた対象へと再翻訳するものである。すなわち、ポジティヴな対象が不可能なモノという空虚の換喩的代役であるのは欲望においてである。全体性への憧憬が部分対象へと移転されるのは欲望においてである。これがラカンが欲望の換喩と呼んだものである。

ここで我々は、ラカンの核心を見失なわないように(欲望と欲動を混同しないように)殊更厳密でなければならない。欲動は、部分対象のうえに固着されたモノへの無限の憧憬ではない。「欲動」は固着自体である。どの欲動にもある「死」の次元はここに帰される。欲動は、堰き止められ解体された(近親相姦的モノへの)普遍的渇望ではない。欲動はこの歯止め brake 自体である。本能への歯止め、その「凝固 stuckness」(エリック・サントナー曰く)である。(……)

さらにもっと的確に言おう。欲動の対象は、空虚の充填物としてのモノとは関係ない。欲動とは文字通り欲望への対抗運動である。欲動は、不可能な融合に向かって奮闘し、そして断念を余儀なくされて、その残余としての部分対象に凝着させられるものでは〈ない〉。欲動 drive は、極めて文字通り、まさに「ドライブ」である。欲動は、我々が埋め込まれている全ての連続体を粉砕し、その連続体のなかに根源的不均衡を導入する「ドライブ」である。そして欲動と欲望のあいだの相違はまさに、欲望においては、この切れ目、この部分対象への固着が、あたかも「超越論的に」モノの空虚の代役に変換されることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

以下、同ジジェク、2012だが、別の章から。

ラカンのセミネールXVI へのミレール注釈は、対象a 、欲望の対象-原因の地位の決定的変化を詳述している。すなわち、身体上の標本(部分対象:乳房、糞便…)から純粋な論理的機能への移行。このセミネールで、《ラカンは本当は、対象a を身体上の標本として叙述していない。彼は、対象a を論理的一貫性、生物学の場のなかにある論理的存在として構築している。この論理的一貫性は、身体が、異なった身体的演繹を通して満足せねばならぬ機能のようなものである》(Jacques‐Alain Miller, “A Reading of the Seminar From an Other to the other,” 2007)。

この移行とは、外部の侵入者、徴示化機械 signifying machine のなかの砂粒ーーその砂粒が機械のスムーズな機能を邪魔するーーから、機械に完全に固有の何かへの移行である。

ラカンが、象徴空間の内部が外部に重なり合うこと(外密 ex‐timacy)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもないのだ。

ミレールは最近、「構成された不安 constituted anxiety」と「構成する不安 constituent anxiety」というベンヤミンの区別を提案した。この区別は、欲望から欲動への移行に関わって決定的である。前者は我々に纏いつく怖ろしくも魅惑的な不安の深淵の標準概念を示す。我々を惹き込み脅かす悪の渦巻である。後者はそのまさに喪失において構成された対象a との「純粋な」遭遇を表す。

ミレールはここで二つの特徴を正しく強調している。構成された不安と構成する不安を分け隔てる相違は幻想についてに対象の地位に関わる。構成された不安の場合、対象は幻想の領域内にある。構成する不安が齎されるのは、主体が「幻想の横断」を経て、幻想的対象によって埋め合わせられた空虚・裂目に遭遇するときのみである。

とはいえ明瞭判然としているのは、ミレールの定式は対象a の真のパラドックス、あるいはむしろ、対象a の両義性を見失っていることである。その両義性とは次の問いに関わる。対象a は欲望の対象として機能するのか、あるいは欲動の対象として機能するのか?

すなわちミレールが、対象a をその喪失と重なり合う対象、まさにその喪失の瞬間に出現する対象(したがって乳房から声・眼差し迄の全ての幻想的化身は、空虚・無の換喩的形象化である)として定義するとき、彼はいまだ欲望の地平内部にとどまっている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)


さらに資本の論理を語るなかでの対象aの叙述箇所。

ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如と穴とのあいだの区別がされなければならない。「欠如とは空間的で、空間内部の空虚を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す」(Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,” excerpted at www.lacan.com )

ここに、欲望と欲動とのあいだの相違が横たわっている。欲望は、その構成的欠如に基づいている。他方、欲動は、穴・存在の秩序の裂目のまわりを循環する。

言い換えれば、欲動の循環運動は、歪んだ空間の奇妙な論理に従っている。その歪曲空間では、二つの点の最短距離は直線ではなく曲線である。欲動は、目標 aim を実現するための最速の方法は、目的 -対象 goal‐object のまわりを循環することであるのを「知っている」。

資本主義はもちろん、各個人に差し向けられた直接的水準においては、諸個人を顧客・欲望の主体として扱い、絶え間ず新しい倒錯的な、かつ過剰な欲望を誘引する(彼らを満足させる生産物を提供する)。さらに資本主義は明らかに「欲望することの欲望」を巧みに操作する。まさに絶えず新しい対象と快楽の様式を欲望することの欲望を喧伝する。しかしながら、もし資本主義が、「最も基本的欲望は欲望としてのそれ自体を再生産することの欲望(そして満足を見出せないことの欲望)である」という事実を踏まえて既に欲望を操作しているなら、この水準においては、我々は未だ欲動には至っていない。

欲動は、もっと根本的・体系的水準において、資本主義に固有なものである。全き資本家機械へと駆り立てるものとしての欲動は、拡張された自己再生産の絶え間ない循環運動に従事する非人格的衝迫である。我々が欲動モードに入るのは、資本としての貨幣の循環がそれ自体目的になったときである。というのは価値の拡張は、絶えず更新される運動内部でのみ起こるのだから(人はここで念頭に置いておくべきである、ラカンのよく知られた欲動の目標 aim と目的 goal とのあいだの区別を。目的 goal とは、欲動がそのまわりを循環する対象である一方、欲動の本当の目標 aim は、この循環の絶えまない継続自体である)。

したがって資本家の欲動はどんな特定の個人にも属さない。むしろ資本の直接的「代理人」(資本家自身・経営者)として振舞う諸個人がそれを露にする。
(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

…………

柄谷行人は『トランスクリティーク』にて、三番目の「欲動の対象・喪失自体を上演する(絶え間ない循環運動としての)対象a」の相を見事に把握している。

マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である。この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上学的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』P25-26)

これは柄谷行人初期からのマルクス読解に由来するすぐれた成果である(ラカン派でさえ、この欲動の対象aを把握している人はすくない)。

マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。物象化とは、このことを意味する。それは、「人間と人間の関係が物と物と物の関係としてあらわれる」とか、関係が実体化されることを意味するのではない。(……)

くりかえしていえば、マルクスは、価値形態、交換関係の非対称性が経済学において隠蔽されていることを、指摘したのである。同じことが、言語学についてもいえるだろう。それは、いわば、教えるー学ぶ関係の非対称性を隠蔽している。非対称的な関係を隠蔽するということは、関係を、あるいは他者を排除することと同じである。それゆえに、言語学は、ヤコブソンがそうであるように、古典(新古典)経済学と同じ交換のモデル、たとえばメッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)というモデルから出発している。それは、共同体のなかでの交換のみをみることである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年、P.17)

「対称的であり且つ合理的な根拠」/「社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係」とは、「メッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)」/「コード(貨幣)-メッセージ(商品)-コード(貨幣)」である(C-M-C/M–C–Mʹ)。

" Mehrlust "、すなわち「剰余享楽 plus-de-jouir」は" Merhwert(剰余価値) "と相同的である。(ラカン、S.16,D'un Autre à l'autre)
主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものである。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 la plus-value と呼ばれるものである。この喪失は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン、S.16)
フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。 …oder unmittelbaren Lustgewinn… à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».(Lacan,S.21)

◆以下、ジジェク、2016,Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,PDFより。

【快原理を蝕む倒錯性】
リビドー的経済において、反復強迫の倒錯性に乱されない「純粋な」快原理はない。この倒錯性は快原理の用語では説明しえない。商品交換の領野において、別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換の、直かの閉じた円環はない。商品売買の倒錯的論理ーーより多くの貨幣を得るための論理--によって蝕まれていない円環はない。この論理において、貨幣はもはや、商品交換における単なる媒体ではなく、それ自体が目的となる。


【フロイトの快の獲得 Lustgewinn とマルクスの M– C–M】
唯一の現実は、貨幣を消費してより多くの貨幣を獲得することである。そしてマルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの・別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換は、究極的には虚構である。もっともこの虚構は、交換過程の「自然な」基盤を提供している(たんに金、もっと金じゃないよ、交換のすべての核心は、具体的な人間欲求を満たすことさ!)。ーーここにある基本のリビドー的機制は、フロイトが Lustgewinn(快の獲得)と呼んだものである。Samo Tomšič の『資本家の無意識』はこの概念を巧みに説明している。

《「快の獲得 Lustgewinn」は、快原理の恒常性 homeostasis が単なる虚構であることの最初の徴である。しかしながらそれが証明しているのは、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みだしえないことである。それはちょうど、どんな剰余価値も C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に生じないように。
剰余享楽・快と営利 profit making との連携は、快原理の想定された恒常的特性を掘り崩すわけでは単純にはない。それが示しているのは、恒常性は欠くべからざる虚構であり、無意識的生産を構造化し・支えていることである。それはちょうど、世界観的機制のイマジネールな獲得が閉じられた全体ーーその総体的構築において亀裂のない全体--を提供することで成り立っているように。

「快の獲得 Lustgewinn」はフロイトの最初の概念的遭遇である、後に快原理の彼岸・反復強迫に位置づけられたものとの。それは精神分析に、M– C–M(貨幣– 商品–貨幣)と等価なものを導入することになる。》(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2014)


【反復運動自体による快の獲得】
「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作働する。人はその目的を見失い、人はその運動を反復する。何度も何度も試みる。したがって真の目標は、もはや意図された目的ではなく、目的に到ろうとする反復運動自体である。

これは、形式と内容の用語に置き換えうる。「形式」とは、欲望された内容に接近する形式・様式を表わす。一方で欲望された内容(対象)は、快を提供することを請け合う。他方で剰余享楽は、目的追求のまさに形式(手続き)によって獲得される。

いかに口唇欲動が機能するかの古典的事例がある。一方で乳房吸啜の目的は、乳で満腹になることである。他方でリビドー的獲得は、吸啜の反復運動によって提供され、したがってそれ自体が目的となる。(……)

「快の獲得」の別の形象は、ヒステリーを特徴づける反転である。快への断念は、断念の快・断念のなかの快へと反転する。欲望の抑圧は抑圧の欲望へ反転する、等々。これらすべての事例において快の獲得は、「パフォーマティヴ」の水準で起こる。目的に到達することではなく、目的に向かって作働する「パフォーマンス」自体がその獲得を産出する。


【快の獲得 Lustgewinn と剰余価値 Mehrwert 】
…我々は「快の獲得 Lustgewinn」 と「剰余価値 Mehrwert」とのあいだに歴然とした繋がりを観察しうる。快の獲得過程の目標は、公式的目的(欲求の満足)ではなく、過程自体の拡張された再生産である。たとえば、母の乳房を吸啜する目標は乳で満腹になることではなく、吸啜行為自体によってもたらされる快である。そして正確に相同的のあり方で、剰余価値の交換過程の目標は、自身の欲求の満足ではなく、資本自体の拡張された再生産である。

ここで決定的なのは C-M-C から M-C-M' への反転である。C-M-C(諸個人は商品をその欲求よりも過剰に生産する。彼らはその商品を交換する。そして貨幣とは、生産者が必要とする生産物を求めて彼の過剰生産物と交換するための、単なる仲介要素である)、ここから M-C-M' (私が所有する貨幣を以て、私は商品を購買する。そしてより多くの貨幣を獲得するために商品を販売する)への反転。もちろん二番目の作用が働くのは、私が購買した商品がその価値よりももっと多くの価値を産出するために使用された場合に限る。そしてこの商品とは労働力である。

要するに、M-C-M' の条件は、自己言及的捻りのなかで、商品自体を産出する労働力が商品となることである(ここで別の捻りを付加しよう。遺伝子工学の爆発的な発展、すなわち諸商品を産出する一つの商品を科学的に産出することの行く末…)。


【人間の生産活動の倒錯性】
ここで耐えねばならない誘惑は、C-M-C から M-C-M' への移行を、より基本的過程の疎外・脱自然化として捉えてしまうことである。一見自然で妥当に見える、人が生産しうるが自らにとっては実際の必要でない品を、他者によって生産された必要品と交換するのは。この全過程は私の欲求によって統制されている。だが事態は奇妙な転回を起す。それは仲介要素(貨幣)にすぎなかった筈のものが、目的自体になるときである。そのとき全運動の目的は、私の実際の欲求における拠り所を失い、二次的手段化であるべき筈のものの終わりなき自己増殖へと転じる…。

C-M-C を自然で妥当と見なしてしまう誘惑に対抗して、人は強調しなければならない。C-M-C から M-C-M' への反転(すなわち自己を駆り動かす貨幣の妖怪の出現)は、既にマルクスにとって、自己駆動化された人間の生産活動の倒錯的表現である。マルクス的観点からは、人間の生産活動の真の目標は、人間の欲求の満足ではない。むしろ欲求の満足は、ある種の理性の狡知のなかで、人間の生産活動の拡張を動機づけるために使われる。(ジジェク、2016)

…………

フロイトの概念「快の獲得Lustgewinnung」は1908年にたしか初出するが、ここでは1920年の『快原理の彼岸』から抜き出しておく。

現実原則は、最後まで快の獲得Lustgewinnungの意図を断念することはないが、満足を延期し、満足のさまざまな可能性を断念し、長い迂回路をへて快に達する途中の不快を一時甘受することを、促し強いる。(フロイト『快原理の彼岸』)
子供が苦痛な体験を、遊戯(fort-da)として繰りかえすことは、どうして快感原則に一致するのであろうか。(……)偏見なしに観察すれば、子供は別の動機から自分の体験を遊戯にしたてたのだという印象をうける。子供はこの場合、受動的 passivであって、いわば体験にとらえられたのであるが、ついに能動的な役割 aktive Rolleに移り、体験が不快であったにもかかわらず、これを遊戯として繰りかえしたのである。この努力は、回想そのものが快いものであるかどうかにはかかわりない態度をとる支配欲動 Bemächtigungstrieb に帰することもできよう。しかしまた、別の解釈を試みることもできる。見えなくなるように、物を投げすてることは、子供を置きざりにした母親にたいする、日ごろは抑圧されていた復讐衝動 Racheimpulses の満足であるともいえる。(……)この支配衝動が不快な印象を遊戯の中に反復したのは、この反復に、種類はちがってはいるが、ある直接的な快の獲得 Lustgewinn が結びついているからこそであろう。(同『快原理の彼岸』)

2017年2月14日火曜日

踏み越え、あるいは侵犯(transgression)

《「善悪」の彼岸…… あれは少なくとも「よい・わるいの彼岸」ということではない。Jenseits von Gut und Böse"... Dies heißt zum Mindesten nicht "Jenseits von Gut und Schlecht》(ニーチェ『道徳の系譜』)

…………

「踏み越え」transgression とは、あまり聞きなれない言葉かと思う。しかし、オクスフォード辞典(OED)によれば、15世紀から「法やルールの埒外に出る」という今の意味で、心理学よりも法学のほうで使われてきたようである。お馴染みの「リグレッション」(退行)「プログレッションン」(前進)と同系列の言葉であるが、「トランス」は「越えて向こうへ」という意味であるから「踏み越え」と訳しておく。私の意味では、広く思考や情動を実行に移すことである。知情意を行動化するということか。抽象的に言えば「パフォーマンスのモード」の切り替えと定義してよかろう。

その逆は「踏みとどまり」holding-on である。実行に移さないように衝動に耐えて踏みとどまることである。

今にはじまった問題ではないし、私が何らかの明快な答えを与えるわけではない。ただ、踏み越えは現在無視できない重要性を持っているのではないかという問題提起をしておきたい。21世紀になって個人から国家まで、葛藤の中で踏みこたえるよりも踏み越えるほうを選ぶ傾向が目立つ。テロとテロへの反撃という国家社会的政治水準から個人の非行まで、その例は枚挙に遑がない。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年)

ラカンもセミネール7で、享楽の踏み越え transgressionと言った、《享楽の侵犯 la jouissance de la transgression》(S.7)

多くのラカン派はここで留まってしまっている。だが10年後、次のように言うことになる、《何も侵犯などしない!on ne transgresse rien ! 》(S.17)

Ce n’est pas ici transgression, mais bien plutôt irruption, chute dans le champ, de quelque chose qui est de l’ordre de la jouissance : un boni.(ラカン、S.17)

同じセミネールで、《享楽の侵入 une irruption de la jouissance》(S.17)とも言う。

だがさらに転回がある。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)
最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 (ロレンツォ・キエーザ2004 Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)

ジジェクとロレンツォの考え方は、まずは次のラカン文に由来すると言ってよい(最も主要な表現のひとつとして)。

現実界は形式化の行き詰り以外の何ものでもない。le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(S.20)

この文脈での、ジジェクのおそらく最もすぐれて簡潔な現実界の定義は次の文である。

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に固有のものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在 being(現実 reality)があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

ただしジャック=アラン・ミレールによれば、さらなるラカンの転回がある。ミレールの依拠するラカンの言葉は、「法のない現実界」である(参照: 何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール)

・le Réel sans loi.(法のない現実界)

・Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre(本当の現実界は、法の欠如を意味する。現実界は、秩序がない)(ラカン、S23、3 Avril 1976)

さて、こうしてラカンは「踏み越え=侵犯」に回帰したのか否か。それはわたくしには判然としない(この享楽の観点においては、侵犯・侵入・形式化の袋小路・彼方にある法のない現実界、のそれぞれを並立的に考えてしまいがちのところがわたくしにはある)。

いまはさしあたり中井久夫の「踏み越え」論からさらに引用してみよう。

不幸と幸福、悪(規範の侵犯)と善、病いと健康、踏み越えと踏みとどまりとは相似形ではない。戦争、不幸、悪、病い、踏み越えは、強烈な輪郭とストーリーを持ち、印象を残し、個人史を変える行動化で、それ以前に戻ることは困難である。規範の侵犯でなくとも、性的体験、労働体験、結婚、産児、離婚などは、心理的にそれ以前に戻ることがほとんど不可能な重要な踏み越えであるといってよかろう。

これに対して、踏みとどまりは目にとまらない。平和、幸福、善(規範内の生活)、健康、踏み外さないでいることは、輪郭がはっきりせず、取り立てていうほどのことがない、いつまでという期限がないメインテナンスである。それは、いつ起こるかもしれない不幸、悪、病い、踏み越え(踏み外し)などに慢性的に脅かされている。緊張は続き、怒りの種は多く、腹の底から笑える体験は少ない。(……)

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。(……)私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。(……)

私たちは「踏み越え」への心理的傾斜に逆らって「踏みとどまる」ために、もっぱら「自己コントロール」を説く。もとより、「自己コントロール」の重要性はいくら強調してもしたりないぐらいである。しかし、私たちは、「自己コントロール」を容易にし、「自己コントロール」が自尊心を増進し、情緒的な満足感を満たし、周囲よりの好意的な眼差しを感じ、社会的評価の高まりを実感し、尊敬する人が「自己コントロール」の実践者であって、その人たちを含む多数派に自分が属することを確信し、また「自己コントロール」を失うことが利益を生まないことを実際に見聞きする必要がある。

自己抑制をしている人が嘲笑され、少数派として迫害され、美学的にダサイと自分も感じられるような家庭的・仲間的・社会的環境は、「自己コントロール」を維持するために内的・外的緊張を生むもので、長期的には「自己コントロール」は苦行となり、虚無感が忍び寄って、崩壊するであろう。戦争における残虐行為は、そういう時、呆れるほどやすやすと行われるのではないか。

もっとも、そういう場は、短期的には誰しも通過するものであって、その時には単なる「自己コントロール」では足りない。おそらく、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、そして自分は独りではないという感覚、近くは信頼できる友情、広くは価値的なもの、個を越えた良性の権威へのつながりの感覚が必要であろう。これを可能にするものを、私たちは文化と呼ぶのではあるまいか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

ジジェクや、さらに遡ってニーチェなどの観点からすれば、「秩序」を愛する「保守的な」考え方とみえるということがあるかもしれない。

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである(ニーチェ「反時代的考察」)
人はおのれの野性において、おのれの不自然から、おのれの精神性から最もよく回復する・ ・ ・(ニーチェ『偶像の黄昏』)

とはいえ、中井久夫の文には《個を越えた良性の権威へのつながりの感覚》とあった。これはミレール=ラカンの脚立論とともに読むことができるかもしれない(参照:芸術家集団による美の「脚立 escabeau」)。

脚立 escabeau は梯子 échelle ではない。梯子より小さい。しかし踏み段がある。escabeau とは何か。私が言っているのは、精神分析の脚立であり、図書館で本を取るために使う脚立ではない。…

脚立は横断的概念である。それはフロイトの昇華 sublimation の生き生きとした翻訳であるが、ナルシシズムと相交わっている。…

脚立は、意味を包含したパロール享楽 jouissance de la parole qui inclut le sens の側にある。他方、サントーム特有の享楽 jouissance propre au sinthomeは、意味を排除する exclut le sens 。…

ジョイスは症状(サントーム)自体を…彼の芸術の「脚立」へと移行させた…モノの尊厳の脚立 l'escabeau à la dignité de la Chose に高めた。…
脚立を促進 fomente するのものは何か。それはパロール享楽 jouissance de la parole の見地からの言存在 parlêtre である。パロール享楽は「善真美」の大いなる理想 grands idéaux du Bien, du Vrai et du Beauをもたらす。

他方、サントーム sinthome は、言存在のサントームとして、言存在の身体に固着 tient au corps du parlêtre している。症状(サントーム)は、パロールがくり抜いた徴 marque que creuse la parole から起こる。…それは身体のなかの出来事 événement dans le corpsである。(JACQUES-ALAIN MILLER, 4/15/2014, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)

他方、ジジェクの別の観点は、現在の新自由主義システムそのものが「踏み越え」形式をもっているというものである。

まずドゥルーズ&ガタリを引用しよう。

・資本とは資本家の器官なき身体である…。Le capital est bien le corps sans organes du capitaliste, ou plutôt de l'être capitaliste.

・器官なき充実身体…死の欲動、これがこの身体の名前である。Le corps plein sans organes…nstinct de mort, tel est son nom, (『アンチ・オイディプス』)

ラカンは次のように言っている。

自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う。さあ、あなた方はその上に乗った…資本家の言説の掌の上に…。(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972ーー器官なき身体と資本家の言説

おそらくこういった考え方を基にしてだろう、ジジェクは次のように言う。

カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012ーー資本の欲動という海に浮かぶ孤島

われわれを支えている資本主義システム自体が、暴力のゼロ度という考え方でもある。

資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』)

支え自体が「踏み越え」だとしたら、われわれはどうしたらよいのか? ジジェクの問いはこのまわりを常に廻っているように思える。

実際、中井久夫自身も別の論で次のように言っている。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)

この前提で中井久夫の「踏み越え」論を読まないと、いかにも保守的な考え方ではないか、ということになる。上に掲げた文から再掲するが、この文は、現在のむきだしの市場原理主義という観点とともに読まなければならない。、

私たちは「踏み越え」への心理的傾斜に逆らって「踏みとどまる」ために、もっぱら「自己コントロール」を説く。もとより、「自己コントロール」の重要性はいくら強調してもしたりないぐらいである。しかし、私たちは、「自己コントロール」を容易にし、「自己コントロール」が自尊心を増進し、情緒的な満足感を満たし、周囲よりの好意的な眼差しを感じ、社会的評価の高まりを実感し、尊敬する人が「自己コントロール」の実践者であって、その人たちを含む多数派に自分が属することを確信し、また「自己コントロール」を失うことが利益を生まないことを実際に見聞きする必要がある。

自己抑制をしている人が嘲笑され、少数派として迫害され、美学的にダサイと自分も感じられるような家庭的・仲間的・社会的環境は、「自己コントロール」を維持するために内的・外的緊張を生むもので、長期的には「自己コントロール」は苦行となり、虚無感が忍び寄って、崩壊するであろう。戦争における残虐行為は、そういう時、呆れるほどやすやすと行われるのではないか。(中井久夫「「踏み越え」について」)

ここでわたくしが記している文脈においては、社会の支柱自体が「自己コントロール」を失っているのである。冒頭に引用した《21世紀になって個人から国家まで、葛藤の中で踏みこたえるよりも踏み越えるほうを選ぶ傾向が目立つ》とは、この文脈に置き換えて読みたい。もちろん上部構造には、自己コントロールと踏み越えの対決がある。

「形式化」が、たんに形式/内容の逆転ではありえず、{(形式/内容)内容}という構図そのものの逆転であらざるをえないことが明らかになるだろう。そして、この逆転は、{(内容/形式)形式}に帰結するだろう。デリダのいう「自己再固有化の法則」とはこのことである。そして、彼自身が{(差異/同一性)同一性}という形而上学的な構造を根本的に逆転するかぎり、{(同一性/差異)差異}に帰着してしまわざるをえない。彼自身が「自己再固有化」におちいらないようにするために、再び従来の構図を必要とするのである。(柄谷行人「形式化の問題」『隠喩としての建築』所収ーー実存主義→構造主義→ポスト構造主義→ポスト・ポスト構造主義の変遷をめぐって

柄谷行人の上の記述、{(差異/同一性)同一性}→{(同一性/差異)差異}を援用すれば、{(踏み越え/自己コントロール)自己コントロール}→{(自己コントロール/踏み越え)踏み越え}となる。母胎(分母)自体が踏み越えのときに、分子で自己コントロールに固執すれば、次の結果を生む。

要するに、「善い」選択自体が、支配的イデオロギーを強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の圧制と奴隷へと導く。(Levi R. Bryant PDF)

こうして現在のシステムの座標軸を変えるには、「踏み越え」が必要だという論理がもたらされる。《行為は、可能なことの領域への介入以上のものである。ひとつの行為は可能なことの座標軸そのものを変化させ、その結果、それ自身の可能性の条件を遡及的に創出する。》(ジジェク、2010)

バディウの過激な表現、《何も起きないよりも、厄災が起きた方がマシ mieux vaut un désastre qu'un désêtre 》も同じ文脈のなかにある。そして次のような批判も生じる、《バディウはマオ+ラカンの最悪の結合であり、そのポジションは「ヘテローマッチョ」だ。》(メディ・ベラ・カセム)

もちろんシステム的暴力のゼロ度に全く不感症で、ただひたすら「自己コントール」信奉をするのみの巷間の「ほどよく聡明な」仔羊インテリ諸氏たちは、ジジェクに対しても同じような批判をするだろう。そしてバディウやジジェクサイドからの反駁は、連中はシステムの侍僕・侍女に過ぎないという具合になる。

柄谷行人の議論ーー世界共和国という国連による「世界同時革命」ーーもジジェクなどと同様の現状認識から生まれている筈である。

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009



2017年1月23日月曜日

「エディプス的なしかめ面 grimace œdipienne」 と「現実界のしかめ面 grimace du réel」

カフカとプルーストという二人の偉大なオイディプス的人間は、ただ笑うためにオイディプス的なのである。そしてオイディプスを真にうけている人びとは、死ぬほど悲しい彼らの小説あるいはそれについての注釈を自分自身に接木することが、いつでもできる。それにしても、こういう人びとが何を見失っているか推測してほしい。超人的次元の喜劇、オイディプス的なしかめ面 la grimace œdipienne の背後でプルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑い le rire schizoーー蜘蛛になること、あるいは虫になること。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス L'ANTI-ŒDIPE』、1972年)

les deux grands œdipiens, Proust et Kafka, sont des œdipiens pour rire, et ceux qui prennent Œdipe au sérieux peuvent toujours greffer sur eux leurs romans ou leurs commentaires tristes à mourir. Car devinez ce qu'ils perdent : le comique du surhumain, le rire schizo qui secoue Proust ou Kafka derrière la grimace œdipienne - le devenir-araignée ou le devenir-coléoptère.

ラカン派でしばしば言及される「現実界の顰め面」というのは、ラカンによるDGのパクリかもしれないな。

じつは、この世界は思考を支える幻想 fantasme でしかない。それもひとつの「現実 réalité」には違いないかもしれないが、現実界のしかめ面 grimace du réel として理解されるべき現実である。

…alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.(ラカン、テレヴィジョン Télévision、AE512、1973年)

この文は、「現実界」は「現実のしかめ面」と捉えるべきではないか。それは「分裂的笑い」が「エディプスのしかめ面」であるのと同様に。

つまりは、「現実界のしかめ面」とは、「現実界という(現実の)しかめ面」とすべきではないか。実際、ジジェクは初期からそう捉えているようにわたくしには読める。

一般に、これら純粋な欲動の具現化は仮面をかぶっている。なぜか。おそらく、現実界についてのラカンのいささか謎めいた定義を通して、その答えが得られるだろう。『テレヴィジョン』の中で、ラカンは「現実界のしかめ面 grimace of the real」という表現を用いている。つまり現実界は幾層もの象徴化の下に隠された到達不可能の核ではなく、表面上にある。すなわち、いわば現実の過度の変装のようなもの、要するに、映画『バットマン』におけるジョーカーの顔に貼りついた歪んだ微笑みたいなものである。ジョーカーはいわば自分自身の仮面の奴隷になっていて、その盲目的衝動に翻弄されている。死の欲動はこの表面上の歪形の中にあるのであって、その下にあるのではない。本当に怖いのは笑っている間抜けな顔であって、それが隠している歪んだ顔ではない。

このことは日常的に子どもを観察しているとよくわかる。子どもの眼の前でわれわれが仮面をつけたとする。子どもは、その下にはよく知っているわれわれの顔があることを知っているわけだが、それでも怖がる。まるで、言葉ではあらわせない何か邪悪なものが仮面にとりついているかのように。このように仮面が位置しているのは、想像界でも象徴界でもなく(つまり、われわれが演じている象徴的な役割を示しているのではなく)、現実界である。ただし、それはもちろん、現実界を現実の「しかめ面」と捉えた we conceive the real as a "grimace" of reality 上での話しである。(ジジェク『斜めから見る』原著1991年、鈴木晶訳)

もっともこの読み方は、ラカンの発言、《現実界のしかめ面 grimace du réel として理解されるべき現実 réalité 》を反転させていることになる。

Adrian Johnston は「Zizek's Ontology: A Transcendental Materialist Theory of Subjectivity」2008年にて、《Žižek reverses this description: the Real is a grimace of reality》と指摘しつつ、次のように叙述している。




このあたりは、わたくしはラカン自身の叙述よりもジジェクの解釈を取りたいのだが、というのは、もしそうすれば、ドゥルーズ&ガタリの《オイディプス的なしかめ面の背後でプルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑いle rire schizo qui secoue Proust ou Kafka derrière la grimace œdipienne》とともに素直に読めるから。エディプスとはまずはわれわれの現実であるあろうし、分裂的笑いは現実界だろう。

「オイディプス的しかめ面の背後にある分裂的笑い」をラカン語で言い直せば、「ファルス享楽の彼方(非全体)に外立する他の享楽」ということになる。

現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence] 、象徴界[ le symbolique ] は穴 [ trou ] 、想像界 [ l'imaginaire ] は一貫性 [ consistance ](LACAN,S22,18 Février 1975)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (LacansS20, 20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique の彼方(非全体pas-tout)にある他の享楽 autre jouissance とは、享楽する実体 substance jouissante(身体の実体substance du corps)である。(ポール・バーハウ2001 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDF)

外立は外密に言い換えてもよい。 すなわち「ファルス享楽の非全体に外密する他の享楽」と。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité
Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部の異者である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001,PDF)
我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger (ラカン、S23、11 Mai 1976)

…………

たとえば中井久夫の叙述から例を出そう。

オランダの臨床精神医学者リュムケは、正常者でもすべていわゆる分裂病症状を体験する、ただしそれは数秒から数十秒であると述べている。この持続時間の差がなにを意味するのか、と彼は自問する。

私は回復期において一週に一、二回、数十分から二、三時間、“軽症再燃”する患者を一人ならず診ている(慢性入院患者がごく短時間「急性再燃」を示すという報告も別にある)。なかでも、自転車で人ごみのなかを突っ走ると起こりやすい場合があるのは興味がある。当然、追いぬく人の会話の一句二句をひろって走ることになる。この切れ切れに耳に入ってきた人のことばは、それ自体はほとんどなにも意味しないのだが、いやそれゆえにと言うべきか、聴きのがせぬ何かの(たとえば自分への批評の)兆候となる。そこからさまざまな“異常体験”への裂け目がはじまる。しかし、じっとして“ふりまわされぬ”ようにしていれば、この兆候的なもののひしめく裂け目は閉じ、すべてが過ぎ去ることが判ってきて、そのようにしているとーーー決して愉快な時間ではないがーーーいつのまにか消えてゆく。この場合、ガラスにひびの走るように拡がって急速なパニックには陥らないわけで、どうやら多くの“分裂病性異常体験”は、その基底にある不安あるいは(対人的)安全保障喪失感の“量”というか根の深さいかんで、恐慌状態になる場合からほとんど看過ごされる場合まで実に大きな幅があるようだ。幻聴でも、すこし聴こえただけで参ってしまう人もあるが、「大学教授なら停年までつとめられる例がある」とも聞いた。もっとも、持続時間を決定している因子はまた別かも知れない。(中井久夫『分裂病と人類』)

 《自転車で人ごみのなかを突っ走る》、そうすると現実の《裂目》が生じる。これが現実というしかめ面である。そして場合によって兆候的なもの=分裂的なものが犇めく。

すなわちドゥルーズの言い方なら《蜘蛛になる》のだ。

しかし、器官のない身体 un corps sans organs とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない。クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュ moindre signe がその内部に到達する。

『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。語り手の極度の感受性、異常な記憶力が与えられても役に立たない。それらの能力についての、意志的で組織的ないかなる使用 tout usage volontaire et organisé もできない限り、彼には器官がない。逆にひとつの能力は、強制され、無理じいされる contrainte et forcée ときには、語り手において行使される。そしてこの能力に対応する器官が、この能力に重ねて置かれるが、しかしそれはその無意志的な使用 l'usage involontaire を惹起する活動によって眼覚めさせられた強度の素描 une ébauche intensive としてである。

そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する器官のない身体の包括的で強度は反作用として存在する無意志的な感受性 Sensibilité involontaire、無意志的な記憶作用 mémoire involontaire、無意志的な思考 pensée involontaire。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれをなかば開けるか閉じるために動くのは、この身体=巣=クモcorps-toile-araignéeである。

語り手の奇妙な可塑性 Étrange plasticité。スパイ、警官、嫉妬する者、解釈する者、そして要求する者ーー狂人 le fou ーー普遍的な分裂病患者 I'universel schizophrèneである語り手のこの身体=クモが、そこから自分自身の錯乱délireの操り人間、器官のないおのれの身体の強度な力 puissances intensives de son corps sans organes、おのれの狂気のプロファイル profils de sa folie を作るために、偏執病患者 paranoïaque であるシャルリュスに一本の糸をのばそうとし、色情狂 érotomane であるアルベルチーヌにもう一本の糸をのばそうとする。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「狂気の現存と機能――クモーー」の章ーー「思考のイマージュ」の遷移

ドゥルーズを長々と引用してしまったが、中井久夫に戻ろう。彼は次のように記している。

ほとんど常に分裂病的でありうる狩猟採集民たちは、 《三日前に通ったカモシカの足跡を乾いた石の上に認知し、かすかな草の乱れや風のはこぶかすかな香りから、狩りの対象の存在を認知する(……)。(砂漠において)彼らに必要な一日五リットルの水を乾季にほとんど草の地下茎から得ているが、水の多い地下茎と持つ草の地表の枯蔓をそうでない草のそれから識別する》(『分裂病と人類』)

これはわれわれ通常人にもときに起こる。

徴候化は、対象世界にも、私の側にも起こる。対象の側に起こる簡単な場合には、山で道に迷った場合があろう。「道に迷った!」と直観した刹那に、人はもはや眼前の美しい森やこごしい断崖に眼を注がない。ささやかな踏みわけ跡らしきものを、けものみちであるか、先人のとおった跡であるかを見分けるために、ごく些細な徴候を捜して、明確な対象は二の次三の次になるだろう。これが、世界が徴候化する場合のごくわかりやすい一例である。。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」『徴候・記憶・外傷』所収)

中井久夫には、分裂的兆候感覚の定義として、《奇妙な静けさとざわめきとひしめき》や、《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》という美しい表現があるが、上に引用した文はそのことを別の仕方で語っている。

少し前、ドゥルーズの蜘蛛と器官なき身体をめぐる文章を引用したが、ミレール派の主要論客 Pierre-Gilles Guéguen 2016、PDF は、ラカンのAutres Ecrits(p.409)から引用しつつ、「器官なき身体 les corps sans organes」、「語の物質性 la matérialité des mots」、「分裂病的享楽 une jouissance schizophrène」 を関連づけている。

中井久夫もかねてより、「語の物質的側面」、分裂的症状の発生期の「言語の例外状態」を語っている。

…この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。(……)

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。(中井久夫「詩の基底にあるもの」1994年初出『家族の深淵』所収ーー中井久夫とラカン

最近、中井久夫の分裂病論は、自閉症との区別において疑義が呈されることがあるらしいが、少なくとも上の見解は、そのあたりの図式的な「凡庸な精神科医たち」には、いつまでたってもなかなか及びがつかないすぐれた洞察である、とわたくしは思う。

あまり詩的感性などということを言うつもりはないが、ただし最晩年のラカンの言葉は引用しておこう。

ポエジー poésie だけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。(ラカン、S.24.1977).

ーーこのポエジーをめぐるミレールの注釈は 「柿の木と梨の木」にある。


※分裂病的享楽とパラノイア的享楽については、次のような見解があるのを示しておこう。

分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)
あなたがたは、社会的に接続が切れている分裂病者をもっている。他方、パラノイアは完全に社会的に接続している。巨大な組織はしばしば権力者をもった精神病者(パラノイア)によって管理されている。彼らは社会的超同一化をしている。(Jacques-Alain Miller, Ordinary Psychosis Revisited, 2008)

…………

ところで、「消えたチェシャー猫の笑い」は分裂病的な笑いだろうか。中井久夫はそう語っていない。

予感が微分的、すなわち微細な差異にすべてをかけるのに対して、余韻とは、経験が分節性を失いつつ、ある全体性を以て留まっていることである。『ふしぎの国のアリス』における「消えたチェシャー猫の笑いが木のうえにとどまっている」のは余韻であろう。それは積分的である。しかし、余韻と予感には相通じる性格がある。ほのかな示唆的な性向である。余韻の感受は、予感の感受と似ている。(「世界における索引と徴候」『徴候・記憶・外傷』所収P18)

中井久夫の予感/余韻の最も簡潔な定義は次の通り。

予感というものは、……まさに何かはわからないが何かが確実に存在しようとして息をひそめているという感覚である。むつかしいことではない。夏のはげしい驟雨の予感のたちこめるひとときを想像していただきたい。(中井久夫「世界における索引と徴候」)

    穢れを知らない私、その膝は
むき出しの膝の怖れの予感に打ち震える……
吹き来る風は私を砕き、鳥は刺し貫く、鎧戸を閉ざした心の闇を、
聞いたことのない奇怪な嬰児(あかご)の声で……
胸の二つの薔薇を私の息は持ち上げ下ろす。(ヴァレリー「若きパルク」中井久夫訳)

余韻とはたしかに存在したものあるいは状態の残響、残り香にたとえられるが、存在したものが何かが問題ではない。驟雨が過ぎ去った直後の爽やかさと安堵と去った烈しさを惜しむいくばくかの思いとである。(同中井久夫)

「消えたチェシャー猫の笑い」は予感か余韻のどちらかかは、おそらく議論があるだろう。中井久夫自身、《余韻と予感には相通じる性格がある。ほのかな示唆的な性向である。余韻の感受は、予感の感受と似ている》としているのをみた。

…………

François Balmès は、「現実界」を次のように簡潔明瞭に語っている。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,2000)

ラカンの数ある「現実界の定義めいたもの」から、ここでの文脈に適うものを拾い出すなら、次の文がよい。

・現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(S.18)

・現実界とは形式化の袋小路である。 Le reel est un impasse de formalization(S.20)

ラカンにとって現実とは「見せかけの世界 le monde du semblant 」である。

無意識は常に、主体の裂け目のなかに揺らめくものとして顕れる。l'inconscient se manifeste toujours comme ce qui vacille dans une coupure du sujet,ラカン、S.11)
 精神分析とは、見せかけ semblant を揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fai les semblants , le Witz fait vaciller les semblants](ジャック=アラン・ミレール,1996

おそらく、「しかめ面」は、「揺らめかす」という表現と「ともに」理解できる。

悟り(「禅」における出来事)とは、多少なりとも強い地殻変動であり(厳粛なものではまったくない)、認識や主体を揺らめかせるもの qui fait vaciller la connaissance, le sujet である。つまり、悟りはパロールの空虚 un vide de parole を生じさせてゆく。そして、パロールの空虚こそがエクリチュール écriture をかたちづくる c'est aussi un vide de parole qui constitue l'écriture。(ロラン・バルト『記号の国』)
プルーストの作品は、過去と記憶の発見とに向けられているのではなく、未来と習得の進展とに向けられている。重要なことは、主人公は最初は或ることを知らなかったが、徐々にそれを習得して、ついには最終的な啓示 révélation を受け取るということである。したがって、彼は必然的に失望を味わう。つまり、彼は《信じ》、幻想 illusions を持っていたが、世界は習得の過程の中で揺らめくのである。il« croyait », le monde vacille dans le courant de l'apprentissage. (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

結局、「すぐれた」詩人や芸術家たちは殆ど常にこのことばかりを目指していると言ってよいのではないか(参照:柿の木と梨の木)。すなわち現実を揺らめかす、あるいは現実をしかめ面にしてみせる、ということを。

人生の通常の経験の関係の世界は
あまりいろいろのものが繁茂してゐて
永遠をみることが出来ない。
それで幾分その樹を切りとるか、
また生垣に穴をあけなければ
永遠の世界を眺めることが出来ない。
要するに通常の人生の関係を
少しでも動かし移転しなければ、
そのままの関係の状態では
永遠をみることが出来ない。

ーー西脇順三郎「詩情」(生垣の「結び目をほどく」詩人

・エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだという。(中井久夫「顔写真のこと」)

・詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である。(中井久夫『現代ギリシャ詩選』序文) 

もっとも例外はありうる。それは「冥府下りと冥府からの途切れがちの声」などに記した。

…………

最後に最近のジジェクによる現実界の「とてもすぐれた」定義を掲げておこう。

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的ものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳ーー基本版:現実界と享楽の定義

柄谷行人の《物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ》(『トランスクリティーク』)の表現を援用して言えば、《「現実界」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない》となる(参照)。