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2016年7月23日土曜日

資本の欲動という海に浮かぶ孤島

「正常」な状態では<現実界>は欠如、すなわち(ロスコの絵の真ん中にある黒点のように)象徴的秩序の真ん中に開いた穴である。ところがここでは、<現実界>という水族館が<象徴界>の孤立した島々を包み込んでいる。

言い換えれば、意味作用のネットワークが織り上げられる核となる中心の「ブラックホール」の役割を担うことによって、シニフィアンの増殖を「駆り立てる drives」ものは、もはや享楽ではなく、象徴的秩序そのものなのである。それはシニフィアンの浮遊する島、すなわち享楽のどろどろした海に浮かぶ島に成り下がってしまった。(ジジェク、1991)

初期ジジェクのすぐれた隠喩である。なんの隠喩かといえば、


であり、《みずからのトゲを抜こうとする努力》の時代から、《むき出しの市場原理》の時代への移行の隠喩である(参照)。

この移行は、欠如の時代から穴の時代への移行にともなうものだ。

穴の概念は、欠如の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンと以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、空間は残ったままだ。欠如とは、空間のなかに刻まれた不在を意味する。欠如は空間の秩序に従う。空間は、欠如によって影響を受けない。これがまさに、ある要素が欠けている場に他の諸要素が占めることが可能な理由である。その結果、人は置き換えすることができる。置き換えとは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権威である。

ちょうど反対のことが穴について言える。それは、ラカンが後期の教えでこの概念を詳述したように。穴は、欠如とは反対に、空間の秩序の消滅を意味する。穴は、組み合わせ規則の空間自体の消滅である。これが、Ⱥの最も深い特性である。Ⱥ は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場のなかの欠如、つまり穴、組み合わせ規則の消滅である。穴との関連において、外立がある。それは、残余にとっての正しい場であり、現実界の正しい場、すなわち意味の追放の正しい場である。(ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)

この欠如から穴(ブラックホール)への移行とは、個人の症状だけではなく、社会構造自体がこのように移行したのだ(そもそも症状は社会構造によって生まれる。神経症はヴィクトリア朝の超自我モラルのもとに生まれた。市場原理主義の現在は「ふつうの精神病」、「ふつうの妄想」の時代である)。

カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

ジジェクの冒頭の文は、初期ジジェクということもあり、ミレールが定義しなおした「欠如」と「穴」という概念が混在しているということはあるが、社会構造の移行のすぐれた隠喩として読むことができる。

神経症の時代においては、象徴秩序の真ん中に「欠如」があった。




これをわかりやすく示せば、かつては次のような形でシニフィアンが増殖した。





だが、「ふつうの精神病」の時代においては、われわれは資本の欲動という〈現実界〉に浮かぶ孤島なのだ。



ようは、Mark Rothkoの世界(神経症)から、草間彌生の世界(精神病)への移行。

ラカンは主人の言説の時代から資本家の言説の時代へ、と1968年の学生運動を機縁にして言った。これはーー厳密さを記さずに言うがーー、支配のイデオロギーの時代から資本の欲動という非イデオロギーの時代へということだ。



これは、ラカン主流派の臨床的観点からは「20世紀の神経症の時代から、21世紀の精神病の時代へ」(ミレール)ということになる(参照:ふつうの妄想・ふつうの父の名・原抑圧の時代)。


…………

いささかここでの話とは異なる箇所もあるが、冒頭に掲げたジジェク文の前後も含めて、もうすこし長く引用しておく。ミシェル・シオンの美しいフレーズ、《まるで生まれたばかりの生命のようにゆっくり脈打っている、形のない灰色の霧》という表現も引用されている。これはジジェク、2012にある《今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興》という表現と重ねて読めないだろうか。

現代の音響技術は、「本物の」「自然な」音を忠実に再現できるだけでなく、それを強化し、もしわれわれが映画によって記録された「現実」の中にいたとしたら聞き逃してしまうであろうような細かい音まで再現することができる。この種の音はわれわれの奥にまで入り込み、直接的・現実的次元でわれわれを捕らえる。たとえば、フィリップ・カウフマンがリメイクした『SF/ボディ・スナッチャー』で、人間がエイリアンのクローンに変わるときの、ぞっとするような、どろどろべたべたした、吐き気を催させるような音響は、セックスと分娩の間にある何か正体不明のものを連想させる。

シオンによれば、このようなサウンドトラックの地位の変化は、現代の映画において、ゆっくりした、だが広く深い「静かな革命」が進行していることを示している。音が映像の流れに「付随している」という言い方はもはや適切ではない。いまやサウンドトラックは、われわれが映像空間の中で方向を知るための「座標」の役割を演じている。サウンドトラックは、さまざまな方向から細部を雨のように降らせることによって(……)、ショットの地位を奪ってしまった。サウンドトラックはわれわれに基本的視点、すなわち状況の「地図」をあたえてくれ、その整合性を保証する。一方、映像は、音の水族館を満たしている媒体の中を浮遊するばらばらの断片になってしまった。精神病の隠喩としてこれ以上ふさわしいものは他にはあるまい。

「正常」な状態では<現実界>は欠如、すなわち(ロスコの絵の真ん中にある黒点のように)象徴的秩序の真ん中に開いた穴である。ところがここでは、<現実界>という水族館が<象徴界>の孤立した島々を包み込んでいる。

言い換えれば、意味作用のネットワークが織り上げられる核となる中心の「ブラックホール」の役割を担うことによって、シニフィアンの増殖を「駆り立てる drives」ものは、もはや享楽ではなく、象徴的秩序そのものなのである。それはシニフィアンの浮遊する島、すなわち享楽のどろどろした海に浮かぶ島に成り下がってしまった

このように「描出された」<現実界>は、フロイトのいう「心的現実」のことに他ならない。そのことをはっきり示しているのが、デイヴィッド・リンチの『エレファント・マン』における、エレファント・マンの主観的体験をいわば「内側」から表現している、神秘的な美しいシーンである。「外部の」「現実的な」音や騒音の発生源は保留され、少なくとも鎮められ、後景へ押しやられている。われわれの耳に入ってくるのは律動的な鼓動だけである。その鼓動の位置は定かではなく、「心臓の鼓動」と機械の規則的な律動の間のどこかである。そこにあるのはもっとも純粋な形での描出されたものrenduである。その鼓動は、何物をも模倣あるいは象徴化しておらず、われわれを直接的に「掴み」、<物自体>を直接的に「描出 render」している。だがその<物自体>とは何か。それにいちばん近くまで接近する言い方をしようと思えば、やはり「まるで生まれたばかりの生命のようにゆっくり脈打っている、形のない灰色の霧」と言う他ないだろう。目には見えないが質量をもった光線のようにわれわれを貫くその音響は、「心的現実」の<現実界>である。……(ジジェク『斜めから見る』1991、鈴木晶訳)

日本でも若きすぐれたラカン派の松本卓也氏が、最近、M.-H.ブルースに依拠しつつつ「〈父の名〉の後に誰が来るか?」という論文にて、次のような内容のことを記しているようだ(守中高明氏ツイートによる)。

「象徴的な法の単一性のシニフィアンであるところの〈父の名〉の権力の終焉」→「〈父-の-諸名〉」という「複数的なもの」への移行→〈父の名〉に「症状としての資格」を付与すること→「普通精神病においては、患者は象徴的組織化に欠如している例外の機能を自らに受肉しようとはしない」。

それでは「今日の〈父の名〉」とは何か:それは「正規分布の中央」「ポリティカル・コレクトネス」「コンセンサス」「エヴィデンスの保証」等であり、それが形成する「社会秩序」においては、「統計学的超自我」が支配し「曲線の中央値によって定義されるような凡庸さへの従属」が問題となる→そこから同氏(松本氏)の批判:しばしば「法の支配」を言う「本邦の恥ずべき首相」は「〈父の名〉の補足的なつくりものの一種」に過ぎず、しかも「つくりものとしても不十分」なことを自覚していない、と。

これも、マーク・ロスコから草間彌生への移行の変奏である。

上に記した文脈からいえば。われわれは、資本の欲動という「ゆっくり脈打っている形のない灰色の霧」の海に浮かぶ孤島として、「〈父-の-諸名〉」という「複数的なもの」になんとかあやうく頼りつつーージジェクには、「小さな〈大文字の他者たち〉little big Others」(”numerous little others or partial big Others”(Zizek=Tony Myers - 2004) としての「倫理委員会」,「小委員会」という言い方があるーー「ポリティカル・コレクトネス」「コンセンサス」等を大文字の他者の代替物として生きている、ということになる。

具体的な現象の例としては、大澤真幸の次の文が先ずはよいのではないか。

現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。(大澤真幸――『<自由>の条件』ーーラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈

ーーもちろん、以上は(ひとつの)ラカン派観点からであり、別の見方もあるだろう。