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2016年1月27日水曜日

ラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈

まず、ごく一般的に「母の去勢」から始める。

〔エディプスの衰退、父への同一化に〕先立って、父が母を剥奪するものとして機能し始める瞬間があります。つまり、父が母とその欲望の対象との関係の背後に、「去勢するもの」として姿を現す瞬間があるのです。(……)この場合、去勢されるのは主体ではなく、母だからです。(ラカン セミネールⅤ)
去勢不安そのものは、すでに地層にある原初の不安の防衛的な加工(エラボレーション)である。地層にある原初の不安とは、主体と〈他者〉 とのあいだの関係から起こる。各々の主体の原初の不安とは〈他者〉に 呑み込まれ貪り喰われることである。すなわ ち、〈他者〉の享楽の受動的な対象に還元されてしまうことである。概念的な用語なら、これが意味するのは、分離の可能性のない全的な疎外を意味する。

その原初の形式においては、この法は母にかかわる。彼女は禁じられているのだ、彼女の生産物を保持することを、たとえば子どもを彼女自身のものにすることを。 これが近親相姦の最初の意味である。すなわち、あなたは、あなたの子どもを自らの享楽 として捕えてはならない、ということだ。現在の、父と子とのあいだの近親相姦への強調は、 この原初の意味がほとんど忘れられてしまっているようなものだ。(「社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)」、1999)

ーーより詳しくは、「母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢」を参照のこと。

この1999年のヴェルハーゲの文は、旧来のラカン派の標準的な解釈だった筈だ。ところで、彼は、ラカンのセミネールⅩⅦを読み込むことによって、2006年前後から、新しい解釈を前面に出してきている。

…………

さて、PAUL VERHAEGHE の“new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex”2009(PDF)からである。

フロイトの古典的理論では、子どもに母を享楽することを禁じるのは、父である。ラカンの最初の解釈では、子どもを享楽することを禁じられるのは、母である。ラカンがその最後の理論で示したのは、この禁止がいかに社会的構築の産物かということだ。事実、それは、より根源的な何かのカモフラージュされた代替物にすぎない。その根源的なものとは、享楽の不可能性自体である。幼児研究とアタッチメント理論内部では、焦点はミラーリングの統制的特徴である。このまさに統制 regulation という考え方において、ここにも禁止の考え方が暗黙に存在する。

禁止は、これらのどの理論においても、その相違にもかかわらず、不可欠のように見える。しかし、ポストモダンの思考においては、禁止の考え方はほとんど消滅した。たぶん、関係性内でのどんな形の権力をも疑われるようになったせいだ。

ラカンの最後の論究にしたがえば、禁止の漸進的消滅は、パラドキシカルな効果をもたらす。享楽は以前よりも容易に手に入るようにならない。それは、享楽自体が不可能であるという理由のみではなく、不安が増えるという理由からだ。特に、保護膜の欠如のせいで、(欲動に)圧倒されるという神経症的不安が増大する。

別の予測も同様に容易になされうる。増えつづける不安のせいで、社会的狡猾機械は、反対方向への動きを誘いおこす。すなわち、ニュアンスのない形での禁止の唱導である。フロイト理論をベースにすれば、そのような動きは、原父という想像上の安全性へと回帰を押し進める。それに伴って、他者に対する攻撃性が発現する傾向を生む。ラカン理論をベースにすれば、女たちは、この他者の役割のなかに押しやられる。現在の極右保守主義、キリスト・ユダヤ・イスラム原理主義との組み合わせによる保守は、典型的事例である。救済は、またしても、全能の救済者から期待されるのだ。(ヴェルハーゲ、2009、私訳)

ここで、不可能な享楽(と剰余享楽)について捕捉しておこう。

現実界としての享楽は失われている。というのは、象徴秩序に住む人びとは決して直接には与えられない等々だから。しかしながら、享楽のまさに喪失が、それ自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生む。だから享楽は同時に、常に既に失われている何かであり、かつまたそれから決して免れえない何かである。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この根源的に曖昧な現実界の地位に基づいている。それ自体を反復する何かが、現実界自体である。そしてそれはまさに最初から失われており、何度も何度も回帰して、しつこく己れを主張し続ける。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)
人間は、「社会的共謀」によって、自らを欺く。実に、「禁止」の用語にて、(享楽の)不可能性をリフレームすることは、我々を錯覚に憩ったままにさせる。すなわち、我々はこの禁止を超えて、享楽の至高形式を獲得できるかもしれないというイリュージョンである。(ヴェルハーゲ、2009)


途中、「社会的狡猾」(ラカン、セミネールⅩⅦ) という言葉が出てきたが、それを含めて言えば、次の通り(冒頭近くに記したが、彼のラカン解釈の転換点ともいえるーーと、わたくしには思えるーー2006年の論文からであり、これは、Reflections on Seminar XVII Justin Clemensand Russell Grigg, editors)に掲載されている)。

ラカンは、エディプス・コンプレックスを完全に再定義する。狡猾な社会制度としてである。それは(不可能な)享楽を異なった起源の何かと代替することによってだ。すなわち、剰余享楽 plus-de-jouir である。ラカン曰く、分析治療のあいだに我々に最も興味をもたらすのは、剰余享楽の機能が、ファルス享楽の禁止にとっての代替物として確立される仕方である。(ヴェルハーゲ、“Paul Verhaeghe, Enjoyment and Impossibility: Lacan’s Revision ofthe Oedipus Complex”、2006)

ヴェルハーゲの文に、《禁止の漸進的消滅は、パラドキシカルな効果をもたらす》とあったが、権威のない「自由な」社会となって何かがおかしくなっているとは誰もが気づいているだろう。ヴェルハーゲの説明は、極右や原理主義にかかわったが、小さな小文字の権威の乱立という側面は、ジジェクや日本では大澤真幸などによって、かねてより指摘されている。

ジジェクであるなら、「父の名」の隠喩の欠如は、主体が自分の責任を転移し、自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれる「見せかけsemblant」の、数々の「小さな〈大文字の他者たち〉little big Others」(”numerous little others or partial big Others”(Zizek=Tony Myers - 2004) としての「倫理委員会」,「小委員会」などを求めるようになるとされ、大澤であれば次の通り。

現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。(大澤真幸――『<自由>の条件』)


では、どうすればよいのか。ラカン派からの解答は、個人レヴェルではサントームの設置であり、社会レベルでは主人のシニフィアンの設置である(参照:Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる))。

なにはともあれ現在のイデオロギー、いやそれどころかヘゲモニーである「新自由主義」とは、人々の攻撃性がとんでもなく発露してしまう環境である。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 )

ーーこの文は、まちがいなくフロイトのエロス・タナトス論がベースにある。

アクラガス(ギルゲンティ)のエンペドクレスは、ギリシア文化史中もっとも偉大な注目すべき人物の一人のようである。(……)彼は事物がそれぞれにみな異なったものであるという事実を、四つの元素、地・水・火・風の組合せによって説明し、自然のすべてに生命があるということと魂の輪廻とを信じていた。(……)

……この哲学者は、世俗の生活の中の出来事にも、魂の生活の中の出来事にも、互いに永遠の闘争を行っている二つの原理があると教えている。彼はその二つを 愛philia – Liebe と闘争 neikos – Streitと呼んだ。彼にとっては根柢において「本能的にtriebhaft作用する自然力であり、けっして目的を意識した知性ではない」これらの力のうちの一つ、すなわち愛は、四つの元素の原子を集めて一つの統一体をなそうとするものであり、他の一つ、すなわち闘争は反対にこれらの組合せを元に戻して元素の原子をばらばらに分離しようとするものである。彼はこの世界の時間的な発展過程を、さまざまの時期の持続的な、けっして熄むことのない交替と考えている。そして各時期においては二つの基本的な力のうちのいずれかが勝利を得て、あるときは愛が、あるときは闘争がその意図を完全に遂行して世界を支配するのであるが、その後、他の屈服した方の力がその持ち前を発揮して今度は相手を屈服させてしまうというわけである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳)

90年以降の「市場原理主義」の時代の標語は、生産性、競争性、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーション等々だろう。これら「経済のディスクール」が席捲する時代は、「エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性」という人間のタナトス的性格が支配する時代、すなわち弱肉強食の社会ダーウィニズムの時代である、《事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから》(柄谷行人)、《今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である》(中井久夫)。

我々の社会は、絶えまなく言い張っている、誰もがただ懸命に努力すればうまくいくと。その特典を促進しつつ、張り詰め疲弊した市民たちへの増えつづける圧迫を与えつつ、である。 ますます数多くの人びとがうまくいかなくなり、屈辱感を覚える。罪悪感や恥辱感を抱く。我々は延々と告げられている、我々の生の選択はかつてなく自由だと。しかし、成功物語の外部での選択の自由は限られている。さらに、うまくいかない者たちは、「負け犬」あるいは、社会保障制度に乗じる「居候」と見なされる。(ヴェルハーゲ「新自由主義はわれわれに最悪のものをもたらした Neoliberalism has brought out the worst in us"」Guardian(2014.09.29))

新自由主義のヘゲモニーのもと、《我々はシステム機械に成り下がった、そのシステムについて不平不満を言うシステム機械に。》(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 )

以下、2014年の書からのいくらかの摘要。

・…ポピュリストの批判は、大衆自らが選んだ腐敗した指導者を責めることだ。

・ラディカルインテリは、どう変えたらいいのか分からないまま、資本主義システムを責める。

・右翼左翼の政治家たちはどちらも、市場経済に直面して、己れのインポテンツを嘆く。

これら全てのナラティブに共通しているのは、何か別のものを責めたいことである。

だが我々皆に責務があるのは、「新自由主義」を再尋問することだ。…それを「常識」として内面化するのを止めることだ。


ごく一般的な定義(参照)、《神経症とは、内的な欲動を〈他者〉に帰することによって取り扱う方法》であるならば、我々はほとんど皆いまだ神経症的に振舞っている。



…………

※附記

セミネールⅩⅦにて、ラカンは父の役割を考え直し、どんな心理学的・道徳的解釈からも距離を取った。彼自らが作り出した解釈、鰐の口の母とそこから解放する父というものからさえも距離を取った。フロイトによるすべての女たちを享楽する全能の父は、今、錯誤 illusion と見なされる。「父は、一人の女さえ満足させる能力は滅多にない」 (Lacan, 2006 [1969-70], pp. 100, 124).

ラカンの命題は、男と女、父と母は、避けがたく、あるポジションに無理強いされるということだ。そのポジションとは、元から在る事態を基盤としている。すなわち、享楽の不可能性。社会的ゲームの中で、またそれを通して、父に割り当てられる役割は、実に、禁止するという役だ。

この役割割り当てを超えて、ラカンは、父の機能を構造的な形で考え直した。それは、去勢の異なった理論を前面に出すことになる。フロイトによる去勢する原父の代わりに、ラカンは、去勢された父、いや辱められた父をさえ、我々に提示する。フロイトの考え方からの距離はひどく大きなものであり、新しい用語が必要となる。すなわち、象徴的去勢である。

この父にはひとつの任務がある。子どもにある機能を手渡すことだ。すなわち主人のシニフィアン S1を。それなしでは、アイデンティティ形成は不可能である。我々の誰もが、このような欠如や分裂(分割)のない主人のシニフィアンが必要である。我々がそれに一致するふりをすることができるシニフィアンである。要するに「それは私だ!」というシニフィアンだ。唯一この後なのである、我々が己れを疑うという贅沢が許されるのは。(PAUL VERHAEGHE “new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex”2009)
註)ラカンにとって、我々の元来のアイデンティティは、なによりもまず、全く元来ではない。それは、大他者の鏡(像)の反映 mirroring から来る。第二に、我々のアイデンティティは分割されたものだ。というのは、それは諸シニフィアンを基盤にしているから(ふたたび、異なった他者たちに表されたものとしての大他者から来る)。それは、相反する欲望を伝達する。主人のシニフィアンは「一」であり、唯一の例外である。それは、自身と一致したシニフィアン、どんな欠如や分割もないシニフィアンである。我々の名は、その最も顕著な例だ。(ヴェルハーゲ、2009)

中上健次にとってこの主人のシニフィアンが機能していなかっただろうことは、以前みた(参照:中上健次と「父の名」)。

図を描いたほうがわかりやすいのだが、母は三つの姓名(木下・鈴木・中上)を名のったのである。僕の兄や姉たちは最初の木下勝三(病死)の血をつなぎ、末っ子の僕だけが鈴木留造の子であった。放蕩者でバクチ好きの鈴木は、他に二人の女をつくって妊ませ、結局、僕には母千里の産みだした郁平、鈴枝、静代、君代の四人と、鈴木留造が女どもに産ませた一人の妹と二人の弟、そしてどこにいるのか生きているのか死んでいるのかわからない幻の妹が一人と、血のつながった兄姉妹でも九人いる計算になる。かくて幼い僕は母につれられて、最後の「父」である中上七郎の庇護をうけ、「父」の子である中上純一らと家庭を構成することになる。(中上健次「犯罪者宣言及びわが母系一族」)

おそらく彼にとっての「路地」というシニフィアンは、彼のサントーム(個人固有の主人のシニフィアン)であろうことも。