男たちの暴力には、扉を隔てていても、何事もまだ起こっていなくても、においがある。
これは怯えのにおいだ。追いつめられて日がな部屋に閉じこもっていた頃の男の、あの独特な体臭と変りがない。外から扉をあけると、腐った果物のにおいのように流れて、思わず顔をそむけさせたものだった。(古井由吉『椋鳥』子安)
ーー攻撃は、外に露われでる怯えの最も典型的な仕方のひとつである。そしてそれは男たちに限らない。(ヴェルハーゲ、1998)
…………
「反「惻隠の心無きは、人に非ざるなり」」にて、《トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか》(中井久夫「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」『徴候・記憶・外傷』所収)とある一連の文を引用した。
実は、この文は、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点とは、異なった面を持つとも読まなければならない。たとえば、中井久夫は、この同じ論文で、PTSD(心的外傷後ストレス障害)患者をめぐって次ぎのように言っている。
治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。(中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.106)
《外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」である》とある。これはほとんどPTSD患者は「暴力的」になると言っているのに等しくはないか。いや、それが言いすぎなら「情動的(情熱的)」になる、と言っているとしてもよい。
他者に対する情熱passionを公に示す事には恐ろしく暴力的なところがあるというのは当たり前ではなかろうか。情熱は定義からしてその対象を傷つける。相手が情熱の対象の位置を占めることに徐々に同意したとしても、畏怖と驚きを経ずして同意することは絶対にできない。(ジジェク『ラカンはこう読め』)P175)
感性的であるということ、すなわち現実的であるということは、感覚の対象であること、感性的な対象であることであり、したがって自分の外部に感性的な諸対象をもつこと、自分の感性の諸対象をもつことである。感性的であるということは、受苦的であるということである。
それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的〔leidend〕な存在であり、自分の苦悩〔leiden〕を感受する存在であるから、一つの情熱的〔leidenschaftlich〕な存在である。情熱、激情は、自分の対象にむかってエネルギッシュに努力をかたむける人間の本質力である。(マルクス「経済学・哲学草稿」第三草稿 城塚・田中訳)
「烙きつけるのは記憶に残すためである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』第二論文「「負い目」・「良心の疚しさ」・その他」)
もっともトラウマといっても、後にPTSDを生むトラウマと、そこまで行かないトラウマがあるだろう。
男女を問わず成人になる過程で、あるいは成人以後に外傷を負わない人間はあっても少ない。(……)
「身体の傷は何カ月かで癒えるのに心の傷はどうして癒えないのか。四十年前の傷がなお血を流す」と老いた詩人ポール・ヴァレリー(1871-1945)はその『カイエ』(生涯書き綴ったノート)に記している。心の傷の特性は何よりもまず、生涯癒えないことがあるということであろう。八カ月で瘢痕治療する身体の外傷とは画然とした相違がある。(……)
外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。
しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.109)
さて、ここでふたたびニーチェにお出まし願おう。
権力への意志が原始的な情動(Affekte)形式であり、その他の情動(Affekte)は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)
ラカンによる「情動」とは、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界にアフェクトされることだ。これは限りなく「欲動」に近い。
権力への意志とは、『ニーチェと悪循環』のクロソウスキーによれば、衝動(impulsion)である。ドゥルーズの権力=〈力〉puissanceを援用するなら、権力への意志とは、〈力〉 puissance の衝動 impulsion である。これもほとんど「欲動」のことを言っている。そして、《権力とは延期された暴力である》(エリアス・カネッティ)。
なおここで、フロイトが次ぎのように言っていることを思い出しておこう、《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』)
すなわち、情動的とは実は破壊的でもありうる。
いずれにせよ、トラウマ被害者は、身体の脊髄反応(≒情動)が起こりがちなのだ。それが、どうやって、「同情」や「共感」に向かうか、ときに「暴力」に向かうかのかは、わたくしにはいまだ判然としていない。
いずれにせよ、トラウマ被害者は、身体の脊髄反応(≒情動)が起こりがちなのだ。それが、どうやって、「同情」や「共感」に向かうか、ときに「暴力」に向かうかのかは、わたくしにはいまだ判然としていない。
ただし、こうは引用しておこう。
柄谷)文化に対して自然を回復せよというロマン派と、それを成熟によって乗り越えよというロマン派がいて、それらは現在をくりかえされている。後期フロイトはそのような枠組を脱構築する形で考えたと思います。文化あるいは超自我とは、死の衝動そのものが自分に向かったものだという、これはすごく大きな転回だと思う。彼はある意味で、逃げ道を絶ってしまった。
浅田)ニーチェが言っていたのもそういうことなんじゃないか。力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる。ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出したのもそういう見方なんで、それがさっきストア派的と言っていた姿勢にも結びつくわけでしょ。(「「悪い年」を超えて」『批評空間』1996 Ⅱ-9 坂本龍一 浅田彰 柄谷行人 座談会)
・罪責感は、ある場合には攻撃欲動の発動が中止された時に生まれるものである
・超自我が持っていると考えられる攻撃エネルギーについて二つの考え方があって、それはただ優位に立つ外部の他者の懲罰エネルギーを継続し心理生活のために保存しているにすぎないという考え方に対し、他方では、それはむしろ、自分自身の攻撃エネルギーで、この自分の欲動満足を制止する優位に立つ他者に向けられたものの使用されずに終わったものだという考え方がある。
・罪責感に本質的かつ共通な点としては、それが内部へ転位した攻撃欲動であるということだけが残った、(フロイト『文化への不満』より摘要)
最も純粋な超自我の審級……不可解な審級、それがわれわれを操り、自己破壊の渦巻く奈落へと導く。
超自我の機能は、まさにわれわれ人間存在を構成する恐怖の動因、人間存在の非人間的な核を途方に暮れさせることにある。この次元とは、ドイツの観念論者が否定性と呼んだものであり、そしてまたフロイトが死の欲動と呼んだものである。現実界のトラウマ的な固い核、――そこから昇華がわれわれを保護してくれるーーその核であるどころか、超自我そのものが現実界を仕切っている仮面なのである。(ZIZEK"LESS THAN NOTHING"私訳)
この外部に向かう「攻撃欲動」が反転して内面を律するようになることで、同情や共感が生まれうる、と断言するまでに、わたくしは至っていない。
…………
ところでわれわれは、事件としてのトラウマだけでなく、構造的トラウマを持っている。
トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma,2001)
このヴェルハーゲの見解は、中井久夫の次の叙述が裏付ける。
……一般に、語られる外傷性事態は、二次的な体験、再燃、再演であることが多い。学校でのいじめが滑らかに語られる時など、奥にもう一つあると一度は考えてみる必要がある。(……)
しかし、再燃、再演かと推定されても、当面はそれをもっぱら問題にしてよい。急いで核心に迫るべきではない。それは治療関係の解消あるいは解離その他の厄介な症状を起こす確率が高い。「流れがつまれば水下より迫れ(下流の障害から除去せよ)」とは下水掃除の常道である。〔中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.104)
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )
構造的トラウマは享楽にかかわる。しかも、我々の最初の大他者、母なる他者 (m)Oher による享楽の侵入と刻印に。
享楽はシニフィアン組織への入口である。というのは、一つの特徴unary trait が刻印されて享楽の徴として反復されるからだ。反復の目標は、それ自体享楽であり(享楽の侵入としての刻印の反復)、かつまたこの享楽に反対するものである(一つの特徴unary traitとシニフィアンはつねに喪失を意味する)。それゆえ、どの反復も反復しよとする未満のものである。 (Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 2006 私訳)
※より詳しくは、「二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)」を参照のこと。
さて、「侵入」という言葉が出てきたので、中井久夫の、《彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか》という文を再掲しておこう。
われわれは、幼児期、最初の大他者の侵入を受け、享楽の刻印を受けている。これが構造的トラウマのひとつの起源だというのがヴェルハーゲの見解である。
乳幼児は最初の大他者に対して必ず受動的(侵入される)ポジションに置かれる。そのため、後年その大他者に能動的、場合によっては攻撃的になりがちだ。つまり、《「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」》になる。それは、最初の大他者に対してなのであり、「母」ではない。ここではそのことのみを強調しておくだけにする。ただし、不幸にもその最初の大他者は、ほとんどの場合、いまだ「母」なのであり、これからもおおむねそうであろう。
そして、《母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」
この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。》((Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE,1998)
フロイトはくり返し言っているが、人は内的な脅威から逃れうるのは、唯一外部の世界にそれを投影することだ、と。問題は享楽の事態に関して、外部の世界はほとんど女と同義だということだ…
三つの宗教の書、初めにすべての悪の源としてイヴ、次にカトリックの性と女の不安と憎悪、最後にムスリムのベールなどへの強制。女は男を誘惑し破滅させるので、寄せつけないようにしなければならない。これは次のように読むべきだ。我々自身の享楽、我々の身体から生じる欲動は、享楽的であるだけではなく、我々が統御する必要のある、明らかに脅迫的な何かだ。統御するための最も簡単な方法は、その享楽を他者に帰してもし必要なら、この他者を破壊することだ。
注) 我々の現代的西欧社会では、最初の世話役は父でありうるし、ジェンダーの平等が多かれ少なかれ成就している。その社会では、男たちに向かっての女たちからの同じ反応を漸次、観察できるようになった。すなわち、男たちのエロティックな魅力の見せびらかしを非難しつつ、同時に、自らの欲動と享楽を見て見ぬふりをする女たちである。(ヴェルハーゲ、2009)
…………
話を元に戻せば、ヴェルハーゲ、2006に記されている「一つの特徴unary trait」とは、フロイトのEin einziger Zug のことである。
同一化は前記のように、感情結合のもっとも初期のもっとも根源的な形式である。そして症状形成や、したがって抑圧や無意識の機制が支配する条件のもとでは、対象選択がふたたび同一化になり、このようにして自我が、この同一化のさいに、ときには好まない人物を、また、ときには愛する人物を模写することは注目に値する。両方の場合はいずれもこの同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物の一つの特色Ein einziger Zugだけを借りていることも、われわれの注意をひくにちがいない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』人文書院旧訳)
ーーすなわち「ときには好まない人物」にも、そしてたったひとつの特徴で、同一化する。そしてその同一化により、同情や憐れみが生まれうる。
さて、次の現象が起こるのは、想像的同一化(理想自我)によるものだろうか、象徴的同一化(自我理想)によるものだろうか。
ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)
このあたりも、わたくしには曖昧なままであり、一見「想像的同一化」としてよいようにみえて、おそらくそれだけではない。
前回、フロイトの《同情は同一化から生まれる [das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung]》(フロイト『集団心理学と自我の分析』)を想像的同一化に近いものとして扱ったが、Ein einziger Zugへの同一化は、象徴的同一化のことであり(ただし自我理想との同一化とはやや違う)、想像的同一化とは異なる。後者は動物にも起こる。前者は人間だけにおこる同一化である(ラカン『同一化セミネール』)。
ーーというわけで、「反「惻隠の心無きは、人に非ざるなり」」にての記述には、大いに疑わしいところがある、とここで白状しておこう。