このブログを検索

2016年1月25日月曜日

反「惻隠の心無きは、人に非ざるなり」

人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以の者は、今人乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隠の心有り。

交はりを孺子の父母に内るる所以に非ざるなり。

誉れを郷党朋友に要むる所以に非ざるなり。

其の声を悪みて然するに非ざるなり。

是に由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。(孟子「公孫丑編」)

(子供を助けようとするのは)子供の父母と接点を持とうとしているからではない。
(このことで)世間の人や友人に褒められようとしているからではない。
(子供を助けなかったという)非難を受けるのを嫌がるからそうするのではない。

ーーとある。

果たしてほんとうにそうであろうか。

…………

同情は、同一化によってのみ生まれる [das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung](フロイト『集団心理学と自我の分析』1921)

これは同情するから同一化するのではなく、同一化の方が先にあるといっている。とすれば同一化しなければ同情しないということだ。

ラカン的には想像的同一化(理想自我にかかわる)、象徴的同一化(自我理想にかかわる)等々がある。ふつうは想像的同一化後、象徴的同一化が起こると理解されている。だがこのあたりはかなり複雑だ(ここでは同一化のひょっとしたら最も重要な機制、trait unaire(一つの特徴)の議論は複雑化するので外す)。

一般的には、理想自我は、自我の理想イメージの外部の世界(人間や動物、物)への投影 projection であり、自我理想は、彼の精神に新たな(脱)形成を与える効果をもった別の外部のイメージの取り込み introjection である。言い換えれば、自我理想は、主体に第二次の同一化を提供する新しい地層を自我につけ加える。(……)

注意しなければならないのは、自我理想は、必然的に、理想自我のさらなる投影を作り変えることだ。すなわち、一方で理想自我は論理的には自我理想に先行するが、他方でそれは避けがたく自我理想によって改造される。これがラカンが、フロイトに従って、次のように言った理由である。すなわち、自我理想は理想自我に「形式」を提供すると(セミネールⅠ)。 ( (ロレンツォ・キエーザ Lorenzo Chiesa 『主体性と他者性』Subjectivity and Otherness、2007)

さらにラカンは 「理想自我は、また第二次の同一化のみなもとである」とさえ言っている。

Cette forme serait plutôt au reste à désigner comme Je-idéal(l'Ideal Ich de Freud), si nous voulions la faire rentrer dans un registre connu, en ce sens qu'elle sera aussi la souche des identifications secondaires, dont nous reconnaissons sous ce terme les fonctions de normalisation libidinale.(Laca,ecrits)

なおかつ「取り込みntrojection」自体が、「原始的な快自我 primitiven Lust-Ichs」の起源でもある。

快が見出されたものは何もかも内部に取り入れる。不快を生み出すものは何もかも外部に送り返す。これが意味するのは、緊張と緊張の解除の経験は、アイデンティティの発達自体をもたらす、ということだ。そしてこのアイデンティティは全的に外部から来る。発達途上の原自我は、外部の世界に直面し、文字通りにその世界の部分を取り込む。

不快な部分は、可能なかぎりすばやく吐き出される。したがって初期の段階では、外部の世界と悪い非-私は同じものである。逆に、快を与える部分は内部に残ったままだ。その意味は、原自我と快は同じものということだ。それをフロイトは「原初の快自我」と呼んだ。

この「取り込み incorporation」と「吐き出し expulsion」は、先駆者、ーー後に生じる「判断」における知的機能の前身である。知的判断においては、肯定 ( Bejahung)は「取り込み」の代用品であり、否定(Verneinung)は「吐き出し」の後継者である。

注意しておこう、フロイトにとって、「肯定」はエロスと融合の側にあり、「否定」はタナトスの側にあることを。死の欲動の特質、それは分離と分解へと向かう傾向をもつ(フロイト『否定』)。 “Sexuality in the Formation of the Subject”(ポール・ヴェルハーゲ 、2005、原文

ーーなどということになり、同一化は奥が深い。これらのことを念頭に置きながら、フロイトの「同情は、同一化によってのみ生まれる」という文の「同一化」は、ほぼ「想像的同一化」のことであるとしておく。

これはルソーも同じであり、彼はたんなる「惻隠の情」の思想家ではない。

私たちはどのようにして憐れみに心動かされるのであろうか。私たち自身の外に身を置くことによって、 つまり、苦しんでいる存在に同化する (se identifier) ことによってである。彼が苦しんでいると判 断するのでない限り、私たちが苦しむことはないのであって、私たちは、自身のうちでではなく、まさに彼のうちで苦しむのである。この転移がいったいどれほど多くの獲得されたを前提としているか考えてほしい。私がそれについての何の観 念 も持っていないような不幸をどのように想像する (imaginer) というのであろうか。他人が苦しんで いることを知りもせず、 また、彼と私のあいだに共通するものがある ということを知らなければ、他人が苦しんでいるのを見ながら、どう して私が苦しむだろうか。決して反省(réfléchir) したことのない人間は、寛大でも公正でも憐れみ深く (pitoyable) もありえない( ルソー『言語起源論』)

いやこれだけでもない、ルソーは『エミール』では次のように書いている。

【第一の格率】:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。

【第二の格率】:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

【第三の格率】:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。

第二格率は、「人は自分がまぬがれると考えれば、他人の不幸を憐れまない」とさえ「翻訳」できるだろう。とすればフロイトの「同一化しなければ、ひとは同情しない」と変奏できる観点を、ルソーはすでに言い当てている。

とすれば、ニーチェの度重なるルソー批判を額面通り受け取るのはいささか思い留まる必要があるのではないか。

カントをもまた、道徳の毒蜘蛛であるルソーが刺していた。カントにもまた、魂の底には道徳的な狂信の思想が伏在していた。(『曙光』序文 茅野良男訳)

むしろ、ニーチェの若き日の最大の師ショーペンハウアーや惻隠の情の孟子へその批判の矛先を向けるべきではないか。

すべての生きとし生ける者に限りない同情を持つことこそ、倫理的に正しい態度をとる上で最も堅固、確実な保証を与えるものであり、これについてとやかく良心の問題などを取り上げる必要はない。この気持ちに満たされた者は、必ずや、誰にも危害を加えたり、侵害したり、なんびとをも陥れようとせず、むしろできる限り他人のことをおもんばかり、あらゆる人を許し、助けるようつとめるであろう。さらにそうした人の行動は、正義と人間愛の刻印を担うことになろう。(ショーペンハウアー『存在と苦悩』)

たとえば、わが国の最もすぐれた精神科医のひとり中井久夫はどうか。氏は孟子の惻隠の情への言及が多い。ここではその一例だけあげよう。

……池で溺れている少年、あるいはいじめられようとしている少女を目撃した場合に、見て見ぬふりをして立ち去るか、敢えて救助に向かうかの決定が紙一重となる瞬間がある。この瞬間にどちらかを選択した場合に、その後の行動は、別の選択の際にありえた場合と、それこそハサミ状に拡大してゆく。卑怯と勇気とはしばしば紙一重に接近する。私は孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」と自己保存の計算との絞め木にかけられる。一般に私は、救助に向かうのは最後までやりとおす決意とその現実的な裏付けとが私にある場合であるとしてきた。中途放棄こそ許されないからである。(中井久夫「一九九六年一月・神戸」『復興の道なかばで  阪神淡路大震災一年の記憶』所収)

この文だけを取り上げれば、中井久夫の考え方はやや弱いように思う。つまり「惻隠〔みてしのびざる〕の情」への疑念なしにそれを絶対の前提として語ってしまっているように読めないでもない。それはほかに惻隠の情に言及している箇所についても同様な印象を受ける。もっとも、フロイトの《同情は、同一化によってのみ生まれる》に触れるのは、比較的多くの人に読まれるエッセイに書くのは敢えて思い留まったのかもしれない。

中井久夫の「本当の」惻隠の情をめぐる考え方を掴むには、すくなくとも次ぎの文と同時に読む必要がある。

……心的外傷には別の面もある。殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある(「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」『徴候・記憶・外傷』所収) 

ここには《同情は、同一化によってのみ生まれる》へのヒントもある(かつまた、ここでの議論から外した、trait unaire(一つの特徴)ーー人間の最も初期の享楽≒トラウマの侵入ーーにもかかわると考えられる)。

そしてトラウマは外部からくる事故的トラウマのみではない。《トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。》(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )

トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma,2001)

…………

ここで、惻隠の情、憐れみ、同情について考える上で、最もすぐれた文のひとつとして扱いたいニーチェの『曙光』の一節を、パラグラフ分けしてそれぞれに小題をつけて掲げよう。


【無思慮の同情】
「もはや私のことを思わない。」――まあ本当に徹底的にとくと考えてもらいたい。眼の前で誰かが水の中に落ちると、たとえ彼が全く好きでないにもせよ、われわれがそのあとから飛びこむのは、なぜか? 同情のためである。そのときわれわれはもう他人のことだけを思っ ている。――と無思慮がいう。誰かが血を吐くと、彼に対して悪意や敵意さえ持っているの に、われわれが苦痛と不快を感じるのは、なぜか? 同情のためである。われわれはその際まさしくもはや自分のことは思っていない。――と無思慮が言う。

【無私の同情の嘘】
真実は、同情というときーー私は間違ったやり方で通常同情と呼ばれるのが常であるもののことを考えているのだが、――われわれはなるほどもはや意識的にわれわれのことを思 っていないけれども、極めて強く無意識的にわれわれのことを思っているのである。ちょうど足がすべったとき、われわれにとって現在意識されていないが、最も目的にかなった反射運動をし、同時に明らかにわれわれの知性全体を使用しているように。

【自己の名誉による同情】

他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの卑怯を確認させるであろう。言いかえると、 それはすでにそれ自体で、他人に対するわれわれの名誉の、またはわれわれ自身に対するわれわれの名誉の減少を必然的にともなう。換言すれば、他人の不幸と苦しみの中 にはわれわれに対する危険の指示がある。そして人間的な危うさと脆さ一般の目印としてだけでも、それらはわれわれに苦痛を感じさせる。

【自己防衛としての同情】
われわれは、この種の苦痛と侮辱を拒絶し、同情するという行為によって、それらに報復する。この行為の中には、精巧な正当防衛や、あるいは復讐さえもありうる。われわれが根 底において強くわれわれのことを思うということは、われわれが苦しむもの、窮乏するもの、 悲嘆するものの姿を避けることのできるすべての場合に、われわれの行なう決心からして推測される。われわれが一層強力なもの、助けるものとしてやって来ることができるとき、喝 采を博することの確実であるとき、われわれの幸福の反対のものを感じるのを望むとき、あ るいはまたその姿によって退屈から脱出することを期待するとき、われわれは避けることを しまいと決心する。そのような姿を見るときわれわれに加えられ、しかも極めて多種多様で ありうる憂苦を同情と名づけることは、間違った道に導く。なぜなら、どんな事情があっても、 それは、われわれの前で苦しんでいる者とは関係がない憂苦であるからである。


【快楽としての同情】
しかしわれわれはこの種のことを、決してひとつの動機から行なうのではない。われわれが その際苦しみからの解放を望んでいることが全く確実であるように、われわれが同じ行為において、快楽の衝動に服従することもやはり確実である。――快楽が生じるのは、われわれの状態の反対のものの姿を見るときである。われわれが望みさえすれば助けうるとい う考えをもつときである。われわれが助けた場合、賞賛され、感謝されるという思いを抱くときである。行為がうまくゆき、そしてそれが一歩一歩成功するものとして実行者自身を楽しませるかぎり、助けるという行為そのものの中においてである。しかしとくに、われわれの行 為が腹立たしい不正を制限する(彼の腹立たしさの爆発だけでも気分をさわやかにする)という感覚の中においてである。


【ショーペンハウアーの誤謬】
この一切合財に、さらに一層精巧なものがつけ加わると、 「同情」である。――言語はそのひとつの言葉を用いて、何と不格好に、そのように多声的な存在の上に襲いかかることであろう! ――これに反して、苦しみを眺めるときに起きる同情が、その苦しみと同種のものであること、あるいは、同情が苦しみに対して特別に精巧な、透徹した理解をもつこと、この二つのことは、経験と矛盾する。そして同情をほかならぬこの二つの視点で称賛した者は、まさに道徳的なもののこの領域において、十分な 経験を欠いていたのである。ショーペンハウアーが同情について報告することのできるす べての信じがたい事柄にもかかわらず、これが私の懐疑である。彼はわれわれをして、彼 の大きな新発明品を信じさせようとしている。それによると、同情はーー彼によって極めて不完全な観察がなされ、全く粗悪な記述がなされた、まさにその同情はーー、一切のあら ゆる以前の、また将来の道徳的な行為の源泉であるーーしかも彼がはじめて捏造して、 同情になすりつけたほかならぬその能力のためにそうなのである。――

【同情をもたない人間の心理】
おしまいに、同情をもたない人間は、同情する人間と何で区別されるか? 何よりもまずー ーここでもやはり荒っぽくのべるだけであるがーー同情をもたない人間は、恐怖という刺激されやすい想像力や、危険をかぎつける鋭い能力をもっていない。さらに、何事か起きても、かれらが阻止できるならば、彼らの自惚れはそんなに速やかに傷つけられはしない。 (彼らの誇りの慎重さは、関係のない事柄に無益な干渉をしないように、彼らに命令する。 それどころか、彼らは自発的に、各人が自分自身を助け、自分自身のトランプで遊ぶことを好むのである。)その上彼らは大てい、同情的な人間よりも、苦痛に堪えることに馴れている。さらに彼ら自身苦しんできたのであるから、他人が苦しむことは、彼らにはそう不公平には思われない。

【道徳的流行としての同情】
最後に彼らにとっては心の優しい状態は、ちょうど同情する人間にとってストア主義的な無関心の状態が苦痛であるように、苦痛である。彼らはその状態に軽 蔑的な言葉を付加し、自分の男らしさと冷たい勇気がそれによって危険にさらされたと思う。 ――彼らは涙を他人の眼からかくし、自己自身に立腹して、それをぬぐう。それは、同情する人間とは別の種類の利己主義である。――しかし彼らをすぐれた意味で(英訳では in a distinct senseとなっている:引用者)悪いと呼び、 同情する人間をよいと呼ぶことは、時をえているひとつの道徳的な流行にほかならない。 ちょうど反対の流行にも時が、しかも長い時があったように! (ニーチェ『曙光』第133番 茅野良男訳)

ーーさてどうだろうか。おそらく最後のパラグラフにある文には、異議も多いだろう。

すなわち、同情しない人間を《悪いと呼び、 同情する人間をよいと呼ぶことは、時をえているひとつの道徳的な流行にほかならない》。

この文はたとえば『アンチ・キリスト』の次の文と共鳴する。

なんらかの背徳にもまして有害なものは何か? --すべての出来そこないや弱者どもへの同情を実行することーーキリスト教・・・(ニーチェ『反キリスト』)

このニーチェの「危険な」思考はここでは脇にやるとすれば、それ以外の箇所は、同情のメカニズムについてのとてもすぐれた叙述として読むことができる。

それは、惻隠の情なるものを、なんの思慮もなく人間の本性だと信じこみ、《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》にならないためにーー。

たとえば、谷川俊太郎の次の詩は、上の『曙光』第133番の前半箇所の心の動きをたくみに表現しているといってよいのではないか。


見も知らぬ奴がいきなりヘドを吐きながら
きみに向かって倒れかかってきたら
きみはそいつを抱きとめられるかい
つまりシャツについたヘドを拭きとる前にさ

ぼくは抱きとめるだろうけど
抱きとめた瞬間に抱きとめた自分を
ガクブチに入れて眺めちまうだろうな
他人より先に批評するために
(……)

――谷川俊太郎『夜中に台所でばくはきみに話しかけたかった』より


…………

最後にフロイトに戻って問えば、同情する人間と同情しない人間の対比ではなく、どんな場合に、ひとは同一化して同情心をもつようにのか、同一化しない場合はどんな場合か、と問うべきなのだ。

ジジェク) リオ・デ・ジャネイロのような都市には何千というホームレスの子供がちがいます。私が友人の車で講演会場に向っていたところ、私たちの前の車がそういう子供をはねたのです。私は死んで横たわった子供を見ました。ところが、私の友人はいたって平然としている。同じ人間が死んだと感じているようには見えない。「連中はウサギみたいなもので、このごろはああいうのをひっかけずに運転もできないくらいだよ。それにしても、警察はいつになったら死体を片づけに来るんだ?」と言うのです。左翼を自認している私の友人がですよ。要するに、そこには別々の二つの世界があるのです。海側には豊かな市街地がある。他方、山の手には極貧のスラムが広がっており、警察さえほとんど立ち入ることがなく、恒常的な非常事態のもとにある。そして、市街地の人々は、山の手から貧民が押し寄せてくるのを絶えず恐れているわけです。……

浅田彰) こうしてみてくると、現代世界のもっとも鋭い矛盾は、資本主義システムの「内部」と「外部」の境界線上に見出されると考えられますね。

ジジェク)まさにその通りです。だれが「内部」に入り、だれが「外部」に排除されるかをめぐって熾烈な闘争が展開されているのです。(浅田彰「スラヴォイ・ジジェクとの対話」1993.3『SAPIO』初出『「歴史の終わり」と世紀末の世界』所収)


われわれは今この瞬間にも、世界の「外部」に排除されつつある人たちを、路上に転がるウサギのように扱っている。


※続く→「トラウマ患者の「暴力」性