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2018年9月18日火曜日

「欠如の欠如」と「穴」

不気味なもの Unheimlich とは、…欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre l962)
欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。(Lacan、AE573、1976)

⋯⋯⋯⋯

欠如の欠如という不気味な刻限」に引き続く。

以下も、最初のジュパンチッチ以外は、前回と同様に以前に訳したもの。


◆アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、REVERSALS OF NOTHING: THE CASE OF THE SNEEZING CORPSE, 2005

ラカンの「欠如の欠如 Le manque du manque 」は、(現実界としての)対象aの概念に包含されるものである。その理由で、《不安は対象なきものではない l'angoisse n'est pas sans objet》(S10, 6 Mars l963)

「不気味なもの」の側に位置する「欠如の欠如」という定式を具体的に示すために、ひとつの事例を取り上げよう。毟り取られた眼のイメージである。…

このイメージの不気味な側面を分析するとき、人は通常、二つの事態を指摘するだろう。

①眼の代わりに、二つの空洞が顔のなかで大きく開いている。
②身体から引き離された眼自体は、幽霊のような不可能な対象として現れる。

第一の点について、人は空洞が怖ろしいのは欠如のせいだと想定しがちである。不定形の深淵へと引き込む空虚が恐いと。だが本当の幽霊的なものとはむしろ逆ではないだろうか?

すなわち無限の奈落、主体性の測り知れない底無しの側面への裂開をーー想像的水準でーー常に暗示するあの眼(人間の魂への開口として捉えられる眼)、その眼の代わりにある穴は、あまりに深みのない、あまりに限定されたものであり、眼の底はあまりに可視的で近くにありすぎる。

ゆえに怖ろしいものは、たんに欠如の顕現ではない。むしろ《欠如が欠けている manque vient à manquer》ことである。すなわち、欠如自体が取り除かれている。欠如はその支えを喪失している。人は言いうる、欠如はその象徴的あるいは想像的支えを喪失したとき「たんなる穴」、つまり対象になると。それは無である。文字通り見られうるものとして居残った無である。

同時に、いったん眼が眼窩から除かれたとき、それは即座に変容する、魂への開口から全く逆の過剰な「おぞましいもの abject」の開口へと。この意味で、毟り取られた眼は、絶対的な「剰余」である。それは、プラスとマイナス、欠如とその補填の象徴的経済のなかに再刻印されえない剰余である。
…ラカンは主張している、「去勢コンプレクス」は不安を分析するための最後の一歩ではないと。去勢コンプレクスは、フロイトの分析とホフマンの砂男における「不気味なもの」の分析の核であったが。ラカン曰く、もっと根源的な「原欠如」、現実界のなかの欠如、《主体のなかに刻印されている構造的罅割れ vice de structure》があると。…

ラカンがフロイトを超えて進んでいった点は、去勢不安を退けた点にあるのではなく、テーブルをひっくり返した点にある。ラカンの主張は、不安の底には、去勢恐怖や去勢脅威ではなく、「去勢自体を喪う恐怖あるいは脅威」である。すなわち「欠如という象徴的支えを喪う」恐怖あるいは脅威である、ーー象徴的支えは去勢コンプレクスによって提供されているーー。これがラカンの不安の定式、《欠如が欠けている manque vient à manquer》が最終的に目指すものである。

不安の核心は「去勢不安」ではない。そうではなく、支えを喪う不安である。主体(そして主体の欲望)が象徴構造としての去勢のなかに持っている支えを喪う不安、これが核心である。この支えの喪失が幽霊的な対象の顕現をもたらす。その対象を通して、現実界のなかの欠如は、絶対的「過剰性」として象徴界のなかに現前する。この幽霊的対象は、「欲望の対象」を駆逐し、その場処に「欲望の原因」を顕現させる。(アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、REVERSALS OF NOTHING: THE CASE OF THE SNEEZING CORPSE, 2005、PDF)


◆ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, pdfより

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller, 6 juin 2001)
ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如 manque と穴 trou とのあいだの相違が導入されなければならない。欠如は空間的であり、空間内部の空虚 vide を示す。他方、穴はより根源的であり、空間の秩序自体が崩壊する点を示す(物理学のブッラクホール trou noir におけるように)。ここには欲望と欲動とのあいだの相違がある。欲望はその構成的欠如に基づいている。他方、欲動は穴の廻り・存在の秩序になかの裂目の廻りを循環する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)


◆ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009

袋小路はしばしば誤った前提の結果である。…フロイトによる「ペニス羨望」の議論、つまり少女が母から身を翻して父へと移行する動機としてペニス羨望を主張したとき、彼は常に数多くの他の動機に言及している。それらは通常、ポストフロイト派の議論において無視されてしまっているが。

核心は、受動的なポジションから能動的なポジションへの移行である。我々はこう言うことさえできる、他者の対象であることから主体性への移行だと。どんな「ペニス羨望」や「去勢不安」より前に、子供--少女だけではなく少年も含んだどの子供も、母との関係における受動的なポジションから離れて、能動的ポジションに移行しようと試みる。

私はこの移行に、はるかに重要な基本的動機を認める。すなわち、最初の母子関係において、子供は身体的未発達のため、必然的に最初の大他者の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体として主体性のための障害である。

平明な言い方をすれば、子供と彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者関係-想像的関係性の典型であり、ラカンが鏡像理論にて描写した状況である。

そのときの基本的動因は、不安である。これは去勢不安でさえない。「原不安 primal anxiety」は母(あるいは最初の養育者)に向けられた二者関係にかかわる。無力な幼児は母を必要とする。ゆえに、明らかに「分離不安 separation anxiety 」である。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かない筈のその対応物を認知していた。すなわち母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを「分離不安」とは別に、もう一つの原不安としての「融合不安 fusion anxiety 」と呼んでみよう。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。それにもかかわらず彼の論証過程において、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このようにフロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(elaboration)とさえ言いうる。原不安は、二つの対立する形態を取る。すなわち、他者が必要とされる時そこにいない不安(分離不安)、他者が過剰にそこにいる不安(融合不安)である。 (ポール・バーハウ 2009, PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains)

ーーポール・バーハウは2011年の講義では、融合不安を「侵入不安 intrusion anxiety」と言い換えている。これは、母なる大他者に侵入されて融合する(呑み込まれる)不安とともに、自らの身体の欲動に侵入されて圧倒される不安という意味の二つがあって、「侵入不安」は「融合不安」よりも広い意味合いがある。

ちなみに、自らの身体の欲動といっても、ラカンの定義上は、身体は大他者であったり、異者としての身体であったり、女であったりする。

大他者は身体である。 L'Autre …c'est le corps! (ラカン、S14,10 Mai 1967)
我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger (ラカン、S23、11 Mai 1976)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)






2018年9月17日月曜日

欠如の欠如という不気味な刻限

以下、数年前訳した粗訳だが、わずかばかりの訳語変更をするのみで、ロレンゾ・チーサによるによる「根本幻想とその彼岸」の注釈を掲げる(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)。

1976年生まれの彼は、「若きラカニアンの新しい世代のリーダー the leader of a new generation of ‘young Lacanians」(wiki)ともされる人物で、アガンペンの英訳者としても名高い。

31歳のときに(2007年)出版された『主体性と他者性 Subjectivity and Othernes』は、韓国語(2012)、中国語 (2017)にも翻訳されている。ジジェクは、まだロレンゾが20代のときに絶賛して紹介している。


以下に掲げる箇所に《欠如のシニフィアン S(Ⱥ)》との記述があり、そこだけはいくらか不満である(現在の主流ラカン派におけるように、穴のシニフィアンS(Ⱥ)とすべきである)。《大他者のなかの穴 trou dans l'Autre》(ミレール、2007)のシニフィアンと。

S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)

もっともミレール自身、ときに欠如という語を使っているので大きく拘る必要はない。

Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)


なにはともあれ、わたくしの理解の範囲では、そして知りうる限りでの、最もすぐれて精緻な根本幻想にかかわる対象a とȺ のロレンゾによる記述である。

ーーこの文は、五種類の対象aについての記述の後に引き続いてある(参照:「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」)。



【主体は大他者の欲望の対象aとは何?】
主体は大他者の欲望の対象a である、そしてこの条件は究極的には主体自身の幻想的欲望の核と見なされるべきだとラカンが言うとき、その正確な意味は何なのだろうか?

ラカンはセミネールX にて、根本幻想を《窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre》として明瞭に叙述している。この《馬鹿げたテクニックTechnique absurde》は、まさに《人が窓から見るものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtre》こと、斜線を引かれた大他者・大他者のなかの欠如Ⱥ を見ないことにある、と。


【分身と対象a】
(……)我々は既に吟味した。子どもが大他者が斜線を引かれていることȺ を悟るずっと前に、彼は欲求不満の象徴的弁証法のなかに入り込む仕方を。すなわち始まりには、原象徴化の窓がある。それはエディプス・コンプレックスの最初の段階である。次にエディプスコンプレックスの第二段階の初めに、窓は深淵を枠組みしていることに子どもは気づく。彼は窓から容易に落ちる(母に呑み込まれる)かもしれない。したがって絵によって描写された光景は、深淵を覆い隠す機能を持っている。

さらに重要なのは、ラカンはセミネールX にて、そのような「防衛的」光景は、異なった諸主体にてどんな個別の特徴があろうとも常に、「分身」としての他者の非鏡像的 unspecularizable イマージュの肖像を描くことを暗に示している。言い換えれば、根本幻想のなかで、想像的他者は「欠如していないイマージュnonlacking image」として「見られる(観察される)」。このイマージュとは、主体から去勢され喪われた部分対象を所有している。したがって「分身」とは i′(a) + a、想像的他者プラス対象a である。

これが殊更はっきりと現れるのは、フロイトの名高い症例狼男においてである。ラカン曰く、彼の反復される夢は我々に《その構造のなかでヴェールを剥ぎ取られた純粋幻想 le fantasme pur dévoilé dans sa structure》の見事な事例を提供すると。窓が開かれ、狼たちが樹上に止まって患者を見詰める、彼自身の眼差しで(狼男自身の身体の非鏡像的残余にて)。ラカンはまたホフマンの『砂男』の物語において同様の光景に言及する。人形オリンピアは学生ナターニエルの目によってのみ完成されうる、と。


【ファルス化された対象aの機能】
これらの事例が示しているのは、喪われた部分対象a ・まずなによりもファルス化された眼差しは、いかに大他者のなかの空虚ーーȺとしての純粋欲望ーーを覆い隠すものかであり、それがいかに無意識の根本幻想のなかで「分身」として現れるかということである。幻想のなかで、私は私たち自身を大他者のファルス化された欲望として見る。私は私自身を大他者のなかに見る、彼のリアルな欲望のなかに「崩れ落ちる」ことのないように。

したがって、もはや大他者の欲望としての主体の欲望について語るのは十分でない。我々がここでより明確に次のことを取り扱っている限り。《大他者のなかの欲望…私の欲望は空洞のなかに入り込む、私であるところの対象の形式(偽装)のなかにある空洞に。désir dans l'Autre…mon désir entre dans l'antre où il est attendu de toute éternité sous la forme de l'objet que je suis》(S.10)

ゆえに最も純粋には、私の幻想的欲望(防衛としての欲望)の対象は「私が私自身、対象である」という事態のなかの大他者の欲望である。これが説明するのは、なぜ幻想はーーシンプルに二次的同一化と個体化をもたらすものにも拘わらずーー本質的には《根源的脱主体化 désubjectivation en tout cas radicale》を基盤とした構造であるかということである。それは《主体が観客、単純には目の状態へと還元される le sujet n'est plus là que comme une sorte de spectateur réduit à l'état de spectateur, ou simplement d'œil》(S.4)ことによる脱主体化である。

この引用を解釈するとき、(観客の)個人化された行為としての視覚のようなものと我々はうっかりと考えてしまう危険を避けねばならない。ちょうど今、上に事例にて叙述したように、幻想はむしろ「相互受動的 interpassive」光景であり、そこでは人は「分身」のなかに位置する喪われた部分対象としての「彼の」眼差しによって「自分自身が見られる」。

この文脈においてのみ、我々はセミネールX にて提供された幻想の謎めいた定義を理解しうる、《私は言おう、a という$ の欲望 ・幻想の式 $ ◊ a は、この展望のなかで次のように翻訳しうる je dirai que $ désir de (a), $ ◊ a formule du fantasme, ça peut se traduire, dans cette perspective 》、すなわち《大他者は姿を消してゆく、気絶する、私がそうであるところの対象の前で。私が己自身を見ることから差し引かれものの前で。 l'Autre s'évanouisse, se pâme, dirais-je, devant cet objet que je suis, déduction faite de ce que je me vois 》(S.10)


【リアルな対象aとは?】 
疑いもなく、幻想の視覚的な相互受動性において姿を消してゆくのは、リアルな欠如としての大他者の欲望・リアルな対象a(= Ⱥ)である。したがってラカンは次のように言うことができる、(神経症的)幻想のなかの対象a の想像化は、主体を不安から防御する、《[想像的] 対象a がまがいもの postiche である限りにおいて》。

しかしながら同時にーー私は既に凍りついた恐怖映画の例にて描写したがーー「枠組みを嵌める framing」不安、《寄る辺なさHilflosigkeit を越えた最初の治療 le premier recours au-delà de l'Hilflosigkeit》であるところのものにおいて、根本幻想はまた、無意識の水準において、不安の現実界を効力化する、《それは敵対性自体の(主体の)構成である c'est la constitution de l'hostile comme tel》。フロイトが名付けた性的 erogenen マゾヒズム、ラカンが享楽 jouissanceと名付け直したものの誕生である。


【三つの不安】
したがって我々は、不安の三つの論理的時間をーー対象a と根本幻想に相対してーー区別すべきである。

① エディプス・コンプレックスの第二段階の開始における、前幻想的な「窓から首を出すこと leaning out of the window 」、リアルな対象a としての母なる大他者の欲望とのカオス的遭遇ーーそれは根本幻想の形成になかでそのカオスの鎮静後にのみ、それ自体として感知されるリアルな対象a(= Ⱥ)である。

ここにある不安は、ラカン曰く《何かの予兆 pressentiment de quelque chose》である。しかしまた全ての(象徴的)偽りの感情に先立つ《前感情« pré » du sentiment》・《おどろおどろしい確実性 affreuse certitude》(S.10)である。そしてそれに対する反応は、最初の疑念「母なる大他者は何を欲しているのか」を形成する。

この最初の意味で、《(構造化されていない)不安は鋭い切り傷 L'angoisse c'est cette coupure même》・Ⱥの原初的出現であり、それなしでは、リアルのなかのシニフィアンの現前・その機能・その登場・その徴は考えられもしない 《sans laquelle la présence du signifiant, son fonctionnement, son entrée, son sillon dans le réel est impensable.》(S.10)。

② 対象a の想像化による根本幻想の絵のなかの《不安の枠組み化 encadrement de l'angoisse》(S.10)。ここで敵対性 l'hostile は《飼い馴らされ、懐柔され、受け入れられる amadoué, apaisé, admis》。そして客 l'hôte になる。しかしながら、母なる大他者の欲望によって生み出された不安に枠を嵌めるために、主体は去勢されて大他者のなかの対象として現われなければならない。そして《これは堪え難いものである c'est là ce qui est intolérable 》。言い換えれば、この観点からは、幻想のなかで根本的に抑圧されるものは、主体の非自律性 la non-autonomie du sujet の顕現である。(……)

③ 厳密な意味での不安、それは、幻想のなかで不安に枠を嵌める責を負う欠如のシニフィアン S(Ⱥ)自体が喪われているときに起こる不安である。すなわち、(幻想の彼岸にある)大他者のリアルな欲望の過剰な近接性のせいで去勢 (−ϕ)が宙吊りにされたときに起こる。これは、自己意識のなかで《欠如自体が欠けている le manque vient à manquer》(S.10)不気味な刻限 uncanny moment に他ならない。

《不気味なもの Unheimlich とは、…欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。》(ラカン、S10「不安」、28 Novembre l962)

《欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。》(Lacan、1976、 AE573)




【欠如の欠如(欠如のポジ)という自己喪失】
疑いもなく、要求の通時的次元は、アガルマという換喩の空虚の場によって特徴づけられる。すなわち欠如は想像的自己意識のなかに現前している。しかしながらこれは、我々が通常この欠如のイマージュをもっていることを全く含意しない。

不安が出現するのは、まさに主体が「ポジティブな positive」欠如のイマージュを得たときである、《C'est ce surgissement du manque, sous une forme positive, qui est source de l'angoisse.》--すなわち「窓」が、主体の鏡像的投影によって隠された空虚に向かって開かれたときであるーー、そしてアガルマ、鏡像の彼岸にある《我々がいる場の不在 l'absence où nous sommes》は、このようにしてその真の特性のなかで曝露される。すなわち、《どこか別の場にある現前 présence ailleurs》、《一ポンドの肉 la livre de chair》、私があるところの部分対象、私の幻想のなかの大他者の欲望にとっての部分対象(欠如のイマージュ)である。したがって不安とは、部分対象の束の間の浮上・主体自身の目にて主体を眼差す分身の出現に相当する。

言い換えれば不安とは、自己意識のなかでの私自身の幻想の「消滅の顕現 appearance of the disappearance 」であり、私の存在は大他者の幻想的対象以外の何ものでもないという堪え難さの顕現である。したがって、幻想の「意識的」顕現は、必然的に幻想の消滅と合致する。そしてそれに伴い自己意識の喪失をもたらす。

ここで強調すべき重要なことは、不安とは消滅のなかで経験された「感情 sentiment」ではないことだ。そうではなく、消滅する危険を上演する信号signalである。すなわち大他者に呑み込まれる危険の上演の信号。絶対的な脱主体化でありうるものの一時的な顕現……。

須臾の間、原初に部分対象a の喪失を引き起こした大他者Ⱥのリアルな欲望が部分対象とともに顕れる。須臾の間、対象a は同時に、欲望の対象であり欲望の原因である両方のものとして感知される。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)

2018年2月19日月曜日

三種類の原抑圧

「三種類の原抑圧」をめぐってだが、その前に先ず、二種類の原抑圧について簡略に記す(おおむねいまだ一種類の、父性隠喩としての原抑圧しか認知されていない)。

⋯⋯⋯⋯

幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧(のようなもの)がある、と私は理解している。

À partir du moment où il parle, eh ben… à partir de ce moment là, très exactement, pas avant …je comprends qu'il y ait du refoulement. (ラカン、S20、13 Février 1973)

ここでラカンが抑圧と言っているのは原抑圧であり、父性隠喩とは関係がない。

これは現在若きラカン派のリーダーと呼ばれているロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa が10年前、明晰に指摘している(彼が31才のときの著作である。もともとジジェクがロレンゾ20代半ばのときに彼の論文を紹介して名が知れるようになった)。

父性隠喩の出現以前に、言語は(非統合的 nonsyntagmatic 換喩として)既に子供の要求を疎外するーーしたがって、また何らかの形で抑圧されるーー。しかし、無意識も自己意識もいまだ完全には構造化されていない。原抑圧は、エディプスコンプレックスの崩壊を通 してのみ、遡及的(事後的)に、実質上抑圧される。

(……)結局、我々は認めなければならない、ラカンは我々に二つの異なった原抑圧概念を提供していることを。広義に言えば、原抑圧は、原初のフリュストラシオン(欲求不満)ーー 「エディプスコンプレックスの三つの時」Les trois temps du complexe d'Oedipe の最初の段階の始まりーーの帰結である。《原抑圧は、欲求が要求のなかに分節化された時の、欲望の疎外に相当する》(E690:摘要)。明瞭化のために、我々はこの種の原抑圧を刻印 inscription と呼びうる。

他方、厳密な意味での原抑圧は、無意識の遡及的形成に相当する。それは(意識的自我の統合に随伴して)、エディプスコンプレックスの第三の段階の最後に、父性隠喩によって制定される。この意味での原抑圧は、トラウマ的原シニフィアン「母の欲望」の抑圧と、根本 幻想の形成化に相当する。(ロレンゾ・チーサ2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

このところ何度か示している次の図の左側二つは、このロレンゾ文の図式化としても読める。




この図の S(Ⱥ)とは「母の欲望」にかかわるマテームである(参照:「母の法と父の法(父の諸名)」)。

ラカンによれば、〈母の欲望〉を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における (子供の)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィ アン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。すなわち、子供が、要求のなかで、彼の欲求を表明し、要求が想像的シニフィアンを創造すれば、子供は抑圧をこうむる。 (同、ロレンゾ・チーサ2007)

したがって上の図の左端、S(Ⱥ)/Ⱥが一次原抑圧、真ん中のS1/S(Ⱥ)が二次原抑圧である(右端は、第二次原抑圧を経ての、幻想の式$ ◊ a である[($ → S1 → S2 → a)])。

二次原抑圧とは、古典的ラカンにおいては次の通り。

想定されたフロイトの法、エディプス⋯⋯。それは、初期ラカンが法へと作り上げたものだ。すなわち「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 la jouissance du corpsは飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる、( JACQUES-ALAIN MILLER, L'Autre sans Autre, 2013)

他方、ジャック=アラン・ミレールの用語「一般化排除」は、S(Ⱥ)/Ⱥにおける一次原抑圧にかかわる(ミレールは「一般化排除」=穴Ⱥとしている)。

直近のJean-Claude Maleval の注釈では次の通り。

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。

Tout un chacun est obligé d'inventer ce qu'il peut, standard ou pas, universel ou particulier, pour parer au trou de la forclusion généralisée. (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité, 2018、PDF)

一般化排除の穴 trou de la forclusion généraliséeとは何か。《「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de La/ femme》による穴Ⱥである。

すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose. (LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert 、2018)

そして二次原抑圧の段階では、上にあるように精神病の場合、「父の名」のシニフィアンS1の「排除」があり、神経症では「父の名」の導入をへて、幻想の式に向かう。

こうして二種類の原抑圧があることが判明する。

向井雅明氏の2010年の注釈では、言葉遣いは異なるが、この二種類の原抑圧を示している。

……注目すべき点は、私たちが通常の知覚を獲得したり、シニフィアンを使用して言語的表象行うことができたりするようになるには、ばらばらの印象から一つのまとまったイメージへの移行と、イメージからシニフィアン的構造化への移行という二つの翻訳過程、二つの契機を経なければならないという論理だ。一般的にラカン理論では二番目の移行に相当する原抑圧、もしくは父性隠喩の作用による世界のファルス化という唯一の過程のみで心的装置の成立をかんがえる傾向にあるが、たとえば精神病を父の名の排除という機制だけで捉えることは、精神病者においても言語による構造化はなされているという事実をはっきりと捉えられなくなってしまう。心的装置の成立過程に二つの大きな契機があるとかんがえると、主体的構造の把握がより合理的に行われるように思われる。(向井雅明『自閉症と身体』2010、PDF)

ーーラカン派プロパである向井氏でも2010年になってようやくこの認識に達しているのである。巷間のラカン派プロパでない、旧来の先入主に囚われたままの「評論家たち」・「学者たち」はおおむね、 いまだ《父性隠喩の作用による世界のファルス化という唯一の過程のみ》しか視野に入れずに、原抑圧をめぐって「破廉恥な寝言」を繰り返している。

以上、ようするに次の通り。




ラカン自身による穴Ⱥをめぐる発言をいくらか抜き出しておこう。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou dans le Réel ために何かを発明する inventons のだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。 (ラカン、S21、19 Février 1974 )
穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

最後の文が一次原抑圧にかかわる表現である。

⋯⋯⋯⋯

 ところで、ラカンはこの一次原抑圧に先立つ原抑圧、「出産外傷」に相当する原抑圧を語っている。ここでは仮に「ゼロ原抑圧」と名付けよう。

セミネール11には、《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》とされ、一方の欠如は《主体の到来 l'avènement du sujet 》によるもの、つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢にかかわる欠如としている。そして、《この欠如は別の欠如を覆うになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》と。

この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》であり、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された欠如のこととある。

続いて同じ内容を重ねて強調している。このリアルな欠如は、生存在が性的な形で再生産された時に、己れ自身の部分として喪失した欠如である、と。《Ce manque c'est ce que le vivant perd de sa part de vivant : - à être ce vivant qui se reproduit par la voie sexuée》

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11、20 Mai 1964)

さらに後年(1975年)、ラカンはほぼこの胎盤の喪失と同じ考え方として捉えられるだろうことを原抑圧の用語を使って語っている。

・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。

・欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。

・臍とは聖痕である。l'ombilic est un stigmate

・臍とは身体の結び目 nœud corporelである。この結び目…注目すべき期間ーー九ヶ月のあいだーー生の伝達に奉仕し、その後(永遠に)閉じられる。

これが結び目と空洞とのあいだのアナロジー analogie entre ce nœud et l'orifice である。こうして洞は仕上げられる。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

これはほぼ出産外傷に相当する考え方である。

フロイト自身は、臨床的には出産外傷への対応に否定的ではあったが、フロイトもこの出産外傷を原抑圧という用語を使って語っている。

オットー・ランクは出生という行為は、一般に母にたいする(個体の)「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出生外傷 Geburtsakt こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。この仕事のためには、わずかに二、三ヵ月しか要しないはずである。ランクの見解が大胆で才気あるものであるという点には反対はあるまい。けれどもそれは、批判的な検討に耐えられるものではなかった。(……)

このランクの意図を実際の症例に実施してみてどんな成果があげられたか、それについてわれわれは多くを耳にしていない。おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すことだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

原初にあるのは母胎内での母子融合であり、究極のエロスあるいは原エロスと名付けうる。

エロス Eros は接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

こうして次のように図示できるはずである。



この図は発達段階的に記しているが、もちろんフロイトの「遡及性 Nachträglichkeit」概念、ラカンの言い方なら、《原初 primaire は最初 premier ではない》(S20)を視野に入れて読まなければならない。

最も簡潔に言えば、

潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan)

さて上の図を、下部から上部へという形で図示し直せば、次のようになる。



そして肝腎なのは、一次原抑圧と二次原抑圧のあいだに、いまだ父性隠喩には至っていないが何らかの意味作用を生み出す原「徴示システム système signifiant」としての「最小限の縫合 la conjonction minimale」( S3、11 Avril 1956)点があるということである。

この縫合点は父性隠喩以前の「父の名」のようなものである。ゆえにジャック=アラン・ミレールはーーいささか挑発的にーー次のように言い放っている。

精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰な現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013、PDF)

これは巷間の寝言派の諸君、目を醒ませ! ということでもあるだろう。

なにはともあれ、父性隠喩のみの原抑圧しか考慮していないというのは、徹底的にバカ気ているのであって、仏ラカン派女流分析家の第一人者コレット・ソレールもーー今ここで記している文脈とはやや異なるがーー次のように他のラカン派分析家たちを嘲罵している。

わたしたちは見ることができます。他の分析家たちは、欲望を生み出すために、去勢不安にかかわる父が必要不可欠だという前提から始めて、精神病は欲望を締め出す la psychose excluait le désir、不安さえvoire l'angoisse 締め出すと結論しているのを。

しかし精神病の最も典型的人物像を観察したら、彼らが欲望を欠如させているなどという結論をどうやって支持しうるというのでしょう? むしろ欲望概念の見直しが必要なのです。(Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », 25/10/2013)

⋯⋯⋯⋯

※付記

フロイトは1926年の段階では出産外傷について次のように記している。

……もっとも早期のものと思われる抑圧は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合は根元的な当初の危険状況に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)外傷性戦争神経症という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ラカンのラメラ lamelle 神話も出産外傷にかかわる。ラメラは比較的よく知られているはずなので、ここでは引用ははぶくが、ラメラ(薄片)、それは《性的生物がその性において喪ってしまったものとの関係 rapport avec ce que l’être sexué perd dans la sexualité》(ラカン、S11)にかかわる。

ここでポール・バーハウの注釈を掲げておこう。

セミネール11においては、性的存在としての個人は、永遠の生の喪失を意味する(ラメラ神話を見よ)。…しかしセミネール17では享楽の喪失を齎すのはシニフィアンの導入である。これは一見、以前の立場の取り消しのように見える。だが私の読解では、それは正しくない。シニフィアンによって齎された喪失は、性的生の導入によって齎された喪失に上に覆い被さるのである。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe , Enjoyment and Impossibility、2006)


さらに中井久夫の出産外傷をめぐる叙述を掲げる。

幼児の世界は悲惨であるという考えと至福であるという考えとが、精神分析学者のあいだで対立している。前者の代表はラカン、サリヴァンであり、出産外傷を重視する人たちもそれに属する。後者にはわが土居建朗やバリントが挙げられる。これは、その人の自己史の主観的な回想によるところもあるのだろうが、いずれにせよ、幼児期は成人言語以前であるから決定的なことはいえないとされている。

「断続平衡論的発達観」にもとづけば最初の大きな断続=飛躍は出産である。この新しい世界の分節化に対応して空間開拓が開始される。それは、外界の開拓でもあるが、自己身体の空間開拓でもあり、心理的空間の開拓でもある。さらに時間の空間化・分節化もはじまる。これには内的なリズムと、それに応じた母親役の対応によって進行する。空間の開拓は日本の哲学者坂部恵、市川浩らが「みわけ」「ことわけ」として強調するように世界の分節化である。これと関連し並行的に進む過程があり、それは「名付け」naming である。「名付けること」によって、それ以前の混沌としたマトリックス的な世界の中にただよっているものが区分され明確となる。この過程をバリントは「物質」matter から「対象」object への移行と述べている。ここで「基盤」としてのマトリックス(語源的に「母」である)がなければ、空間開拓もありえないことを付言しておこう。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

「名付け」とあるが、これはラカン的には「父の諸名」のことである。

父の諸名 les Noms-du-père 、それは何かの物を名付ける nomment quelque chose という点での最初の諸名 les noms premiers のことである、(LACAN 、S22,. 11 Mars 1975)

2017年3月16日木曜日

二種類の超自我と原抑圧

【曖昧なままの原抑圧・超自我】
フロイト・ラカンの両者とも、原抑圧 Urverdrängung 概念ーーすなわちいかに無意識が最初に生じるのかーーについて率直に議論することにひどく気の進まない様子である。(ロレンツォ・キエーザ2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)
ラカンの教えにおいて「超自我」は謎である。「自我」の批評はとてもよく知られた核心がある一方で、「超自我」の機能についての教えには同等のものは何もない。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez, 1996、PDF)

ラカンは1973年に次のように言っている。

フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていません Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではないのです。

とはいえ、そこから経験へと出発するという考えがフロイトに浮かんだのはまったく自然なことです-この経験とは、分析的ディスクールのなかで定義されるものをいいます。結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初である le refoulement originaire était premier いう考えに傾いていったのです。総体的に言うと、それが第二の局所論の大きな変化です。フロイトが超自我の性格だと言う大食漢 La gourmandise dont il dénote le surmoi は構造的なものであって、文明の結果ではありません。それは「文化の中の居心地の悪さ(症状)« malaise (symptôme) dans la civilisation »」なのです。

ですから抑圧が禁圧を生みだすのだということから試練に立ち戻ることが必要なのです。De sorte qu'il y a lieu de revenir sur l'épreuve, à partir de ce que ce soit le refoulement qui produise la répression. どうして、家族や社会そのものが、抑圧から構築されるべき創造物ではないということがあるでしょうか。まさにそのとおりなのですが、それは無意識が構造、つまり言語によって外-在し、動機づけられることによって可能なのでしょう。(ラカン、テレビジョン、向井雅明試訳、1973、一部変更)



【二種類の原抑圧】

超自我は原抑圧に由来する。おそらくそれは間違いない。だがフロイト派もラカン派も明瞭にそのことを指摘している人は(わたくしの知る限り)いない。その理由は上に見たように、フロイト・ラカン自身が最後まで曖昧なままだった(揺れ動いた)せいだろう。

さらに厄介なのは、ラカンによる原抑圧解釈には二種類あるように見えることだ。

ラカンにとって、言語は無意識に先行する。より具体的に言えば、言語は無意識の完全な構造化に先行する。というのは、どんな隠喩的置換もなしに個人において、原抑圧ーー最初の泣き叫び・音素・言葉の換喩的発声ーーが起こるから。Laplanche とは異なり、ラカンは、本源的なelementary シニフィアン を考えた。その原シニフィアンとは、たんに対立的カップルとしてのシニフィアンでありーー母の不在によって引き起こされたトラウマの原象徴化の試み、フロイトによって描写されたFort–Da(いないないバア)のようなものーー、充分に分節化された言語と共の、厳密な意味での抑圧の平行的可能性は、エディプスコンプレックスの崩壊によってのみ、引き続いてもたらされる。(…)

父性隠喩の出現以前に、言語は(非統合的 nonsyntagmatic 換喩として)既に子どもの要求を疎外するーーしたがって、また何らかの形で抑圧されるーー。しかし、無意識も自己意識もいまだ完全には構造化されていない。原抑圧は、エディプスコンプレックスの崩壊を通してのみ、遡及的(事後的)に、実質上抑圧される。

(……)結局、我々は認めなければならない、ラカンは我々に二つの異なった原抑圧概念を提供していることを。広義に言えば、原抑圧は、原初のフリュストラシオン(欲求不満)ーー「エディプスコンプレックスの三つの時」Les trois temps du complexe d'Oedipe の最初の段階の始まりーーの帰結である。《原抑圧は、欲求が要求のなかに分節化された時の、欲望の疎外に相当する》(E690:摘要)。明瞭化のために、我々はこの種の原抑圧を刻印 inscription と呼びうる。

他方、厳密な意味での原抑圧は、無意識の遡及的形成に相当する。それは(意識的エゴの統合に随伴して)、エディプスコンプレックスの第三の段階の最後に、父性隠喩によって制定される。この意味での原抑圧は、トラウマ的原シニフィアン「母の欲望」の抑圧と、根本幻想の形成化に相当する。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDFーー原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)


【二種類の超自我】

原抑圧が二種類あるのなら超自我も二種類あると考えられうる。それがラカンにとっての「母なる超自我」と「父なる超自我」なのではないか。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

ここで主流ラカン派の首領ジャック=アラン・ミレールの発言を掲げる(Leonardo S. Rodriguezの論文からの孫引きであり出典不明だが、1995年前後の超自我をめぐる会議でのミレールの発言)。

超自我とは確かに「法」である。しかし鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴・正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「単一」unary のシニフィアンとしての法である。…超自我は、独自のunique シニフィアンから生まれる形跡・パラドックスである。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(……)

「母なる超自我」( surmoi mère) ……思慮を欠いた法としての超自我は、父の名によって隠喩化され支配される以前の「母の欲望」にひどく近似している。超自我は、法なき気まぐれな勝手放題 capricious whim without law としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996,PDF)

【母の法と父の法】

上の文でミレールは「母の法」について語っていると捉えうる。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)

これにより、「父の法」としての超自我と「母の法」としての超自我の二種類があると捉えうる。

ラカンに「父の法 la loi du père」概念はーーわたくしの知る限り--直接にはない。 だが次の文はほぼ「父の名」は「父の法」と言っているようなものである。

父の名のなかに、我々は象徴的機能の支えを認めねばならない。歴史の夜明け以来、父という人物と法の形象とを等価としてきたのだから。(ラカン、ローマ講演、1953)

« C’est dans le nom du père qu’il nous faut reconnaître le support de la fonction symbolique qui, depuis l’orée des temps historiques, identifie sa personne à la figure de la loi. »

ーーもっとも前期ラカンであり、この「父の名」の記述をそのまま取ってはならない。父の名の定義は後に大きく変わっていくが、ここではその側面の注釈を割愛する(いくらかの参照としては、「超越的法/超越論的法」を見よ)。

さて以上から、当面次のような図が書ける(ここでは厳密さを期していない)。



※Ⱥ、S(Ⱥ)、そしてS1についてのいくらかの注釈は「前回の図」を参照のこと。

…………

【資料編】

以下、上記の想定をした基礎となる資料を掲げる。

フロイトにとって、原抑圧の正当的概念化は、メタ心理学的悪夢だった。…

表象が抑圧されるのは、唯一、二つの力が作用するときのみである。すなわち、斥力と引力。難題は後者にある。それはどこから来るのか。ある種の無意識的核・知られていない過程に起源がある「臍」があり、そこからこの引力が発するに違いない。

フロイトは、この無意識的核を生じさせるのは原抑圧の作用であると想定した。しかし「原動因」としてのこの原抑圧は、とても特別なメカニズムを必要とする。なぜなら最初にはどんな引力的核もないから。事実、これが存在するようになるのは原抑圧自体の効果としてでしかあり得ない。したがって唯一可能なメカニズムは、逆備給(カウンター・カセクシス Gegenbesetzung)である。

もし我々が前段で展開した議論に従えば、今の内容を次のように表現しうる。すなわち、「原抑圧は、象徴界にある欠如・現実界が顕現する欠如の境界の上に表象を設立する」と。これが意味するのは、原抑圧は、抑圧というより「固着 fixierung」、事実上「原固着Urfixierung」だということである。つまり現実界の何ものかが、以前の水準に置き残される一方で、最初の展開は「カウンター表象 Gegenvorstellung」として機能する。あたかも穴の周りを循環する洗濯機のように。

驚くことはない、フロイトはこの限定されたメカニズムにあまり満足していなかったことは。1926年に彼は次のように書いている。(ポール・バーハウ1999, DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE, ,PDF)

この後バーハウは、フロイトの『制止、症状、不安』から引用しているが、その引用よりもやや長く引用する。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。こういう抑圧の背景や前提については、ほとんど知られていない。また、抑圧のさいの超自我の役割を、高く評価しすぎるという危険におちいりやすい。この場合、超自我の登場が原抑圧と後期抑圧との区別をつくりだすものかどうかということについても、いまのところ、判断が下せない。いずれにしても、最初のーー最も強力なーー不安の襲来は、超自我の分化の行われる以前に起こる。原抑圧の手近な誘引として、もっともあり得ると思われることは、興奮が強すぎて刺激保護Reizschutzが破綻するというような量的な契機である。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳 P.325、一部変更)

1926年の論文の叙述だが、フロイトはその最晩年まで原抑圧について明瞭なことは言っていない。それは超自我についても同様である。もっとも常に「父」に拘ったフロイトであるにもかかわらず、1923年の『自我とエス』における微妙な表現とともに最晩年の論文にはある種の示唆がある。

まず『自我とエス』には次のようにある。

最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的であり、かつ永続的であるにちがいない。このことは、われわれを自我理想の発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代、すなわち幼年時代における父との同一化である(註)。(フロイト『自我とエス』旧訳p.278、一部変更ーー参照)
註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわち陰茎の欠如に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。……(同『自我とエス』)

そして1939年上梓の論文と死後出版1940年の論文には次のようにある。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
・超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。

・患者が分析家を彼の父(あるいは母)の場に置いた時、彼は自らの超自我が自我に行使する力能を分析家に付与する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


上に引用した『制止、症状、不安』1926年に「刺激保護Reizschutz」という語彙が出現しているので、ここで『快原理の彼方』(1920年)から、刺激保護をめぐる叙述をも抜き出しておく。

……この敏感な皮膜層、すなわち、後のBw体系(意識体系)は、しかしまた、内部からの刺激をも受け入れるのである。内と外との中間に位するこの体系の位置と、二つの側からくる影響にたいする条件の相違は、この体系と心的装置全体の働きを決定するものになる。外部にたいしては刺激保護 Reizschutz があるので、外界からくる興奮量は小規模にしか作用しないであろう。内部にたいしては刺激保護 Reizschutz は不可能なので、深い層の興奮は直接に、またおなじ規模で体系に伝わるのであるが、そのさいに、ある特性をもった興奮の経過が快・不快の感覚の系列をうみだすのである。むろん内部からくる興奮は、その強度と他の質的な特性(たとえばその振幅によって)、外界から流れ込む刺激よりは体系の働き方に適合しているであろう。しかし、この事情によって二つのことが決定的になる。第一に、装置内部の過程の指針である快・不快の感覚が、あらゆる外的刺激にたいして優位に立つこと、第二に、あまり大きな不快の増加をまねくような内的興奮にたいする反応の方向についてである。刺激保護 Reizschutzes の防衛手段を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれてくるであろう。これが病理的過程の原因として、大きな役割が注目されている投射 Projektion の由来である。

私は以上の考察によって、快感原則の支配について理解を深めたと思っているが、しかし、快感原則に矛盾する場合を解明するにはいたっていない。それゆえ、われわれは一歩前進しよう。外部から来て、刺激保護 Reizschutz を突破するほど強力な興奮を、われわれは外傷性 traumatische のものとよぶ。思うに、外傷 Traumas の概念は、平生は有効な刺激阻止にたいする、以上のような関係を含むべきものである。外部からくる外傷のような出来事は、たしかに有機体のエネルギーの運営に大規模な障碍をひき起こし、あらゆる防衛手段を活動させるであろう。しかし、そのさい快感原則は無力にされている。他方、心的装置に充満した巨大な刺激量は、押し戻すことができない。むしろ刺激をとらえて料理し、侵入した刺激量を心理的に拘束し、そのうえでそれを除去するという別個の課題が生れるのである。(フロイト『快感原則の彼方』1920年、p167)

ーーここでフロイトは刺激保護を語るなかでトラウマという語を口にしている。 他方、1926年の論文には、《原抑圧の手近な誘引として、もっともあり得ると思われることは、興奮が強すぎて刺激保護Reizschutzが破綻するというような量的な契機》とあった。

乳幼児は生誕直後は次のような状況にあるのは明らかである。

乳幼児の動因は「興奮」に直面してのサバイバルである。興奮とは、乳児自身の身体内部からソマティックに somatically 湧き起る未分化の undifferentiated 欲動緊張との遭遇として記述しうる。(ポール・バーハウ2009、PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

さてこの欲動興奮を誰が飼い馴らすのであろうか。幼児の欲動の奔馬に最初に鞍を置くのは誰であろうか。それは実はだれもが知っている(参照:サントームSinthome = 原固着Urfixierung →「母の徴」)。

享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印の戯れ jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(ラカン、S17、10 Juin 1970)
フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)

ーーあるいは、「母が行ったり来たりするのは、ありゃ何なんだろ?」を見よ。

…………

「原抑圧」とは、熱心なフロイト読みであったドゥルーズが、1968年に既に指摘しているが、「抑圧」という表現から誤解をもたらしがちである。だが本来は(上に引用したロレンツォやバーハウの叙述にあったように)原固着、原刻印とでも呼ぶべきものである。

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象にかかわる"正式の"抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』私訳)
……そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉un refoulement dit « primaire » と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

事実、フロイトはまだ原抑圧という概念を提出していない1911年に次のように言っている。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②「正式の抑圧(後期抑圧)」の段階は、ーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ既に抑圧の第二段階である。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、抑圧の失敗、侵入、「抑圧されたものの回帰Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてその点へのリビドー的展開の退行を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911、摘要)

いったい誰が欲動を「固着」させるのか。それが父でないのは明らかである。

誘惑者Verführerinはいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933年)
母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版1940、私訳)

…………

いくらか超自我をめぐって調べているなかで、ミレールによるとても過激で示唆溢れる超自我の定義を見出したので、ここにメモしておく。

父の名とは言語である。そしてさらに、超自我とは言語である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi.(ジャック=アラン・ミレール、MILLER Jacques-Alain et Éric Laurent, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthiques, séminaire 96/97)

現在の彼なら、この言語にララング(母の舌語=母語)を含めるだろう。そしてララングによる超自我が「母なる超自我」、言語による超自我が「父なる超自我」として何の奇妙なこともない、とわたくしは思う。

次のGeneviève Morelの叙述は、二つの超自我を考える上で決定的である。

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕 stigmata を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF)
サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)


いや二つというよりも、超自我そのものが父の起源ではなく、母の起源であるとすることさえできるのではないか。そして父の法とは、超自我というよりも基本的には自我理想である。

ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School)
超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)

この父の法(父なる超自我≒自我理想)によって、人は母の法(母なる超自我)から分離しなくてはならないのである。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ここでいささか断定的に記してみよう。

超自我の基盤は「母なる超自我」である。もし父なる超自我に、母なる超自我と同様の《猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」》(ラカン)の側面があるなら、それは父なる超自我が母なる超自我の上を覆っており、その残余が「父なる超自我」の非全体の領域に外立するからである。《現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。》(Paul Verhaeghe、2001ーー基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))



原トラウマ Urtraumaとは 《経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 》(フロイト『制止、症状、不安』) ーーのことである。

超自我は、「父なる超自我 Surmoi paternel」であるどころか、現実界(原トラウマȺ)を仕切る仮面(フロイトの境界表象Grenzvorstellung)、あるいは原超自我 surmoi primordial・原リアルの名 le nom du premier réel・原穴の名 le nom du premier trou としての「母なる超自我 surmoi maternel 」である。

超自我とは、現実界のトラウマ的中核からその昇華によって我々を保護してくれるものであるどころか、超自我そのものが、現実界を仕切る仮面なのである。(ZIZEK"LESS THAN NOTHING、2012ーーー自我理想と超自我の相違(基本版))

以下の文も、ここでの想定の依拠となるわたくしのベースのひとつである。

…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事 un événement de corps」とフロイトが「固着 Fixierung」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根(欲動の根Triebwurzel)である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom"Tel Aviv, 27 January, 2012)

※参照:S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un


…………

【付記】

初期ジジェクの「母なる超自我」をめぐる叙述を掲げておこう。

父親は不在で、父の機能(平和をもたらす法の機能、「父の名」)は中止され、その穴は「非合理的な」母なる超自我によって埋められる。母なる超自我 maternal superego は恣意的で、邪悪で、「正常な」性関係(これは父性隠喩の記号の下でのみ可能である)を妨害する。(……)父性的自我理想 paternal ego-ideal が不十分なために法が獰猛な母なる超自我 ferocious maternal superego へと「退行」し、性的享楽に影響を及ぼす。これは病的ナルシシズムのリピドー構造の決定的特徴である。「母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃欲動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り食う鳥としてあらわれるのである」(Christopher Lasch)(ジジェク『斜めから見る』原著1991年)

ここでジジェクは「父の名」を、父性的自我理想とし、「母なる超自我」を前エディプス的超自我としている。

ポール・バーハウ2004の倒錯臨床をめぐる叙述における「母なる超自我」をもかかげる。

倒錯者の不安は、エディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安としてしばしば解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ2004、Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

この記述からも明らかに、父なる超自我は「エディプス的超自我」、母なる超自我は「前エディプス的超自我」とすることができる。


【追記】

ここまでの記述では、フロイト・ラカンの教えの核心のひとつ「遡及性(事後性)」に触れていないのでここに付記しておく。

潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。(ロレンツォ・キエーザ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)
次のように言うことーー、「エネルギーは、河川の流れのなかに潜在態として、なんらかの形で既にそこにある l'énergie était en quelque sorte déjà là à l'état virtuel dans le courant du fleuve」--それは(精神分析にとって)何も意味していない。

なぜなら、我々に興味をもたせ始めるのは、エネルギーが蓄積された瞬間 moment où elle est accumulée からのみであるから。そして機械(水力発電所 usine hydroélectrique)が作動し始めた瞬間 moment où les machines se sont mises à s'exercer からエネルギーは蓄積される。(ラカン、セミネール4、1956)

ここでは一例としてのみ挙げるが、たとえば S(Ⱥ)あるいは母の法が介入した後、はじめて潜在的リアルとしてのȺが顕在化する。

これがラカンが後に、「原初 primaire は最初 premier のことではない」(S20,「アンコール」)と言った意味である。すなわち原トラウマは、原抑圧(原固着)によって遡及的 rétroactivement に構成されて現勢化する。



2017年3月13日月曜日

母が行ったり来たりするのは、ありゃ何なんだろ?

藝術家たちは自由について語りすぎる。「鳥のように自由に」という言葉を思い出したモートン・フェルドマンは、ある日公園に行って、しばらく鳥たちを見ていた。戻って来ると彼は言った。「知ってるか? 鳥は自由なんかじゃないんだ。エサを奪いあってる。」(ジョン・ケージ)

わたくしは最近ますます、ドゥルーズ&ガタリの「欲望機械」というのはとんでもない「寝言」だと考えるようになった。

ある純粋な流体 un pur fluide à l'état libre が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産の真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織をもたないことを苦しんでいる。いっそ、組織などないほうがいいのだ。こうして過程の最中に、第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる。そこには、「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もないPas de bouche. Pas de Io.Hgue. Pas de dents. Pas de larynx. Pas d'œsophage. Pas d'estomac. Pas de ventre. Pas d'anus. 」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(『アンチ・オイディプス』)

とくに、《ある純粋な流体 un pur fluide à l'état libre が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している》などとはひどく耐え難い。

こういう言葉に踊って来た、そしてなかには今でも踊ろうとしている「現代思想」バカをみると殴ってやりたくなる。そして「オマエ、はやいとこシネよ」と呟くことになる。

こっちのほうがずーっとましである。

・ああ私の頭にはプロレタリアもブルジュアもない。たった一握りの白い握り飯が食べたいのだ。

・金が欲しい。白い御飯にサクサクと歯切れのいい沢庵でもそえて食べたら云う事はありませんのに、貧乏をすると赤ん坊のようになります。(林芙美子『放浪記』)

ま、次の文だって悪くない。

自由とは、究極的に「死を選ぶ自由」以外の何ものでもない。(バゾリーニ)
自由か命か! « La liberté ou la vie » 自由を選ぶなら、即座に両方を失う。命を選ぶなら、自由を剥奪された生がある。

自由とは、選択する自由 la liberté du choix があるのを示すことだ。…それは(究極的に)、死への自由だ c'est la liberté de mourir. (ラカン,S.11)

…………

乳幼児の動因は「興奮」に直面してのサバイバルである。興奮とは、乳児自身の身体内部からソマティックに somatically 湧き起る未分化の undifferentiated 欲動緊張との遭遇として記述しうる。(ポール・バーハウ2009、PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

フロイトの「性的」というシニフィアンは必ずしも通常の意味での「性的」ではない。「欲動的」ということのほうがより正しい。

「欲動」という名のもとにわれわれが理解することができるのは、さしあたり、休むことなく流れている、ソマティックな(体内的な)刺激源 innersomatischen Reizquelle の心的表象のなにもにでもない。(フロイト『性欲論三篇』1905)

以下の文に、「性欲動興奮 Erregung des Sexualtriebes」という言葉が出現するが。最も原初的には「お腹が減った」等の欲求興奮のことである。

私は、『性欲論三篇』中の一章において幼児期性愛 infantilen Sexualität の源泉に関してこう主張した。性的興奮 Sexualerregung は、きわめて数多くの内的事象がある量的限度を越えて強烈なものになるや否や、その副作用として発生する。いやおそらく、有機体中に生起する一切の重要なことは、かならずその構成要素を性欲動興奮 Erregung des Sexualtriebes のために役立たせるような性質を持っているのであろう。したがって、苦痛興奮や不快興奮Schmerz- und Unlusterregung もまたそのような作用をおよぼすにちがいない。苦痛・不快緊張 Schmerz- und Unlustspannung におけるこうした随伴的リピドー興奮 libidinöse Miterregung は後年には枯渇するところの幼児的生理的機制なのではあるまいか。この随伴的リビドー興奮は性的体質の異なるに応じて異なった発達度を持ち、いずれにせよ、のちに心理学的には性愛的マゾヒズム erogener Masochismus というものを作りあげるところの生理学的基盤をなすものではあるまいか。

しかし、この説明には不充分なところがあって、マゾヒズムと、欲動生活の上でその敵対者となっているところのサディズムとの規則的で緊密な関係は、このような説明では少しも明らかにはならない。さらにもう一歩遠く遡って、生物体中にはたらいていると考えられるところの二種類の欲動という仮説にまでたちもどると、われわれは上述のものと矛盾することのない、別の筋道に到達する。

(多細胞)生物のなかでリビドーは、そこでは支配的なものである死の欲動あるいは破壊の欲動 Destruktionstrieb に敵対する。この欲動は、細胞体を崩壊させ、個々一切の有機体を無機的安定状態(たといそれが単に相対的なものであるとしても)へ移行させようとする。リビドーはこの破壊欲動を無害なものにするという課題を持ち、そのため、この欲動の大部分を、ある特殊な器官系すなわち筋肉を用いてすぐさま外部に導き、外界の諸対象へと向かわせる。

それが破壊欲動 Destruktionstrieb とか征服欲動 Bemächtigungstrieb とか権力への意志 Wille zur Macht とかいうものなのであろう。この欲動の一部が直接性愛機能 Sexualfunktion に奉仕させられ、そこである重要な役割を演ずることになる。これが本来のサディズムである。死の欲動の別の一部は外部へと振り向けられることなく、有機体内部に残りとどまって、上記の随伴的性的興奮によってそこにリビドー的に拘束されるlibidinös gebunden。これが原初的な、性愛的マゾヒズムMasochismus zu erkennenである。(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924年)

とはいえ、この文は後期フロイトの核心である別のことも書かれている。

・死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。

・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

《死への道 le chemin vers la mort は、享楽 jouissance と呼ばれるもの以外の何ものでもない。》(ラカン、S.17)

これらはある意味当たり前のことである。

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。

ーービシャ(フーコー『臨床医学の誕生』より)
死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。

ーーリルケ「ドウイノの悲歌」より

ただある種の人たち、そのなかでもとくにある年代層の人たちはほとんど気づいていないだけだ。



安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

《昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。  》(リルケ『マルテの手記』)

 …………

以下、欲動メカニズムとそれにかかわる「母の欲望」と言われるものの標準版解釈を掲げておく。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ラカン派ではこのように語られることが多いが、この「原リアルの名」、「原穴の名」としての母の欲望というのは、簡単にいえば幼児にとって行ったり来たりするわけのわからない存在からもたらされる当惑、あるいは「寄る辺なさ」の感覚のことである。

経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ (フロイト『制止、症状、不安』1926年)

《母が行ったり来たりするのは何なんだろ? Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?》(ラカン、セミネール5)

ようは呼んでもやってこなかったり、呼ばないときにやってくる不気味な存在ーーそれにもかかわらず「生死」にかかわる必要不可欠な存在ーーへの不安感覚である。《(構造化されていない)不安、その鋭い切り傷 L'angoisse c'est cette coupure même》(ラカン、s10)、ーーこれをȺの原初的出現と呼ぶ。

これが我々の原トラウマである。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

ーーこの文に出現する「性関係はない」は、柄谷行人=マルクスの「社会的なもの」に入れ替えても何の問題もない。

フロイトは、世界宗教を「抑圧されたものの回帰」とみなす。私はそれに同意する。しかし、抑圧されたものは「原父」のようなものではなく、いわば「社会的なもの」である。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)

社会的なもの、それは、《無根拠であり非対称的な交換関係》(柄谷『マルクスその可能性の中心』)であり、非対称的なコミュニケーション関係の起源は母子関係である。すなわち、マルクスの「社会的なもの」とは、ラカンの非全体 pas-tout の定義と(ほぼ)等価である(コミュニケーションの「非全体関係」とは、マルクスの社会的なもの、すなわち「社会的非関係」である)。

そして、「非全体pas-tout」とはȺ、あるいは〈女〉のことでもある。

《真理はすでに女である。真理はすべてではない(非全体)のだから。la vérité est femme déjà de n'être pas toute》(Lacan,Télévision,1973,AE540)

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency))

さて以下、母の欲望と欲動機制の標準版解釈。

ラカンによれば、《母の欲望 Désir de la Mère》を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における (子どもの)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィ アン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。(ロレンツォ・キエーザ2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007)
欲動の緊張に対処しようとするなか、子供は、最初の〈他者〉に訴えかける。母はこの訴えかけを要求として解釈するが、それは、彼女自身の部分欲動に向けた自己の立場を元にして、なされる。こうして、自己の欲望を含んだ答えを編みだす。結果として、子供はこの〈他者〉によって現わされたイメージに自己自身を同一化する。すなわち、自己の興奮への応答を受け取るために、〈他者〉の欲望に同一化することになる。

簡単な例をあげよう。子供の泣き叫びは、食べ物への要求として、最初の〈他者〉により解釈される。その結果、子どもは、ただ食べなければならないのではなく、この〈母〉の解釈を元にして、自分自身の興奮を食べ物の欠如として解釈することを余儀なくされる。

この解釈とともに、最初の〈他者〉は彼女自身の欲望を表現するのだが、もし子供は自身の欲動の応答を受け取りたいならば、その〈母〉の欲望に服従しなければならない。他者が子供の欲求に応答する責任をもつという原初的な相互関係と比較して、われわれはここにふたたび驚くべき逆転に出逢う。自己の欠如の応答を得るためには、子供は〈他者〉の欲望に従いつつ、己れの手本にしなければならない。〈他者〉の欲望に同一化しなくてはならないのだ。これ以降、主体は〈他者〉の欲望に応答する責任をもつ。そして主体と〈他者〉の欲望の相違は曖昧になる。すなわち、主体の欲望は〈他者〉の欲望である。

主体は、己のa(対象a)の完全な応答を得る/与えるのを確信するために、母なる他者(m)other を独占したい。だがそのような完全な応答は不可能である。そこにはつねに残余があり、“ Encore”(もっと、またもっと)の必要の切迫がある。“ Drang ”(衝拍、もしくは圧力)は、ドライブ〔欲動の継続〕したままだ。(ポール・バーハウ2005,Paul Verhaeghe、Sexuality in the Formation of the Subject、2005,私訳、PDF)
注)これは、神経症におけるエディプスについてのより大きなラカン理論のなかで、理解されなければならない。ラカンにとって、エディプス構造は、隠喩として機能する。子供に意味される(シニフィエされる signified )最初のシニフィアンは、「母の欲望」にかかわる。それは、子供によって経験された興奮の、母の反応である。この母の欲望に応えるために、子供は、母の欲望に自らを全的に同一化したい。そのことは、自身の応答を、失敗として経験することになる。というのは、母なる他者 (m)other の不在/現前は、謎のままだから。同時に、自分自身の衝動は解決されないままだ。ここにおいて、父の名がゲームに参入する。謎めいた母の欲望への応答として。

父の名の導入は、子供が母の欲望に(あるいは逆に母が子供に)応答しなければならない状況に終止符を打つ。その意味は、解決されない欲動衝動が、ふたたび顕著になるということだ。エディプスの支配は、ファルスのシニフィアンを通して、これらの衝動を象徴化する。結果として、子供は欲望の弁証法に導かれる。ラカンにおいて強調点が置かれるのは、シニフィアンとしてのファルスが、主体による解釈に依拠するという事実である。もし、ファルスが象徴的な形で解釈されたなら、自分自身の欲望の創造が可能となる。逆に主体が想像的ポジション内部に嵌まり込んだままの場合、ファルスを持つ/ファルスになるという反応をもたらす。(同上、バーハウ2005)

2017年2月26日日曜日

形式化の極限における内部崩壊

ぼくが考えたのは、形式体系をそれ自体自己言及的パラドックスに追いやって崩壊させることであり、同じことですが、自己言及的パラドックスを排除して成立している形式体系に、そのようなパラドックスを導入してしまうことです。

形式体系をそれ自体自己言及的パラドックスに追いやって崩壊させることであり、同じことですが、自己言及的パラドックスを排除して成立している形式体系に、そのようなパラドックスを導入してしまうこと(柄谷行人、『批評空間』1996Ⅱー9)

これは柄谷自らが言うようにドゥルーズ的でもあるが、ラカン派的でもある。たぶんある時期の思想家は必然的にこのように考えることを余儀なくされたーー主に構造主義に対抗して考えるためにーーのだろう。

もうすこし長く引用しよう。

柄谷)ぼくは80年代の初めぐらいに形式化ということを考えていて、そのとき案外ドゥルーズのやっていることに近いところにいたという気がする。

ぼくの考えでは、構造主義もその一つですが、形式主義というのもすべて独我論なんです。形式というのは自己そのものを形成するものですが、それ自体は、自己の内省から出発して初めて見出される。独我論を否定するように見える構造主義は、それ自体独我論であることをまぬがれない。

どうすればそこから出られるか。そこでそれぼくが考えたのは、形式体系をそれ自体自己言及的パラドックスに追いやって崩壊させることであり、同じことですが、自己言及的パラドックスを排除して成立している形式体系に、そのようなパラドックスを導入してしまうことです。そこに出てくるものは、まさにドゥルーズがいうリゾーム的多様体です。

そのような形でしか独我論を破壊することはできないと思っていたんだけれども、そのこと自体も独我論だということで(笑)、そのへんからぼくは衰弱してしまった。それから二年ぐらい経って、根本的に態度を変えてしまったというのが、『探求Ⅰ』なんです。だから、その前の段階は、すれ違いにすぎないとはいえ、いちばんドゥルーズに近いところにいたのではないかと思います。

浅田)『意味の論理学』の前半、そして、それを凝縮した、「構造主義はなぜそう呼ばれるのか」と訳されている、あのシャトレ編の哲学史の中の驚くほど明晰なテキスト(73年)には、まさにいま言われたような面がいちばんはっきり出ていますね。構造というものを、それを成り立たしめているパラドキシカルな要素まで含めて考えていくことで、動態化していく―――ただし、ドゥルーズは構造主義自体をそういうパラドックスまで含めた動態的なものとして定義しているわけですけれども。

柄谷)あれをやると病気になりますよ(笑)。でもドゥルーズは病気にならないんだからすごい。

蓮實)というのは、彼は根本的には形式というものを問うていないからだと思いますよ。

浅田)いわば、輪郭線の引かれていない構造、蚊柱のような多様体としての構造を考えているわけですからね。その上でなお、柄谷さんの言われた対応関係はある程度まで成り立つと思いますけど。

柄谷)たしかに、そこはもともと違うんだと思う。彼の考え方の基本は、さっき浅田さんの言われた超越論的経験論、とくにベルグソンのラインなんですよ。ぼくの場合、外部という以上は線が引いてあるけど、彼の場合、そこには線がない。彼は物体というのはないと言っているけど、ぼくはあると思っているから(笑)。(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰・柄谷行人)


…………

ラカン派的としたのは、次の一連の引用を読めば、判然とするだろう。

近代科学にとって……、自然は、科学の数学的公理の正しい機能に必要であるもの以外にはどんな感覚的実体もない。(ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milner, Le périple structural, 2002、私訳)
近代科学は…対象の数学化を要求する。それは対象が数学的本質であることを要求しない。したがって対象が永遠・完璧であることを要求しない。……むしろ、反対に、数学化の手段によって、対象の把握を目指す。数学化において、対象はそれ自体と異なることもありうる。対象は、実験上の、偶然的・反復的、したがって一時的な性質をもちうる。(同ジャン=クロード・ミルネール, 2002、私訳)


数学・科学は、「物質性の還元」、「自然の現実の忘却」 を基盤としている。まずそれを認めなくてはならない、世界は数学的「言語」で構造化されていることを。ラカン派の見解はこういったことだろう。

物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない [c'est que c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire](ラカン、S16、20 Novembre 1968)

科学も我々の日常言語による使用によるリアルからの解離も、構造的には同一である。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが次のように言うのを好んだように。つまり、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

表題の 「形式化の極限における内部崩壊」とはまずは柄谷行人の考え方であるが、ラカン的には以下の文に現れる《数学的論理 logique mathématique》による《論証的亀裂 clivage discursif》と相同的である、とわたくしは思う(数学にも科学にもまったく不案内な者として言うが)。

我々は次の事実の視界を見失うべきではない。すなわち、科学によって探求される構造、《リアル、その内部に言説自体が帰結をもたらすものとしてのリアル réel dans lequel le discours lui-même a des conséquences 》(ラカン、S16,1968:以下、二重山括弧内は同様)は、同時に《最もリアルなもの le plus réel…全く隠喩ではなくnulle métaphore…リアル自体 le réel même》であるという事実を。

言い換えれば、《必然性と偶発的なものの多様性を以った帰結概念自体 la notion même de conséquence avec ses variétés du nécessaire ou du contingent》、ーーつまり蓋然的偶然としてのオートマンーーは、科学の言説によって為される言語の「物質性の還元 Réduction de matériel」と共存する。すなわち、「自然の現実の忘却 l'oublie comme réalité naturelle」を伴っているにも拘らず、それをそっくり保存し続けている。

我々はここで新しく意想外の観点を提供されている。「科学と真理」が、因果性の物質的次元の科学による排除と精神分析の共謀的ヴェール剥ぎ(科学の言説の覆いを取り除くこと)と定義したことについての予期されなかった転回である。それ自体としてどんな帰結もない。ゆえに必然性と偶発性とにあいだのどんな区別もない。非言語学的性質だけではなく、自然言語としての言語の水準においても同様である。すなわちーー非論証的/論証的ーー世界は、無因果(あるいは対象aの因果 l'a-cause)的である。事実、そのような区別は、ラカンが明記するように、全体化するメタ言語、つまり《数学的論理 logique mathématique》の導入を要求する。それは、自然言語としての言語のなかのメタ言語の欠如として現れるものを補填しようと努めることによって、《論証的亀裂 clivage discursif》を生み出すことに終わる。というのは《どんな論理もすべての言語を囲い込むことはできない pas plus de logique qui enserre tout le langage》から。(ロレンツォ、2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's  Necessity of Contingency',PDF)

次に上の引用にあるラカンのセミネール16の二年後のセミネール18から。

分節化ーー見せかけsemblantの代数的 algébrique分節化という意味だがーー、これによって我々は文字 lettres だけを扱っている。そしてその効果。これが実在 réelと呼ばれるものを我々に提示可能にしてくれる唯一の装置である。何が実在 réel かといえば、この見せかけに穴を開けること fait trou dans ce semblant である。

科学的言説であるところの分節化されたこの見せかけ ce semblant articulé qu'est le discours scientifique のなかに 、科学的言説は、それが見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく。

しばしば言われるように、科学的言説がかかわる全ては、そのネットワーク・その織物・その格子によって、正しい場所に正しい穴が現れるようにすること fasse apparaître les bons trous à la bonne place である。

この演繹によって到達される唯一の参照項は不可能である。この不可能が実在 réelである。我々は物理学において、言説の装置の助けをもって、実在 le réel であるところの何かを目指す。その厳格さのなかで、一貫性の限界に遭遇する rencontre les limites de sa consistance のである。(ラカン、セミネール18、20 Janvier 1971、私訳)

《科学的言説は、それが見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく le discours scientifique progresse sans plus même se préoccuper s'il est ou non semblant》
ーーとあるが、凡庸な科学者は実にそうであって(「論理哲学者」と呼ばれる種族のなかにもその類がふんだんにいる)、そのため(一部の人文系から)バカにされる(たとえば斎藤環による茂木健一郎批判)。

私が前々回のお手紙で、クオリアという発想をナルシシズムと結びつけたのは、それがどうにも“天動説の現代版”に見えてしかたないからです。どういうことでしょうか。つまり、事 象を観察している自分のポジションをあくまでも不動の中心に据えている、という意味において、です。この種の“自己中心性”と、それを補強する実感主義こそが、ナルシシズムにほかならないと私は考えるのです。(「斎藤環ー茂木健一郎の往復書簡」)

真にすぐれた科学者はそんなことはないはずである。

J・ブローフスキー博士は、われわれの大部分があらゆる学問の中で最も事実に基づく科学だとみている数学は、頭に浮かべうる最も突飛なメタファー (隠喩)からなると指摘し、美的にも知的にも、そのメタファーの成功の程度によって判断されねばならないものだと唱えた。(ノーバート・ウィーナー『人間機械論』第二版)

ところで、以下の柄谷行人の議論は、現在からみてどうなのだろう? つまり誤っているところがあるのだろうか。巷間には柄谷のゲーデル解釈を嘲弄する声がないではないが、何を嘲弄しているのか、わたくしの「非科学的な」頭ではいまだ理解できない。

ヒルベルトの「形式主義」の新しさは、一言でいえば、数学は「正しく」さえあれば「真」でなくてもよいという立場をとったところにある。「正しさ」とは、無矛盾的〔コンシステンシー〕である。彼が主張するのは、形式体系がコンシステントであることが証明できれば、それが真であろうとなかろうと数学として認め、それ以上の根拠づけをやめようということである。それは、数学に真理性を、すなわち数学が実在・事実にもとづくことを要求する「直観主義」に対立するものである。「直観主義」は、数学は数学的直観という人間的事実によってつくられるものであって。それは論理に依存するものではなく、逆に論理の方が数学によって保証されるのだという。また、彼らは排中律――たとえばある命題は真であるか、真ではないかのいずれかであるーーを否定する。

以上は現代数学の常識にすぎないが、門外漢を驚かすのは、これらの議論があまりに“文学的”だということだ。いずれにせよ、われわれが関心をもつのは、ヒルベルトの「形式主義」である。二十世紀において最も劇的な事件の一つは、ヒルベルトの形式主義が完成したと思われたまさにその時点で、それに対する致命的な批判がある青年によって届けられたことだといってよいかもしれない。それがゲーデルの「不完全性の定理」(1931年)である。

結論を先にいうと、ゲーデルの定理は、どんな形式的体系も、それが無矛盾的〔コンシツテント〕であるかぎり、不完全である、ということだ。彼の証明は、形式体系に、その体系の公理と合わない、したがってそれについて正しいか誤まりかをいえない(決定不可能な)規定が見出されtれしまうということを示す。不完全性の定理は、また、いいかえれば、ある形式体系がコンシステントであるとしても、その証明はその体系のなかでは得られないこと、それ以上の強い理論を必要とすることを意味している。こうして、純粋数学の完全な演繹体系は一般的に存在しないことが証明されてしまったのである。この結果、非常に単純化していえば、非ユークリッド幾何学がユークリッドの公理とはべつの公理を選択することによって成立するように、公理の選択次第でどんな数学も可能であり、そのことを原理的に否定することはできないということになる。(柄谷行人『隠喩としての建築』pp.45-46)

…………

柄谷は「形式化」の極限において体系がパラドックスに陥り、内部から自壊せざるをえない構造機制を不完全性定理にちなんで「ゲーデル問題」と名づけてい る。かつて『隠喩としての建築』を読んだ時、私はその着眼の卓抜さと鮮かなレトリックには感嘆したものの、「専門学者」としての見地から、彼のゲーデル理解とその敷衍の仕方には一種の「あやうさ」を感じざるをえなかった。というより、その「あやうさ」が後にエピゴーネンたちによって増幅され、「ゲーデル問題」が過剰な意味づけをされたまま安易なメタファーとして一人歩きし始めたことに危惧の念を覚えたのである。柄谷の問題提起の切実さに比して、一般に流布した「不完全性定理」の解釈はいかにも厳密さを欠き、寸足らずの安手の衣服をまとわされているように見えた。しかし、柄谷が抱え込まざるをえなかった困 難、あるいは彼がそのような〈問題〉に逢着した必然性は、私なりによく理解できたつもりである。(野家啓一「柄谷行人の批評と哲学」(『国文学』1989年1月号))

※参照:ゲーデルの不完全性定理とラカンの Ⱥ

…………

ここで記したラカンの立場とは、例外の論理/非全体(非一貫性)の論理(男性の論理/女性の論理)の後者にかかわるが、柄谷行人は次の二項の後者に依拠していると思われる。

・カントの力学的アンチノミー /数学的アンチノミー(否定判断/無限判断)、

・ヘーゲルの規定的反射 bestimmenden Reflexion/反射的規定 reflexive Bestimmung、

・マルクスの唯物論的弁証法 materialistische Dialektik/弁証法的唯物論 dialektischen Materialismus

ウィトゲンシュタインの家族的類似性Familienähnlichkeitにもかかわる(参照)。

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。

思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。

すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。

逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性 family resemblance」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)


2017年2月23日木曜日

二種類の原抑圧

やあこれは失礼。わたくしが原抑圧をめぐって主に記しているのは(S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un)、そのあたりに出回っている「古典的」原抑圧ではない。たとえばジャン・ラプランシュJean Laplancheの『精神分析用語辞典』にあるようなものではない。

原抑圧をめぐってはフロイトだけでなくラカン自身も彷徨っていたのは、「原抑圧の悪夢」で記したところなので、それを記すのを失念していた。どちらかというと、いちいち参照として掲げるのはメンドクサイので、このところわたくしの記していることを信用しないように、というメッセージをおくっているつもりなのだが、ま、ここは以下の文を掲げて慎んでオワビをしておくことにする。

幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧(のようなもの)がある、と私は理解している。À partir du moment où il parle, eh ben… à partir de ce moment là, très exactement, pas avant …je comprends qu'il y ait du refoulement.(Lacan,S.20)
父性隠喩が成立する以前に、言語(非統合的 nonsyntagmatic 換喩としての)は既に幼児の要求を疎外している。(……)

幼児が、最初の音素を形成し、自らの要求を伝え始めるとき、疑いもなく、ある抑圧が既に起こる。彼の要求することは、定義上、言語のなかに疎外される。…その要求は、必ず誤解釈される。したがって、常に増え続ける欲求不満に陥るよう運命づけられている。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness、2007)


◆ロレンツォ・キエーザ2007(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa )

ラカンにとって、言語は無意識に先立つ。より具体的に言えば、言語は無意識の完全な構造化に先立つ。というのは、どんな隠喩的置換もなしに、原抑圧ーー最初の泣き叫び・音素・言葉の換喩的発声ーーが幼児に起こるから。Laplanche とは異なり、ラカンは、本源的シニフィアン を考えた。その原シニフィアンとは、たんに対立的カップルとしてのシニフィアンーー母の不在によって引き起こされたトラウマの原象徴化の試み、フロイトによって描写されたFort–Da(いないないバア)のようなものーーである。隠喩的置換ーーそれと同時の十分に分節化された言語による厳密な意味での抑圧の可能性ーーは、エディプスコンプレックスの崩壊によってのみ、引き続いてもたらされる。

父性隠喩の出現以前に、言語は(非統合的 nonsyntagmatic 換喩として)既に子供の要求を疎外するーーしたがって、また何らかの形で抑圧されるーー。しかし、無意識と自己意識の両者は、まだ完全には構造化されていない。原抑圧は、エディプスコンプレックスの崩壊を通してのみ、遡及的(事後的)に、実質上抑圧される。
結局、我々は認めなければならない、ラカンは我々に二つの異なった原抑圧概念を提供していることを。広義に言えば、原抑圧は、原初のフリュストラシオン(欲求不満)ーー「エディプスコンプレックスの三つの時」Les trois temps du complexe d'Oedipe の最初の段階の始まりーーの帰結である。《原抑圧は欲望の疎外に相当する。それは、欲求が要求のなかに分節化されれたとき起こる》(ラカン、E690、摘要)。

《諸々の欲求のうち疎外されたものは、要求という形でははっきり表現する〔=分節化する〕ことがおそらく〔仮説によると〕できないでしょうから、原抑圧 [Urverdrangung]として構成されます。しかし、「欲求において疎外されたもの」はそれでもなお支流 [rejeton] の 中に姿をあらわし、その支流はそれ自身、欲望 [das Begehren] として人間に現れるのです。》(ファルスの意味作用、エクリ、690)

明瞭化のために、我々はこの種の原抑圧を刻印 inscription と呼びうる。他方、厳密な意味での原抑圧は、無意識の遡及的形成に相当する。それは(意識的エゴの統合に随伴して)、エディプスコンプレックスの第三の段階の最後に、父性隠喩によって制定される。この意味での原抑圧は、トラウマ的原シニフィアン「母の欲望」の抑圧と、それと同時の根本幻想の形成化に相当する。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

※刻印については、初期フロイト概念「刻印 Niederschrift」(経験の記載)を参照のこと。
…………

このあたりが理解されていないのは、たとえば次の向井雅明氏の文が示している。

……注目すべき点は、私たちが通常の知覚を獲得したり、シニフィアンを使用して言語的表象行うことができたりするようになるには、ばらばらの印象から一つのまとまったイメージへの移行と、イメージからシニフィアン的構造化への移行という二つの翻訳過程、二つの契機を経なければならないという論理だ。一般的にラカン理論では二番目の移行に相当する原抑圧、もしくは父性隠喩の作用による世界のファルス化という唯一の過程のみで心的装置の成立をかんがえる傾向にあるが、たとえば精神病を父の名の排除という機制だけで捉えることは、精神病者においても言語による構造化はなされているという事実をはっきりと捉えられなくなってしまう。心的装置の成立過程に二つの大きな契機があるとかんがえると、主体的構造の把握がより合理的に行われるように思われる。向井雅明『自閉症と身体』2010、PDF)

2010年時点でさえ、《一般的にラカン理論では二番目の移行に相当する原抑圧、もしくは父性隠喩の作用による世界のファルス化という唯一の過程のみで心的装置の成立をかんがえる傾向にある》とあるわけで、ま、むかしの辞書のたぐいは真に受けないほうがいい、ということが多い。21世紀に入ってラカン概念の捉え方は原抑圧だけでなく大きく変わっている(参照:古典的ラカンドグマの転回)。

わたくしもエラそうなことをいうつもりはなく、ついこの2,3年でそれがようやくわかってきたので、こうやってメモしている。そもそも「わかってきた」といっても、限られた注釈者たちの論を読むなかでのーーわたくしの誤読の可能性をも含めたーー「わかってきた」であり、仮に誤読がないにしろ、そのうちまたラカン派注釈者の解釈が変わりうるのは当然予想される。

いずれにせよそのあたりのラカンコミュニティの人たちとはあまりお付き合いはするつもりはないので、ときに「補足」を忘れてしまう。

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳ーー第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢)

ーーでは左様ナラ!!

…………

※付記

そもそもフロイトは最初に「原抑圧」概念に近似した記述を提示したときに次のように記している。1926年の記述と併せて読めば、前期ラカンの原抑圧概念の捉え方自体がいささか問題があったという見方さえできる。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②「正式の抑圧(後期抑圧)」の段階は、ーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ既に抑圧の第二段階である。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、抑圧の失敗、侵入、「抑圧されたものの回帰Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてその点へのリビドー的展開の退行を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911、摘要)

…………

原抑圧 Urverdrängung とは?

・夢の臍 Nabel des Traums
・菌糸体 mycelium、
・真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perle
・欲動の根 Triebwurzel
・欲動の固着 Fixierungen der Triebe.
(リビドーの固着 Fixierung der Libido、Libidofixierung)
・我々の存在の核 Kern unseres Wesen

・サントーム sinthome
・一のようなものがある Y'a d'l'Un
・身体の出来事 un événement de corps
・享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance
・S(Ⱥ)
・Lⱥ femme 

・原症状 Ursymptom(還元不能の症状 Il n'y a aucune réduction radicale)
・原防衛 Urverteidigung
・原固着 Urfixierung
・原トラウマ Urtrauma

…………

以下はたぶんそう

・原リアルの名 le nom du premier réel
・原穴の名 le nom du premier trou

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
ラカンによれば、《母の欲望 Désir de la Mère》を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における (子供の)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィ アン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。(ロレンツォ・キエーザ2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

さらに次のものもたぶん。

・要素現象 phénomènes élémentaires
・J(Ⱥ)

J(Ⱥ)は享楽にかかわる。だが大他者の享楽のことではない。というのは私は、大他者の大他者はない、つまり、大他者の場としての象徴界に相反するものは何もない、と言ったのだから。大他者の享楽はない。大他者の大他者はないのだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。

…que j'ai déjà ici noté de J(Ⱥ) .Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé, - qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (Lacan,Séminaire XXIII Le sinthome Décembre 1975)

そしてラカンのサントームsinthome にほぼ相当するものとして、
フロイトの現勢神経症 Aktualneurose 。

……もっとも早期のものと思われる抑圧(原抑圧 :引用者)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合は根元的な当初の危険状況に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)外傷性戦争神経症という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926ーーフロイト引用集、あるいはラカンのサントーム)

…………

・異物Fremdkörper

異物も原抑圧にかかわる。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

・異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger(ラカン、S23,11 Mai 1976)

・外密Extimité :私の最も内にある《親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S.7、03 Février 1960)

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)
Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部の異者である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001,PDFーー基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))
われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状Symptomをある異物 Fremdkörper とみなして、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。もっとも症状形成Symptombildungがなされると、好ましからぬ欲動の蠢きTriebregungにたいする防衛の闘いAbwehrkampf は終結してしまうこともある。われわれの見るかぎりでは、それはヒステリーの転換でいちばん可能なことだが、一般には異なった経過をとる。つまり、最初の抑圧作用についで、ながながと終りのない余波がつづき、欲動の蠢きTriebregungにたいする闘いは、症状にたいする闘いとなってつづくのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年、旧訳、一部変更)


中井久夫の幼児型記憶も、理論的には原抑圧と近似する。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 P.53)

原抑圧とは、何かの内容を無意識のなかに抑圧することではない。そうではなく、無意識を構成する抑圧、無意識のまさに空間を創出すること、「システム意識 System Bewußt (Bw)・システム前意識System Vorbewußt (Vbw)」 と「システム無意識System Unbewußt (Ubw)」 とのあいだの間隙を作り出すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
……ここにはカントからヘーゲルへの移行の鍵となる帰結がある。すなわち、内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される(反映し返される reflected back into)。それは内容が「全てではない not all 」ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

…………

で、ドゥルーズの純粋表象 présentations puresはどうだろう?

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象にかかわる"正式の"抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされるvécues 仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』私訳)

あるいはドゥルーズの「純粋な差異 la pure différence」・「起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi 」は?

ラカンのY'a d'l'Un(一のようなものがある )やサントーム sinthome とは次の記述とともにまずは理解されるべきである。

この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.9, 06 Décembre 1961)
純粋差異としての「一」は、要素概念と区別されるものである。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(S.19,1971-1972)

《サントーム le Sinthome……それは Yadlun と等価である》(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)


S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un

【S(Ⱥ) =サントーム】
サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」(参照)の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。((ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan' (‘Lacan's later teaching'、2002ーー基本版:現代ラカン派の考え方)


【サントーム=原抑圧】
四番目の用語(サントーム)にはどんな根源的還元もない、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。

Il n'y a aucune réduction radicale du quatrième terme. C'est-à-dire que même l'analyse, puisque FREUD… on ne sait pas par quelle voie …a pu l'énoncer : il y a une Urverdrängung, il y a un refoulement qui n'est jamais annulé. Il est de la nature même du Symbolique de comporter ce trou, et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

ここでミレールが「固着」と呼んでいるものは、原固着、すなわち原抑圧のことである。

原抑圧 Urverdrängung は、まず何よりもまず「原固着Urfixierung」である。ある素材がその原初の刻印のなかに取り残されている。 それは決して言語表象に翻訳されえない。この素材は「過剰度の興奮」に関わる。すなわち、欲動、Trieb または Triebhaft である。ラカンは「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」として欲動を解釈した。これに基づいて、フロイトは、システム無意識 System Unbewußt (Ubw) 概念を開発した。このシステムは、「後期抑圧」の素材、力動的・抑圧された無意識のなかの素材に対して引力を行使する。(ポール・バーハウ、2001、Beyond Gender. From Subject to Drive)
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(フロイト『抑圧』1915)


【サントーム= Y'a d'l'Un】
サントーム……それはYadlunと等価である。

Si je veux inscrire le Sinthome comme un point d'arrivée de la clinique de Lacan, je l'ai déjà identifié à ce titre, une fois que Lacan a émis son Yadlun, .(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Coursーー「一の徴」日記⑤)
ラカンがセミネールXX (Encore)で展開した Y a d'l'Un の「一」 l'Un(「一」のような何かがある)は、一連の「一」の諸シニフィアンといかに関係があるのか。それは、ファルス的主人のシニフィアンphallic Master‐Signifierを通しての統一化に先行しているものだ。ーーS1 (S1 (S1 (S1…)))という一連の無限的自己分割(……)。

どうだろう、ラカンの Y a d'l'Un を、(いくつかの「一」の上に)欲動を構成する最低限のリビドー的固着の式として読むのなら? プレ出来事的な「一」のない多数性から欲動の出現の瞬間として、である。そうであるなら、この「一」は、サントーム、「享楽の原子atom of enjoyment」、言語と享楽の最低限の統合である。享楽に浸透された記号の一単位(我々が強迫的に反復するチック〔痙攣〕のようなもの)である。そのような「一」は、享楽の微粒子、最も微細で本源的な袋 packages ではないか?(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

(ラカン、S20,26 Juin 1973)


【原抑圧=S(Ⱥ)】
原抑圧は、S(Ⱥ)にかかわる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)
原抑圧とは、現実界のなかに〈女〉を置き残すことと理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。(ラカン、S20, 13 Mars 1973ーー神と女をめぐる「思索」)

…………

こうして次の二図の相同性が判然とする。


(PAUL VERHAEGHE、1999)



ラカンは「一の徴 trait unaire」を熟慮した後、S1(主人のシニフィアン)というマテームを発明した。S1 は「一の徴」よりも一般的なマテームである。しかし疑いなく、S1 の価値のひとつは「一の徴」である。(Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasmーー「一の徴」日記⑤)
「一の徴 trait unaire」は「Y a d'l'Un」とは関係がない。…「一の徴」は反復自体の徴である。(ラカン、S.19、10 Mai 1972)

ようするにラカンの上の図、S1 (S1 (S1 (S1…)))の最初の(左端の)S1とは、Y a d'l'Un、あるいは S(Ⱥ)である。二番目以降のS1が「一の徴 trait unaire」、穴埋めとしてのフェティッシュ等々であり、右端のS1→S2におけるS1はファルスである。

そしてポール・バーハウの図の左端にある現実界的トラウマ、Ⱥは穴である。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency))

ブラックホールについてはこのところ何度も引用しているが、ラカンの自身の言葉は、「「神さん」という原超自我」を参照してもらうことにして、ここではポール・バーハウのとてもわかりやすい叙述を掲げておく。

…この過程の出発点において、フロイトが「能動的」対「受動的」と呼んだ二つの傾向のあいだの対立がある。我々の観点では、これはS1(主人のシニフィアン)とS(Ⱥ) とのあいだの対立となる。S(Ⱥ) 、すなわち女にとって男のシニフィアンの等価物の不在ということである。この点において、正規の抑圧に関してフロイトによってなされた区別を次のように認知できる。

引力:抑圧されねばならない素材のうえに無意識によって行使された引力。それはS(Ⱥ) の効果である。あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。

斥力:すべての非共存的内容を拒絶するファルス Φ のシニフィアン S1 から生じる斥力。

この関係は容易に反転しうる。すなわちすべての共存的素材を引き込むファルスのシニフィアンと、他方でその種の素材をまさに排斥するS(Ⱥ)。

(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999、,PDF)


現実界的トラウマについてはフロイトの次の文を掲げておこう。

……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳p.365、一部変更)

とはいえここで逃してならないのは、遡及性概念である。

《潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。》(ロレンツォ・キエーザ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

次のように言うことーー、「エネルギーは、河川の流れのなかに潜在態として、なんらかの形で既にそこにある l'énergie était en quelque sorte déjà là à l'état virtuel dans le courant du fleuve」--それは(精神分析にとって)何も意味していない。

なぜなら、我々に興味をもたせ始めるのは、エネルギーが蓄積された瞬間 moment où elle est accumulée からのみであるから。そして機械(水力発電所 usine hydroélectrique)が作動し始めた瞬間 moment où les machines se sont mises à s'exercer からエネルギーは蓄積される。(ラカン、セミネール4、1956)

ようするに S(Ⱥ)、つまり原抑圧が介入した後、はじめて潜在的リアルとしてのȺが顕在化する。

これがラカンが後に、「原初 primaire は最初premier のことではない」(『アンコール』)と言った意味である。すなわち原初のトラウマは原抑圧により遡及的 rétroactivement に構成される。

これはそれぞれの段階 S1 (S1 (S1 (S1…)))での残滓があるという意味でもあり、フロイトの残存現象という概念はそのことを示している。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり以前の段階の現象が部分的に進歩から取り残されて存続するという事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な様子を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残りが保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残りが存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

我々には「原始時代のドラゴン」ーーすなわち最初期のトラウマ的状況・無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeit、そしてそれにかかわる攻撃欲動Aggressionstriebーーがどこかに居残っているのである。

攻撃欲動の起源とはーーここでは簡略して記すがーー《原初に「受動的あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗》(フロイト、1937)である。

ーー以上、またいささか断定的に記してしまったが、ここでの記述もーーわたくしがいくらかラカン派の論を読んできたなかでのーー「仮想定」である。そしてサントームは上に記した以外の意味もある(参照:フロイト引用集、あるいはラカンのサントーム)。

…………

※付記

以下の文は上に出現した多くの用語が詰まっているとても参考になる記述である。

…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事un événement de corps」とフロイトが「固着 Fixierung」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根(欲動の根Triebwurzel)である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom"Tel Aviv, 27 January, 2012)

※参照:二種類の原抑圧



2017年2月20日月曜日

呼んでもやってこない「理想の女」

漱石の『虞美人草』を今頃はじめて読み通した。彼の朝日新聞デヴュー作(1907年6月 - 10月)であるが、肩に力が入り過ぎていたのか、文体的に凝り過ぎている印象などもあり、かつてのわたくしには読みがたかった(この作品は若書きだと思いこんでいたが、1867年生れの漱石の40歳の作品であることも今頃知った)。以下はその読書による派生物である。

…………

ボードレールの名言として知られる「女と猫は呼ばない時にやって来る」。だが、これはたぶん誰かがそう意訳したのではなかろうか、正確にこの文に相当することをボードレールが言ったのかどうかは(わたくしには)不詳である。

いずれにせよこの文の核心は、女も猫も呼ばないときにやってくるだけではなく、呼んだときにやってこない、ときに拒絶する存在だということだろう。

行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)

漱石のほとんどの小説ーーおそらく例外はあるだろうがわたくしはその例外を失念したーーこの行ったり来たりする母=女を書いているのではなかろうか? 今は比較的初期の作品から《長い廊下を何度往き何度戻る》那美さんと、《男を弄ぶ》蛇女藤尾さんをめぐる叙述を掲げておく。

一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。振袖姿のすらりとした女が、音もせず、向う二階の椽側を寂然として歩行て行く。余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。 

花曇りの空が、刻一刻に天から、ずり落ちて、今や降ると待たれたる夕暮の欄干に、しとやかに行き、しとやかに帰る振袖の影は、余が座敷から六間の中庭を隔てて、重き空気のなかに蕭寥と見えつ、隠れつする。

女はもとより口も聞かぬ。傍目も触らぬ。椽に引く裾の音さえおのが耳に入らぬくらい静かに歩行いている。腰から下にぱっと色づく、裾模様は何を染め抜いたものか、遠くて解からぬ。ただ無地と模様のつながる中が、おのずから暈されて、夜と昼との境のごとき心地である。女はもとより夜と昼との境をあるいている。 

この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。いつ頃からこの不思議な装をして、この不思議な歩行をつづけつつあるかも、余には解らぬ。その主意に至ってはもとより解らぬ。もとより解るべきはずならぬ事を、かくまでも端正に、かくまでも静粛に、かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の、入口にあらわれては消え、消えてはあらわるる時の余の感じは一種異様である。(夏目漱石『草枕』)
緑りの枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を彩どる中に、楚然として織り出されたる女の顔は、――花下に余を驚かし、まぼろしに余を驚ろかし、振袖に余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女の顔である。 

余が視線は、蒼白き女の顔の真中にぐさと釘付けにされたぎり動かない。女もしなやかなる体躯を伸せるだけ伸して、高い巌の上に一指も動かさずに立っている。この一刹那!(同『草枕』)
「清姫が蛇になったのは何歳でしょう」「左様、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」「安珍は」「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」(……)

「私は安珍のように逃げやしません」 これを逃げ損ねの受太刀と云う。坊っちゃんは機を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。

「ホホホ私は清姫のように追っ懸けますよ」 男は黙っている。「蛇になるには、少し年が老け過ぎていますかしら」 

時ならぬ春の稲妻は、女を出でて男の胸をするりと透した。色は紫である。(夏目漱石『虞美人草』)
藤尾は男を弄ぶ。一毫も男から弄ばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成立つものは原則を外れた恋でなければならぬ。愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風の吹き回しで、旨い潮の満干で、はたりと天地の前に行き逢った時、この変則の愛は成就する。(夏目漱石『虞美人草』)

さて、いささか長い挿入となったがラカンに戻る。

(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能(の母) omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)
母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。(ポール・バーハウ1998,Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)

原初のトラウマ的体験ーー《経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況》ーーとは、行ったり来たりする「不気味な」母にかかわり、そしてそれは母なる全能性に変換される。

そしてその〈母〉は、極度に高い価値をもつ存在である。

……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我の分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳p.365、一部変更)

呼んでもやってこない「猫」と呼ばないときにやってくる「猫」とは、究極的には、分離不安と融合不安という人間の最も根源的な原不安にかかわる。

最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的 somatic な未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動因は、不安である。これは去勢不安でさえない。「原不安」は母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では「最初に世話する人」としてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに「分離不安」である。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを「融合不安」呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別にである。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的なエラボレーションとさえ言いうる。原不安は二つの対立する形態を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。

ラカン理論は後者を強調した。そしてそれを母なる大他者 (m)Other に享楽される単なる対象に格下げされる幼児の不安として解釈した。それはフロイトの受動的ポジションと同様である。

これはラカン理論における必要不可欠な父の機能を説明する。すなわち第三者の導入が、二者-想像的段階にとって典型的な選択の欠如に終止符を打つ。第三者の導入によって可能になる移行は、母から身を翻して父に向かうということでは、それ程ない。むしろ二者関係から三者関係への移行である。これ以降、主体性と選択が可能になる。(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009、PDF)

フロイトにとって原初の母子関係における「受動的立場 passive Einstellung」とは原トラウマ的という意味である。

…………

「母の欲望」とは、事実上、「原穴(原トラウマ )の名 le nom du premier trou 」である。あるいはそれを母の法と呼び変えてもよい。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである。(Lacan.S5)


我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

ラカンは《身体は穴である corps……C'est un trou》(ラカン、1974)とも言っている、なぜ身体には穴が開いているのだろうか。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

大文字で書かれる「母の欲望 Désir de la Mère」とは、母子関係の最初期においては、実際の母の欲望とはあまり関係がない。むしろ全能の権力にかかわる。

ラカンによれば、《母の欲望 Désir de la Mère》を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における (子供の)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィ アン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。(ロレンツォ・キエーザ2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

いわゆる"去勢されていないnon‐castrated"全能の貪り食う母、真の母に関して、ミレール=ラカンは次のように注釈している。

満足していない母というだけでなく、またすべての力をもつ母である。そしてラカンの母の形象のおどろおどろしい様相は、彼女はすべての力を持ちかつ同時に不満足であることである。(Miller, “Phallus and Perversion,”)

ジジェクはこのミレールの文を引用して(『LESS THAN NOTHING』)、次ぎのように言っている。

ここには、パラドックスがある。母がよりいっそう"全能"として現れば現れるひど、彼女は不満足(その意味は欠如である)なのである。「ラカンの母はquaerens quem devoretと一致する。すなわち彼女は貪り食うために誰かを探し求める。そしてラカンは鰐として母を言い表す、口を開けた主体として。」(Jacques‐Alain Miller, “The Logic of the Cure,”)

だが男たちには究極的には、女に貪り喰われたい秘かな隠された願望があったらどうだろう?(参照:最愛の子供を奈落の底に落とす母の癖)。あるいはこう言ってもいい、《あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) 》(ポール・バーハウ1999)に吸い込まれたい願望と。S(Ⱥ)とはサントームの記号、原抑圧の記号である。

我々が、この機能について、ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」(参照)の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。((ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan' (‘Lacan's later teaching'、2002ーー基本版:現代ラカン派の考え方)


ラカン派でサントームと言われるもの、あるいはフロイトの原抑圧と呼ばれるものーーラカンはサントーム=原抑圧としている(S23)ーーとは、先ずなによりもこの「原穴(原トラウマ )の名 le nom du premier trou 」、あるいは「母の法 loi de la mère」として理解されなければならない。

サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)


フロイトはこの徴をつける母を「誘惑者 Verführerin」と呼んだ。

誘惑者はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933)
母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版1940、私訳)

この誘惑者による徴のことをラカンは、《享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance 》(S17)と呼び、あるいは次のようにも語った。

享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死への徴付けmarqué pour la mort としてもよい。

その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印の戯れ jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(ラカン、S17、10 Juin 1970)

ここでの死とは何か?

私は言おう、死とは、ラカンが享楽と翻訳したものだ、と。(ミレール1988,Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES)
死への道とは、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance (ラカン、S17)

母との(現実的には不可能な)融合があれば、そのとき主体は消滅する。それが死の意味である。

生の欲動 Eros は、融合と統一の状態への回帰を目指す。エロスは、分離した要素を結びつけることによって、これをする。それは、緊張(不安)の増加をもたらす。逆に、タナトスは、分離の状態への回帰を目指す。死の欲動は、結びついた要素のあいだのすべての結合を破壊することによって、これをする。それは、すべての緊張の低減をもたらす。もし、必要なら、ゼロ度まで。その意味は、事実上、死である。

ラカン理論は、この「生と死の問い」の言い直しを可能にさせてくれる。生の欲動は、「他の享楽l'autre jouissance」を目指す。結果として、大他者のなかに主体は消滅する。したがって、分離した存在としての主体の死をもたらす。死の欲動は「ファルス享楽la jouissance phallique」を目指す。それを通して、主体は大他者から己を分離する。したがって、この大他者から独立して、孤立した存在としての歩みを進める。このラカンの読解においては、生と死の概念は、ひどく相関的である。すなわち、フロイトの生の欲動は、主体の死、主体の消滅を意味する。フロイトの死の欲動は、主体の生の継続を意味する。(ポール・バーハウ2001、PAUL VERHAEGHE、Obsessional Neurosis. The Quest for Isolation).

…………

吉本隆明は漱石の理想の女について次のように言っている。

漱石の理想の女性像はだれかとか、作品の中ではどれだと考えてみると、僕らが客観的に考えれば、それは二人います。一人は、最初期の作品ですが、『虞美人草』のお糸さんという娘さんがいます。それが漱石の理想の女性像だと思います。それからやはり初期の作品ですが、もう少しあとの『坊ちゃん』の中に出てくるお清という婆やさんがいますが、これがやはり漱石の理想像だと思います。

この二人とも描かれた作品の中では、たとえ『虞美人草』の中では藤尾がモダンで、美人で、そして教養もありという新時代の女性ですが、この女性は悪いほうの代表というかたちで描かれています。いいほうの代表のお糸さんは、何も言わなくても男の考えている心の中をちゃんと察してくれて、かゆいところに手が届くようにしてくれる、そういう女性で、これは逆に女性のほうから見たら何てわがままなやつだと思うかもしれないように描かれています。でも漱石にとっての理想の女性像はそうなのです。

これは、現存する女流作家の人が、『虞美人草』の中でだれが理想の女性かということに対して、それは藤尾だと言っているのを読んだことがありますから、女の人から見るとそのほうが理想的なのかもしれないけれども、漱石から見るとどうも始末が悪い、どうしようもないという女性になっているわけです。(吉本隆明「作品に見る女性像の変遷」)

だが「理想の女」というシニフィアンは、想像界的なもの、象徴界的なもの、現実界的なものの三つの観点から見なければならない。 お糸は想像界的な理想の女ーー内気を装い、欲望を掻き立てる女ーーであり、お清は象徴界的な理想の女ーー子供に食物を与える母であり、子供を見守る母ーーである。漱石は那美や藤尾という現実界的な理想の女ーー行ったり来たりする母であり、弄びはぐらかす(拒絶する)女ーーを初期から書いた。それは遺作『明暗』における清子に至るまで。

「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。………」
「君はあの清子さんという女に熱中していたろう。ひとしきりは、何でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人よりほかに男はないと思ってるように解釈していたろう。ところがどうだい結果は」
津田は思い切って声をかけようとした。するとその途端に清子の方が動いた。くるりと後を向いた彼女は止まらなかった。津田を階下に残したまま、廊下を元へ引き返したと思うと、今まで明らかに彼女を照らしていた二階の上り口の電灯がぱっと消えた。津田は暗闇の中で開けるらしい障子の音をまた聴いた。同時に彼の気のつかなかった、自分の立っているすぐ傍の小さな部屋で呼鈴の返しの音がけたたましく鳴った。 

やがて遠い廊下をぱたぱた馳けて来る足音が聴こえた。彼はその足音の主を途中で喰いとめて、清子の用を聴きに行く下女から自分の室の在所を教えて貰った。(夏目漱石『明暗』)

逆に呼ばないときにやってくる不気味な女も漱石にはふんだんにある。ここでは初期作品『三四郎』の叙述を想い起すだけにしておこう。

例の女が入口から、「ちいと流しましょうか」と聞いた。三四郎は大きな声で、「いえ、たくさんです」と断った。しかし女は出ていかない。かえってはいって来た。そうして帯を解きだした。三四郎といっしょに湯を使う気とみえる。べつに恥かしい様子も見えない。三四郎はたちまち湯槽を飛び出した。
それから西洋手拭を二筋持ったまま蚊帳の中へはいった。女は蒲団の向こうのすみでまだ団扇を動かしている。「失礼ですが、私は癇症でひとの蒲団に寝るのがいやだから……少し蚤よけの工夫をやるから御免なさい」 三四郎はこんなことを言って、あらかじめ、敷いてある敷布の余っている端を女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻きだした。そうして蒲団のまん中に白い長い仕切りをこしらえた。女は向こうへ寝返りを打った。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に細長く寝た。その晩は三四郎の手も足もこの幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかった。女は一言も口をきかなかった。女も壁を向いたままじっとして動かなかった。
元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。(漱石『三四郎』)

もちろんラカンの想像界・象徴界・現実界は、ボロメオの環が示すとおり、それぞれの環は重なってはいる。だが人は、現実界的なほうに傾いた「理想の女」を忘れがちである。それをすぐれて痛切にーー《手の爪には血》を滲ませてーー書こうとした代表的作家の一人は(日本近代においては)安吾だろう。

ある婦人が私に言つた。私が情痴作家などゝ言はれることは、私が小説の中で作者の理想の女を書きさへすれば忽ち消える妄評だといふことを。まことに尤もなことだ。昔から傑作の多くは理想の女を書いてゐるものだ。けれども、私が意志することによつて、それが書けるか、といふと、さうはたやすく行かない。

誰しも理想の女を書きたい。女のみではない、理想の人、すぐれた魂、まことの善意、高貴な精神を表現したいのだ。それはあらゆる作家の切なる希ひであるに相違ない。私とてもさうである。

だが、書きだすと、さうは行かなくなつてしまふ。

誰しも理想といふものはある。オフィスだの喫茶店であらゆる人が各々の理想に就て語り合ふ。理想の人に就て、政治に就て、社会に就て。

我々の言葉はさういふ時には幻術の如きもので、どんな架空なものでも言ひ表すことができるものだ。

ところが、文学は違ふ。文学の言葉は違ふ。文学といふものには、言葉に対する怖るべき冷酷な審判官がをるので、この審判官を作者といふ。この審判官の鬼の目の前では、幻術はきかない。すべて、空論は拒否せられ、日頃口にする理想が真実血肉こもる信念思想でない限り、原稿紙上に足跡をとゞめることを厳しく拒否されてしまふのである。

だから私が理想の人や理想の女を書かうと思つて原稿紙に向つても、いざ書きだすと、私はもうさつきまでの私とは違ふ。私は鬼の審判官と共に言葉をより分け、言葉にこもる真偽を嗅ぎわけてをるので、かうして架空な情熱も思想もすべて襟首をつまんで投げやられてしまふ。

私はいつも理想をめざし、高貴な魂や善良な心を書かうとして出発しながら、今、私が現にあるだけの低俗醜悪な魂や人間を書き上げてしまふことになる。私は小説に於て、私を裏切ることができない。私は善良なるものを意志し希願しつゝ醜怪な悪徳を書いてしまふといふことを、他の何人よりも私自身が悲しんでゐるのだ。

だから、理想の女を書け、といふ、この婦人の厚意の言葉も、私がそれを単に意志するのみで成就し得ない文学本来の宿命を見落してをるので、文学は、ともかく、書くことによつて、それを卒業する、一つづゝ卒業し、一つづゝ捨ててそして、ヨヂ登つて行くよりほかに仕方がないものだ。ともかく、作家の手の爪には血が滲んでゐるものだ。(坂口安吾『理想の女』)

このように記す安吾は、マゾヒズム的悦楽をよく知っている。とはいえマゾヒズム的悦楽と地獄とどう異なるのか? さあて・・・とはいえ地獄を経験したものでなければ愛は語りえない・・・

この安吾の側面については、「私の好きな女が、みんな母に似てるぢやないか!」にいくらか記した。

今はごく標準的に「常識的な」文ーー「女と猫は呼ばない時にやって来る・呼んだ時にやって来ない」のプルースト版ーーを引用しておくのみにする。

若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト『ゲルマントのほうⅡ』)
出奔した女は、いままでここにいた女とはおなじ女ではもはやなくなっている。(プルースト『逃げ去る女』)

…………

すぐれた批評家であったには相違ない吉本隆明ではあるが、理想の女についてはイマジネールな領域に閉じ籠っている、とわたくしは思う。他方、吉本が言っている、《現存する女流作家の人が、『虞美人草』の中でだれが理想の女性かということに対して、それは藤尾だと言っているのを読んだことがあります》という女流作家の見解を尊重したい。

人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)
女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.( シェイクスピア、Troilus and Cressida)
ファウスト

もし、美しいお嬢さん。
不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。

マルガレエテ

わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。
(……)

ファウスト

途方もない好い女だ。
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。 それからあの手短に撥ね附けた処が、 溜まらなく嬉しいのだ。(ゲーテ『ファウスト』森鴎外訳)

ーーマルガレエテはのちに「魔女」に化けるのはよく知られている。

 男は誰に恋に陥るのか? 彼を拒絶する女・つれないふりをする女・決してすべてを与えることをしない女に恋に陥る。(ポール・バーハウ、Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe、1998、PDF)

これらは穏やかに言えば、女の媚態にかかわるといってもいい。《媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである》(九鬼周造『いきの構造』)。

媚態〔コケットリー〕とは何であろうか? それは相手に性的な関係がありうるとほのめかし、しかもその可能性はけっして確実なものとしてはあらわれないような態度と、おそらくいうことができるであろう。別ないい方をすれば、媚態とは保証されていない性交の約束である。(クンデラ『存在の絶えられない軽さ』)

もっとも『草枕』の那美さんと、『虞美人草』の藤尾さんは、さらに高度に戦略的な媚態の様相を呈した女であるといえるかもしれぬ・・・

自分は決して媚びないと知らせることは、すでに一種の媚びである(ラ・ロシュフーコー)

そしてその高度な戦略を見破ったつもりでいるほどよく聡明な=凡庸な男、修行が足りない若い男には嫌悪を催させることは十分ありうる。わたくしが那美にも藤尾にも抵抗がありつづけたのはそのせいではなかったか・・・

いずれにせよ今それなりに熱心に『虞美人草』を読めば、吉本隆明が理想の女とする糸子の媚態などひどく低レベルの媚態なのである。

「ホホホホそれでも家の兄より好いでしょう」「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って退けたが、急に気がついて、羽二重の手巾を膝の上でくちゃくちゃに丸めた。「ホホホホ」

藤尾にあっさら見破られている。 この糸子の態度は、どの娼婦もよく知っている典型的な男性ファンタジー、「女の救出」願望を誘い出す二流の媚態、その変奏にすぎない。若きウブな男性の皆さんはくれぐれも用心しなければならない。この罠に嵌ったら安易に奈落の底に吸い込まれてしまう・・・仮に吸い込まれたい願望があるにしろ、これではいかにも狐に騙されたかのような底の浅い奈落であり、真の奈落の底、あの愛の悪魔的スキル・綱渡りの揺らめきから突如凋落して眩暈をもたらす深淵の底の感覚に徹底的に欠けている。いまどきの高級娼婦ーーたとえば祇園のバーの女、銀座の女は知らないが格の高い店の女ーーはこんな安手の媚びは使わないはずである・・・吉本隆明の修行の足りないのはこの点である・・・「ホホホホ」という気味の悪い笑いを連発する藤尾のほうがいいにきまってんじゃないか、ウブだねえ、彼は。「ホホホホ」による究極のマゾヒズム的悦楽を知らないなんて。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如を楽しむことが可能です on peut jouir du manque à jouir。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。(コレット・ソレール2013,Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013)

とはいえ吉本隆明だけではなく、あのすぐれたマゾヒズム論を書いたドゥルーズでさえ、あと一歩のところで惜しくも核心を逃がしてしまっている、《愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している》などと記しているのだから。だがそうではない、最初の誘惑者による徴付けが愛の起源である。

母 mère に対する主人公の愛の中に、愛のセリーの起源 l'origine de la série amoureuse を見出すことは、常に許容される。しかしわれわれはそこでもまたスワンに出会うことになる。スワンはコンブレ―へ夕食に来て、子供である主人公から母の存在を奪うことになる。そして、主人公の苦しみ、母にかかわる彼の不安は、すでにスワンがオデットについて彼自身体験した苦しみであり不安である。《自分がいない快楽の場、愛するひとに会うことのできない快楽の場で、そのひとを感ずる不安、それを彼に教えたのは愛である。その愛にとって不安は或る意味で始めから運命として存在しているのだ。その愛によって、不安は独占され、特殊なものにされている。しかし、私にとってそうであるように、愛がわれわれの生活の中に現れて来る前に、不安がわれわれの内部に入ってくるとき、それはあいまいで自由なものとして、期待の状態で浮動している……》恐らく、母のイメージ image de mère は、最も深いテーマではなく、愛のセリーの理由でもないという結論がここから出されよう。確かに、われわれの愛は、母に対する感情を反復している。しかし、母に対する感情は、われわれ自身が経験したことのないそれとは別の愛を、すでに反復しているのである。母はむしろむしろひとつの経験からもうひとつの経験への移行として、われわれの経験の始まり方として現われるが、すでに他人のよってなされたほかの経験とつながっている。極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

もちろんここでドゥルーズの概念 「潜在的対象 l'objet virtuel」を持ち出して彼を救う手立てがないではない。だが今はそれに触れないでおく。

そもそもドゥルーズには、 次のようなより簡潔な文がある。

反復は本質的に象徴的なものであり、シンボルやシミュラークルは反復自体の文字 lettre である。la répétition est symbolique dans son essence, le symbole, le simulacre, est la lettre de la répétition même.(ドゥルーズ『差異と反復』)

この「文字」がーーそして母による文字の徴付けがーーわれわれの愛の起源である(参照:サントームSinthome = 原固着Urfixierung →「母の徴」)。

晩年のラカンの「文字lettre」理論とは、身体の上の欲動の「原固着(原抑圧)」あるいは「刻印」を理解しようとする彼なりの方法である。(バーハウ、2001、摘要)
無意識は「文字」によって翻訳されうる。l'inconscient peut se traduire par une lettre(ラカン、S22)

これが《ひとりの女はサントームである》の核心である。

une femme est un sinthome pour tout homme(Lacan,S23)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)


以上、いささか断定的に記したが、わたくしの記すことは常に《真理と嘘とのあいだには対立はない》でいくらか詳述化したことがベースとなっているので、蛇足ながらふたたび強調するためにここで断っておく。ようするに「このおっさん、なにをバカなこと言ってんだ!」と嘲弄しながら読まなければならぬ。