母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。
私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。
三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだつぴろい誰もゐない部屋のまんなかに私がゐる。母の恐ろしい気配が襖の向ふ側に煙のやうにむれてゐるのが感じられて、私は石になつたあげく気が狂れさうな恐怖の中にゐる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきづり、窖のやうな物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。
ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!
私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」)
◆Anne Sofie von Otter; "La lune blanche luit dans les bois"; Gabriel Fauré
私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。
私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつたからだつた。 ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはゐられなくなる。その遊びは、私にとつては、常に陳腐で、退屈だつた。満足もなく、後悔もなかつた。(坂口安吾「私は海をだきしめてゐたい」)
私は学校を休み松林にねて悲しみに胸がはりさけ死ねときがあり、私の魂は荒々しく戸を蹴倒して我家へ帰る時があつても、私も亦、母の鼻すら捩ぢあげはしないであらう。私はいつも空の奥、海のかなたに見えない母をよんでゐた。ふるさとの母をよんでゐた。
そして私は今も尚よびつゞけてゐる。そして私は今も尚、家を怖れる。いつの日、いづこの戸を蹴倒して私は死なねばならないかと考へる。一つの石が考へるのである。(坂口安吾「石の思ひ」)
母と私はやがて二十年をすぎてのち、家族のうちで最も親しい母と子に変つたのだ。私が母の立場に理解を持ちうる年齢に達したとき、母は私の気質を理解した。私ほど母を愛してゐた子供はなかつたのである。母のためには命をすてるほど母を愛してゐた。(坂口安吾「をみな」)
◆Frantz Schubert - Du bist die Ruh', D.776 - Gundula Janowitz
あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち、等々。
もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の性格特徴を見出すならば、われわれはこの「同一物の永劫回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかにつよくわれわれのこころを打つ。
一例として、ある婦人の話を想い起こす。彼女は、つぎつぎんい三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった。(フロイト『快原理の彼岸』1920年,pp,161-163、人文書院旧訳よりだが一部変更ーーあらゆる人間関係が、つねに同一の徴に終わるような人がいる)
◆Lois Marshall sings Gabriel Fauré's "Chanson d'amour"
母親への愛着はそれが最初のものでありあまりに強すぎるからこそ、破滅しなければならないということなのであって、これに似たことは最初の、しかも非常に強い恋愛によってむすばれた若い婦人の結婚の場合にしばしばみることができる。(フロイト『女性の性愛について』1931)
母親への依存性のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、母親に殺されてしまう(食われてしまう?)というのはたぶん、驚くべきではあるが、きまっておそわれる不安であるように思われるからである。このような不安は、小児の心に躾や身体の始末のことでいろいろと制約をうけることから、母親に対して生まれてくる敵意に対応すること、また、投影 projektion のメカニズムが早期の心的な体制によって助長されるということは、容易に仮定できる。(フロイト『女性の性愛について』)
《自我であるとともに、自我以上のもの moi et plus que moi》(プルースト「ソドムとゴモラ」)
容易に観察されるのは、性愛の領域ばかりではなく、心的体験の領域においてはすべて、受動的にうけとられた印象が小児には能動的な反応を起こす傾向を生みだす、ということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。それは、小児に課された外界を征服しようとする仕事の一部であって、苦痛な内容をもっているために小児がそれを避けるきっかけをもつこともできたであろうような印象を反復しようと努める、というところまでも導いてゆくかもしれないものである。小児たちの遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置をくりかえすのである。受動的なことに反抗し能動的な役割を好むということが、この場合は明白である。(フロイト『女性の性愛について』)
◆Bárbara Hendricks - Fauré - Les Berceaux
母 mère に対する主人公の愛の中に、愛のセリーの起源 l'origine de la série amoureuse を見出すことは、常に許容される。しかしわれわれはそこでもまたスワンに出会うことになる。スワンはコンブレ―へ夕食に来て、子供である主人公から母の存在を奪うことになる。そして、主人公の苦しみ、母にかかわる彼の不安は、すでにスワンがオデットについて彼自身体験した苦しみであり不安である。《自分がいない快楽の場、愛するひとに会うことのできない快楽の場で、そのひとを感ずる不安、それを彼に教えたのは愛である。その愛にとって不安は或る意味で始めから運命として存在しているのだ。その愛によって、不安は独占され、特殊なものにされている。しかし、私にとってそうであるように、愛がわれわれの生活の中に現れて来る前に、不安がわれわれの内部に入ってくるとき、それはあいまいで自由なものとして、期待の状態で浮動している……》恐らく、母のイメージ image de mère は、最も深いテーマではなく、愛のセリーの理由でもないという結論がここから出されよう。確かに、われわれの愛は、母に対する感情を反復している。しかし、母に対する感情は、われわれ自身が経験したことのないそれとは別の愛を、すでに反復しているのである。母はむしろむしろひとつの経験からもうひとつの経験への移行として、われわれの経験の始まり方として現われるが、すでに他人のよってなされたほかの経験とつながっている。極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
◆Schumann Der Nussbaum Bernarda Fink
《フランソワーズは、レオニ叔母のかたわらで、乳母のイメージである 》(リシャール1974、Jean-Pierre Richard, Proust et le monde sensible)
《他の性 l'Autre sexe は、男たちにとっても女たちにとっても〈女〉La Femme である。》(Jacques-Alain Miller,The Axiom of the Fantasm)
子どもの最初のエロス対象は、彼(女)を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす。
最初の対象は、のちに、子どもの母という人影のなかへ統合される。その母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse 、1940、死後出版)
《他の性 l'Autre sexe は、男たちにとっても女たちにとっても〈女〉La Femme である。》(Jacques-Alain Miller,The Axiom of the Fantasm)
女性性féminité について問いめぐるなか、ラカンは症状としての女性を語る。他の性 l'Autre sexe を支える症状である。最後のラカンの教えにおいて、私たちは症状と女性性とのあいだの近接性を感知しうる。(Florencia Farìas, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin, 2010、PDF)
《マルセルの性的な理想は女中なのだ。女中は彼への配慮を拒否することができないからだ。母ならこれを断ることもできる。女中は満足を与える母である。》(J. Francis レイユ--ーーJean-Yves Tadie, Proust, Belfond, 1983より)
私が白木の大きな机に向かってすわり、たとえばわれわれのかたわらを離れずに暮らしてわれわれの目ざすつとめにある種の直感をもっている気負いのない人間にぴったりの、そんなフランソワーズに見まもれ(……)、そんなフランソワーズのそばで、彼女とほとんどおなじように(いまはひどく年老いて、目もろくに見えないが、せめて彼女が昔やっていたのとおなじように)、私が仕事をするであろうことを。彼女とおなじように、ということはつまり、ここかしこに補足の紙きれをピンでとめながら、私は自分の書物を築いてゆくだろうということなのだ。何もそう野心的に大聖堂のように、などとはいうまい、ただ単に一着の服を仕立てるように。フランソワーズがいうところの、私のばらばらの紙きれ〔パプロール〕が私のそばにみんなそろっていなかったり、また私に必要なそのなかの一枚がちょうど欠けていたりすると、フランソワーズは私のいらだちがよくわかるだろう、そういう彼女は、必要な番手の糸やボダンがないと裁縫はできない、といつも口にしていたのだから。(……)
フランソワーズが紙きれと呼んでいる私のあのばらばらの紙片は、やたらに貼りかさねられて、あちこちでやぶれていた。いざとなったら、私をたすけてフランソワーズはそのやぶれた紙片に裏打ちをしてくれるだろう。それは、自分の服のすりきれた部分に彼女が継ぎをあてたり、私が印刷屋を待つようにガラス屋を待ちながら、料理場の窓のこわれた板ガラスのところに、彼女が新聞紙を貼りつけたりするのと、おなじことではないだろうか? フランソワーズは、虫が食った木材のように傷んでいる私の草稿帳〔カイエ〕を指さしながら、私にいうだろう、「すっかり虫ぼろです、ごらんなさいませ、いやですねえ、ほらこのページの端は、もうレースというよりほかありませんね」、そして仕立屋のようにくわしく目をそのページに通しながら、「もう私にはつくろえそうもありません、だめでございますよ。残念ですねえ、ここのページはあなたさまの一番りっぱなお考えかもしれませんのに。コンブレーで申しますように、毛皮を食う虫以上に目の利く毛皮屋はおりませんですよ。虫はいつも一番いい品物につくのですからねえ。」
それにまた、一つの書物のなかでは、個々の存在は(人間であろうとそうでなかろうと)数多くの印象からつくりあげられるのであって、しかもそれらの印象は、多くの少女、多くの教会、多くのソナタからひきだされて、一つのソナタ、一つの教会、一人の少女をつくりあげるのに役立っているのだから、私が私の書物をつくりあげるのも、あのように多くの部分から選んだ肉片を加え、あのようにそのゼリーを風味ゆたかにして、フランソワーズがノルボワ氏にほめられた、あのブーフ・モードのようなつくりかたでやるのではないだろうか? そしてついに私は現実化することになるだろう、――ゲルマントのほうの散歩で、あのように私が欲したことを、そしてあのように不可能だと思ったことを。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)
◆"Ich liebe dich" E. Grieg
……そんなとき、突然私が目にとめるのは、雨にぬれた路面が日ざしを受けて金色のラッカーと化した歩道にあらわれて、太陽にブロンドに染められた水蒸気の立ちのぼるとある交差点の舞台のハイライトにさしかかる宗教学校の女生徒とそれにつきそった女の家庭教師の姿とか、白い袖口をつけた牛乳屋の娘とかであって、(……)バルベックの道路と同様に、パリの街路が、かつてあんなにしばしばメゼグリーズの森から私がとびださせようとつとめたあの美しい未知の女性たちを花咲かせながら、それらの女性の一人一人が官能の欲望をそそり、それぞれ独自に欲望を満たしてくれる気がする、そんな光景に接するようになって以来、私にとってこの地上はずっと住むに快く、この人生はずっとわけいるに興味深いものであると思われるのであった。(プルースト「ゲルマントのほうⅠ」)
私は窓のところに行き、内側の厚いカーテンを左右にひらいた。ほの白く、もやが垂れて、あけはなれている朝の、上空のあたりは、そのころ台所で火のつけられたかまどのまわりのようにばら色であった、そしてそんな空が、希望で私を満たし、また、一夜を過ごしてから、ばら色の頬をした牛乳売の娘を見たあんな山間の小さな駅で目をさましたい、という欲望で私を満たした。(プルースト「逃げさる女」)
勿論かうした山中のことで、美人を予期してゐないのが過大な驚異を与へるわけだが、脚絆に手甲のいでたちで、夕靄の山陰からひよいと眼前へ現れてくる女達の身の軽さが、牝豹の快い弾力を彷彿させ、曾て都会の街頭では覚えたことがないやうな新鮮な聯想を与へたりする。牝豹のやうに弾力の深い美貌の女が山から降りてくるのも見ました。また黄昏の靄の中で釣瓶の水を汲んでゐる娘の姿を、自然の生んだ精気のやうな美しさに感じたこともあるのです。また太陽へながしめを送りかねない思ひのする健康な野獣の意志を生き甲斐にした日向の下の女も見ました。その人たちがその各々の美しさで、僕をうつとりさせたのですね。(坂口安吾「木々の精、谷の精」)
要するに、究極的な項などは存在しないのであって、わたしたちの愛は母なるものを指し示してはいない nos amours ne renvoient pas à la mère のである。母なるものは、たんに、わたしたちの現在を構成する系列のなかでは、潜在的対象に対して或るひとつの場所を占めているだけであって、この潜在的対象は、別の主体性の現在を構成する系列のなかで、必然的に別の人物によって満たされ、しかもその際、つねにそうした対象=x〔潜在的対象〕の遷移が考慮に入れられているのである。それは、言ってみれば、『失われた時を求めて』の主人公が、自分の母を愛することによって、すでにオデットに対するスワンの愛を反復しているようなものなのだ。親の役割をもつ人物はどれも、ひとつの主体に属する究極的な項なのではなく、相互主体性に属する中間項〔媒概念〕であり、ひとつの系列から他の系列へ向かっての連絡(コミュニカシオン)と偽装の形式であって、しかも、その形式は、潜在的対象の運搬によって規定されているかぎりにおいて、異なった諸主体にとっての連絡と偽装の形式なのである。仮面の背後には、したがって、またもや仮面があり、だからもっとも隠れたものでさえ、はてしなく、またもやひとつの隠し場所なのである。何かの、あるいは誰かの仮面をはがして正体を暴くというのは、錯覚にほかならない。反復の象徴的な器官たるファルスは、それ自体隠れているばかりでなく、ひとつの仮面でもある。(ドゥルーズ『差異と反復』)
ドゥルーズはフロイトの原抑圧un refoulement dit « primaire »に言及しつつ、このことを語っている。
本源的に抑圧されているものは、常に女性的なるものではないかと疑われる。(Freud, Draft M. Repression in hysteria ,1897).
原抑圧とは、現実界のなかに〈女〉を置き残すことと理解されうる。
原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。
この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999ーー「一の徴」日記②)
女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut (Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838)
いや、母が欲することは、神も欲する Ce que la maman veut, Dieu Ie veut
ドゥルーズの《母はむしろむしろひとつの経験からもうひとつの経験への移行として、われわれの経験の始まり方として現われるが、すでに他人のよってなされたほかの経験とつながっている。極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している》における「超越的な遺伝」とは、「母の法」、「母の徴」と読み替えなければならない(参照:「一の徴」日記⑦:トラウマの徴と愛の徴)。
法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。(Geneviève Morel、2009)
《母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである》(Lacan.S5)
事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。
そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF)
《非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …》(S19, 03 Mars 1972)
もちろん肝腎なのはドゥルーズのいうように「母のイメージ」ではなく「母(最初の養育者)による徴」である。
反復は本質において象徴的なものである。記号、シミュラークルが反復自体の文字である。la répétition est symbolique dans son essence, l symbole, le symuracle, est la lettre de la répétition même. (ドゥルーズ『差異と反復』)
反復の概念は転移の概念とは何の関係もない le concept de repetition n'a rien a faire avec celui de transfert.(ラカン、S11、1964)
・転移は反復に要求の形式を与える le transfert donne à la répétition la forme de la demande
・転移以外には、反復は本質的に要求はない Hors transfert, la répétition n’est pas essentiellement demande (コレット・ソレール、2010_« La réptition ne se produit qu’une seule fois »par Colette Soler)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(Lacan, S.17)
「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S.19)
…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.9,1961-1962)
女性の享楽の徴・母の徴(原症状)とは神の徴である。いや逆が真である。
「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。
La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、セミネール23、16 Mars 1976)
ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。 (ラカン、セミネール17、14 Janvier 1970)
何かが原初に起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、「A」の形態 la forme Aを 取るような何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)