2016年12月10日土曜日

「一の徴」日記⑦:トラウマの徴と愛の徴

昼間、学校から家に戻って来た一人の少女。彼女は、母が用意してくれた温かい食事をとるために、台所のテーブルに座る。母はテーブルの向こう側に座っている。母は既に夫と一緒に食事をとったけれど、娘につき合って学校での様子について娘の話をきくことを望んでいる。

少女は美味しい食事を食べ始め、いくつかの母の質問に応える。けれども少女が食事のあいだにほんとうに望んでいるのは、学校の騒動から離れて家庭の静けさと落ち着きに戻って、自分自身と向き合うことだった。

二人はそんなふうに向かい合って座っている。すこしづつ沈黙が領しはじめる。少女は食事に集中してゆく。突然彼女は顔をあげ、目前にぞっとするような眼をふたつ見た。人間的なところは何もない空っぽで不動の両眼が、彼女を見つめている。まるで母は世界から消え去てしまったかのようで、母の場に置き残していったのは、少女を見ないままで見つめている怪物の眼。少女はこの眼差しの下に震えおののく。この光景を前にして目を伏せることができない。

この光景は幼年期に何度も繰り返された。彼女は、思春期をへて、妻になり、仕事をもつ。あの眼差しが戻って来る。そして何年も後の分析治療のあいだに、眼差しはふたたび現れる。常に次の問いを伴ってーー「母はどこにいったのだろう、私に固着した空っぽの眼差しを置き残したとき」。そして常に同じ答えをする、「母はアウシュヴィッツに戻ったんだわ。あんな怪物はアウシュヴィッツ以外の何ものでもありえない」。(Liora Goder, What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan? 、PDF

Liora Goder のこの小エッセイは、冒頭に上の文が記されたあと、美しく育った少女のダンサーとの恋と結婚、かつまたこの小論のテーマである女と女性の享楽をめぐって詳述している。そして結論箇所にふたたび上の文が現われ注釈している。

以下の注釈に頻出する「女性の享楽 jouissance féminine 」とは、《ファルスの彼方にある享楽 une jouissance au-delà du phallus》 (Lacan,S20)であり、象徴界の裂目(非一貫性・非全体 pas- tout) に外立ex-sistence する享楽と一般的には言われてきた。

(このあたりの解釈は2010年前後から、ジャック=アラン・ミレールやコレット・ソレールなどの名高いラカン派臨床家が「現実界的無意識 inconscient réel 」を強調しだしてから確たることは言えなくなっているが、ここではアンコール(セミネール20)移行に転回があったとするミレール等の観点は当面外して記す。)

女性の享楽は、別に「他の享楽 l'autre jouissance 」・「身体の享楽 l'autre jouissance 」ともラカンによって呼ばれている(ex-sistenceの語源はエクスタシーである)。

すなわち「女性の享楽」の「女性」は、解剖学的な女性とは直接には関係ない。

ファルスの彼方とは、フロイトの快原理の彼方と相同的であり、フロイト文脈での彼方には「不気味なもの」、「物 das Ding」、「死の欲動」等々がある。ラカン用語なら「絶対的他者 Autre absolu」、「根源的他者性 altérité radicale 」、「外密 extimité」などにもかかわる。

そしてもちろんそれらはトラウマ的なものである、《現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente》(ラカン、S.11、12 Février 1964)

※やや詳しくは、「基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)」を参照。

ラカンの使うトラウマという言葉は用心して扱わなければならない。解釈者によって構造的トラウマ/事故的トラウマと区分される前者のことであり、我々が通常使うトラウマ(事故的トラウマ)とは異なる。たとえば日本でも中井久夫によって《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である》(中井久夫:幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ))との指摘があって久しいが、この幼児型記憶に近似したものである。

さてLiora Goderの注釈である。

話は理想的で満足感を与えてくれる母のイメージで始まる。けれども突然、この母のイメージはどこかに消え去せ、「女性の享楽」が完全な生身で現れる。母は絶対的な大他者となる。もはや母はいない。母は眼差しの奈落のなかへと消滅し、会話から完全な外部・あらゆる絆の彼方・すべてのコミュニケーションの彼岸へと向かって接触を断つ。

この小さな女の子の「女性の享楽」との出会いは、トラウマ的である。少女は後に、彼女を恐怖で竦ませ戦慄させたこの享楽への魅惑を練り上げるようになる。この光景は反復される。小さな女の子として、思春期の乙女として、若い女性として、彼女は常にこの光景に回帰する。この回帰は同じ問いを伴っている。母はどこに行ったのか? この問いはトラウマ的「女性の享楽」を意味に結びつける試みである。応答として「アウシュヴィッツ」を想像することは、どこでもない場所から彼女の母を取り戻し、母の歴史に再結合しようとする試みである。そうすることによって、母(あの刻限、主体を滅却させてしまった母)を主体として位置づけようとする。

何年も後の若い女性の分析において、何か別のものが現れる。アウシュヴィッツについての無意識的幻想のなかで、彼女の母はハンサムなナチ将校を欲望した。小さな女の子は、母が口にしたことのある「ハンサムなドイツ人」についての発言を元に、この性的幻想を構築した。この幻想は小さな女の子を、トラウマ的「女性の享楽」にファルス的意味合いを繋げることを可能にした。

少女の享楽との出会いは、非ファルス的享楽との出会いであったにもかかわらず、彼女は母を男たちを愛する性的女として位置づけることに成功した。男たちを欲望する母についてのこの幻想は、後年、パートナーの選択を彼女に指定したものとまさに同じ幻想である。しかしパートナー特定の選択を決定づけたものは厳密に、彼女の母の「女性の享楽」に関する少女の魅惑の点だった。

彼女をダンスに誘った若い男が、踊りの最中に己れのなかに没入して、彼自身の顔の上に「女性の享楽」の表出させ、彼女から自身を切り離して遠くに行ってしまったまさにその瞬間、彼女はたちまち恋に落ちた。

目を閉じた若い男の恍惚状態は、男を彼女の母の「女性の享楽」に繋げる特定の徴である。そしてその徴が彼女の愛を鼓舞した。明らかに彼女はそれに気づいていなかった。彼女は途方もなく素敵に踊るハンサムな男に恋に落ちた。彼女は知らなかった。数年の臨床分析を経て、彼女がこの男に魅了されたものは、母のなかに出会ったトラウマ的「女性の享楽」と直かに結びついているのに感づいた。

しかしながらこの享楽は、ファルス的衣装を着せられていた。言い換えれば、小さな女の子にとって非ファルス的享楽は、ファルス的享楽の対象a に変形された。愛の生活のエロス化と標準化を可能にするファルス関数は、享楽の堪え難いトラウマ的臍が、魅惑をもたらすエロス的・性的衣装のなかで、ファルス化された対象a へと変質するような仕方で作用した。

このファルス的衣装が、現実界的対象の恐怖をアマルガム化された対象への移行を可能にする。したがって「女性の享楽」は、彼女のパートナーのなかで既にこの変形を受けていた。少女の母のなかの硬直した・死のような享楽は、享楽で充溢した踊る身体とその童顔へと変形された。このメタモルフォーゼは、既にファルス的衣装ーー恐怖の対象からアマルガム化された対象に向けての移行を促すファルス的衣装ーーの効果をもっている。

この事例では二つの点が興味深い。

第一に、パートナーとして選ばれた男は「女性の享楽」へのアクセスを持つものとして同定された。したがって、性別化の式の女性側に印される。この例は、生物学的な解剖構造によって定義される男が、完全に女性側に己れを位置づけうるという観察を我々に許してくれる。そしてこれは彼をホモセクシャルにするわけではない。

第二に、そして結論として、対象a ーーファルス享楽の対象であり、それ自体、パートナーの魅力とエロス化され性化されたイメージによって衣装を着せられてなければならないーーは、この特徴ある事例では、「女性の享楽」を覆っていた。したがって我々はここで、二重の衣装化をみる。すなわちトラウマ的女性の享楽は対象a によって覆われファルス化される。そしてこの対象a 自体が、魅惑的ダンサーによって覆いを着せられていた。(同 Liora Goder, What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan? 、PDF

Liora Goderの叙述は、トラウマの徴と愛の徴とのあいだの関係だけではなく、それらとの対象a のかかわりがとてもよく書かれている論である、--とわたくしは思う(Liora Goderという分析家のことはまったく知らなかったのだが、今回「一の徴」シリーズを記すことによってめぐりあった論である)。

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。 (ラカン、セミネール17)

Liora Goder が記す母によるトラウマ的「女性の享楽」 の侵入がそのまま「一の徴」であるかどうかは保留しておこう。だが「一の徴」と同じ機能をもっているには相違ない。

「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)
私は信じている、「一の徴」というシニフィアンの卓越した機能、そして幻想のなかの対象a 、この両者への主体の連携のあいだには関係性がある、と。(Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm

わたくしが6歳のとき、母は「精神分裂病」と診断された。だが1960年代当時の当時のことである。しかも名古屋の「藪医者」の診断だった(名市大の木村敏・中井久夫による黄金時代はまだ始まっていなかった。もっとも今でもアドラーなどと真顔で語る精神科医が日本には跳梁跋扈しているので、1960年当時に比べてまともになっているわけではないだろうが。日本に流通しているアドラーとは人生指南のたぐいであり、その啓蒙的効用を否定するものではないが、「すぐれた」精神科医がまともに扱う話ではない、とわたくしは思う)。

現在では、50歳で死んだ母は実は「戦争神経症」だったのではないかと疑っている。思い返せば、その証拠のようなものはいくらでもある。

その意味でも少女のアウシュヴィッツの話は、わたくしにとって衝撃的である。そして母自身によってもたらされた何度もくり返された光景がわたくしにもある・・・

とはいえわたくしの母の年頃の人物はなんらかの形で戦争の傷跡を残している人がすくなくないだろう。作家たちを思い浮かべてみても、大江健三郎、古井由吉、中井久夫などが母と同じ世代である。彼らにはそれぞれの仕方で「喪の作業」をしているかに読める作品がある、《戦争について書こうとする作業は、私の一種の喪の作業であることに最近気づいた》(中井久夫「戦争と平和 ある観察」2005)

…もう一つ書きたいと思ったのは、男にとって女とは何かです。母親ではあるんですよ。“一切の女人、これ、母親なり”という、仏典か何かにあるんだそうですね。例えば戦争中に戦地へ送り込まれた兵隊の間で、母親信仰というのが強かったと聞きます。

僕も母親と姉とに引かれて走っているわけですよ。逃げている周りに、やっぱり女性は多かった。これはもういかんというときに、女たちに包まれる。その感覚は成人しても濃厚に残っている。

だから、男女のこと、いわゆるエロティシズムのことだけじゃなくて、男が女に生命を守られるという境。それからもう一つ、女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)

親の心の傷は子供に届く。

予想されるように、ホロコースト生存者の子どもは、他の両親の子どもよりも、PTSD になる傾向が高い。しかしながら、奇妙なことに、これらの子どもたちのほうが親たちよりも心的外傷後ストレス障害をよりいっそう経験することが示されている(Yehuda, Schmeidler, Giller, Siever, & Binder-Brynes, 1998)。

これらの親たち--犠牲者自身--が機能している可能性があるのだろうか、その子どもたちにトラウマ経験を飼い馴らす必要不可欠なツールを提供し得ないようなものとして? この問いには容易には答え難い。(ACTUAL NEUROSIS AND PTSD The Impact of the Other Paul Verhaeghe, and Stijn Vanheule、2005,PDFーーホロコースト生存者の子供たちのPTSD

ーーと引用しても、わたくし自身が PTSD であるなどというつもりは毛頭ない。ただし次のような経験はある。そしてそれは、なんらかの形で「母からの徴」が影響しているのかもしれないと考えられないではない。

あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち、等々。

もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の性格特徴を見出すならば、われわれはこの「同一物の永劫回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかにつよくわれわれのこころを打つ。

一例として、ある婦人の話を想い起こす。彼女は、つぎつぎんい三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった。(フロイト『快原理の彼岸』1920年,pp,161-163、人文書院旧訳よりだが一部変更ーーあらゆる人間関係が、つねに同一の徴に終わるような人がいる