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2016年11月29日火曜日

あらゆる人間関係が、つねに同一の徴に終わるような人がいる

以下に掲げるフロイトの『快原理の彼岸』の文は、後のフロイト解釈者たちの見解を思慮にいれると、語彙的にはいくらか疑念はある。

たとえば、反復と転移。

転移のさいの態度や人間の運命についての観察に直面すると、精神生活には、実際の快原理 Lustprinzip の埒外にある反復強迫 Wiederholungszwang が存在する、と仮定する勇気がわいてくるにちがいない。(フロイト『快原理の彼岸』1920)

これに対して次のような話がある(反復と反復強迫の区別はしなければならないのだが、ここではそれにつっこむことはしない)。

・反復の概念は転移の概念とは何の関係もない le concept de repetition n'a rien a faire avec celui de transfert.(ラカン、S11、1964)
・転移は反復に要求の形式を与える le transfert donne à la répétition la forme de la demande

・転移以外には、反復は本質的に要求はない Hors transfert, la répétition n’est pas essentiellement demande (コレット・ソレール、2010_« La réptition ne se produit qu’une seule fois »par Colette Soler)

あるいは「永劫回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」、つまりは「同じものの回帰  retour du Même」について。

…われわれはこの「同一物の永劫回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかにつよくわれわれのこころを打つ。(フロイト『快原理の彼岸』)

 これに対して次のような話がある。

〈永遠回帰〉は〈反復〉である。だが、それは選り分ける〈反復〉であり、救う〈反復〉なのである。解き放ち、選り分ける反復という驚くべき秘密なのである。

L'Éternel Retour est la Répétition ; mais c'est la Répétition qui sélectionne, la Répétition qui sauve. Prodigieux secret d'une répétition libératrice et sélectionnante.(ドゥルーズ『ニーチェ』1965)
永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異 la pure différenceの世界から派生する。

・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

このいささか難解な文とは別に、ドゥルーズはこうも書いている。

反復は本質において象徴的なものである。記号、シミュラークルが反復自体の文字である。la répétition est symbolique dans son essence, l symbole, le symuracle, est la lettre de la répétition même. (ドゥルーズ『差異と反復』) 

これはラカンの次の言明と「ともに」読むことができる。

「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S.19,1971-1972)
…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.9,1961-1962)
純粋差異としての「一」は、要素概念と区別されるものである。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(S.19,1971-1972)


すこし前に掲げたドゥルーズの永遠回帰をめぐる文に、《純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi》とあったように、ラカンの「純粋差異」と(基本的には)同じことを言っている。

つまり核心としては純粋差異の「一の徴」なのだが、これらの前提はあるにしろ、以下のフロイトの『快原則の彼岸』の文は、しみじみと何かを感じさせる文で(雑音は脇にやって)素直にくり返し読んでみたいところがある。たとえば、《女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち》などという文に再会して、あっ、あっ、あっ、あー、あ~、と奇妙な叫び声がどこからか響きわたって来るのは、おそらく架空の登場人物蚊居肢散人の過去からの谺であろう・・・

いずれにせよ、《あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいる》における「同一の結果に終わる」という表現はーーいくらかフロイト後の注釈者たちの雑音に耳を傾けてもーー「同一の徴=純粋差異に終わる」と翻訳したらいいだけである。

精神分析が、神経症者の転移現象について明らかにするのとおなじものが、神経症的でない人の生活の中にも見出される。それは、彼らの身につきまとった宿命、彼らの体験におけるデモーニッシュな性格 dämonischen Zuges といった印象をあたえるものである。精神分析は、最初からこのような宿命が大かたは自然につくられたものであって、幼児期初期の影響によって決定されているとみなしてきた。そのさいに現れる強迫は、たとえこれらの人が症状形成 Symptombildung によって落着する神経症的葛藤を現わさなかったにしても、神経症者の反復強迫 Wiederholungszwang と別個のものではない。

あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち、等々。

もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の性格特徴を見出すならば、われわれはこの「同一物の永劫回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかにつよくわれわれのこころを打つ。

一例として、ある婦人の話を想い起こす。彼女は、つぎつぎんい三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった。(……)

以上のような、転移のさいの態度や人間の運命についての観察に直面すると、精神生活には、実際の快原理 Lustprinzip の埒外にある反復強迫 Wiederholungszwang が存在する、と仮定する勇気がわいてくるにちがいない。また、災害神経症者の夢と子供の遊戯本能を、この強迫に関係させたくもなるであろう。もちろん、反復強迫の作用が、他の動機の助力なしに純粋に把握されるのは、ごくまれな場合であることを知っておく必要がある。小児の遊戯のさいに、われわれは、その発生についてどのような別種の解釈ができるかをすでに指摘した(糸巻き遊び、fort-da「いないいないばあ」のこと:引用者[参考])。

反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い衝動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。転移の現象が、抑圧を固執している自我の側からの抵抗に奉仕しているのは明らかである。治療が利用しようとつとめた反復強迫は、快原理を固執する自我によって、いわば自我の側へ引き寄せられる。

運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多いと思われるので、新しい神秘的な動機を設ける必要はないように思う。もっとも明白なのは、災害の夢であろうが、ほかの例でも一層くわしく吟味すると、われわれがすでに知っている動機の作用によってはつくしがたい事態のあることをみとめなければならない。反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快原理をしのいで、より以上に根源的 ursprünglicher、一次的 elementarer、かつ衝動的 triebhafter であるように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年,pp,161-163、人文書院旧訳よりだが一部変更)

…………

※付記

■ドゥルーズ
フロイトのあらゆるテキストのうちで、傑出した書物たる『快感原則の彼岸』は、おそらくフロイトがこれこそ哲学的と呼ぶほかない考察のうちに、最も直線的に、しかも驚くべき才能をもって、透徹せる視線を注いだテキストであるに違いない。(……)

「彼岸」によって、フロイトが快感原則の例外的なものをいささかも意味していないのはたちどころに明瞭となる。(……)要するに、快楽それ自体の奇妙な複雑化現象がありはしても、快感原則には例外は存在しないのである。(……)快感原則には例外はないが、その原則には還元しがたい残滓が存在するのである。快感原則に逆らうものは何もないが、その原則の外部にあるもの、異質な何ものかーーつまり彼岸……が存在するということなのである。(……)

要するに、少なくとも快感だけでは説明しがたい何ものかがあり、それは快感の外部にとどまりつづけている。すなわちそれは、原則をめぐる価値であり、心的生活のうちにそれを求めねばならない。快感を一つの原則たらしめ、快感に原則たる地位を与え、快感を心的生活に従属させる上位の結合とはいかなるものか? (……)肝腎な点は、快感原則の例外ではなく、この原則の基礎の確立なのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』原著1967、蓮實重彦訳,pp138-140)
エロスの彼方にはタナトスがある。底の彼方には、底なしの深淵がある。絆としての反復の彼方には、消しゴムとしての反復があって、それにはものを消滅させ、殺害する力がそなわっている Au-delà Éros, Thanatos. Au-delà du fond, le sans fond Au-delà de la répétition-lien, la répétition- gomme, qui efface et qui tue (ドゥルーズ『マゾッホとサド』 p.141)

■ニーチェ
最大の重し:もしある日、またはある夜、デーモン Dämon が君のお前のあとを追い、お前のもっとも孤独な孤独のうちに忍び込み、次のように語ったらどうだろう。

「お前は、お前が現に生き、既に生きてきたこの生をもう一度、また無数回におよんで、生きなければならないだろう。そこには何も新しいものはなく、あらゆる苦痛、あらゆる愉悦、あらゆる想念と嘆息、お前の生の名状しがたく小なるものと大なるもののすべてが回帰 wiederkommenするにちがいない。しかもすべてが同じ順序で―この蜘蛛、樹々のあいだのこの月光も同様であり、この瞬間と私自身も同様である。存在の永遠の砂時計はくりかえしくりかえし回転させられる。―そしてこの砂時計とともに、砂塵のなかの小さな砂塵にすぎないお前も!」

ー―お前は倒れ伏し、歯ぎしりして、そう語ったデーモンを呪わないだろうか? それともお前は、このデーモンにたいして、「お前は神だ、私はこれより神的なことを聞いたことは、けっしてない!」と答えるようなとほうもない瞬間を以前経験したことがあるのか。

もしあの思想がお前を支配するようになれば、現在のお前は変化し、おそらくは粉砕されるであろう。万事につけて「お前はこのことをもう一度、または無数回におよんで、意欲するか?」と問う問いは、最大の重しとなって、お前の行為のうえにかかってくるだろう! あるいは、この最後の永遠の確認と封印以上のなにものも要求しないためには、お前はお前自身と生とにどれほど好意をよせなければならないことだろう?(ニーチェ『悦ばしき知識 Die fröhliche Wissenschaft』341番 信太正三訳→独原文


■フロイト
私は思弁のみに身を任せてしまったのではなく、逆に分析による資料を重視し、臨床的な技法的テーマを取り扱うことをやめなかった。私は哲学に近づくことは避け、大切な点ではフェヒナーに頼ることにしていた。精神分析がショーペンハウアーの哲学と広汎な一致があるとしても(彼は感情の優位性と性愛の意義を重視し、抑圧のメカニズムも知っていた)、私が彼の本を読んだのはずっと後になってからだ。ニーチェの洞察も精神分析の成果と驚くほど合致するのだが、だからこそ公正さを保持するために避けてきた。(フロイト『自己を語る』1925)


■ラカン
・その徴は、裂目clivage ・享楽と身体とのあいだの分離 séparation de la jouissance et du corps から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription は、この瞬間からその問いが立ち上がる。(S17)

・「一の徴」の機能 la fonction du trait unaire、それは徴の最も単純な形式 la forme la plus simple de marque であり、シニフィアンの起源 l'origine du signifiantである。(S17)

・反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(S.17)

・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)


■ラカン解釈者たちの見解のいくつか

もちろん、上のようにラカンの言葉を並べても、では「享楽」とは具体的に何なのか、という問いはあるだろう。以下、いくらかの見解を並べる。

私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
ラカンは最初には「存在欠如 le manque-à-être」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)
parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望
欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »
リアル real な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽とは、享楽欠如を享楽することのみを意味する。というには、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)
《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》、つまり原初の欠如は、《生み出された=ジェンダー化された s'engendre》有機体が、まさにジェンダー を獲得しために喪うものである。それは、《生存在 l'être vivant》が《性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuée》に服従することによる喪失である。すなわち《永遠の生(不死の生 vie immortelle)》の喪失。対象a とは、出産時に喪われた個人のその部分の、絶え間ない不可能な表象を表す。(ヴェルハーゲ、2001,Verhaeghe, P. (2001). Beyond Gender. From Subject to Drive.、二重山括弧内はすべてラカンのS11から )

ーーこれが必ずしも正しいか否かはわたくしにはいまだ曖昧なままである(たぶん永遠に曖昧なままだ)。そんなこと(人間の生の謎、より穏やかにいえば反復強迫の謎)が分かってしまったら人生はつまらない・・・

いやあでも、ほんとに享楽欠如の享楽だけなんだろうか? 

誰も牡蠣 huitre やビーバー castor が何を享楽するのかについて知らない。というのは、シニフィアンがないため、享楽と身体とのあいだの距離がないから 。牡蠣もビーバーも植物と同じ水準にある。結局それらもおそらく享楽を持っているだろうが、その水準にてである!

享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。(ラカン、セミネール17)


人間にも牡蠣やビーバーのように享楽(身体の享楽)することがあるんじゃないか。あるいは「器官なき身体」のように、あるいは《身体もなく、性もない処女 UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE 》(アルトー)として享楽することが。

だがこれも《生存在 l'être vivant》が《性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuée》に服従することによる喪失》したものにかかわるのなら、やはり享楽欠如の享楽なんだろうか・・・

だったら結局「死」のまわりを循環運動しているだけじゃないか、つまらんね、人間というかすべての生き物ってのは。

死への道 le chemin vers la mort は、享楽 jouissance と呼ばれるもの以外の何ものでもない。(ラカン、S.17)
・死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。

・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』)

ーーそんな程度のことならあらためて言われなくたってずっとむかしから分かってるさ。

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。(ビシャ――フーコー『臨床医学の誕生』より)
・昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。

・女が孕んで、立っている姿は、なんという憂愁にみちた美しさであったろう。ほっそりとした両手をのせて、それとは気づかずにかばっている大きな胎内には、二つの実が宿っていた、嬰児と死が。広々とした顔にただようこまやかな、ほとんど豊潤な微笑は、女が胎内で子供と死とが成長していることをときどき感じたからではないか。(リルケ「マルテの手記」)
死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。(リルケ「ドウイノの悲歌」)