「譲渡できる対象objet cessibleとしての対象a(Richard Boothby)」には次のような文があった。
ラカンは対象aを糸巻きにたとえた。フロイトの孫が母の出発と出現を再演したあの糸巻き(Fort- Daいないないばあ)である。内部と外部、自身と異物の矛盾において、対象aは「主体の小さな部分、彼をそれ自身から切り離すもの、いまだ彼のままであり、いまだ失われないままでありながら」 (FFC, 62)というものである。
ここでは基本に戻って、フロイトの糸巻き=対象aをめぐる叙述をいくらか拾ってみよう。
…………
フロイトの『快感原則の彼岸』にでてくる「いない-いた Fort- Da」遊びは、フロイトに関する理解度をはかる上で恰好のテストになるかもしれない。標準的な解釈によれば、フロイトの孫は、糸巻きを投げることによって、母親の不在と回帰を象徴化している。「いない Fort!」──そして糸巻きをたぐり寄せて──「いた Da!」というふうに。したがって、事態は明確であるようにみえる。母親の不在というトラウマを経験した子供は、その不在を象徴化することによって不安を克服し、状況を操作するのである。母親を糸巻きに置き換えることによって、この子供は、母親の出現と消失を演出する舞台監督になるのだ。かくして不安は、子供がこの支配力を嬉々として行使するなかで、首尾よく「止揚される aufgehoben」。(ジジェク『操り人形と小人』中山徹訳)
以下続くが、手元に邦訳がないのでーー上の文はインターネット上で拾ったーー私訳(ZIZEK ,The Puppet and the Dwarf,2003)。
しかしながら事態はほんとうにそんなにはっきりしているのだろうか? 糸巻きが母の身代りではなく、ラカンが対象aと呼んだものの身代りだったらどうだろう。私のなかにある究極的な対象、母が私のなかに見るもの、私を母の欲望の対象にさせるものだったら? フロイトの孫が自らの消滅と回帰を上演しているのだったら?
この正確な意味で、糸巻きはラカンが呼ぶところの「二等分線biceptor」である。それはまさに子どもにも母にも属していない。二つの間のなかin-between、二つの組から締めだされた交線である。ここでラカンの名高い言葉を取りだそう、「私はあなたを愛する。だがあなたのなかには、私が愛するあなた自身以上のなにか、対象aがある。だから私はあなたを滅ぼす」。ーーこれが、あなたからあなたの存在のリアルな核を摘出する試みとしての、現実界への破壊的情熱の基本的な定式である。
これが〈他者〉の欲望との遭遇において不安を引きおこすものである。すなわち、〈他者〉が目指しているものは、たんに私自身ではなく、私のリアルな核である。それは私はのなかにあって私以上のもの、そして彼(女)はその核を摘出するために私を滅ぼす…。これは、対象aの究極の外-親密ex-timate的特徴の映画的表現ではないだろうか。私のなかにあって「エイリアン」ーー同じ名の映画のそれーーであるもの、まったく文字通り「私のなかにあって私自身以上のもの」、私自身のまさに中心にある「異物 foreign body」、それゆえ、私の破滅の代償を払ってのみ私から摘出されうるものでは?
したがって、我々は標準の配置をひっくり返すべきである。すなわち本当の問題は私(彼女の子ども)を享楽する母なのである。そしてこのゲームの本当の賭け金は、この閉鎖から逃げだすことである。ほんとうの不安は、こうやって〈他者〉の享楽に囚われていることなのである。
だから、私の母を失うことについての不安ではないのだ。(糸巻き遊びとは)私が母の出発/到着を支配しようとする試みではない。そうはなく、母の圧倒的な現存presenceについての不安である。私は必死になって空間を切り開こうとするのだ、その空間にて母への距離を獲得しうるように。そうしてやっと私の欲望を維持できるようになる。
こうして我々はまったく異なった状況を見ることになる。ゲームを支配する子どもの代わりに、かつまた母の不在のトラウマを処理する子どもの代わりに、我々は母による息が詰まるような抱擁から逃れ、欲望するための開かれた空間を構築中しようとする子どもを見る。「いないいないばあ Fort- Da」の冗談めかした交換の代わりに、二つの軸のあいだーーどちらの軸も満足をもたらさないーーそのあいだの必死の揺れ動きを見るのだ、あるいはカフカ(エリオット? :訳者→参照)が書いたように、「私はあなたと一緒では生きられない。そしてあなたがいなくても生きられない」。そしてこれが心の認知科学において失われている側面、「いないいないばあ Fort- Da」遊びの最も初歩的な側面である。
このジジェク(あるいはラカン)の糸巻き遊びの捉え方は、一見やや極論すぎるという見方もあるかもしれない。《母の圧倒的な現存presenceについての不安》、はたしてそれだけだろうか、母がいなくなってしまう不安もあるのではないか。
たとえばその問いは、ポール・ヴェルハーゲによって、「融合不安/分離不安」として定式化されている(参照:古い悪党フロイトの女性論)。融合不安だけではなく、分離不安もあるに相違ない、と。
もっともヴェルハーゲ自身、90年代には、母との融合不安を強調していた。
構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。 (Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)
さて、ジジェク(あるいはラカン)のいわゆる極論、《私の母を失うことについての不安ではないのだ。(糸巻き遊びとは)私が母の出発/到着を支配しようとする試みではない。そうはなく、母の圧倒的な現存presenceについての不安である。私は必死になって空間を切り開こうとするのだ、その空間にて母への距離を獲得しうるように》について、いささか是正しうるなら、次ぎのヴェルハーゲの叙述がその核心部分である。
すなわち、「母を失うことについての不安」を分離不安、「母の圧倒的な現存presenceについての不安」を融合不安として読もう。
最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的なsomatic未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。
そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。
フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安fusion anxietyと呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。
このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。
ラカン理論は後者を強調した。そしてそれを母なる〈他者〉 (m)Otherに享楽される単なる対象に格下げされる幼児の不安として解釈した。フロイトの受動的ポジションと同様に、である。
これはラカン理論における必要不可欠な父の機能を説明する。すなわち第三者の導入が、二者-想像的段階にとって典型的な選択の欠如に終止符を打つ。第三者の導入によって可能になる移行は、母から身を翻して父に向かうということでは、それ程ない。むしろ二者関係から三者関係への移行である。これ以降、主体性と選択が可能になる。(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009「古い悪党たちの新しい研究」)
ここで、フロイトにとって融合/分離とは、エロス/タナトスにかかわる用語であることにも注意しておこう。
エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)
《統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする》ことは、「分離」であり、タナトス欲動である。
さて、われわれには、おそらくヴェルハーゲの解釈のほうが(一見は)納得的にみえるのではないか。だがジジェクは最近でもこう強調している。
最も根源的には、フロイトが語った小さな子どもについての無力helplessnessは、身体的な無力、自らの必要needsに備えることの不能力ではなく、〈他者〉の欲望の謎に直面した無力、〈他者〉の享楽の過剰に無力感にとらわれて竦むことである。(Zizek,LESS THAN NOTHING,2012)
分離不安も融合不安もあわせて、《〈他者〉の欲望の謎に直面した無力、〈他者〉の享楽の過剰に無力感にとらわれて竦むこと》とできないわけではなさそうだ。
このあたりの相剋は、欲動二元論/欲動一元論の立場の相違にもかかわってくるはずだ(参照:フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって)。
通常、哲学派(超越論者)は欲動一元論(タナトス一元論)をとることが多い。他方、臨床派(経験論者)は、欲動二元論(エロス/タナトス)をとる傾向にある(あるいは「死の欲動」概念にそもそも抵抗を示して触れないままであることも多いようにみえる)。
…………
※附記1:
◆フロイトによる糸巻き遊びの叙述箇所(『快感原則の彼岸』1920)より
子どものfort-da(いないいないばあ)の糸巻き遊びの箇所だが長くなるので、なぜfort(いない)だけが倦むことなく繰り返される場合があるのか、という問いが書かれた後の文。
こうなれば遊戯の意味は、ほぼ解かれたもおなじである。それは子供のみごとな躾の効果と関係があった。つまり母親が立ち去るのを、さからわずにゆるすという欲動断念(欲動満足に関する断念)を子供がなしとげたことと関係があった。子どもは自分の手のとどくもので、同じ消失と再来を上演してみて、それでいわば欲動断念を埋め合わせたのである。この遊戯を情動の面から評価するさい、子供がみずから案出したのか、それとも何かに誘発Anregungされてわがものにしたのかは、むろん問題ではない。われわれの関心は、他の一点にむけられるであろう。母親の出発Fortgehenは、子供にとって好ましかったはずはなく、またどうでもよかったこととも考えられない以上、子供が苦痛な体験を遊戯として反復することは、どうして快感原則に一致するのであろうか。出発はよろこばしい再出現の前提条件として演じられるのに相違なく、再出現にこそ本来の遊戯の目的があったはずだ、と答えたくなるかもしれない。しかし、最初の行為、つまり出発が単独で遊戯になって演出され、しかもそれが、快い結果にみちびく完全形よりも、比較にならないほどたびたび演じられたという観察は、その答に矛盾することになるだろう。
このようなただ一つだけの場合の分析から、確実な結論はみちびけない。しかし、偏見なしに観察すれば、子供は別な動機から自分の体験を遊戯にしたてたのだという印象をうける。子供はこの場合、受け身だったのであって、いわば体験に襲われたのであるが、いまや能動的な役割に身を置いて、体験が不快であったにもかかわらず、これを遊戯として反復しているのである。この志向は、記憶そのものが快に充ちていたかどうかには関わりのない、征服Bemaechtigung欲動に帰することもできるかもしれない。しかしまた、別の解釈を試みることもできる。見えなくなるように、物を投げすてることは、子供〈のもと〉から出発fortgehenした母親にたいする、日ごろは禁圧された復讐欲動の満足でもありうる。さあ、出発fortgehenしろよ、お母さんなんかいらない、ぼくがお母さんをあっちへやっちゃうんだ、という反抗的な意味をもっているのかも知れないのだ。(……)ここで論議されたいくつかの例では、この衝迫が不愉快unangenehmな印象を遊戯のなかに反復したのは、この反復に、種類がちがってはいるが、ある直接的な快獲得が結びついているからでしかないかもしれないからである。
(……)子供たちは、生活のうちにあって強い印象をあたえたものを、すべて遊戯の中で反復すること、それによって印象の強さをしずめて、いわば、その場面の支配者になることは、明らかである。しかしこの反面、彼らの遊戯のすべてが、この彼らの年代を支配している願望、つまり大きくなりたい、大人のようにふるまいたいという願望の影響下にあることも充分に明白である。また、体験が不快だからといって、その不快という性格のせいで、体験を遊戯に利用できなくなるとはかぎらないことも観察されている。たとえば医者が子供の喉の中をのぞきこんだり、ちょっとした手術を加えたりすると、この恐ろしい体験は確実にすぐあとの遊戯の内容になるであろうが、そのさい他の理由から快感を獲得することも見落とすわけにはいかない。子供は体験の受動性から遊戯の能動性に移行することによって、遊び仲間に自分の体験した不快を加え、そして、この代理のものに復讐するのである。(フロイト『快感原則の彼岸』p156-158 人文書院旧訳)
※附記2:
◆FIGURATIONS OF THE OBJET (A Freud as Philosopher. New 2001,Richard Boothby)より
フロイトのdas Dingのラカンによる再概念化は、Nachtraglichkeitのフロイト理論をラディカルに拡張し一般化する。フロイトが、子どものトラウマの遅延した効果にとりわけ関心があった一方、ラカンにとって遡及性Nachtraglichkeitの一般的機能が、人間としての主体のまさに存在自体を構成する。ラカンのNachtraglichkeitは、言語と知覚とのあいだの関係にかかわる。
Nachtraglichkeitの本質的な活動は、イメージに対する言葉の優位性にかかわる。言語のシニフィアンーーもっとも、それは幼児によって十分に獲得されていないものであり、長い時を経て、ようやく知覚の機能が人格形成の決定的な効果をもたらすのだがーーそのシニフィアンは、つねに、すでに、決定的な役割をもっていると言いうる。シニフィアンの訴求性が意味するのは、どんな純粋かつ無垢な経験論もない、言語の構造化する影響によって汚染されていないどんな人間の知覚の生産物もない、ということだ。言葉の力は、いつも-すでに、イメージのいずれの記録の先鞭を付けている。そのオリジナリティを絶対化しようとする感覚についてのどんな主張も、劣質の思考によるものと烙印を捺されることになる。
さて我々は最後の決定的な話題に移ろう。言語の遡及性によって開かれた空間において、際立ったフォーム、イメージと言葉のあいだの交点の生産物が出現する。ラカンはそれを“対象a”と呼んだ。対象aはdas Dingの谺である。それはシニフィアンのシステムを循環している。ジジェク曰く、《対象aは〈モノdas Ding〉が象徴化のプロセスを被ったのちの〈モノ〉の残余を示す》(Slavoj Zizek, The Plague of Fantasies , 1997)。〈モノ〉と同じように、対象aは不確定性の座の徴である。それは身体的構造に繋がっているが、またあらゆる化身とは決定的に区別される。それがすべてのシニフィアン化の彼方を徴づける範囲で、意味作用のどの活動の構成要素である。