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以下、メモ。下に引用(私訳)した譲渡できる対象をめぐる叙述が核心だが、その前段の対象aの一般的な説明箇所も掲げる。フロイトの糸巻き遊びFort- Daの糸巻きがラカンにとっては対象aだったことを忘れないでおこう。
◆“Richard Boothby, Freud as Philosopher, 2001”より“FIGURATIONS OF THE OBJET”の章から(私訳)(JACQUES LACAN Critical Evaluations in Cultural Theory Edited bySlavoj Zizek 2003所収)
対象aの概念は、たぶんラカンによる精神分析理論への最もオリジナルな貢献である。小文字の "a," "autre,"の最初の文字は、他者との本質的な関係を示すとともに、数学的な意味での、アルジェブラの変数、あるいは「機能」を示すことが意図されている。
対象aのコンパス内で、ラカンはよく知られている精神分析の部分対象を一つ一つ拾うのだが、フロイトの発展段階にかかわる口唇、肛門、ファルスだけでなく、彼自身によるいくつかをつけ加える。ラカンが対象aの形象化として引き合いに出すのは、「乳首、糞便、ファルス(想像的対象)、小便(尿流)、音素、眼差し、声」(E, 315)である。
たぶん対象aの最も挑発的な側面は、その閾的な特徴である。そしてそれは二つの意味において、である。まず、対象aは奇妙にも主体と他者のあいだに宙吊りになる。どちらにも属しているし、どちらにも属していない。同時に、〈他者〉のなかにある最も他者的なものを示すのだが、しかしそれは主体自身に親密につながれている。
ラカンは対象aを糸巻きにたとえた。フロイトの孫が母の出発と出現を再演したあの糸巻き(Fort- Daいないないばあ)である。内部と外部、自身と異物の矛盾において、対象aは「主体の小さな部分、彼をそれ自身から切り離すもの、いまだ彼のままであり、いまだ失われないままでありながら。」 (FFC, 62)ということになる。
おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。
しかし、対象aはまた二番目の意味でも限界的である。それはラカンの基礎的なカテゴリー、想像界、象徴界、現実界の三つのすべてに関与しつつ、そのどれにも限定的には属さない。想像界において、いかにも身体のイメージされた部分(乳房、糞便…)として、最も原初の表象を見いだす対象aではありながら、ラカンによって意図されているのは想像的なものの限界を徴づけもする。、「欠如しているもの(としての対象a)、それは、非 -反射的non-specularであり、イメージのなかで把握されない」(S.I, 218)。
さらにまた、対象aは言語にかんするシニフィアンと密接に関係しており、意味作用の構成的効果でもある。こうしてラカンは次のように主張することになる、「(対象aは)、〈他者〉の座における主体の構成の残余として定義される。主体が自身を話す主体、斜線を引かれた主体$として構成する限りにて、である」(S.X, 6-12-63)。しかし、シニフィアンなしでは存在しないにもかかわらず、対象aはまた本質的に象徴化に抵抗する。
ラカン曰く、対象aは「シニフィアンの領域内で、つねにそれ自身を失われたものとして表す。意味作用への失われたものとしてである」(S.X, 3-13-63)。対象aは、想像界あるいは象徴界のどちらによっても吸収されえない残余、屑、滓なのだ。そういうものとして、対象aは現実界に起因する。ラカンがときに言うように、不可能な対象、逆説的にそれそのものとしてはけっして現れない対象である。
ラカンは、対象aを欲望の「対象-原因」として描写しつつ、その遡及的な特徴を強調している。この遡及性の効果において問題となっているのは、主体それ自体の構造以外のなにものでもない。
文法上の慣習に根ざしたコモンセンスの風潮としては、欲望が定着する対象のどんな問いがありうる前に、最初に主体があるにちがいないと思いこんでしまう。逆にラカンが主張するのは、欲望する主体が最初に構成されることにかかわる対象、その対象がいつも-すでにあるということだ。しかしそれはただのどんな対象でもない。欲望の原因として機能する対象は、原初に失われたもの、あるいは本質的に欠けている対象、底から否定的な対象なのである。それは不在である。それが現れうる前に不在なのであり、その非-存在non-beingはその存在beingに先行する。
その逆説的な構造のために、対象aは、そのまわりを欲動がまわる永遠に不在の座 として、トポロジカルに描写するしかない。こういうわけで、対象aはすぐれて精神分析的な対象である。
「…対象aは、主体が、自らを構成するために、器官として分離する何かだ。これは欠如のシンボルとして働く。いわばファルスのようにーーファルスそのものではないが、それが欠如している限りでファルスのように。それゆえまずは分離できる対象、次に欠如とある関係がある対象である」(FFC, 103) 。
ここまでの準備段階の指摘を要約しよう。対象aは主体の他者との関係において特殊な不可欠物として現れる。フロイトの〈モノ〉das Dingのようにーー対象aは〈モノ〉の一種の世襲物あるいは後継者であるーー、対象aは、表象プロセスから、吸収できない「何か他のもの」、考えられないものの座として、はじき出される。それは、想像界と象徴界と限界において絶えまず生みだされものである。
◆同Richard Boothby, Freud as Philosopherより「譲渡できる対象objet cessible」をめぐる
ここで再読解における鍵となる点は、「譲渡できる対象」(objet cessible)概念である。どの段階でも、子どもは母の胸や糞便などの対象を「譲渡する」、あるいは諦める。決定的な中心点は、「譲渡」それ自体の行動である。賭けられるのは、まさに主体とその欲望の構成である。
ラカンの念頭にあったことをよりはっきりと見るために、彼の乳離れの議論を取り上げよう。それは格別挑戦的なものである。少なくともフロイト派の教えの伝統的な解釈にとって。
標準的な見方、一般に流通している精神分析理論のクリシェの一つによれば、幼児は可能なかぎり母の胸に執着し、乳離れによって引き離さなければならない。(……)
対照的に、母の胸を「譲渡できる対象」として再構成しつつ、ラカンは、子どもが手放す、あるいは諦める何かとして、我々に考えるように促す。彼の見解は次の通り。「子どもが乳離れさせられるというのは本質的には真実ではない。彼は自ら乳離れする、乳房から距離をおく。彼は遊戯する、…乳房から距離を置いたり、ふたたび取りついたりと。」(S.X, 7-3-63).
この仮定から数多くの魅惑的かつ思い掛けない拡がりをもつ思考に馳せることができる。たとえば我々は思い起こさせられる、フロイトの『文化のなかの居心地の悪さ』の最初の箇所の議論を。そこでフロイトは自我が外部の世界から自らを漸やく分離していく過程を叙述している。
フロイト曰く、
《今日われわれが持っている自我感情は、自我と外界の結びつきが今よりも密接であった当時にはふさわしかったはるかに包括的なーーいや、一切を包括していたーー感情がしぼんだ残りにすぎない。多くの人々の心にこの第一次的な自我感情がーー多かれ少なかれーー残っているものと考えてさしつかえないならば、この感情は、それよりも狭くかつ明確な境界線を持った成熟期の自我感情と一種の対立をなしながらこれと並んで存続するだろうし、またこの感情にふさわしい観念内容とは、無限とか一切のものと結びついているとかいう、まさに私の友人が「大洋的な」感情の説明に用いたのと同じ観念内容であろう。》(フロイト『文化への不満』p434)
我々はまた生贄の議論…を想起させられる。ラカンの観点では、乳離れは生贄の原初の行動と等しい。子どもはある意味で母にその胸(自らのものとして見なされた母の乳房)を捧げるのだ。実に「譲渡できる対象objet cessible」のラカン概念の光の下では、世界の全ては主体の譲渡あるいは放棄の行動に起源をもつと想定することに導かれる。
究極的には、世界自体が犠牲の対象である。誰への、何のための生贄か?対象は不安を避ける方法として譲渡されるceded。ふたたび精神分析理論の常識ーー不安は喪失によってひき起こされるーーに反するラカンのアプローチは、不安は対象の喪失に先行するというものだ、「不安の機能は対象の譲渡に先立っている」(S.X, 7-3-63)。
さらに、対象は、まさに不安を静めるために譲渡されるceded。なぜか? 理由はラカンの際立った解釈に見いだされる、「不安は…私は〈他者〉の欲望にとってどんな対象aであるかわからないという事実につながっている。」(S.X, 7-3-63)
乳房に縋りつく幼児は、なによりも母の欲望の測りがたい問いに遭遇する。この問いへの直面において、母はdas Dingの深淵であると想定される。想像的対象、鏡像イメージの小さな他者ではなく、知りえない、支配されえない、怪物的な〈大他者〉として。
露骨に考えれば、この点における幼児の戦略は、トカゲのそれと比較できる。その戦略とは、捕食者の手中から逃れて、再生が可能であるように自らの尻尾を諦めることである。
このように、今までは幼児の自我それ自体だった母の胸は放棄される、もしくは譲渡されるceded。しかしラカンの視点はもっと微妙である。譲渡の行動はより不安定で曖昧だ。幼児は、全体を失なわないでいるために身体の一部を切断して、自身の身体から母の胸を引き離すのではない。むしろ母の胸からの分離、譲渡に伴って初めて身体としての自身を経験するようになる。
こうしてラカンは「この、分離した断片としての諦められた対象の機能…それは主体の構成と見なされる」(S.X. 6-23-63)と言う。
最も慎重を要する点は、幼児へ審級agencyを授けることにかかわる。あたかも譲渡する行為が生存のための意図的な戦術として考えられる…ということだけではない。ラカンの要点ははるかにラディカルで逆説的である。母の胸を自発的にあるいは故意に手放す幼児としての主体が(先に)存在するどころか、対象を放棄した瞬間にのみ初めて主体が存在しうるようになるということなのだ。
「この原初の神話的な主体、彼は最初に、(母なる〈モノ〉das Dingとの)遭遇において彼自身を構成しなければならないのだが、それを我々は決して把握できないーーはっきりした理由があるーーというのは、小さなa [little] a が主体に先行しているのだから。かつまた、この原初の代替によって徴づけられる仕方自体が〈彼方〉をふたたび出現させるに違いないのだから 」(S.x~ 6-26-63)
対象を譲渡することにおいて、主体の座がはじめて現れる。部分の喪失が全体を、ヴァーチャルに、否定的に、遡及的に、確立する。ここで賭けられているのは、ラカンが主張するように、「人が呼ぶところの主体の最もラディカルな本質性」(S.X, 6-26-63)である。
生贄の語彙に戻って言えば、生贄行為者の存在は、生贄の行動によって引き起こされた喪失に伴ってのみ、はじめて出現する。この問題のパラドックスは、他の視点から見ることもできる。対象の放棄と欲望の起源とのあいだの関係を考えることによってである。
対象が譲渡されるのは、すでに形成された欲望を保持するためではない。そうではなく、最もラディカルな意味で、欲望はまさにこの譲渡に起源がある。対象は、欲望されうるために、追いだされなければならぬ。…欲望は逆説的に、制限においてまた制約を通して生まれる。このように、欲望の沸き立ちは制止と合致する。
ラカンは続けている、「このように、欲望の最初の発展的形式はそれ自体、制止のオーダーに膚接している。欲望が最初に現れるとき、それはそれ自体を対立させる、まさに、その欲望としてのオリジナリティが導入されることを通した行動に対して、である。」(S.X, 7-3-63)
ラカンははっきりと譲渡しうる対象を生贄の対象とつなげている…。生贄の真の機能は、彼が主張するに、特別な処理、他者との代償quid pro quoを上演することであるよりは、〈他者〉を欲望を与えてくれる存在として決定づけることだ。特別な交換をもたらすものであるよりは、まさに交換の可能性を確立することにある。
生贄は、リアルから、das Dingの怪物的な領域から、他者の欲望をもたらす。そして象徴秩序のなかに欲望の錨を下ろさせる。こうしてラカンは言い放つ、「生贄は運命づけられているが、それは捧げ物や贈物では毛頭ない。…そうではなく欲望のネットワークにおけるそれ自体としての〈他者〉の捕獲としてである」(S.X, 6-5-63)
母の胸を譲渡することCeding。母なる〈モノ〉das Dingのリアルとの不安なる遭遇を避けるために、である。子どもは母にかんして反復するのだ、古代の神への生贄の本質的な仕草を。主体の譲渡は主体の欲望を見出す、まさに、それがフォームを与えるという範囲で。それは、対象の仲介を通して、〈他者〉の欲望へと向かうフォームである。
「すべての問いは知ることだった、これらの神は何を欲望しているのかを。生贄は彼らが我々のように欲望するかの如く振舞うように構成する…。これは意味しない、神たちが彼らに生贄にされたものを食べてしまうだろうことを。さらには、神たちに何の役に立たないことを意味するわけでもない。しかし重要なことは、彼らはそれを欲望するということだ。私はさらに言おう、これは彼らに不安を引き起こすのではない。…神を欲望の罠のなかで飼い馴らすこと、それは本質的なことだ、と」 (S.X, 6-5-63)。
ラカンの観点では、主体は、ある種の残余、対象を諦めることにおいて穿たれた否定的な空間の効果として、現れる。対象aとして、この対象は、主体と同じものではない。そうではなく、主体にとっての否定的な代役である。対象aは「主体の代替物 (suppleant) である」(S.X, 6-26-63)。
だが対象aが主体の代替物であるということは、またそれらのあいだのある分離をも意味でする。欲望の維持は、欲望の式$◇aのポワンソン(錐印)によって示された、差異、否定の瞬間による。
このように、ある関係の意味を見出すことができる。それはラカンの仕事に親しいどの読者をも驚かすにちがいない。その関係とは、ラカンの議論、譲渡されるcedable対象と“cedable”という語への彼の他の依存の関係である。後者は、「欲望において譲渡しないこと」という論点として精神分析の倫理的重要性を特徴づけるものだ。
「精神分析の視点からみれば、 我々が有罪であるとすれば,それはひたすら,欲望に関して譲渡したからである」 " la seule chose dont on puisse être coupable, au moins dans la perspective analytique, c'est d'avoir cédé sur son désir "
我々はこの二つの譲渡の使用法を、互いに関連付けて読めないだろうか? ここでの要点は、ラカン的主体は、欠如によって残された否定的空間を諦めるのではなくて、対象を諦めることを命令されているのではないか? ふたつの譲渡の出来事momentsは、まさに互いに補い合うものだ。主体は、欲望において譲渡cedeしないために、対象を譲渡cedeしなければならない。
ここにあるフロイト起源の「母なるdas Ding(不可能なる怪物的な〈大他者〉」概念は、後年のラカンにとっては、いささか捉え方の変更があることに注意(とくにセミネールⅩⅦ以降)。それにもかかわらずこのセミネールⅩ(不安)をめぐる叙述は示唆溢れる。
以下、セミネールⅩⅦにおける態度変更をめぐるポール・ヴェルハーゲの叙述(詳しくは「子どもを誘惑する母(フロイト)」を見よ)。
彼女の小さな子どもをplus-de-jouirへ導くのは、〈他者〉としての母なのである。すなわち(限定された)享楽の道は、想定された原初の全体的享楽を断念するという条件のみで、子どもに開かれている。それは、今後、母の場にあると想像されるのだ。
これらの考え方をラカンのより以前の母-女の役割の理解と比較するならば、その相違は歴然としている。以前には、女-母、現実界、欲動、そして享楽は、多かれ少なかれ、共通の不安を掻き立てる恐怖を示していた。それに対する保護は、何らかの形で、男-父、象徴界、ファルスのシニフィアンから来ると期待された。そしてふたたび、これらの用語は、多かれ少なかれ、共通の制度を示していた。
後期ラカンの理論では、母は、ある役割を割り当てられた人物に降格される。彼女はその役割を求められることも、拒絶の可能性を殆どないままに割り当てられる。彼女は欲望される対象になるかもしれない。だが同時に、彼女はとりわけ禁じられた対象になる。ひとは、ひどく危険だとされるこの対象に、この禁止を超えて到達すべきか。こうして宿命の女La femme fataleがこのエディプスの劇場の生産物として現れる(Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe,2006)