女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ(Lacan, Le seminaire, livre X: L' angoisse[1962-63])
ラカンはかつてはこういうことをしばしば言ったようだが、セミネールⅩⅦにはほぼ一箇所しかない(とはいえ最も有名な「鰐の口」だが)。
ーーとはいえ、共食いというのは、だいたい雌が雄を食うようなのだが、人間界もやはりそういうものなのだろう(か)・ ・ ・田中慎弥氏による「共食い」という芥川賞受賞小説があったが、あれもその類のことが書かれているのだろうか。
そうしようとは思っていなかったのにとりあえず鈴を鳴らし、社に手を合わせたあと、振り向いて川を見下ろした千種は、
「今日も割れ目やねえ。」
川が女の割れ目だと言ったのは父だった。生理の時に鳥居をよけるというのと違って、父が一人で勝手に言っているだけだった。上流の方は住宅地を貫く道の下になり、下流では国道に蓋をされて海に注いでいる川が外に顔を出しているのは、川辺の地域の、わずか二百メートルほどの部分に過ぎず、丘にある社からだと、流れの周りに柳が並んで枝葉を垂らしているので、川は、見ようによっては父の言う通りに思えなくもない。(田中慎弥『共喰い』)
構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。
この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。(Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL1995 )
母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。(Le Séminaire Livre XVII, L’envers de la psychanalyse, [1960-1970])
こういったことを、あまり言わなくなったのは、厭きたせいか(齢を重ねたせいか)、それとも態度変更があったせいか?
PAUL VERHAEGHE(ポール・ヴェルハーゲ)の『New studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex』(2009)に次ぎのような見解を読んだ、《以前には、女-母、現実界、欲動、そして享楽は、多かれ少なかれ、共通の不安を掻き立てる恐怖を示していた……後期ラカンの理論では、母は、ある役割を割り当てられた人物に降格される》。
その前後もふくめ下にテキトウ訳しておく。
なお、この書は、セミネールⅩⅦ英語版の解説として書かれた論文「Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 」2006ーー前回、一部、引用したがーーを、より一般公衆向けにわかりやすく記したのではないか、と思える箇所が多くある(二つともここから拾うことができる→ Publicaties van Paul Verhaeghe)。
かつまた、『New studies of old villains』序文は、ジュリエット・ミッチェルJuliet Mitchellが書いているが、彼女は、女性解放運動の最盛期に敢えてフェミニストのフロイト誤解を批判したことで知られているようだ。ヴェルハーゲの文にはナンシー・チョドロウNancy Chodorowの名も出てくる。彼女はどうやらジュリエット・ミッチェル系譜の方のようだ。
かなり以前のものだが、「臨床社会学研究会(1988年7月13日 波田あい子)議事録」によれば次の通り。
かつまた、『New studies of old villains』序文は、ジュリエット・ミッチェルJuliet Mitchellが書いているが、彼女は、女性解放運動の最盛期に敢えてフェミニストのフロイト誤解を批判したことで知られているようだ。ヴェルハーゲの文にはナンシー・チョドロウNancy Chodorowの名も出てくる。彼女はどうやらジュリエット・ミッチェル系譜の方のようだ。
かなり以前のものだが、「臨床社会学研究会(1988年7月13日 波田あい子)議事録」によれば次の通り。
フェミニストで臨床家の研究者たちというのが、80年代以降、理論フェミニズムの中で目立つ存在になってきました。もちろんこのことは欧米のことですし、また、きょうの話は英語圏のことになりますけれども。最初の1人はジュリエット・ミッチェル。ご存知の方も多いと思います。ジュリエット・ミッチェルからナンシー・チョドロウ、そしてジェシカ・べンジャミンにつながります。
わたくしにとって名の知らなかったフェミニストの名前を出したが、以下のヴェルハーゲの叙述は、ある種のフェミニストたち、すなわち臨床家の仕事をもったフェミニストたちにとっては、おそらく受け容れやすいフロイト・ラカン理論解釈なのだろうということを断わっておくためである。
…好きであろうとそうでなからうと、女は、このコンプレックスにおいて、中心的役割を避け難く取らざるを得ない。母として、彼女は享楽の刻印inscriptionsを生み出し、それを支配する。享楽を反復しようとするどんな試みも母に向けられなければならない(注13)。子どもは、母に関して、要求当事者となり、故に依存の立場に居つくことになる。
享楽の原初の(不)可能性は、元々「享楽の存在being of enjoyment」としての生きた身体に位置したのだが、享楽の可能性そして同時にその失敗の必要性は、今では母へ投影される。社会の共謀によって、子どもは母へと固着させられる。彼女は絶対の享楽と禁止の選ばれた座席になる。
そのときの問題は、原初の享楽の残余は何かということだ。ふたたびラカンは曖昧な表現で答える、「剰余享楽le plus-de-jouir」と。仏語では、これを二つの仕方で理解され得る、「もはや享楽しないnot enjoying any more」と「もっと享楽をmore of the enjoyment」である。防御的なエラボレーションの後に、主体にとって残っている享楽は、原初の形式未満の異なったものであり、決して十分に満足を与えない。
彼女の小さな子どもをplus-de-jouirへ導くのは、〈他者〉としての母なのである。すなわち(限定された)享楽の道は、想定された原初の全体的享楽を断念するという条件のみで、子どもに開かれている。それは、今後、母の場にあると想像されるのだ。
これらの考え方をラカンのより以前の母-女の役割の理解と比較するならば、その相違は歴然としている。以前には、女-母、現実界、欲動、そして享楽は、多かれ少なかれ、共通の不安を掻き立てる恐怖を示していた。それに対する保護は、何らかの形で、男-父、象徴界、ファルスのシニフィアンから来ると期待された。そしてふたたび、これらの用語は、多かれ少なかれ、共通の制度を示していた。
後期ラカンの理論では、母は、ある役割を割り当てられた人物に降格される。彼女はその役割を求められることも、拒絶の可能性を殆どないままに割り当てられる。彼女は欲望される対象になるかもしれない。だが同時に、彼女はとりわけ禁じられた対象になる。ひとは、ひどく危険だとされるこの対象に、この禁止を超えて到達すべきか。こうして宿命の女La femme fataleがこのエディプスの劇場の生産物として現れる。(注14)
注13)フルヴァージョンなら次の通り。乳幼児はまず最初になによりも母へ訴えなければならない。その訴えとは、欲動興奮と無力感の混淆物を基礎にしてである。母の応答は(鏡像段階を想起せよ)、(欲動興奮を)統御し、徴をつけ、満足を与える形で作用する。子どもがふたたび、同じ享楽(の統御)を見出したとき、母へとその「要求」を呼びかけねばならない。結果として、子どもは母の応答と同一化しなければならなくなる。そして母が既に生み出した徴の点に同一化することになる。ここに横たわる理由づけは、チョドロウChodorow(1999)のある考え方にとても接近していることを注意しておこう。
注14)主体形成あるいはアイデンティティ獲得のアイロニーは、多くの女たちはファム・ファタールの立場に自身を同一化することだ。それによって男の不安な欲望は確証されることになる。実に、主体形成の主要な過程は〈他者〉によって現らされたシニフィアンへの同一化である。ある特定に人物であったり、広告やファッション産業の〈他者〉だったり…。ラカンはこれを疎外と呼ぶ。全く悪くない考えだよ、と。どのファム・ファタールも自分や〈他者〉の利得のために演じる役割に疎外を感じている。
《多くの女たちはファム・ファタールの立場に自身を同一化する》だって? そんなバカな!--とおっしゃる方は、かの聖女神谷美恵子さんの日記を読むとよい。
「蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい」、さらには仏語で「ナイーヴで誠実な青年たちの血をすすって生きる雌ライオン - 私はそんな自分自身が恐ろしい。神様、許してください」と、神谷美恵子さんの長いあいだ非公開だった手記にはあるのだ。
さて、冒頭近くに《母として、彼女は享楽の刻印inscriptionsを生み出し》とあるが、その意味は次ぎの通り。
ラカン的観点からは、我々はこう言うことができる、乳幼児を世話するとき、〈他者〉としての母(m)Otherは、子どもの身体に彼女の享楽を徴づけると。言い換えれば、初期の幼児の世話の経験ーーアタッチメント理論や発達研究などであんなにも焦点を当てられいるーーは、ラカン派の用語でも、まさに同じく、〈他者〉の欲望の経験である。
ラカンが適切に言ったように「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」。母は「誘惑する女seductress」だというフロイトの仮定は、このレンズを通して眺めると意義深い。
この心理的な他者の表現-能印expressionは、幼児にとって印象-受印impressionとなる。他者の反応を通して、子どもは、身体のリアルにおいて何を経験しているかということに、メンタルな接近を獲得し得る。それと同時に、他者を通して、身体のリアルを取り扱う最初の方法を学ぶのだ。
快あるいは不快の時、親は「どうやって取り扱うか」というメッセージを鏡像化mirroringして伝える。ラカンをパラフレーズするなら、我々はこう言うことができる、〈他者〉の言説なのは無意識だけではない、実に意識も同様なのだ、と。この場なのである、我々のアイデンティティの基礎を見出すのは。
※”seductress誘惑する女”という言葉は、フロイト英訳標準版の「Freud - Complete Works Ivan Smith 2000, 2007, 2010」PDF版で検索してみると二ヶ所現われる。
・Further Remarks On The Neuro-Psychoses Of Defence(1896)
・Introductory Lectures On Psycho-Analysis PART III (1917)
※追記
ジジェクによるヒッチコック『めまい』分析におけるファンム・ファタールをめぐる叙述(『斜めから見る』1991)。これは、上にあるヴェルハーゲの《どのファム・ファタールも自分や〈他者〉の利得のために演じる役割に疎外を感じている》をより詳細に記した叙述でありつつそれ以上のことが書かれている。ファム・ファタールは男の症状なのである。ドン・ファンが女の幻想でありうる場合があるのはつい最近見た(女性の「ドン・ファン」ファンタジー)。
とすれば、なぜ女の口からドンファンのたぐいの名があまり出て来ないのか・ ・ ・それは症状と幻想の相違である。
とすれば、なぜ女の口からドンファンのたぐいの名があまり出て来ないのか・ ・ ・それは症状と幻想の相違である。
症状(例えば、言い間違いa slip of the tongue)は、それが起こったとき、不快や不満足をもたらす。しかしながら、我々は満足を以て解釈に応ずる。我々は他人に自分の言い間違いの意味を喜んで説明するのだ。「間主観的な認め合い」は、ふつう知的な満足の源なのだ。他方、我々が幻想に耽るとき(たとえば、白昼夢)、我々は測り知れない歓びを感ずる。とはいえ、今度は逆に、我々の幻想を他人に告白するのはひどく不快で羞恥を感じる。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)
また寄り道をしてしまったが、以下、ジジェクのファム・ファタールである。
……出会った男たちすべての運命を左右する女であった自分自身が運命の犠牲者であり、自分では支配できない力の手中の玩具なのだと気づく…
彼女の魅力は、男たちの幻想空間の中で彼女が演じる役割に由来していた。彼女は自分が「糸をあやつって」いるのだと錯覚していたが、彼女は男たちの症候にほかならなかった。彼女が自分自身にとっても対象となるとき、すなわち、自分がリピドーの力どうしの相互作用における受動的な一要素にすぎないことに気づくとき、彼女は自分自身を「主体化」する。すなわち一個の「主体」となる。ラカン的な見方からすると、「主体化」はこのように、自分自身が一つの対象であり、「無力な犠牲者」であることを実感することと、密接な相関関係にある。「主体化」とは、自分のナルシシズム的な見せかけがまったくの無にすぎないという事実を直視するときの、われわれの視線の名前なのである。斜めp125-6
彼女たちは男たちを破滅に導くと同時に、自分自身の快楽への犠牲者でもある。権力欲にとりつかれ、男たちをたえず操るが、同時に、第三の、曖昧な人物の奴隷である。 …彼女が神秘のオーラをまとっているのは、まさしく、彼女を主人と奴隷の対立の中に明確に位置づけることができないからである。
彼女が強烈な快感に貫かれているように見えるまさにその瞬間、じつは恐ろしく苦しんでいるのだということが明らかになる。彼女がなにかおぞましい、言葉では言い表せないような暴力の犠牲になっているとき、突然、じつは彼女はそれを楽しんでいるのだということが明らかになる。p127
状況がしだいに自分の思い通りにならなくなるにつれ、…ヒステリー性の発作を起こし、次から次へと新しい戦略にとびつく。最初は脅迫したかと思うと、今度は泣き叫び、一体何がどうなっているのか自分にはさっぱりわからないと訴える。だが突然、ふたたびお高くとまった態度をとり、相手を見下す、といったことが繰り返される。要するに彼女は、たがいに矛盾した、さまざまなヒステリー的な仮面を次から次へと被ってみせる。この宿命の女が味わう最後の挫折の瞬間、彼女はもはや中身のない外被にすぎず、一貫して倫理的態度を欠いたてんでばらばらの仮面にすぎない。この瞬間、彼女の魅力は空中に霧散し、われわれに吐き気と嫌悪感だけを残す。その瞬間、われわれの眼には「存在しないものの影以外の何物も」見えない。p128
フィルム・ノワールにおける宿命の女の運命、すなわち最後のヒステリー性の発作は、「女は存在しない」というラカン的命題を見事に例証している。女は「男の症候」にすぎず、彼女の魅力が彼女の非存在の空無を隠しているが、最後に拒絶されると、彼女の存在論的整合性はたちどころに崩壊するのである。だが、まさしく非存在になったとき、すなわちヒステリー的発作によって自分の非存在を引き受けたとき、彼女はみずからを「主体」としてつくりあげる。 …宿命の女のいちばんの怖いところは、男を圧倒し、女の玩具あるいは奴隷にしてしまう、限度を知らない享楽ではない。われわれ男に判断力と道徳的態度を失わせるものは、魅力的な対象としての女ではなく、反対に、ずっとその魅力的な仮面の裏に隠れていて、仮面が崩れ落ちたとたん、あらわれてくるもの、すなわち死の欲動を全部引き受ける純粋な主体の姿である。 カントの術語を用いるなら、女が病的な快楽を体現しているかぎり、つまりある特定の幻想の枠内に収まっているかぎり、女は男にとって脅威ではない。われわれが幻想を「反転」させるとき、つまりヒステリー的な発作によって幻想空間の座標軸が失われるとき、脅威の真の姿があらわれる。いいかえれば、宿命の女のもつ真の脅威は、彼女が男にとって宿命的だということではなく、彼女自身の宿命を余さず引き受ける、病的ではない「純粋な」主体の一例を提示しているからである。女がこの点に到達したとき、男が取りうる態度は二つしかない。「自分の欲望を諦め」、彼女を拒絶し、自分の想像的・ナルシシズム的アイデンティティを回復するか、症候としての女に同一化し、自殺的な身振りによって自分の宿命に立ち向かうか…p128-9
※追記2
seductressではないが、最晩年の論文には、母が子どもを誘惑することをめぐって、次のように書かれている(邦訳は手元にないので英訳のまま貼付)。
”An Outline Of Psycho-Analysis”(Abriß der Psychoanalyse精神分析概説)ーー1940年出版であり死(1939)の後の出版である。
A child's first erotic object is the mother's breast that nourishes it; love has its origin in attachment to the satisfied need for nourishment. There is no doubt that, to begin with, the child does not distinguish between the breast and its own body; when the breast has to be separated from the body and shifted to the ‘outside' because the child so often finds it absent, it carries with it as an ‘object' a part of the original narcissistic libidinal cathexis. This first object is later completed into the person of the child's mother, who not only nourishes it but also looks after it and thus arouses in it a number of other physical sensations, pleasurable and unpleasurable. By her care of the child's body she becomes its first seducer. In these two relations lies the root of a mother's importance, unique, without parallel, established unalterably for a whole lifetime as the first and strongest love-object and as the prototype of all later love-relations - for both sexes. In all this the phylogenetic foundation has so much the upper hand over personal accidental experience that it makes no difference whether a child has really sucked at the breast or has been brought up on the bottle and never enjoyed the tenderness of a mother's care. In both cases the child's development takes the same path; it may be that in the second case its later longing grows all the greater. And for however long it is fed at its mother's breast, it will always be left with a conviction after it has been weaned that its feeding was too short and too little.