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2015年5月22日金曜日

女性の「ドン・ファン」ファンタジー

以下、メモ。

よく知られているように、ドン・ファンはあらゆる類の女性たちと寝た。金髪であろうが茶髪であろうが、長身であろうがチビであろうが、デブであろうがヤセであろうが、ババアであろうが若かろうが、上品な女であろうが農婦であろうが、淑女であろうが家政婦であろうが、なんでもありだ。解釈者たちの何人かーーそこにはキルケゴールも含まれるがーーは指摘する、これをドン・ファンの「多様なメニュー」好みと理解するのは間違っていると。

ドン・ファンの態度を可能にしているのは、むしろ、すべての違いに対する無関心である。ドン・ファンの規範はヴァラエティではなく、反復である。彼が女たちを誘惑するのは、彼女たちが何か特別であったりユニークであったりするせいではなく、彼女たちが共通に持っているもののせいだ。それは彼女たちが女であるという事実である。(アレンカ・ジュパンチッチ ALENKA ZUPANCIC, Ethics of the Real 私訳)

ーーという前提で以下の文を読もう。

女性が失恋したとき、悲しみへの没入、あるいは自傷行為さえもしばしば起こる。とはいえ、どうしてこの喪失がそんなに絶望的な反応を引き起こすのだろう? ラカンに依拠しつつ、コレット・ソレールは、それは女性の享楽の特質のせいであると主張する。人は女性のなかに選択された愛への特別な呼びかけを見出す。それはファルスの享楽と女性の享楽のあいだの不調和を解消し得ない。

女が確立した愛の関係において、彼女はつねに〈他者〉である。すなわち彼女自身に対しての〈他者〉なのだ。「愛は彼女から立ち去る。そのとき、彼女の他者性とともに独りぼっちだ。しかし少なくとも、愛が齎した〈他者〉は、彼女の愛人の名ともに彼女を刻印する。ロメオによってジュリエットは永遠化され、トリスタンによってイゾルデ、ダンテによってベアトリーチェ…。私たちはこの事実から推しはかることができる、女にとって、愛の喪失は、フロイトが還元してしまったファリックな局面を超えたものだということを。愛を喪ったことで女が喪失したものは、彼女自身、〈他者〉としての彼女自身なのだ。」(Colette Soler, “A ‘Plus' of Melancholy 1998)

女性の享楽が、女たちを現実界に、なかんずく象徴界の欠如に、一層ずっと近づけることになるとしたら、--象徴界の欠如は不可解なあるいは憂鬱な状態をもたらすかもしれないがーー女たちはそれにもかかわらずまた、〈他者〉の欲望において彼女たちの場所は何なんだろうという問いに関心を抱く。そしてこの欲望について自らを安心させるために、女性たちはパートナーを二重化することに没頭する。けれども、このような女たちは、しばしば一人の女だけには専念できない男たちを求める。どうしてそれが起こるのだろう?

女、絶え間なく自分は男の愛の対象であるかどうかを問うている女は、男に欠けたファルスとして自身を顕す。逆説的に、女が男たちの欲望と彼らのファルスの力についての関心への応答を見出すのは、ドン・ファン幻想においてである。それはラカンが指摘したように、本質的に女性の幻想である(Seminar X, March 26, 1963; Seminar XX, 15/10)。

女たちにとって、この幻想は、最初からソレを持っている少なくとも一人の男がいること、つねにソレを持っており、決してソレを失わない男がいるというものだ。その意味は、どの女も彼からソレを奪えないということである。女たちはしばしば心配する、男が他の女と一緒にいるとき全く我を忘れてしまうことを。ドン・ファン幻想は、決して我を忘れない一人の男が少なくともいることで女たちを安心させる。

このように、ドン・ファン幻想は、女たちに請け合ってくれるのだ、男の欲望の対象は、本質的に彼女たちに属するものであり、喪われ得ない何ものかだと。女たちとドン・ファンはここでは共通の何かがある。誰もが女たちからドン・ファンから対象を奪い取れない。というのは、誰もが最初からはソレを持っていないから (Seminar X, March 26, 1963)。

愛の厄介な問題を取り扱うために、男女ともしばしば彼らのパートナーを二重化し、安定したパートナーと手の届かない愛人の形象にする。しかしながら、この二重化は二つの性で異なった役割を果たす。男たちがしばしばパートナーを二重化するのは、彼らの欲望の対象が、何か本質的に彼らを怯えさせるものだからだ。これがために、男たちは、日常生活を統制する自ら課した禁止や儀式にあんなにもへばりつく。

女たちがパートナーを二重化するのは、〈他者〉の欲望において彼女たちはどんな種類の対象なのか全くはっきりしないからだ。そのため、女にとって、彼女に情緒的に興味をもつ一人以上の男がいることを幻想する。しかしながら、逆説的に、女が対象aとしての彼女自身の価値について最も安心感を覚えるのは、最初には彼女を実際には欲望することの決してない男(ドン・ファンのような)について幻想することによってである。(Renata Salecl,Love Anxieties 2002 私訳)

※この論の書き手Renata Saleclはジジェクの元妻(前々妻)である。

途中、「ソレ」と訳した語は英訳では”it”であり、通常はファルス(象徴的ファルス)であるが、ファルスとはもちろん欠如のシニフィアンである。

また、《男たちはしばしばパートナーを二重化するのは、彼らの欲望の対象が、何か本質的に彼らを怯えさせるものだからだ》とあるが、これは次ぎの文とともに読むと分かりやすい。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL)


※附記

象徴秩序、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、〈一者〉を同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。システムとしての象徴秩序は、差異をもとにしている(ソシュール参照)。差異自体を示す最初のシニフィアンは、ファルスのシニフィアンである。それ故、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に〈一者〉と非一者である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二項対立の論拠、ある者かそのある者でないか、を適用することによって、一体化の形で作用する。(ポール・ヴェルハーゲPaul Verhaeghe、Lacan's Answer to the Classical Mind/Body Deadlock 2002 私訳)
性の差異が、ファルスのシニフィアンにどう関係するのかのパラドックス…。我々がシニフィアンとしてのファルスを考えるとき、そして能力、肥沃性等々のイメージ(シンボル)としてのみ考えるのではないとき、我々は先ずは次のように考えるべきである。すなわち、ファルスとは、女性はペニスが欠けているといまさにその事実のせいで、彼女に属する(もっと正確にいえば、母に属する)何かだと。

だから、こうではないのだ、最初の瞬間、男は「それを持っている」、そして女は「持っていない」、そして次の瞬間、女は「それを持つ」ことを幻想する、ーーこうではない。ラカンは『エクリ』のまさに最後のページでこう書いている、「母のペニスの欠如が、《ファルスの特性natureが現れる場処である》。我々はこの指摘を最重要なものとして扱わねばならない。それはまさにファルスの機能とその特性を区別するのだから」( Miller, “Phallus and Perversion”)

そしてここである、我々が、フロイトのフェティッシュという人を迷わす「ナイーヴな」概念を修復すべきなのは。それは、主体が女にペニスの欠如を見る前に見た最後のものとしてのフェティッシュである。フェティッシュが覆うものは、単純に、女におけるペニスの不在ではない。そうではなく、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者」的な意味で、差延的differentialであるという事実だ。

ファルスのシニフィアンをこのような複雑な概念にしているのは、象徴界、想像界、現実界の局面が絡み合っているだけでなく、「否定の否定」の過程を不可思議にも模倣するような二重の自己再帰段階があるからだ。それは三つの水準に要約される。

(1)ポジション:喪われた部分、主体がシニフィアンの秩序に入る(あるいは帰順する) とともに喪いかつ欠けてしまった何かのシニフィアン。 (2) 否定:この欠如のシニフィアン。 (3) 否定の否定:欠如する/喪うlacking/missingシニフィアン自体。

ファルスは象徴界への入場に伴って喪われた(犠牲にされた)部分である。と同時に、この喪失のシニフィアンである。 (このように、ファルスのシニフィアンと父の名、父の法のあいだにはリンクがある。ここでもまた、ラカンは同じ自己再帰的な反転を成し遂げている。父の禁止はそれ自体禁止されなければならない、と)。なぜこれはそうなのだろう? なぜ禁止自体が禁止されなけれならないのか? 答えは次の通り。すなわち、「メタ言語はない」から。……(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 テキトウ訳)

※なお、《ファルスの用語に関して、ラカンは、セミネールⅩⅩにて、ファルスを、シニフィアンとシニフィエ (S/s)のあいだの横棒と同じものとして扱っているのに注意しよう》(Bruce Fink  “KNOWLEDGE AND JOUISSANCE ”)ーーこれをめぐっては、「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」を見よ。