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2015年5月21日木曜日

「沖合いはるかな遠い未来のなか」へ送りだされたラカン理論

《もし〈女〉が存在するのなら、彼女は〈他者〉の〈他者〉である》(ジジェク)

女の問題とは、(……)空虚な理想ーー象徴的機能――empty ideal‐symbolic function—を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊fantasmatic specterであり、それは S1ではなく対象 aである。「女は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の「享楽の父」である(神話的な前エディプスの、集団内のすべての女を独占した父)。だから彼の地位は〈女〉のそれと相関的なのである。((ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)

ラカンの「女は存在しないLa femme n'existe pas」の「存在しない」とは象徴界(シニフィアンの水準)には存在しないということだけであり、現実界にはもちろん存在する。ラカンはそれを外-存在と呼ぶ。女は外-存在する。そして〈他者〉の〈他者〉も外-存在する。

ラカンのex-sistence (外ー存在)は、ハイデガーのSein und Zeit(存在と時間)の仏訳から。ドイツ語ではEkstaseであり、ギリシャ語ではekstasis(外に立つこと)(フィンク,The Lacanian Subject)

…………

《ラカンは生前、自分の考えは50年経ったら理解されるようになるだろうと言っていた》(向井雅明)そうだが、反対に精神分析は時代遅れになったという「精神分析の追悼式」的言説も跳梁跋扈している。

たしかに心の病を治療するという側面からは、認知科学や神経生物学の進展の影響、あるいは薬物療法や行動療法によって、しだいに取って代わられる領域が増える傾向は、今後もさらに目立っていくだろうことをいまさら否定してもはじまらない。

だが、ラカンにとって、「精神分析のいちばんの基本」は、

心の病を治療する理論と技法ではなく、個人を人間存在の最も根源的な次元と対決させる理論と実践である。精神分析は個人に、社会的現実の要求にいかに適応すべきかを教えてくれるものではなく、「現実」なるものがいかにして成立しているのかを説明するものである。精神分析は、人がいかにして人間の現実内に出現するのかを説明する。ラカンの見方からすると、神経症、精神病、倒錯といった病理学的形成物は、現実に対する根本的な哲学的な姿勢がもつ威厳をそなえている。私が強迫神経症にかかっているとき、この「病」が、現実に対する私の関わり全体を彩り、私の人格の全体的構造を規定している。他の精神分析的アプローチに対するラカンの批判の核心は、彼らの臨床的方向性に関わっている。ラカンにとって、精神分析療法の目的は患者の幸福、社会生活の成功、自己実現ではなく、患者をその欲望の基本的座標と行き詰まりに対決させることである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』「はじめに」)

ーーとあるようにこれらの側面、とくに「哲学的」な側面は、場合によったら、《50年経ったら理解されるようになるだろう》ということはあるのかもしれない。1981年に死んだラカンだから、この言葉を真に受ければ、まだ15年ほどかかるということになる。

そもそもどうしてこういうことがないわけがあろう、偉大な発見は、100年、200年以上かかった後に理解されるという事例は、歴史上あまたある。ラカン理論がそれにあてはまるかどうかは誰もがわからないだけだ。

……天才の作品がただちに賞賛をえることの困難なのは、それを書いた天才その人が異例であり、ほとんどすべての人々が彼に似ていないからである。天才を理解することができるまれな精神を受胎させ、やがてその数をふやし、倍加させてゆくのは、天才の作品それ自身である。ベートーヴェンの四重奏曲(第12、第 13、第14および第15番の四重奏曲)は、それを理解する公衆を生み、その公衆をふくれあがらせるのに五十年を要したが、そのようにして、あらゆる傑作の例にもれず、芸術家の価値にではなくとも、すくなくとも精神の社会に―――最初この傑作が世に問われたときには存在せず、こんにちそれを愛することができる人々によってひろく構成されている精神の社会―――一つの進歩を実現したのは、ベートーヴェンの四重奏曲なのである。人々がいう後世とは作品の後世で ある。作品自身が(……)その後世を創造しなくてはならないのだ。したがって、作品が長くとっておかれ、後世によってしか知れれなかったとしたら、その後世とは、その作品にとっては、後世ではなくて、単に五十年経ってから生きた同時代人のあつまりであるだろう。だから、芸術家は自分の作品にその独自の道を たどらせようと思えば(……)その作品を十分に深いところ、沖合いはるかな遠い未来のなかに送りださなくてはならない。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅠ」より)

…………

以下、ジジェクの記するラカンの「哲学的」側面の説明を一部掲げる。

存在論と男女の相違のあいだの繫がりがあることについて何も驚くことはない。前近代のすべての宇宙観の特質は、男性原理と女性原理のあいだの根源的相克の用語で世界の起源を説明しているではないか(陰陽、光と影、天と地…)? (……)

我々が、世界の近代的「幻滅」と呼ぶものは、数学化された科学にて接近し得る意味のない冷たい「客観的現実」と、我々が現実に「投影する」意味と価値の「主観的」世界のあいだのギャップの(根拠薄弱な)主張にかかわるのみではない。このギャップの底に横たわっているのは、現実の脱-性別化de‐sexualizationである。

ラカンの成果は、この背景に対してのものとして、評価されるべきだ。彼が重ねて力説したのは、近代科学領野内での性の相違の存在論的ontologicalステイタスである、ーーいかに前近代的神話に退行せずにこれを成し遂げ得るか、と。すなわち、近代の超越論的哲学にとって、性の相違は、脱存在論化されている。人間の存在的ontic領域に還元されてしまっている。もし人がそれを存在論化すれば、人は「擬人観anthropomorphism」と非難される。すなわち世界の上に、人間のたんに経験的(生物的かつ心的)な特徴を投影しているだけだと。

これが、カントの超越論的主体もハイデガーの現存在Daseinのいずれも性化されていない理由である。ハイデガーの「現存在」分析において、彼は全くセクシャリティを無視している(典型的なのは、哲学者がフロイトの「去勢」のような概念を取り扱うとき、彼らはそれを、我々の有限、限界、無力等の存在論的ontologicalア・プリオリにとっての存在的ontic隠喩として読む)。

とすれば、ラカンは、前近代の性化された宇宙に退行せずに、いかに性の相違の再存在論化を成し遂げたのか? はっきりしているのは、ラカンにとって、「セクシャリティ」とは人間の現実の個別的な存在的ontic領域ではないことだ。それは置換、歪像的ひずみなのであり、その地位は厳密に形式的である。どの人間的現実の「領域」も「性化」され得る。それは、セクシャリティがとても「強力」で、他のすべての領域へ波及し汚染するからではない。そうではなく、まさに反対の理由である。すなわち、セクシャリティはそれ自身の「正しい」領域を持っていないためであり、原初的に「箍が外れている」ためである。それは構成的な裂け目、不調和によって徴づけられている。

この袋小路を最初に詳述した哲学者(もっとも彼は、勿論、性の相違との繫がりに気づいていなかったが)、それはカントである。すなわち。カントが『純粋理性批判』で、純粋理性のアンチノミーの「存在論的スキャンダル」を描写したときである。我々が現実に接近するために使用する基本の存在論的-超越論的枠組みの内的非一貫性であり、「数学的」アンチノミーは、女性の立場を特徴づける袋小路を表し、「力学的」アンチノミーは、男性の立場を特徴づける袋小路である。

カント自身は、我々が見てきた通り、自らの大発見の過激性に直面し身につけることは出来なかった。彼は究極的にはこれらのアンチノミーを単に認識論的な地位として伝えるのみだった。…(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012 私訳)

ーーカントの数学的アンチノミー/力学的アンチノミーについては、「資料:ラカンの男性の論理と女性の論理/カントの力学的アンチノミーと数学的アンチノミー)」を見よ。

簡略に記せば、男性的アンチノ ミーは〈例外〉を伴う〈不完全性〉の障害、女性的アンチノミーは境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の障害なのであり、それは否定判断/無限判断の二項でもある。

『純粋理性批判』におけるカントの弁証法は、アンチノミーが排中律を濫用することによって生じることを明らかにしている。彼は、たとえば「彼は死なない」という否定判断と「彼は不死である」という無限判断を区別する。無限判断は肯定判断でありながら、否定であるかのように錯覚される。たとえば、「世界は限りがない」という命題は「世界は無限である」という命題と等置される。「世界は限りがあるか、または限りがない」というならば、排中律が成立する。しかし、「世界は限りがあるか、または無限である」という場合、排中律は成立しない。どちらの命題も虚偽でありうる。つまり、カントは「無限」にかんして排中律を適用する論理が背理に陥ることを示したのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部・第2章 綜合的判断の問題 P95-96)
カントはその『純粋理性批判』において、否定判断と無限判断という重要な区別を導入した。

「魂は必滅である」という肯定文は二通りに否定できる、述語を否定する(「魂は必滅でない」)こともできるし、否定的述語を肯定する(「魂は不滅である」)こともできる。

この両者の違いは、スティーヴン・キングの読者なら誰でも知っている、「彼は死んでいない」と「彼は不死だ」の違いとまったく同じものだ。無限判断は、「死んでいる」と「死んでいない」(生きている)との境界線を突き崩す第三の領域を開く。「不死」は死んでいるのでも生きているのでもない。まさに怪物的な「生ける死者」である。

同じことが「人でなし」にもあてはまる。「彼は人間ではない」と「彼は人でなしだ」とは同じではない。「彼は人間ではない」はたんに彼が人間性の外にいる、つまり動物か神様であることを意味するが、「彼は人でなしだ」はそれとはまったく異なる何か、つまり人間でも、人間でないものでもなく、われわれが人間性と見なしているものを否定しているが同時に人間であることに付随している、あの恐ろしい過剰によって刻印されているという事実を意味している。おそらく、これこそがカントによる哲学革命によって変わったものである、という大胆な仮説を提出してもいいだろう。

カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う<理性の光>という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は<夜>、<世界の夜>なのだ)。

カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)

以下は、ラカンの性別化の式をめぐって女性の無限判断の説明がなされている箇所を、再度ジジェク2012から掲げておこう。

ラカンの否定の否定は、"性別化の式"の女性の側に位置し、非全体non‐Allの概念にある。例えば、言説でないものは何もない。しかしながら、このnon‐not‐discourse (言説の二重否定)は、すべては言説であるということを意味しない。そうではなく、まさに非全体non‐Allは言説であるということ、外部にあるものは、ポジティヴな何かであるのではなく、対象a、無以上でありながら、何かでなく、一つのものではないmore than nothing but not something, not Oneということだ。別の例を挙げよう。去勢されていない主体はない(性別化の式の女性側では)。しかし、これはすべての主体が去勢されていることを意味しない(非去勢の残余は、もちろん対象aである)。この二重否定において、われわれが触れている現実界とは、カントの無限判断に関連しうる。述語否定の肯定affirmation of a non‐predicateである。"彼は不死である"は、彼が生きていることを単純には意味しない。そうではなく、彼は死んでいないものとして、生きている死として、生きているのである。"彼は不死である"とは、non‐not‐dead(死の二重否定)なのである。同様に、フロイトの無意識とは、不死のようなものである。それは単純に意識しないnot‐consciousことではなく、non‐not‐conscious(意識の二重否定)なのである。そしてこの二重否定において、それはただ存続しないことの否定no not only persistsではなく、強められさえするのだeven redoubled。不死は、死に非ずnot‐dead生に非ず not‐aliveの状態として生き続けるremains。同様に、対象aとは、non‐not‐object(対象の二重否定)ではないだろうか。そしてこの意味で、空虚を具現化する対象ではないだろうか。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012 私訳)

<女>のシニフィアンは象徴界には存在しない。だがらいっそう強められてeven redoubled、象徴界の非全体の領域に外-存在するのだ。これはラカン理論など知らなくても、誰でもがそれとなく感知しているはずだ。

ラカンの若い友人であったソレルスの『女たち』の最初頁にある文は、けっして冗句ではない。

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …

…………

※附記

◆向井雅明「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」より(参照:アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方


女性には例外的な父親の場所はなく


すべての女性と言えるような全体化もない。

つまり女性は一人一人個的で違った存在であり、 個別に女性ということを確認して行かなければならないのである。ここに女性であることに固有の困難がある。なぜなら、女性には、男性がそれを基準に自分は男性であると言えるような、例外的存在が欠けており、各自一人一人が女性という立場を確立しなければならないのである。例外的存在が欠如してもΦの機能、すなわち去勢は各々の女性が受け入れているのであるから精神病とは区別されるのであるが、峻厳な父親像の欠如は、しばしば、男性側の目からすると狂気と映り、男性の軽蔑を買うのである。

ラカンはエディプスの彼方に女性を見ようとする。女性においては、例外的父親がなくても一応の主体的統一が得られる。これは男性のようなひとつの総体をなさない非総体的な統一であり、いかなる理想像も必要としない。

これが男性と異なった女性の特徴なのである。この文は、1990年代半ばに書かれており、いささか古い側面がないでもないが。

エディプスの斜陽が極まりつつある現在には、男性側にも「峻厳な父親像」などなく、男性の女性化が進んでいるといってよいのかもしれない。父性隠喩が不成立であれば、「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった連中は、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている」(ラカン、E566)ということになる。

とはいえ、古典的には次ぎのようなことであり、現在も女に比べれば、男のシニフィアン、スタンダードはないわけではないだろう。

母たちが小さな天使の未来を心配して、彼女たちの理想の男を参照して息子を判断し、ふつうは、男のスタンダードを体現するよう息子を押しやる(コレット・ソレール Collet soller 『What Does the Unconscious Know about Women?』2002)

いずれにせよ男のスタンダードはかつては厳然とあったし今もなんらかの形であるだろうが、女のスタンダードはかねてよりない。

男性側には、エリック・ロランの言い方をすれば("Psychosis, or Radical Belief in the Symptom" 2012)、「父の名」はなくなったかもしれないが、「ふつうの父の名」はある。

父の機能は、ユルんだにしろ、まだ生き残ってるさ。より普通の地位の父だがね…オヤジ言葉で印象づけたり驚かしたり父がいるじゃないか…ミレールが言ってるが、現代の政治家だって、道化ているが、印象づけようとしているぜ…これが「普通の父の名」さ。(エリック・ロラン 超訳 2012)

他方、女性側には、愛されるような女になりなさいという類の個別的な要請があるだけだろう。

再度、女流分析家の第一人者と呼ばれるコレット・ソレールの表現なら、,女たちは、他人を或いはとくに男を魅了させる「トリック」を幼い頃から学んでゆく。

〈他者〉を欲望させる能力、これは女性たちの特徴だが、それは無意識の干渉から逃れてはいない。…彼女たちのやり方は、〈他者〉の要求に適うよう仮装することだ。知られざる欲望を捕獲しようとして、そうする。

私はここで数多くの臨床上の事実を掲げることができる、女性たちが言ったことを正確に…。母に対してのことさら目立った不平はーー母のあら探しをするのだがーー、女性の才智savoir-faire を娘に伝えてくれなかったというものだ。

この不平は、もちろん、いつもそのものズバリにされるわけではない。たいていは換喩の迂回路をとって、あれやこれやのあら探しとなる。ある女性の場合、母は美味しい料理の秘密を教えてくれなかったと不平を言ったが、これが意味するのは、男を魅了させる「トリック」を伝えてくれなかったということだ。

私はまた、ヒステリー者の、彼女の〈他者〉への従属に対する頻発する抗議にも言い及ぶことができる。彼女の自立の夢は、疎外された自己の水準における相似物以外の何ものでもない。その疎外は、彼女の疎外されたい(同一化したい)という要求から生まれているのだ。(同 Collet soller)

もっともここでは、コレット・ソレールは、女性のヒステリー的側面を語っているのであって、ラカンの性別化の公式における女性の論理を直接に語っているわけではない。この論文ではなく、別の書物において(『What Lacan Said about Women』2003)、彼女は、次ぎのようにヒステリーと女を分けて示している(ここでは説明抜きにこの図のみを掲示する)。



ーーここでコレット・ソレールはヒステリーは男性の論理とほとんど言っているはずだが、これもまた種々の見解があるので、曖昧なままにしておく。

さて最後に、男性の論理/女性の論理の相違のあり方を簡潔に述べたポール・ヴェルハーゲの文を掲げておく

〈女〉は、象徴界には、存在しない。〈男〉は、いやというほど存在している。男と同じように、女は自身を、〈他者〉のファルスのシニフィアンに疎外しなければならない。男は、ファルスのシニフィアンとS1との関係性のせいで、「自然に」シニフィアンとの同一化の方向へ向かう。彼は疎外に囚われる。〈女〉もこの疎外関係を同じように知っている。しかし、同時に、彼女は、対象aと享楽への特別な関係を楽しむ。この二重の関係性のせいで、女は、まさに女になる過程で、「自然に」彼女自身の何かを創造する。この意味で、ラカンの治療の結論ーー症状の現実界との同一化、享楽の選択、そして新しい主体の創造ーーは、女性性の系列に全き位置する独特の過程である。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq,Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. 2002 私訳)

ここでヴェルハーゲはS(Ⱥ)という記号をいわずに、「対象aと享楽への特別な関係」としていることに注目しておこう(S(Ⱥ)=S(a)ともできるとするフィンクの見解は以前に見た。それはȺ=aでもあるだろうが、このあたりはこの性別化の式がラカンによって示された以降(『セミネールⅩⅩ』以降)の議論にもかかわるので割愛)。





念をおしておけば、最も基本的なことは、人が、男性の側(左側)、女性の側(右側)に位置するのは、生物学的な男/女とはまったく関係がない。男でも女性の側に属するタイプはいるし、逆もまた真である。参照:アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方)。

ただし、実際上、女性の論理に属するのは、生物学的にも女性が多いだろうというのは、ほぼラカン派内のコンセンサスがあるようだ。