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2015年5月8日金曜日

アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方

以下、ほとんどすべて裸のままの資料である(要するに、何もまとまっていない)。

…………



ラカンの『アンコール』の第八章の冒頭にある図だが、--何度眺めても、不思議な図だ。Φ、対象a、S(Ⱥ)とあって、一番肝腎なS(Ⱥ)が想像界から象徴界の矢印の場にある。ラカンは(わたくしが読むかぎりでは)、『アンコール』でたいしたことを説明していない(《S(Ⱥ)にて、私が示すのは、〈女〉の享楽以外なにものでもない》(アンコール、p78)だって? そんな類のことはどうでもいいさ)。

ラカン派の連中も第七章の冒頭にある「性別化」の式は腐るほどの説明があるのに、この八章の図に触れている人は、ほとんど見当たらない(わたくしが探してみるのは英語文献の範囲だが)。

ジジェクさえ、90年代初頭にミレールに依拠して、わずかな説明があるだけだ(参照:「アンコール」における「サントーム」の図)。かつまた最初期(1987)には、想像界→象徴界にあるS(Ⱥ)(〈他者〉の享楽)は、ミステリアスだとかなんとか言っているが、やはりまさにミステリアスであって、なぜこのポジションにあるのかが判然としない。




And, finally, the circulating object of exchange is S(Ⱥ), the symbolic object which cannot be reduced to imaginary mirror-play and which at the same time embodies the lack in the Other, the impossibility around which the symbolic order is structured. It is the radically contingent element through which the symbolic necessity arises. That’s the greatest mystery of the symbolic order: how its necessity arises from the shock of a totally contingent encounter with the real. It is like the well-known accident in the Arabian Nights: the hero, lost in the desert, enters a cave quite by chance; there, he finds three old wise men awakened by his entry who say to him, “Finally, you have arrived! We have been waiting for you for the last three hundred years.”(ZIZEK,The Lacanian Real: Television)


この図は、《RSI(現実界、象徴界、想像界)の三つの審級ordersに関して、享楽が取り得る異なった形を描写するためのもの》( Bryant)だという解釈があり、これが妥当だとすれば、剰余享楽a、ファルスの享楽Φ、〈他者〉の享楽(女の享楽)S(Ⱥ)ということになる。

だが、余りにも有名なボロメオの環の図と見比べても、Φ、対象a、Ⱥの位置に矛盾がある。もっともJȺとS(Ⱥ)とを似たものとして扱ってはいけないのだろうが、たとえばΦの位置にも矛盾がある。これは後ほどフィンクの見解を示すが、JΦとΦは、どちらもファルスの享楽の領野を意味するマテームのはずだ。






例えば、JȺ(〈他者〉の享楽)が現実界と想像界の重なり箇所にある。これであったら何とか分かる気がする。ところが冒頭の図では、S(Ⱥ)は、想像界から象徴界の矢印の場にある。これはいかにも奇妙だ。

ラカン派の研究者でない人物の次のような言葉に、最近遭遇したのだが、これもS(Ⱥ)がもっとも肝腎であることが分かるだけで、《想像界から象徴界に赴くことによって体験する大他者の不在という形を取る真理》は、なぜ現実界から遠い場所にあるのだろうかは判然としない。

精神分析の真理としての「大他者の不在」を意味する)欠如を記す表記S(Ⱥ)は、想像界から象徴界に赴くことによって体験する大他者の不在という形を取る真理、すなわち大他者の絶対的他者性という、半ば言う(mi-dire)ことしかできない、「すべて」としての普遍性たりえない、実感はできても語ることのできない、フェミニーヌなる「別」の享楽、大他者の享楽に迫ることによってその希薄な姿を現す真理を示すこととなる(Jacques Lévy)

いずれにせよ対象aが見せかけsemblant、象徴的ファルスΦが現実Réalité、〈他者〉の欠如S(Ⱥ)が真理vraiとなっているのだから、ラカン理論においては、S(Ⱥ)の取扱いが最も肝腎のはずなのだ、すなわち《大他者の絶対的他者性という、半ば言う(mi-dire)ことしかできない、「すべて」としての普遍性たりえない、実感はできても語ることのできない、フェミニーヌなる「別」の享楽、大他者の享楽に迫ることによってその希薄な姿を現す真理》なのである。

今掲げたJacques Lévy(ジャック・レヴィ)の文章をもうすこし長く引用しておく(『訳し損なわれた文字』より)。

図式的に説明すると、象徴的ファルスの記号としてあったΦは、現実(réalité)を支配する幻想(fantasme)の論理における、現実界(réel)が想像界に強いる表象不可能性としての欠如を示すのだが、その機能は「意味」の享受をゆるす、すなわち「意味作用」を支える、フロイトの「快感原則」に当たる、「かろうじて」の(余剰)享楽を確約するものとなる。

鏡像化不能たる身体の部分的「破裂」(身体から「破り取られる」対象としての乳房、糞便、声、そしてまなざし)として、欲望の原因である対象の欠如(この世の対象ではないという意味の「欠如」)を示す対象aは、精神分析家の言説が象徴界から現実界に迫る「解釈」という「行為」によって、「みせかけ」(semblant)、仮象の存在者の位置から、現実界がのこす「残滓」へと転落、消滅していくプロセス、すなわちリミットとしてのレトルそのものを示す。

そして、シニフィアンの場としての大他者における他者の(「大他者の大他者はいない」や「メタランガージュはない」(il n'y a pas de métalangage) といった表現で示される、精神分析の真理としての「大他者の不在」を意味する)欠如を記す表記S(Ⱥ)は、想像界から象徴界に赴くことによって体験する大他者の不在という形を取る真理、すなわち大他者の絶対的他者性という、半ば言う(mi-dire)ことしかできない、「すべて」としての普遍性たりえない、実感はできても語ることのできない、フェミニーヌなる「別」の享楽、大他者の享楽に迫ることによってその希薄な姿を現す真理を示すこととなる。なお、その享楽の領野は「性関係はない」という言葉で言い表わされるのと同時に、「エクリチュールの苦行は、それとともに性関係が成立するところの「それは書かれている」(un《 c'est ecrit》)に接合することによってしか終わることがないように私には思われる」と「リチュラテール」の最後の結びにうかがわしているように、意味作用のリミットとしてのレトルの彼岸に位置づけられる。

おそらく、S(Ⱥ)のポジションについて、今のところ考えられる解釈の仕方は、

・享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにある(ジュパチッチ)

・要するに、現実界は象徴界以外の何物でもない。むしろ象徴界の一種の効果である。どのシニフィアンも、シニフィアンとその割り当てられた場所のあいだの分裂によって纏いつく相違による効果なのだ。(ジジェク=Bryant)

ーーこういう考え方ではないか、と思いを馳せはするが、これもまったく自信がない(参照:「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」)。

ラカンは、その仕事の展開を通して、ずっと探し求めていた、S(象徴的見せかけsemblance)とJ(享楽の現実界)のあいだの「縫合点」、SとJをひとつにまとめる、あるいは少なくともそのふたつを仲介するリンクを。主な解決法は、まずは、ファルスを欠如のシニフィアンに昇格させること、すなわち去勢のシニフィアンとして、象徴秩序内の享楽の場を保持することだった。その後には、享楽の喪失から生み出される剰余享楽としての対象a自体がある。それは象徴秩序へのエントリーの相対物であり、現実界の享楽のサイドに位置する享楽ではなく、パラドキシカルにも、象徴界のサイドに位置する享楽である。

「リチュラテールLituraterre」(Autres écrits所収)にて、ラカンは、最終的に象徴的松果体(デカルトにとっての身体と魂が交流する身体的な徴である)のこの探求を断念し、ヘーゲリアンの解決法を取った。すなわち、S とJを永遠に分離するギャップ自体がこの二つを一つにまとめるというものだ。というのは、このギャップが各々の二つを構成しているのだから。

象徴界は、己れを十全な享楽から分離するギャップを通して生じる。そしてこの享楽自体は、象徴界のギャップと穴によって生み出された幽霊specterである。

この相互依存性を示すために、ラカンは「波打ち際littorale」という用語を導入する。それは「海岸のような」次元における文字を表している。それによって「ある領域、そっくりそのまま他にとっての前線を作る領域を描くこと、それらの存在は、相互の関係に陥いらない範囲で、互いに異物であるのだ。その痕跡とは知の穴の縁ではないか?」(ラカン「リチュラテールLituraterre」)

だからラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際littoraleがある」と言うとき、jouis‐senseの喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアンする形式signifying formula of enjoymentに縮減された文字のjouis‐senseを、である。ここに後期ラカンの最終的な「ヘーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)

これ以外に、フィンクの次のような指摘がある(「ジャック・ラカンのS(Ⱥ)とブルース・フィンクのS(a)」)。

ラカンのテキストにおけるシンボルの意味は、長い年月をかけて、しばしば驚くほど変貌していく。私は提案しようと思う、セミネールⅥとⅩⅩの間で、S(Ⱥ)は、〈他者〉の欠如もしくは欲望を意味するものから、“最初の”喪失のシニフィアンsignifier of the "first" loss.36を意味するものになっている、と(そのシフトは審級の変化に相当する。それはあまりにもしばしばラカンの仕事の事例である。すなわち象徴界から現実界である。すべての要素は“男たち”の下ではシンボリックにかかわり、“女たち”の下ではリアルにかかわるのが見出されることに注意を促しておく)。最初の喪失とは、とても多くの仕方で理解されうる。

それは象徴界のフロンティアとして理解されうるし、そして“最初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)の喪失としての現実界として理解されうる。それは原抑圧が起こったとき、である。この最初のシニフィアンの“消滅”は、シニフィアンが可能となる秩序自体を設定するために必要不可欠である。この除外は別のなにかが生ずるためには、かならず起こらねばならない。

最初に除かれたシニフィアンの地位は、明らかに他のシニフィアンたちの地位とはまったく異なる、ーーそれは(象徴界と現実界のあいだの)境界現象以上のものーーそして原初の喪失、あるいは主体の起源にある欠如のシニフィアンと強い類縁性をもっている。こうして私は提案しようと思う、最初の除外、あるいは喪失は、ともかくも代表象あるいはシニフィアン、すなわちS(Ⱥ)に見出すことができる、と。

そして、註36にはこうある。

これはS(a)と書き得るかもしれない。注意しておこう、ラカンがS(Ⱥ) について言ったことの少なくとも一つは、私の解釈を裏付けないかもしれないことを。「S1とS2とは、まさに、私が分裂したAによって示すもの、それは分離したシニフィアンS(Ⱥ)に作り替えたものである」(Seminar XXIV, May 10, 1977)。この引用が少なくとも明らかにするのは、この時点でのラカンの考えでは、S(Ⱥ)は、分裂した、あるいは斜線を引かれた〈他者〉であること、すなわち、不完全としての〈他者〉である。しかしながら、それを欠如したものとしての、あるいは欲望することとしての〈他者〉のシニフィアンと等しいものとする限り、それは〈他者〉の欲望のシニフィアンに関係している。とすれば、それは、私は提案するのだが、S(a)と書くことができる。このように言うことによって、しかしながら、ファルス(Φ)と等しいものとみなせる。ここでの私の意味は、問題となっているのは、喪われたものとしての、あるいは母-子の融合の喪失としての母〈他者〉mOtherの欲望である。

ここでフィンクの引用するSeminar XXIVの「S1とS2とは、まさに、私が分裂したAによって示すもの、それは分離したシニフィアンS(Ⱥ)に作り替えたものである」"S1 and S2 are precisely what I designate by the divided A, which I make into a separate signifier, S(Ⱥ) "が、ほぼ最晩年のラカンの言葉のひとつであり、やはり注目すべきなのだろう。

いま掲げた二つ、すなわちジジェク=ジュパンチッチ組とフィンクの解釈を、繋げうるかどうかは、--だが無謀な試みは今はやめておこう。とはいえ、肝腎なのはシニフィアン(象徴界)であることは歴然としている。

そしてわが国のラカン派である小笠原晋也氏も《a / φ barré, これは a /Ⱥ とも表記できる》という発言をしている(ツイッター上)。小笠原氏の独自のマテームφ barréは、“最初の”喪失である。それがȺ ともされる。とすれば、そのȺ のシニフィアンS(Ⱥ)が、《“最初の”喪失のシニフィアンsignifier of the "first" loss》というフィンクの解釈と合致する。ただしaの取扱いは、フィンクと小笠原氏では異なっているのは上に見たとおりであり、フィンクなら、小笠原氏のa / φ barréを、おそらくS(a)/aと書き直すだろう。

そしてアンコール第八章の図にある対象aのマテーム上の扱いは、シニフィアンaとしてもよいし、サンブランaとしてもよい。フィンクの意図は前者であろうが、semblant aをS(a)と書けないこともない。

そうすれば、原初の喪失としてのaーーたとえばセミネールⅩⅠ、あるいはセミネールXXIIのーーラカンの言葉を活かすことができる。すなわち、ここでの文脈では、a=Ⱥ(=φ barré)ということになる。そしてそれは”J barré”(斜線を引かれた享楽ーーミレールのマテーム)とも同じものだとできるだろう。

このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象「a」について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)
ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、《象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外ー存在するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動》である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.) (Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)


…………


以下、冒頭の図の説明として、

・対象aが見せかけsemblantならば、それは、有beingあるいは完全性を約束するからであり、同時になぜ存在existしないかの理由も与えてくれる。

・ファルスが現実Réalitéなら、それは現実が幻想の枠組みを通して接近される限りで、一貫的で完全な社会秩序の錯覚illusionを生み出す。

・〈他者〉の享楽、あるいは女性の享楽が真理vraiとつながっているのなら、それが、享楽の源として、〈他者〉の欠如S(Ⱥ)、その不完全性を取る享楽の唯一の形であるから。

ーーこのようにまとめるLevi R. Bryant の「Sexuation 2– The Logic of Jouissance」(2008.11.25)を示す。

…………

セミネール20(『アンコール』)で、ラカンは素晴らしい図を提示している。それはRSI(現実界、象徴界、想像界)の三つの審級ordersに関して、享楽が取り得る異なった形を描写するためのものだ。




注目すべきなのは、この享楽の三つの形のそれぞれは、一つの審級から他の審級へと矢印があり、その矢印は、享楽が、象徴界にたえず付き纏う現実界を、なんとか埋め合わせようと努めるやり方を指し示していることだ。

このように、現実界から想像界への軌道において、我々はファルスの享楽と現実realityのシニフィアンを見出す。ここで思い出しておこう、現実界は不可能であることを。さらに正確に言えば、それは、シニフィアンの審級から全体性を形作ろうと必死になるときの、形式性の袋小路なのである。

こういわけで、我々は、ファルスの享楽を現実界の審級からの逃走として考え得る。すなわち、逃走とは、シニフィアンの審級の本質的な不完全性あるいは非一貫性を覆うとする格闘なのだ。

ラカンはしばしば、ファルスの享楽を、「白痴的 idiotic」あるいは「自慰的masturbatory」として言及した。もし、これが正しいとすれば、ファルスは、アイデンティティ、自我の審級だからである。あるいは、ラカンが時に言い及んだ「私-主義I‐ocracy」なのである。

自慰とは己とのセックスである限りで、デカルトやフッサールのコギトや自我は、自慰的である。すなわち、享楽としての〈他者〉を通したどんな迂回路をも避けようと必死になるという限りで。

ここで想起すべきだろう、鏡像的な同一化の審級であるということに付け加え、想像界の審級とは、また幻想的な全体性と完全性の審級であることを。

結果として、ファルスの享楽は、完全性、全体性、そして全体の理論を求める全ての社会的なシニフィアンによる形成物に見出される。この観点において、ファルスの審級は、象徴的審級の本質的な非一貫性を隠蔽しようと必死になる。

我々は、今、分かるだろう、なぜ、性別化の式の女性側が、」斜線を引かれた女」la femmeからファルスΦへと指し示しているのかが。話す存在の非-全体がファルス機能に従属している限り、常に何かがあるのだ、性別化の式の女性に落ちる主体を名付けることに抵抗する何かである。

ここで、Bryantのブログからいったん離れて、性別化の式を掲げる(左側が男性、右側が女性である)





上段の式の説明をラカンは何と言っているのかをまず提示する(荻本芳信のブログより)。



次ぎに向井雅明氏の「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」(東京精神分析サークル)における説明を加える。







Bruce Finkは”Knowledge and Jouissance”(2002)にて、上段の式について、次ぎのような新しい読み方の提案をしている。  




【男性の側の式】


All of man’s jouissance is phallic jouissance. Every single one of his satisfactions may come up short.


 Nevertheless, there is the belief in a jouissance that could never come
up short, the belief in another jouissance.


【女性の側の式】



Not all of her jouissance is phallic jouissance.


There is not any that is not phallic jouissance—the emphasis going on the first “is.” All the jouissances that do exist are phallic, but that does not mean there cannot be some jouissances that are not phallic—it is just that they do not exist: they ex-sist. The Other jouissance can only ex-sist, it cannot exist, for to exist it would have to be spoken.

なお一般的な読み方は次ぎの通り。





これ以外にも性別化の式については、諸家により種々の解釈がある。だが冒頭に掲げたいわゆる「享楽の式」の説明はあまり遭遇したことがない。今、Levi R. Bryantの解釈を提示しているのはそのためである。

もっともBryant自身、性別化の式の捉え方は、フィンク解釈に依拠しているだろうと思われる。


ここで最も基本的なことを念押ししておけば、人が、男性の側、女性の側に位置するのは、生物学的な男/女とはまったく関係がない。男でも女性の側に属するタイプはいるし、逆もまた真なり。

さて、Levi R. Bryantのブログに戻る。

これは、ラカンの主張「女は存在しないLa femme n'existe pas」に導いてくれる。この表明によって、ラカンは、女たちが存在しないことを言おうとしたのではなく、むしろ、象徴秩序内には、女を定義したり名付けることが可能などんな一般化されたカテゴリーもシニフィアンもないということだ。図において女性側に依って性別化された主体は、完全に単独的singularなのである。

そのようにして、女性のアイデンティティは、非-アイデンティティとして経験される。或いは、アイデンティティが永遠に不安定なものとして。「私とは何?」初期のラカンは、ヒステリーの問いとして、こう表現した。「私は男なのかしら、それとも女なのかしら?」この絶えまなく気がかりな袋小路において、すなわち象徴界にはその存在を名付ける十分なシニフィアンがない行き詰まりにおいて、女性として性別化された主体はファルスや、彼(女)の存在を名付け得そうな〈他者〉を探し求める。

これは、ある種の専門家を探し求める形をとる。それは、聖職者や、精神療法士、教師などであり、彼らは、彼女は何なのかを教えてくれることが出来る、と。あるいは、象徴界内にて彼女のアイデンティティを固定し得るある種の権力を持った、あるいは力強い人物を探す形をとる。

この後者の場合、女性として性別化された主体は、ファルス(主人の見せかけ)を持った主体にとっての、ファルス(欲望のシニフィアン)になることに終わる。…

主体は自身の欲望を見出せるか、あるいは単純に〈他者〉の欲望の見せかけsemblanceを包被のようにして体現化するのか、彼女は知らない。その限りで、彼女自身の欲望と〈他者〉の欲望のあいだを揺れ動く。

さらに、どの主人、あるいはファルスの担い手も期待外れに終わったり、最終的に、己れを去勢されていたり不完全として現れる限りで、女性に性別化された主体は、専門家から専門家へ、愛人から愛人へと移り行く。それは次の理由によってであるーー初期の熱狂、すなわち象徴界内にて彼女のアイデンティティを名付け固定させてくれるシニフィアンをおそらく見出したという思い込みは直面するのだ、ただ主人の愚劣さと彼に想定された知の滑稽な茶番にのみに。

ここまでは、ファルスΦの説明しかなされていない。次の「Sexuation 3: The Logic of Jouissance (Cont.)」に、対象aとS(Ⱥ)の説明がある。


性別化のグラフの男性側の、「享楽の論理」に付随している下の部分に強迫神経症の幻想($◇a)を見ることが出来る。




女性の性別化の場合における、象徴秩序の非一貫性を補うものーーそれに一貫性、安定性、構造を提供するものーーとしてのファルスの機能のように、剰余享楽としての対象aが、男性として性別化された主体によって探し求められる残余である。この主体は、象徴界に疎外された結果として喪われたものを取り戻そうとするのだ。このように、ラカンの享楽のグラフにおいて、我々は、対象aに関して、象徴界から現実界へのベクトルを見ることができる。




これ故、剰余享楽は、男性の主体がシニフィアンに疎外された結果として取り戻そうとする現実界として考えられる。しかしまた、象徴界に疎外された結果として生み出されたエントロピー的喪失とも考えられる。

対象aは欲望の対象ではない。そうではなく、むしろ欲望の対象-原因である。要するに、欲望と欲望の対象は効果effectである一方、対象aはその効果を引き起こす、あるいは生み出すものである。

このポイントは、フロイトの若い同性愛の女性の事例(『女性同性愛の一事例の心的成因について』)への依拠によって明確に描写され得る。この事例において、若い同性愛の女性は、娼婦を追跡し、彼女と一緒に町をこれ見よがしに歩く。それは、女性をエスコートする紳士がするのと同じような仕方で、である。言い換えれば、彼女は理想的な紳士と愛人を見習ったのである。

最初は、我々は娼婦がこの女性の対象aだと考えるかもしれない。しかしながら、娼婦は対象aではなく、この若い女性の心理的経済において、対象aがいかに作用するのかの効果なのである。セミネール10(『不安』)にて、ラカンはシェイクスピアの「この世はすべて舞台だ」という見解を思う存分に活用している。これは欲望の原因としての対象aと欲望される対象とのあいだを差異化させてくれる。

この欲望を引き起こしたものは、欲望された娼婦ではなく、むしろ彼女の父の眼差しである。彼女の非日常的な冒険を通して、若い女性は、彼女の父が馴染んだ場所に、娼婦とともに出没するように気を配った。

ラカンが説明するように、若い女性は、男が女を正しく愛し交際する仕方を演じた。言い換えれば、彼女の行動は、父の眼差しのために上演された。この証拠は、次の事実に見出される。すなわち娼婦と連れ立って歩いているとき、竟に父の眼差しに遭遇して、父から酷い侮蔑の一瞥を浴び、彼女はその後、汽車の線路に身を投げて自殺を図ったのである。この瞬間、若い女性は対象aと同じ場所を占めた。より具体的に言えば、対象a($ < a)によって閉め出され失墜させられた主体としての地位と同じ場所を占めたのである。これが行為への遂行passage to the act、すなわち自殺の試みへと導いたのだった。

このように、若い同性愛の女性の事例は、眼差しとしての対象aの機能によって支配された欲望の複雑なトポロジーを描写している。対象aとしての眼差しは三つの局面の空間を生み出す。その空間は、この眼差しのために上演され、誰のために行動が上演されるか、そしてそれが対象aに関係する欲望された対象や人物の領野を開く。

欲望されるのは、対象aではない。そうではなく、むしろ対象aは、モーターとして働き、そのモーターを通して、若い女性は欲望する。対象aを通して、若い女性は、象徴界に疎外されて喪失した存在の最低限度を保持していた。実に、対象aが、彼女の父の侮蔑溢れる眼差しにおいて落ち去ると、彼女は主体として消滅した。

こういう訳で、基本的幻想とは、満足の想像されたシナリオではなく、〈他者〉の謎の欲望の分節化articulationなのである。欲望の対象は、対象aの形式の中にある〈他者〉の残余との関係性の中に或いはそれを通して、出現する。この対象aが欲望される対象の複雑なトポロジー領野を生み出すのだ。

注意すべき決定的な重要性は、強迫的な幻想は二重の構造を持っていることだ。一方で、幻想は効果としての欲望を生み出す。主体を完全なものにし、言語の世界に入り込んだ結果として、耐え忍ばなければならない喪失を乗り越えるための、欲望される対象の領野を生む出すのだ。

他方そのより暗い側面は、幻想は、なぜ象徴界はそれが約束した満足を提供しないのか、あるいは象徴界が完全性を獲得するのを妨害することの理由を提供する。

このように例えば、ナチのイデオロギーにおいて、ユダヤ人の形象は、ドイツの牧歌的なハーモニーを密かに傷つける幻想の対象となる。キリスト教原理主義者たちのあいだでは、ホモセクシャル、女たち、少数派は、社会秩序を混乱させ破壊する存在だった。これらの存在は、勿論、社会の反目、不完全のあいだの本当の原因とは何の関わりもない。むしろ、反目の構成的事実を覆い隠す存在である。

この観点において、我々は、ラカンが対象aを見せかけsemblanceの用語で言及した理由が分かる。対象aが見せかけならば、それは、有beingあるいは完全性を約束するからであり、同時になぜ存在existしないかの理由も与えてくれる

同じように、ファルスが現実なら、それは現実が幻想の枠組みを通して接近される限りで、一貫的で完全な社会秩序の錯覚illusionを生み出すからである。

ラカンはセミネール11(『精神分析の四概念』)にてこう語った。我々が夢から目覚めるのは、まさに、真理、現実界、あるいは〈他者〉の去勢に接近したときである。目覚めて、幻想の中に居続けるのだ。すなわち、真理あるいは現実界 realから、幻想の中にかつ幻想を通して構造化された現実realityび逃れるのだ。

最後に、〈他者〉の享楽、あるいは女性の享楽が真理とつながっているのなら、それが、享楽の源として、〈他者〉の欠如S(Ⱥ)、その不完全性を取る享楽の唯一の形であるからだ。

※途中、フロイトの『女性同性愛の一事例の心的成因について』をめぐるラカンの解釈部分は飛ばそうかと思ったが、それを深読みに過ぎるという見解はあるにしろ、やはりラカンの対象aの解釈は豊かである。

この論文で紹介されている症例は、ラカンがあちこちで引用し、自らの論を説明するための例として使用しています。しかしこの論文そのものの症例記載はかなり簡潔であって、フロイトの論旨にとって必要な概略のみが語られています。なので、この論文からフロイトが述べた以上の帰結を引き出すというのは、かなり無理があるんじゃないだろうかというのが正直な感想です。(フロイト全集17から『女性同性愛の一事例の心的成因について』

ーーもちろん、これも一見解ではあるあろうが、フロイトのこの論文だけを読んでいてもたいして面白くない。ラカンがフロイトを面白くした、という立場をわたくしはとりたい。