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2016年7月18日月曜日

《みずからのトゲを抜こうとする努力》から、《むき出しの市場原理》への移行

柄谷行人)『資本論』で、マルクスは、ヘーゲルにしたがって、内部的な論理的発展として記述するんだけれども、ヘーゲルと違うのは、その都度の段階に、論理的には演繹できないような外部をその都度導入しているわけです。それがいわば歴史(出来事)ということですね。(……)

岩井克人)…それはマルクスのいちばん有効なヘーゲル批判だと思うんですね。歴史の出来事性というのは、じつは、資本の「論理」、ヘーゲル的な意味での「論理」ではない資本の「論理」があってはじめて可能になるんです。資本の「論理」の徹底的な形式性が同時に出来事性を生み出してしまうことになる。(『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)

…………

「現代思想・文芸という「支配的思想=支配階級の思想」」にて、柄谷行人の次の文を引用した。

「形式化」が、たんに形式/内容の逆転ではありえず、{(形式/内容)内容}という構図そのものの逆転であらざるをえないことが明らかになるだろう。そして、この逆転は、{(内容/形式)形式}に帰結するだろう。デリダのいう「自己再固有化の法則」とはこのことである。そして、彼自身が{(差異/同一性)同一性}という形而上学的な構造を根本的に逆転するかぎり、{(同一性/差異)差異}に帰着してしまわざるをえない。彼自身が「自己再固有化」におちいらないようにするために、再び従来の構図を必要とするのである。(柄谷行人「形式化の問題」『隠喩としての建築』所収ーー実存主義→構造主義→ポスト構造主義→ポスト・ポスト構造主義の変遷をめぐって)

そして、{(差異/同一性)同一性}→{(同一性/差異)差異}という記述を、ラカン理論であるならば、{(非全体/例外 )例外}→{(例外/非全体)非全体}、デリダ的なら、{(女/男)男}→{(男/女)女}となるだろう、とした。

ここではこの想定をもう少し詳しくみてみることにする。

…………

以下、冒頭の文と同じく、『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)より(岩井克人発言)。


【ふたつの資本主義】
じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。

実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。


【社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北】 
そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。

と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。

社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。


【資本の論理=差異性の論理】 
……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。

それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。

ーー柄谷行人の応答。《資本主義というものを「主義」ではないひとつの現実性として見、どんな「主義」も「イデオロギー」もそのなかに入ってしまうような「資本の論理」を解明しようとしたのは、マルクスですね。いわゆる「共産主義」というのは、国家資本主義的形態であって、世界資本主義の外部にあるのではない。つまりソ連圏というのは明らかに世界資本主義圏に属しているわけで、逆に言うと、ソ連圏を取ると、世界資本主義については充分には語りえないはずです。……》

※参照:ユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち


以下、図式化してみることにする。

まず柄谷行人の言っていることはこうだった。



以下に岩井克人やラカン派の議論の図式化をするが、柄谷行人の次の叙述が全面的には当てはまりがたいところがある。ここでの図式化はとりあえずの試みである。

第二項は、「第一項/第二項」の対立に属すると同時に、第一項において不可避的に生じる「不両立関係」(パラドックス)を回避するために見出されるメタレベルであり、そしてこの上下(クラスとメンバー)の混同を禁止するところに、いわば「形而上学」がある。つまり、プラトン以来の哲学は、たんなる二分法によるのではなく、この対立がもつ自己言及的なパラドックスを“禁止”するところにあった。しかし、それはけっして“禁止”できない、というのは、それは形式的にコンシステントであろうとするかぎり、「決定不能性」におちいるからである。(柄谷行人「形式化の問題」『隠喩としての建築』)

さて、岩井克人の指摘する、1989年を境にした移行とは次のように図式化しうる。



資本の論理とは、別に資本の欲動、市場原理主義などと呼ばれるが、新自由主義、世界資本主義ともされ、非イデオロギー的イデオロギーとされる。

とすれば、次のように書き換えうる。




ラカンによって「主人の言説」から「資本家の言説」への移行と言われる内容を、例外の論理(男性の論理)と非全体pas-toutの論理(女性の論理)に置き換えて言えば、次のようになる。




ーーわたくしがこのように図式化するベースは次の記述による。

・女性の論理は、差異性、偶然性、単独性を強調する。

・男性的社会構造は、超越性と必然性のタームにて考え得る。主体にかんしての指導者やボス、父親、神、国等々の超越性と、これらの主体が如何に法と関わるかについてである。

・反対に女性的社会構造は、内在的かつ偶然的である。ここでの強調点は、断然に、絶えず流動的で変貌する関係性のネットワーク形式にある。これらのネットワークは、前世紀に大惨事を引き起こした集団的幻想と同じような怖るべき分岐形成物を生み出さない限りで、いっそう魅力的であるにもかかわらず、女性的ネットワークは、一連の他の問題を引き起こす。一方で、この社会的形式を基盤としたネットワークは、政治的闘争が決定的に難しい。というのは、敵がどこにいるのかはっきりしないからだ。(Levi R. Bryan,Surplus-jouissance, Desire, and Fantasy)


ところでラカン主流派(ミレール派)では、「20世紀の神経症の時代から21世紀の精神病の時代へ」と言われる。これは臨床的デフォルトが、神経症から精神病へと移行したということである(あるいは抑圧から原抑圧への移行[参照])。

とすれば次のように図式化しうる。





人間の症状は、社会構造によって生まれる。超自我社会(父権制社会)の倫理(禁止と抑圧)によって神経症は生まれた。

その後、第一次世界大戦での西欧の父の危機、1968年の世界的な学生運動、1989年の冷戦の終わりを経て、現在のわれわれの社会がある。すなわち、《 自由、平等、所有そしてベンサム(Freiheit, Gleiheit,EigentumundBentham)》(マルクス『資本論』)の時代。ベンサム主義(経済の論理、効率の論理)とは非イデオロギー的イデオロギーの時代である。

この時代には抑圧はかつてのようなものではない。抑圧の斜陽の時代には「欲望のデフレ」が起こる。そのとき欲望の症状を裸にされた人間にあらわれるのは、原抑圧にかかわる「欲動」である。

同じように、1989年以降の資本の論理が母胎となった時代とは、資本の欲動の時代である。

資本の欲動という言葉は、ジジェクがひんぱんにくり返して口にしているが、ここではジジェクではなく柄谷行人から抜き出しておこう。

資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー「欠如と穴(欲望と欲動)」)

この移行とは、若い世代、ようするに人格形成期を1989年以降に送った世代にとっては、気づきにくい。資本の論理という非イデオロギーだからことさらだ。「聡明な」思想家・批評家でさえも、この資本の論理がデフォルトになってしまっており、批判の言葉が出るのはまれなように感じる。それは、我々の時代の「所与の“環境”」となっているには相違ないが、彼らは、母胎に目を配るのではなく、母胎の上での活動をしているだけのように見える。

…もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983)

ここで、この移行を敏感に感じ取った旧世代の「精神科医」の感慨を掲げておこう。ここには、《みずからのトゲを抜こうとする努力》の時代から、《むき出しの市場原理》の時代への移行という表現がある。

ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。(中井久夫「私の「今」」1996.8初出『アリアドネからの糸』所収)

とはいえ、むき出しの市場の原理という母胎(分母)の上で、人はなんらかの抵抗をしているだろう。だが、それは釈迦の掌の上の闘いであり、逆に分母を強化してしまう場合がある。

要するに、「善い」選択自体が、支配的イデオロギーを強化するように機能する。(Levi R. Bryant PDF、きみたちの「燻製ニシンの虚偽」)

ではどうしたらよいのか。

個人の症状について、という限りでにおいてだが、後期ラカン理論によれば、むき出しの症状(原症状)に直面したとき、その症状と同一化しつつも距離をとりなければならない、ということが言われる。

……s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme(Lacan,S.24)

この処方箋は、社会の原症状(資本の欲動)についてもある程度当てはまるはずだ。それは、バディウやジジェクなら新しい主人のシニフィアンの設置(コミュニズム仮説等)といい、柄谷行人からは統整的理念(世界共和国)の提案がある。貨幣の観点からメスを入れた、ビットコインなどや世界中央銀行提案などもこの考え方の文脈のなかにあるのかもしれない。

結局、イデオロギー的父の名(支配の論理)を取り払っても、我々はなんらかの新しい支えが必要である。支えとは、ラカン派観点なら、クッションの綴じ目 point du capiton という。

ポワン・ド・キャピトン point du capiton の凡その意味は次の通り。袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。「クッションの綴じ目」は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。このボタンが、主人のシニフィアン S1 である。むき出しの市場原理の時代に直面して、「言葉を探さなければならない」などと言われたりすることは、このヴァリエーションのはずだ。

(冒頭に掲げた岩井克人=マルクスの《資本の「論理」の徹底的な形式性が同時に出来事性を生み出してしまう》という文にある「出来事」についても、ひょっとしたら、バディウの 「空虚」から生まれる mise-en-un (「一」への形成)--ラカンの「無からの創造」としてのサントーム=「一」のシニフィアン≒主人のシニフィアン S1の変種と読みうるかもしれない。《un événement de corps = sinthome》 Lacan,,AE.569,1975)

S1は理論的には次のようなことが言われるが、容易には機能しがたいだろうことはすでに実験済みーー日本でも柄谷行人によってーーだとさえいえる。

〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、 結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は 新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫合点」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。 (……)〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

最後に岩井克人の文章を付記しておく。

わたしたちは後戻りすることはできない。共同体的社会も社会主義国も、多くはすでに遠い過去のものとなった。ひとは歴史のなかで、自由なるものを知ってしまったのである。そして、いかに危険に満ちていようとも、ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である。自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。資本主義を抑圧することは、そのまま自由を抑圧することなのである。そして、資本主義が抑圧されていないかぎり、それはそれまで市場化されていなかった地域を市場化し、それまで分断されていた市場と市場とを統合していく運動をやめることはない。

二十一世紀という世紀において、わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そして、この「宿命」を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)

…………

※付記

「みずからのトゲを抜こうとする努力」の時代の機制については、中井久夫とともに、次のジジェクの叙述が水際立っている。

私の興味をひいたのは、東側と西側が相互に「魅入られる」ということでした。これは「幻想」の構造です。ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「まなざし」自体なのです。西側を魅惑したのは、正統的な民主主義の勃発なのではなく、西側に向けられた東側の「まなざし」なのです。この考え方というのは、私たちの民主主義は腐敗しており、もはや民主主義への熱狂は持っていないのにもかかわらず、私たちの外部にはいまだ私たちに向けて視線をやり、私たちを讃美し、私たちのようになりたいと願う人びとがいる、ということです。すなわち私たちは私たち自身を信じていないにもかかわらず、私たちの外部にはまだ私たちを信じている人たちがいるということなのです。西側における政治的な階級にある人びと、あるいはより広く公衆においてさえ、究極的に魅惑されたことは、西に向けられた東の魅惑された「まなざし」だったのです。これが幻想の構造なのです、すなわち「まなざし」それ自体ということです。

そして東側に魅惑された西側だけではなく、西側に魅惑された東側もあったのです。だから私たちには二重の密接な関係があるのです。(Conversations with Žižek, with Glyn Daly、私訳)

…………

※追記

というわけではあるが、さて欧米的にはこういうことが言え、さらに日本でも資本の論理という面ではある程度は上に記したような移行はあるにしろ、文化的にはどうなのか。日本はもともと非イデオロギーの国ではなかったか・・・

ーーということについては、「見せかけの国 l'empire des semblants」と「ファルスの国 l'empire du phallus」 にいくらか記した。

日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。 イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎな い。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。ドストエフスキーの『悪霊』な んかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないん じゃないですか。

人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていい たくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思うんです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけではなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間 が見えなくなったところからきている。しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつか れる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山真男、針生一郎との対談『丸山座 談5』)

言ってしまえば、日本という社会の構造は、基本的に非全体の論理が母胎にあり続けたのではないだろうか。すなわち上の図式化をくり返せば、次のような国だったのではないか。





もっとも明治維新以降、1945年までの「疑似一神教」の時代だけはいささか異なるという観点はあるだろう。だが、それは例外的な期間ではないだろうか。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。(……)

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

柄谷行人は、かつて、コジューヴの日本文化論(日本的スノビズム)を語りつつ、《日本的な生活様式とは実際に江戸文化のこと》としている。

江戸文化とは、江戸幕府の基本政策によって醸成された。

江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。(中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」」)

というわけで、近代日本社会とは《みずからのトゲを抜こうとする努力》をしたことがあったのだろうか、と問うてもよい。

日本は先進国である。ラカン派における21世紀の症状、「ふつうの精神病」(ミレール派)あるいは「ふつうの倒錯」(メルマン派)の、水際立った先進国である・・・




ということについても、柄谷行人がすでに1992年に指摘している(いささか精神分析用語の混乱はあるにしろ)。

……思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統御するような権力が成立したことがなかった。それは、明治以後のドイツ化においても実は成立しなかった。戦争期のファシズムにおいてさえ、実際は、ドイツのヒットラーはいうまでもなく、今日のフランスでもミッテラン大統領がもつほどの集権的な権力が成立しなかったし、実はその必要もなかったのである。それは、ここでは、国家と社会の区別が厳密に存在しないということである。逆にいえば、社会に対するものとしての国家も、国家に対するものとしての社会も存在しない。ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。

ところで、それは、もし「国家」を構築的なもの、「社会」を生成的なものとして区別するならば、この国では、構築と生成の区別が厳密に存在しないということを意味する。あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。国学者の本居宣長が、中国的な思考に対して、日本の原理としてとりだしたのは、そうした生成である。しかし、それはニーチェがいうような生成ではない。また、構築のないところで、生成を唱えることには大して意味はない。

日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。フーコーは、精神分析の「抑圧」という概念に反対した。その意味では、日本には「抑圧」とそれが生み出す「主体」はない。しかし、ラカン的にいえば、「排除」があるというべきだろう。すなわち、それは原抑圧の失敗であり、去勢の否認である。日本の言説空間は、外からの原理による去勢を排除してしまった分裂病的な空間であるといえるかもしれない。見かけの統合はなされているが、それは実は空虚な形式である。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。それは、大陸的な父権的制度と思考を受け入れながらそれを「排除」するという姿勢の反復である。

日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。しかし、そのことに批判的にこだわることは、逆にそれに閉じこめられうことに帰結する。フーコーは「日本」を愛さなかった。そして、私がフーコーに共感するのは、具体的に「生」の形態を変える「自由」を楽天(ゲイ)的に求めようとしたことにおいてである。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)


2016年7月12日火曜日

現代思想・文芸という「支配的思想=支配階級の思想」

「「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのの捏造」にて、こう引用した。

カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

このジジェクの言っていることの内実をもう少し詳しくみてみることにする。

たとえば、柄谷行人は、『隠喩としての建築』で既に次のように記している。

「形式化」が、たんに形式/内容の逆転ではありえず、{(形式/内容)内容}という構図そのものの逆転であらざるをえないことが明らかになるだろう。そして、この逆転は、{(内容/形式)形式}に帰結するだろう。デリダのいう「自己再固有化の法則」とはこのことである。そして、彼自身が{(差異/同一性)同一性}という形而上学的な構造を根本的に逆転するかぎり、{(同一性/差異)差異}に帰着してしまわざるをえない。彼自身が「自己再固有化」におちいらないようにするために、再び従来の構図を必要とするのである。(柄谷行人「形式化の問題」『隠喩としての建築』所収ーー実存主義→構造主義→ポスト構造主義→ポスト・ポスト構造主義の変遷をめぐって)

この考え方は、1989年以降の世界の構造ーー少なくとも先進諸国の構造--についても当てはめることができる。それは、ラカンが1968年を契機に、主人の言説から資本家の言説の時代への移行を指摘したことにもかかわる。

主人の言説とは「例外の論理」(男性の論理)、資本家の言説とは「非全体の論理」(女性の論理)である。

わたくしが資本家の言説を女性の論理と捉えるのは、主に、Levi R. Bryanの叙述に基づく。

女性の論理は、差異性、偶然性、単独性を強調する。
男性的社会構造は、超越性と必然性のタームにて考え得る。主体にかんしての指導者やボス、父親、神、国等々の超越性と、これらの主体が如何に法と関わるかについてである。
反対に女性的社会構造は、内在的かつ偶然的である。ここでの強調点は、断然に、絶えず流動的で変貌する関係性のネットワーク形式にある。これらのネットワークは、前世紀に大惨事を引き起こした集団的幻想と同じような怖るべき分岐形成物を生み出さない限りで、いっそう魅力的であるにもかかわらず、女性的ネットワークは、一連の他の問題を引き起こす。一方で、この社会的形式を基盤としたネットワークは、政治的闘争が決定的に難しい。というのは、敵がどこにいるのかはっきりしないからだ。(Levi R. Bryan,Surplus-jouissance, Desire, and Fantasy

とくに女性の論理は「差異性」の論理であるという表現に注目する。ただし資本家の言説=女性の論理とは、多くのラカン派がその見解を示しているわけではない。とはいえ、ここでは当面こう捉えるという前提で話をすすめる(ジジェクは不思議にもーーわたくしの知る限りーーラカンの「資本家の言説」という語を今まで一度も口にしていない)。

そして、1968年を契機に(約20年の端境期をはさみ)、1989年以降、如実に主人の言説から資本家の言説への移行があったという観点をとる。

これを柄谷流の記述:{(差異/同一性)同一性}→{(同一性/差異)差異}を援用して記せば、

主人の言説:{(非全体/例外 )例外}から
資本家の言説:{(例外/非全体)非全体}への移行

ということになる。

浅田彰=デリダ的に言えば、次の通り。

{(女/男)男}→{(男/女)女}

「(デリダは)ある種の二重の戦略の必要性を力説しています。僕がよく挙げる例なのですが、 man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、そこでは明らかに manが womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。  しかし、 manと womanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだ から、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が  男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければならない、というわけです」(浅田彰)
「もっと一般的な例では、同一性に対し差異を復権するのはいいけれど、それらはいずれも実は同一性という土俵の上に乗っているので、その同一性とい う土俵自体を「差延」へと脱構築していかなければならないというわけですね。一方では転倒が、しかし同時に他方では脱構築が必要だ ー これがデリダの二重の戦略です」(浅田彰ーー理屈 「デリダ追悼」ーーきみたちの「燻製ニシンの虚偽」)


男性的社会構造(例外の論理)は、超越性・必然性の論理のもとにあり、女性的社会構造(非全体の論理)は、差異性・偶然性の論理のもとにある、というLevi R. Bryanの見解を上に引用した。

資本の論理が、後者の差異の論理であることは、かねてよりの指摘がある。

資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985)
資本主義の「正常な」状態は、資本主義そのものの存在条件のたえざる革新である。資本主義は最初から「腐敗」しており、その力をそぐような矛盾・不和、すなわち内在的な均衡欠如から逃れられないのである。だからこそ資本主義はたえず変化し、発展しつづけるのだ。たえざる発展こそが、それ自身の根本的・本質的な不均衡、すなわち「矛盾」を何度も繰り返し解決し、それと折り合いをつける唯一の方法なのである。したがって資本主義の限界は、資本主義を締めつけるどころか、その発展の原動力なのである。まさにここに資本主義特有の逆説、その究極の支えがある。資本主義はその限界、その無能力さを、その力の源に変えることができるのだ。「腐敗」すればするほど、その内在的矛盾が深刻になればなるほど、資本主義はおのれを革新し、生き延びなければならないのである。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)

我々の世界を支える母胎は、いつの間にか、差異の論理(非全体の論理、女性の論理)になってしまっている、としてよいのではないか。そのとき旧世代的思考のまま、つまり母胎が主人の論理(支配の論理、男性の論理)のままのつもりで、差異の論理、自己革命化の論理による対抗言説を発しても機能しない。それ冒頭のジジェク文の言っていることだ、とわたくしは捉える。

これは、柄谷行人が『トランスクリティーク』冒頭近くで言っていることとほとんど同じ内容である。

マルクス主義は、合理論的、目的論的な思考(大きな物語)として批判されてきた。実際、スターリニズムはそのような思考の帰結であった。歴史の法則を把握した理性によって人々を指導する知識人の党。それに対して、理性の権力を批判し、知識人の優位を否定し、歴史の目的論を否定することがなされてきた。それは、中心的な理性の管理に対して多数の言語ゲームの間の「調停」や「公共的合意」を立て、また、合理論(形而上学)的な歴史に対して経験の多様性と複雑な因果性を立て、他方で、目的のためにいつも犠牲にされてきた「現在」をその質的多様性(持続)において肯定することである。

しかし、私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考 ――私自身それに加わっていたといってよい ――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位 ――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

マルクス主義という言葉が出てくるが、もちろんこれはマルクスの思想ではない。むしろ、ここでは「目的論的な思考(大きな物語)/ 資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動」という対比に注目しなければならない。これは、ラカンの主人の言説/資本家の言説の対比とほぼ等価と捉えられる。

上の柄谷の文には、ディコンストラクションや知の考古学自体、あるいは文学や芸術自体、その本来的性質上、差異の論理(女性の論理)のもとにあり、ある時期以降、これらの言説が、反体制の言説どころか、「支配的思想=支配階級の思想」になってしまっているという柄谷行人の観点が示されている、--そう読めないだろうか。

最後に蛇足ながら、柄谷行人のとらえる「真のマルクス」ーーマルクス主義ではなくーーとは次のようなことだ。

私は『資本論』にマルクスの仕事の最高の達成を見出すにもかかわらず、それをマルクスの最終的な立場として見做すべきでない、と考えている。それはこの本が未完成であるというだけではない。重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』PP.249-250)

ジジェクのコメントを付せば、次の通り。

ヘーゲルがおこなったカントについての基本的な修正は、したがって、次のようなものである。理性の三つの領域(理論的・実践的・美的)は、主体の態度の移行、すなわち「カッコに入れること」で出現する。つまり、学の対象は、道徳的判断と美的判断をカッコに入れることで出現する。道徳的領域は、認識的–理論的関心と美的関心をカッコに入れることで出現する。美的領域は、理論的関心と道徳的関心をカッコに入れることで出現する。たとえば、道徳的関心と美的関心をカッコに入れるなら、人間は、自由ではない、因果的関連に全面的に条件づけられたものとしてあらわれる。逆に、理論的関心をカッコに入れるとすれば、人間は、自由で自律的な存在としてあらわれる。したがって、もろもろのアンチノミーは物象化されるべきではない — アンチノミーをなす複数の立場は、主体の能度の移行によって生みだされる。柄谷の画期的成功は、しかしながら、そのようなパララックスな読みかたをマルクスに適用したこと、マルクスその人をカント主義者として読んだことにある。 (ジジェク『パララックス・ヴュー』)

もし現在の支配的論理が、主人の言説(男性の論理)に対する資本家の言説としての差異の論理(女性の論理)であるならばーー《合理論に対する経験論的思考の優位》(柄谷行人)であるならばーー、それを批判しないままでは、マルクス的フットワーク、あるいはカント的視差(パララックス)はない、ということになる。

では今、何が必要なのか、といえば、ジジェクの言葉遣いなら「主人のシニフィアン」であり、柄谷行人なら「統整的理念」(構成的理念ではなく)である(参照:主人のシニフィアンと統整的理念)。





2016年2月15日月曜日

女性の論理が必ずしもいいわけじゃないよ

女性の論理(非全体の論理)が必ずしもいいわけじゃないよ、たぶんね。


男性の論理/女性の論理は、一般的に次ぎのように説明される。

男性の論理とは〈例外〉を伴う〈不完全性〉の論理、
女性の論理とは、境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の論理。

ラカンは、性差を構成する非一貫性を、「性差の式」にて詳述した。そこでは、男性側は、普遍的な機能とその構成要素である例外とによって定義される。そして女性側は“すべてではない”(pas‐tout)のパラドックスによって定義される(例外はなく、そしてまさにその理由によって、すべてではない、すなわち、非-全体化される)。想いだしてみよう、ウィトゲンシュタインの語り得ぬものの移りゆく地位を。前期ヴィトゲンシュタインから後期ヴィトゲンシュタインの移動(家族的類似性)とは、「すべて」(例外を基盤とした普遍的全体の領域)から、「すべてではない」(例外なしでその理由で非-普遍的、非-全体の領域)への移動である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHINGーー「“A is A” と “A = A”」)

「現代思想」的には、否定神学批判ーー結局、例外の論理批判だろうーーなどもあり、女性の論理が顕揚された時期があるし、いまもそう思い込んでいる連中はいるだろうけど。


◆「三つの「父の死」」より再掲(Levi R. Bryanのブログより)

最初は、我々は考えたかもしれない、女性の論理(非全体の論理)に基づいた社会構造の方が遥かに上手くゆくと。とどのつまり、女性の論理は、差異性、偶然性、単独性を強調する。

ラカンは次のように簡潔に言うのを好んだ、男性の論理は、ホモ-セクシャル的であり、女性の論理は、唯一真のヘテロ-セクシャルであると。男性の論理についてのこの見解は、フロイトの悪評高い『トーテムとタブー』の事例に明らかに見られる。かつまた『集団心理学と自我の分析』における軍隊組織の分析も同様に見られる。

ここでのポイントは、性別化された男性がゲイであるということではなく、彼らが皆、享楽と欲望を統制する一つの同じ法の支配下に置かれるということだ。こういわけで、兄弟の一団が『トーテムとタブー』における原父を殺したとき、彼らは、代わりに、母と姉妹を所有することに対する禁止の法を設置する。

反対に、ラカンが主張するには、女性として性別化された主体は、差異の、異性愛の真の愛を持つ。もちろんそれは「話す存在の非-全体が去勢の法に従属する」限りとしてである。

しかしながら、女性の論理のタームで組織された社会構造もまた、それ自身の袋小路に遭遇する。男性的社会構造は、超越性と必然性のタームにて考え得る。主体にかんしての指導者やボス、父親、神、国等々の超越性と、これらの主体が如何に法と関わるかについてである。

ここでの法は、法への一つだけの例外とともの超越性と普遍性である(多分、この理由で、ブッシュ政権の最後の26%の支持者は彼の行政当局の不正に煩わされるところはないだろう)。

反対に女性的社会構造は、内在的かつ偶然的である。ここでの強調点は、断然に、絶えず流動的で変貌する関係性のネットワーク形式にある。これらのネットワークは、前世紀に大惨事を引き起こした集団的幻想と同じような怖るべき分岐形成物を生み出さない限りで、いっそう魅力的であるにもかかわらず、女性的ネットワークは、一連の他の問題を引き起こす。一方で、この社会的形式を基盤としたネットワークは、政治的闘争が決定的に難しい。というのは、敵がどこにいるのかはっきりしないからだ。(註)

多分、もっと根本的には、女性的ネットワーク社会は、あらゆるタイプのファリックな主人あるいは導師の探求の発生を伴う。(……)

おそらく、これが、ネットワークベース社会によって開かれた新しい欲望の自由が、主体を不安で満たす理由である。というのは、もはや、何を欲望したらいいのかを教えてくれる指針がないからだ、「私が欲望するのを私は知っている。でも、私にとって、正しい欲望とはどんな欲望なのか、どんな欲望が私を欲望させるのか?」。これがまたあらゆる種類の原理主義の勃興を説明してくれる。そこで主体は、欲望の空間を創造するヒエラルキー社会モデルに執着する。かつまたそのモデルにおいては、後期資本主義の虚しい憂鬱な姿勢を回避できる。

ようするに、象徴界の「非-全体」(女性の論理)を認める限りでは、それは数多くの点で好ましいし、真実あるいはリアルに基づいているにもかかわらず、女性の性化が我々を救うとは言えない。

しかしながら、心に留めておかねばならないポイントは、男性と女性の性別化は、父の名とエディプスのまわりに組織された秩序を基盤としていることだ。

言い換えれば、性別化は現実界に直接関係があるにしろ、父の名が、主体性がそれを通して形成される基本的様相である限り、男性と女性の性別化のみがある。後期ラカンは他の可能性を思い描いている。すなわちセミネール23(サントーム)にて、ラカンは表明した、「父の名なしでやっていくことが可能だ、人が父の名を使用する限りで」と。さらに、父の名は複数化される、その機能に奉仕するためにシニフィアン構造のヴァラエティが許容される。

最終的に、精神病は全ての主体に一般的なものとなる。父の名のまわりに組織されたエディプス構造は、ボロメオの結び目をつなぐ一つの方法ーー他のものの中のーーに過ぎなくなる。それは〈大他者〉 (A)の不在に応答する一つの方法でしかない。

代わりに、サントームがRSIの三つの輪をつなぐようになる。それはエディプスの役まわりを必要としない社会的リンクをもたらす。多分、そのときボルメオの臨床は、エディプスを超えて結び目をつなぐ別の方法を提供するが、男性と女性の性別化を超えた異なった形式の袋小路を生み出すだろう。(Levi R. Bryan,Surplus-jouissance, Desire, and Fantasy、2008,私訳)


「父の名なしでやっていくことが可能だ、人が父の名を使用する限りで」ってなんだろうね、

ーーー我々は、象徴的権威なしでやっていくことが可能だ、人が主人のシニフィアンを使用する限りで、ってとこだろうか(参照:「主人のシニフィアンと統整的理念」)。

まあ、とはいえ、理論では世界はなかなか変わらないさ、

一度、世界経済が崩壊するのが一番近道だよ、「革新」のためには。

世界は行き詰るにきまってるさ、それが、《五年先か十年先か知りませんよ。》(マージナルなものへのセンスの持ち主だけの資本主義崩壊「妄言」)

だいたい今のまま彌縫策やりながら、なんとか続くって思っている連中こそが、ユートピアンか不感症かだぜ、どうやって続くことがありえるってんだい、この破廉恥な「資本の論理」の世界が。

資本の論理って口に出したところで、この論理ってのは例外の論理じゃないよな、差異の論理だよ。《資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです》(岩井克人)

Levi Bryanが上で言ってるじゃないか、女性の論理は差異の論理だって。 ウンザリだね

ま、フランス革命あって、ロシア革命あって、いずれにせよ、そろそろ次の革命が起こる周期だろ、はあん?





2015年9月17日木曜日

ラカンのシニフィアンの定義:「シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する」

まずラカン「無意識の位置」(エクリ)より。

E840

 シニフィアンの領域は、シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象するという事実を基礎に成立しています。これはすべての無意識の形成物、すなわち夢、いい間違い、機知の構造です。これと同じ構造はまた、主体の原初的分裂[division]を説明してくれます。シニフィアンはいまだ位置づけられていない《他者》の場所に作り出され、いまだ話すことのできない存在から主体を生み出します。しかし、このことはその存在を凍りつかせてしまうということをその代償とするのです。《そこにあった[il y avait]》今にも話さんとするものは消え去り、もはやシニフィアン以外の何物でもないものになります。ここで私が「il y avait」と申し上げたのは、フランス語の半過去の二つの意味を念頭においています。つまり、今にも話さんとするものを前の瞬間に位置づける(すなわち、そこにあったがもはやなくなってしまった)という意味と、後の瞬間に位置づける(すなわち、そこにありえたのだから、少し時が経てばそこにあるであろう)という意味です。

E841

 この操作が疎外[alienation]と呼ばれるのは、この操作が《他者》のなかで始まるからではありません。主体にとって《他者》が主体のシニフィアンの原因であるという事実は、どんな主体も自身の自己原因にはなれないということを説明してくれるだけです。これは主体が《神》ではないからというだけではなく、《神》を主体としてとらえた場合、《神》自身も自己原因になれない、ということから明らかです。聖アウグスティヌスはこのことを非常に明確に理解していたので、個人としての《神》に「自己-原因」としての性質を与えることを拒んだのです。(松本卓也訳)

ーーなるほど松本卓也氏はすでに2004年にこのように訳しているのだな、2004年といえば彼はまだ20歳前後じゃないか。

オレのように耳順の齢をすぎてから英文(のみ)を斜め読みしている人間とはわけがちがう。

The register of the signifier is instituted on the basis of the fact that a signifier represents a subject to another signifier. This is the structure of all unconscious formations: dreams, slips of the tongue, and witticisms. The same structure explains the subject's original division. Produced in the locus of the yet-to-be-situated Other, the signifier brings forth a subject from a being that cannot yet speak, but at the cost of freezing him. The ready-to-speak that was to be there—in both senses of the French imperfect "ily avait" placing the ready-to-speak an instant before (it was there but is no longer), but also an instant after (a few moments more and it would have been there because it could have been there)—disappears, no longer being anything but a signifier.

It is thus not the fact that this operation begins in the Other that leads me to call it "alienation."The fact that the Other is, for the subject, the locus of his signifying cause merely explains why no subject can be his own cause [cause de soi], This is clear not only from the fact that he is not God, but from the fact that God himself cannot be his own cause if we think of him as a subject; Saint Augustine saw this very clearly when he refused to refer to the personal God as "self-caused" [cause de soi].

松本くんの訳文に出合った記念に、彼に敬意を表して、ほとんど縁のない仏原文をも掲げておこう。

Le registre du signifiant s'institue de ce qu'un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant. C'est la structure, rêve, lapsus et mot d'esprit. de toutes les formations de l'inconscient. Et c'est aussi celle qui explique la division originaire du sujet. Le signifiant se produisant au lieu de l'Autre non encore repéré, y fait surgir le sujet de l'être qui n'a pas encore la parole, mais c'est au prix de le figer. Ce qu'il y avait là de prêt à parler ,- ceci aux deux sens que l'imparfrait du français donne à l'il y avait, de le mettre dans l'instant d'avant : il était là et n'y est plus, mais aussi dans l'instant d'après : un peu plus il y était d'avoir pu y être, -ce qu'il y avait là, disparaît de n'être plus qu'un signifiant.

Ce n'est donc pas que cette opération prenne son départ dans l'Autre, qui la fait qualifier d'aliénation. Que L'Autre soit pour le sujet le lieu de sa cause signifiante, ne fait ici que motiver la raison pourquoi nul sujet ne peut être cause de soi. Ce qui s'impose non pas seulement de ce qu'il ne soit pas Dieu, mais de ce que Dieu lui-même ne saurait l'être, si nous devons le penser comme sujet -saint Augustin l'a fort bien vu en refusant l'attribut de cause de soi au Dieu personnel.


ところで、《シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する》とは、ラカンのテキストに驚くほど繰り返し出現するのだが、たとえば『同一化セミネール』では次ぎのようにラカンは語っている(参照:ラカン派の「記号」と「シニフィアン」)。

シニフィアンは記号とは逆に、誰かに何かを表象するものではなく、主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象するものである。私の犬はご存知のように、私の印、記号を探し、そして話す。なぜこの犬は話す時に言語を使わないのであろう。それは、私はこの犬にとって記号を与えるもので、シニフィアンを与えることはできないからである。前言語的に存在し得るパロールと言語の違いはまさにこのシニフィアンの機能の出現にかかっているのである。(セミネールⅨ、向井雅明試訳)

冒頭だけ仏原文を掲げておこう。

Le signifiant… à l'envers du signe, n'est pas ce qui représente quelque chose pour quelqu'un …c'est ce qui représente précisément le sujet pour un autre signifiant. Séminaire 9 Staferla 版p.78


ラカンは後年セミネールⅩⅦで「四つの言説」概念を提出したが(参照)、そこでも《シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する》という文をとくに「主人の言説」を例に挙げて説明している(Staferla 版、P.19)。

これらは解釈者たちによって次のように説明される。

◆Lacan’s fifth Discourse, introducing the Capitalist Discourse(Philippe Gendrault)




◆ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.2004

ラカンの名高いシニフィアンの「定義」、シニフィアンは主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象する…主人の言説が基本の母胎を提供してくれる。すなわち主体はもうひとつのシニフィアン(「ふつうの諸シニフィアン」の鎖あるいは領域)に対するシニフィアンによって表象される。象徴的表象化に抵抗する残余ーー喉に刺さった骨ーーは対象aとして出現する(生産される)。そして主体は幻想的な形成を通してこの過剰に向けて彼の関係性を「正常化」しようと努める(これが主人の言説の式の下段が幻想のマテーム $ – a を示している理由である)。(私訳)


◆Paul Verhaeghe enjoyment and impossibility 2006

主体は諸シニフィアンの鎖の効果であり、ほかのシニフィアンに対するシニフィアンによって表象される。主体は「己れ」を読むために主人のシニフィアンが必要である。セミネールXXにおいて、ラカンはこう言っている、主人のシニフィアンは封筒のようなものであり、その包みを通して諸シニフィアンの全ての鎖ーー知knowledgeーーは存続しうる、と。(Seminar XX, 129-131)


ここではもうひとつ、上に掲げたエクリにある《どんな主体も自身の自己原因にはなれない》にも注目してみよう。セミネールⅩⅣには、「シニフィアンはそれ自身をシニフィアン(徴示)することができない」、というふうに要約できる文がある。

英訳:it is of the nature of each and every signifier that it cannot signify itself”.(The Logic of Fantasy)

仏原文;il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( Logique Du Fantasme l966-67 )


さらに、《シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する》とは、ジュパンチッチのバディウ論によれば、”a major breakthrough of contemporary thought”だそうだ。しかもラカンの現実界の定義にもかかわり、pas-tout(非全体の論理)もかかわる、と。


■THE FIFTH CONDITION Alenka Zupancic

A conception that finds its most concise formulation in Lacan's statement: ‘a signifier represents a subject for another signifier'. This was a major breakthrough of contemporary thought, a breakthrough that could in fact provide philosophy with its ‘fifth condition', i.e. its own distinctive conceptual space. For in this conception, representation is not a ‘presentation of presentation' or the state of a situation but rather a ‘presentation within presentation' or a state within a situation. In this conception, representation is itself infinite and constitutively not-all (or non-conclusive), it represents no object and does not prevent a continuous un-relating of its own terms (which is how Badiou defines the mechanism of truth). Here, representation as such is a wandering excess over itself; representation is the infinite tarrying with the excess that springs not simply from what is or is not represented (its ‘object'), but from this act of representation itself, from its own inherent ‘crack' or inconsistency. The Real is not something outside or beyond representation, but is the very crack of representation.


この最後の現実界の定義めいたものは、ジジェクが『LESS THAN NOTHING』(2012)でいっている「波打ち際」にもかかわるのだろう(参照:“A is A” と “A = A”)。

ラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際 littorale がある」と言うとき、jouis‐sense の 喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアン化する形式 signifying formula of enjoyment に還元された文字の jouis‐sense を、である。

ここに後期ラカンの最終的な「ヘ ーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束 convergence は、まさに不一致 divergence によって支えられている。というのは差異は己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

…………

※追記

セミネールⅢにもすでに次ぎのように出て来ていることに注目しておこう。

Il n'y a pas d'autre définition justement scientifique des subjectivités que par cette possibilité de manier le signifiant à des fins purement signifiantes, et non pas significatives, c'est-à-dire qui n'expriment aucune relation directe de l'ordre de l'appétit, et font jouer l'ordre du signifiant, et non pas simplement à l'état de signifiant constitué. p.421

そしてラカンのシニフィアンの捉え方の説明として初期から後期までのラカンの主体概念を綿密に解釈するおどろくべき書『Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan』 (Lorenzo Chiesa. 2007)における冒頭近くにある軽いジャブ程度のシニフィアンの定義を掲げておこう。

(1)《シニフィアンはどんな対象とも関係しない記号である》(S.3)。それは《他の記号と関係する記号であり、それ自体、他の記号の不在を徴示するように構造化されている。言い換えれば、二つ組で己に対立する》(S.3)。さらにシニフィアンは必らずしも(文のなかの)言葉に相当しない。音素から文までの言語のあらゆる階層的レヴェルでの対立するユニットはシニフィアンとして機能しうる。人のボディランゲージもーー例えば、頭を振ったり頷いたり手を振ったり等々ーーそれが多義的である限りにおいてシニフィアンとして働きうる。

(2) 記号とは、厳密に言えば、コード概念、あるいは「生物学的な記号」と重なり合う何かである。索引と指示物とのあいだのとゲシュタルト的/想像的なーー両-一義的な bi-univocal ーー関係である。これは動物のコミュニケーションの領域である(思い起こしてみよう、例えば動物においてある色の出現はそのパートナーにおけるある性的反応を惹き起こす仕方を)。このように動物のコミュニケーションは「(特別の)意味をもつ significant」。他方、人間のコミュニケーションは「徴示する signifying」。その意味はけっして「両-一義的 bi-univocal」でないことである。というのは根絶できない虚偽の可能性ーー象徴的局面の精髄ーーが間違いなくあるのだから。

(3)「主体性のどんな科学的定義もない、次ぎのように考え始める以外は。すなわち意味する先ではなくnot significant ends、純粋に徴示するものpurely signifyingに対するシニフィアンを扱うことの可能性から始めること。これは、欲求の秩序とのどんな直接の関係性もないことを言っている」(Seminar. III, p. 189) この定義はすでに1960年代初めのラカンの名高い公式の基本を提示している。その公式によれば、主体はほかのシニフィアンに対するシニフィアンによって代表象される。主体はシニフィエに還元され得ない。シニフィエの主体the subject of the signified とは自我egoに相当する。他方、主体はシニフィアンにさえ同一化できない。というのはシニフィアンの行為そのものが言表内容と言表行為のあいだで主体を分裂させるからだ。どんなシニフィアンも主体を十分に徴示するsignifiesことはない、それが「特権的なシニフィアン」であってさえも。(私訳)

そしてシニフィアンを考える上で肝腎なことは次ぎのようなことだ。

医療診断学において、症状は、底に横たわる障害を指し示す記号として解釈される。その記号は、孤立化されると同時に一般化される。臨床的な精神診断学においては、われわれはシニフィアンに直面する。そのシニフィアンは、患者と〈他者〉とのあいだのその折々に見合った相互作用において絶え間なく移動する意味をもっている。(……)

臨床的な精神診断学の問いは、「この患者はどんな病気を持っているか?」というものではそれほどなく、むしろ「この症状は誰に、何に、差し向けられているのか?」というものである。底に横たわる、しかし目に見えない構造――患者に交差するすべてを決定する構造――があるに違いないというものである。

医療診断学は特定化(症状symptom)から始め、一般化に向かう(症候群syndrome)。それは、個々人の苦情に完全に焦点を絞った記号的なシステムsemiotic systemを基礎としている。臨床的な精神診断学は一般(化)(始まりの苦情)から始めて、個別化(N = 1)に進んで行く。それは、主体と〈他者〉とのあいだのより広い関係性の部分であるシニフィアンのシステムを基礎としている。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)

これはなにも精神分析臨床の実践の場のみにはかかわらない。われわれはたとえばツイッター上での発言を記号として捉えるか、シニフィアンとして捉えるか、そこに人の発言を判断する「分析」の要(のひとつ)がある。

精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』ーー「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」(フロイト))

ーーでは、〈あなた〉は「精神科医」でないのだから、人の発言を「額面通り」とるのだろうか? それが好きならそうしたらよろしい。だがそれでは、たとえば「政治家」の発言をなにも解釈できないだろう。

…………

※追記:別に投稿しようと思ったがあえてそうするまでもない気がしてきたのでここに追記しておく。

ジジェクによるラカンの「波打ち際 littorale」のよりわかりやすい説明は次ぎの文がいいだろう。

Levi R. Bryantは『The Democracy of Objects』(2011)にてジジェクの『為すところを知らざればなり』から引用して次ぎのように記している。

the bar which separates [the symbolic and the real] is strictly internal to the Symbolic, since it prevents the Symbolic from “becoming itself”. The problem for the signifier is not its impossibility to touch the real but its impossibility to “attain itself”—what the signifier lacks is not the extra-linguistic object but the Signifier itself, a non-barred, non-hindered (Cf. Žižek, For They Know Not What They Do, p. 112.)
In short, the real is not something other than the symbolic, but rather is a sort of effect of the symbolic resulting from the difference that haunts every signifier by virtue of the split between the signifier and its place of inscription. Because the signifier always embodies this difference between itself and its place of inscription, the signifier always and everywhere necessarily fails to attain identity with itself. However, this very failure to attain identity with itself is precisely the very essence of its identity. As Hegel playfully remarks in the Science of Logic, if A were identical with itself, why would I need to repeat it? The repetition of an identity in a tautology like “A = A” actually marks the difference or non-identity of A with itself.

彼は同じ書で、ラカンのシニフィアンの定義をヒステリーの言説にて説明している。



In the discourse of the hysteric, the subject addresses the Other or master from the standpoint of his split. This split results from the inability of the symbolic or language to provide the subject with a signifier that would fix or name his identity within the symbolic.

In short, the hysterical subject calls on the other to tell him what he is. This inability of language to provide a signifier that would found the subject arises from the essence of language itself.

As Lacan remarks in The Logic of Fantasy, “it is of the nature of each and every signifier that it cannot signify itself”.273

Insofar as the signifier cannot signify itself, it always requires another signifier to produce effects of signification.

In this respect, signifiers have the structure of sets that do not include themselves, and Lacan does not hesitate to draw a parallel with Russell's paradox pertaining to the impossibility of a set of all sets that do not include themselves. The net result of this is that there cannot be a “universe of discourse” or totality of language because it will always be beset by paradox from within.274

The consequence of this is that there can be no stable signifier that could ground the subject's identity, for each signifier will necessarily refer to another signifier without any possibility of completeness. It is this structure of language that accounts for the divided structure of the subject.

Moreover, in the position of truth in the discourse of the hysteric, we encounter objet a as that remainder that is always lost within language. It is this remainder that literally drives the subject forward, forever looking for that signifier that would ground identity, and further alienating himself through his speech.

The product of this discourse, we note, is knowledge, S2, produced as a result of the hysteric's demand. Indeed, Lacan claims that the discourse of the hysteric is the only discourse that produces knowledge.275 In this connection, we can treat Φ and the master or S1 to which the hysteric addresses himself as equivalent.

ようするにシニフィアンの定義の文は四つの言説のいずれであっても説明可能であり、核心は四つの言説の基底にある形式的構造である。








2015年8月5日水曜日

“A is A” と “A = A”

論理学は、現実の世界にはなにも対応するものがないような前提、たとえば同等な物があるとか、一つの物はちがった時点においても同一であるというような前提にもとづいている。数学についても同じことがいえる。もしひとがはじめから厳密には直線も円も絶対的な量もないことを知っていたら、数学は存在しなかっただろう。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』)

――若きニーチェはすでにこんなことを言っている。重ねてニーチェによる「哲学者に関する著作のための準備草案」1872∼1873を引用してもよいが(参照)、くどくなるので目先を変えてラカンから抜きだすことにしよう。

……われわれは、思考にとって「AはAである」ということが昔からいかなる困難を引き起こしてきたかを知っている。「AはAである」というとき、AがかくもAならば、なぜAを自分自身から切り離し、すぐに置き戻すのであろうかというものである。(ラカン『同一化セミネール』)
『一般言語学講義』の中でソシュールはシニフィアンの輪郭をはっきりさせることによって同一化の機能を究明しようとする。そして同一化に関するひとつの重要なイメージ、10時15分の急行の例、を出す。10時15分の急行といったときその同一性ははっきり定義されている。それは物質的素材の観点からは明らかに異なった急行であるにもかかわらず、それは毎日同じ時間に出発するやはり同じ10時15分の急行である。10時15分の急行のような存在が成立するには語られた存在を通して現実界の中への大々的なシニフィアン的組織の連鎖の介入を前提としているのである。これはシニフィアン的同一化としての同一化の法を例証してくれるものである。(同上)



――と引用しているのは実は、次の文を読んだからである。

ハイデッガーにとって、 “A is A” が “A = A”に還元されることは許されない。むしろ、そうしてしまうことがプラトン以来の「存在喪失」に帰着することになる。(柄谷行人「非デカルト的コギト」(初出 1992)『ヒューモアとしての唯物論』所収 P.96)  
ハイデガーが「存在者と存在の差異」というのは、たんに文法的にいえば、概念になりうるものと、概念になりえないのみならず、あらゆる概念(主語と述語の位置におかれる)をつなぎ支えるものとの差異である。(同「非デカルト的コギト」p.91)

柄谷行人はここで何を言っているのか、存在喪失やら存在の差異やらーーおそらく「存在の深淵」をも含めーー、これらをを可能なかぎり形式的に捉える試みとしてよいだろう。

この当時の柄谷行人の解釈が正統的なものかどうかは知らない。現在のハイデガー研究者なら勿論別の観点もあるだろう。ただし柄谷曰くは《分析哲学者は、ハイデガーの問いは、西洋文法にもとづく哲学的誤謬=ノンセンスにすぎないとみなした》(p.93)ともある。

ここでラカンはファルスとはシニフィアンとシニフィエのあいだにある横棒のようなものだ、と言っていることを想起しておこう、《barreの機能はファルスと関係ないわけではない》と。

la fonction de la barre n'est pas sans rapport avec le phallus. (Séminaire XX ENCORE Staferla 版 p.51)

これは柄谷行人のいう《あらゆる概念をつなぎ支えるものとの差異》とほぼ似たようなことを言っているのではないか。

ラカンは、Sとsの表記法にバー(横棒)を付加することは、既にいくらか余分で無益とさえ言える、という意味のことさえ言っている。

c'est que le fait d'ajouter la barre à la notation S et s… qui déjà se distinguent très suffisament …

Y ajouter la barre a quelque chose de superflu, voire de futile, et qu'en tout cas, comme tout ce qui est de l'écrit, comme tout ce qui est de l'écrit se supporte que de ceci (Séminaire XX ENCORE Staferla 版 p.46)

もちろん横棒とは次のように記されるときの横棒である(上段:シニフィアン、下段:シニフィエ)。



…………

柄谷行人の仕事をすこし遡ってみよう。

すべての人間史の第一の前提はもちろん生きた人間個体の生存である。したがって確認される第一の事態はこれら個人の身体的組織と、そしてこの身体的組織によってあたえられる、その他の自然へのかれらの関係とである。(……)

人々は動物から人間を意識、宗教その他お望みのもので区別することができる。人間自身はかれらが生活手段を生産しはじめるやいなや、すなわちかれらの身体的組織によって義務づけられている処置を講じはじめるやいなや、みずからを動物から区別しはじめる。(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)

柄谷行人はすでに70年代にこのマルクスの文を引用して「起源」への問いをマルクスの「関係」「空=間」」――後に「交通空間」と言いなおされるがーーと「翻訳」して次ぎのようにいっている。

マルクス・ニーチェ・フロイトは、いずれも「身体的組織」における欠如・無力性から出発し、そこに、表象・欲望・言語の発生をみいだすことにおいて、共通している。だが、そのような発生論的視点ではなく、逆に現象学的な遡行をもってしても、われわれは同じ地点に到達するだろう。ソシュールがいうように、言語とは示差的な体系である。つまり、意味は、語(シニフィアン)と語(シニフィアン)との「間」に生じる。根源的な意味作用は、こうした「空=間」に生れるのだ。それは、ジャック・デリダのいい方でいえば、差延化(遅延化・差異化)にほかならない。時間および空間は、そこから生じる。

マルクスが人間の「身体的組織」としてのべたこと、「身体的組織」によって歴史が生じるといったことは、より厳密に検討すれば、このような認識をはらむのである。

だが、何がそのような差異化・遅延化をもたらすのかを問うことはできない。もし問うならば、神または自然が「主体」として「原因」として表象されるだろう。しかし、それらは「意味」なのであり、根源的な意味作用の原因ではなく、結果なのである。重要なのは、そのような「起源」への問いーーそれ自体が形而上学に導くーーではなく、マルクスがここにおいて、人間の意識または「意味」がアプリオリに存するのではなく、感性的な受苦性(受動性)においてはじめて存するという考えをつらぬいていたことである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』文庫 pp.111-112)

これはジジェクが次ぎのように後期ラカンを解釈するのとひどく近似している。

ラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際 littorale がある」と言うとき、jouis‐sense の 喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアン化する形式 signifying formula of enjoyment に還元された文字の jouis‐sense を、である。

ここに後期ラカンの最終的な「ヘ ーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束 convergence は、まさに不一致 divergence によって支えられている。というのは差異は己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

※より詳しくは「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」を参照のこと。

さて、もちろんここで(曲りなりにも)問うているのは現実界とは何かということである。それは「存在の深淵」やら「物自体」でもよい、

『純粋理性批判』を出版した後、カントは、同書における記述の順序に関して、現象と物自体という区分について語るのは、弁証論におけるアンチノミーについて書いてからにすべきだったと述べている。

実際、現象と物自体の区別から始めたことは、彼のいわんとすることを、現象と本質、表層と深層というような、伝統的な思考の枠組みに引き戻す結果を招いてしまった。カント以後に物自体を否定した者は、そのようなレベルで考えているのである。また、ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている。

しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。

カントがアンチノミーを提示するのは、必ずしもそう明示したところだけではない。たとえば、彼はデカルトのように「同一的自己」と考えることを、「純粋理性の誤謬真理」と呼んでいる。しかし、実際には、デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p81)

ハイデガーの「深層」に終始異議を表明している柄谷行人は上のように言っている。それはジジェク組にも見出される(参照:超越論的享楽(Lorenzo Chiesa))。

“Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, Seminar XXIII)

ーー《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ。》

ここでロラン・バルトによるゼロ度の定義を挿入しておこう、《ゼロ度とは、厳密に言えば、何もないことではない。ないことが意味をもっていることである》(『零度のエクリチュール』1964)

ハイデガーの「存在の深淵」とはこのようなゼロ度のようなものであるのか、わたくしは知るところではない。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa) 
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)

「超越論的」をめぐっては次ぎのカントの文を挿入しておこう。

思惟するこの自我、あるいは彼、あるいはそれ(物)によって表象されるのは、もろもろの思考の超越論的主観=Xに他ならない。この超越論的主観は自らの述語である思考によってのみ認識される。またこの超越論的主観については単独には我々は決していささかの概念も持ち得ない。だから、我々はこの主観をめぐって絶えざる循環のうちをさ迷わねばならい。というのも、この超越論的主観について何かあることを判断するためには、我々はつねにすでにこの超越論的主観の表象を用いなければならないからである。これが、自我の表象から分かちえない不都合さである。(カント『純粋理性批判』)


さてこのようにジジェク組みの見解を引用したからといって、この見解が正しい、というつもりは毛頭ない。だがこれが彼らの強調点であることは間違いない。この観点を疑う立場もあるだろう(参照:二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe))。だが柄谷行人の説明を読んで、「形式的には」ジジェク組の立場取りうることが改めて納得できる。そして後期ラカンもこの観点から読みうるとしてよい。

…………

以下、捕捉。

【1、柄谷行人の「交通空間」】

そこで、蓮實さんがいわれた生産と交通という話に戻ると、僕は、生産は、「共同体的」であり、交通は「社会的」であると考えています。共同体とは、共通のコードをもって閉じられたシステムであり、社会とは、共通のコードをもたない他者との交通において成立するような空間です。これを僕は「交通空間」とよんでいますけれど、これはどこかに実体的に在るものではなく、絶えず結合され分断されながら無方向に広がるようなネットワークのようなものです。(柄谷行人『闘争のエチカ』より)
……たとえば、ハイデガーがプラトンを攻撃し、ヘラクレトスやパルメニデスをもちあげるとき、私は疑いをもつ。

「この二人のギリシャの思想家が、思想家たるの道を初めて切り開いたこの二人が、存在者の存在の中に立たずに、一体どこに立つはずがあろうか」と、ハイデガーは言う(『形而上学入門』)。

しかし、「存在者の存在の中」というような存在論とこじつけめいた語源学のたぐいは、ある肝心な事柄を見失わせる。それは、彼らが「立った」のは、共同体の外だということだ。

ヘラクレイトスは「対抗する動揺の集約態」としての「存在」を見、パルメニデスはそこに、「対抗して争うものの相関性」としての「同一性」を見たと、ハイデガーはいう。

しかし、それは同一の規則をもった共同体においてではなく、まさに多様な交通空間としての「世界」において考えたということを示している。

そもそも「思想家たるの道を初めて切り開く」ことは、共同体の内部からではありえない。しかし、それは、「ユダヤ的なもの」を排除し農民的でゲルマン共同体の回復を志向するような哲学者が関知しないことだ。プラトン哲学において「存在喪失」があるとすれば、それは外部性・他者性の喪失にほかならない。(柄谷行人『探求 Ⅱ』p.249)

ここで柄谷行人がハイデガー批判をしつつ、《「存在者の存在の中」というような存在論とこじつけめいた語源学のたぐいは、ある肝心な事柄を見失わせる。それは、彼らが「立った」のは、共同体の外だということだ》と言っているが、これはハイデガーの語彙のひとつ Ekstase にかかわる(参照)。

ラカンのex-sistence (外ー存在)は、ハイデガーのSein und Zeit(存在と時間)の仏訳から。ドイツ語ではEkstaseであり、ギリシャ語ではekstasis(外に立つこと)(フィンク,The Lacanian Subject)

後期ラカンはEkstaseの仏訳語である ex-sistence を現実界の定義とした。

現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence]である。(Séminaire XXII R.S.I.1975年2月18日)

ex-sistenceは、たとえば「現実界は分節化された象徴界の内部に外立ex-sistする」(Paul Verhaeghe)という形で使われる。

これはpas-tout(非全体の論理)とも関係する。すなわち境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)のアンチノミーである(参照)。しばしば指摘されてきたように、これはカントの無限判断と相同的である(参照:「〈他者〉の〈他者〉は外-存在する」)。

この非全体の論理は、ジジェクによれば、ヴィトゲンシュタインの「家族的類似性」にもかかわる(参照)。

ラカンは、性差を構成する非一貫性を、「性差の式」にて詳述した。そこでは、男性側は、普遍的な機能とその構成要素である例外とによって定義される。そして女性側は“すべてではない”(pas‐tout)のパラドックスによって定義される(例外はなく、そしてまさにその理由によって、すべてではない、すなわち、非-全体化される)。想いだしてみよう、ウィトゲンシュタインの語り得ぬものの移りゆく地位を。前期ヴィトゲンシュタインから後期ヴィトゲンシュタインの移動(家族的類似性)とは、「すべて」(例外を基盤とした普遍的全体の領域)から、「すべてではない」(例外なしでその理由で非-普遍的、非-全体の領域)への移動である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

柄谷行人がマルクスから概念化した「交通空間」の定義、《どこかに実体的に在るものではなく、絶えず結合され分断されながら無方向に広がるようなネットワークのようなもの》とは、ヴィトゲンシュタインの家族的類似性と限りなく近似しているとしてよい。

ウィトゲンシュタインが反対するのは、複数的な規則体系を、一つの規則体系によって基礎づけることであるといってよい。しかし、数学の多数体系はまったく別々にあるのではない。それは相互に翻訳可能だが、共通の一つをもたないだけである。彼は、そうした「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」を「家族的類似性」と呼ぶ。《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』)――(柄谷行人『トランスクリティーク』P106)


【2、“A = A”をめぐって】

“A = A”は、象徴秩序内においてのみ起こり得る。そこでは、Aの同一化は「唯一の特徴unary feature」によって支えられ構成されているのだ。その「唯一の特徴」は、その核心にある空虚を徴づけている(その空虚の代わりとなっている)。「あなたはジョンだ」は意味するのは次ぎのことである。あなたのアイデンティティの核心は、あなたの名前で示された言葉で言い表わせないje ne sais quoi深淵なのである。だからどのアイデンティティも、つねに挫折させられ、実質がなく、虚構である(ポストモダンの「脱構築主義者」の呪文のように)だけではない。アイデンティティそれ自身が、厳密な意味で stricto sensu、その反対物の徴、それ自身の欠如の徴、自己アイデンティティとして主張される実体は十全のアイデンティティを喪失しているという事実の徴なのである。(ジジェク LESS THAN NOTHING 私訳)
ヘーゲルが『論理の科学』で、悪戯っぽく言ってる、もしAがそれ自体と同じなら、どうして反復する必要があるんだい?と。“A = A” のような同語反復の同一の反復は、実際はそれ自体との非-同一の徴を示している。(Levi R. Bryant、The Democracy of Objects、2011)
象徴界と現実界を分ける棒線は、厳密に象徴界の内部のものである。というのは、その棒線が、象徴界が「それ自身になる」のを妨げるのだから。シニフィアンにとっての問題は、現実界に触れ得ないことではなく、「それ自身に到達する」ことが出来ないことだ。シニフィアンに欠けているものは、特別な言語の対象ではなく、「シニフィアン」自身、棒線を引かれない、何物にも邪魔されない〈一者〉である。(ジジェク『為すところを知らざればなり』For They Know not What They Do; Enjoyment as a Political Factor - Slavoj Žižek 1996 私訳)

ここでの〈一者〉(〈一〉)をめぐっては、「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る」を参照のこと。

なお次ぎのような指摘もある。

象徴秩序、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、〈一者One〉を同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。システムとしての象徴秩序は、差異をもとにしている(ソシュール参照)。差異自体を示す最初のシニフィアンは、ファルスのシニフィアンである。それ故、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に〈一者〉と非一者である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二項対立の論拠、ある者かそのある者でないか、を適用することによって、一体化の形で作用する。(ポール・ヴェルハーゲPaul Verhaeghe、Lacan's Answer to the Classical Mind/Body Deadlock 2002 私訳)





2015年6月4日木曜日

享楽について語ろうじゃないか、ボウヤたち!

「アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方」にて、Bryantの名高いブログから2008年の記事を引用したが、昨晩、たまたま2013年の記事に出合った(Levi Bryantについては、WIKIPEDIAを参照のこと)。


ラカンまわりをマジに読みすぎると、たまにはこういうことをいってみたくなる気に(臨床家以外はほとんど誰でも)おそわれるのではないか・・・




 ーーとはいえ、ここではそのまま訳すことはせずに、自由連想意訳をしておく。

…………

なあ、たまにはラカニアンの汚れた洗濯に風を通さなくちゃな、とくに享楽ってのに。あれはいったいなんだっていうんだ? だれもまともにつかんでいるようにみえないな、オレだってサッパリだがね・・・しかもどいつもこいつもシャラシャラと享楽と口にだしやがる・・・

だいたい“a” ってのなんだろ? これは享楽のマークじゃねえのか? 対象a? 剰余享楽? トラウマ? それを反復強迫するってわけかい? ああ、Encore!もっとよ、もっとなの!

シャラくせえだけだよ、スペルマとバルトリン腺液の染みと臭いまみれの下着みてえなもんだぜ、窓を開けなくちゃな、空気を! もっと空気を!

そもそもなんで幻想の式$◇aは“a” を目指すんだろ? 主体はトラウマの過剰と融合したいんだって? 究極の享楽=死へ向かう? 

《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance》 (Lacan,S.XVII)だとよ

ーーゴメンだね、ゆっくり遠まわりしたい口だな、オレは。

享楽に、ファルスの享楽jouissance phallique、剰余享楽Le plus-de-jouir、〈他〉の享楽jouissance de l'Autreってのがあるのくらいわかってるさ、

ところがどっこい、さらに他の享楽l'autre jouissanceなんてのがあるんだな。で、〈他〉の享楽jouissance de l'Autreと他の享楽l'autre jouissanceは違うらしい・・・で、女性の享楽jouissance feminineはどうなるんだろ? はあ? 

さらにはアンコールには、〈他〉の身体の享楽(他の享楽) la jouissance du corps de l'Autre (l'autre jouissance)なんたらという記載もある・・・ なんだ、この身体って? 身体の享楽ってのは、<他>の享楽なんだろうか? それとも他の享楽なんだろうか? ラカンは少し前に、<他>とは身体っていってるんだな・・・

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

それに女の享楽、これは 他の享楽なんだろうか、それとも〈他〉の享楽なんだろうか? ーーわかるか、そんなもの! 

そもそも女だってファルスをカッツリつかんだり咥えこんだりする享楽あるだろ?





オレはファルスの享楽ってのがとりわけヤダね、〈他〉の享楽?ーーこれは敬して遠ざけておくよーー、そもそもファルスってのはありゃなんだい? オレがラカンの概念のなかで何がいちばん嫌いかっていえば、ファルスさ・・・

ファルスの享楽はセンズリ的だってラカンは言うんだが、これでさえナゾだな、それに去勢不安とかペニス羨望とかってマジかね、そんなもの人にあるわけねえだろ!






たとえばジジェクと会話すること想像してみろよ、 あのノンストップで怒濤のようにベラベラまくしたてるヤツ、あれはファルスの享楽じゃねえか? 相方なんてどこにもいないし、解釈の余地なんか毛ほどもないだろうな、こっちは口を開けて呆然としているだけさ、あれこそセンズリトークだよ・・・

で、日本のボウヤたちはなにいってんだい、ははあ、どうやらたぶん剰余享楽と〈他〉の享楽のようだが、ーーオレは知らねえぜ・・・


私は著書『原発依存の精神構造』(新潮社)で、二つのことを指摘した。

 一つは「フクシマを象徴化すべきではない」、いま一つは「原子力の享楽を警戒せよ」。くわしく説明する余裕はないが、私には日本人が、唯一の被爆国民であるがゆえに、原子力に強く魅了され、この狭く脆弱(ぜいじゃく)な国土に54基もの原発を建ててしまったのだと考える。原子力の可能性を過大評価することも、危険性を過度に煽(あお)り立てることも、“享楽的”であるがゆえに危険である。

 東らの「計画」に反対したいわけではない。不謹慎とも思わない。ただ「計画」が“原子力の享楽”の繰り返しにならないために、次の3点を提案したい。

 「最終的な脱原発」志向を明確に打ち出すことと、震災に関連するすべての死者への「鎮魂」の意図をこめること。地域住民や当事者と時間をかけて粘り強い折衝を重ね、その過程を透明化すること。

 退屈な提案だ。しかし、こうした「退屈さ」の導入こそが、象徴化や享楽の罠(わな)に陥らないために欠かせない配慮となるはずだ。(斎藤環の東北:8月 「ダークツーリズム」の享楽 毎日新聞 2013年08月13日 東京夕刊)
レイシストは彼らが敵として位置づける対象のなかに自らの享楽をみてとっているにすぎない。(松本卓也「レイシズム2.0?」)
千葉雅也@masayachibaどんだけ弱さとか自己破壊とか受動性とかをあえて肯定的に言うとしても、その肯定的に言ってること自体がそうした受動性が実は徹底してネガティブな状態ではなく耐えてサバイブできる程度のものであることを示しており、真のネガティヴィティは排除されてる、という話。はあ、他者探し乙……

なんかなあ。「弱度をあえてエンパワメント」するのもにもさらなる排除の構造があるとか言ったら、じゃあどうすればいいのよ。

この手の発想からすると、精神分析やドゥルーズでの、固有の享楽を見つけようみたいな誘いに対しては、どうにも享楽しようがない状況に置かれてる人はどうなるんだ、そこで「自分を騙して楽しいかのように思いなせ」というのか?!という批判が向けられそうだ。

おっと、斬新奇抜なplus-de-jouir(剰余享楽)解釈をする臨床家もいるじゃねえか、これだったらオレに安心感を抱かせてくれるな・・・

資本家のディスクールを論じるにあたって、ラカンが注目したのは l'objet petit a です。人間は、シニフィアンを掴んで、そこに意味を紡ぎ出し、価値を創り出し、悦びの連鎖すなわち「享楽 la jouissance」という独自の次元を創りだしてゆくのですが、その遥か彼方にある究極の享楽が l'oblet petit a です。いい換えるならば、わたしたちが日常体験している悦び以上の、いわば過剰の悦びなのです。ラカンはこれを le plus-de-jouir と表現します。もうこれ以上は享楽できないよ、という究極の享楽、わたしはこのニュアンスを出すために le plus-de-jouir を「極-楽(きょくーらく)」と翻訳しました。l'objet petit a は、生命の最終的な到達点つまり死 la mort でもあるわけですから、この究極の享楽を極楽(ごくらく)に掛けて、そこへハイフンを入れて「きょくらく」と読むことにししたのです。一般的な訳し方をすれば「剰余享楽」となるでしょう。恐らくここで、マルクス経済学を専門にしている人は「剰余」なる言葉に敏感に反応されるかもしれません。「剰余」つまり「剰余価値」を連想します。フランス語では la plus-value です。似ていますね。(藤田博史)

性関係は無いのですが,性的と呼べるような満足が無いわけではない.それを Lacan は「剰余悦」 le plus de jouir と呼んでいます.それをただ単に「悦」 jouissance と呼ぶこともあります.用語や表現の厳密さから言えば,もうちょっと気をつけて言ってほしいと頼みたくなりますが,この明治生まれのじいさんはお構いなしでした.(小笠原晋也)

おい、ファルス享楽のジジェクさんよ、笑っちゃだめだ、彼らは真剣なんだから

まさに享楽の喪失が、それ自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

おまえさんのやってることも、これさ




…………

※附記1:上に、jouissance de l'Autreを〈他〉の享楽としたが、日本ではふつう、〈他者〉の享楽とか〈大文字〉の他者の享楽とされるものである。

※附記2:Paul Verhaegheによる「剰余享楽le plus-de-jouir」の叙述

The question then is, What remains of the original jouissance? Again, Lacan answers with an equivocal expression: "le plus-de-jouir." In French, this can be understood both as "not enjoying any more" and as "more of the enjoyment." The jouissance that remains for the subject after its defensive elaboration is less than and different from the original form and will never be fully satisfactory.

……問題は、原初の享楽の残余は何かということだ。ふたたびラカンは曖昧な表現で答える、「剰余享楽le plus-de-jouir」と。仏語では、これを二つの仕方で理解され得る、「もはや享楽しないnot enjoying any more」と「もっと享楽をmore of the enjoyment」である。防御的なエラボレーションの後に、主体にとって残っている享楽は、原初の形式未満の異なったものであり、決して十分に満足を与えない。(ヴェルハーゲ 2009 new studies of old villains)

ジジェクは英文のまま貼り付ける。

Here Lacan's key distinction between pleasure (Lust, plaisir) and enjoyment (Geniessen, jouissance) comes into play: what is “beyond the pleasure principle” is enjoyment itself, the drive as such. The basic paradox of jouissance is that it is both impossible and unavoidable: it is never fully achieved, always missed, but, simultaneously, we never can get rid of it—every renunciation of enjoyment generates an enjoyment in renunciation, every obstacle to desire generates a desire for an obstacle, and so on. This reversal provides the minimal definition of surplus‐enjoyment: it involves a paradoxical “pleasure in pain.” That is to say, when Lacan uses the term plus‐de‐jouir, one has to ask another naïve but crucial question: in what does this surplus consist? Is it merely a qualitative increase of ordinary pleasure? The ambiguity of the French expression is decisive here: it can mean “surplus of enjoyment” as well as “no enjoyment”—the surplus of enjoyment over mere pleasure is generated by the presence of the very opposite of pleasure, namely pain; it is the part of jouissance which resists being contained by homeostasis, by the pleasure‐principle; it is the excess of pleasure produced by “repression” itself, which is why we lose it if we abolish repression.(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)







2015年5月25日月曜日

ラカンの享楽の図とフロイトの三人の女

ボーシャ:……さあ、お選びください。
モロッコ大公:最初のは金の箱、銘が刻んであるな、「われを選びしものは、衆人の望みしものは得べし」。次は銀、これは約言か、「われを選びしものは、おのれにふさわしきものを得べし」。三番目は鈍い鉛だ、その警告もぶっきら棒だ、「われを選びしものは、おのれが持つものすべてを投げだすべし」。(シェイクスピア『ヴェニスの商人』 ――岩井克人訳 『ヴェニスの商人の資本論』より)

財産と美貌と美徳をかねをなえたボーシャは父から大きな遺産を受け継いでおり、亡父の遺志により、求婚者の中から、差し出された三つの小箱のうち正しい小箱を選んだ男を夫とすることになっている。モロッコ大公、アラゴン大公、バッサーニオが求婚者である。箱のひとつにはボーシャの絵姿が入っており、その箱を選んだ男がボーシャの婚約者となる。アラゴン大公は銀の箱を、そしてバッサーニオが鉛の箱を選ぶ。バッサーニオ曰く、《なかに何があるのか? (鉛の小箱を開ける。)美しきボーシャの絵姿ではないか!》

『ヴェニスの商人』の場合には、なにかモティーフの裏返しのようなものが現れている。

つまりここではひとりの男が三つの小箱を選ぶ。

これが夢のことならば、ただちにわれわれは小箱や小容器やボール箱や籠などと同様、その小箱もまた女性であり、女性における本質的なものの象徴、だから女性そのものなのだと考えたことであろう。(……)

(そうすれば)いまや一箇の人間的なモティーフ、すなわちひとりの男が三人の女たちのどれかを選ぶということが問題になっていることを知るわけである。(フロイト『小箱選びのモティーフ』)

フロイト『小箱選びのモティーフ』はシェイクスピア小論であり、『ヴェニスの商人』と『リア王』とにあらわれた三人の女について、最終的に次のように書かれている。

……ここに描かれている三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。

①母それ自身は金の箱

――「われを選びしものは、衆人の望みしものは得べし」。

②母の像を標準として選ぶ愛人は銀の箱

――「われを選びしものは、おのれにふさわしきものを得べし」。

③母なる大地は鉛の箱

――「われを選びしものは、おのれが持つものすべてを投げだすべし」


ところで、ドゥルーズは『マゾッホとサド』の「マゾッホと三人の女性」の章でこう書いている。

マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。

もちろんドゥルーズはフロイトの『三つの小箱』を参照しているわけだが、ドゥルーズ=マゾッホでは、金の箱、銀の箱、鉛の箱のそれぞれは次のようになる。

①子宮としてあり古代ギリシヤの娼婦としての母

②愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母

③口唇的な、死をもたらす母


これを①対象a、②ファルスの享楽、③〈他者〉の享楽とすることはできないだろうか(②③はそれでよさそうだが、①についてはやや無理があるか?)。





このラカンのセミネールⅩⅩ(「アンコール」)の第八章にある図は、ラカン派の論者でさえ言及することの稀な図だが、その稀ななかに、《RSI(現実界、象徴界、想像界)の三つの審級ordersに関して、享楽が取り得る異なった形を描写するためのもの》であり、剰余享楽a、ファルスの享楽Φ、〈他者〉の享楽(女の享楽)S(Ⱥ)という解釈があるのを少し前みた(アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方)。


Bryantのいうことをそのままとれば、すなわち次ぎのようなことになる。





フロイトの欲動理論の結論は、死は快楽の究極の形式だということだった。
セミネールXVII(「精神分析の裏面」)の冒頭近くで、ラカンはフロイトのJenseits(彼方、彼岸)概念をめぐって次ぎのように言っている、「人生は、自己流儀self-fashionedの死への廻り道であり、大抵の場合、人生は、急いで目標に到達するものではない。」

そもそも、S・シュナイダーマンの『ラカンの《死》』によれば、ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていたとされる。

なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだらしい(伊藤正博「ラカンの《第二の死》の概念について」による)。

とすれば、上の図の真ん中の享楽(死)からの廻り道としての三つの形式、剰余享楽、ファルスの享楽、〈他者〉の享楽ということがいえるのだろうか(おそらく〈他者〉の享楽についてはやや異なるかもしれない)。

だが、いまはそれに触れない(ようするになにやらわかっていない)。ここではラカンのセミネールⅩⅦでの態度変更のあり様を指摘するポール・ヴェルハーゲの文を掲げておくのみにする。

より広くラカンのセミネールを眺めるなら、セミネールXVII(精神分析の倫理)はセミネールVIIに反した位置にある。そしてSeminar XI(四基礎概念)とセミネールXX(アンコール)のあいだの移行の場を占める。倫理のセミネールでは、享楽は現実界と捉えられ、それゆえ象徴界とは全く反対のものである。そこでは、享楽は法の侵犯を通してのみ到達し得る。精神分析の裏側S.17のセミネールでは、対照的に、享楽は侵入に関わる。さらに、ラカンは享楽とシニフィアンの原初的関係性を唱える。(Enjoyment and Impossibility, Paul Verhaeghe 2006)

他にも、《反復は享楽に到ろうとする試みを基にしている》あるいは、《享楽は侵入を通して、身体に生じる。この侵入は徴を得る。〈他者〉の介入を通して、身体に刻印される。享楽への道を歩みつつ、人は不可避的にこの道に沿ってかねて勃然とした徴に従わねばならぬ》などとされる。

ここで、フロイトはすでに、どの母親も、子どもを世話しているとき「誘惑する」としていることを想起しておこう。すなわちこれが最初の〈他者〉mOtherによる「侵入」である。

いずれにせよ享楽は「侵犯」から「侵入」に変わったわけだ。セミネールⅩⅦは1969-1970年になされており、おそらくドゥルーズの『差異と反復』の影響による転回とも憶測されないではない。

反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

とすれば象徴界と享楽のつながりが生じる。

ラカンは、その仕事の展開を通して、ずっと探し求めていた、S(象徴的見せかけsemblance)とJ(享楽の現実界)のあいだの「縫合点」、SとJをひとつにまとめる、あるいは少なくともそのふたつを仲介するリンクを。主な解決法は、まずは、ファルスを欠如のシニフィアンに昇格させること、すなわち去勢のシニフィアンとして、象徴秩序内の享楽の場を保持することだった。その後には、享楽の喪失から生み出される剰余享楽としての対象a自体がある。それは象徴秩序へのエントリーの相対物であり、現実界の享楽のサイドに位置する享楽ではなく、パラドキシカルにも、象徴界のサイドに位置する享楽である。

「リチュラテールLituraterre」(Autres écrits所収)にて、ラカンは、最終的に象徴的松果体(デカルトにとっての身体と魂が交流する身体的な徴である)のこの探求を断念し、ヘーゲリアンの解決法を取った。すなわち、S とJを永遠に分離するギャップ自体がこの二つを一つにまとめるというものだ。というのは、このギャップが各々の二つを構成しているのだから。

象徴界は、己れを十全な享楽から分離するギャップを通して生じる。そしてこの享楽自体は、象徴界のギャップと穴によって生み出された幽霊specterである。

この相互依存性を示すために、ラカンは「波打ち際littorale」という用語を導入する。それは「海岸のような」次元における文字を表している。それによって「ある領域、そっくりそのまま他にとっての前線を作る領域を描くこと、それらの存在は、相互の関係に陥いらない範囲で、互いに異物であるのだ。その痕跡とは知の穴の縁ではないか?」(ラカン「リチュラテールLituraterre」)

だからラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際littoraleがある」と言うとき、jouis‐senseの喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアンする形式signifying formula of enjoymentに縮減された文字のjouis‐senseを、である。ここに後期ラカンの最終的な「ヘーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)


さてBryantに戻れば、彼は、ファルスの享楽については、明晰に説明している。

ファルスの享楽を現実界の審級からの逃走として考え得る。すなわち、逃走とは、シニフィアンの審級の本質的な不完全性あるいは非一貫性を覆うとする格闘なのだ。

もともとファルスの享楽は、フロイトの快原則の此岸の享楽で、代表的なものは性的オーガズムである。

だが、剰余享楽と〈他者〉の享楽のBryantの説明は、わたくしには曖昧のままだ(これは別の論者を参照にして、そのうちもう少し詳しく書く予定? たぶん)。

我々は、ラカンが対象aを見せかけsemblanceの用語で言及した理由が分かる。対象aが見せかけならば、それは、有beingあるいは完全性を約束するからであり、同時になぜ存在existしないかの理由も与えてくれる。

同じように、ファルスが現実なら、それは現実が幻想の枠組みを通して接近される限りで、一貫的で完全な社会秩序の錯覚illusionを生み出すからである。

ラカンはセミネール11(『精神分析の四概念』)にてこう語った。我々が夢から目覚めるのは、まさに、真理、現実界、あるいは〈他者〉の去勢に接近したときである。目覚めて、幻想の中に居続けるのだ。すなわち、真理あるいは現実界 realから、幻想の中にかつ幻想を通して構造化された現実realityび逃れるのだ。

最後に、〈他者〉の享楽、あるいは女性の享楽が真理とつながっているのなら、それが、享楽の源として、〈他者〉の欠如S(Ⱥ)、その不完全性を取る享楽の唯一の形であるからだ。


(そのうちおそらく続く)


※「侵犯」と「浸入」をめぐっては、されに一歩進んだジジェクの見解がある。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』ーー「ラカンにおける特殊相対性理論から一般相対性理論への移行」)

➡「享楽の図」再考(2018年6月7日版)





2015年5月8日金曜日

アンコールの享楽の図(Levi R. Bryant=ラカン)、あるいはS(Ⱥ)の扱い方

以下、ほとんどすべて裸のままの資料である(要するに、何もまとまっていない)。

…………



ラカンの『アンコール』の第八章の冒頭にある図だが、--何度眺めても、不思議な図だ。Φ、対象a、S(Ⱥ)とあって、一番肝腎なS(Ⱥ)が想像界から象徴界の矢印の場にある。ラカンは(わたくしが読むかぎりでは)、『アンコール』でたいしたことを説明していない(《S(Ⱥ)にて、私が示すのは、〈女〉の享楽以外なにものでもない》(アンコール、p78)だって? そんな類のことはどうでもいいさ)。

ラカン派の連中も第七章の冒頭にある「性別化」の式は腐るほどの説明があるのに、この八章の図に触れている人は、ほとんど見当たらない(わたくしが探してみるのは英語文献の範囲だが)。

ジジェクさえ、90年代初頭にミレールに依拠して、わずかな説明があるだけだ(参照:「アンコール」における「サントーム」の図)。かつまた最初期(1987)には、想像界→象徴界にあるS(Ⱥ)(〈他者〉の享楽)は、ミステリアスだとかなんとか言っているが、やはりまさにミステリアスであって、なぜこのポジションにあるのかが判然としない。




And, finally, the circulating object of exchange is S(Ⱥ), the symbolic object which cannot be reduced to imaginary mirror-play and which at the same time embodies the lack in the Other, the impossibility around which the symbolic order is structured. It is the radically contingent element through which the symbolic necessity arises. That’s the greatest mystery of the symbolic order: how its necessity arises from the shock of a totally contingent encounter with the real. It is like the well-known accident in the Arabian Nights: the hero, lost in the desert, enters a cave quite by chance; there, he finds three old wise men awakened by his entry who say to him, “Finally, you have arrived! We have been waiting for you for the last three hundred years.”(ZIZEK,The Lacanian Real: Television)


この図は、《RSI(現実界、象徴界、想像界)の三つの審級ordersに関して、享楽が取り得る異なった形を描写するためのもの》( Bryant)だという解釈があり、これが妥当だとすれば、剰余享楽a、ファルスの享楽Φ、〈他者〉の享楽(女の享楽)S(Ⱥ)ということになる。

だが、余りにも有名なボロメオの環の図と見比べても、Φ、対象a、Ⱥの位置に矛盾がある。もっともJȺとS(Ⱥ)とを似たものとして扱ってはいけないのだろうが、たとえばΦの位置にも矛盾がある。これは後ほどフィンクの見解を示すが、JΦとΦは、どちらもファルスの享楽の領野を意味するマテームのはずだ。






例えば、JȺ(〈他者〉の享楽)が現実界と想像界の重なり箇所にある。これであったら何とか分かる気がする。ところが冒頭の図では、S(Ⱥ)は、想像界から象徴界の矢印の場にある。これはいかにも奇妙だ。

ラカン派の研究者でない人物の次のような言葉に、最近遭遇したのだが、これもS(Ⱥ)がもっとも肝腎であることが分かるだけで、《想像界から象徴界に赴くことによって体験する大他者の不在という形を取る真理》は、なぜ現実界から遠い場所にあるのだろうかは判然としない。

精神分析の真理としての「大他者の不在」を意味する)欠如を記す表記S(Ⱥ)は、想像界から象徴界に赴くことによって体験する大他者の不在という形を取る真理、すなわち大他者の絶対的他者性という、半ば言う(mi-dire)ことしかできない、「すべて」としての普遍性たりえない、実感はできても語ることのできない、フェミニーヌなる「別」の享楽、大他者の享楽に迫ることによってその希薄な姿を現す真理を示すこととなる(Jacques Lévy)

いずれにせよ対象aが見せかけsemblant、象徴的ファルスΦが現実Réalité、〈他者〉の欠如S(Ⱥ)が真理vraiとなっているのだから、ラカン理論においては、S(Ⱥ)の取扱いが最も肝腎のはずなのだ、すなわち《大他者の絶対的他者性という、半ば言う(mi-dire)ことしかできない、「すべて」としての普遍性たりえない、実感はできても語ることのできない、フェミニーヌなる「別」の享楽、大他者の享楽に迫ることによってその希薄な姿を現す真理》なのである。

今掲げたJacques Lévy(ジャック・レヴィ)の文章をもうすこし長く引用しておく(『訳し損なわれた文字』より)。

図式的に説明すると、象徴的ファルスの記号としてあったΦは、現実(réalité)を支配する幻想(fantasme)の論理における、現実界(réel)が想像界に強いる表象不可能性としての欠如を示すのだが、その機能は「意味」の享受をゆるす、すなわち「意味作用」を支える、フロイトの「快感原則」に当たる、「かろうじて」の(余剰)享楽を確約するものとなる。

鏡像化不能たる身体の部分的「破裂」(身体から「破り取られる」対象としての乳房、糞便、声、そしてまなざし)として、欲望の原因である対象の欠如(この世の対象ではないという意味の「欠如」)を示す対象aは、精神分析家の言説が象徴界から現実界に迫る「解釈」という「行為」によって、「みせかけ」(semblant)、仮象の存在者の位置から、現実界がのこす「残滓」へと転落、消滅していくプロセス、すなわちリミットとしてのレトルそのものを示す。

そして、シニフィアンの場としての大他者における他者の(「大他者の大他者はいない」や「メタランガージュはない」(il n'y a pas de métalangage) といった表現で示される、精神分析の真理としての「大他者の不在」を意味する)欠如を記す表記S(Ⱥ)は、想像界から象徴界に赴くことによって体験する大他者の不在という形を取る真理、すなわち大他者の絶対的他者性という、半ば言う(mi-dire)ことしかできない、「すべて」としての普遍性たりえない、実感はできても語ることのできない、フェミニーヌなる「別」の享楽、大他者の享楽に迫ることによってその希薄な姿を現す真理を示すこととなる。なお、その享楽の領野は「性関係はない」という言葉で言い表わされるのと同時に、「エクリチュールの苦行は、それとともに性関係が成立するところの「それは書かれている」(un《 c'est ecrit》)に接合することによってしか終わることがないように私には思われる」と「リチュラテール」の最後の結びにうかがわしているように、意味作用のリミットとしてのレトルの彼岸に位置づけられる。

おそらく、S(Ⱥ)のポジションについて、今のところ考えられる解釈の仕方は、

・享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにある(ジュパチッチ)

・要するに、現実界は象徴界以外の何物でもない。むしろ象徴界の一種の効果である。どのシニフィアンも、シニフィアンとその割り当てられた場所のあいだの分裂によって纏いつく相違による効果なのだ。(ジジェク=Bryant)

ーーこういう考え方ではないか、と思いを馳せはするが、これもまったく自信がない(参照:「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」)。

ラカンは、その仕事の展開を通して、ずっと探し求めていた、S(象徴的見せかけsemblance)とJ(享楽の現実界)のあいだの「縫合点」、SとJをひとつにまとめる、あるいは少なくともそのふたつを仲介するリンクを。主な解決法は、まずは、ファルスを欠如のシニフィアンに昇格させること、すなわち去勢のシニフィアンとして、象徴秩序内の享楽の場を保持することだった。その後には、享楽の喪失から生み出される剰余享楽としての対象a自体がある。それは象徴秩序へのエントリーの相対物であり、現実界の享楽のサイドに位置する享楽ではなく、パラドキシカルにも、象徴界のサイドに位置する享楽である。

「リチュラテールLituraterre」(Autres écrits所収)にて、ラカンは、最終的に象徴的松果体(デカルトにとっての身体と魂が交流する身体的な徴である)のこの探求を断念し、ヘーゲリアンの解決法を取った。すなわち、S とJを永遠に分離するギャップ自体がこの二つを一つにまとめるというものだ。というのは、このギャップが各々の二つを構成しているのだから。

象徴界は、己れを十全な享楽から分離するギャップを通して生じる。そしてこの享楽自体は、象徴界のギャップと穴によって生み出された幽霊specterである。

この相互依存性を示すために、ラカンは「波打ち際littorale」という用語を導入する。それは「海岸のような」次元における文字を表している。それによって「ある領域、そっくりそのまま他にとっての前線を作る領域を描くこと、それらの存在は、相互の関係に陥いらない範囲で、互いに異物であるのだ。その痕跡とは知の穴の縁ではないか?」(ラカン「リチュラテールLituraterre」)

だからラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際littoraleがある」と言うとき、jouis‐senseの喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアンする形式signifying formula of enjoymentに縮減された文字のjouis‐senseを、である。ここに後期ラカンの最終的な「ヘーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)

これ以外に、フィンクの次のような指摘がある(「ジャック・ラカンのS(Ⱥ)とブルース・フィンクのS(a)」)。

ラカンのテキストにおけるシンボルの意味は、長い年月をかけて、しばしば驚くほど変貌していく。私は提案しようと思う、セミネールⅥとⅩⅩの間で、S(Ⱥ)は、〈他者〉の欠如もしくは欲望を意味するものから、“最初の”喪失のシニフィアンsignifier of the "first" loss.36を意味するものになっている、と(そのシフトは審級の変化に相当する。それはあまりにもしばしばラカンの仕事の事例である。すなわち象徴界から現実界である。すべての要素は“男たち”の下ではシンボリックにかかわり、“女たち”の下ではリアルにかかわるのが見出されることに注意を促しておく)。最初の喪失とは、とても多くの仕方で理解されうる。

それは象徴界のフロンティアとして理解されうるし、そして“最初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)の喪失としての現実界として理解されうる。それは原抑圧が起こったとき、である。この最初のシニフィアンの“消滅”は、シニフィアンが可能となる秩序自体を設定するために必要不可欠である。この除外は別のなにかが生ずるためには、かならず起こらねばならない。

最初に除かれたシニフィアンの地位は、明らかに他のシニフィアンたちの地位とはまったく異なる、ーーそれは(象徴界と現実界のあいだの)境界現象以上のものーーそして原初の喪失、あるいは主体の起源にある欠如のシニフィアンと強い類縁性をもっている。こうして私は提案しようと思う、最初の除外、あるいは喪失は、ともかくも代表象あるいはシニフィアン、すなわちS(Ⱥ)に見出すことができる、と。

そして、註36にはこうある。

これはS(a)と書き得るかもしれない。注意しておこう、ラカンがS(Ⱥ) について言ったことの少なくとも一つは、私の解釈を裏付けないかもしれないことを。「S1とS2とは、まさに、私が分裂したAによって示すもの、それは分離したシニフィアンS(Ⱥ)に作り替えたものである」(Seminar XXIV, May 10, 1977)。この引用が少なくとも明らかにするのは、この時点でのラカンの考えでは、S(Ⱥ)は、分裂した、あるいは斜線を引かれた〈他者〉であること、すなわち、不完全としての〈他者〉である。しかしながら、それを欠如したものとしての、あるいは欲望することとしての〈他者〉のシニフィアンと等しいものとする限り、それは〈他者〉の欲望のシニフィアンに関係している。とすれば、それは、私は提案するのだが、S(a)と書くことができる。このように言うことによって、しかしながら、ファルス(Φ)と等しいものとみなせる。ここでの私の意味は、問題となっているのは、喪われたものとしての、あるいは母-子の融合の喪失としての母〈他者〉mOtherの欲望である。

ここでフィンクの引用するSeminar XXIVの「S1とS2とは、まさに、私が分裂したAによって示すもの、それは分離したシニフィアンS(Ⱥ)に作り替えたものである」"S1 and S2 are precisely what I designate by the divided A, which I make into a separate signifier, S(Ⱥ) "が、ほぼ最晩年のラカンの言葉のひとつであり、やはり注目すべきなのだろう。

いま掲げた二つ、すなわちジジェク=ジュパンチッチ組とフィンクの解釈を、繋げうるかどうかは、--だが無謀な試みは今はやめておこう。とはいえ、肝腎なのはシニフィアン(象徴界)であることは歴然としている。

そしてわが国のラカン派である小笠原晋也氏も《a / φ barré, これは a /Ⱥ とも表記できる》という発言をしている(ツイッター上)。小笠原氏の独自のマテームφ barréは、“最初の”喪失である。それがȺ ともされる。とすれば、そのȺ のシニフィアンS(Ⱥ)が、《“最初の”喪失のシニフィアンsignifier of the "first" loss》というフィンクの解釈と合致する。ただしaの取扱いは、フィンクと小笠原氏では異なっているのは上に見たとおりであり、フィンクなら、小笠原氏のa / φ barréを、おそらくS(a)/aと書き直すだろう。

そしてアンコール第八章の図にある対象aのマテーム上の扱いは、シニフィアンaとしてもよいし、サンブランaとしてもよい。フィンクの意図は前者であろうが、semblant aをS(a)と書けないこともない。

そうすれば、原初の喪失としてのaーーたとえばセミネールⅩⅠ、あるいはセミネールXXIIのーーラカンの言葉を活かすことができる。すなわち、ここでの文脈では、a=Ⱥ(=φ barré)ということになる。そしてそれは”J barré”(斜線を引かれた享楽ーーミレールのマテーム)とも同じものだとできるだろう。

このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象「a」について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)
ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、《象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外ー存在するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動》である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.) (Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)


…………


以下、冒頭の図の説明として、

・対象aが見せかけsemblantならば、それは、有beingあるいは完全性を約束するからであり、同時になぜ存在existしないかの理由も与えてくれる。

・ファルスが現実Réalitéなら、それは現実が幻想の枠組みを通して接近される限りで、一貫的で完全な社会秩序の錯覚illusionを生み出す。

・〈他者〉の享楽、あるいは女性の享楽が真理vraiとつながっているのなら、それが、享楽の源として、〈他者〉の欠如S(Ⱥ)、その不完全性を取る享楽の唯一の形であるから。

ーーこのようにまとめるLevi R. Bryant の「Sexuation 2– The Logic of Jouissance」(2008.11.25)を示す。

…………

セミネール20(『アンコール』)で、ラカンは素晴らしい図を提示している。それはRSI(現実界、象徴界、想像界)の三つの審級ordersに関して、享楽が取り得る異なった形を描写するためのものだ。




注目すべきなのは、この享楽の三つの形のそれぞれは、一つの審級から他の審級へと矢印があり、その矢印は、享楽が、象徴界にたえず付き纏う現実界を、なんとか埋め合わせようと努めるやり方を指し示していることだ。

このように、現実界から想像界への軌道において、我々はファルスの享楽と現実realityのシニフィアンを見出す。ここで思い出しておこう、現実界は不可能であることを。さらに正確に言えば、それは、シニフィアンの審級から全体性を形作ろうと必死になるときの、形式性の袋小路なのである。

こういわけで、我々は、ファルスの享楽を現実界の審級からの逃走として考え得る。すなわち、逃走とは、シニフィアンの審級の本質的な不完全性あるいは非一貫性を覆うとする格闘なのだ。

ラカンはしばしば、ファルスの享楽を、「白痴的 idiotic」あるいは「自慰的masturbatory」として言及した。もし、これが正しいとすれば、ファルスは、アイデンティティ、自我の審級だからである。あるいは、ラカンが時に言い及んだ「私-主義I‐ocracy」なのである。

自慰とは己とのセックスである限りで、デカルトやフッサールのコギトや自我は、自慰的である。すなわち、享楽としての〈他者〉を通したどんな迂回路をも避けようと必死になるという限りで。

ここで想起すべきだろう、鏡像的な同一化の審級であるということに付け加え、想像界の審級とは、また幻想的な全体性と完全性の審級であることを。

結果として、ファルスの享楽は、完全性、全体性、そして全体の理論を求める全ての社会的なシニフィアンによる形成物に見出される。この観点において、ファルスの審級は、象徴的審級の本質的な非一貫性を隠蔽しようと必死になる。

我々は、今、分かるだろう、なぜ、性別化の式の女性側が、」斜線を引かれた女」la femmeからファルスΦへと指し示しているのかが。話す存在の非-全体がファルス機能に従属している限り、常に何かがあるのだ、性別化の式の女性に落ちる主体を名付けることに抵抗する何かである。

ここで、Bryantのブログからいったん離れて、性別化の式を掲げる(左側が男性、右側が女性である)





上段の式の説明をラカンは何と言っているのかをまず提示する(荻本芳信のブログより)。



次ぎに向井雅明氏の「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」(東京精神分析サークル)における説明を加える。







Bruce Finkは”Knowledge and Jouissance”(2002)にて、上段の式について、次ぎのような新しい読み方の提案をしている。  




【男性の側の式】


All of man’s jouissance is phallic jouissance. Every single one of his satisfactions may come up short.


 Nevertheless, there is the belief in a jouissance that could never come
up short, the belief in another jouissance.


【女性の側の式】



Not all of her jouissance is phallic jouissance.


There is not any that is not phallic jouissance—the emphasis going on the first “is.” All the jouissances that do exist are phallic, but that does not mean there cannot be some jouissances that are not phallic—it is just that they do not exist: they ex-sist. The Other jouissance can only ex-sist, it cannot exist, for to exist it would have to be spoken.

なお一般的な読み方は次ぎの通り。





これ以外にも性別化の式については、諸家により種々の解釈がある。だが冒頭に掲げたいわゆる「享楽の式」の説明はあまり遭遇したことがない。今、Levi R. Bryantの解釈を提示しているのはそのためである。

もっともBryant自身、性別化の式の捉え方は、フィンク解釈に依拠しているだろうと思われる。


ここで最も基本的なことを念押ししておけば、人が、男性の側、女性の側に位置するのは、生物学的な男/女とはまったく関係がない。男でも女性の側に属するタイプはいるし、逆もまた真なり。

さて、Levi R. Bryantのブログに戻る。

これは、ラカンの主張「女は存在しないLa femme n'existe pas」に導いてくれる。この表明によって、ラカンは、女たちが存在しないことを言おうとしたのではなく、むしろ、象徴秩序内には、女を定義したり名付けることが可能などんな一般化されたカテゴリーもシニフィアンもないということだ。図において女性側に依って性別化された主体は、完全に単独的singularなのである。

そのようにして、女性のアイデンティティは、非-アイデンティティとして経験される。或いは、アイデンティティが永遠に不安定なものとして。「私とは何?」初期のラカンは、ヒステリーの問いとして、こう表現した。「私は男なのかしら、それとも女なのかしら?」この絶えまなく気がかりな袋小路において、すなわち象徴界にはその存在を名付ける十分なシニフィアンがない行き詰まりにおいて、女性として性別化された主体はファルスや、彼(女)の存在を名付け得そうな〈他者〉を探し求める。

これは、ある種の専門家を探し求める形をとる。それは、聖職者や、精神療法士、教師などであり、彼らは、彼女は何なのかを教えてくれることが出来る、と。あるいは、象徴界内にて彼女のアイデンティティを固定し得るある種の権力を持った、あるいは力強い人物を探す形をとる。

この後者の場合、女性として性別化された主体は、ファルス(主人の見せかけ)を持った主体にとっての、ファルス(欲望のシニフィアン)になることに終わる。…

主体は自身の欲望を見出せるか、あるいは単純に〈他者〉の欲望の見せかけsemblanceを包被のようにして体現化するのか、彼女は知らない。その限りで、彼女自身の欲望と〈他者〉の欲望のあいだを揺れ動く。

さらに、どの主人、あるいはファルスの担い手も期待外れに終わったり、最終的に、己れを去勢されていたり不完全として現れる限りで、女性に性別化された主体は、専門家から専門家へ、愛人から愛人へと移り行く。それは次の理由によってであるーー初期の熱狂、すなわち象徴界内にて彼女のアイデンティティを名付け固定させてくれるシニフィアンをおそらく見出したという思い込みは直面するのだ、ただ主人の愚劣さと彼に想定された知の滑稽な茶番にのみに。

ここまでは、ファルスΦの説明しかなされていない。次の「Sexuation 3: The Logic of Jouissance (Cont.)」に、対象aとS(Ⱥ)の説明がある。


性別化のグラフの男性側の、「享楽の論理」に付随している下の部分に強迫神経症の幻想($◇a)を見ることが出来る。




女性の性別化の場合における、象徴秩序の非一貫性を補うものーーそれに一貫性、安定性、構造を提供するものーーとしてのファルスの機能のように、剰余享楽としての対象aが、男性として性別化された主体によって探し求められる残余である。この主体は、象徴界に疎外された結果として喪われたものを取り戻そうとするのだ。このように、ラカンの享楽のグラフにおいて、我々は、対象aに関して、象徴界から現実界へのベクトルを見ることができる。




これ故、剰余享楽は、男性の主体がシニフィアンに疎外された結果として取り戻そうとする現実界として考えられる。しかしまた、象徴界に疎外された結果として生み出されたエントロピー的喪失とも考えられる。

対象aは欲望の対象ではない。そうではなく、むしろ欲望の対象-原因である。要するに、欲望と欲望の対象は効果effectである一方、対象aはその効果を引き起こす、あるいは生み出すものである。

このポイントは、フロイトの若い同性愛の女性の事例(『女性同性愛の一事例の心的成因について』)への依拠によって明確に描写され得る。この事例において、若い同性愛の女性は、娼婦を追跡し、彼女と一緒に町をこれ見よがしに歩く。それは、女性をエスコートする紳士がするのと同じような仕方で、である。言い換えれば、彼女は理想的な紳士と愛人を見習ったのである。

最初は、我々は娼婦がこの女性の対象aだと考えるかもしれない。しかしながら、娼婦は対象aではなく、この若い女性の心理的経済において、対象aがいかに作用するのかの効果なのである。セミネール10(『不安』)にて、ラカンはシェイクスピアの「この世はすべて舞台だ」という見解を思う存分に活用している。これは欲望の原因としての対象aと欲望される対象とのあいだを差異化させてくれる。

この欲望を引き起こしたものは、欲望された娼婦ではなく、むしろ彼女の父の眼差しである。彼女の非日常的な冒険を通して、若い女性は、彼女の父が馴染んだ場所に、娼婦とともに出没するように気を配った。

ラカンが説明するように、若い女性は、男が女を正しく愛し交際する仕方を演じた。言い換えれば、彼女の行動は、父の眼差しのために上演された。この証拠は、次の事実に見出される。すなわち娼婦と連れ立って歩いているとき、竟に父の眼差しに遭遇して、父から酷い侮蔑の一瞥を浴び、彼女はその後、汽車の線路に身を投げて自殺を図ったのである。この瞬間、若い女性は対象aと同じ場所を占めた。より具体的に言えば、対象a($ < a)によって閉め出され失墜させられた主体としての地位と同じ場所を占めたのである。これが行為への遂行passage to the act、すなわち自殺の試みへと導いたのだった。

このように、若い同性愛の女性の事例は、眼差しとしての対象aの機能によって支配された欲望の複雑なトポロジーを描写している。対象aとしての眼差しは三つの局面の空間を生み出す。その空間は、この眼差しのために上演され、誰のために行動が上演されるか、そしてそれが対象aに関係する欲望された対象や人物の領野を開く。

欲望されるのは、対象aではない。そうではなく、むしろ対象aは、モーターとして働き、そのモーターを通して、若い女性は欲望する。対象aを通して、若い女性は、象徴界に疎外されて喪失した存在の最低限度を保持していた。実に、対象aが、彼女の父の侮蔑溢れる眼差しにおいて落ち去ると、彼女は主体として消滅した。

こういう訳で、基本的幻想とは、満足の想像されたシナリオではなく、〈他者〉の謎の欲望の分節化articulationなのである。欲望の対象は、対象aの形式の中にある〈他者〉の残余との関係性の中に或いはそれを通して、出現する。この対象aが欲望される対象の複雑なトポロジー領野を生み出すのだ。

注意すべき決定的な重要性は、強迫的な幻想は二重の構造を持っていることだ。一方で、幻想は効果としての欲望を生み出す。主体を完全なものにし、言語の世界に入り込んだ結果として、耐え忍ばなければならない喪失を乗り越えるための、欲望される対象の領野を生む出すのだ。

他方そのより暗い側面は、幻想は、なぜ象徴界はそれが約束した満足を提供しないのか、あるいは象徴界が完全性を獲得するのを妨害することの理由を提供する。

このように例えば、ナチのイデオロギーにおいて、ユダヤ人の形象は、ドイツの牧歌的なハーモニーを密かに傷つける幻想の対象となる。キリスト教原理主義者たちのあいだでは、ホモセクシャル、女たち、少数派は、社会秩序を混乱させ破壊する存在だった。これらの存在は、勿論、社会の反目、不完全のあいだの本当の原因とは何の関わりもない。むしろ、反目の構成的事実を覆い隠す存在である。

この観点において、我々は、ラカンが対象aを見せかけsemblanceの用語で言及した理由が分かる。対象aが見せかけならば、それは、有beingあるいは完全性を約束するからであり、同時になぜ存在existしないかの理由も与えてくれる。

同じように、ファルスが現実なら、それは現実が幻想の枠組みを通して接近される限りで、一貫的で完全な社会秩序の錯覚illusionを生み出すからである。

ラカンはセミネール11(『精神分析の四概念』)にてこう語った。我々が夢から目覚めるのは、まさに、真理、現実界、あるいは〈他者〉の去勢に接近したときである。目覚めて、幻想の中に居続けるのだ。すなわち、真理あるいは現実界 realから、幻想の中にかつ幻想を通して構造化された現実realityび逃れるのだ。

最後に、〈他者〉の享楽、あるいは女性の享楽が真理とつながっているのなら、それが、享楽の源として、〈他者〉の欠如S(Ⱥ)、その不完全性を取る享楽の唯一の形であるからだ。

※途中、フロイトの『女性同性愛の一事例の心的成因について』をめぐるラカンの解釈部分は飛ばそうかと思ったが、それを深読みに過ぎるという見解はあるにしろ、やはりラカンの対象aの解釈は豊かである。

この論文で紹介されている症例は、ラカンがあちこちで引用し、自らの論を説明するための例として使用しています。しかしこの論文そのものの症例記載はかなり簡潔であって、フロイトの論旨にとって必要な概略のみが語られています。なので、この論文からフロイトが述べた以上の帰結を引き出すというのは、かなり無理があるんじゃないだろうかというのが正直な感想です。(フロイト全集17から『女性同性愛の一事例の心的成因について』)

ーーもちろん、これも一見解ではあるあろうが、フロイトのこの論文だけを読んでいてもたいして面白くない。ラカンがフロイトを面白くした、という立場をわたくしはとりたい。