このブログを検索

2015年4月30日木曜日

ジャック・ラカンのS(Ⱥ)とブルース・フィンクのS(a)

Jacques Lévy(ジャック・レヴィ)は、中上健次の『奇蹟』を仏語に翻訳し、野間文芸翻訳賞を受賞したことで知られるが、彼の論文『訳し損なわれた文字』を眺めていると、次のような記述がある(これは誰が邦訳したのか、ジャック・レヴィ氏自身の日本文なのか、どうもそのあたりがよく分からないが、おそらく後者だろう)。

以下、メモとして掲げる。

図式的に説明すると、象徴的ファルスの記号としてあったΦは、現実(réalité)を支配する幻想(fantasme)の論理における、現実界(réel)が想像界に強いる表象不可能性としての欠如を示すのだが、その機能は「意味」の享受をゆるす、すなわち「意味作用」を支える、フロイトの「快感原則」に当たる、「かろうじて」の(余剰)享楽を確約するものとなる。

鏡像化不能たる身体の部分的「破裂」(身体から「破り取られる」対象としての乳房、糞便、声、そしてまなざし)として、欲望の原因である対象の欠如(この世の対象ではないという意味の「欠如」)を示す対象aは、精神分析家の言説が象徴界から現実界に迫る「解釈」という「行為」によって、「みせかけ」(semblant)、仮象の存在者の位置から、現実界がのこす「残滓」へと転落、消滅していくプロセス、すなわちリミットとしてのレトルそのものを示す。

そして、シニフィアンの場としての大他者における他者の(「大他者の大他者はいない」や「メタランガージュはない」(il n'y a pas de métalangage) といった表現で示される、精神分析の真理としての「大他者の不在」を意味する)欠如を記す表記S(Ⱥ)は、想像界から象徴界に赴くことによって体験する大他者の不在という形を取る真理、すなわち大他者の絶対的他者性という、半ば言う(mi-dire)ことしかできない、「すべて」としての普遍性たりえない、実感はできても語ることのできない、フェミニーヌなる「別」の享楽、大他者の享楽に迫ることによってその希薄な姿を現す真理を示すこととなる。なお、その享楽の領野は「性関係はない」という言葉で言い表わされるのと同時に、「エクリチュールの苦行は、それとともに性関係が成立するところの「それは書かれている」(un《 c'est ecrit》)に接合することによってしか終わることがないように私には思われる」と「リチュラテール」の最後の結びにうかがわしているように、意味作用のリミットとしてのレトルの彼岸に位置づけられる。

この箇所は(ジャック・レヴィ氏の論文にはその指摘がなされてはいないが)、もちろんラカンの『セミネールⅩⅩ(アンコール)』第八章にある「享楽の図式」(サントームの図)の説明である。



※参照:「アンコール」における「サントーム」の図

ジャック・レヴィ氏の叙述に、S(Ⱥ)について次ぎのようにあった。

シニフィアンの場としての大他者における他者の(「大他者の大他者はいない」や「メタランガージュはない」(il n'y a pas de métalangage) といった表現で示される、精神分析の真理としての「大他者の不在」を意味する)欠如を記す表記S(Ⱥ)は、想像界から象徴界に赴くことによって体験する大他者の不在という形を取る真理、すなわち大他者の絶対的他者性という、半ば言う(mi-dire)ことしかできない、「すべて」としての普遍性たりえない、実感はできても語ることのできない、フェミニーヌなる「別」の享楽、大他者の享楽に迫ることによってその希薄な姿を現す真理を示すこととなる。

以下、「ラカンの S(Ⱥ)をめぐって」から一部再掲する。


◆ブルース・フィンクの『後期ラカン入門: ラカン的主体について』第八章より。この書は日本でも最近(漸く)、翻訳がでたようだが、わたくしの手元に邦訳はないので、原文よりの意訳である。

第五章で、私はS(Ⱥ)を「〈他者〉の欲望のシニフィアン」として話した。そこでの文脈はセミネールⅥのハムレットのラカンの議論であった。ラカンのこの段階にては、S(Ⱥ)はシニフィアンとしてのファルスのラカンタームであるように見える。このような意味でラカンは初めてイマジネールとしてのファルス(-φ)をシンボリックとしてのファルス(Φ)から区別している。
ラカンのテキストにおけるシンボルの意味は、長い年月をかけて、しばしば驚くほど変貌していく。私は提案しようと思う、セミネールⅥとⅩⅩの間で、S(Ⱥ)は、〈他者〉の欠如もしくは欲望を意味するものから、“最初の”喪失のシニフィアンsignifier of the "first" loss.36を意味するものになっている、と(そのシフトは審級の変化に相当する。それはあまりにもしばしばラカンの仕事の事例である。すなわち象徴界から現実界である。すべての要素は“男たち”の下ではシンボリックにかかわり、“女たち”の下ではリアルにかかわるのが見出されることに注意を促しておく)。最初の喪失とは、とても多くの仕方で理解されうる。
それは象徴界のフロンティアとして理解されうるし、そして“最初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)の喪失としての現実界として理解されうる。それは原抑圧が起こったとき、である。この最初のシニフィアンの“消滅”は、シニフィアンが可能となる秩序自体を設定するために必要不可欠である。この除外は別のなにかが生ずるためには、かならず起こらねばならない。
最初に除かれたシニフィアンの地位は、明らかに他のシニフィアンたちの地位とはまったく異なる、ーーそれは(象徴界と現実界のあいだの)境界現象以上のものーーそして原初の喪失、あるいは主体の起源にある欠如のシニフィアンと強い類縁性をもっている。こうして私は提案しようと思う、最初の除外、あるいは喪失は、ともかくも代表象あるいはシニフィアン、すなわちS(Ⱥ)に見出すことができる、と。

いま四つの段落に分けて抜き出したが、二番目の段落の”the signifier of the "first" loss.”とある箇所に註36がある。微妙な箇所なので(あるいは解釈がひどく分かれる箇所なので)、いいかげんな私訳ではなく、原文も附記しておく。

これはS(a)と書き得るかもしれない。注意しておこう、ラカンがS(Ⱥ) について言ったことの少なくとも一つは、私の解釈を裏付けないかもしれないことを。「S1とS2とは、まさに、私が分裂したAによって示すもの、それは分離したシニフィアンS(Ⱥ)に作り替えたものである」(Seminar XXIV, May 10, 1977)。この引用が少なくとも明らかにするのは、この時点でのラカンの考えでは、S(Ⱥ)は、分裂した、あるいは斜線を引かれた〈他者〉であること、すなわち、不完全としての〈他者〉である。しかしながら、それを欠如したものとしての、あるいは欲望することとしての〈他者〉のシニフィアンとの等しいものとする限り、それは〈他者〉の欲望のシニフィアンに関係している。とすれば、それは、私は提案するのだが、S(a)と書くことができる。このように言うことによって、しかしながら、ファルス(Φ)と等しいものとみなせる。ここでの私の意味は、問題となっているのは、喪われたものとしての、あるいは母-子の融合の喪失としての母〈他者〉mOtherの欲望である。

This might be written S(a). Let it be noted that at least one of the things Lacan says about S(Ⱥ) may not confirm my interpretation: "S1 and S2 are precisely what I designate by the divided A, which I make into a separate signifier, S(Ⱥ) " (Seminar XXIV, May 10, 1977). This quote at least makes it clear that S(Ⱥ) is, at that point in Lacan's thinking, the signifier of the divided or barred Other, that is, the Other as incomplete. Insofar, however, as that equates S(Ⱥ) with the signifier of the Other as lacking or desiring, it is related to the signifier of the Other's desire, which could, as I am suggesting, be written S(a). Thus stated, however, it could be equated with the phallus (Φ), whereas my sense is that what is in question here is the mOther's desire as lost, or the lost mother-child unity.

このフィンクのS(Ⱥ)=S(a)とする思い切った提案に言及しているのは、わたくしの知る限り(寡聞の身ではある)、Suzanne Barnardの「TONGUES OF ANGELS: FEMININE STRUCTURE AND OTHER JOUISSANCE』 だけである。

Returning to the notion of object a as an unsymbolizable scrap of the real, we could, perhaps, represent the real finding a signifier through the denotation S(a).註10 Hence, one can retroactively (re)read Lacan's account of the object in Seminar XI through the lens of his later account of sexual difference as a means of grasping what is at stake in the feminine subject's relation to S(Ⱥ) or to S(a).  
註10)I am indebted to Bruce Fink for this particular nomenclature and the way of conceptualizing S(Ⱥ) that it implies. He refers to S(a) as a notation for the real finding a signifer in a footnote to chapter 8,“There's No Such Thing As a Sexual Relationship,” in The Lacanian Subject: Between Language and Jouissance (Princeton: Princeton University Press, 1995), pp. 115, 195, n.36.

Suzanne Barnardは、この文のあと、ラカンのラメラの叙述(セミネールⅩⅠ)を引用している。

このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象「a」について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)

S(a)という表記を利用すれば、「アンコール」のラカンと中期ラカン(たとえばセミネールⅩⅠやⅩⅡ)との繋がりが可能になる。アンコールにおける《性別化のレンズを通して、ラカンを遡及的に読めば》とSuzanne Barnardが記しているのはそういうことだ。

中期ラカンとは、たとえば《a は、現実界の位のものであるle a est de l'ordre du réel》(ラカンSéminaire XII)としたラカンである。

そして、アンコール(セミネールⅩⅩ)のラカンとは、次ぎのようなラカンである(参照:レイシズムと享楽(Levi R. Bryant+ZIZEK))。

…対象aという用語が、現実界の位置にあることは疑問に付される…アンコールの八章で、ラカンが対象aを現実界の審級から降格しているのを見ると、人は衝撃を受ける…ここなのだ、我々が、後期ラカンが奏でる突破口の準備を見るのは。(ジャック=アラン・ミレール Pure Psychoanalysis, Applied Psychoanalysis and Psychotherapy 英訳2002

《ラカンが対象aを現実界の審級から降格している》にしろ、S(a)というマテームを利用すれば、象徴界でもあり、現実界でもありうる対象aをすっきり表現できるではないか。

ーーミレールさん、ナイーヴに驚いていないで、素直にS(a)を使ったらいいんだよ。


とはいえ、ジジェクのような立場もある。享楽(サントーム)やら、死の欲動、あるいは「性関係はない」などを現すのに、マテームなどやめておこうぜ、という立場だ。

サントームはマテームと対立させるべきだ。どちらも"自然と文化のあいだ"、意味のないデータと意味のあいだの謎の空間に属しているとはいえーーその二つは両方とも、前-記号的、意味の領野の外にあり、かつまたシニフィアンであり、それ自体ポジティヴなデータの無意味な織物に帰し得ないとはいえ、ーー"サントーム"は、Eric Santnerが"生の過剰"と呼ぶものを固定/登録する最小限の形式の名である。ひとつのサントームは、享楽の過剰を圧縮したひとつの形式なのであり、この領野ははっきりとマテームにおいては欠けている。マテームの典型的な事例とは、数学的に形式化された科学的表現であり、マテームはどんなリビドー的注入も意味しない。それはニュートラルであり、脱主体化している。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012ーーラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって