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2015年5月1日金曜日

「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」

……ここにはシニフィアンと享楽jouissanceのあいだにじかのリンクがある。あるシニフィアンの反復によって、われわれは享楽jouissanceにアクセスする。そして、それはシニフィアンと象徴界を超えることによってではないのだ。かつまた法を逸脱したりシニフィアンの境界線を超えることによってではないのである。ラカンはなんどもこの点を強調している、《われわれは逸脱を扱っているのではない》。……人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、“純粋に”機能することの不可能性inabilityであると。(ジュパンチッチAlenka Zupancic”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value"


以下は、このジュパンチッチの「セミネールⅩⅦ』読解における驚くべき指摘にかかわる「とりあえずの」メモである。さらにいえば、「レイシズムと享楽(Levi R. Bryant+ZIZEK)」の派生物である。

もちろん、『セミネールⅩⅦ』(精神分析の裏面 1969-1970)は、ドゥルーズの『差異と反復』(1968)の影響によるラカンの転回点とさえ言う人がいるだろう。

……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』ーー「二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」」)

…………

象徴界と現実界を分ける棒線は、厳密に象徴界の内部のものである。というのは、その棒線が、象徴界が「それ自身になる」のを妨げるのだから。シニフィアンにとっての問題は、現実界に触れ得ないことではなく、「それ自身に到達する」ことが出来ないことだ。シニフィアンに欠けているものは、特別な言語の対象ではなく、「シニフィアン」自身、棒線を引かれない、何物にも邪魔されない〈一者〉である。(ジジェク『為すところを知らざればなり』For They Know not What They Do; Enjoyment as a Political Factor - Slavoj Žižek 1996 私訳)

Levi R. Bryantはこの文を引用して次ぎのように言っている(The Democracy of Objects)。

要するに、現実界は象徴界以外の何物でもない。むしろ象徴界の一種の効果である。どのシニフィアンも、シニフィアンとその割り当てられた場所のあいだの分裂によって纏いつく相違による効果なのだ。シニフィアンは常にそれ自体と場所のあいだの相違を包含しているのだから、シニフィアンは常に-何処でもそれ自体との同一化を得ることに失敗せざるを得ない。しかしながら、それ自体との同一化が不可能だというまさにこの失敗が、そのアイデンティティの本質なのだ。

Bryantはこの後、ヘーゲルを引用して、こう記している。

ヘーゲルが『論理の科学』で、悪戯っぽく言ってる、もしAがそれ自体と同じなら、どうして反復する必要があるんだい?と。“A = A” のような同語反復の同一の反復は、実際はそれ自体との非-同一の徴を示している。

ヘーゲルにはとんと疎いのだが、おそらく次ぎのジジェクの叙述も、ヘーゲル起源なのだろう。

“A = A”は、象徴秩序内においてのみ起こり得る。そこでは、Aの同一化は「唯一の特徴unary feature」によって支えられ構成されているのだ。その「唯一の特徴」は、その核心にある空虚を徴づけている(その空虚の代わりとなっている)。「あなたはジョンだ」は意味するのは次ぎのことである。あなたのアイデンティティの核心は、あなたの名前で示された言葉で言い表わせないje ne sais quoi深淵なのである。だからどのアイデンティティも、つねに挫折させられ、実質がなく、虚構である(ポストモダンの「脱構築主義者」の呪文のように)だけではない。アイデンティティそれ自身が、厳密な意味で stricto sensu、その反対物の徴、それ自身の欠如の徴、自己アイデンティティとして主張される実体は十全のアイデンティティを喪失しているという事実の徴なのである。(ジジェク LESS THAN NOTHING 2012 私訳)

ここではヘーゲルはうっちゃり、棒線の話に戻る。とはいえ、「棒線bar」とは何の話か。

ファルスの用語に関して、ラカンは、セミネールⅩⅩにて、ファルスを、シニフィアンとシニフィエ (S/s)のあいだの横棒と同じものとして扱っているのに注意しよう。

Regarding the term phallus, note that Lacan equates the phallus with the bar between the signifier and the signified (S/s) in Seminar XX (40/39). (Bruce Fink  “KNOWLEDGE AND JOUISSANCE ”)

――とあり、フィンク英訳のセミネールⅩⅩを探ってみると、次のようになっている。

For the time being, I will say that what I put forward last time as the function of the bar is not unrelated to the phallus. Seminar XX (40/39)

《the function of the bar is not unrelated to the phallus》――すなわち、「横棒の機能はファルスと関係がないのではない」、とでも訳せるだろう。

これは、ジジェクも同様の説明をしている。

……with regard to the division between signifier and signified, the objet a is on the side of the signifier, it fills in the lack in/of the signifier, while the Master‐Signifier is the “quilting point” between the signifier and the signified, the point at which the signifier falls into the signified.

For Lacan, the phallic signifier is such a suturing element: Lacan's concept of the phallus is exemplary of the dialectic of the priority of lack over the element that fills it in—and, as Lacan points out, for a very precise reason (known to all Lacanians), the phallus is the very signifier of this lack:……

Insofar as the phallic Master‐Signifier is the point of the subject's symbolic identification, identification is ultimately always identification with a lack.(ZIZEK“LESS THAN NOTHING”2012)

この文章で、決定的なのは、対象aはシニフィアンの側(象徴界の側)にあると言っていることだ。現実界としての対象aは何処に行ったのか? 《a は、現実界の位のものであるle a est de l'ordre du réel》(ラカンSéminaire XII)としたラカンは? それについてはS(a)という表記が救いになリ得るのではないか、ということを「ジャック・ラカンのS(Ⱥ)とブルース・フィンクのS(a)」にて示した。

上のジジェクの叙述に戻れば、ファルスの主人のシニフィアンは、シニフィアンとシニフィエの繋ぎ目だとしている、《 the Master‐Signifier is the “quilting point” between the signifier and the signified, the point at which the signifier falls into the signified.》

すなわち縫合点suturing elementなのである。縫合点であるなら、やはり横棒である。

これは、ソシュールの図、大文字のS(シニフィアン)と小文字のs(シニフィエ)の話である。



というわけで、この横棒が、象徴的ファルスΦ、あるいはファルスの主人のシニフィアンS1ということになる、ーーのだろうか? 自信がないための捏造された疑問符であることは言うを俟たない。

わが国の若き聡明なるラカン派松本卓也氏のPierre Brunoに依拠したツイート曰く、

たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、“Phallus et fonction phallique”(Pierre Bruno)の説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。Φは全体としてのシニフィエの諸効果を指し示すシニフィアンであって、つまるところシニフィアンとシニフィエの結びつきを調整するもの。一方、父の名のほうは、意味作用が関わってくる水準。つまり、ファルス享楽についての謎に答えるために、先行する母の欲望(=シニフィアン)を隠喩化することでファリックな意味作用を作り出すという機能が父の名にはある。

ブルース・フィンク曰く、《後期ラカンの使用法によれば、父の名は、S1、主人のシニフィアンと関連があるように見える》 。

In the late 1960s and 1970s, S1, is assigned the role of the "master signifier," the nonsensical signifier devoid of meaning, which is only brought into the movement of language—in other words, "dialectized," a term I shall explain below—through the action of the various S2s. In accordance with Lacan's later usage, the Name-of-the-Father thus seems to be correlated with S1, the master signifier. If S1, is not in place, every S2 is somehow unbound.(Bruce Fink 『THE LACANIAN SUBJECT BETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE 』「Ⅵ Metaphor and the Precipitation of Subjectivity」)

さてどうしたものか?

ジジェクのphallic Master‐Signifier、すなわちS1=Φ
ピエール・ブルノ=松本卓也の、Φ≠NdP
フィンクのNdP≒S1を。

ーーそれぞれ〈あなたがた〉が勝手に思案したらよろしい。

とはいえ、セミネールⅧの前期ラカンの言葉などあまり参照しないで思案すべきか? なぜならPierre Brunoセンセは、Φとthe phallic functionは違うとオッシャッテルのだから。

The symbolic phallus is written Φ in Lacanian algebra. However, Lacan warns his students that the complexity of this symbol might be missed if they simply identify it with the symbolic phallus (S8, 296). The symbol is more correctly understood as designating ‘the phallic function' (S8, 298).(Dylan Evans,An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis)

さあて、こうやってなんのことらや分からなくなり、それゆえ共有された無知によってコミュニティを結束させるのが、S1(主人のシニフィアン)の機能である。

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)

だが、わたくしは残念ながら、主人のシニフィアンだが父の名だか象徴的ファルスΦの機能は拒絶したい口だ。

とはいえ、ここではとりあえず、象徴的ファルスは、シニフィアンとシニフィエのあいだの横棒なのだ、という見解だけは取り入れて話をすすめる。

そのとき次の文を読むと、どうなるのか。「波打ち際littorale」の話である(ジジェク 2012)。

ラカンは、その仕事の展開を通して、ずっと探し求めていた、S(象徴的見せかけsemblance)とJ(享楽の現実界)のあいだの「縫合点」、SとJをひとつにまとめる、あるいは少なくともそのふたつを仲介するリンクを。主な解決法は、まずは、ファルスを欠如のシニフィアンに昇格させること、すなわち去勢のシニフィアンとして、象徴秩序内の享楽の場を保持することだった。その後には、享楽の喪失から生み出される剰余享楽としての対象a自体がある。それは象徴秩序へのエントリーの相対物であり、現実界の享楽のサイドに位置する享楽ではなく、パラドキシカルにも、象徴界のサイドに位置する享楽である。

「リチュラテールLituraterre」(Autres écrits所収)にて、ラカンは、最終的に象徴的松果体(デカルトにとっての身体と魂が交流する身体的な徴である)のこの探求を断念し、ヘーゲリアンの解決法を取った。すなわち、S とJを永遠に分離するギャップ自体がこの二つを一つにまとめるというものだ。というのは、このギャップが各々の二つを構成しているのだから。

象徴界は、己れを十全な享楽から分離するギャップを通して生じる。そしてこの享楽自体は、象徴界のギャップと穴によって生み出された幽霊specterである。

この相互依存性を示すために、ラカンは「波打ち際littorale」という用語を導入する。それは「海岸のような」次元における文字を表している。それによって「ある領域、そっくりそのまま他にとっての前線を作る領域を描くこと、それらの存在は、相互の関係に陥いらない範囲で、互いに異物であるのだ。その痕跡とは知の穴の縁ではないか?」(ラカン「リチュラテールLituraterre」)

だからラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際littoraleがある」と言うとき、jouis‐senseの喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアンする形式signifying formula of enjoymentに縮減された文字のjouis‐senseを、である。ここに後期ラカンの最終的な「ヘーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

どうだろうか? これは冒頭のジュパンチッチの説明によるセミネールⅩⅦの説明とどう異なるのだろう。

ジジェク曰く、《二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている》

ジュパンチッチ曰く、《享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、“純粋に”機能することの不可能性inabilityである》


そのうち「波打ち際の漂流」をめぐって続く、だが「おそらく」であり、いつのことかわからないので、基礎資料だけ添付しておこう。

…………

※附記:「波打ち際littoraleの漂流dérive」をめぐる。

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive漂流」と翻訳する。(ラカンセミネールⅩⅩアンコール私訳)
「欲動」という名のもとにわれわれが理解することのできるのは、さしあたり、休むことなく流れている、体内的な刺激源の心的な代表者以外のなにものでもないのであって、これは個別的に外部からやってくる興奮によってつくりだされる「刺激」とは異なるものである。だから欲動は心理的なものを身体的なものから区別する概念の一つである。この欲動の本性についてのもっとも単純でもっともらしい仮定は、欲動はその自身いかなる性質ももたず、心的生活に対する作業促進の尺度として問題になるにすぎない、というものであろう。あまたの欲動をそれぞれ区別して、これに特殊な性格を付与するのは、その身体的な源泉やその目標に対する欲動の関係なのである。欲動の源泉はある器官のなかで起る一つの刺激的な過程なのであって、欲動の当面の目標はこういう器官の刺激を除去することにあるのである。(フロイト『性欲論三篇』フロイト著作集5 p35)
セミネール十一巻の6、7、8、9、そして13、14章を読んで、Triebを本能と訳 さないことne pas traduire Trieb par instinctによって得られるもの、そしてこの欲動を漂流と呼びcette pulsion de l'appeler dérive、子細に検討して、フロイトに密着しながら、その奇妙さを分解したのち、組み立て直すことによって得られるものを実感しないひとがいるでしょうか。(ラカン『テレヴィジョン』)

さて漂流とはどこを漂流するのだろうか、身体と心理の狭間である。

『テクストの快楽』につけ加えて。享楽、それは欲望《に応える》もの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。このように主体を踏み迷わせうるものを適切に言いあらわすことばは、神秘主義者たちにたずねるほかはない。たとえばライスブルックのことば、「私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である。」(『彼自身によるロラン・バルト』1975)

《主体が囚われているのは意識ではない、身体である。(ラカン「「哲学科の学生への返答」(1966 "Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps."》(Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse Jacques Lacan, 1966


後期ラカンには次のような文がある。

l'inconscient, c'est le réel. (...) c'est le réel en tant qu'il est troué." (Seminar XXII, RSI, Ornicar?, 15th April 75
無意識はリアル(現実界)である……それが穴が開けられているtroué限りにおいて。(私訳)

この”troué”とは、われわれのなかには、エイリアン(異物としての身体Fremdkörper)がいるということである(“Fremdkörper”は、すでにフロイトの『ヒステリー研究』1895に頻出し、それはトラウマに関連して使用されている)。


たとえばラカンの「サントーム」セミネールに、”un corps qui nous est étranger”とあるがこれは「異物としての身体Fremdkörper」のことだろう。

l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976

シニフィアンによって分節化された象徴界の内部にあって、しかもその内部の異物としてあるものが、現実界としてのFremdkörperのことである。それは言葉で言いあらせない原トラウマ=原症状のことでもある。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")


というわけで、”しめ”はニーチェの「波打ち際littoraleの漂流dérive」である。

君はおのれを「我」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる理性なのだ。それは「我」を唱えはしない。「我」を行なうのである。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「肉体の軽侮者」より 手塚富雄訳)

…………

※追記

ツイッターセミネールをされているラカン派小笠原晋也氏に敬意を表して、主人のシニフィアン、Φ(象徴的ファルス)、父の名をめぐるツイートをいくらか抜粋しておこう。

S1 は,或る意味で「父の名」です.「父の名」の概念は S1 に尽きるわけではありませんが.Lacan が「父の名」に言及した最初のテクストは,1953 年の「ローマ講演」です.そして,1958 年の精神病についての書,それから,1963 年 11 月の一回のみ行われた「父の名」(複数形)についての séminaire, 1969-70 年の「精神分析の裏」,1973-74 年の Les non-dupes errent (だまされない者たちは誤る: フランス語では les noms du pères と同音),1975-76 年のJoyce についてのセミネール — 思い出すままに列挙しても,Lacan は彼の教えの出発点から最晩年に至るまで「父の名」に関する問いを問い続けたことがわかります.
……その意味においては S1 は signifiant Φ と等価です.支配者の言説の構造は,S1 としての signifiant Φ との同一化の構造と見なすことができます.しかし,父の名の概念は S1 に尽きるわけではありません.
さて,父の名にもどると,父の名の概念の最も基本的な定義は「徴象の機能の支え」 « support de la fonction symbolique » です.1953 年のローマ講演におけるこの fonction symbolique という表現は,fonction de la paroleの言い換えです.fonction de la parole はローマ講演のタイトルの含まれている表現です.
そのような父の名は,signifiant と signifié とを相互につなぎとめておく point de capiton と同じです.point de capiton とは,マットレスやクッションのなかの詰め物がずれて,かたよってしまわないように,表面の布地と詰め物とをつなぎとめておく縫い目です.表面の布地は signifiant, 中の詰め物は signifié に相当します.
1972 年のテクスト Étourdit においては,父の名は réel なもの,つまり不可能なもの,書かれぬことをやめないものとして言及されています.しかし,1973-74 年の Séminaire, Les non-dupes errent において,新たな展開が為されます.
父の名に話を戻すと,1973-74 年の Séminaire Les non-dupes errent において Lacan は,父の名との関連において nomination の概念を提示します.nomination は「命名」だけでなく「任命」です.つまり,nomination は destitution 「罷免」の逆です.罷免と分離に次いで,φ barré に新たな名 a を与えること.それは,無からの創造としての sinthome :症状,聖状,聖人の概念へとつながって行きます.

ーーこれだけ見ても混乱するかもしれないが、ラカン派の皆さんは苦心せざるをえない、ということだけは判然とするだろう。

他にもミレール派(フロイトの大義派)のThomas Svolosによって次のような言明があるのを少し前見た→「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」。

おそらく、ーーわたくしの「浅墓な」理解では、今のところーー、この解釈が一番すっきりと、ラカンの父の名の一連の思考推移がまとめられているように感じる。