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2015年4月14日火曜日

「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」

« Tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant » (Lacan 1978)

 ……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分裂病の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller

《父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ》(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”)

ーーThomas Svolosの同じ論における臨床家としての「サントーム」の扱いは、「ラカン派の二種類のサントーム・症状」の末尾を見よ。

精神病」という語彙が時代の気分spiritとは同調しない日がおそらくやってくるだろう。(……)「皆狂気だ…、皆妄想的だ」。これは皆が精神病的だということを意味しない。そうではなく、このすべてが、二十一世紀における現代的研究の部分であり、我々にとって精神病は何を意味するのかという問いをもたらすということだ。(エリック・ロラン、Psychosis, or Radical Belief in the Symptom (2012)

というわけで、フロイトの大義派、いわゆるミレール派のみなさんは、それぞれやけくそ気味のようにさえ見える発言をなさっているが、これらは彼らにとってジョークではない。

ラカンの教えとして、精神病、神経症、倒錯の区分は、セントラルドグマのようなものだったのだが、それさえも俎上に載せられているわけだ。が、おそらくそれに抵抗するラカン派もいるのだろう。

神経症,精神病,倒錯はどう頑張ってもお互いに行き来できない.神経症の「治癒」は幻想の横断と主体の脱解任によって生じ,精神病の「治癒」は妄想形成か補填によって生じるのであって,構造は死んでも変わらない,というのがラカン派のセントラルドグマです.(松本卓也ツイート 2011/12/10)
後期ラカンはすべてのディスクールは保証が不在であるとする.それゆえ象徴的体系を支えるシニフィアンも,構造をとわず排除されている.固有名としての父の名から,述語名としての父の名へと位置が変わる.父の名っぽい機能を果たせば何でもいい,と

そこからミレールの話は「精神病の一般化」つまり「人類みな狂人」なんて話にまで至る.この辺ちょっと微妙で,一般化とかいいつつミレールは神経症と精神病の構造の差異も主張している.ECF内でも意見が分かれているようで,同号のSkriabineの論文は「人類みな精神病」の論調.

(僕が大いに依拠する)Jean-Claude Malevalは反対に,ミレールの議論から「父の名の排除」と「一般化排除」はまったく異なるという議論を持ちだしてくる.こっちのほうが臨床的には有意義な議論だと思うけど,ラカン自身の70年代の記述そのものはSkiriabine寄りです.(松本卓也ツイート 2011/09/01 )

これらのツイートはすでに四年近く前のものであり、最近はどんな発言をしているのかは知らないが、もうすぐ上梓される『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』にて、この若き聡明な、おそらくラカンが日本で生き残るなら、彼の双肩にかかっているというぐらいに優れたこの松本卓也という研究者が、議論を展開してくれるのではないか(これは皮肉でもなんでもなく、ときには彼を批判することを書かないでもないわたくしのラカンは、ジジェクとともに、彼のブログを読むことで始まっている)。

とはいえ、ここでは、これらの議論は専門家にまかせて、わたくしが注目したいのは、Thomas Svolosの《父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ》という発言だ。これは「サントーム」という語彙の価値を、なによりもまして、高めようとする言明とすることができる。

ところで、エリック・ロランは、上にリンクした論のなかで、「普通の精神病」概念は、「普通の妄想」のほうがいいのじゃないか、と読み取れるようなことを言っている文脈のなかで、「普通の父の名」という表現まで出している。

これは、エディプスの斜陽の時代、当然でてきてもおかしくない発言だろう。

ところで、「父の名」とはなんだったか。

「父の名 name-of-the-father」(nom-du-pere) 

ある意味、この概念は、フロイトの『トーテムとタブー』の神話的で象徴的な父から由来している。ラカンの三界秩序でいえば、この「父の名」は現実の父親でも想像的な父(父性的なイマーゴ)でもなく、象徴的父のことである。ラカンが言うには、フロイトは「大文字の父のシニフィアンの 外観を、大文字の法の制定者として、死へ、そして大文字の父の殺害までもに関連づけ、そうしてこの殺害は、主体が自身を生涯にわたって大文字の法に縛りつ ける負債を主体が背負う実り多い契機になるが、この大文字の法を意味するかぎりにおいての象徴的な大文字の父はたしかに死んだ大文字の父なのである、とい うことを示す」ことに耐えがたいほど導かれているのだ。(英語版『エクリ』所収、「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的な問題について」)「翻訳者の緒言 Translator's note」)

だが、『トーテムとタブー』の父の名だけではない。たとえば『モーセと一神教』をめぐって、ポール・ヴェルハーゲは次ぎのように書いている。

父親殺しの神話の二番目のヴァージョンをさらに分析していくと、多くの際立った新しい箇所が露わになる。父を(再)導入するのは、息子なのである。そして、そうするのは、脅威として経験された女性の力に直面してのことなのである。見たところ、父への恐れはそれほどでなく、むしろ、他の危険を寄せつけないために、この父の形象を必要としているのだ。この危険が十全に鮮明化するのは、ただ父の姿がなくなってしまったときである。そして、この脅威は女性性に繋がっている。

言い換えれば、父は息子の症状である。(Paul Verhaeghe “Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE”1998)

ヴェルハーゲは、1999年のレクチャアで次のようにさえ言っている。

『トーテムとタブー』1913の原父についてはただ忘れたほうがよい。『モーセと一神教』1939における臨床的な示唆を研究するほうがはるかに興味深い。この仕事において、フロイトは父の象徴的な機能の考え方をわれわれに提示している。それは、母たちから来る不可解な何かへの不安を基盤として、息子によって設置される何かである。そんなに難しいことではない、ラカンの後期の理論をこのフロイトの神話の中へ読み込むことは。主体は全的な疎外を怖れているのだ。すなわち、現実界の享楽のなかでの消滅を。そして象徴界のなかに対抗策を探し求める。この象徴界の影響は、フロイトの研究そのものの中に、まったく明白に見出せる、とくにラカンを通してフロイトを読むのなら。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

ヴェルハーゲは、フロイトの『モーセと一神教』を、「父の名」の論ではなく、「サントーム」の論として読んでいるのではないか。ヴェルハーゲ自身はそのように言っていないにもかかわらず、《母たちから来る不可解な何かへの不安を基盤として、息子によって設置される何かである》という文から、わたくしにはそう推測したい心持ちに襲われる(参照:中上健次と「父の名」)。

事実、彼は、この考え方を展開したあとの数年後(2002年)、同僚とともにとてもすぐれたサントームの論文を書いている(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)。そこには『モーセと一神教』への言及はないにもかかわらず、明らかにモーセから多大な示唆を受けているに相違ない。

では、『トーテムとタブー』と『モーセと一神教』はどう違うのだったか。ここでジジェクの論文から抜き出しておこう。1997年に書かれた『The Big Other Doesn't Exist』 からの私訳である。《『モーセと一神教』は、『トーテムとタブー』の装置dispositifを、ふたたび反転させる》ことが、明晰に書かれている。

なぜフロイトはエディプス神話を補足したのか? つまり『トーテムとタブー』における「原父」の神話的な語りによって。この二番目の神話の教訓は、エディプスと全く相対物である。父を、第三者としての介入するもの、近親相姦の対象への直接の接触を禁止するもの(すなわち、父の壊滅はこの対象への自由なアクセスを与えてくれるという空想を支えている)と取り扱うどころか、エディプスの願望がまさに実現化されるのは、父の殺害等なのだ。そのことが象徴的禁止を齎す(死んだ父が彼の〈名〉として回帰する)。

そして、今日、(父性的権威としての)「〈エディプス〉の斜陽」の時代であると叫ばれるのは、まさに「原父」の論理に従って機能する形象の回帰なのである。それは、「全体主義」国家の政治的指導者から、自分の娘に手を出すセクシャルハラスメント者の父親像まで同様だ。しかしなぜなのだろう? 「安定化するpacifying」機能をもった象徴的権威が宙吊りにされてしまったとき、衰弱しつつある欲望の袋小路、その固有の不可能性を避ける唯一の方法は、そのアクセス不可能性の原因を、原初の享楽を表す横暴な形象に特定することなのである。我々が享楽できないのは、〈彼〉が独り占めしているからだ、と…。

「エディプスコンプレックス」においては、父親殺し(そして母との近親相姦)は、すべての標準的(男性)主体の無意識の欲望である。というのは、父の形象は、母なる対象へのアクセスを禁じ、母との融合symbiosisを邪魔するのだから。エディプス自身は例外的形象であり、実際上、それをした〈一者〉である。『トーテムとタブー』では、逆に、父親殺しは、無意識の願望の目的ではない。そうではなく、フロイトが何度も何度も強調したように、「実際に起こったに違いない」前歴史的な事実である。その事実が、動物状態から、〈文化〉への移行を可能にした。

要するに、トラウマ的な出来事は、我々がそれについて夢想する何かではない。そうではなく、実際には決して起こらなかった出来事であり、その延期によって、文化の状態を維持する(というのは、母との近親相姦的関係の成就は、〈文化〉の世界を定義する象徴的距離/禁止を廃止してしまうから)。いやむしろこう言うべきか。トラウマ的出来事は、我々が〈文化〉の秩序内にいるどの瞬間にも、既に-常に起こったものである、と。

我々が実際に父を殺したなら、なぜ結果は、熱望された近親相姦的な融合ではないのか? このパラドックスが、『トーテムとタブー』に横たわる中心的命題だ。すなわち近親相姦の対象へのアクセスを邪魔する禁止の担い手は、生きているのではなく、〈死んだ〉父だということだ。父の死後、彼の〈名前〉等、象徴的法/禁止として回帰する。こういうわけで、『トーテムとタブー』のマトリックスが説くことは、父親殺しの構造的な必要性である。直接的残忍非道な力から、象徴的権威、禁圧的法の支配への移行は、常に(否認された)原犯罪の行動に根ざしている。

ここにあるのは、「あなたは、あなたが私を愛してることを、ただ私を裏切ることによってのみ証明できる」という弁証法である。すなわち、父が、敬愛される法の象徴に高められるのは、ただ彼への裏切りと殺害の後によってのみである。この問題系は、また無知の曖昧さの領野を開く。その無知とは、主体の無知ではなく、〈大他者〉の無知である、「父は死んだが、そのことを知らない」等々。彼は知らないのだ、彼を愛する追随者たちが(常に-既に)彼を裏切っていることを。

他方で、これが意味するのは、父自身が「彼は父だと本当に考えている」ということだ。すなわち、彼の権威は、直接に彼の人物から生じている、単に彼が占めたり満たしたりする空の象徴的場所からではない、と思い込んでいることだ。忠実な追随者たちが、指導者としての父の形象から隠蔽すべきことは、まさに、彼の個性の直接性における指導者と彼が占める象徴的場所のギャップである。そのギャップとは、実際上の人物としての父は、まったくインポテで滑稽であることによる(暴力的な裏切りに遭遇し、続いて彼のインポテが暴露され、象徴的称号を奪いとられ、年取った、怒り狂う、不能の愚か者に陥ったリア王のように)。

キリストの異説伝説、それに依れば、キリスト自身がユダに彼を裏切るよう命令した(あるいは少なくともこの線での彼の希望を知らせた)という説は、十分な基盤がある。この〈偉大な男〉を〈裏切る〉必要性、それだけが彼の〈名声〉を確証できることは、〈権力〉の究極の神秘である。

しかしながら、『トーテムとタブー』のマトリックスには、まだ何かが欠けている。殺された父が、象徴的禁止の審級として回帰するというだけでは不十分である。この禁止が、実効性のあるものであるためには、〈意志〉のポジティブな行動によって支えられなければならない。この理由で、フロイトは、『モーセと一神教』にて、エディプス装置dispositifに最後の変奏を、さらにつけ加えた。

ここには、二つの父の形象がある。しかしながら、それは『トーテムとタブー』のものとは同じではない。二つの形象は、前象徴的な猥褻な/未去勢の享楽の父と、象徴的権威の担い手としての(死んだ)父、すなわち〈父の名〉ではないのだ。そうではなく、古いエジプト人のモーセ(より初期の多神教的な迷信を打っ棄り、一神教を導入したモーセ、独自の理性的〈秩序〉によって決定づけられ支配された普遍性概念を導入したモーセ)と、セム人のモーセ(ヤホバの神、嫉妬深い神であり、彼の人びとに裏切られたと感じるや、執念深い憤怒に荒れ狂うモーセ)である。

『モーセと一神教』は、『トーテムとタブー』の装置dispositifを、ふたたび反転させるのである。彼の追随者/息子たちに「裏切られ」殺された父は、猥褻な原初の〈享楽の父〉ではない、そうでは決してない。そうではなく、象徴的権威を体現した「合理的な」父なのだ。すなわち、普遍性(ロゴス)の、統合された合理的な構造を擬人化した形象なのである。猥褻な前象徴的父が、象徴的権威として、彼の〈名〉の偽装の下に回帰するのではなく、我々は、彼の追随者/息子たちに裏切られ殺された象徴的権威(ロゴス)を持つことになる。そして、回帰するのは、凶悪な憤怒に満ちた神の、嫉妬深く執念深い、無慈悲な超自我の形象である。このエディプスマトリックスの二番目の反転の後に、ようやく我々はパスカルの名高い区別に至ることができる。それは〈哲学者たちの神〉(ロゴスの普遍的構造としての神、普遍性の合理的構造と同一化した神である)と、〈神学者たちの神〉(愛と憎悪の神、気まぐれで「非合理的」宿命の不可解な「闇の神」)である。

決定的なポイントは、享楽についての知の巨根を授かった原父とは対照的に、この非妥協的な神は、ラカンが指摘したように、享楽に対して「否」と言うのだ。この神は狂暴な無知("la féroce ignorance de Yahvé")[Le séminaire, Livre XVII]に取り憑かれている。その態度は、「私は知ることを拒絶する、私は聴きたくない、きみの汚らしい密かな享楽のあり様について」である。伝統的な性化された叡智の普遍性、〈大他者〉(象徴的秩序)と享楽のあいだの究極の調和の見せかけとしての普遍性を追放する。底辺に横たわる男女原則(陰陽、光と翳、天と地…)の性的対立によって統整されたマクロコスモスの概念を追放するのだ。(ジジェク『大他者は存在しない』)