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2015年4月15日水曜日

「彼らはそれを知らないが、そうする」(マルクス)

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論』「まえがき」)

体制内におかれた個人は、主観的にはどれほど体制批判(原発再稼動反対、安倍政権批判、翼賛体制批判等々)していようと、社会的にはやはり体制維持派になりがちである。

たとえば企業組織内に属する個人は、主観的には「原発再稼動」に強く反対していても、原発再稼動が、当企業の業績を大きく左右させるならば(究極的には、彼の賃金が3割上がったり、3割下がったりするのならば、ようするにボーナスがゼロになるか二倍以上になるかならば)、彼は原発再稼動に抵抗し得ないだろう。

さらにいえば、安倍政権の政策に強い苛立ちを覚えていても、たとえばアベノミクスが景気を大幅に浮上させたり、あるいは株価をあげたり昇給の著しいインセンティヴになって彼を潤わすとすれば、彼は安倍への苛立ちを忘れてしまったり、すくなくとも「選択的非注意」に陥るだろう。

古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」)

冒頭に掲げた教えは、なにもマルクスによるものだけではない。デュシャンの「泉」、すなわち小便器は、対象自体の「芸術的」価値と思われていたものは、それが占める構造的な場所(美術館)に負うことを教えてくれた。

だが、《それが美術展におかれているということが、人にそれを美術としてみる事を命令しているのであり、そのことに人は気づかない》(柄谷行人)なのだ。

そして人は体制内におかれていることが、彼を体制派にしてしまうのに、人はそのことに気づかない。わたくしがこうやって体制内における体制批判者たちを皮肉ることができるのも、すくなくとも日本という体制からまったくはずれて、外部にいるためだけなのに、私はなかなか《そのことに気づかない》。

われわれは、あるシステムへの批判者が、そのシステム内の責任ある地位に(偶然にも)ついた途端、批判の舌鋒がたちどころに飼い馴らされてしまう事例をいやというほど見てきたのではないか。

こうしてまたマルクスに戻ることになる。

イデオロギーの最も基本的な定義は、おそらくマルクスの『資本論』の次の文である、"Sie wissen das nicht, aber sie tun es" 、すなわち、「彼らはそれを知らないが、そうする」。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)

フロイトの無意識の基本的定義のひとつは、「知っていることを知らない」であった。体制内におかれている体制批判者たちは、実は無意識的に自らが体制擁護派であることを知っているのに意識的には知らない。だか結局、体制派として振舞ってしまうのだ。

ここでニーチェにも登場願おう。

「おまえはそれesを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはそれesを語らない」(Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! (ニーチェ)

マルクスにもニーチェにもesエスという語彙が出てくることに注意しよう。

フロイトの『自我とエス』には次の文がある。

われわれは、知覚体系Wに由来する本質ーーそれはまず前意識的であるーーを自我と名づけ、自我がそのなかで存続する他の心理的なものーーそれは無意識的であるようにふるまうーーをグロデックの用語にしたがってエスと名づけるように提案する。(フロイト著作集6 P273)

そして次のような註が附される。

グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。

さて、話を元に戻せば、たとえば「左翼」の学者は、大学システムなどの体制内にいるかぎり、やはり体制維持派であるだろう。既存の秩序を鋭く批判するにもかかわらず、実際には秩序を補完する、場合によっては強化する結果に終わる。

『精神分析の倫理』のセミナールにおいてラカンは、「悪党」と「道化」という二つの知的姿勢を対比させている。右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者であり、破滅にいたるに決まっている「ユートピア」計画を報ずる左翼を馬鹿にする。いっぽう左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく 宮廷道化師である。社会主義の崩壊直後の数年間、悪党とは、あらゆる型式の社会連帯を反生産的感傷として乱暴に退ける新保守主義の市場経済論者であり、道化とは、既存の秩序を「転覆する」はずの戯れの手続きによって、実際には秩序を補完していた脱構築派の文化批評家だった。(バトラー、ラクラウ、ジジェク『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』

これはただ大学の教師だけではなく、専門家という種族そのものが、この傾向をもつ。

ロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』)

ところで、少し前ツイッターにて次の言葉を拾った。

映像の世紀のあの言葉@eizoseiki: 「人々はナチスに対し全く無批判でした。精神の自由など大多数の人々には価値のある概念では全くありませんでした。ナチスに疑いを差し挟むと、次の様に反論されました。『ヒトラーが成し遂げた事をぜひ見て欲しい』ヒトラーが失業問題を解決した事こそ、私達にとって重要な点だったのです」

変奏しておこう:表現の自由など大多数の人々には価値のある概念では全くありません、戦争への傾斜、翼賛体制支配の気配など我関せずです。『安倍がアベノミクスで成し遂げた事をぜひ見て欲しい』安倍がデフレ問題を解決した事こそ、私達にとって重要なのです。


…………

とはいえ、殆どのひとは、なんらかの体制内におかれている。われわれはなんらかの共同体の住民であり囚人であるだろう。柄谷行人によれば、「自己意識」でさえ共同体である。

誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。共同体の外と間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。(『探求Ⅱ』p201-202)

すなわち、《”個人”もまた内部と外部をもつかぎりにおいて一種の共同体》(同293)である。ではどうしたらいいのか。

マルクスは、娘たちの問いに答えて、「すべてを疑え」ということをモットーに掲げたことがあった。しかし、彼がすべてを疑うというとき、それが怠惰な懐疑論と異なることは明瞭である。疑うことは、彼にとって生きることと分離されていない。では、いかなる生がそこにあるのか。マルクスは徹底的に主体を疑い、それを関係構造の産物として見た。では、そのように疑う主体はどこにあるのか。人々は、マルクス主義と実存主義というような「問題」を立ててきた。だが、彼らはマルクスという「実存」を無視してきたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P205)
重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P250)

…………

※附記

建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである。(サン=テグジュペリ『戦う操縦士』堀口大学訳)

須賀敦子はこの文を引用して、次のように書いている、《自分が、いまも大聖堂を建てつづけているか、それとも中にちゃっかり坐りこんでいるか、いや、もっとひどいかも知れない。座ることに気をとられるあまり、席が空かないかきょろきょろしているのではないか》と。(『遠い朝の本たち』)