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2015年10月7日水曜日

象徴界のなかの再刻印・再象徴化(ジョイス=サントーム)

ようやく「ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって」にて引用した「 Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa」の文を訳す気になった。2015年4月18日の記事であり、その気になるまで半年弱かかったことになる。すなわち十分に納得するまでにこの期間が必要だった。

ここではほぼ同じ文章が掲載されている 『Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 』2007からの文を訳す。

ここで、私はことさら強調しなければならない、ラカンが JȺ ーーそれを彼はまた名高いサントームとも呼んでいるーーの出現と、現実界の名付け、かつ享楽の徴付けmarkingの話を結びつけて考えていることを。これは長いあいだ据え置かれたままの問いだった。これが関わっているのは、主体が象徴界のなかに再刻印すること、そして象徴界の再象徴化a reinscription in and a resymbolization of the Symbolic を成し遂げるやり方である。それは主体が〈他者〉におけるリアルな欠如 Ⱥ を一時的に引き受けた後のことだ。ラカンにとって、ジョイスは実に“Joyce-le-sinthome.”だった。

もし一方で、ジョイスが「シンボルを破棄した」こと…が本当なら、他方、それは同様に当てはまるのだ、(人の現実界の名付けとしての)「サントームとの同一化」、ーーラカンが精神分析の目標としての最後の仕事において提唱したそれーーは決して半永久的な「主体の解任 subjective destitution」、精神病的な象徴界の非機能 nonfunctioning にはならないことが。

このような誤った結論に対して、私は次のことを強調しなければならない

(1) ジョイスはーーDarian Leader によって提案された公式を採用するならーー「引き金を引かれていない non-triggered」精神病である。彼はもともと神経症と精神病との「どっちつかずの in between」状態にあった。そして引き続いて(部分的な)個人化された象徴界をなんとか生み出した

(2) 神経症者はいつかは彼らのイデオロギー的症状ーー支配的な根本的幻想によって課された享楽ーーを非精神病的サントームに変えることができる。無論「幻想の横断」を経た時の話である。すなわちそれは、象徴界からの「分離」の瞬間、そしてそれに引き続いた過程、新しい個人的な「主人のシニフィアン S1」を通した象徴的再刻印の過程による。これがまた意味するのは、ジョイスははっきりとした「精神病者」ではなかったにもかかわらず、彼はもともとどんな「根本的幻想の横断」をする必要なかったということだ。

神経症者と異なり、ジョイスは既に象徴界から分離されていた。その代わりに、彼は彼を基礎づける主人のシニフィアン S1を創造する必要があった。

※JOYCE LE SYMPTOME(LACAN Autres écrits)

Point souligné par moi, sans doute de ce qu'il reste après Joyce que j'ai connu à vingt ans, quelque chose à crever dans le papier hygiénique sur quoi les lettres se détachent, quand on prend soin de scribouiller pour la rection du corps pour les corporections dont il dit le dernier mot connu day-sens, sens mis au jour du symptôme littéraire enfin venu à concomption. La pointe de l'inintelligible y est désormais l'escabeau dont on se montre maître. Je suis assez maître de lalangue, celle dite française, pour y être parvenu moi-même ce qui fascine de témoigner de la jouissance propre au symptôme. (LACAN Autres écrits p.570)

…………

冒頭に上の文を訳すまで半年もかかった、と「カッコウをつけて」記したが、実はあの文以降のLorenzo Chiesaの叙述はすでに「なんとなく理解したままで」訳している。いまその一部を掲げておこう。

……神経症の標準的な状況では、父の名は、それが機能しなければ引き起こし得る破壊的な享楽を、症状を通して、統整する。その「否」を、我々は(イデオロギー的に仮装して)享楽する。そこで享楽するのは象徴界に穴を開ける欠如である。ラカンがジョイスについての後期のセミネールにて、さらに示唆しているようにみえることは、「引き金をひかれていないnon-triggered」精神病の場合では、この同じ統整ーーそれは主体を社会的領野に住むことを可能にするものだがーーが、究極的にサントーム自体によって実現されうることだ。

言い換えれば、〈他者〉の斜線化ーー構造的欠如の出現ーーに従った「父の名」の相対化は、究極的に二つの補足的な結果を伴う。それが症状にかかわる限りで、だが。

一方で、父の名はそれが事実上コンピタンスcompetenceの外部に横たわった場を占める限りーーというのは、欠如は現実界の領野に属するのだからーー、父の名はそれ自体、症状として捉えられる(故に、ラカンはセミネールXXIIIにて、「エディプスコンプレックスはそれ自体、症状である」と言っている)。

他方、「享楽を方向づけ組織しようとするものは何もかも」制御行動を行う。それはふつうは「標準的な」父の名によって成し遂げられるものだが、父の名が正しく機能しないなら、なにか他のものが必要だ。

ジョイスの父の隠喩には欠陥があった。すなわちそれは作者によって補わなければならない。このように「ジョイスJoyce」という名は、文字通り〈他者〉における欠如の独自のプレイスホルダplaceholder を具現化している。そしてエクリチュールの独特の仕方によって、父の隠喩の欠如を補足するのだ。……(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007ーーLorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる))

ようするにこのあたりのことがより鮮明にようやくなってきた、ということである。

ベルギーの精神分析家ポール・ヴェルハーゲがくり返し述べていることもこの主人のシニフィアンの再刻印、再象徴化にかかわることがようやく判然とした。

巷間のフロイト・ラカン派の分析家たちーーとくに日本ではーーはあまりに「主体の解任 destitution subjective」、「幻想の横断traversée du fantasme」(フロイト用語ならば「徹底操作durcharbeiten」)をいまだ強調しすぎているようにわたくしには思われる(勘違いでなければ)。これらはすべて脱象徴化にかかわる。だが患者によっては、そして社会構造のかわった現在では、ますます再象徴化ーー象徴化の構築ーーの手助けのが必要なのだという二人のラカン派の見解である。

それについては「旧態依然の破廉恥な精神分析家」に記した。

以下、症状の二重の構造を叙述するヴェルハーゲの文を貼り付けておく(上部の症状(象徴界)/地階の症状(現実界)。現在の「症状」は地階の症状が目立ってきたのであり、それは「父の名」の下落にかかわる。

フロイトは症状形成を真珠貝の比喩を使って説明している。砂粒が欲動の根であり、刺激から逃れるためにその周りに真珠を造りだす。分析作業はイマジナリーなシニフィアンのレイヤー(真珠)を脱構築することに成功するかもしれない。けれども患者は元々の欲動(砂粒)を取り除くことを意味しない。逆に欲動のリアルとの遭遇はふつうは〈他者〉の欠如との遭遇をも齎す。(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex PAUL VERHAEGHE 2009)
フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq,2002)

トラウマももちろんこの二層構造になっている。ヴェルハーゲの言い方なら「構造的トラウマ」と「事故的トラウマ」である。

トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma,2001)

日本でもすぐれた精神科医ならこのことをとっくに指摘している。

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )

最近、斎藤環氏が提唱している「オープンダイアローグ」についてもーーわたくしは寡聞にしてほとんどその内容を知らないがーー「象徴界の再象徴化・再刻印」の文脈で捉えうるものなのではないだろうか。

これらの対応を、「ボーダーライン」やら「ふつうの精神病」、あるいは「現実神経症」に対するものと呼ぼうが、肝腎なのは次のことであるだろう。

◆Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe(参照) 

三十年ほど前に、私は最初の患者に出会った。私のうけた古典的な教育と訓練は、次のような臨床的特徴に廻り会うよう想定されていた。すなわち患者は、解釈されうる症状をもっており、これらの症状は意味溢れる構築物だということ。もっとも患者は防衛メカニズムのためにこの意味に気づいていないのだが。患者はこれらの症状がライフヒストリーに関連することに気づいていた。話すことによる治療の目標は、この関連の覆いを取り除くことだった。そうするのは、その裏に潜んだ葛藤が、他のよりより解決法を導き得るようにするためだった。そのうえ、相対的には陽性転移がやがて手助けしてくれた。これは1905年にフロイトによって提唱された、精神分析治療を成功させるための、基本的規準だった。要するに、古典的な精神分析の治療とは、古典的な精神神経症psychoneurosisに向けられたものである。私はここで強調しなくてはならない、接頭辞“精神”を。

現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。(Aktualpathologie(現勢病理)≒Aktualneurose(現実神経症)

…………

さてここで飛躍してこうつけ加えておこう。

「父の権威」の崩壊後の世界(参照:「神の二度めの死」=「マルクスの死」)において、バディウ、ジジェク、Paul Verhaeghe、Lorenzo Chiesaなどまともなラカン派が考えようとしているのは、なにか?

父の権威の時代とは社会の構成員自体が、あるいは社会構造そのものが「精神神経症psychoneurosis」の時代であった。他方、マルクスの死以後の新自由主義の時代とは、「現実神経症Aktualneurose」の時代である、と仮にしてみよう。

われわれは現在、社会的にも《恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う》っているではないか? ナショナリズムやレイシズムの猖獗もこの文脈で捉えうる。

ラカンは早くも60年代に、今後数十年の間に新たな人種主義が勃興し、民族間の緊張と民族の独自性の攻撃的主張が激化するであろうと予言した。(ジジェク『斜めから見る』p.302ーー「人間の顔をした世界資本主義者たち」)

父の権威の没落後のこの非イデオロギーというイデオロギー「新自由主義」時代、まともなラカン派ーーフロイトのいう意味での「まともな」である。すなわち個人の病は社会構造が生む。とすればフロイトが『集団心理学と自我の分析』や『文化のなかの居心地の悪さ』などでやったように分析家とは必然的に社会構造に目を向けなければならないという意味だーーが考えようとしているのは、主人のシニフィアンS1の象徴界のなかへの再刻印・象徴界の再象徴化である(参照:フロイトとラカンの「父の機能」)。

わたくしに言わせれば柄谷行人がやろうとした・やっていることも(その統整的理念)、同じS1の象徴界のなかへの再刻印・象徴界の再象徴化である(参照:「主人のシニフィアンと統整的理念」)。


…………

※追記:ここに記されていることは次ぎの内容にもかかわる(参照:《症状のない主体はない》(ラカン))。

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。〔Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.〕(ラカン “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))
われわれは不安の発展を危険状況によるものとしたが、これからさらにすすんで、症状は自我が危険状況からまぬかれるためにつくられるといいたい。症状形成がさまたげられると、じっさいに危険がおそってくる。(……)

症状の形成は、危険な状況をすてさるという実際の効果をもっている。症状形成には二つの面があり、一つはわれわれには秘密のままで、エスの中にある変化を起こし、この変化によって自我が危険をまぬがれるという面であり、他はわれわれにむけられた面であり、影響をこうむった衝動過程のかわりにつくりだしたところの代理の形成である。

ところで、もっと正確に表現するとすれば、ちょうどいま症状形成についてのべたことを、防衛過程に帰さなければならないし、症状形成という言葉自体を代理形成の同義語としてもちいなければなるまい。そうすると防衛の過程は、逃避と類似のものであることが明らかである。逃避とは、自我が外界のさしせまった危険からまぬかれる手段であるが、防衛過程もまた、衝動の危険からの逃避の試みといえる。(フロイト『制止、症状、不安』フロイト著作集6 pp358-359)

ーー症状が人の心理構造に安定化を与えるものであり、とりのぞくべきものではない場合があるという知見を得るには、なにもフロイト・ラカン派である必要はまったくない。ここで、わが国の最も優れた精神科医の一人であるに相違ない中井久夫の論からも抜き出しておこう。

医者にとって症状とは先ず診断の目安である。だからいろんな次元のものが混じっている。もう一つ、本来は診断の目安としての症状と治療の目的としての症状とは違うものなのだろう。双方は一致することも多いだろう。しかし、いちおう区別しておこう。

治療の目安としての症状は、第一に、それのあるなしが、病気がどこまで回復したかを教えてくれるものである。第二に、それがどの程度必要かどうかを決めるのがよいだろう。症状は何でも目の敵にして消してしまわなければならないとは限らない。(……)

一般に症状とは無理にひっぺがすものではないように思う。幻聴でも、消えた後に空虚感、索漠感が残ることがある。幻聴を聞いている間はなかった「また幻聴が起こるのではないか」という恐怖と不安が起こってくることもある。幻聴の悪性度を減らし、いっぽうでそれが生活に占める比重を減らすような生活にして、なくなってもさびしくないような心境になれば自然になくなることが少なくないように思う。(中井久夫「症状というもの」1997『アリアドネからの糸』所収)



2015年10月4日日曜日

エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論

表題を「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」としたが、「旧態依然の破廉恥な精神分析家」の補遺でもある。

ここでの核心のひとつは次ぎの文にある。

(これはまた)精神分析実践の目標が、人を症状から免がれるように手助けすることではない理由である。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することだ。
That is also why the aim of a psychoanalytic practice is not to help someone get rid of his or her symptoms in order to find the right satisfaction. The aim is to install a different kind of symptom on top of the impossibility of jouissance.(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

《享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install すること》、これがラカンのサントームであるというPaul Verhaegheの主張である。

上の文と次ぎの文をともに読んでみよう。

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”)
主人のシニフィアンは、無意識的なサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。

The Master-Signifier is the unconscious sinthome, the cipher of enjoyment, to which the subject was unknowingly subjected.(ジジェク『パララックス・ヴュー』)

フロイトのエディプス理論の「父」、ーーあるいはラカン的には主人のシニフィアンS1ーー、それは無意識なサントームなのであり、われわれはそのイデオロギー的「父の名」を取り払っていったん裸になり、その上に、つまり《享楽の不可能の上に》、意識的な、かつ個人特有の「父の名」ーー敢えて挑発的に「父の名」としたが、より穏健には「父の機能」とするべきだろう(参照)--を設置するのが、ラカンのサントーム理論である。

「creatio ex nihilo無からの創造」などと言われることもあるが、実態は裸の《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ》(Séminaire XXIV)なのであり、分析治療によってなにも自然にサントームが芽ばえてくるわけではない。このあたりの誤解があると、被分析者は裸の欲動のなずがままになってしまい、自殺衝動や破壊欲動の発露などが起こりうるはず(論理的にはそう思われるということであり、わたくしはまったく専門家でないことはここで断わっておこう)。

さる分析家の言葉を名を記さずに引用しておこう。

・わたしが殺人罪で服役した経歴を持ちながらも敢えて精神分析家として仕事を続けるのは,精神分析がわたしの lifework だからです.Lifework とは,存在 barréが請求していることです.

・他殺であれ自殺であれ,それは,死そのものである φ barré が a を破壊し,呑み込んでしまうことです.わたしは身をもってその極限状態を経験しました.文字どおり,突然足もとに穴が開いて,そこに呑み込まれてしまう感覚でした.実存構造の突然にして急激な解体が起きた場合,そのようなことが起こり得ます. 

同じ人物による《Lacan は芸術的創造を論ずるとき,「無からの創造」creatio ex nihilo という神学的概念を持ち出します.強調されるべきは,この ex nihilo です.これは,復活に関する決まり文句:「死者のうちからの復活」を想起させます》というツイートもある。

…………

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがサントームである。上にサントームが意識的なS1(主人のシニフィアン)だと敢えて断言したのは、この文に由来する(別の見解があるのは承知で、という意味である)。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

無からの創造をするためには、裸の症状=享楽の不可能性を露出させなければなならない、《精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする》(ヴェルハーゲ、末尾掲載文より)。

あるいは、日本の若きすぐれたラカン派の次の文を引用してもよい。

ラカンは、分析は終結する、ということをはっきりと確信していた。…精神分析は結局のところ治癒不可能なものを前景化させてしまうことになる。しかしラカンは、逆説的にも、症状のこの治癒不可能な部分…を肯定し、これこそが分析の終結を可能にすると考える(松本卓也『人はみな妄想する』)

この《治癒不可能なものを前景化》させることはラカン用語では、「主体の解任 destitution subjective」、「幻想の横断traversée du fantasme」(フロイト用語ならば「徹底操作durcharbeiten」)とされる。

ところが、次ぎのような指摘もあるのだ(参照:Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる))。

ミレールについては、彼は我々に思い出させてくれる、ラカンの後期の仕事で、ラカンはしばしば、精神分析の治療の終わりは、症状と「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」の用語にて理解されるべきだと言ったことを。

ミレールは、こうして次の問いに導かれてゆく、「症状のノウハウは、反復の終了をもたらすのか、それとも反復の新しい作法をもたらすのか?」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私はここで指摘しなければならない。ミレールにとって、上記の二者択一ともに、ア・プリオリに根本的幻想を除外してしまっていると。というのは、彼は奇妙にも 「反復として考えられた」享楽と「幻想として考えられた」享楽とを対照させているからだ。さらにもっと思いがけないのは、彼は、「症状のノウハウ」と「根本的幻想の横断」とを対照させている。後者は、次のように定義される、たんなる「逸脱、分析において手掛けられる逸脱…空虚に向かう、あるいは主体の解任に向かう招き」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私が考えるに、これらの鋭い対照化はひどく疑わしいし、十分に議論されていない。例えば、私は驚いてしまうことは、ミレールは躊躇なく、(反復される、あるいは反復されない)症状の仮説を、精神分析の終わりとして提案しているのだが、それは、症状は、主体の解任が起きなければ、定義上、イデオロギー化されたものだという事実を問題視しないままなのである。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007)

これはLorenzo Chiesaによるジャック=アラン・ミレールへの批判である。ようするに幻想の横断、主体の解任を軽率に取り扱っているというものだ。ミレールはそれらを置き去りにしてしまっている、それではイデオロギー化された「父の名」やイマジネールな対象aが除去されないままではないか? 裸の欲動の固着が露出しないままで「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」などということがありえるのか、と。

このミレールの21世紀に入ってからの考え方は、ジジェクもラカンの言葉とともに引用して説明している。

◆「ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって」より

後期ラカンは、ラディカリズムを放棄し、精神分析の治療法をひどく穏健な方法にて捉え直した。「人は真理のすべてを学ぶ必要はない、僅かで充分だ。」(Lacan, “Radiophonie,”)ここではラディカルな"限界経験"としての精神分析の考え方が拒絶されている。「人は分析をあまりに遠くまで押し進めるべきではない。患者自身が生きていくのに幸福だと思えば、それで充分である。One should not push an analysis too far. When the patient thinks he is happy to live, it is enough」(Lacan, “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))

なんと遠くにわれわれはいることだろう、アンティゴネの英雄的な試みーー禁じられたate(迷妄)の領域に入り込み"純粋欲望"を獲得しようとする試みから! 精神分析の治療は、いまや主体性のラディカルな変質ではもはやなく、局所的な糊塗patching‐up なのであり、それは長期間の跡づけさえ置き去りにするleave any long‐term traces(この見解の流れのなかで、ラカンは次の無視されている事実に注意を促している。すなわち、フロイトが鼠男の治療後数年経って彼に再会した時、鼠男は完全にフロイトの治療のことを忘却していた事実に)。

このよりいっそう穏健な取り組みは、後期ラカンに照準を当てたジャック=アラン・ミレールの読解において、余すところなく明瞭に言い表されている。晩年のセミネールで、ラカンは、精神分析過程の締め括りの節目である"幻想の横断"概念を置き去ってしまう。その場所に、ラカンは全く反対の振舞いを導入する、すなわちサントームと呼ばれる究極の分析不能な障害を受け容れることを。症状が、解釈を通して解消される無意識の形成物であるなら、サントームは、"分割不能な残余"であり、それは解釈と解釈による溶解に抵抗する。サントームとは、最小限の形象あるいは瘤であり、主体のユニークな享楽形態なのである。このようにして、分析の終点は"症状との同一化"として再構成される。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

ーージジェクの記述はこの箇所にかんしてはひどくミレール寄りであり(同じ『LESS THAN NOTHING』には多くのミレール批判があるにもかかわらず)、Paul VerhaegheやLorenzo Chiesaの見解とは齟齬があるように思える。

あるいはまた上に引用した《他殺であれ自殺であれ,それは,死そのものである φ barré が a を破壊し,呑み込んでしまうことです.わたしは身をもってその極限状態を経験しました》とする精神分析家は次ぎのように言っている。

症状を成す悦,つまり剰余悦は,精神分析の経験のなかで失墜し,脱落し,捨て去られねばならないものです.なぜならそれは,異状を成す仮象にすぎないからです.仮面,偽り,誤り,否認なども仮象に関連する語彙です.

Miller は Lacan の sinthome としての症状の概念を全く誤解しています.それは,Lacan が saint homme[聖人]に言及したとき,Miller はそれが Lacan の冗談か何かだと思って,それについて真剣に考えなかったからでしょう.

ーーーここでの《症状を成す悦,つまり剰余悦は,精神分析の経験のなかで失墜し,脱落し,捨て去られねばならないもの》とは幻想の横断や主体の解任のことを言っており、それなりの正当性をもつ。だが彼の問題は、聖人=サントームを強調しすぎていることで、ひょっとしたら《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ》(Séminaire XXIV)が視野に入っていないのではないかと疑わざるをえない発言が多いところだ。

“En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.” J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 12/13, 1977, pp. 6-7

上にも引用したが技法的な側面を曖昧にしたまま「無からの創造」creatio ex nihilo という神学的概念のみを強調してはならないだろう、肝腎なのはラカンの死の二年前の言葉「新しいシニフィアンを発明すること」のはず。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Lacan, Le Séminaire XXIV, 1979, p. 21)

ここでひょっとして(隠された文脈上においては)ぴったりとしたミレールの言葉を掲げておこう。

「幻想の横断」は翼を与えるには違いないが、ある者はプラトンのハトになり、またある者はアホウドリになるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

ーーラカン的精神分析治療の分析は、凡庸な、あるいは十分な理解をしていないままの精神分析家がやると、ひどく危険なのではないのだろうか?

※別の側面からのジョイス=サントームをめぐっての記事が投稿しないままーー曖昧な理解のままだったのでーー放置してあるのだが、そのうち公開するかもしれない。


というわけだが、ここでの引用を中心にした叙述は、Paul VerhaegheとLorenzo Chiesaの読解に傾いたものであることを強調しておこう。

前置きが長くなったが以下本題にかかわる引用(私訳)である。

…………

1924年に、フロイトは『エディプスコンプレックスの没落』を上梓した。そこで叙述されているのはフロイトが考えるところのこの《幼児期の性的発達段階における中心的現象》(フロイト著作集6 p.310)の必要不可欠な破壊である。

ここで、エディプス願望は破壊される必要があるとしている。そして実に要求されているのは破壊であり、抑圧ではないのだ。《抑圧は病的作用を発揮する》(同 p.313)のみである。だがフロイトの経験が、そのような破壊の事例はきわめて稀であることを彼に教えるようになった時、1937年に、彼は結論づけざるを得なかった、精神分析的実践は、男の去勢不安と女のペニス羨望という生物学的行き詰りに遭遇する、と。

これは我々に最後のテーマをもたらす。もしエディプスコンプレックスが破壊されるべきなのに(フロイト)破壊されないのなら、そしてもしエディプス構造が享楽 jouissance の不可能の欠かすことのできない飼い馴らしstyling(ラカン)であるなら、そのとき享楽はいかにして扱われうるか?

この点にかんして、ラカン理論における応答は、フロイトの生物学的袋小路よりもすぐれて興味深い。ラカンの読解では、エディプス複合は、主体が自身の身体から来る欲動ととりわけ享楽に対処する欠かせない構造を隠している

その構造において、享楽の不可能は禁止に変形され、その結果、絶え間ない欲望と症状形成をもたらす。エディプスコンプレックスはそれ自体「症状」なのであり、その意味は、〈他者〉を媒介とした欲動の現実界のまわりのイマジネールな構築物だということだ。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

*ここでの〈他者the Other〉に注意(後述)

ここでの叙述から読み取れるのは、後期ラカンのサントーム理論でさえ、フロイトのエディプス理論の変種であるということだ。

この理由で、フロイトは正しく指摘している、どの症状も満足の形式である、と。ラカンが今つけ加えたのは、症状の不可避性である。セクシャリティ、欲望、そして享楽にかんして、症状のない主体はない。(後述)

これはまた精神分析実践の目標が、人を症状から免がれるように手助けすることではない理由である。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install するこだ。

フロイトによるエディプスコンプレックスの終結点、ーー父との同一化ーーの代わりに、ラカンが奨励したのは、精神分析実践の最終ゴールとしての症状との同一化である。これが彼に次の対照を許すようになる、すなわちエディプス的解決と、現実界における解決と彼が呼ぶところのものの対照である。(同上、PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

※サントームについてのより具体的な記述は

1、「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない
2、「ラカン派の二種類のサントーム・症状

などを見よ。

…………

以下捕捉。

◆〈他者the Other〉について

そもそも〈他者〉とか大文字の他者と訳される”L'Autre”は、「大文字の他」であり、人でなくてもよい。ラカンはすでにセミネールⅩⅣで、《〈他者〉は身体である》と言っている。

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

あるいは、
主体が囚われているのは意識ではない、身体である。(ラカン「哲学科の学生への返答」(1966 私訳)

"Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps."(Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse Jacques Lacan, 1966)

※参照:ラカンの三つの身体

ラカンの使用法では、〈他者Autre〉が常に身体corpsではないにしろ、この観点は、日本語の訳語では見逃されがちだ。

しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳)

ーーこの文は主にラカンのセミネールⅩⅦとⅩⅩの記述をめぐっているのだが、ラカンの〈他者〉理解として決定的な文章のひとつではないだろうか。わたくしはこの文によって、いままで多くの不明だったラカン派の解釈者の叙述(その誤解もふくめ)を眺め直す機縁になった(くり返せばこの説明が完全に正しいということを言いたいのではない。別の解釈もあるだろう)。

※参照:享楽への道とは死への道(ラカン)


…………

 ◆〈症状のない主体はない〉について

ーーこれについては今まで私訳しつつメモしたものを貼り付けておくだけにする。

よくある臨床状況から始める。患者は、耐えられなくなった症状があるために、我々のもとに訪れてくる。ヒステリーの文脈内では、この症状は殆どあらゆるものであり得る、古典的な転換症状からはじめて、恐怖症の訴え、性的/関係性的問題、そして最後にはもっと漠然とした憂鬱や不満の訴えである。

患者は治療者に自らの問題を提示する。そして標準的な期待は、治療の努力によって、症状が消滅し、かつstatus quo ante、すなわち以前の健康な状態に戻ることだとされる。これは勿論、とてもナイーヴな観点である。なぜひどくナイーヴであるかといえば、注目すべき小さな事実を考慮していないからだ。その事実とは、大抵の場合、症状は急性なものではなく、反対に、むしろ古くからの、何月も前からの、ときには何年も前からのものでさえあるということだ。

そのとき訊ねるべき問いは、勿論、なぜ患者はこの今、訪れたのか、なぜもっと早く来なかったのか、ということである。人はこの状況を観察すれば、常に同じ答えを見出すだろう、すなわち、主体にとって何かが変化し、その結果、症状はその正しい機能を失った、と。

症状が、いかに苦しく或いはいかに無価値なものであろうと、明らかなことは、この変化以前は、症状は主体にとってある種の安定化を確保してくれるものだったということだ。この安定化の機能が故障したときのみ、主体は助けを求めるのだ。これが、ラカンが治療者は患者に彼の現実に順応させようとすべきではないと述べた理由である。反対に、患者はすでにあまりにも順応し過ぎているのだ。というのは、患者はまさに現実の構築にいそしんでいるのだから。

この点で、我々はフロイトの重要な発見のひとつに出会う。それは、どの症状も先ずは回復の試みだということだ。一定の心理構造の安定化を確保する試みなのである。この意味で、我々は患者の期待を言い換えねばならない。彼は症状の消滅を求めているのではない、否、彼はただ症状の元々の安定化機能を修復して欲しいのだ、その機能は状況の変化のせいで故障してしまっているのだから、と。

これがフロイトがひどく奇妙な考え方、奇妙というのは、上で言及したナイーヴな観点の下ではだが、すなわち「健康への逃避flight into health」という考え方を提示した理由である。この表現は鼠男のケーススタディに見られる。治療者はまだ始めたばかりで、いくらかの成果しかない。そして患者は中断する決心をする。彼は遥かに改善していると感じるからだ。症状そのものはほとんど変化していないが、見たところ、それは患者を悩ましていない。ただ驚いた治療者を悩ますだけである。(Paul Verhaeghe,PSYCHOTHERAPY, PSYCHOANALYSIS AND HYSTERIA、1994)

フロイトによる無意識の発見以来、病理上の過程は「防衛」を基にして説明されるようになる。すなわち「抑圧」概念が特権的な場所を占めるようになる。だがフロイト以後、多かれ少なかれ忘れられてしまったのは、「抑圧」そのものが病因のダイナミズムにおける二次的な重要性しかないということだ。実際、抑圧は欲動に対する防衛的過程の苦心作elaborationでしかない。

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』:人文書院旧訳より抜き出している:引用者)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。

精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする。これらの固着はもはやそれ自体としては変えようがない。身体の決断は取り消しようがない。これは欲動の過程に向けた主体の立場としてはその限りではない。欲動の固着は覆すことができる。二つの可能性があるのだ。主体が以前に拒絶した享楽の形態を今は受け入れるか、あるいは、主体はその拒絶を肯定するか、の二つがある。

抑圧はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の素朴な防衛手段である。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も本能支配のためにそれを利用しようとするのである。新しい葛藤は、われわれのいい表わし方をもってすれば「後抑圧」Nachverdrangungによって解決されるというわけである。《……しかし分析は、一定の成熟に達して強化される自我に、かつて未成熟で弱い幼児的な自我が行った古い抑圧の訂正を試みさせるのである。抑圧のあるものは棄て去られ〔欲動は主体によって受け入れられる〕、あるものは承認されるが、もっと堅実な材料によって新しく構成される〔欲動はより断固たる方法で拒絶される〕》。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』旧訳からだが、亀甲括弧〔〕内はPaul Verhaeghe and Frédéric Declercqによる註釈)

この過程は、抑圧と症状形成の過程にはもはや属さない拒絶を必然的に伴う。「一言で言えば、分析は抑圧を有罪判決condemnationに変えるのである。」(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』(少年ハンス)人文書院5 p273)

われわれが強調しなくてはならない事実とは、この主体の決断は、純粋な形での欲動にのみ関わるということだ。すなわち、そのような決断をすることが可能なためには、主体は直接的な方法で<対象a>に結びつかねばならない、分析過程において事態を成行きにまかせて純化の仕事を成就しなければならない。その意味するところは、まずは抑圧を取り除くこと、すなわち、症状から象徴的な要素を片づけ去らなければならない。従って、分析の手間を省いて直接に基礎的な原因、つまり欲動の根元に向かうことは不可能なのである。フロイトによるこの考え方への答は、オットー・ランクの提案への返答に見出すことができる。ランクの提案とは、出産外傷の原トラウマに直接に取り組むべきだというものだが、フロイトはそれに対し、「おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合に、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すことだけに満足する、といってことになってしまうのではないか」(『終りになき分析と終りある分析』人文書院6 P378)と答えている。

ラカン理論における現実界と象徴界のあいだの関係は、いっそう首尾一貫した観点を提示してくれる。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より鮮明な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar VII)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。精神病理学の症状とのこの類似性は、象徴界の星座の練磨を通してのみ欲動の現実界は現れるということだ。これが精神分析学が新しい主体を創造するという理由である。《われわれの理論は、自我の中に自然発生的にはけっして存在しえない状態、すなわち分析という操作を受けた人間と受けない人間とのあいだの本質的な相違が明らかにされるような状態を、新しくつくり出そうとする要求を掲げているのではなかろうか。》(『終りある分析と終わりなき分析』P387)(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq).2002)

※英原文は次を見よ→ 症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)

2015年9月23日水曜日

貴種流離譚変奏としてのフロイトエディプス理論

(フロイト理論というのは)ある場合は、経験から神話へと進行する、そして神話から構造へと。他の場合は、事実を説明するために神話が発明される。言い換えれば、(フロイトは)患者を診察するかわりに病人のように振る舞っている。(レヴィ=ストロース 『親族の基本構造』)

ーーこのように記すレヴィ=ストロースは、他方、『悲しき熱帯』にて、若き彼の二人の真の師としてマルクス、フロイトを掲げていることに注意しておこう。

…………

マルト・ロベールは、フロイトの「家族小説(ファミリー・ロマンス)」概念を元に「私生児」と「捨子」という類型を提唱したのだが、たとえばあらゆる作家はこの二類型に分類されるとしている(『起源の小説と小説の起源』)。これはいわば貴種流離譚の精神分析ヴァージョンであり、小説の分析ではなく物語の分析としては、実際のところ多くが当てはまる。村上春樹の小説などはその典型だろう。

蓮實重彦もその『小説から遠く離れて』にてマルト・ロベールに言及しているのだが(P.185)、マルト・ロベール=フロイトの「私生児」あるいは「捨て子」概念を援用した日本ヴァージョンの物語分析としてまずはよい。「まずは」、としたのは蓮實重彦はマルト・ロベールのような分析にはウンザリするといっており、『小説から遠く離れて』という表題は反語であり、物語/小説の対比がなされて後者の顕揚がなされるのがこの書のテーマだからだ。

とはいえ実際のところ日本の(すくなくともある時期の)名高い作家たちの作品は似たような物語構造に当て嵌まってしまう。

どこかに一人の男がいて、誰かから何かを「依頼」されることから物語が始まっている。その「依頼」は、いま視界から隠されている貴重な何かを発見することを男に求める。それ故に、男は発見の旅へと出発しなければならない。それが「宝探し」である。ところが何かがその冒険を妨害しにかかる。多くの場合、妨害者はしかるべき権力を握った年上の権力者であり、その権力維持のために、さまざまな儀式を演出する。儀式はある共同体内部での「権力の譲渡」にかかわるものであり、そこで譲渡されべき権力と発見される貴重品とは、深い関係にあるものらしい。そのため、依頼された冒険ははかばかしく進展しなくなるのも明白だろう。発見は、とうぜんのことながら遅れざるをえない。その遅延ぶりを促進すべく予期せぬ協力者が現われ、ともすれば気落ちしそうになる男を勇気づける。協力者は、同性であるなら分身のような存在だし、異性であれば妹に似た血縁者である。二人の協力者は、どこかしら近親相姦的な愛か、倒錯的な関係を物語に導入し、純粋な恋愛の成立をはばみつつ、貴重品の発見へと向けてもろもろの妨害を乗りこえることになるだろう。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』P250)

このように物語構造が洗い出されてしまった作品群は主に次ぎの七つの長篇小説だった。

村上春樹『羊をめぐる冒険』(1982)
井上ひさし『吉里吉里人』(1981)読売文学賞、日本SF大賞
丸谷才一『裏声で歌えよ君が代』(1982)
村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』(1980)野間文芸新人賞
中上健次『枯木灘』(1977)
大江健三郎『同時代ゲーム』(1979)
石川淳『狂風記』(1980)


…………

ところで貴種流離譚とは、捨て子であれ私生児であれ、私の親はいま私を養育してくれている親とは違う最も偉大な親だ、私は偉大な血統生まれなのだ、とまずは思い込む事態だろう。私生児であるなら、母から生まれた起源は否定しないまでも、父はどこか別の場所にいると空想された「貴人」なのだ、と思い込むことだ。

だがフロイトはこうも書いている、すなわち実際のところ、子どもは父の代替者を創造することはそんなに多くない、むしろ父をひどく高い場に置き直す、と(『ファミリーロマンス』)。

この置き換えは、父(あるいは母の場合もある)が疑いようもなく至高の権威であることを疑わなかった喪われた幼児期への憧憬の表現だ。

フロイトの原父の神話とは、実はファミリーロマンスのフロイトヴァージョンではないか。彼のエディプス理論は神経症の主体が構築する「家族小説」と似ている。疑いようもない父の権威の歴史的な支えをフロイトは幻想的に(神経症的に)作り出したのではないだろうか。

まだ若い頃のラカンは『les complexes familiaux(家族複合)』(1938)にて、当時の家族と社会における父の家父長的なイマーゴの下落が精神病理の主な原因であるとしている。彼は精神分析はこの危機から生まれたとさえ言っている。

この洞察を引き継ぎ、かつラカンの四つの言説理論を援用して、Serge Andre( “What Does a Woman Want? ”2000)は、シニカルなひねりを加えこう言う、《ヒステリーの主体は、主人の形象が必要である。これが精神分析を創作する手助けをした》と。

ラカンも後年(セミネールⅩⅦ)、エディプス理論はフロイトの夢である、と言っている。

Ce qui est clair c'est que… simplement à voir comment FREUD articule ce mythe fondamental : qu'il est véritablement abusif de mettre sous la même accolade qu'ŒDIPE… qu'est-ce que MOÏSE… foutre de nom de Dieu, c'est le cas de le dire ! …a à faire avec ŒDIPE et le père de la horde primitive ? …c'est qu'il doit bien y avoir là-dedans quelque chose qui tient du contenu manifeste et du contenu latent, que pour tout dire et pour conclure aujourd'hui, je vous dirai que ce que nous nous proposons, c'est de l'analyse du « complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD. (Lacan,Le Seminaire XⅦ)

夢、すなわち症状である。エディプス理論はフロイトの症状なのである。

だが症状であって何がわるいのか、ーーと記せば言い過ぎである。治療者としてのフロイトが患者にフロイト自身の症状を使って治療したらわるいにきまっている(次投稿に記す予定)。

だがラカンは『セミネール22』(RSI)にてこう宣言している、《症状のない主体はない》。もっともラカンの「症状」概念は後年変遷していることに留意しよう(参照)。

いずれにせよ、ラカン晩期のサントーム理論自体エディプス理論の再構成として捉えうる(「主体の解任destitution subjective」後の主人のシニフィアンS1構築とさえいってよい、参照)。とすればラカンのサントーム理論もラカンの症状ではないか・・・、だが我々には症状が必要なのだ、「ポワン・ド・キャピトン(クッションの綴じ目)」が(より詳細には《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ、である》(Séminaire XXIV)にかかわる、参照)。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがサントームである。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

この新しいシニフィアンはS1、あるいはΣとも記されるのだがーーミレールは”S of barred A as sigma”とさえしている、S(Ⱥ)の定義のラカンの変遷はあるにしろ(参照:「父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって」)、ある時期のこのマテームは、すなわち S(Ⱥ)=Σと読めるのだ(“Lacan's Later Teaching”)ーー、実のところ「父の名」の個人ヴァージョンなのだ。イデオロギー的父の名を取り払い(主体の解任)、新しく個人独自の父の名を構築するのがサントーム理論である(参照)。

実際、ミレール派の分析家からはこんな言葉さえ洩れている。

《父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ》(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”)

"普通の精神病"をテーマにしたパリの英語セミネールにての最も目を瞠る事例のいくつかにおいて、われわれはまさにこの過程を聞くことができた。すなわち、"彼自身の個人的神話の創造"、"〈大他者〉とのひとつの絆の創造"、"世界において交渉可能性を彼に与える象徴的な母体の創造"、"〈大他者〉の言説へ入り込むことを彼女に容認させること"、そして"ファミリーロマンスを構築"。実にサンブランへの〈大他者〉の全き脱実体化であり、それは精神病者にとっての新しい診断の俯瞰図であるだけでなく、治療における新しい可能性の地平である。(同Thomas Svolos,私訳)

ここでジジェクの主人のシニフィアンS1の思いがけない簡潔な定義を挿入しておこう。

主人のシニフィアンは、無意識のサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。

The Master-Signifier is the unconscious sinthome, the cipher of enjoyment, to which the subject was unknowingly subjected.(ジジェク『パララックス・ヴュー』)

ーーそもそもこの私には驚くべき定義がはたして正しいのかを探るために、S1やらΣやらS(Ⱥ)やらΦやら父の名やらの繋がりを調べだしたのだが、ひどく手間がかかった。

ただしおかげで今では次ぎのような文に巡り合っても驚くことはなくなった。

タトゥー(刺青)は身体との関係における父の名になるだろう。(J.-A. Miller: Effet retour sur la psychose ordinaire. Quarto94-95, 2009

…………

さて、ここで「偽装された自叙伝」としても読めるフロイトの『夢判断』からぬき出しておこう。彼は名高い「ローマの夢」の記述のあと、次ぎのように書いている。

……ハンニバルは私の少年時代の大好きな英雄だった、少年の誰でもそうであるように、私もカルタゴ戦争のあいだローマの戦士たちではなく、カルタゴの英雄に心を惹かれていた。さて上級生になって自分が異人種の血を引いているといいうことのもたらすいろいろの結果がわかりはじめ、また同級生間の反ユダヤ的な感情を見て、これはぼんやりしていられないぞと思いはじめるときがきてからは、このユダヤの英雄はますます偉いものに見えてきた。青年時代の私には、ハンニバルとローマとは、それぞれユダヤ人の頑張りと旧教教会の組織との象徴のごとくに思われた。爾来反ユダヤ運動がわれわれの情意生活に対して持っている意義は、幼少時代の思念や感情を固定せしめた。かくしてローマを訪れたいという願望は、私の夢の生活にとってはその他いろいろの烈しい願望の仮面かつ象徴となったのである。そして私はそういう数々の願望の実現にはかのハンニバルのごとき忍耐と専心とをもって当らなければならず、また、それらの願望の充足は、ローマに進駐したいというハンニバル畢生の願望のごとく、時には運命の恵みを享けることのまことにすくないもののように思われるのである。

さて今にしてようやく私は、すべてこれらの感情や夢のうちに今日もなおその威力を示している少年時代の一体験に到達するのである。

十歳か十二歳かの少年だったころ、父は私を散歩に連れていって、道すがら私に向って彼の人生観をぼつぼつ語りきかせた。彼はあるとき、昔はどんなに世の中が住みにくかったかということの一例を話した。「己の青年時代のことだが、いい着物をきて、新しい毛皮の帽子をかぶって土曜日に町を散歩していたのだ。するとキリスト教徒がひとり向うからやってきて、いきなり己の帽子をぬかるみの中へ叩き落した。そうしえこういうのだ、『ユダヤ人、舗道を歩くな』」「お父さんはそれでどうしたの?」すると父は平然と答えた、「己か。己は車道へ降りて、帽子を拾ったさ」 これはどうも少年の手をひいて歩いてゆくこの頑丈な父親にふさわしくなかった。私はこの不満な一状況に、ハンニバルの父、ハミルカル・バルカスが少年ハンニバルをして、家の中の祭壇の前でローマ人への復讐を誓わせた一場、私の気持にぴったりする一情景を対置せしめた。爾来ハンニバルは私の空想中に不動の位置を占めてきたのである。(フロイト『夢判断』上p254 新潮文庫 高橋義孝訳)

《爾来ハンニバルは私の空想中に不動の位置を占めてきた》、--ここにエディプス理論の起源のひとつがあるに相違ない。


(つづく)


2015年6月16日火曜日

Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる)

以下、資料(私訳)の列挙。

ーー個人的には、現状、わたくしのやや政治的に偏ったサントーム理解(最晩年のラカン理論)の決定版(臨床的には、「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」やそこにリンクされてる先を見よ)。

※より基本的なサントーム理解としては、「ラカン派の二種類のサントーム・症状」にいくらかのまとめがある。


【Lorenzo Chiesaによるミレールのサントーム吟味】

◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007より

結びとして、私は、サントームにかんする二つの示唆に富む問いにコメントしたい。第一にHoensとPluthの 『The sinthome: A New Way of Writing an Old Problem』によるもの、次にミレールのセミネール『The Six Paradigms of Jouissance』に見出されるものである。どちらの場合も、筆者は慎重に、彼らの問いを放ったままにしている。それはおそらく、我々はラカンの仕事において結論づけられていないままのものに直面していることを示している。そしてフロイトの精神分析のラカン自身による再生のさらなる再生を駆り立てるものだ。

HoensとPluthから始めよう。彼ら問う、「どんな観点から、父の名はサントームと同じものだと見なすことができるだろうか?」と。我々がセミネールVIIを分析するときに既に見てきたように、1950年代後半のラカンにとって、「父の名Nom-du-Père」は、排他的に、禁止の「父の否Non!-du-Père」であることを止める。

事実、神経症の標準的な状況では、父の名は、それが機能しなければ引き起こす破壊的な享楽を、症状を通して統整するin the standard situation of neurosis, it also allows the regulation of an otherwise destructive jouissance through the symptom。その「否」を、我々は(イデオロギー的に仮装して)享楽する。そこで享楽するのは象徴界に穴を開ける欠如である。ラカンがジョイスについての後期のセミネールにて、さらに示唆しているようにみえることは、「引き金をひかれていないnon-triggered」精神病の場合では、この同じ統整ーーそれは主体を社会的領野に住むことを可能にするものだがーーが、究極的にサントーム自体によって実現されうることだ。
言い換えれば、〈他者〉の斜線化ーー構造的欠如の出現ーーに従った「父の名」の相対化は、究極的に二つの補足的な結果を伴う。それが症状にかかわる限りで、だが。

一方で、父の名はそれが事実上コンピタンスcompetenceの外部に横たわった場を占める限りーーというのは、欠如は現実界の領野に属するのだからーー、父の名はそれ自体、症状として捉えられる(故に、ラカンはセミネールXXIIIにて、「エディプスコンプレックスはそれ自体、症状である」と言っている)。

他方、「享楽を方向づけ組織しようとするものは何もかも」制御行動を行う。それはふつうは「標準的な」父の名によって成し遂げられるものだが、父の名が正しく機能しないなら、なにか他のものが必要だ。

ジョイスの父の隠喩には欠陥があった。すなわちそれは作者によって補わなければならない。このように「ジョイスJoyce」という名は、文字通り〈他者〉における欠如の独自のプレイスホルダplaceholderを具現化している。そしてエクリチュールの独特の仕方によって、父の隠喩の欠如を補足するのだ。

ミレールについては、彼は我々に思い出させてくれる、ラカンの後期の仕事で、ラカンはしばしば、精神分析の治療の終わりは、症状と「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」の用語にて理解されるべきだと言ったことを。

ミレールは、こうして次の問いに導かれてゆく、「症状のノウハウは、反復の終了をもたらすのか、それとも反復の新しい作法をもたらすのか?」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私はここで指摘しなければならない。ミレールにとって、上記の二者択一ともに、ア・プリオリに根本的幻想を除外してしまっていると。というのは、彼は奇妙にも 「反復として考えられた」享楽と「幻想として考えられた」享楽とを対照させているからだ。さらにもっと思いがけないのは、彼は、「症状のノウハウ」と「根本的幻想の横断」とを対照させている。後者は、次のように定義される、たんなる「逸脱、分析において手掛けられる逸脱…空虚に向かう、あるいは主体の解任に向かう招き」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私が考えるに、これらの鋭い対照化はひどく疑わしいし、十分に議論されていない。例えば、私は驚いてしまうことは、ミレールは躊躇なく、(反復される、あるいは反復されない)症状の仮説を、精神分析の終わりとして提案しているのだが、それは、症状は、主体の解任が起きなければ、定義上、イデオロギー化されたものだという事実を問題視しないままなのである。

しかしながら、ミレールの問いはひどく興味深いままであると私は信じている、もし人が次のようにその問いを再構成したら、である。すなわち、根本的幻想を横断した後ーーその横断とは、症状の非イデオロギー的ノウハウにとって必要不可欠な前提であるーー、主体は新しい根本的幻想を作るのだろうか? と。言い換えれば、サントームによって齎された欲望することの新しい方法は、根本的幻想(その新しい必要不可欠に反復する運動)を含むのだろうか、それとも除くのだろうか、と。

私の見解では、もしサントームが(根源的に新しい)根本的幻想の形成物を除くならば、そのとき、ラカン自身の仕事、その基礎における正確な地位を明瞭化をすることが、ひどく困難になるだろうということだ。この場合、いかにサントームを定義するのか、象徴界と現実界ーー後者に傾くものとしてーーのあいだの関係の(非精神病的な)ひっくり返し以上のなにかもっと正確なものとして定義しえないのではないかと思う。それは、すなわち、「逆転させた」昇華、あるいはミレール曰く、「まさにリアルなままである象徴界」である。

さらにまた、この新しい種類の象徴的同一化の政治的含意について何を言うべきだろうか? 率直に言うなら、現存する支配的な主人のシニフィアンとの妥協から離れてーージョイスはたしかに彼が書くようには話さなかった…ーー、いかにサントームは互いにコミュニケーションするのか、もし、個人による現実界の名づけのレヴェルで、共通の幻想的背景がないのなら。

言語の全きサントーム的な存在による仮説上の社会ーー言語のファルス的存在に対してーー、この社会は避けがたく象徴界の断片化が起き、多数の象徴界に分裂し、究極的には全き終焉に向かうのではないか?

他方、もしサントームが新しい根本的幻想の形成を含んでいるのなら、そしてミレールが言ったように「反復の新しい作法」が真の原初的な根本的幻想ーー根源的に革新的である主人のシニフィアンの不可避の対応物ーーの顕現に相当するのなら、そのとき、人は、「無を享楽するjouis-sans」というラカンの倫理の遺産を正当にも相続し得る政治のアウトラインを明瞭に理解するだろう。

精神分析のコミュニティそれ自体は、政治的アバンギャルドではない。ラカンの精神分析は特定の主人のシニフィアンを奨励しはしない。しかしながら、精神分析がはっきりと意図していることは、その倫理に適合した新しい主人のシニフィアンのための道を歩むことである。

さてここで、結論をいう前に、いくつかの重要な点を振りかえってみよう。象徴構造が普遍的であるのは、特定の偶発的主人のシニフィアンーー根本的幻想を支配する主人のシニフィアンを通してのみである。その限りで、主体の遭遇、イデオロギー化された根本的幻想の底にあるリアルな欠如との主体の遭遇は、普遍性における欠如を想定することを主体に余儀なくさせる。

逆に、欠如の再象徴化は、定義上、つねに個別性のレヴェルで成し遂げられる。より正確に言うなら、これは主体が、もし普遍性があるのなら個別性が必要だと悟る特別な瞬間以外の何ものでもないーーその限りで、個別性は個人性に変わる。この決定的な段階で、主体のとる道は二つある。

(1) 彼自身の名になること。彼自身のサントームを開発すること。それは支配的な〈他者〉と共存しつつ、である。この解決法は、避けがたく、支配的な世界の無分別senselessnessとのある妥協を意味する。普遍性は個人に依拠するという認識の漸進的な縮小を意味する。そのような再疎外は、精神分析的治療を通した、新しい根本的幻想の横断を定期的に経ることによってのみ取り除かれうる。

しかし人はすぐに悟るだろう、これは、倫理と政治のすっきりした分離を自動的には意味しないことを。実際、ラカン派の精神分析治療を経て、倫理的に象徴秩序の非一貫性・無を享楽することjouis-sansを当然のことと決めてかかる人びとの増加は、必然的に政治的勢力ーー欠如を覆い隠すことを元々は目的としていない勢力の成功の機会を増やすだろう。

(2)運動を名づけること。新しい象徴界を奨励することーーそれは個人の主人のシニフィアン/サントームを通して再象徴化されたものであるーー。そしてヘゲモニーを確立するために政治的な闘争をすること。

これは明らかに上の(1)を前提としている。例えば、マルキシズムは、マルクスが最初にジョイスの様式で、彼自身の名を作ったことを前提としている。言うまでもなく、そのような享楽の直接的政治化は、そこで設立される根本的幻想が根源的に新しい場合にのみ、ラカン派の精神分析と一致する。

言い換えれば、主人のシニフィアンが革新的で、結果として闘うに値するのは、唯一、象徴界におけるリアルな欠如、無を享楽するjouis-sansことの一時的な想定に従ってのみである。今ここでのみ導き入れた錯綜した問題の過-単純化の危険を冒して、私は敢えてこう提案しよう、無からex nihiloの過激な倫理のどんな可能なる政治的エラボレーションも、「何が新しいか」そして「何が善か」のあいだの方程式に依拠すべきだ、と。


【主人のシニフィアンとは?】

以下、ジジェクは〈主人のシニフィアン〉の否定的側面も含めて叙述している。だが、上のLorenzo Chiesaはその肯定的側面の強調である(より基本的な定義は、「「主人のシニフィアンと統整的理念」を見よ)。

〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。大学のディスクールは、この判読可能性を、定義によって支える知のネットワークを詳述するわけだが、その言説は、当初の〈主人〉の仕草を前提条件とし、それに頼っている。〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。

ドイツにおける1920年代の反ユダヤ主義について考えてみよう。人びとは、混乱した状況を経験した。不相応な軍事的敗北、経済危機が、彼らの生活、貯蓄、政治的不効率、道徳的頽廃を侵食し尽した……。ナチは、そのすべてを説明するひとつの因子を提供した。ユダヤ人、ユダヤの陰謀である。そこには〈主人〉の魔術がある。ポジティヴな内容のレベルではなんの新しいものもないにもかかわらず、彼がこの〈言葉〉を発した後には、「なにもかもがまったく同じでない」……。たとえば、クッションの綴目le point de capitonを説明するために、ラカンは、ラシーヌの名高い一節を引用している、「Je crains Dieu, cher Abner, et je n'ai point d'autre crainte./私は神を恐れる、愛しのAbner よ、そして私は他のどんな恐怖もない。」すべての恐怖は一つの恐怖と交換される。すなわち神への恐怖は、世界のすべての出来事において、私を恐れを知らなくさせるのだ。新しい〈主人のシニフィアン〉が生じることで、同じような反転がイデオロギーの領野でも働く。反ユダヤ主義において、すべての恐怖(経済危機、道徳的頽廃……)は、ユダヤ人の恐怖と交換されたのだ。je crains le Juif, cher citoyen, et je n'ai point d'autre crainte. . ./私はユダヤ人を恐れる、愛する市民たちよ。そして私は他のどんな恐怖もない……。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)
バディウは時折、"正義"を主人のシニフィアンとするように提案する。"自由"や"民主主義"のようなあまりにもひどくイデオロギー的に意味付けられ過ぎた概念のかわりにすべきだというものだ。しかしながら正義についても同様な問題に直面しないだろうか。プラトン(バティウの主要な参照)は正義を次のような状態とする、すなわちその状態においては、どの個別の決断も全体性の内部、世界の社会秩序の内部にて、適切な場所を占めると。これはまさに協調組合主義者の反平等主義的モットーcorporatist anti‐egalitarian mottoではないか。とすれば、もし"正義"を根源的な束縛解放を目指す政治の主人のシニフィアンに格上げしようとするなら多くの補足的な説明が必要となる。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012ーー「神の二度めの死」=「マルクスの死」

…………

【ジジェクによる二つのミレール(政治的)批判】

◆LESS THAN NOTHING(2012)より

1、CHAPTER 9 Suture and Pure Differenceより

ミレールにとって(彼はここでラカンに従っている)、不安は、我々を騙すことのない唯一の情動である(フロイトがすでに言ったように)。この意味は、〈大義〉のためのどの(政治的)熱狂も、想像的な誤認の要素だということだ。ミレールは、この最近の数年、ことさら主張しているのだが、政治は、想像的あるいは象徴的同一化の領野であり、それ自体イリュージョンだと。

このような立場は、必然的に、ある種の冷笑的悲観主義に終わる…。すなわち全ての集団的熱狂のアンガーシュマンは屑に終わる。真理は、悲壮な誠意の自己盲目的行動において、瞬時のあいだのみ経験されるだけである……。

こういった瞬間は永遠に維持できはしない。だから我々に出来る唯一のことは、「(社会的)ゲームをする」ことだけだ、と。政治的行動は、究極的にイリュージョンの単なる遊戯でしかないと気づきつつ。

バディウは、我々を、この高尚化された悲壮な冷笑主義から抜け出すことを可能にしてくれる。すなわち、熱狂は、不安よりも、すこしも「真正」でないわけではない、と。集団的な政治のアンガーシュマンは、その事実だけで、想像的誤認であるわけではない。

この相違は、今日、全く決定的である。政治的な死と生の相違であり、支配的なポスト政治的な冷笑主義への是認と、ラディカルな解放運動のための勇気の集結のあいだの相違である。


2、Conclusion: The Political Suspension of the Ethical

分析過程の最後の瞬間の新しい概念に依拠して、ミレールは「道具的理性(目的合理性)批判critique of instrumental reason」の単純化されたヴァージョンを展開する。そこではデモクラシーの文化とレイシズムのあいだの繋がりが打ち立てられる。

すなわち、我々の時代は、普遍的な科学的理性を特権化する。その理性とは、数学的に定量化された言明のみを認める。その言明の真の価値は、特異な主体の立場に依存することはない。この意味で、普遍性と平等主義-民主主義的な熱意は、科学的言説のヘゲモニーの結果である。しかし、もし我々が科学的理性の有効性を社会的領野に拡大するなら、その結果はあやういものである。普遍化への熱意は、我々をなによりも優れたものとしての享楽の普遍的モードの探求へと向かわせる。それに反抗する者たちは「野蛮人」として不適格者の烙印をおされる。

《このようにして、科学の進歩のせいで、レイシズムは明るい未来をもっている。科学によって提供される差別discriminationsが洗練されればされるほど、我々は社会における分離segregationを獲得する》(Nicolas Fleury, Le réel insensé: Introduction à la pensée de Jacques‐Alain Miller)

この理由で、精神分析は現在、攻撃にさらされている。精神分析は各個人における享楽のモードの独自性に焦点を当てる。その独自性とは、科学的普遍化に抵抗し、かつ民主主義的平等主義にも同様に抵抗する。

《民主主義による平準化はとてもすばらしい。だがそれは例外のエロティシズムの代替とはならない》(Jacques‐Alain Miller, “La psychanalyse, la cité, les communautés,” La cause freudienne 68 (February 2008))。

人は認めなければならない、ミレールが大胆不敵にも、主体における享楽のモードの特異性へのこの固執の政治的含意を明らかにしていることを。すなわち精神分析が《暴露するのは、社会的理念は、見せかけsemblancesの性質のなかにしかないということだ。そして我々はつけ加えることができる、それは享楽の現実界であるところの現実にかかわる見せかけ(サンブラン)だと。これはシニカルな立場である。というのは、享楽のみが唯一真実なものであると言っていることになるのだから》(同ジャック=アラン・ミレール)。

これが意味することは、精神分析家はイロニストの立場を占めることだ。政治的領野への介入には関知しないと。精神分析家は見せかけが彼らの場に残ったままで行動する。他方、彼の世話のもとにある主体が、見せかけを現実なものとしては取らないように気をつける…。人はともかくも見せかけに囚われた(騙された)ままでいるべきだ、と。

ラカンは言った、《騙されない者は間違える》と。すなわち、もし人が、見せかけがあたかも現実的なものであるかのごとく振舞わなければ、かつまた、もし人が、その見せかけの有効性に煩されないままなら、事態はさらに悪化するということだ。すべての権力の記号はたんなる見せかけであり、主人の言説の気まぐれに依拠していると考える者は、ぐれた連中bad boysだ。彼らはいっそう疎外される(Fleury, Le réel insensé)。

そのとき、政治に関して、精神分析家は《なんの提案もしない。彼はそれをし得ない。ただ他者の提案をあざ笑うことのみ可能だ。それは精神分析家の見解の視野を限定する。イロニストはなんの偉大な企図ももたない。彼は他者が最初に話すのを待っている。そして可能なかぎりすばやく他者の落度を指摘する…。言わせてもらえば、これが政治的英知だ、それ以上のものはない》(Miller, “La psychanalyse, la cité, les communautés)

この英知の金言はかくの如し。

人は権力の見せかけを保護すべきだ、人が享楽しつづけることが可能でなければならないというもっともな理由のために。要点は、既存の権力の見せかけにへばりつくことではない。そうではなく、見せかけを必要不可欠なものとすることだ。《これは冷笑主義を定義する。ボルテールの様式のシニシズムである。彼は、神は我々の発明、人びとを礼義正しく保つために必要不可欠な発明であると理解していた》。社会はただ見せかけによってのみ束ねられる。《その意味は、抑圧のない社会はない。同一化のない社会、そしてとりわけ慣例のない社会はない。慣例は本質的である》(Fleury, Le réel insensé, (quotations from Miller))。

こういうわけで、結果は冷笑主義的リベラル保守主義である。すなわち、安定性を保つために、人は、つねに気まぐれかつ権威主義的な選択で確立された慣例を尊重しそれに従わなければならない。《持続するどんな革新主義もない》、むしろ個別の快楽主義、《享楽の自由主義》と呼ばれるたぐいしかない。人は、慣習の規範、その法と伝統を損なわないようにしなければならない。人は受け入れなければならない、ある種の蒙昧主義は、社会秩序を維持するために必要不可欠なことを。《人が問うべきはない問題がある。もしあなたが社会の亀をひっくり返して背中を下にしたら、あなたはふたたびもとに戻って社会をかぎ爪で引っ掻くことに決して成功しないだろう》(Fleury, Le réel insensé, (quotations from Miller))。

ミレールのシニカル快楽主義者の考え方、主体は象徴的見せかけsemblances(理想、主人のシニフィアン、ーーそれなしでは、どんな社会もばらばらになってしまう)の必要性を認めつつ、それから距離を取り、それらは単に見せかけに過ぎないこと、そして唯一の現実界は身体の享楽であるに気づくという考え方に対抗して、我々は強調すべきだ、《自ら享楽し、他者が享楽するに任せる》という姿勢は、正当的な個人の特異性の領野を開く新しいコミュニスト秩序のみにおいて可能だと。《不適任者、変わり者のユートピア、そこでは、均一化の体制への順応の束縛が取り除かれ、人間は自然な状態の植物のように野生的に成長する…もはや新しい抑圧の社会によって足枷を嵌められることなく、彼らは、神経症に、強迫症に、妄想症に、パラノイアや分裂病に咲き乱れる。我々の社会は彼らを病気と見なすかも知れないが、真の自由の世界として、「人間性」自体の動植物の繁茂を取り戻す》Fredric Jameson, The Seeds of Time, 1994)。

ーーというわけで「新しいコミュニズム」という主人のシニフィアンがいやなら(参照:ユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち)、われわれは別のシニフィアンを探さなければならない。もちろん、たとえば柄谷行人=カントの「世界共和国」もその試みだったが、十分に機能するところまではいっていない。

主人のシニフィアン? それがいかにもラカン派的すぎるなら、「言葉を探せ!」ということだ、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるような言葉を。

…………

ラカンはEncore pp.20-21 で次ぎの詩に言及している。
À une Raison Rimbaud

Un coup de ton doigt sur le tambour décharge tous les sons et commence la nouvelle harmonie.

Un pas de toi, c'est la levée des nouveaux hommes et leur en-marche.

Ta tête se détourne : le nouvel amour !
Ta tête se retourne, - le nouvel amour !

"Change nos lots, crible les fléaux, à commencer par le temps" te chantent ces enfants. "Elève n'importe où la subtance de nos fortunes et de nos voeux" on t'en prie.

Arrivée de toujours, qui t'en iras partout.

※参照:ある理性に:イリュミナション






2015年4月18日土曜日

ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって

後期ラカンは、ラディカリズムを放棄し、精神分析の治療法をひどく穏健な方法にて捉え直した。「人は真理のすべてを学ぶ必要はない、僅かで充分だ。」(Lacan, “Radiophonie,”)ここではラディカルな"限界経験"としての精神分析の考え方が拒絶されている。「人は分析をあまりに遠くまで押し進めるべきではない。患者自身が生きていくのに幸福だと思えば、それで充分である。One should not push an analysis too far. When the patient thinks he is happy to live, it is enough」(Lacan, “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))

なんと遠くにわれわれはいることだろう、アンティゴネの英雄的な試みーー禁じられたate(迷妄)の領域に入り込み"純粋欲望"を獲得しようとする試みから! 精神分析の治療は、いまや主体性のラディカルな変質ではもはやなく、局所的な糊塗patching‐up なのであり、それは長期間の跡づけさえ置き去りにするleave any long‐term traces(この見解の流れのなかで、ラカンは次の無視されている事実に注意を促している。すなわち、フロイトが鼠男の治療後数年経って彼に再会した時、鼠男は完全にフロイトの治療のことを忘却していた事実に)。

このよりいっそう穏健な取り組みは、後期ラカンに照準を当てたジャック=アラン・ミレールの読解において、余すところなく明瞭に言い表されている。晩年のセミネールで、ラカンは、精神分析過程の締め括りの節目である"幻想の横断"概念を置き去ってしまう。その場所に、ラカンは全く反対の振舞いを導入する、すなわちサントームと呼ばれる究極の分析不能な障害を受け容れることを。症状が、解釈を通して解消される無意識の形成物であるなら、サントームは、"分割不能な残余"であり、それは解釈と解釈による溶解に抵抗する。サントームとは、最小限の形象あるいは瘤であり、主体のユニークな享楽形態なのである。このようにして、分析の終点は"症状との同一化"として再構成される。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

「人は分析をあまりに遠くまで押し進めるべきではない。患者自身が生きていくのに幸福だと思えば、それで充分である。One should not push an analysis too far. When the patient thinks he is happy to live, it is enough」(Lacan, “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))とある。

これは原文では、《Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.》 (Scilicet 6/7, p.15)である。やや穏やかに「分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体analysantが自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ」とするべきか(分析主体とはラカン派では患者のこと)。

…………

上の文に書かれていることは異なった見解もあるだろう。ただジジェクが2012年の時点で、あのように書いており、ミレールもそういっているらしいことを示しただけである。その議論の正否は専門家の方々が判断したらいいことだ。ただ、現代のミレール派はどうやらこの線らしいことは、「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」などでみた。


ここでは、一部のラカン派にて、分離やら「主体の解任destitution subjective」、あるいは症状(現実界の欲動)との同一化が精神分析の終わりといわれることがあるが、仮に分析を徹底的に押し進めるにしてもーージジェクの見解に反して、前中期ラカンの立場ととるにしてもーー、この「主体の解任」は必要条件であり、必要十分条件ではないだろうことを示しておく。

症状との同一化の創造的効果…この同一化は特殊な内容に属してる。(……)

「欲動の現実界real of the drivesとの同一化」という考え方は、文字通り取られ得ないかもしれない。というのは、欲動は主体にとって異物のままであるから。欲動、あるいは対象aは、トラウマ的特性を保有している。ラカンは、症状から距離を取ることを強調して推奨した、「症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ、である」(Séminaire XXIV)。これが新しいシニフィアンの機能である。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.ーー「ラカン派の二種類のサントーム・症状」)

以下は、四年近くまえの松本卓也氏のツイートである。

@schizoophrenie 2011/12/10 神経症,精神病,倒錯はどう頑張ってもお互いに行き来できない.神経症の「治癒」は幻想の横断と主体の脱解任によって生じ,精神病の「治癒」は妄想形成か補填によって生じるのであって,構造は死んでも変わらない,というのがラカン派のセントラルドグマです.(松本卓也

おそらくここにある「主体の脱解任」は主体の解任から脱するという意味なのだろうと憶測する。それが、《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ、である》(Séminaire XXIV)なのだろう。

“En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.” J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 12/13, 1977, pp. 6-7

そもそも「主体の解任」とは、神経症領域にあるものが精神病的になってしまうことではないか、としばらく思案していたのだが、漸くそのような見解を示す文に昨晩巡りあった。

分析の終りとして後期ラカンの仕事によって提唱されたサントームとの同一化(自らのリアルを名付けることとしての)は、決して永久的な主体の解任、精神病的な象徴界の無-機能になることではない。(Lorenzo Chiesa)

これは、ジジェク編集の『Lacan: The Silent Partners』(2006)のなかの論文(Lorenzo Chiesaによる「Lacan with Artaud」からである。




…………


以下は、昨年からツイッター上で「ツイッターセミネール」をしているラカン派の小笠原晋也氏の主体の解任(氏は「主体滅却」 destitution subjectiveとの訳語を与えている)をめぐる発言である。これは安易に読むと誤解を与える言明に満ち溢れているが、肝腎なのは、黒字強調した文であるはずだ(これは半年以上にわたる彼のツイートから”destitution subjective”をめぐる発言の大半を拾ったものである)。

精神分析は,自我無き主体を成起せしめることを目ざす,という意味のことを Lacan は 1953-54 年に既に言っています.それは,imaginaire としての a を純粋な穴としての a へと滅却することとして最終的に公式化されます.

そのことを Lacan は 1967 年に主体滅却 destitution subjective と呼んでいます.それは,ex-sistence 解脱実存そのものとして存有することであり,要するに「解脱」と呼び得るものです. 
自我理想も,signifiant a の一形態です.死の本能,攻撃本能が仮象 a を破壊することによって aliénation の構造が解体され得る.このことが,後の Lacan の主体滅却 destitution subjective の概念の種となりました. 
何が『無意識の位置」』の書において重要かと言うと,まさに séparation の概念です.séparation は 1967 年に destitution subjective と命名し直され,精神分析の終わりにかかわる概念となります.言い換えると,Lacan が精神分析の終わりを初めて規定することができたのは,séparation の概念を以てです.

séparation と destitution subjective の概念無くしては,精神分析は Freud が言ったように,unendlich に,際限無く続けざるを得ないことになります. 
父の名に話を戻すと,1973-74 年の Séminaire Les non-dupes errent において Lacan は,父の名との関連において nomination の概念を提示します.nomination は「命名」だけでなく「任命」です.

つまり,nomination は destitution 「罷免」の逆です.罷免と分離に次いで,φ barré に新たな名 a を与えること.それは,無からの創造としての sinthome : 症状,聖状,聖人の概念へとつながって行きます
精神分析の終わりの必要条件は,Lacan が『École の分析家についての1967 年 10 月 9 日の提起』において destitution subjective と呼んだものです.

destitution は constitution の 反 意 語 で す . Lacan は 実 際 , ま ず は constitution du sujet について問いました.

主体は如何に定立されるのか?その答え:主体は aliénation として定立される.

つまり,aliénation の構造,異状の構造 a/φ barréが,主体の consititution, 主体の定立の構造です.

destitution subjective という Lacan の表現をわたしは「主体の滅却」と訳していますが,その訳は残念ながら destitution という語の意義を十分には表現していません.先ほど constitution を「定立」と訳しましたが,それも理想的な翻訳ではありません.

constitution は,或る者を或る役目に就ける,任命する,ということです.辞書の例文では,或る弁護士を自分の代理人に任命する,というときにconstituer という動詞を使います.

それに対して destitution は,解任,罷免です.解任,罷免は,当然,何らかの重要な役目,高い職位に就いていた者をその地位から降ろす,ということを含意しています.

destitution subjective は,構造 a/φ barréにおける能動者の座,支配者の座に位置する signifiant a — その場合,signifiant a は,同一化の徴示素であり,自我理想です — をその座から追い出す,分離する,ということです.

主体は,自我理想としての signifiant a との同一化において,主体として異状的に定立されています.その同一化は,症状を成す同一化でもあります.

そ の よ う な 主 体 の 異 状 的 同 一 化 を 解 体 す る こ と , そ れ が destitution subjective, 主体滅却です.

小笠原晋也氏のようにマテームを多用してラカン理論を説明する立場(とくに死の欲動≒享楽、小笠原用語であるならφ barré)へのジジェクによる批判を附記しておこう。

サントームはマテームと対立させるべきだ。どちらも"自然と文化のあいだ"、意味のないデータと意味のあいだの謎の空間に属しているとはいえーーその二つは両方とも、前-記号的、意味の領野の外にあり、かつまたシニフィアンであり、それ自体ポジティヴなデータの無意味な織物に帰し得ないとはいえ、ーー"サントーム"は、Eric Santnerが"生の過剰"と呼ぶものを固定/登録する最小限の形式の名である。ひとつのサントームは、享楽の過剰を圧縮したひとつの形式なのであり、この領野ははっきりとマテームにおいては欠けている。マテームの典型的な事例とは、数学的に形式化された科学的表現であり、マテームはどんなリビドー的注入も意味しない。それはニュートラルであり、脱主体化している。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012)

とはいえ、ミレールの直弟子であった小笠原氏はときにすばらしい情報を与えてくれる。

Jacques-Alain Miller はしばしば [ A / J barré ] という学素を黒板に書いていました.

おそらく「斜線を引かれた享楽J barré」とは、死の欲動と捉えうるものだろう。


「アンコール」における「サントーム」の図

さて、この図の対象aがサンブランとされていることをどう扱うべきか。対象aは現実界ではなかったのか? それは、「Pure Psychoanalysis,Applied Psychoanalysis and Psychotherapy」に上の簡略図を掲げて、ミレールのいささか苦しげな説明があるが、いまはそれに触れるつもりはない。ただ図とその前後の文章だけ英訳のまま掲げておこう(ミレールさえこうなのだから、シロウトはラカンに安易に近づくべきではないと言っておくべきか、--すなわち私のようなシロウトは?)

the term objet a is one which calls the status of real into question. When one reads Lacan too fast - even if one tries to slow one's reading - there's a shock of perceiving that, in Chapter VIII of Encore, he downgrades objet a from the register of the real.





It is truly here that we see the preparation of this breakthrough that the later Lacan was orchestrating. The triangle is oriented by its vectors and it is on the vector that goes from the symbolic to the real that objet a is inscribed, precisely as a semblance.

I emphasized this formerly, I should say without success, because everyone held absolutely that objet a was real. Everyone insisted on the miraculous metaphor of knowledge in the real. While Lacan indicated that objet a was rather on the side of being than of the real. He even qualified it as semblance of being, and he noted that objet a itself, this still latent referent which could take the place of supposed knowledge, cannot be supported in the approach of the real.


※わたくし自身はこの対象aの取扱いを、『ジジェク自身によるジジェク』(“Conversations with Žižek Slavoj Žižek, Glyn Daly” 2004)によっておそらく初めて表れた(わたくしの知っている限り、である)、real Real, symbolic Real, imaginary Realの三つの現実界に近づけて読みたい気がするのだが、それはただ気がするだけである。

…………

※附記

基本的には、最近のミレール派(フロイトの大義派)のスタンスは次のようなものらしい。

ミレールは 2000-2001 年のセミネールにおいて、ラカンの教えを三つの時期に分けた。ラカンの体系の区分は研究者によって異なるが、ミレールは前期をセミネール 1 から 10までの時期(1953-1963)、中期をセミネール 11 から 21 までの時期(1964-1974)、後期を「第三の女」とセミネール 22 から 27 までの時期(1974-1980)とした。そして、翌年のセミネールにおいて、 それぞれの時期に対応するものとして、 「ラカンの三つの臨床」を提示している。ラカン第一臨床は「同一化の臨床」、ラカン第二臨床は「幻想の臨床」、ラカン第三臨床は「サントームの臨床」とされている。(赤坂和哉『ラカン的臨床への助走』)

小笠原氏の考え方はかくの如し。

Jacques-Alain Miller は,Lacan の教えをその時間的な展開において区切って整理しようとします.そのような考え方は「最晩年の Lacan」という Miller の表現にも表れています.それはひとつの解釈です.わたしも大いに助けられました.

しかし,今はわたしはむしろ,Lacan の教え全体を chronologique な発展の観点においてではなく,ひとつの一貫した構造として捉えたいと思っています.(小笠原晋也ツイート)

…………

※追記


なお、上に引用した赤坂和哉氏の『ラカン的臨床への助走』には、第二臨床「幻想の臨床」について書かれている箇所に、ラカンを引用しつつ、主体の解任の説明がある。

次に「幻想の臨床」を見ていこう。幻想の臨床とは、幻想を横断し、欲動に直面することである。もう少し言葉を足そう。幻想は、主体において主体の分割を覆い、自分の欲望が何であるかを知っていると想像させる。しかし、幻想の横断において、空の対象aとの出会い ... を通して、 主体は大文字の他者とは欠如においてしか関係を持たないことを体験し、 彼の欲望に関する確信は揺らぐことになる。この経験によって、幻想は失墜し、主体は解任される

「その作用において精神分析主体を支えてきた欲望が解消されてしまうと、彼は最後にはもはや欲望の選択、すなわち欲望の残余を格上げしたいとは望まなくなる。この残余とは、彼の分割を決定づけているものであり、彼の幻想を失墜させ、主体である彼の地位を解任する」(Lacan , Proposition du 9 octobre 1967 sur le psychanalyste de l'Ecole. Autres écrits)

この臨床では、主体の象徴化の残余を分析していくのであるが、そこで対象となる主体は、対象aが主体の現実的な一要素であるという意味において(Le Séminaire, Livre VI)、対象aとしての主体と言うことができよう。

この見解についても、下に、ヴェルハーゲの対象aの捉え方を示す文章を並べておこう。

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、《象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外ー存在するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動》である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

《純粋な形での対象a、もしくは欲動》=《純化された症状》ということになるが、この純粋な形での対象aという表現と似たようなものは、すでに『セミネールⅩⅠ』にもみられる。

(ラメラは)リビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象「a」について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』



2015年4月14日火曜日

「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」

« Tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant » (Lacan 1978)

 ……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分裂病の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller

《父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ》(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”)

ーーThomas Svolosの同じ論における臨床家としての「サントーム」の扱いは、「ラカン派の二種類のサントーム・症状」の末尾を見よ。

精神病」という語彙が時代の気分spiritとは同調しない日がおそらくやってくるだろう。(……)「皆狂気だ…、皆妄想的だ」。これは皆が精神病的だということを意味しない。そうではなく、このすべてが、二十一世紀における現代的研究の部分であり、我々にとって精神病は何を意味するのかという問いをもたらすということだ。(エリック・ロラン、Psychosis, or Radical Belief in the Symptom (2012)

というわけで、フロイトの大義派、いわゆるミレール派のみなさんは、それぞれやけくそ気味のようにさえ見える発言をなさっているが、これらは彼らにとってジョークではない。

ラカンの教えとして、精神病、神経症、倒錯の区分は、セントラルドグマのようなものだったのだが、それさえも俎上に載せられているわけだ。が、おそらくそれに抵抗するラカン派もいるのだろう。

神経症,精神病,倒錯はどう頑張ってもお互いに行き来できない.神経症の「治癒」は幻想の横断と主体の脱解任によって生じ,精神病の「治癒」は妄想形成か補填によって生じるのであって,構造は死んでも変わらない,というのがラカン派のセントラルドグマです.(松本卓也ツイート 2011/12/10)
後期ラカンはすべてのディスクールは保証が不在であるとする.それゆえ象徴的体系を支えるシニフィアンも,構造をとわず排除されている.固有名としての父の名から,述語名としての父の名へと位置が変わる.父の名っぽい機能を果たせば何でもいい,と

そこからミレールの話は「精神病の一般化」つまり「人類みな狂人」なんて話にまで至る.この辺ちょっと微妙で,一般化とかいいつつミレールは神経症と精神病の構造の差異も主張している.ECF内でも意見が分かれているようで,同号のSkriabineの論文は「人類みな精神病」の論調.

(僕が大いに依拠する)Jean-Claude Malevalは反対に,ミレールの議論から「父の名の排除」と「一般化排除」はまったく異なるという議論を持ちだしてくる.こっちのほうが臨床的には有意義な議論だと思うけど,ラカン自身の70年代の記述そのものはSkiriabine寄りです.(松本卓也ツイート 2011/09/01 )

これらのツイートはすでに四年近く前のものであり、最近はどんな発言をしているのかは知らないが、もうすぐ上梓される『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』にて、この若き聡明な、おそらくラカンが日本で生き残るなら、彼の双肩にかかっているというぐらいに優れたこの松本卓也という研究者が、議論を展開してくれるのではないか(これは皮肉でもなんでもなく、ときには彼を批判することを書かないでもないわたくしのラカンは、ジジェクとともに、彼のブログを読むことで始まっている)。

とはいえ、ここでは、これらの議論は専門家にまかせて、わたくしが注目したいのは、Thomas Svolosの《父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ》という発言だ。これは「サントーム」という語彙の価値を、なによりもまして、高めようとする言明とすることができる。

ところで、エリック・ロランは、上にリンクした論のなかで、「普通の精神病」概念は、「普通の妄想」のほうがいいのじゃないか、と読み取れるようなことを言っている文脈のなかで、「普通の父の名」という表現まで出している。

これは、エディプスの斜陽の時代、当然でてきてもおかしくない発言だろう。

ところで、「父の名」とはなんだったか。

「父の名 name-of-the-father」(nom-du-pere) 

ある意味、この概念は、フロイトの『トーテムとタブー』の神話的で象徴的な父から由来している。ラカンの三界秩序でいえば、この「父の名」は現実の父親でも想像的な父(父性的なイマーゴ)でもなく、象徴的父のことである。ラカンが言うには、フロイトは「大文字の父のシニフィアンの 外観を、大文字の法の制定者として、死へ、そして大文字の父の殺害までもに関連づけ、そうしてこの殺害は、主体が自身を生涯にわたって大文字の法に縛りつ ける負債を主体が背負う実り多い契機になるが、この大文字の法を意味するかぎりにおいての象徴的な大文字の父はたしかに死んだ大文字の父なのである、とい うことを示す」ことに耐えがたいほど導かれているのだ。(英語版『エクリ』所収、「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的な問題について」)「翻訳者の緒言 Translator's note」)

だが、『トーテムとタブー』の父の名だけではない。たとえば『モーセと一神教』をめぐって、ポール・ヴェルハーゲは次ぎのように書いている。

父親殺しの神話の二番目のヴァージョンをさらに分析していくと、多くの際立った新しい箇所が露わになる。父を(再)導入するのは、息子なのである。そして、そうするのは、脅威として経験された女性の力に直面してのことなのである。見たところ、父への恐れはそれほどでなく、むしろ、他の危険を寄せつけないために、この父の形象を必要としているのだ。この危険が十全に鮮明化するのは、ただ父の姿がなくなってしまったときである。そして、この脅威は女性性に繋がっている。

言い換えれば、父は息子の症状である。(Paul Verhaeghe “Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE”1998)

ヴェルハーゲは、1999年のレクチャアで次のようにさえ言っている。

『トーテムとタブー』1913の原父についてはただ忘れたほうがよい。『モーセと一神教』1939における臨床的な示唆を研究するほうがはるかに興味深い。この仕事において、フロイトは父の象徴的な機能の考え方をわれわれに提示している。それは、母たちから来る不可解な何かへの不安を基盤として、息子によって設置される何かである。そんなに難しいことではない、ラカンの後期の理論をこのフロイトの神話の中へ読み込むことは。主体は全的な疎外を怖れているのだ。すなわち、現実界の享楽のなかでの消滅を。そして象徴界のなかに対抗策を探し求める。この象徴界の影響は、フロイトの研究そのものの中に、まったく明白に見出せる、とくにラカンを通してフロイトを読むのなら。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

ヴェルハーゲは、フロイトの『モーセと一神教』を、「父の名」の論ではなく、「サントーム」の論として読んでいるのではないか。ヴェルハーゲ自身はそのように言っていないにもかかわらず、《母たちから来る不可解な何かへの不安を基盤として、息子によって設置される何かである》という文から、わたくしにはそう推測したい心持ちに襲われる(参照:中上健次と「父の名」)。

事実、彼は、この考え方を展開したあとの数年後(2002年)、同僚とともにとてもすぐれたサントームの論文を書いている(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)。そこには『モーセと一神教』への言及はないにもかかわらず、明らかにモーセから多大な示唆を受けているに相違ない。

では、『トーテムとタブー』と『モーセと一神教』はどう違うのだったか。ここでジジェクの論文から抜き出しておこう。1997年に書かれた『The Big Other Doesn't Exist』 からの私訳である。《『モーセと一神教』は、『トーテムとタブー』の装置dispositifを、ふたたび反転させる》ことが、明晰に書かれている。

なぜフロイトはエディプス神話を補足したのか? つまり『トーテムとタブー』における「原父」の神話的な語りによって。この二番目の神話の教訓は、エディプスと全く相対物である。父を、第三者としての介入するもの、近親相姦の対象への直接の接触を禁止するもの(すなわち、父の壊滅はこの対象への自由なアクセスを与えてくれるという空想を支えている)と取り扱うどころか、エディプスの願望がまさに実現化されるのは、父の殺害等なのだ。そのことが象徴的禁止を齎す(死んだ父が彼の〈名〉として回帰する)。

そして、今日、(父性的権威としての)「〈エディプス〉の斜陽」の時代であると叫ばれるのは、まさに「原父」の論理に従って機能する形象の回帰なのである。それは、「全体主義」国家の政治的指導者から、自分の娘に手を出すセクシャルハラスメント者の父親像まで同様だ。しかしなぜなのだろう? 「安定化するpacifying」機能をもった象徴的権威が宙吊りにされてしまったとき、衰弱しつつある欲望の袋小路、その固有の不可能性を避ける唯一の方法は、そのアクセス不可能性の原因を、原初の享楽を表す横暴な形象に特定することなのである。我々が享楽できないのは、〈彼〉が独り占めしているからだ、と…。

「エディプスコンプレックス」においては、父親殺し(そして母との近親相姦)は、すべての標準的(男性)主体の無意識の欲望である。というのは、父の形象は、母なる対象へのアクセスを禁じ、母との融合symbiosisを邪魔するのだから。エディプス自身は例外的形象であり、実際上、それをした〈一者〉である。『トーテムとタブー』では、逆に、父親殺しは、無意識の願望の目的ではない。そうではなく、フロイトが何度も何度も強調したように、「実際に起こったに違いない」前歴史的な事実である。その事実が、動物状態から、〈文化〉への移行を可能にした。

要するに、トラウマ的な出来事は、我々がそれについて夢想する何かではない。そうではなく、実際には決して起こらなかった出来事であり、その延期によって、文化の状態を維持する(というのは、母との近親相姦的関係の成就は、〈文化〉の世界を定義する象徴的距離/禁止を廃止してしまうから)。いやむしろこう言うべきか。トラウマ的出来事は、我々が〈文化〉の秩序内にいるどの瞬間にも、既に-常に起こったものである、と。

我々が実際に父を殺したなら、なぜ結果は、熱望された近親相姦的な融合ではないのか? このパラドックスが、『トーテムとタブー』に横たわる中心的命題だ。すなわち近親相姦の対象へのアクセスを邪魔する禁止の担い手は、生きているのではなく、〈死んだ〉父だということだ。父の死後、彼の〈名前〉等、象徴的法/禁止として回帰する。こういうわけで、『トーテムとタブー』のマトリックスが説くことは、父親殺しの構造的な必要性である。直接的残忍非道な力から、象徴的権威、禁圧的法の支配への移行は、常に(否認された)原犯罪の行動に根ざしている。

ここにあるのは、「あなたは、あなたが私を愛してることを、ただ私を裏切ることによってのみ証明できる」という弁証法である。すなわち、父が、敬愛される法の象徴に高められるのは、ただ彼への裏切りと殺害の後によってのみである。この問題系は、また無知の曖昧さの領野を開く。その無知とは、主体の無知ではなく、〈大他者〉の無知である、「父は死んだが、そのことを知らない」等々。彼は知らないのだ、彼を愛する追随者たちが(常に-既に)彼を裏切っていることを。

他方で、これが意味するのは、父自身が「彼は父だと本当に考えている」ということだ。すなわち、彼の権威は、直接に彼の人物から生じている、単に彼が占めたり満たしたりする空の象徴的場所からではない、と思い込んでいることだ。忠実な追随者たちが、指導者としての父の形象から隠蔽すべきことは、まさに、彼の個性の直接性における指導者と彼が占める象徴的場所のギャップである。そのギャップとは、実際上の人物としての父は、まったくインポテで滑稽であることによる(暴力的な裏切りに遭遇し、続いて彼のインポテが暴露され、象徴的称号を奪いとられ、年取った、怒り狂う、不能の愚か者に陥ったリア王のように)。

キリストの異説伝説、それに依れば、キリスト自身がユダに彼を裏切るよう命令した(あるいは少なくともこの線での彼の希望を知らせた)という説は、十分な基盤がある。この〈偉大な男〉を〈裏切る〉必要性、それだけが彼の〈名声〉を確証できることは、〈権力〉の究極の神秘である。

しかしながら、『トーテムとタブー』のマトリックスには、まだ何かが欠けている。殺された父が、象徴的禁止の審級として回帰するというだけでは不十分である。この禁止が、実効性のあるものであるためには、〈意志〉のポジティブな行動によって支えられなければならない。この理由で、フロイトは、『モーセと一神教』にて、エディプス装置dispositifに最後の変奏を、さらにつけ加えた。

ここには、二つの父の形象がある。しかしながら、それは『トーテムとタブー』のものとは同じではない。二つの形象は、前象徴的な猥褻な/未去勢の享楽の父と、象徴的権威の担い手としての(死んだ)父、すなわち〈父の名〉ではないのだ。そうではなく、古いエジプト人のモーセ(より初期の多神教的な迷信を打っ棄り、一神教を導入したモーセ、独自の理性的〈秩序〉によって決定づけられ支配された普遍性概念を導入したモーセ)と、セム人のモーセ(ヤホバの神、嫉妬深い神であり、彼の人びとに裏切られたと感じるや、執念深い憤怒に荒れ狂うモーセ)である。

『モーセと一神教』は、『トーテムとタブー』の装置dispositifを、ふたたび反転させるのである。彼の追随者/息子たちに「裏切られ」殺された父は、猥褻な原初の〈享楽の父〉ではない、そうでは決してない。そうではなく、象徴的権威を体現した「合理的な」父なのだ。すなわち、普遍性(ロゴス)の、統合された合理的な構造を擬人化した形象なのである。猥褻な前象徴的父が、象徴的権威として、彼の〈名〉の偽装の下に回帰するのではなく、我々は、彼の追随者/息子たちに裏切られ殺された象徴的権威(ロゴス)を持つことになる。そして、回帰するのは、凶悪な憤怒に満ちた神の、嫉妬深く執念深い、無慈悲な超自我の形象である。このエディプスマトリックスの二番目の反転の後に、ようやく我々はパスカルの名高い区別に至ることができる。それは〈哲学者たちの神〉(ロゴスの普遍的構造としての神、普遍性の合理的構造と同一化した神である)と、〈神学者たちの神〉(愛と憎悪の神、気まぐれで「非合理的」宿命の不可解な「闇の神」)である。

決定的なポイントは、享楽についての知の巨根を授かった原父とは対照的に、この非妥協的な神は、ラカンが指摘したように、享楽に対して「否」と言うのだ。この神は狂暴な無知("la féroce ignorance de Yahvé")[Le séminaire, Livre XVII]に取り憑かれている。その態度は、「私は知ることを拒絶する、私は聴きたくない、きみの汚らしい密かな享楽のあり様について」である。伝統的な性化された叡智の普遍性、〈大他者〉(象徴的秩序)と享楽のあいだの究極の調和の見せかけとしての普遍性を追放する。底辺に横たわる男女原則(陰陽、光と翳、天と地…)の性的対立によって統整されたマクロコスモスの概念を追放するのだ。(ジジェク『大他者は存在しない』)



2015年4月13日月曜日

中上健次と「父の名」

「人工的捏造物」として「聖痕」を抱えた『枯木灘』の秋幸」に引き続く。

表題を《中上健次と「父の名」》としたが、ここで「父の名」について説明をするつもりはない。

ただし,ラカン派にて「象徴的ファルス」の介入によって「父の名」の隠喩が機能するといわれる場合に、「象徴的去勢」という用語が使われるが、この「去勢」は、まずは子どもの去勢ではなく、「母の去勢」が本来の意味であることは念押ししておこう。

すなわち、「父の名」が機能していないということは、まずは母が去勢されないままであるということである(参照:「母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢」)。

それ以外に、ジジェクの比較的新しい書(2012)から、次の表現を拾ったので、ここに掲げておく。

①le‐Nom‐du‐Père父の名→le‐Non‐du‐Père父の禁止

②le‐Nom‐du‐Père父の名→les non‐dupes errent
 (二つの言葉は同じ発音であり、後者は(父の名に)騙されない者は間違えるという意味)

③le‐Nom‐du‐Père→le‐Nom‐du‐Pire悪化の名→ 死の欲動

…………

自分には名前が三つある、と秋幸は昔思ったことがあった。実際にそうだった。秋幸はフサの私生児としてフサの亡父の西村という籍に入り、中学を卒業する時に義父の繁蔵が自分の子として認知するというカタチで竹原に籍に入った。その男は浜村龍造と言った。(中上健次『枯木灘』)

中上健次自身、『枯木灘』に書かれているのと同じように、「父の苗字」を三度変えている。

図を描いたほうがわかりやすいのだが、母は三つの姓名(木下・鈴木・中上)を名のったのである。僕の兄や姉たちは最初の木下勝三(病死)の血をつなぎ、末っ子の僕だけが鈴木留造の子であった。放蕩者でバクチ好きの鈴木は、他に二人の女をつくって妊ませ、結局、僕には母千里の産みだした郁平、鈴枝、静代、君代の四人と、鈴木留造が女どもに産ませた一人の妹と二人の弟、そしてどこにいるのか生きているのか死んでいるのかわからない幻の妹が一人と、血のつながった兄姉妹でも九人いる計算になる。かくて幼い僕は母につれられて、最後の「父」である中上七郎の庇護をうけ、「父」の子である中上純一らと家庭を構成することになる。(中上健次「犯罪者宣言及びわが母系一族」)

このような状況で育った子供は、「父の名」の分離機能、すなわち母親との密着した共生関係、距離のない不安定な関係からの分離機能が、十分には働いていないはずである。もっとも「父の名」の機能は、父の不在とはあまり関係がない。たとえば場合によっては祖母でさえ父の名としての役割を担うこともある(三島由紀夫の祖母のように?)。

問題は父親にたいする母親の関係、《単に母親が父親にいかに対応するかだけではなく、母親が父親の言葉、正確には父親の権威、にどのような地位を与えるか、いいかえれば法のプロモーションにおいて母親が父の名のために空けてある場所をどうするか》である(ラカン『エクリ』 p.579

中上の母千里が中上純一にどのような態度であったのかはよく分からないが、小説から読み取れる範囲では、ある程度の「地位」を与えていたとすることもできる。ただし「弱い父」である。

そして中上健次の場合、義父の苗字を与えられて、原初の(母子の)共生関係symbiosisから解放されるということが全くなかったと断言するつもりはないが、「中上」という「父の名」は、十分な分離機能を果していたとは思われない。

僕はすべてのものを憎んでいる。姉を悲しませ、兄を殺し、僕をまでも辱しめ苦々しく窒息させたすべてのものを憎んでいる。あの頃から僕は僕自身のための神話をなくしたのだ。僕の体には、人々にみすてられた廃屋の井戸のように雑草がぴっしり生えはじめたのだ。(……)

僕はあの時のことを忘れない。怒りと狂気を妊んだ海のことも、二十六歳のにいやんの惨めな屍のことも僕は忘れない。(中上健次『海へ』)
兄が死んだ。朝、僕は仲間たちと山学校する約束があったので、いそいで朝食をたべている時、姉とヒロポン中毒が体をふるわせながらとびこんできた。姉は台所にはいってくるなり「母やん!」とどなり、朝の光をうけたまま朝食をたべつづけている僕をおどろかせた。母は姉の叫ぶ声をきいただけでみんなわかったように、顔を苦しげにゆがめている姉の体を抱き、そして二人で犬のうめくような声をだして泣き始めた。

「兄やんがくび、つったんよ……」(中上健次『犯罪者永山則夫からの報告』 )
僕は子供なのだ。涙でまぶしくみえる台所の中に、僕の母と兄と姉と、嘘の父がいる。みんなそれぞれ黙りこんでしまった。兄と母が喧嘩をしようと、母と姉が喧嘩をしようと、母と父が喧嘩をしようと、子供の僕にはまったく関係ないことだ。なにひとつわからない。次第に酔いがさめてきたらしくしきりに台所の水を飲んでいる兄をみながら、僕はみんなで劇をやっているような感じを抱いた。ほんとうの母とほんとうの父と、おおきくて強い兄と、賢い姉と、僕の五人でつくる、平凡な家庭があって、金曜日の夕食後、深刻だが間の抜けた劇を、演じている。いま僕らは仮面をかぶって、それら各々の役柄に合った服装をつけた名俳優たちなのだ。(中上健次『一番はじめの出来事』)
生き残っている者はすべて裏切った、子供の時のぼくはせっかくうまくいっているこの家での父と母と父の子と母の子の四人の生活を、誰にも壊されたくないと思った、そして鉄斧や出刃包丁を持って、ぼくたち四人をほんとうに惨殺することもできないくせに「殺したる」と言って暴れに来る兄を憎悪した。それは本当なのだ、嘘いつわりない十二歳の時のぼくの感情なのだ。(中上健次『眠りの日々』)

さて、ここでいったん「父の名」を文字通り、すなわち父の苗字ーーあるいは父によって名付けられた名ーーとして取ることもできるというポール・ヴェルハーゲ=ラカンの見解を復習しておこう。

初期の理論でさえ、ラカンはエディプスの父の機能における象徴的側面を強調した。父の名の隠喩は実にその名を通して作用する。この仮説とは次のようなものである。すなわち、子どもに父の名との組み合せによる彼自身の名前を与えることは、子どもを原初の(母子の)共生関係symbiosisから解放する。後期のラカン理論では、ラカンは名づけることのこの側面をいっそうくり返し強調した。したがってラカンは複数形で使用したのだ、the NAMES of the father(Les Noms-du-Père引用者)と。疑いもなく文化人類学の影響を受けて、ラカンは次ぎの事実を分かっていたに違いない、母系制文化においてさえ、分離の機能は名づけるnamegivingことを通して作用することを。それは伝統的な欧米の核家族の外部でさえもである。主体に独自のシニフィアン、すなわち母のそれではなく異なったアイディンティティのシニフィアンを提供することは、分離を惹起し、こうして保護を与える。これはわれわれに重要な結論を齎してくれる。すなわちエディプスの法は、古典的なエディプス、たとえば家父長制の外部でとても上手く設置することができる。――これは重要である。というのはそれが意味するのは、われわれは、基本的な信頼を取り戻すために、古き良き家父長制に戻ることを承認する必要はないということだから。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

中上健次の置かれた環境において、この「父の名」の分離機能が上手く働いていなかったのではないかという想定のもとに、わたくしは今こうやって書き綴っている。もし「父の名」の隠喩が働かなければ、母は貪り食う全能の〈大他者〉として露われる、というのがラカン派の主流の考え方である。

いわゆる"去勢されていないnon‐castrated"全能の貪り食う母、真の母に関して、ジャック=アラン・ミレールは次のように注釈している。

満足していない母というだけでなく、またすべての力をもつ母である。そしてラカンの母の形象のおどろおどろしい様相は、彼女はすべての力を持ちかつ同時に不満足であることである。(Miller, “Phallus and Perversion,”)

ジジェクはこのミレールの文を引用して(『LESS THAN NOTHING』)、次ぎのように言っている。

ここには、パラドックスがある。母がよりいっそう"全能"として現れば現れるひど、彼女は不満足(その意味は欠如である)なのである。「ラカンの母はquaerens quem devoretと一致する。すなわち彼女は貪り食うために誰かを探し求める。そしてラカンは鰐として母を言い表す、口を開けた主体として。」(Jacques‐Alain Miller, “The Logic of the Cure,”)

ここでもまたポール・ヴェルハーゲのわかりやすい説明で補っておこう。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)

ところで、中上健次の晩年の傑作『千年の愉楽』には次のような近親相姦の叙述がある。

あおむけに達男は山の茂みの中にたおれ,オリュウノオバは達男の上に重なり,ふと達男が笑みを浮かべもしない真顔で自分を見ているのを知り,恐ろしくなった。達男がオリュウノオバの乳をまさぐり,丁度腹の下に巌のようにふくれ上った一物が当たったのに気づいて,オリュウノオバは自分から達男に触れたのを忘れたように身をふって金切り声をあげ,起き上ろうとして組み敷かれた。

十五の達男の流した汗が黄金の光りから鉛に変り,輝きがとれるたびに若い衆の刃鋼のような体が現われ,オリュウノオバは産んだわが子と道ならぬ事をやり, 畜生道に堕ちるように心の中で思う。 (中上健次『千年の愉楽』)

そして、そもそも近親相姦の原型とは、父と娘ではなく、母と子であったことを思い出しておこう。

去勢不安そのものは、すでに地層にある原初の不安の防衛的なエラボレーションである。地層にある原初の不安とは、主体と〈他者〉 とのあいだの関係から起こる。各々の主体の原初の不安とは〈他者〉に 呑み込まれ貪り喰われることである。すなわ ち、〈他者〉の享楽の受動的な対象に還元されてしまうことである。概念的な用語なら、これが意味するのは、分離の可能性のない全的な疎外を意味する。

その原初の形式においては、この法は母にかかわる。彼女は禁じられているのだ、彼女の生産物を保持することを、たとえば子どもを彼女自身のものにすることを。 これが近親相姦の最初の意味である。すなわち、あなたは、あなたの子どもを自らの享楽 として捕えてはならない、ということだ。現在の、父と子とのあいだの近親相姦への強調は、 この原初の意味がほとんど忘れられてしまっているようなものだ。(「社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)」)

ここから逃れるためには、中上健次自ら「複数形の父の名Les Noms-du-Père」のひとつを発明しなければならない。それは「父の名」と同じ機能を果し、母との共生関係、あるいは始原の母ーー"caractere d'invasion dechirante,d'irruption chavirante" (Lacan,Le Seminaire IV, )ーーに貪り食われないための支えとなる。そうでなければ、母に、海に、吞み込まれてしまう。《海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。》(三好達治)。

水の中にはいっていると、皮膚がなくなってしまい、体がとろけたようになってしまう。(『一番はじめの出来事』)
ぼくは寝そべったまま、耳の穴に舌を入れてくすぐってくる海の波音を感じていた。(『眠りの日々』)

そもそも初期短篇で、上のように書いた中上健次が「海=母」に対面してどうして呑み込まれないでいられるというのか。

僕は海にむかって歩いている。僕自身の中の海にむかって歩いている。(中上健次『海へ』)
僕とはいったいなんだ?
僕の僕とはいったいなんだ?(海へ)
おまえが
僕の心の中のあの怒りの海につながっているのなら
歌え
人々についての呪いの歌を
そして
三月のつめたいひかりみたいに
死んでいった
にいやんにおくる
挽歌を(海へ)


中上健次の自ら発明した「父の名」とは、「路地」であるのではないか、という仮定は前投稿にいくらか記述した。そこで引用された文をいくらかくり返せば次の通りである。

路地では、いま「哀れなるかよ、きょうだい心中」と盆踊りの唄がひびいているはずだった。言ってみれば秋幸はその路地が孕み、路地が産んだ子供も同然のまま育った。秋幸に父親はなかった。秋幸はフサの私生児ではなく路地の私生児だった。(中上健次『枯木灘』)

そして友人であった四方田犬彦の次の言葉は、決定的な響きをもっている。

俺はどこにもいない。それが機嫌のいいときの口癖だった。そのあとにはかならず、路地はどこにでもある、という言葉が続いた。(四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 一番はじめの出来事”)

くり返せば、中上健次の「路地」あるいは「路地の私生児」は、ジャン・ジュネが「泥棒」というシニフィアン、すなわちサントームSinthomeと同じ役割を果たしていたのではないかという想定の下で、わたくしは書き綴っている。

”Ordinary psychosis: the extraordinary case of Jean. Genet”(Pierre-Gilles Gueguen)には、ジュネを「倒錯」ではなく、「普通の精神病」タームで解釈し直そうとする小論であり、そこでの議論を簡略に記せば、養母に愛されていた“よい子”のジュネーー引っ込み思案で少女たちと遊ぶことを好む、あるいは教会の少年合唱団員だったらしいーーその彼が、母親の財布から小銭をくすねて飴玉のたぐいを友人に振舞った十歳前の行為、それに引きつづき、サルトルが『聖ジュネ』で特筆したことで有名な、近所の雑貨屋の些細なものの盗みの際の、年輩の女性からの「あんたはどろぼうよ!」の指弾からジュネが受けた衝撃、更にその直後の養母の死、などの伝記的「事実」から、母親とのイマジネールな関係(鏡像関係)にあったジュネ(あるいは緩やかな「父の名」の排除という精神病的構造にあったとも解釈される)が、「どろぼう」というシニフィアンを、なかば空席の「父の名」の場に押しいれて、それと「同一化」したのではないか、というものだ。

ラカンは新しいシニフィアンの発明をめぐって、その最晩年、こう語っている、

“Ce que j'énonce en tout cas, c'est que l'invention d'un signifiant est quelque chose de différent de la mémoire. Ce n'est pas que l'enfant invente — ce signifiant, il le reçoit, et c'est même ça qui vaudrait qu'on en fasse plus. Nos signifiants sont toujours reçus. Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?”(J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979

どんな場合でも、私が今言っていることはシニフィアンの発明は記憶とは異なった何かだということだ。子供が発明するのではないーー彼はシニフィアンを受け取るのだ。そしてこのことでさえ、もっとそうすることはやりがいのあることだ。われわれのシニフィアンはつねに受け取られる。どうして新しいシニフィアンを発明していけないわけがあろう。たとえば、現実界のように、まったく意味のないシニフィアンを。(ラカン「セミネールXXIVーー「ジャン・ジュネの「どろぼう」というシニフィアン」)

ここでの新しいシニフィアンsignifiant nouveauが、「サントーム」の大別して二種類ある意味のうちのひとつである(参照:ラカン派の二種類のサントーム・症状)。

さて、前回も蓮實重彦を引用してこう記した、蓮實は《これらの長篇を精神分析的に解読した場合になる解釈……そんな解釈を得意がって提起するほどわれわれは文学的に破廉恥ではないつもりだ。そうした事実とは、どんな不注意な読者でも見逃しえない図式として、そこに露呈されているだけなのである》(『小説から遠く離れて』p172)と書いており、この文章は禁止の命令として響かないでもない。だがここは敢えて精神分析的に解読する「破廉恥」さを引き受けて、ラカンを持ち出したということだ。それは《どんな不注意な読者でも見逃しえない》形で露呈されているのだから。

やはり上のようないささか独断的とも思われる見解を、ラカンに依拠して書くのは、かなり気がひけるものであり、ここでは重ねてこう引用しておこう。

それは『闘争のエチカ』(柄谷行人との対談集」の蓮實重彦による「あとがき」の文章であり、《批評は小説の解読装置ではなく、小説こそがわれわれを、あるいはわれわれの理論を解読する装置なのである》と読みうる叙述である。

伝統的な小説が前衛的な小説にくらべてものわかりのよさそうな表情を浮かべているというのではありません。筒井康隆だって、安部公房だって、薄気味の悪いほどものわかりがよく、その点では村上春樹と変わりません。こうした一連の闘争放棄は、小説がみずから装置であることを止め、読まれるべき言葉としてあっさり解読装置に身をゆだねてしまうことからくるものです。批評家の手にしているものが解読装置であって、小説がその装置によって解読される対象でしかないようにすべてが進行してしまい、そのことに、小説家も、批評家も疑いの目を向けようとすらしていないという現状が納得しがたいものに思われたのです。

しかし、この関係は不健康に転倒している。装置であるのは、むしろ小説の方なのです。装置でありながら、何の装置だか使用法がわからないものとして小説が存在しているのでなければならない。そして批評家は、その目的や使用法を心得た人間ではないはずです。ましてや、装置を解読する装置が批評なのでもないでしょう。小説という装置は、おそらく小説家にとってさえ、それが何に役立つか見当もつかない粗暴な装置であり、であるが故に、小説は自由なのです。批評家は、使用法もわからぬままにその小説を作動させる。それが、小説を擁護するということの意味なのです。

(おそらくもう少し続くだろうが、それは補遺程度かもしれない)




2015年4月10日金曜日

ラカン派の二種類のサントーム・症状

【サントームとの同一化と症状との同一化】


ジジェクはかつて、「サントームとの同一化」という表現を使った(「症状との同一化」という表現もあわせて使った)。最近の著書では、サントームとの同一化とは言わなくなった。ただ症状との同一化のみである。

たとえば、90年前後の初期のジジェクの書では、“identification with a sinthome”、あるいは“identify with the sinthome”という形で現われる。

幻想Fantasyは、〈大他者〉、象徴的秩序が、あるトラウマ的な不可能性のまわりに構造化されている事実を隠蔽する。その不可能性とは、象徴化できない何か、例えば、享楽のリアルである。幻想を通して、享楽は飼い馴らされ、"上品化されるgentrified"。故に、幻想を"横断"した後、欲望には何が起こるだろう? セミネールXIの最後のページにおけるラカンの答えは、欲動、究極的には死の欲動である。"幻想の彼岸"には、どんな切望も、どんな種類の崇高な現象もない。"幻想の彼岸"には、われわれはただ欲動を見出すだけである、すなわちサントームのまわりの脈動を。"幻想の横断"とは、それ故、サントームとの同一化identification with a sinthomeと厳密に相関的である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)
この外―存在としてのサントームの次元は、症状や幻想の次元よりも根源的である。サントームは精神病的な核であり、(症状として)解釈することも(幻想として)通り抜けることもできない。ではどうしたらよいのだ。ラカンの答えは(そしてこれが、精神分析過程での最後の瞬間に対する後期ラカンの定義なのであるが)、サントームと同一化するidentify with the sinthomeことである。このようにサントームは、精神分析過程の最終的な限界、精神分析が基盤としている暗礁をあらわしている。だが、一方、サントームは根源的に不可能であるというこの経験こそ、精神分析過程が終わったことを示す究極の証拠ではなかろうか。これこそが、「症状ジョイス」に関するラカンのテーゼの正しい力点であるーーー 《ジョイスの精神病の言及が示していたのは、けっして精神分析の応用といったものではない。それどころか、問題にされていたのは、症状ジョイスを用いて分析家の言説そのものに疑問を呈しようという試みであった。自分の症状と同一化した主体はその技術に対して閉ざされてしまうからである。そしておそらく、分析のこれ以上の終結はない。》(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, "Preface," in Joyce avec Lacan)(ジジェク『斜めから見る』1991
 ※より詳しくは、たとえば「外-存在」の定義などは、女は男のサントームであるUne femme est pour tout homme un sinthome」の後半を見よ。

他方、ジジェクの代表作といわれる二つの大著『パララックス・ヴュー』(2006)、あるいは『LESS THAN NOTHING』(2012には、サントームとの同一化という表現はでてこない。「症状との同一化」だけである。

症状が、解釈を通して解消される無意識の形成物であるなら、サントームは、"分割不能な残余"であり、それは解釈と解釈による溶解に抵抗する。サントームとは、最小限の形象あるいは瘤であり、主体のユニークな享楽形態なのである。このようにして、分析の終点は"症状との同一化"として再構成される。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

あるいは、『パララックス・ヴュー』にはこんな表現さえある。

主人のシニフィアンは、無意識のサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。The Master-Signifier is the unconscious sinthome, the cipher of enjoyment, to which the subject was unknowingly subjected.

ーーこの文は、サントームとは意識的な「父の名」であると言っているようなものである(後述)。


さて、ジジェクがサントームとの同一化という表現を使わなくなったのは、なぜなのだろうか?

まずはサントーム概念の意味を復習してみよう。このサントームは、すくなくとも五つの意味が諸家によって提示されている。

サントームsinthomeとは、症状symptom 聖人saint home 聖トマスSaint Thomas (〈大他者〉、あるいはキリストを信ぜず、独自の道を歩んだ者) 罪人sin-homme 模造人間synth-homme である。

これ以外に、⑥サントームとは、もともとラカンのジョイスのセミネール(セミネールⅩⅩⅢ)で多様に語られたものであり、ジョイスにおけるサントームとは、父の名(正確に言えば象徴的ファルス)が排除された前精神病的資質を備える人物が、精神病を発病しないための、支柱としてのサントームである。すなわちサントームは父の名の代替の機能を果たす。

ジョイスについてのセミネールが明示しているのは、サントームが父の名の役割を取り得ることだ。ラカンは、皆にジョイスの例に従い〈大他者〉の欠如の場所に自身のサントームを創造するようにと勧めている。この創造行為の目標は、父の名のシニフィアンなしで〈大他者〉を機能させることである。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq“Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way”)

おそらくこの⑥の意味でのサントームが、すくなくとも臨床的には、最も重要である。

⑤の仮に模造人間としたsynth-hommeは、ジジェクによる、《synth-hommesynthetic-artificial man, synthesis between symptom and fantasy》(1989)という解釈もある。しかもミレールによる次のようなサントームの解釈の試みもあることを附記しておこう。

Sinthome = Symptom + fantasme (Jacques-Alain Miller

【二種類の症状】


サントームを①の意味で使用するなら、サントームとの同一化は、症状との同一化にひとしい。だがそれは二種類ある症状の意味のどちらを使っているのか混乱を招きやすい。

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)ーー二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」

ポール・ヴェルハーゲが言っているように、フロイト・ラカン派にて「症状」と言われるとき、二種類あることに注意しなければならない。

後期ラカンにおいては「症状」の意味が変わったこと。これについても、ふたたびポール・ヴェルハーゲ他の要領を得た文を掲げておくことにしよう。

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、《象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外ー存在するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動》である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

※追記:“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”は小笠原晋也氏によって、「症状は,こう定義するしかない:それは,各人が無意識を悦する様態である – 無意識がそう定めるがままに」(Jacques Lacan, le 18 février 1975, Séminaire XXII RSI.)と訳されているのに遭遇したので、ここに追記しておく。



この叙述にあるとおり、純粋な対象aそのものも、後期ラカンの「症状」のことーー前期ラカンの症状ではないーーであり、かつまた欲動(死の欲動)のことである。「純粋な」とあるように、そうでない対象aーーイマジネールな水準の対象aーーもあるということだ。

純粋な対象aとは、すでにラカンにおいてセミネールⅩⅠに現われている〔否定的な形だが)。

新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る、とちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレットhommelette)、ラメラ(薄片)の場合も、これを想像することはできます。

ラメラ、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただしアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係がある何物かです。それがなぜかは後ですぐお話しましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走り回ります。

ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと想像してみてください。

こんな性質をもったものと、われわれがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象「a」について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)

この代理物の対象a以外の純粋な生のリビドーが後期ラカンの原初の症状 a であるが、とはいえ上にヴェルハーゲの文を掲げたように、《ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために》なのだ。



【二種類のサントーム】


上に見たように、後期ラカンにおいての「症状」は、サントーム(のある一面)と同じものである。

Joyce に関する Séminaire の時期の Lacan が用いた「症状」 — それを Lacan は sinthome とも symptômeとも書きます(小笠原晋也

だが、サントーム自体も少なくとも二つの意味がある、ここでの、サントーム=症状以外に、新しいシニフィアン=サントームの創造という意味でのサントーム、「父の名」の代替物としてのサントームという意味がある。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがサントームである。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

ここで、ジジェクの『Conversations with Ziiek Slavoj Zizek and Glyn Daly』(2004)からの対話文を掲げてみよう。邦訳名『ジジェク自身によるジジェク』とされる書からだが、わたくしは手元に邦訳がないので、自ら訳して掲げる。

私が指摘したい第一のポイントは、ラカンにとっての現実界は、永遠にそこにあり、全く不変のものではない、ということだ。ある種の人びとが考えているのとは反対に、現実界は不可能だとするラカンの考え方は、あなたは現実界について何もなしえないということを意味しない。精神分析の根本的な掛金、あるいは希望は、あなたは、象徴界を以て、現実界に介入できるということだ。ラカンがサントームと呼んだもの(ラカンによる症状の新しいヴァージョン)は現実界である。それはあなたの享楽を構造化する象徴的な現実界である。そしてポイントは、象徴的な介入を通して、この構造を変化させ得るということだ。現実界は、あなたがそれを異なったやり方で象徴化する以外はなす術もない、触りえない中心的な核の類ではない。否! ラカンのポイントは、あなたは現実界に介入できるということだ。ラカンにとって精神分析の根本的領野はーー少なくとも後期ラカンにおいてはーー、もはや単純に再象徴化ではない。そうではなく、何かが実際に起こるということだ。精神分析において、真の変革が起こるのだ、あなたの享楽の基礎的な様相、ーーそれはまさに主体としてのあなたの現実界の領野ーーその様相を変化させた時に。だから精神分析の基本的な掛金は、あなたは、言葉によって物事をなし得るということ、その物事は、あなたの享楽の様相等を変えるものである。


ここにあるように現実界に介入するものとしてのサントーム。これが最も肝腎なサントームという用語の使用法である。

ここで、ふたたびポール・ヴェルハーゲ他の論文から、ここまで述べてきたことのまとめのような核心的文章を抜き出すことにする。

症状との同一化の創造的効果…この同一化は特殊な内容に属してる。(……)

「欲動の現実界real of the drivesとの同一化」という考え方は、文字通り取られ得ないかもしれない。というのは、欲動は主体にとって異物のままであるから。欲動、あるいは対象aは、トラウマ的特性を保有している。ラカンは、症状から距離を取ることを強調して推奨した、「症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ、である」(Séminaire XXIV)。これが新しいシニフィアンの機能である。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

「欲動の現実界real of the drivesとの同一化」とは、ラカン後期概念の「症状」(サントームのある側面とイコール)との同一化であり、それは《文字通り取られ得ないかもしれない》のだ。同一化しつつも、それから距離を取ることが肝要なのである。

 Séminaire XXIVのラカン自身の言葉も掲げよう。

“En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.” J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 12/13, 1977, pp. 6-7


【サントームの臨床】

以下はミレール派のThomas Svolosによるサントーム小論(Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant)の一部私訳である。この論文は、2008年もしくは2009年に書かれているはずである。

サントームの臨床は、「普通の精神病」をもった主体の治療により大きな融通性をもたらしてくれる。排除の臨床では、治療は、父の名に錨を下ろした意味作用の流れに沿って方向づけられる。この臨床における享楽は、想像化された享楽imaginarized jouissanceであると、ミレールは特定する。すなわち象徴化の過程で避難させられた享楽だ、と。

反対に、サントームの臨床は、ラカンのララングによって示された方向に沿って組織される。それはシニフィアンと享楽のあいだの直接のリンクの上に築かれる。享楽の避難は、治療に効果を表す問題でありうるとはいえ、治療は意味作用や享楽の除去に向うだけではなく、意味作用と享楽のリンクに向かう。

エリック・ロランが特定するように、S1とS2の関係から、S1と対象aの関係への移行が、普通の精神病の臨床において決定的である。多くの治療において、享楽の量は元のままである(旧来のフロイトの概念を使用するなら)。とはいえ、精神病者は己れの享楽を飼い馴らす新しい方法を見出す。

主体のサントームは、主体の対象a、享楽のひとつ、彼の存在のサンブラン(見せかけ)に意味作用を持った同一化のリンクをする。このサントームを以て、主体は享楽自体ーーしばしば、精神病者にとってひどく破壊的な享楽ーーを除去するわけではない。むしろ享楽のお茶を濁す方法を見出すのだ。サントームは、精神病者にとってのララングのクッションの綴じ目なのである。

サントームは主体にとって社会的紐帯以外の何ものでもない。神経症の場合、父の名としてのサントームである。その父の名は〈大他者〉を構造化するものであり、あるいは、フロイトの読解なら、社会と無意識を統御するエディプス王、それは言説を統制するアリストテレスのトポスのようなものである。

しかし、その大抵の一般形式においては、サントームは社会的紐帯を構築する。どの話す存在にとっても〈大他者〉は存在しないとはいえ、〈大他者〉のサンブラン(見せかけ)はある。これが主体が利用する〈大他者〉であり世界を捉えるものである。それは、神経症の幻想を通してであったり、精神病者の最も風変りな仕方であったりするが、それらのサントーム的な、かつサンブラン化された〈大他者〉の構造化、ひどく型に嵌らない、〈大他者〉ーートポスの王を統御するあり方。

この状況において、分析家は、主体に作用するひとつの〈大他者〉an Otherを利用することによって、ーーそのひとつの〈大他者〉とは主体のサントームにとってぴったりの〈大他者〉だがーー精神病者を手助けする相当の自由の範囲をもつ。精神病の主体にとっての〈大他者〉the Otherのサンブランの練り上げのこの過程は、治療の方向性にとって、異なる水準を構成する。

"普通の精神病"をテーマにしたパリの英語セミネールにての最も目を瞠る事例のいくつかにおいて、われわれはまさにこの過程を聞くことができた。すなわち、"彼自身の個人的神話の創造"、"〈大他者〉とのひとつの絆の創造"、"世界において交渉可能性を彼に与える象徴的な母体の創造"、"〈大他者〉の言説へ入り込むことを彼女に容認させること"、そして"ファミリーロマンスを構築"。実にサンブランへの〈大他者〉の全き脱実体化であり、それは精神病者にとっての新しい診断の俯瞰図であるだけでなく、治療における新しい可能性の地平である。

※附記

もうひとつ、エリック・ロラン(彼はミレールに次ぐフロイトの大義派(Ecole de la Cause freudienne)を代表する分析家)の”Psychosis, or Radical Belief in the Symptom (2012)”を訳しておこう、とはいえ超訳であり、わたくしがそう読みとったという内容であるため、十分に原テキストを参照してもらわないと困る。

普通の精神病〉?(あんまりマジでうけとるなよ)…そのうち「精神病」という語彙は時代からズレてしまうさ…代わりに〈普通の妄想〉だよ……

父の機能は、ユルんだにしろ、まだ生き残ってるさ。より普通の地位の父だがね…オヤジ言葉で印象づけたり驚かしたり父がいるじゃないか…ミレールが言ってるが、現代の政治家だって、道化ているが、印象づけようとしているぜ…これが「普通の父の名」さ。(エリック・ロラン 超訳 2012)


ーーなお、当然のことながら、ここに書かれている見解とは異なった見解もあることだろう、多様な解釈がなされるラカンのテクストであるのだから。

(おそらく続く)