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2015年5月2日土曜日

主人のシニフィアンと統整的理念

松浦寿輝は、戦前の「国体」概念を《シニフィエの空虚それ自体によって初めて有効に機能しうるシニフィアン》(松浦寿輝『国体論』)としている。

これは主人のシニフィアンS1の定義と同じである。

なにが主人のシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)

あるいは、この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)

まさしく、「国体」というシニフィアンはこの機能をもったといえるだろう。それが去勢されていない絶対の権威として全日本人に機能したとは言い難いが、ある一定の割合の日本人には、そうだったに相違ない。

誰かが辞書を不変の権威として援用するなら、辞書は主人のシニフィアン、去勢されていない権威として機能する。(Levi R. Bryant,Žižek's New Universe of Discourse: Politics and the Discourse of the Capitalist)

ところで。養老孟司は「国体」について次のように言っているようだ。

強調したいのは「戦前においては、国体は現実であった」ということです。それが戦後、虚構に変わりました。一億玉砕にしても特攻隊にしてもそうですが、現実でなければ人間があのような行動をとるはずがありません。ところが戦後になるとそれは虚構に変わってしまいました。なぜかといえば、結局、現実といってもそれは我々の脳が決めているからです。(養老孟司『かけがえのないもの』)

あるいは、佐藤優は『日本国家の神髄 - 禁書「国体の本義」を読み解く』なる書名の本をはじめとして活発な国体論を展開しているようだが、彼の議論はネット上で引用されている断片を垣間読んだだけであり、ここではその話をするつもりはない。

いまはただ、空虚のシニフィアンが、ある決定的な役割をもつ場合がある、という「形式的」な機能を確認しておきたいだけだ。それがどんな場合にそうなるか、というのはひょっとして佐藤優の「国体」論にヒントがあるのかもしれないとは思うが。

この主人のシニフィアンの社会的絆を生みだす機能は、「国体」のような日本全体の共同体におけるものではなくてもよい。小さなコミュニティでもいい。

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)

さらには次のような指摘さえある。すなわち〈私〉という人一人称代名詞の主人のシニフィアンの典型的な機能である、と。

《S1、最初のシニフィアン、フロイトの“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom” とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン「私」である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。》(ポール・ヴェルハーゲ 1998)

《「私」を意味する(signifies)シニフィアン(言表行為の主体)は、意味されるsignifiedもののないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は、主人のシニフィアン (S1)であり、それは「普通の」シニフィアン(S2)の鎖とは対照的である》(ジジェク2012)


政治的にも、左右両陣営に、なんらかの「主人のシニフィアン」が少なくともかつてはあったはずだ。たとえば、「コミュニズム」や「マルクス主義」が、主人のシニフィアンとして機能していなかったはずはない。

現在世界を代表する「左翼」思想家の二人バディウ、ジジェクは、次のように新しい主人のシニフィアンを探し求めている。

バディウは時折、"正義"を主人のシニフィアンとするように提案する。"自由"や"民主主義"のようなあまりにもひどくイデオロギー的に意味付けられ過ぎた概念のかわりにすべきだというものだ。しかしながら正義についても同様な問題に直面しないだろうか。プラトン(バティウの主要な参照)は正義を次のような状態とする、すなわちその状態においては、どの個別の決断も全体性の内部、世界の社会秩序の内部にて、適切な場所を占めると。これはまさに協調組合主義者の反平等主義的モットーではないか。とすれば、もし"正義"を根源的な束縛解放を目指す政治の主人のシニフィアンに格上げしようとするなら多くの付加的な説明が必要となる。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012私訳)

社会的結合social bondを目指す言動を取るなら、主人のシニフィアンは欠かせないとさえ言えるだのではないか。その効能は、良い面、悪い面の両方があるに相違ないにしろ、集団が一致団結して活動するには欠かせない。

そもそもラカンの「主人のシニフィアン」の機能の起源のひとつは、フロイトの『集団心理学と自我の分析』における「たった一つの特徴」概念からである。


徴の最もシンプルな形、それは正しく言うならば、シニフィアンの起源である(S.17)。

ーーラカンは、フロイトの「たった一つの特徴trait unaire」を、彼がS1として書くものと繋げている(ジュパンチッチ
同一化は前記のように、感情結合のもっとも初期のもっとも根源的な形式である。そして症状形成や、したがって抑圧や無意識の機制が支配する条件のもとでは、対象選択がふたたび同一化になり、このようにして自我が、この同一化のさいに、ときには好まない人物を、また、ときには愛する人物を模写することは注目に値する。両方の場合はいずれもこの同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物の一つの特色(einen einzigen Zug)だけを借りていることも、われわれの注意をひくにちがいない。(『集団心理学と自我の分析』フロイト著作集6 人文書院 )

《Es muß uns auch auffallen, daß beide Male die Identifizierung eine partielle, höchst beschränkte ist, nur einen einzigen Zug von der Objektperson entlehnt.(Massenpsychologie und Ich-Analyse)》


例えば、柄谷行人の「NAM」や、その運動が失敗したあと、カントから拾い出した「世界共和国」は、主人のシニフィアンでなくてなんだろう。

もっとも柄谷行人の議論では、「コミュニズム」も「世界共和国」も統整的理念である(構成的理念に対する)。

キルケゴールは、「思弁は後ろ向きであり、倫理は前向きである」といった。その意味で、彼はヘーゲルからカントに戻っている。実は、マルクスも同様である。彼もヘーゲルからカントに向かったのだ。未来に向かって現状を乗り越える、つまり事前の立場に立つ者は、理性の統整的使用を必要とする。マルクスは歴史に関して構成的理念を一切斥けた。つまり、未来社会についての設計を語らなかった。彼にとって、コミュニズムは統整的理念である。そして、彼はそれを生涯保持した。

しかるに、コミュニズムを歴史の必然として、社会を理性的に構成しようとしたマルクス主義者は、ヘーゲルの事後的な立場を、事前の立場に持ち込んだことになる。そのようにして、統整的理念と構成的理念が混同される。「理性の構成的使用」は暴力的強制となる。その結果、理念一般が、あるいは理性一般が否定されるようになった。(柄谷行人 第一回 長池講義 講義録 2007)

とはいえ、主人のシニフィアン自体、構成的理念では決してなく、統整的理念寄りの機能をするものではないだろうか? そして統整的理念でさえも暴力的に働く場合があるのではないだろうか(ジジェクの近年の大著『パララックス・ヴュー』と『LESS THAN NOTHING』に、「統整的理念」に対する両義的な言及があるが、ここではそれには触れない)。

とはいえ、このあたりは柄谷行人のいう統整的理念概念を捉えきれていないせいかもしれない。今は統整的理念の明らかに良い面を叙する文章を掲げておこう。

たとえば、われわれが自然を認識できるだろうという「統整的理念」は、事実、発見的に働くのである。マンハッタン・プロジェクトに関与したというノーバート・ウィーナー(サイバネティックスの創始者)は、原爆製造に成功した後、防諜上最大の機密とされたのが、原爆の製造法ではなく、原爆が製造されたという情報であったといっている。同時期にドイツ・日本でもそれぞれ原爆の開発を進めていたので、それが製造されたという事実がわかれば、たちまち開発に成功するからである。詰め将棋の問題は実戦におけるよりはるかに易しい。かならず詰むという信が最大の情報である。自然界が数学的基礎構造をもつというのもそのような理論的な「信」である。この意味で、もし近代西洋においてのみ自然科学が誕生したとしたら、このような「理論的信」があったからだといってよい。(柄谷行人『トランスクリティーク』 p76-84

さて話をもとに戻せば、かつてのナチスにとって「ユダヤ人」は主人のシニフィアンとして機能したというジジェクの見解がある(ただし、それだけではなく、もう一つ対象aとして機能したという見解も併せてジジェクは語っているが、それは後に引用する)。

〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。大学のディスクールは、この判読可能性を、定義によって支える知のネットワークを詳述するわけだが、その言説は、当初の〈主人〉の仕草を前提条件とし、それに頼っている。〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。

ドイツにおける1920年代の反ユダヤ主義について考えてみよう。人びとは、混乱した状況を経験した。不相応な軍事的敗北、経済危機が、彼らの生活、貯蓄、政治的不効率、道徳的頽廃を侵食し尽した……。ナチは、そのすべてを説明するひとつの因子を提供した。ユダヤ人、ユダヤの陰謀である。そこには〈主人〉の魔術がある。ポジティヴな内容のレベルではなんの新しいものもないにもかかわらず、彼がこの〈言葉〉を発した後には、「なにもかもがまったく同じでない」……。たとえば、クッションの綴目le point de capitonを説明するために、ラカンは、ラシーヌの名高い一節を引用している、「Je crains Dieu, cher Abner, et je n'ai point d'autre crainte./私は神を恐れる、愛しのAbner よ、そして私は他のどんな恐怖もない。」すべての恐怖は一つの恐怖と交換される。すなわち神への恐怖は、世界のすべての出来事において、私を恐れを知らなくさせるのだ。新しい〈主人のシニフィアン〉が生じることで、同じような反転がイデオロギーの領野でも働く。反ユダヤ主義において、すべての恐怖(経済危機、道徳的頽廃……)は、ユダヤ人の恐怖と交換されたのだ。je crains le Juif, cher citoyen, et je n'ai point d'autre crainte. . ./私はユダヤ人を恐れる、愛する市民たちよ。そして私は他のどんな恐怖もない……。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)
ふたたび想いだしてみよう、ラカンのとんでもない言明を。もし嫉妬深い夫の彼の妻についての訴えが(周りの他の男たちと寝ているというヤツだ)すべて本当でも、彼の嫉妬はいまだ病的だという見解だ。この同じ線でいくと、我々はこう言うことさえできる。ユダヤ人についてのナチの殆どの訴えが本当でも(ドイツ人を搾取したり、ドイツの若い女たちを誘惑する…)、彼らの反ユダヤ主義は、いまだ病的だ(だった)と。というのは、それは、彼らのイデオロギーの立場支える本当の理由を抑圧しているからだ。

だから、反ユダヤ主義の場合、ユダヤ人が「実際にどうであるか」の知は、まやかしであり、見当違いだ。真実のポジションにある唯一の知は、なぜナチは、イデオロギーの体系を支えるために、ユダヤ人の形象が必要性なのかについてだ。この正確な意味において、分析家の言説が「生産する」のは、主人のシニフィアン、患者の知の「脱線」である。それは、 真理の水準にある患者の知の場に位置する剰余-要素なのである。すなわち、主人のシニフィアンが生産された後、知の水準では何も変わらなくてさえ、「同じ」知が異なったモードで機能し始める。主人のシニフィアンは無意識のサントームなのであり、享楽の暗号なのである。主体は、知らないままに、その主人のシニフィアンに支配されている。(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006 私訳)

さて、「ユダヤ人」は主人のシニフィアンだけでなく「概念上のユダヤ人」(かつてアドルノなどにより議論された)という用語を使って、対象aとして機能した側面についてのジジェクの指摘は多様であるがーーたとえばヘーゲルの「否定の否定」を取り出しての議論もあるーー、ここでは、難解な部分は端折り、一部だけ引用しておく。

要するに、父の名と“概念上のユダヤ人”の相違とは、象徴的フィクションと幻想的幽霊fantasmatic specterとの相違である。ラカンのアルジェブラではS1、すなわち主人のシニフィアン(象徴的権威の空のシニフィアン)と対象aの相違である。主体が象徴的権威を授けられるとき、彼はその象徴的肩書きの付属物として振舞う。すなわち〈大他者〉が彼を通して行動するのだ。幽霊的な現前の場合は、反対に、私が行使する力は“私自身のなかにあって私以上のもの”である。

しかしながら、去勢のシニフィアンとしてのファルスによって保証された象徴的権威と「概念的なユダヤ人」の幽霊的な現前とのあいだには決定的な相違がある。どちらの場合も、知と信念のあいだの分断を扱うにもかかわらず、このふたつの分断は根本的に異なった特質がある。最初の場合、信念は「目に見える」公的な象徴的権威にかかわる(私は父が不完全で弱々しいことを知っているにもかかわらず、私は父を権威の形象として受け入れる)。他方、二番目の場合、私が信じているのものは、目に見えない幽霊的な顕現である。幻想的な「概念上のユダヤ人」は象徴的権威の父権的形象、公的権威の"去勢された"担い手あるいは媒体ではない。そうではなく、何か決定的に異なったもの、正当なロジックを倒錯させる公的権威の不気味な分身である。彼は影として振舞う、公衆の眼には見えない、幻影のような、幽霊的全能性を照射するのだ。この測り知れなく捉えがたい彼のアイデンティティの核心にある地位によって、ユダヤ人はーー「去勢された」父とは対照的にーー去勢されていないものとして感知される。彼の実際の、社会的、公的な存在existenceが中断されればされるほど、その捉えがたい、幻想的な外-存在ex‐sistenceは人びとを脅かすようになる。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

存在existenceと外-存在ex-sistenceの違いについては、「女は男のサントームであるUne femme est pour tout homme un sinthome」を見よ。

外-存在ex-sistenceとは、もともと、ハイデガー概念Ekstaseである。

《ラカンのex-sistence (外ー存在)は、ハイデガーのSein und Zeit(存在と時間)の仏訳から。ドイツ語ではEkstaseであり、ギリシャ語ではekstasis(外に立つこと)》(フィンク,The Lacanian Subject)


ジジェク自身の多様な解釈自体、ラカンの主人のシニフィアン(あるいは象徴的ファルスΦ)と対象aの識別の困難さを表している。それは、ラカンにとって、理論的な問題あるいは仕事は、主人のシニフィアンと対象aのあいだの区別であると、ジジェクが、最近の書(2012)でさえ、括弧つきで洩らしているのからも窺える。

(For Lacan, the theoretical problem or task is here to distinguish between the Master‐Signifier and the objet a, both of which refer to the abyssal X in the object beyond its positive properties).(LESS THAN NOTHING)

ジジェクを初めとするラカン派の苦心のあり様は、「「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」」にて、いくらか見た。