このブログを検索

2015年2月26日木曜日

享楽とシニフィアン(ジュパンチッチ=ラカン)

《楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」》(ラカン『セミネールⅩⅩ アンコール』)

享楽(jouissanceは英語のenjoymentにあたるが、ラカンの英訳者たちはしばしば、その過剰でまさしく外傷的な性格を伝えるために、フランス語のままにしている。享楽はたんなる快楽ではなく、快感よりもむしろ痛みをもたらす暴力的な闖入である。われわれはふつうフロイトのいう超自我をそのようなものとして捉えている。われわれに無理な要求を次々に突きつけ、われわれがその要求に応えられないでいるのを大喜びで眺めている、残酷でサディスティックな倫理的審級として。だからラカンが享楽と超自我の間に等号をおいたのは不思議ではない。楽しむというのは、自分の自発的傾向に従うことではなく、むしろ気味の悪い、歪んだ倫理的義務としておこなうものである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳 p.138

上にあるように、enjoymentとはjouissanceのことである。ここでさらにジジェクの最近の書(2012)から英文のまま抜き出してみよう。

Here Lacan's key distinction between pleasure (Lust, plaisir) and enjoyment (Geniessen, jouissance) comes into play: what is “beyond the pleasure principle” is enjoyment itself, the drive as such. The basic paradox of jouissance is that it is both impossible and unavoidable: it is never fully achieved, always missed, but, simultaneously, we never can get rid of it—every renunciation of enjoyment generates an enjoyment in renunciation, every obstacle to desire generates a desire for an obstacle, and so on. This reversal provides the minimal definition of surplus‐enjoyment: it involves a paradoxical “pleasure in pain.” That is to say, when Lacan uses the term plus‐de‐jouir, one has to ask another naïve but crucial question: in what does this surplus consist? Is it merely a qualitative increase of ordinary pleasure? The ambiguity of the French expression is decisive here: it can mean “surplus of enjoyment” as well as “no enjoyment”—the surplus of enjoyment over mere pleasure is generated by the presence of the very opposite of pleasure, namely pain(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

”jouissance(享楽)”とは、ジジェクによればかくの如きものであるが、さて巷間でも「享楽」という語は、ラカン派(らしき)論者などによってしばしば使われる。“原子力の享楽”(斎藤環)とか”在特会の享楽”と翻訳できる主張やら、朝鮮人による享楽の搾取妄想などと。

猫飛ニャン助 @suga94491396

現代のレイシズムを享楽する(と想定された)他者のスケープゴート化と見なすミレール/ジジェクの分析は妥当と思うが、それに精神分析は対応できないというのも、そのとおり。処方あっても、「健全なナショナリズム」=「衣食足りて礼節を知る」を出まい。衣食足りずして礼節を知ることは可能か。(スガ秀美

この絓秀実氏によるツイートは、若き「優れた」ラカン派研究者である松本卓也氏の論文への反応のはずである。もしラカン派が日本で生き残るなら、松本氏の双肩にかかっていると思われるぐらいに彼は「優れて」いると思う。とはいえ、なぜ、わたくしは鉤括弧つきで二度も「優れた」と書くのであろうか・ ・ ・だがここではその話題ではない。

いずれにせよ「享楽」概念の捕捉は、一筋縄ではいかない。ラカンの娘婿でもあるジャック=アラン・ミレールなどは、ラカンの思想的変遷の文脈で「六つの享楽」を区別しているぐらいだ(参照:Paradigms Of Jouissance)。

以下は、ミレール曰くの五番目の享楽(セミネールⅩⅠ)と六番目の享楽(セミネールⅩⅩ)のあいだのセミネールⅩⅦをめぐる”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value"(Alenka Zupancic)PDFからである。

とはいえ、ジュパンチッチの論は、冒頭に上に掲げたミレールの享楽論を引用しており、そこには次のようにある。

Lacan's theory of discourses (or social bonds) is among other things a monumental and in many respects a groundbreaking answer to the question of the relationship between signifier and enjoyment. This point has already been made by Jacques-Alain Miller: before The Other Side of Psychoanalysis, Lacan's conceptual elaborations were based on a fundamental antinomy between signifier and enjoyment.Jacques-Alain Miller, Cf. "Paradigms of Jouissance" Lacanian Ink 17 (2,000):

この箇所は、上に掲げた英抄訳には記述されておらず、セミネールⅩⅦ(The Other Side of Psychoanalysis)の段階で、ラカンは画期的な移動をしたということになるらしい(ミレールの見解では)。とすれば、セミネールⅩⅩに現れた六番目の享楽の前段階としてセミネールⅩⅦには第5+1/2の享楽があるとすることができるのか、あるいはセミネールⅩⅩに現れた享楽はすでに、その痕跡としてセミネールⅩⅦにあるとするのかということになる(わたくしの臆断では後者であるが)。

だが、このあたりはシロウトの身としてあまりなにやら言わないでおくことにする。ミレールの弟子筋、《わたしは1986-88年に Paris VIII に留学し,Jacques-Alain Miller に直に Lacan 読解のしかたを学びました》とツイートする小笠原晋也氏などは、また次ぎのようなツイートもしているのだから。

Jacques-Alain Miller の jouissance の概念の理解も間違っています.彼は jouissance = réel と常々言っていますが,違います.

だがこれは上にリンクしたミレールの享楽論を読めば「寝言」というべきものだろう。浅田彰にとって、少なくともある時期まで(参照:ラカンの S(Ⱥ)をめぐって)、日本のラカン派で最も評価の高い小笠原晋也氏でさえも、このような寝言を言うのが「ラカン派」というものである。

ラカンの八つの論文 をできるだけ論理的に解読してみせた『ジャック・ラカンの書』(金剛出版、 1989年)を出版したときは、日本でもやっとまともなラカン派の書物が出たという印象をもったものだ。 その内容は古びておらず、つい最近も、ラカンを読みたいという学生に、 参考書のひとつとし薦したくらいである。

さてジュパンチッチの論は、もともとラカンの四つの言説をめぐっている。もともと英訳のセミネールⅩⅦ版(2006)に貼付された書き物のようであり、 Jacques-Alain Miller, Paul Verhaeghe,Russell Grigg, Ellie Ragland,Dominiek Hoens, Slavoj Zizek,Mladen Dolar, Alenka Zupancic,Oliver Feltham, Juliet Flower MacCannell,Dominique Hecq, Eric Laurent,Marie-Helene Brousse, Pierre-Gilles Gueguen, Geoff Boucher,Matthew Sharpeなどという錚々たるメンバーの論のなかのひとつであるーー錚々とはいいつつ、わたくしには見知らぬ名が二つ三つはあるのだが、概ねlacan.comなどで馴れ親しんだ名ではあるとしておこう。

というわけで、ジュパンチッチの論のその冒頭近くの箇所を仮に訳したが、わたくしにはやや手強い文章なのでーーたとえばenjoymentとjouissanceが混在しているーー、原文を中心に読んでいただくことを願う。

…………

But first—how does Lacan, in Seminar XVII, succeed in conceptually linking enjoyment with the signifier? Via the following suggestion which he repeats, in different forms, all through the seminar: the loss of the object, the loss of satisfaction, and the emergence of a surplus satisfaction or surplus enjoyment are situated, topologically speaking, in one and the same point: in the intervention of the signifier.

しかしまずーーセミネールXVIIにてラカンはいかにして、享楽enjoymentとシニフィアンsignifierを概念的にリンクさせ得たのであろうか? 彼が、異なった形で、このセミネールのすべてを通してくり返す示唆に従えば、次の如くである。対象の喪失、満足satisfactionの喪失、そして剰余満足surplus satisfactionあるいは剰余享楽surplus enjoymentの出現は、トポロジカルに言えば、ひとつであり同じ点に位置している、それはシニフィアンの介入interventionの場である、と。
Lacan develops this in reference to the notion that Freud introduces in his essay on Group Psychology, that is to say, in the work that constitutes precisely an inaugural attempt by Freudian psychoanalysis to think some essential aspects of the social (and the political). The notion at stake is that of the "unary trait" (einziger Zug) with which Freud points out a peculiar characteristics of (symbolic) identification. The latter is very different from imaginary imitation of different aspects of the person with which one identifies: in it, the unary trait itself takes over the whole dimension of identification.

ラカンはこれをフロイトが集団心理学のエッセイにて導入した概念に依拠して展開する。すなわち、フロイトの精神分析学が、社会的なもの(そして政治的なもの)の、或る本質的な側面を考える口開けの試みとして、まさに構成されるフロイトの仕事である。賭けられている概念は、「たったひとつの特徴」"unary trait" (einziger Zug) である。そのeinziger Zugにて、フロイトはある風変わりな(象徴的)同一化の特性を指摘する。この同一化は、想像的模倣とはまったく異なったものであり、その想像的模倣とは、他の人々の異なった側面と同一化するものである(想像的同一化:引用者)。象徴的同一化においては、「たったひとつの特徴unary trait」それ自体がすべての同一化の局面を引き受ける。
For example, the person with whom we identify has a peculiar way of pronouncing the letter r, and we start to pronounce it in the same way. That's all: there need be no other attempts to behave, dress like this other person, do what she does. Freud himself provides several interesting examples of this kind of identification—for instance, taking up a characteristic cough of another person. Or there is the famous example from a girl's boarding school: one of the girls gets a letter from her secret lover which upsets her and fills her with jealousy, which then takes the form of an hysterical attack. Following this, several other girls in the boarding school succumb to the same hysterical attack: they have known about her secret liaison, envied her her love, and wanted to be like her. Yet, the identification with her took this extraordinary form of identifying with the trait that emerged, in the girl in question, at the moment of the crisis in her relationship.

例えば、われわれが同一化する人物は、文字“r”を発音する風変わりな仕方があり、そしてわれわれはそれを同じような仕方で発音し始める。それがすべてである。他の振舞いを試みること、すなわち、この人物のように服を着る、彼女がすることをするなどは、必要がない。フロイト自身、この類の同一化のいくつかの興味深い例を提供している。例えば、他の人物の特有な咳の仕方を模倣する。あるいは少女の寄宿舎の名高い例がある。少女たちの一人が彼女の秘密の恋人から手紙を受け取った。その手紙は彼女を動顛させ嫉妬心で満たした。それはヒステリーの発作の形を取った。引き続いて、同じ寄宿舎の何人かの別の少女たちは同じヒステリーの発作に襲われる。彼女らは彼女の密通を知っており、彼女の愛を羨んでいた。そして彼女のようになりたい、と。とはいえ、この彼女との同一化は、奇妙な形をとっており、すなわち、問題の少女において、彼女の密かな恋の危機の瞬間に現われた特徴に同一化する形である。
This example is indeed most instructive. It circumscribes two essential points that Lacan takes up in relation to this Freudian notion. First, although the unary trait can be absolutely arbitrary, its significance for the subject that "picks it up" as the point of identification is of course not arbitrary at all. The uniqueness of the trait springs from the fact that it marks the relation of the subject to satisfaction or enjoyment, that is to say, it marks the point (or the trace) of their conjunction.

この例は実に最も得るところが大きい。というのは、ラカンがこのフロイトの概念にかんして取り上げた二つの本質的な点が外接しているからだ。第一に、たったひとつの特徴unary traitは、まったく気まぐれなものである。もちろん、同一化の点において“その特徴を取り上げる”主体にとっての意義は、まったく気まぐれなものではない。この特徴の類なさとは、次の事実から湧き出ている。それは、主体の満足あるいは享楽enjoymentへの関係性を徴づけるのだ。すなわち、彼女らの結合の点(あるいは痕跡)を徴づけるのである。
This is quite apparent in the boarding school example. Something else is also obvious in this example: the hysterical attack of the first girl is the trait (in this case, already a symptom) that commemorates her love affair at the precise point where there is an imminent danger of the girl losing the (beloved) object; hence her jealousy. This is the second important point of emphasis that Lacan picks up from Freud, and which concerns the link between loss, the unary trait, and a supplementary satisfaction. According to Freud, in the event of the loss of the object the investment is transferred to the unary trait that marks this loss; the identification with a unary trait thus occupies the (structural) place of the lost object. Yet, at the same time, this identification (and with it the repeating and reenacting of that trait) becomes itself the source of a supplementary satisfaction.

これは寄宿舎の例において並はずれて明瞭である。この例においては何か別のものがまた明らかになっている。最初の少女のヒステリーの発作は、“特徴trait”である(この事例では、すでに症状だが)。この特徴が彼女の情事を想起させる。想起させるのは、少女が愛する対象を喪う切迫した危機にあるまさにその瞬間において、である。すなわち嫉妬によって、ということだ。これは、ラカンがフロイトから取り上げて強調した二番目の重要なポイントである。そして、それは喪失、たった一つの特徴unary trait、そして埋め合わされた満足supplementary satisfactionのあいだの連携にかかわる。フロイトによれば、対象の喪失の出来事において、注ぎ込みinvestmentは、この喪失に徴づけられた「たった一つの特徴」に移転される。このたった一つの特徴との同一化は、このようにして、喪われた対象の(構造的な)場所を占める。とはいえ、同時に、この同一化(それとともに、その特徴の反復と再演)がそれ自体、埋め合わされた満足となる。
Lacan transposes this into his conceptual framework by interpreting the unary trait as "the simplest form of mark, which properly speaking is the origin of the signifier" (52). He links the Freudian unary trait to what he writes as S1. Furthermore, he delinearizes and condenses the moments of loss and supplementary satisfaction or enjoyment into one single moment, moving away from the notion of an original loss (of an object), to a notion of loss which is closer to the notion of waste, of a useless surplus or remainder, which is inherent in and essential to jouissance as such. This thinking of loss in terms of "waste" is also what leads him to introduce the reference to the thermodynamic concept of entropy, to which we return below.

ラカンはこれを彼の概念的な骨組みframeworkに転置する。それはたった一つの特徴unary traitを次のように解釈することによってである。《徴の最もシンプルな形、それは正しく言うならば、シニフィアンの起源である》(S.17)。ラカンは、フロイトのたった一つの特徴を、彼がS1として書くものと繋げている。さらに、彼は、喪失の瞬間と埋め合わされた満足あるいは享楽enjoymentをある唯一の瞬間に、非線形化delinearizeし濃縮condenseする。原初の喪失(対象の)の概念から逃れ去り、喪失の概念は、残滓wasteの概念、無用の剰余あるいは残存物remainderの概念に、より近づく。それが、享楽jouissanceそれ自体に固有であり本質的なものなのである。喪失を“残滓waste”の用語にて捉えようとするこの考え方は、ラカンをエントロピーという熱力学の概念への言及に導く。それについては後述する。
So, jouissance is waste (or loss); it incarnates the very entropy produced by the working of the apparatus of the signifiers. However, precisely as waste, this loss is not simply a lack, an absence, something missing. It is very much there (as waste always is), something to be added to the signifying operations and equations, and to be reckoned with as such. In Seminar XX, Lacan will sum up this status of enjoyment as loss-waste by the following canonical definition: "jouissance is what serves no purpose [La jouissance, c'est ce qui ne serf a rien]"

こういうわけで、享楽とは残滓(あるいは喪失)である。それは、シニフィアンの装置の働きによって生れた、まさにエントロピーに化身するincarnate。しかしながら、残滓について精密さを期すなら、この喪失は、単純には、欠如、不在、何かが欠けていることではない。それはまさにそこにあるもの(残滓はつねにあるものとして)であり、何かがシニフィアンの働きと均等化につけ加えられ、それ自体として認知されるのだ。セミネールⅩⅩにて、ラカンはこの喪失-残滓の地位statusを要約している。次の正典的な定義によってである、《享楽はなんの用途にも奉仕しない[La jouissance, c'est ce qui ne serf a rien]と。
This is precisely what distinguishes waste from lack: something is there, yet it serves no purpose. What it does, on the other hand, is necessitate repetition, the repetition of the very signifier to which this waste is attached in the form of an essential by-product. "Jouissance is what necessitates repetition," says Lacan, and he goes on to show how it is precisely on account of this that jouissance goes against life, beyond the pleasure principle, and takes the form of what Freud called the death drive. This is indeed a very significant shift in Lacan's conceptualization of jouissance.

これはまさに欠如から残滓を区別するものである。なにかがそこにある。しかしそれは何の用途にもなさない。他方で、それがすることは、余儀ない反復である。この残滓が本質的に副産物の形ではりついたそのまさにシニフィアンの反復である。《享楽は反復を余儀なくさせるものである》とラカンは言う。そして続けて示すのは、いかにして、まさにこの理由で、享楽は生に反するのか、快原則を超えたものなのか、フロイトが死の欲動と呼んだものの形を取るのか、ということである。これは、ラカンの享楽の概念化において、実に意義深い移動shiftである。
There is an immediate link between signifier and jouissance: it is by means of the repetition of a certain signifier that we have access to jouissance, and not by means of going beyond the signifier and the symbolic, by transgressing the laws and the boundaries of the signifier. Lacan makes a point of stressing several times that "we are not dealing with a transgression" (56). Let me quote the most significant passage:

ここにはシニフィアンと享楽jouissanceのあいだにじかのリンクがある。あるシニフィアンの反復によって、われわれは享楽jouissanceにアクセスする。そして、それはシニフィアンと象徴界を超えることによってではないのだ。かつまた法を逸脱したりシニフィアンの境界線を超えることによってではないのである。ラカンはなんどもこの点を強調している、《われわれは逸脱を扱っているのではない》。最も重要なパッセージを引用しよう。
[Enjoyment] only comes into play by chance, an initial contingency, an accident. The living being that turns over normally purrs along with pleasure. If jouissance is unusual, and if it is ratified by having the sanction of the unary trait and repetition, which henceforth institutes it as a mark—if this happens, it can only originate in a very minor variation in the sense of jouissance. These variations, after all, will never be extreme, not even in the practices I raised before [masochism and sadism],

〔享楽は〕ただ、偶然によって、皮切りの偶発性によって、事故によって、これらによってのみ動き始める。生きている存在はひっくりかえる、それは通常は快楽pleasureにごろごとと喉を鳴らしているのだが。もし享楽が普通でないものであり、そして、たった一つの特徴unary trait“とその反復の拘束によって裁可されるなら、――すなわち徴としての“たった一つの特徴”を実施することによってーーもしこれが起こるのなら、それは、享楽の意味におけるひどく些細なヴァリエーションにただ起源を持つのみである。これらのヴァリエーションは、結局のところ、けっして異常なものではない。私が以前掲げたマゾヒズムやサディズムの実践においてさえ、そうでない。(S.17)
So, what do we have here? First an accident, an initial contingency in which a subject encounters a surplus pleasure, that is to say jouissance; this encounter might be unusual in respect to the pleasure principle as norm, yet this does not mean that it is in any way spectacular or colossal. It is unusual, since it represents a deviation from the usual path of pleasure in the direction of jouissance, yet this deviation or divergence is never extreme, not even in what seem to be the most extravagant practices of enjoyment. It is bound to the repetition of the signifier that institutes it as a mark, and in this sense it always remains within the realm of the signifier. The status of jouissance (and of the death drive) is thus essentially that of something intersignifying, so to speak: it takes place, or gives body to, a gap or deviation that is internal to the field of signifies.

というわけだが、われわれはここになにを見るだろう? まず事故、皮切りの偶発性があり、そこで主体は剰余快楽surplus pleasureに遭遇する。すなわち享楽jouissanceである。この遭遇は、規範としての快原則の観点からは、一風変わったものかもしれない。しかしそれは次ぎのことを意味しない。どんな形であれ、奇観であったり桁外れのもの、それを意味しない。それは一風変わっているというのは、快楽の普通の道のりからの脱線を表しているからだ。とはいえこの脱線や逸脱はけっして異常なものではない。最も法外な享楽enjoymentの実践のようにみえるものにおいてさえそうではない。それはシニフィアンの反復に拘束されているのであり、その反復は徴として実行されている。そしてこの意味で、それはシニフィアンの領野の内部につねに留まっている。享楽の(そして死の欲動の)地位は、このようなわけで、言わば、本質的にシニフィアンの相互作用intersignifyingのなにかの場所にある。それは、シニフィアンの領野に内的な裂け目あるいは逸脱として発生し、あるいは体現する。
One could say that for the Lacan of Seminar XVII jouissance is nothing but the inadequacy of the signifier to itself, that is to say, its inability to function "purely," without producing a useless surplus. More precisely, this inadequacy of the signifier to itself has two names, appears in two different entities, so to speak, which are precisely the two nonsignifying elements in Lacan's schemas of the discourses: the subject and the objet a. To put it simply: the subject is the gap as negative magnitude or negative number, in the precise sense in which the Lacanian definition of the signifier puts it. Instead of being something that represents an object for the subject, a signifier is what represents the subject for another signifier. That is to say that subject is the inner gap of the signifier, that which sustains its referential movement. The objet a, on the other hand, is a positive waste that gets produced in this movement and that Lacan calls the surplus enjoyment, making it clear that there is no other enjoyment but surplus enjoyment, that is to say that enjoyment as such essentially appears as entropy.

人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、“純粋に”機能することの不可能性inabilityであると。より正確に言うなら、シニフィアンのそれ自身に対するこの不十分性とは、二つの名を持っている。言わば、二つの異なった実体entitiesにおいて現われるのだ。それはラカンのディスクール理論のシューマにおける二つの非シニフィアン化要素nonsignifying elementsである。すなわち主体と対象aである。シンプルに言おう。主体は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を代表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を代表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動きreferential movementを支えているのだ。他方、対象aは、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽surplus enjoymentと呼んだものである。剰余享楽surplus enjoymentのほかには享楽enjoymentはない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。


途中、フロイトの『集団心理学と自我の分析』における「寄宿舎」の話が出てくる。その箇所の引用は、「三種類の同一化(コレット・ソレール)」の末尾にある。


…………

※附記

さて、途中に小笠原晋也氏の発言を「寝言」と書いてしまったが、氏はその独自の解釈の仕方の出処を説明している。このあたりの正否は諸家のあいだでおかませすることにするが、シツレイなことを書いてしまったので、ここでその説明箇所を附記しておくことにする。結局、セミネールⅩⅦの解釈の仕方によるものである。

小笠原晋也氏による以下の文以降の箇所。

le signifiant, c'est la jouissance, et le phallus n'en est que le signifié.「徴示素は悦であり,ファロスはその被徴示にほかならない.」

したがって,Lacan が jouissance と言うとき,必ずではないとしても,多くの場合,それは症状の剰余悦のことであり,したがって,signifiant a で形式化されます.

ーー小笠原氏の訳語「徴示素」はシニフィアン、「被徴示」はシニフィエである。そして「剰余悦」とは剰余享楽のこと。

そして上に訳出したジュパンチッチの次ぎの文以降の叙述。

シニフィアンと享楽jouissanceのあいだにじかのリンクがある。あるシニフィアンの反復によって、われわれは享楽jouissanceにアクセスする。そして、それはシニフィアンと象徴界を超えることによってではないのだ。かつまた法を逸脱したりシニフィアンの境界線を超えることによってではないのである。ラカンはなんどもこの点を強調している、《われわれは逸脱を扱っているのではない》。

おそらくこのあたりに、ひとつの分岐点があるのではないか。

ラカンが剰余享楽surplus enjoymentと呼んだもの……。剰余享楽surplus enjoymentのほかには享楽enjoymentはない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。(ジュパンチッチ)

【小笠原晋也ツイッターセミネールより】

Bonjour, mes amis ! 今,我々が多かれ少なかれ Lacan を読解することができるようになったとすれば,それは Jacques-Alain Miller のおかげです.それは,彼が Séminaire を編纂しているからだけではありません.

Jacques-Alain Miller 以前には Lacan の教えをその全体において把握し得た者はいませんでした.わたしは1986-88年に Paris VIII に留学し,Jacques-Alain Miller に直に Lacan 読解のしかたを学びました.

わたしだけでなく,世界中の lacaniens が Jacques-Alain Miller に恩義を感じている,と言ってもおおげさではありません.わたしがしていることは,Jacques-Alain Miller による Lacan 読解の模倣にすぎません.

わたしの作業は,Jacques-Alain Miller の Lacan 読解作業の延長線上に位置しています.しかし,Jacques-Alain Miller も,人間ですから,無謬ではあり得ません.彼の Séminaire のテクスト確立作業に対して批判があるのは事実です.

Jacques-Alain Miller も,これは Miller 版の Lacan だ,と公言しています.それだけではありません.一部の概念の解釈に関して,Jacques-Alain Miller の言っていることは misleading です.

実際,わたしは,Jacques-Alain Miller の解釈に基づいて Lacan を読み解こうとして幾つかの障碍を経験してきました.それらの障碍を克服するためには,改めて Lacan のテクストを読み込まなくてはなりませんでした.

加えて,Heidegger と神学を経由することが大いに手助けになりました.Jacques-Alain Miller の解釈のうちわたしが今は誤りだと思っているものを幾つか挙げてみましょう.

ひとつは,un signifiant représente le sujet pour un autre signifiant 「ひとつの徴示素は,主体を,もうひとつのほかの徴示素に対して代表する」という命題の解釈です.

Jacques-Alain Miller はこの命題を常に,支配者の言説の構造を表言するものと教えています:「S1 が $ を S2 に対して代表する」.第二に,欲望 désir は,欲望のグラフにおけるイタリック体で記された d として,imaginaire なものである.

第三に,jouissance = réel. 悦 = 実在.この解釈に準拠しつつ,Jacques-Alain Miller はしばしば,A / J barré という学素を黒板に書いていました.A は,徴示素の場処としての他 A です.J は jouissance です.

三番目のものから検討すると,1971-72年の Séminaire ...Ou pire で Lacan はこう言っています: le signifiant, c'est la jouissance, et le phallus n'en est que le signifié.

「徴示素は悦であり,ファロスはその被徴示にほかならない.」この命題は,我々の学素 a / φ barré を文字どおりに表言しています.a は,四つの言説においては le plus-de-jouir 「剰余悦」です.φ barré は,書かれぬことをやめない徴示素ファロスです.

したがって,Lacan が jouissance と言うとき,必ずではないとしても,多くの場合,それは症状の剰余悦のことであり,したがって,signifiant a で形式化されます.もうひとつ例を挙げるなら,Ecrits に収録されている1964年の短いテクスト

『フロイトの "本能" と精神分析家の欲望とについて』にこうあります:Le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose. 「欲望は他 A に由来し,そして,悦は物の側にある」.

ここでは欲望と悦とが対置されています.Lacan の欲望の概念は Freud の本能(欲動)の概念の取り上げ直しであり,悦の概念は Lust の概念を再検討することによって作られました.Freud は,本能の満足は Lust に満ちている,と公式化しています.それに照合すれば,

悦は,欲望の満足です.ただし,全的な満足ではなく,部分的な満足です.精神分析においてかかわる「本能」は常に「部分本能」ですから.ところで,欲望の満足は客体において達成されます.さきほどの命題では Lacan は客体を「物」と呼んでいます.そして,欲望は manque à être

存在欠如,他 A の場処のなかの欠如,つまり,欠如せる徴示素ファロス φ barré です.かくして,やはり a / φ barré の構造に準拠することによって,欲望は φ barré として signifié の座に位置づけられ,悦は徴示素の座の a です.

次に,欲望は imaginaire であるか?欲望のグラフでは確かに,欲望 d は幻想 ($◊a) と対にされて imaginaire な項として措定されています.しかし,1958-59年の Séminaire VI 『欲望とその解釈』にはこの命題が見出されます:

La chose freudienne, c'est le désir. 「フロイト的な物,それは欲望である」.先ほどの命題では「物」は客体 a でしたが,ここでは違います.「フロイト的な物」は,主体の存在の真理であり,四つの言説の構造において左下の真理の座に位置します.

つまり,欲望は φ barré です.この解釈は,欲望は manque à être 存在欠如である,という命題と合致します.かくして,欲望は,imaginaire ではなく,而して,不可能としての実在 le réel である,と言わねばなりません.

最後に un signifiant représente le sujet pour un autre signifiant については,1964年の書『無意識の位置』において Lacan は,「それは formation de l'inconscient すべての構造である」

と言っています.formation de l'inconscient 「無意識の成形」とは,精神分析において解釈されるべき夢,しそこない,言いそこない,Witz, 症状などの現象のことです.Freud が「夢が願望満就である」と言ったように,無意識の成形には悦が含まれています.

より正確には,無意識の成形は剰余悦の成形であり,したがって,a / φ barré の構造を有しています.このことは,1967年に Lacan がパスの手続きを提起した論文においても確認されます.

「ひとつの徴示素は主体をもうひとつのほかの徴示素に対して代表する」は,支配者の言説のことを言っているのではなく,分析家の言説の構造を表言しています.ひとつの徴示素 a は,主体の存在の真理 φ barré を,もうひとつのほかの徴示素 $ に対して代表しているのです.

このことに気づくことによってやっと Lacan を一貫したしかたで読むことができるようになった,とわたしは感じました.それまでは,四つの言説の構造をどう理解すべきかは,大きな難題でした.

しかし,Lacan のことを最も良く理解しているはずの Jacques-Alain Miller がどうしてこのような誤解をしてしまったのでしょうか?思うに,その根にあるのは,1964-65年の Séminaire XII で Lacan が提起した命題:

le a est de l'ordre du réel 「a は,実在の位のものである」です.Jacques-Alain Miller はその前年度の Séminaire XI から Lacan を聴講し始めました.彼は当時まだ20-21歳です.

彼の頭にはこの「a は実在の位のものである」が刷り込まれたはずです.しかも,彼は,Lacan の教え全体を見渡して,a の概念の変遷を chronologique なものと捉えました.まずは a は自我-他者として imaginaire であった.

次いで,signifiant として symbolique であった.今や a は réel である.ところが,a の概念の多様性は chronologique なもの,diachronique なものではなく,構造論的なもの,synchronique なものと考えるべきです.

a は,同時に,imaginaire であり,symbolique であり,réel なものです.このことは,RSI のボロメオ結びの中央部分,RSI 三者の交わりに a が置かれていることに表されています.

ところが,Jacques-Alain Miller は,imaginaire, symbolique, réel の順で a の概念は時間的に変遷したのだ,と捉えた.ですから,彼は,Encore の命題「a は semblant 仮象だ」の位置づけに困っていました.

Jacques-Alain Miller は,Lacan の教えをその時間的な展開において区切って整理しようとします.そのような考え方は「最晩年の Lacan」という Miller の表現にも表れています.それはひとつの解釈です.わたしも大いに助けられました.

しかし,今はわたしはむしろ,Lacan の教え全体を chronologique な発展の観点においてではなく,ひとつの一貫した構造として捉えたいと思っています.その一貫した構造の基礎を成すのが,「存在のトポロジー」と Heidegger が呼ぶもの,つまり,

φ barré という Ab-grund 深淵の場処,処有です.

《今はわたしはむしろ,Lacan の教え全体を chronologique な発展の観点においてではなく,ひとつの一貫した構造として捉えたいと思っています.》とある。

他方、ミレールやジジェク、あるいはジュパンチッチのように、chronologique、すなわち年代順に、大きな転換があるとする各々の立場もある。

ミレールは 2000-2001 年のセミネールにおいて、ラカンの教えを三つの時期に分けた。ラカンの体系の区分は研究者によって異なるが、ミレールは前期をセミネール 1 から 10までの時期(1953-1963)、中期をセミネール 11 から 21 までの時期(1964-1974)、後期を「第三の女」とセミネール 22 から 27 までの時期(1974-1980)とした 29)。そして、翌年のセミネールにおいて、 それぞれの時期に対応するものとして、 「ラカンの三つの臨床」を提示している。ラカン第一臨床は「同一化の臨床」、ラカン第二臨床は「幻想の臨床」、ラカン第三臨床は「サントームの臨床」とされている。(赤坂和哉『ラカン的臨床への助走』)

こういったミレール流のラカンは図式的すぎるとの批判は、ラカン派でなくても、いくらかラカンやジジェクに興味のある人はーーわたくしのような、という意味であるーー、おそらく耳にしたことがあるだろう。

蓮實重彦と浅田彰の対談『新潮』(2005年5月号)より  

ラカン派であれ何であれ、精神分析には分析を受けることでしか伝わらない何かがあって、それは映画作家から映画作家にしか伝わらないものがあるというのに近いんです。それを、ラカン派というのは要するにこういうものなんだよ、とマンガ的に図解した途端、それは嘘になってしまうわけです。(中略)……(ラカンの娘婿である)ミレールの校訂するラカンのセミネールより海賊版の方が正確なのに著作権継承者として海賊版の出版を差し止めたりするといった状況になっているとき、旧社会主義政権下のスロヴェニアの反体制知識人で、ヘーゲル=マルクス主義のベースを除けば、アメリカ文化への憧れから映画でも何でも貪欲に吸収してきたに過ぎないジジェクという野蛮人が無手勝流で乗り込んできて、ヒッチコックをラカン的に理解するというか、むしろラカンをヒッチコック的に理解してみれば、要するにこうだろう、とマンガ的に整理した、それでずいぶん風通しがよくなって、ラカン=ミレール派が世界的に流通することになったわけですね。

ここでは最後に、このブログで最近引用したり試訳したりすることの多いポール・ヴェルハーゲーー彼はミレールの「ふつうの精神病」概念に叛旗を翻している人物でもあるし、上に掲げた英訳のセミネールⅩⅦ版(2006)への諸家の解読論文において、冒頭のミレールの論文の次に続く形でその論が掲載されている人物でもあるーーその彼の見解を掲げておくことにする。

Studies of Lacan's work may start from two different points of view. Either one considers that everything is there, right from the start, and the rest of his work is just one long elaboration of what was contained in the beginning. The standard example of this approach is found in those Freud scholars who include the whole of his theory into the early Project for a Scientific Psychology. Or one considers his theory and teaching as a ‘work in progress' marked by an evolution consisting of drastic changes. Both approaches can be defended. I have opted for the second one, which does not mean that we will not also be confronted with the first option at times.(Paul Verhaeghe, P. (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real._)


《Lacan の教え全体を chronologique な発展の観点においてではなく,ひとつの一貫した構造として捉えたいと思っています》だと? ーー「寝言」である。

それがソシュールであれ誰であれーーラカンであれーー、必ずしも一貫した言説を担い続けていたとはいいがたいひとりの作家を前にした場合、そのさまざまな発言の矛盾を弁証法的に統合することで、そこに初めてその“正しい”「全体像」がかたちづくられるはずだといったたぐいの議論など、にわかに信じることはできないからである。(蓮實重彦『「魂」の唯物論的擁護にむけて――ソシュールの記号概念をめぐって』)

いや、だが、「寝言」が目覚めているときの「思想」より正しいということは、時と場合によって、あり得る、とはしておこう。

というのは、夢に現れる思想の方がしばしば他の思想より力強くはっきりしていることがある以上、夢の思想のほうが他より偽であると、どうして確かに知りうるのであろうか。(デカルト「方法序説」)

‘work in progress' の選択をするヴェルハーゲ自身、これはラカンではないが、フロイトの読解において、初期フロイトーー『夢判断』以前の1890年代の仕事ーーに遭遇してしまった臨床医である(参照:フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」)。