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2015年2月28日土曜日

通俗作家 荷風

元々荷風といふ人は、凡そ文学者たるの内省をもたぬ人で、江戸前のたゞのいなせな老爺と同じく極めて幼稚に我のみ高しと信じわが趣味に非ざるものを低しと見る甚だ厭味な通人だ。彼は「東綺譚」に於て現代人を罵倒して自己の優越を争ふことを悪徳と見、人よりも先じて名を売り、富をつくらうとする努力を罵り、人を押しのけて我を通さうとする行ひを憎み呪つてゐるのである。(坂口安吾『通俗作家 荷風 ――『問はず語り』を中心として―― 」)


大久保余丁町での家族写真(右から末弟威三郎、次弟貞二郎、父久一郎、荷風、母恒)明治35年

荷風は生れながらにして生家の多少の名誉と小金を持つてゐた人であつた。そしてその彼の境遇が他によつて脅かされることを憎む心情が彼のモラルの最後のものを決定してをり、人間とは如何なるものか、人間は何を求め何を愛すか、さういふ誠実な思考に身をさゝげたことはない。それどころか、自分の境遇の外にも色々の境遇がありその境遇からの思考があつてそれが彼自らの境遇とその思考に対立してゐるといふ単純な事実に就てすらも考へてゐないのだ。(同上)

右より壮吉、恆、久一郎、威三郎、貞二郎
1902年〜1903年ころ、余丁町永井邸にて

私が荷風を根柢的に通俗と断じ文学者に非ずと言をなしたのは……筆を執る彼の態度の根本に「如何に生くべきか」が欠けてをり、媚態を画くに当つて人の子の宿命に身を以て嘆くことも身を以て溺れることも身を以てより良く生きんとすることもない。単なる戯作の筆と通俗な諦観のみではないか。(同上)

ーーというわけだが、なぜわたくしはそれでも荷風を愛するのだろう。ーーそんなことがわかるわけのものではない。「それ自身を知らない知」(ラカン)である。

だが「最も静かな時刻」には、「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはそれを語らない」( Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! )。…………

断膓亭日記巻之二大正七戊午年 (荷風歳四十)

八月八日。筆持つに懶し。屋後の土蔵を掃除す。貴重なる家具什器は既に母上大方西大久保なる威三郎方へ運去られし後なれば、残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひゐたしに、此日土蔵の床の揚板をはがし見るに、床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑籠などに包みたるものあまたあり。開き見れば先考の徃年上海より携へ帰られし陶器文房具の類なり。之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人〻に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。

…………

大正八年十一月十五日。威三郎不在と聞き、西大久保に赴き慈顔を拝す。鷲津牧師も亦来る。始て一家団欒の楽を得たり。

大正十二年九月四日。曶爽家を出で青山権田原を過ぎ西大久保に母上を訪ふ。近巷平安無事常日の如し。下谷鷲津氏の一家上野博覧会自治館跡の建物に避難すと聞き、徒歩して上野公 園に赴き、処ゝ尋歩みしが見当らず、空しく大久保に戻りし時は夜も九時過ぎなり。疲労して一宿す。この日初めて威三郎の妻を見る。威三郎とは大正三年以 後義絶の間柄なれば、其妻子と言語を交る事は予の甚快しとなさゞる所なれど、非常の際なれば已む事を得ざりしなり。


(左より荷風(壮吉)次弟貞二郎、母恒、外祖母鷲津美代右 永井恒 42歳の時の写真)

昭和十二年 荷風散人年五十九

三月十八日。くもりにて風寒し。土州橋に往き木場より石場を歩み銀座に飯す。家に帰るに郁太郎より手紙にて、大久保の母上重病の由報ず。母上方には威三郎の家族同居なるを以て見舞にゆくことを欲せず。万一の事ありても余は顔を出さざる決心なり。これは今日俄に決心したるにはあらず、大正七年の暮余丁町の旧邸を引払ひ築地の陋巷に移りし際、既に夙く覚悟せしことなり。余は余丁町の来青閣を去る時その日を以て母上の忌日と思ひなせしなり。郁太郎方への二十年むかしの事を書送りてもせんなきことなれば返書も出さず。当時威三郎の取りし態度のいかなるかを知るもの今は唯酒井晴次一人のみなるべし。酒井も久しく消息なければ生死のほども定かならず。
四月三十日。くもりて南風つよし。午後村瀬綾次郎来りて母上の病すゝみたる由を告ぐ。されど余は威三郎が家のしきみを跨ぐことを願はざれ ば、出でゝ浅草を歩み、日の暮るゝをまち銀座に飯し富士地下室に憩ふ。いつもの諸氏の来るに会ふ。是日平井程一氏{佐藤春夫門人}書を寄す。拙作『濹東』 についての批評なり。

    余と威三郎との関係

一 威三郎は余の思想及文学観につきて苛酷なる批評的態度を取れるものなり。

一 彼は余が新橋の芸妓を妻となせる事につき同じ家に住居することを欲せず、母上を説き家屋改築の表向の理由となし、旧邸を取壊したり。余が大正三年秋余丁町邸内の小家に移りしはこれがためなり。邸内には新に垣をつくり門を別々になしたり。

一 余は妓を家に入れたることを其当時にてもよき事とは決して思ひ居らざりき。唯多年の情交俄に縁を切るに忍びず、且はまた当時余が奉職せし慶応義塾の人々も悉く之を黙認しゐたれば、母上とも熟議の上公然妓を妻となすに至りしなり。

一 彼は大正五年某月余の戸籍面より其名を取り去りて別に一家の戸籍をつくりたり。これによりて民法上兄弟の関係を断ちたるなり。

一 彼は結婚をなせし時其事を余に報知せず。(当時余は築地に住居せり)故に余は今日に至りても彼が妻の姓名其他について知るところなし。

一 余が家の書生たりしもの{先考の学僕なり}の中、小川守雄米谷喜一の二人は母上方へ来訪の際、庭にて余の顔を見ながら挨拶をなさゞりことあり。是二人は平生威三郎と共に郊外遠足などなし居りし者なり。

一 地震{大正十二年}の際、余母上方へ御機嫌伺に上りし時、威三郎の子供二人余に向ひて「早く帰れ早く帰れ」と連呼したり。子供は頑是なきものなり。平生威三郎等が余の事をあしざまに言ひ居るが故に子供は憚るところなく、此の如き暴言を放ちて恐れざるなり。

一 以上の理由により、余は母上の臨終及葬式にも威三郎方へは赴くことを欲せざるなり{威三郎一家は母上の隠居所に同居なせるを以てなり}
九月九日。 晡下雷鳴り雨来る。酒井晴次来り母上昨夕六時こと切れたまひし由を告ぐ。酒井は余と威三郎との関係を知るものなれば唯事の次第を報告に来りしのみなり。葬式は余を除き威三郎一家にて之を執行すと云ふ。共に出でゝ銀座食堂に夕飯を食す。尾張町角にて酒井と別れ、不二地下室にて空庵小田某他の諸氏に会ふ。雨やみて涼味襲ふがごとし。

〔以下欄外朱書〕母堂鷲津氏名は恒文久元年辛酉九月四日江戸下谷御徒町に生る儒毅堂先生の二女なり明治十年七月十日毅堂門人永井久一郎に嫁す一女三男を産む昭和十二年九月八日夕東京西大久保の家に逝く雜司谷墓地永井氏塋域に葬す享寿七十六。追悼。泣きあかす夜は来にけり秋の雨。秋風は今年は母を奪ひけり。

《日記も、読まれることを予想して書かれることがしばしばある。永井荷風の『断腸亭日乗』やジッドの『日記』は明らかにそうであろう。精神医学史家エランベルジェは、日記を熱心に書きつづける人には独立した「日記人格」が生まれてくると言っている。日記をつける人も読む人も、このことは念頭に置くほうがよいだろう。》(中井久夫「伝記の読み方、愉しみ方」『日時計の影』所収ーー
大雨沛然たり」より)


(おそらく続く、だがおそらくであり、またいつのことやらわからない)


ここではかわりに安吾の志賀直哉、夏目漱石罵倒文を掲げておく。

志賀直哉の一生には、生死を賭したアガキや脱出などはない。彼の小説はひとつの我慾を構成して示したものだが、この我慾には哲学がない。彼の文章には、神だの哲学者の名前だのたくさん現われてくるけれども、彼の思惟の根柢に、たゞの一個の人間たる自覚は完全に欠けており、たゞの一個の人間でなしに、志賀直哉であるにすぎなかった。だから神も哲学も、言葉を弄ぶだけであった。

夏目漱石も、その博識にも拘らず、その思惟の根は、わが周囲を肯定し、それを合理化して安定をもとめる以上に深まることが出来なかった。然し、ともかく漱石には、小さな悲しいものながら、脱出の希いはあった。彼の最後の作「明暗」には、悲しい祈りが溢れている。志賀直哉には、一身をかけたかゝる祈りは翳すらもない。(坂口安吾「志賀直哉に文学の問題はない 」)
夏目漱石といふ人は、彼のあらゆる知と理を傾けて、かういふ家庭の陰鬱さを合理化しようと不思議な努力をした人で、そして彼はたゞ一つ、その本来の不合理を疑ることを忘れてゐた。つまり彼は人間を忘れてゐたのである。かゆい所に手がとゞくとは漱石の知と理のことで、よくもまアこんなことまで一々気がつくものだと思ふばかり、家庭の封建的習性といふものゝあらゆる枝葉末節のつながりへ万べんなく思惟がのびて行く。だが習性の中にも在る筈の肉体などは一顧も与へられてをらず、何よりも、本来の人間の自由な本姿が不問に附されてゐるのである。人間本来の欲求などは始めから彼の文学の問題ではなかつた。彼の作中人物は学生時代のつまらぬことに自責して、二三十年後になつて自殺する。奇想天外なことをやる。そのくせ彼の大概の小説の人物は家庭的習性といふものにギリ/\のところまで追ひつめられてゐるけれども、離婚しようといふ実質的な生活の生長について考へを起した者すらないのである。彼の知と理は奇妙な習性の中で合理化といふ遊戯にふけつてゐるだけで、真実の人間、自我の探求といふものは行はれてゐない。自殺などといふものは悔恨の手段としてはナンセンスで、三文の値打もないものだ。より良く生きぬくために現実の習性的道徳からふみ外れる方が遥かに誠実なものであるのに、彼は自殺といふ不誠実なものを誠意あるものと思ひ、離婚といふ誠意ある行為を不誠実と思ひ、このナンセンスな錯覚を全然疑ることがなかつた。そして悩んで禅の門を叩く。別に悟りらしいものもないので、そんなら仕方がないと諦める。物それ自体の実質に就てギリ/\のところまで突きとめはせず、宗教の方へでかけて、そつちに悟りがないといふので、物それ自体の方も諦めるのである。かういふ馬鹿げたことが悩む人間の誠実な態度だと考へて疑ることがないのである。日本一般の生活態度が元来かういふフザけたもので、漱石はたゞその中で衒学的な形ばかりの知と理を働かせてかゆいところを掻いてみたゞけで、自我の誠実な追求はなかつた。(坂口安吾「デカダン文学論」)