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2019年12月26日木曜日

牝鶏の歌



そもそも女というものは、自然がわれわれ男の必要と快楽を満足させるために与えた家畜ではないかね? われわれの家畜飼育場の牝鶏より以上に、彼女たちがわれわれの尊敬を受けねばならぬという、どんな権利があるのだね? この二つのあいだに見られる唯一の違いは、家畜というものが従順なおとなしい性格によって、なんらかの意味でわれわれの寛容なあしらいを受けるに値するのに対し、女は許術、悪意、裏切り、不実といった永遠に根治しない性質によって、過酷と乱暴なあしらいしか受けるに値しない、ということではないかね?(サド『悪徳の栄え』)




――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、意識的であろうと無意識的であろうと、幻想は、愛の対象の選択よりも享楽の場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりする être battue, violée ことを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だ être une autre femme,と想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいない être ailleurs, absente と想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(ジャック=アラン・ミレール On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " ,2010)




古典的に観察される男性の幻想は、性交中に別の女を幻想することである。私が見出した女性の幻想は、もっと複雑で理解し難いものだが、性交中に別の男を幻想することではない。そうではなく、その性交最中の男が彼女自身ではなく別の女とヤッテいることを幻想する。その患者にとって、この幻想がオーガスムに達するために必要不可欠だった。…

この幻想はとても深く隠されている。男・彼女の男・彼女の夫は、それについて何も知らない。彼は毎晩別の女とヤッテいるのを知らない…これがラカンが指摘したヒステリー的無言劇である。その幻想ーー同時にそのように幻想することについて最も隠蔽されている幻想は(女性的)主体のごく普通の態度のなかに観察しうるがーーそれを位置付けるのは容易ではない。(ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm) 









入れたままの一物まだ小さくなる暇なきを幸、そつと下から軽く動して見るに、女は何とも言はず、今方やつと静まりたる息づかひすぐにあらくさせて顔を上げざれば、こりやてつきり二度目を欲する下心と、内心をかしく、暫くして腰を休めて見るに、女は果せる哉、夢中にて上から腰をつかふぞ恐ろしき。 (荷風「四畳半襖の下張」)


原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。

ーー西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より


性交の喜びを10とすれば、男と女との快楽比は1:9である。(ティレシアスの神話)
性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier(ラテン語格言、ギリシャ人医師兼哲学者Galen)
われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは…かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝(ティトゥス・イリウス・プロクルス)とある皇后(クラディウス帝の妃メッサリナ)自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上のことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。(モンテーニュ『エセー』)



不安セミネール10において、ラカンは言う…「女は何も欠けていない La femme ne manque de rien」、ラカンは強調する、「それは明らかだ 」と。…

最初の転倒がある。

享楽への道 le chemin de la jouissance において、困惑させられるのは男である。男は選別されて去勢に遭遇する。勃起萎縮 détumescenceである。…われわれが性行為のレベルで物事を考えるなら、道具器官の消滅を扱うなら、ラカンが証明していることは、以前の教えとはまったく逆に、欲望と享楽に関して、当惑・困窮するのは男性主体である。

そしてここに始まる、ラカンによる女性性賛歌が。女性の劣等性ではなく優越性である。…享楽に関して、性交の快楽に関して、女性主体は何も喪わない le sujet féminin ne perd rien。…

ラカンはティレシアスの神話に援助を求めている。それは享楽のレベルでの女性に優越性を示している。…

ここに、かてつ分析ドクサだったもの全ての、際立ったどんでん返しがある。喪失するのは男なのである。というのは、性交において、男は器官を持ち出し、去勢を見出すから。男は賭けをする。そして喪うのは男である。…ラカンは、性交によっても、女は無傷のまま、元のままであることを示している。(Jacques-Alain Miller, INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 2004年)



2017年10月16日月曜日

荷風と安吾への同一化

まず、ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「同一化 Identifications」の項より。

いろいろな恋愛関係を眼にするたびに、わたしはこれを凝視し、自分が当事者だったらどのような場を占めていたかを標定しようとする。類似 analogies ではなく相同 homologies を知覚するのだ。 Xに対するわたしの関係は、 Zに対するY の関係に等しいことを確認するのである。そのとき、わたしとは無縁で未知ですらある人物、 Yについて聞かされることが、すべて、わたしに強い影響を与えることになる。わたしは、いわば鏡に捕らえられている。この鏡はたえず移動しており、双数構造 structure duelle のあるところならどこででもわたしを捕捉するのだ。さらに悪い状況を考えれば、このわたしが、自分では愛していない人から愛されていることもあるだろう。それは、わたしにとって助けとなる(そこから来るよろこび、あるいは気晴らしによって)どころか、むしろ苦痛な状況である。愛されぬままに愛している人の内に、自分の姿を見てしまうからだ。わたし自身の身振りを目のあたりにしてしまうからだ。今や、この不幸の能動的主辞 agent actif はわたしである。わたしには自分が犠牲者であって同時に死刑執行人でもあると感じられる。

このバルトの「同一化」の項は、おそらくフロイトの次の記述を参照している筈である。

自我が同一化のさいに⋯⋯この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の一つの特色 einzigen Zug (一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。(⋯⋯)そして、同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

フロイトは同一化するから同情する、と言っている。これは同一化するから愛する、と言い換えることもできる。人は、愛するから同一化するのはなく、同一化するから愛するのである。

ーー《フロイトが「一の徴 einzige Zug」と呼んだもの(ラカンの trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。》(『ジジェク自身によるジジェク』2004、私訳)

われわれは、…次のように要約することができよう。第一 に、同一化は対象にたいする感情結合の根源的な形式であり、第二に、退行の道をたどっ て、同一化は、いわば対象を自我に取り入れる Introjektion ことによって、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代用物になり、第三に、同一化は性的衝動の対象ではない他人との、あらたにみつけた共通点のあるたびごとに、生じることである。この共通性が、重大なものであればあるほど、この部分的な同一化 partielle Identifizieruitg は、ますます効果のあるものになるにちがいなく、また、それは新しい結合の端緒にふさわしいものになるにちがいない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

ーーフロイトにとって肝腎なのは「部分的な同一化 partielle Identifizieruitg 」である。

⋯⋯⋯⋯

わたくしは中年過ぎから(真に)愛するようになった(日本の)作家に永井荷風と坂口安吾がある。荷風は三十歳前後、安吾はつい最近(三年ほど前)である。

「好き」であるなら前からそうだったかもしれない。今言っているのは、ロラン・バルトのいう意味での「愛する」である。

ストゥディウム studiumというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い(I like/ I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。
プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さな斑点 petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ーー《バルトのストゥディウムとプンクトゥムは、オートマンとテュケーへの応答である。Les Studium et punctum de Barthes répondent à automaton et tuché》( jacques-alain miller 2011,L'être et l'un

※参照:プンクトゥム=テュケー

⋯⋯⋯⋯

以下、わたくしに強い同一化が起こった永井荷風と坂口安吾の文を掲げる(安吾は荷風を嫌っているが、それはどうでもよいことである)。


◆荷風『断膓亭日記』

大正七戊午年 (荷風歳四十)

八月八日。筆持つに懶し。屋後の土蔵を掃除す。貴重なる家具什器は既に母上大方西大久保なる威三郎方へ運去られし後なれば、残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひゐたしに、此日土蔵の床の揚板をはがし見るに、床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑籠などに包みたるものあまたあり。開き見れば先考の徃年上海より携へ帰られし陶器文房具の類なり。之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人〻に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。
昭和十二年 (荷風歳五十九)

三月十八日。くもりにて風寒し。土州橋に往き木場より石場を歩み銀座に飯す。家に帰るに郁太郎より手紙にて、大久保の母上重病の由報ず。母上方には威三郎の家族同居なるを以て見舞にゆくことを欲せず。万一の事ありても余は顔を出さざる決心なり。これは今日俄に決心したるにはあらず、大正七年の暮余丁町の旧邸を引払ひ築地の陋巷に移りし際、既に夙く覚悟せしことなり。余は余丁町の来青閣を去る時その日を以て母上の忌日と思ひなせしなり。郁太郎方への二十年むかしの事を書送りてもせんなきことなれば返書も出さず。当時威三郎の取りし態度のいかなるかを知るもの今は唯酒井晴次一人のみなるべし。酒井も久しく消息なければ生死のほども定かならず。


◆坂口安吾「二十七歳」(1947年初出、安吾41歳)

英倫と一緒に遊びに来た矢田津世子は私の家へ本を忘れて行つた。ヴァレリイ・ラルボオの何とかいふ飜訳本であつた。私はそれが、その本をとゞけるために、遊びに来いといふ謎ではないか、と疑つた。私は置き残された一冊の本のおかげで、頭のシンがしびれるぐらゐ、思ひ耽らねばならなかつた。なぜなら私はその日から、恋の虫につかれたのだから。私は一冊の本の中の矢田津世子の心に話しかけた。遊びにこいといふのですか。さう信じていゝのですか。 

然し、決断がつかないうちに、手紙がきた。本のことにはふれてをらず、たゞ遊びに来てくれるやうにといふ文面であつたが、私達が突然親しくなるには家庭の事情もあり、新潟鉄工所の社長であつたSといふ家が矢田家と親戚であり、S家と私の新潟の生家は同じ町内で、親たちも親しく往来してをり、私も子供の頃は屡々遊びに行つたものだつた。私の母が矢田さんを親愛したのも、そのつながりがあるせゐであり、矢田さんの母が私を愛してくれたのも、第一には、そのせゐだつた。私は遊びに行つた始めての日、母と娘にかこまれ、家族の一人のやうな食卓で、酒を飲まされて寛いでゐた。 

その日、帰宅した私は、喜びのために、もはや、まつたく、一睡もできなかつた。私はその苦痛に驚いた。ねむらぬ夜が白々と明けてくる。その夜明けが、私の目には、狂気のやうに映り、私の頭は割れ裂けさうで、そして夜明けが割れ裂けさうであつた。 

この得恋の苦しみ(まだ得恋には至らなかつたが、私にとつてはすでに得恋の歓喜であつた)は、私の始めての経験だから、これは私の初恋であつたに相違ない。然し、この得恋の苦しみ、つまり恋を得たゝめに幾度かゞ眠り得なかつた苦しみは、その後も、別の女の幾人かに、経験し、先ほどの二人の女のいづれにも、その肉体を始めて得た日、そして幾夜か、睡り得ぬ狂気の夜々があつた。得恋は失恋と同じ苦痛と不安と狂気にみちてゐる。失恋と同じ嫉妬にすら満ちてゐる。すると、その翌日は手紙が来た。私はその嬉しさに、再び、ねむることができなかつた。 

そのころ「桜」といふ雑誌がでることになつた。大島といふインチキ千万な男がもくろんだ仕事で、井上友一郎、菱山修三、田村泰次郎、死んだ河田誠一、真杉静枝などが同人で、矢田津世子も加はり、矢田津世子から、私に加入をすゝめてきた。私は非常に不快で、加入するのが厭だつたが、矢田津世子に、あなたはなぜこんな不純な雑誌に加入したのですか、ときくと、あなたと会ふことができるから、と言ふ。私は夢の如くに、幸福だつた。私は二ツ返事で加入した。 

私たちは屡々会つた。三日に一度は手紙がつき、私も書いた。会つてゐるときだけが幸福だつた。顔を見てゐるだけで、みちたりてゐた。別れると、別れた瞬間から苦痛であつた。「桜」はインチキな雑誌であつたが、井上、田村、河田はいづれも善意にみちた人達で、(菱山は私がたのんで加入してもらつたのだ)私は特に河田には気質的にひどく親愛を感じてゐたが、彼は肺病で、才能の開花のきざしを見せたゞけで夭折したのは残念だつた。彼はすぐれた詩人であつた。 

インチキな雑誌であつたが、時事新報が大いに後援してくれたのは、編輯者の寅さんの好意と、これから述べる次の理由によるせゐだと思はれる。 

ある日、酔つ払つた寅さんが、私たちに話をした。時事の編輯局長だか総務局長だか、ともかく最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で日記の手帳を落した。拾つたのが寅さんで、日曜ごとに矢田津世子とアヒビキのメモが書き入れてある。寅さんが手帳を渡したら、大慌てゞ、ポケットへもぐしこんだといふ。寅さんはもとより私が矢田津世子に恋してゐることは知らないのだ。居合せたのが誰々だつたか忘れたが、みんな声をたてゝ笑つた。私が、笑ひ得べき。私は苦悩、失意の地獄へつき落された。 

私がウヰンザアで矢田津世子と始めて会つた日、矢田津世子の同伴した男といふのが、即ち、時事の最高幹部なるWであつた。加藤英倫が私に矢田津世子を紹介し、そのまゝ別れて私が自席で友人達と話してゐると、矢田津世子がきて、時事のW氏に紹介したいから、W氏は一目であなたが好きになり、あの席からあなたを眺めて、すばらしい青年だと激賞してゐられるのです、と言つた。そこで私はWの席へ行き、話を交したのであつた。

「桜」の結成の記念写真が時事に大きく掲載された。私は特に代表の意味で、新しさだか、新しいモラルだか、文学だか、とにかく新しいといふことの何かに就て、三回だかのエッセイを書かされてゐた。それは寅さんの「桜」に対する好意であり、寅さんは又、私に甚だ好意をよせてくれたのだが(寅さんの本名を今思ひだした。彼は後日、作家となつた笹本寅である)私は然し寅さんの一言に眼前一時に暗闇となり、私が時事に書かされたことも実はWの指金であり好意であるやうな邪推が、――私は邪推した。せずにゐられなかつた。Wの好意を受けたことの不潔さのために、わが身を憎み、咒つた。

寅さんの話は思ひ当ることのみ。矢田津世子は日曜毎に所用があり、「桜」の会はそのため日曜をさける例であり、私も亦、日曜には彼女を訪ねても不在であることを告げられてゐたのである。 

如何なる力がともかく私を支へ得て、私はわが家へ帰り得たのか、私は全く、病人であつた。

ーー《時事の最高幹部なるW》とあるのは、当時「時事新報」の社会部長だった和田日出吉氏らしい。Wikiの木暮実千代の項ーー後年の和田氏の妻、《1944年、20歳年上の従兄・和田日出吉と結婚》ーーには次のような記述がある。

和田日出吉:時事新報入社後、中外商業新報の社会部長兼論説委員になる。二・二六事件の時首相官邸に乗り込み栗原安秀中尉と面会し、中央公論1936年8月号に手記を発表。その約2年後新聞記者をやめて満州に渡り、実千代と結婚し帰国する。

⋯⋯⋯⋯

同一化が起っている場合に最も注意すべきことは次のことである。

スピノザは『エチカ』第3部13定理でこう書いている、「精神は身体の活動能力を減少し阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める」。

これはとりわけ当て嵌まるだろう、悪性のナショナリズム、あるいは主人の形象への強い同一化の場合に。主人の形象、例えば、ラカン、ジジェク、バディウ、ハイデガー、ドゥルーズ&ガタリ、デリダ等々である。

これらの形象の批判に遭遇した場合、精神は、あたかも批判を耳に入れることさえ出来ない。まるで殆どある種のヒステリーの盲目に陥ったかのようになる。その盲目は、例外としての法が去勢されることへの不可能性の幻想から湧き出る(幻想とは〈大他者〉(A)の去勢や分裂を仮面で覆い隠蔽する機能がある)。

結果として、思考に逸脱が生じる。即座に、かつ屡々ひどく無分別な仕草で、批判は的を外していると攻撃されることになる。そこに、ラカンが言ったことを観察したり聴いたりことは限りなく困難だ、すなわちラカン曰く「真理の愛は去勢の愛である」と。(Levi R. Bryant,Sexuation 3: The Logic of Jouissance (Cont.)

分かっていても難しい、ということは言える。

真理の愛とは、弱さの愛、弱さを隠していたヴェールを取り払ったときのその弱さの愛、真理が隠していたものの愛、去勢と呼ばれるものの愛である。

Cet amour de la vérité, c’est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s’appelle la castration. (ラカン, S17, 14 Janvier 1970)

このラカン派的観点をとるなら、わたくしの場合、荷風や安吾の弱さを探さなくてはならない、ということになる。あるいはロラン・バルトの弱さを。




2017年6月30日金曜日

荷風と待合所

駅のホームの女のにおいの詩を「むきたてのにおい」にて引用したが、ここでは「駅の待合室」の荷風である。

昭和廿一年八月十六日。晴。殘暑甚し。夜初更屋内のラヂオに追出されしが行くべき處もなければ市川驛省線の待合室に入り腰掛に時間を空費す。怪し氣なる洋裝の女の米兵を待合すあり。町の男女の連立ち來りて凉むもあり。良人の東京より歸來るを待つらしく見ゆるもあり。案外早く時間を消し得たり。驛の時計十時を告げあたりの露店も漸く灯を消さんとす。二十日頃の月歸途を照す。蟲の聲亦更に多し。(永井荷風『断腸亭日乗』)

荷風は市川驛省線の待合室に何度も訪れている。《今年馬齒七十に垂んとして偶然白鷺の舞ふを見て年少氣鋭の徃時を憶ふ。市川寓居の詩趣遂に忘るべからざるものあり》との叙述もある従弟杵屋五叟家族と貸家に同居していた頃の日記である。

若いころの荷風の作品、明治四十四年七月となっており、明治十二年生れの荷風だから三十二歳のときに書かれた「銀座」にも似たような文がある。

……停車場内の待合所は、最も自由で最も居心地よく、聊かの気兼ねもいらない無類上等の 〔Cafe'〕 である。耳の遠い髪の臭い薄ぼんやりした女ボオイに、義理一遍のビイルや紅茶を命ずる面倒もなく、一円札に対する剰銭を五分もかかって持て来るのに気をいら立てる必要もなく、這入りたい時に勝手に這入って、出たい時には勝手に出られる。そしてこの広い一室の中にはあらゆる階級の男女が、時としてはその波瀾ある生涯の一端を傍観させてくれる事すらある。
新橋の待合所にぼんやり腰をかけて、急しそうな下駄の響と鋭い汽笛の声を聞いていると、いながらにして旅に出たような、自由な淋しい好い心持がする。
自分は動いている生活の物音の中に、淋しい心持を漂わせるため、停車場の待合室に腰をかける機会の多い事を望んでいる。何のために茲に来るのかと駅夫に訊問された時の用意にと自分は見送りの入場券か品川行の切符を無益に買い込む事を辞さないのである。(荷風「銀座」)

小説家とは人間観察がまず第一の仕事だろうが(《およそ芸術の制作には観察と同情が必要である》「十日の菊」)、このほぼ四十年近くの間隙をおいた「待合所」のふたつの文は、いかにも荷風らしい。どんな顔をして坐っていたのか。荷風の顔貌なら似合いそうではあるが、待合室に長時間座ってじわりと観察して様になる人間の顔とは、それほど多くなさそうだ。いわゆるインテリ顔ではまったく様にならない。

じろじろ観察しない、穏やかな表情、たとえば笠智衆の飄々とした風貌なら待合室にとても似合いそうではある。




他方、荷風のほうは《身を乗り出すようにして、しばし脇目もふらずに顔をのぞきこむ》という具合に待合室に坐っていたのではないか。おそらく鍵穴を覗くように。




昭和四十年頃に私は或る同人誌に加わっていたが、その同人の一人で戦中にお年頃を迎えた女性がこんな話をしていた。終戦直後、その女性は千葉県のほうにいたらしいのだが、或る日総武線の電車に乗っていたら市川の駅から、荷風散人が乗りこんできた。例の風体をしていて、まず車内をじわりと物色する。それからやおらその女性の席の前に寄ってくると、吊り皮につかまって、身を乗り出すようにして、しばし脇目もふらずに顔をのぞきこむ。

色白の細面、目鼻立ちも爽やかな、往年の令嬢の美貌は拝察された。それにしても荷風さん陣こそ、いかに文豪いかに老人、いかに敗戦後の空気の中とはいえ、白昼また傍若無人な、機嫌を悪くした行きずりの客に撲られる危険はさて措くとしても、当時の日本人としては何と言っても懸け離れた振舞いである。(古井由吉『東京物語考』)

荷風は、戦後一年目の従弟大島一雄(杵屋五叟)家族との同居を、ラヂオや三味線稽古の音に悩まされて逃げ出し、次にフランス文学者小西茂也と同居をすることになる。

「……小西夫妻の寝室の障子には毎晩、廊下ざかひの障子に新しい破れ穴ができて荷風がのぞきに来るらしいといふので、小西の細君がノイローゼ気味になつたのが、小西の荷風に退去を求めた理由であつたと説く者もある」 (半藤一利と新藤兼人、そして松本哉の語る永井荷風 )

精神分析では「のぞき」について次のようなことが言われるが、さて荷風はどうであったか。

窃視者は、常に-既に眼差しに見られている。事実、覗き見行為の目眩く不安な興奮は、まさに眼差しに晒されることによって構成されている。最も深い水準では、窃視者のスリルは、他人の内密な振舞いの盗み見みされた光景の悦楽というより、この盗み行為自体が眼差しによって見られる仕方に由来する。窃視症において最も深く観察されることは、彼自身の窃視である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN,2001ーー眼差しの作家たち

わたくしは荷風と同じくらい安吾を好むが、安吾の荷風批判はいささか容認しがたい。

私が荷風を根柢的に通俗と断じ文学者に非ずと言をなしたのは……筆を執る彼の態度の根本に「如何に生くべきか」が欠けてをり、媚態を画くに当つて人の子の宿命に身を以て嘆くことも身を以て溺れることも身を以てより良く生きんとすることもない。単なる戯作の筆と通俗な諦観のみではないか。(坂口安吾「通俗作家 荷風――『問はず語り』を中心として――」)

戦後一年目の冒頭の文や「馬齒七十に垂んとして偶然年少氣鋭の徃時を憶ふ」で引用した文章群は、《終生ずいぶん身勝手な人だった》らしい荷風なりの「如何に生くべきか」が強く表れている。

……田圃のあるあたりまで来て、前方の農家数軒がおそらく零れ弾を受けて炎上し牛馬が走り出て水に陥るのを見るや、《予は死を覺悟し路傍の樹下に蹲踞して徐に四方の火を觀望す》とある。死を云々とは偏奇館炎上の際にも、身の危険のかなり迫ったはずの東中野罹災の際にも見えない。わずかに二月二十五日の空襲の直前、取って置きのコーヒーに砂糖をたっぷり入れてパイプをふかし、この世に思い残すこと云々の言葉が見えるが、あれとこれとの隔りを思うべきだ。習うほどに剥出しになる、意気地のなくなるのが恐怖である。前方の農家はやがて焼け落ちて火は麦畑を焼きつつおのずから煙となったとある。

爆音が引いて川の堤の上にもどり対岸の市街のいまや酣の炎上を眺めた時には、空がようやく明けて、また雨が俄に降りはじめる。近くの家の軒下に罹災者と一緒にしばらく雨を避けて、火の衰えた市中にもどり、さらに知人を頼って岡山市の西端の田園地帯まで、振分けの荷を肩に雨中一、二里の道を歩む。知人の世話によって野宿を免れたことを、《其恩義終忘るべきにあらず》と書いている。終生ずいぶん身勝手な人だったとも聞いたが。(古井由吉「境を越えて」『東京物語考』

2016年10月28日金曜日

うんざりすることのない愛しい妻

反復の恋が実は唯一の幸せな恋である。それは想起の恋と同じように期待の不安定がない。発見の不安にさせる冒険の危険さもない。しかしまた想起の悲哀もない。それは瞬間の至福な確実さを持つ。 (……) 期待は両手から逃げ去っていく愛らしい乙女である。想起は目下のところそれではなにもできない美しい老婦人である。反復は決してうんざりすることのない愛しい女房である。 というのも人はただ新しいものにだけうんざりするから。 古いものには人は決してうんざりしない。そして古いものを自らの目の前に持つとき、人 は幸せになる。反復がなにか新しいものであるなどと思い違いをしないものだけが正しく幸せになるのである。 (キルケゴール『反復』ーー小野,雄介「キルケゴール哲学における反復の問題」PDF

ドゥルーズやラカン派、日本では柄谷行人によってーーわたくしが知りうる限りだがーーしばしば言及されることの多いキルケゴールの『反復』の核心的な文のひとつである(キルケゴールなど読んだことはなく今後も(おそらく)読みはしないだろうが、上の文をネット上から拾うことができたので今ここに貼り付けている)。

ただし、《反復は決してうんざりすることのない愛しい女房である》とされる「決してうんざりすることのない愛しい妻」などいるのかどうかはよく知らない。わたくしはどちらかといえば、哲学者より小説家や詩人のほうを信用するキライがある・・・

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)

もうすこし格調高くいえば、--わたくしは野坂昭如の上の文は充分に「格調高い」と思っているが通念上としてのよりいっそうの格調高さを狙えばーー次の通り。

女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.( シェイクスピア、Troilus and Cressida)
人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)
若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト「ゲルマントのほうⅡ」)
得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない。(永井荷風『歓楽』)

すこし格調のレベルを落とせばーーシツレイ、愛すべきジジェクよ!--次のようになる。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,私訳)

ここでは「厄介な」精神分析など持ち出さなくても、こう引用しておけばすむのかもしれない。

どんなに好きなものも
手に入ると
手に入ったというそのことで
ほんの少しうんざりするな

ーーMy Favorite Things 谷川俊太郎

で、何の話だったか・・・。冒頭の文では、キルケゴールの言いたいことがわたくしには半分くらいしかわからない。だが次の文を読むとよくわかる(気がする)。

反復は現代哲学の中できわめて重要な役割を演じるところがあるだろう。というのも、反復 Wiederholung はギリシア人たちのもとで想起 Erinnerung であったものに代わる決定的な表現であるから。彼らが「すべての認識は想起することである」と教えたのと同じよ うに、現代哲学は「全人生は反復である」と教える。 (……)反復と想起は同じ運動であるが、ただし方向が逆である。というのも人が想起するものは在ったものであり、後ろへ 反復される。それに反し、ほんとうの反復は物事を前へと想起する。 (キルケゴール『反復』ーー登場人物 コンスタンティン・コンスタンティウスの発言)

キルケゴールは別に《思弁は後ろ向きであり、倫理は前向きである》と言っているそうだが(参照)、ようは想起は後ろ向きであり、反復は前向きだということだろう。

とすれば《想起は目下のところそれではなにもできない美しい老婦人/反復は決してうんざりすることのない愛しい女房》の意味合いが分かってくる。われわれは「前向き」でなくてはならない。そうすれば対象aの魅力が古女房からも復活するかもしれない。

結婚とは崇高化が理想化のあとに生き残るかどうかの真のテストの鍵となるものだったらどうだろう? 盲目的な愛では、パートナーは崇高化されるわけではない。彼(彼女)はただ単純に理想化されるだけだ。結婚生活はパートナーをまちがいなく非理想化する。だがかならずしも非崇高化するわけではない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

こういった文脈から、高橋悠治のとても美しい文章を味読することができる。

ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、 過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ。 (高橋悠治『ロベルト・シューマン』1978

思想的な次元がお好きな方のために、柄谷行人のーーこれは美しさにはやや劣る気がするば、よく咀嚼すれば味わい深い文だともいえる、ーー文章をも掲げておこう。

同一的な規則を前方に想定するような行為は「想起」(キルケゴール)にほかならないが、そうでない行為、規則そのものを創りあげてしまうような行為は、「反復」または「永劫回帰」とよばれる。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

おそらく、モデル/コピー、本質/仮象などにかかわる「プラトニズムの転倒」、「シミュラークルの繁茂」などの文脈のなかで読める文でもあるだろうが、わたくしはそれには詳しくない。

さて、最後に「愛すべきジジェク」の文をを再度掲げておく。

……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、反復するから抑圧する On ne répète pas parce qu'on refoule, mais on refoule parce qu'on répète 》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

.注)この《ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、反復するから抑圧する》の帰結は、反復と想起の関係の倒置を伴うことになる。フロイトの有名なモットー「われわれは、想い出すことを出来ないことに反復を強いられる。」――この文は、次のように反転させるべきだ。すなわち、「われわれは、反復できないことに取り憑かれ記憶することを強いられる」。過去のトラウマから免れる方法は、そのトラウマを想起しないことではない。キルケゴール的な意味での反復を充分に行なうことが、過去のトラウマから免れる方法である。

ーードゥルーズは別に、《私は反復するから忘れる j'oublie parce que je répète 》ともしている。

…………

※付記

ただし本当にジジェクやドゥルーズのいうようなのかどうかは、わたくしは瞭然としていない。心的外傷後ストレス障害の「反復強迫」をそのときどう位置づけたらよいのか。つまり、ジジェクのいう《過去のトラウマから免れる方法は、そのトラウマを想起しないことではない。キルケゴール的な意味での反復を充分に行なうことが、過去のトラウマから免れる方法である》をどう捉えたらよいのか。前向きの「反復」がありえず、過去の「想起」をどうしてもしてしまうから、PTSD(心的外傷後ストレス障害)なのではないか。そこがよくわからない。

どの「反復」も、絶え間ず換喩的に動く欲望のイマジナリーな弁証法内部で、新しい何かを含んでいる。対照的に、「反復強迫」は--フロイトによって外傷神経症をめぐって叙述されたものだがーー、トラウマ的リアルから生じる何かを象徴化する試みのなかでしっかりと固定化されている。(Paul Verhaeghe、PERVERSION II: THE PERVERSE STRUCTURE、PDF
…心的外傷後ストレス障害の長期にわたる影響、それは解離、能動-受動の反転を伴う反復強迫、根本的不信である。基本的に、これらの患者の生存戦略は常に同一である。すなわち、コントロールされる代りに、コントロールしたいことである。

解離はもちろん、分割(分裂splitting)、主体の分割と同じものである。とても屡々悪い部分と良い部分への分割である。この観点から、フロイトはまさに意識と無意識とのあいだの対立を見出した。いわゆるトラウマ患者の解離障害とは、意識と無意識とのあいだの分裂をおそらく最もよく例示している。それは症状として、状況のコントロールを得ようとする患者の試みである。この試みは、倒錯における否定(否認)というフロイトの考え方と極めて顕著に類似している。否定と解離の両事例において、二つの異なった世界が創造され、各々が独立して機能している。(同ヴェルハーゲ、PERVERSION II: THE PERVERSE STRUCTURE、ーー心の間歇・解離・倒錯

2016年10月27日木曜日

股下之薫陶

子貢曰。有美玉於斯。韞匵而藏諸。求善賈而沽諸。子曰。沽之哉。沽之哉。我待賈者也。

ーー「子貢曰く、上玉が居りやすぜ、ソッとして置きやしょうか、それともお手慰みなりやすか。子曰く、交ふ、交ふ、世話してくんな」

◆Schumann Der Nussbaum Bernarda Fink




子曰:「色難。有事弟子服其勞」「慢藏誨盜、冶容誨淫」

ーー子ノ玉喰フ、色難シ、事有ラバ蚊居肢子其勞ニ服ス、慢藏盜ヲ誨ヘ冶容淫ヲ誨ヘル。





旅先之伯母之家、椰子葺之屋根ニ抱カレ、薄暗キ灯火ニ黒光ル柱板敷之拡ゴル。 鎧戸ヲ全開スレバ薮蚊多シトイエドモ、蚊遣リト団扇デ追払ヒツツ 川面ヨリ清風徐ニ来タッテ頗ル風流ナリ。 然レドモ雨季之盛リ故鳥語虫語聞コエズ雨音川音ノミ。且又外出スルヿ容易ナラズ。 高床式之住居ヲ支エル柱ハ二尺程水ニ浸リ、 隣家ニ行クノサエ小舟ヲ利用スル他ナシ。 先程迄(前日)近隣之親族二十人程集マリシガ訪問帰宅ハ皆小舟ナリ。 当地之住人、雨季ハ出稼ギニ出ル習慣有ハ其所以ナリ。 伯母曰ク、雨季ニハ女孕ムヿ頗ル多シ。蓋シ消閑媾交盛之由。今晩当屋ニ泊スル伯母之孫娘、越僑二女ニ劣ラズ美玉ナリ。三美玉ト共ニ花札ニテ消閑スナリ。何タル艶ナル膝ノ崩シ方ヨ。恰モ股下之薫陶ヲ受ケシガ如シ。




(以下略)

代りに蘇東坡を貼付しておく。実に美しい詩句だ、「客有吹洞簫者」の「洞簫」とは日本でいえば尺八のことだろうか、それともプルースト流の「壺」のことだろうか・・・

渺渺兮予懷望美人兮天一方客有吹洞簫者倚歌而和之其聲嗚嗚然如怨如慕如泣如訴餘音嫋嫋不絶如縷(蘇東坡、赤壁賦)

渺渺タル予ガ懐
美人ヲ天ノ一方ニ望ム
客ニ洞簫ヲ吹ク者有リ
歌ニ倚リテ之ニ和ス
其ノ声嗚嗚然トシテ
怨ムガ如ク慕ウガ如ク
泣クガ如ク訴ウルガ如シ
余音嫋嫋トシテ
絶エザルコト縷ノ如シ

蚊居肢散人、荷風は蘇東坡をパクったのではないかと思いを馳せるなり。

断膓亭日記巻之二大正七戊午年  荷風歳四十

十二月廿二日。築地二丁目路地裏の家漸く空きたる由。竹田屋人足を指揮して、家具書筐を運送す。曇りて寒き日なり。午後病を冒して築地の家に徃き、家具を排置す、日暮れて後桜木にて晩飯を食し、妓八重福を伴ひ旅亭に帰る。此妓無毛美開、閨中欷歔すること頗妙。

◆Schumann - Im wunderschönen Monat Mai - Panzera / Cortot



…………

※付記

なお冒頭、「子曰。沽之哉。沽之哉。我待賈者也」を「子曰く、交ふ、交ふ、世話してくんな」としたのは、決して誤訳ではない。

《「沽」を「カフ」と訓でも「ウル」と訓でも,事態の本質は變はらない》(成島柳北「先生國」注解、PDF

角川の『漢和中辞典』を開いてみると(……)「買」という言葉は、あるものと別のものとを取り替える「貿」という言葉を語源としており、はじめボウと発音されていたが後になってバイと発音されるようになったという。そして、もともとは売り買い両方の意味に用いられていたこの言葉は、後になって一方の買うの意味に用いられるようになり、他方の売るという意味には「買」という字にモノを差し出すという意味の「出」という文字を組み合わせてつくられた「賣」という文字が使われるようになったという。もちろん、現在の「売」という字はこの賣という字の略字体である。

買という言葉と売という言葉とは、中国ではもともと同じ言葉であったのである。

そこで、つぎに日本語ではどうなっているかと思って『大言海』を開いてみると、あった、あった、そのなかの「買ふ」の項には「交ふ(かふ)」の他動の意のものか」という説明がつけられている。さらに岩波の『古語辞典』で「かひ」という項目を調べてみると、この言葉には「交ひ、替ひ、買ひ」という漢字の表記が当たられており、その基本的な語義として「甲乙の二つの別のものが互いに入れちがう意」という説明があたえられている。

すなわち、日本語においても、「買う」という言葉はもともとは売り買いの両方の意味をもっており、あるものと別のものとをたんに交換することをあらわしていたにすぎない。それが売るという言葉と区別されて、お金を支払ってなにかモノを手に入れるという行為をあらわすようになったのは、時代がはるかに降ってからのことのようなのである。

(……)じつは、それは、なにも中国語や日本語に固有の事実ではない。実際、二十世紀最大の言語学者のひとりに数えられているエミール・バンヴェニストがその晩年に出版した『インド=ヨーロッパ諸制度語彙集』(1969年)という大部の本のなかに収められている経済語彙についてのエッセイの多くは、まさにこの事実の解明にあたられているといっても過言ではない。

(……)かれの考察の出発点は、大多数のインド=ヨーロッパ語において「与える」あるいは「贈与する」という意味の動詞の最小単位(語根)をなしているdō- という言葉が、遠い歴史以前の時代においては「与える」という意味だけではなく、それと正反対の「受け取る」という意味をも担っていたという事実の発見にあったのである。バンヴェニストはまさにこの言語的事実のなかに、あの有名な『贈与論』(1923-24年)のなかでマルセル・モースが描き出そうと試みた「古代的な交換形態」というもののひとつの強力な証拠を見いだすことになったのである。

マルセル・モースが、古代的な社会関係を贈与とその返礼によって構成される互酬的な交換の体系と見なしたことはよく知られている。ひとにモノを贈与することは、理論的には自由であっても実際的にはかならず相手側に返礼の義務を負わせることになり、一方からの贈与は他方からの返礼としての贈与とのそれこそ果てしのない繰り返しによって、共同体の内部における財貨の交換が可能になるというのである。この全体的な交換関係のなかでは、与えることは同時に受け取ることであり、受け取ることは同時に与えることである。忘れられてしまった遠い過去において、インド=ヨーロッパ語のdō- という言葉が与えることと受け取ることを同時に意味していたのは、まさにこの「古代的な交換形態」の言語的な反映であったというわけである。(岩井克人「売買と買売」初出1986年『二十一世紀の資本主義論』所収)


2016年10月4日火曜日

軀の中を凧のように通り抜けてゆく匂い

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻」 手塚富雄訳)

ーー《わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを!……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。》(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

…………

長い病気の恢復期のような心持が、軀のすみずみまで行きわたっていた。恢復期の特徴に、感覚が鋭くなること、幼少年期の記憶が軀の中を凧のように通り抜けてゆくこととがある。その記憶は、薄荷のような後味を残して消えてゆく。

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)

《プルーストにおいては、五感のうち三つの感覚によって思い出が導き出される。しかし、その木目〔きめ〕という点で実は音響的であるよりもむしろ《香りをもつ》ものというべき声を別とすれば、私の場合、思い出や欲望や死や不可能な回帰は、プルーストとはおもむきが異なっている。私の身体は、マドレーヌ菓子や舗石やバルベックのナプキンの話にうまく乗せられることはないのだ。二度と戻ってくるはずのないもののうちで、私に戻ってくるもの、それは匂いである。》(『彼自身によるロラン・バルト』)


虫籠、絵団扇、蚊帳、青簾、風鈴、葭簀、燈籠、盆景のような洒々たる器物や装飾品が何処の国に見られよう。平素は余りに単白で色彩の乏しきに苦しむ白木造りの家屋や居室全体も、かえってそのために一種いうべからざる明い軽い快感を起させる。この周囲と一致して日本の女の最も刺戟的に見える瞬間もやはり夏の夕、伊達巻の細帯にあらい浴衣の立膝して湯上りの薄化粧する夏の夕を除いて他にはあるまい。(永井荷風『夏の町』)


◆Régine Crespin; "Gedichte der Königen Maria Stuart"; Op. 135; Robert Schumann



痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。

この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。

音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)

…………

吉行淳之介は後年いろいろ言われるるようになるが、『砂の上の植物群』はいつまでも絶品のままだ。

そのときA女の軀が燃え上がった。重ね合わさった二人の女の軀のすべての細胞が白い焔を発して燃え、やがてB女の軀は蛍光色に透きとおってA女の軀に溶接された。男の眼の前には、B女の背のひろがりがあり、不意に彼の鼻腔にある匂いが流れ込んできた。それはB女の肩のあたりから立上がってくるのか、あるいはその下に在るA女の胸から発するものか判別ができなかったが、太陽の光を十分に吸い込んだ牧草の匂いである。娼婦たちの軀が熱したときに漂ってくる、多くの男たちの体液の混じり合った饐えたにおい、それに消毒液の漂白されたようなにおいの絡まり合った臭気とは全く違ったものだった。(『砂の上の植物群』)

 …………

散文の訓練とは、一つには詩を殺すことによって成立する。私は二十代の半ばから、ひたすら詩を殺すことを心がけてきた人間である。だからといって、私の内部にポエジーが枯渇しているということにはならないだろう。私は、私の内部からあふれ出ようとしている安っぽいポエジーに対して、いつも警戒の目を光らせている。私の警戒の網の目をくぐって、紙の上に滲み出してきたポエジーがあったとすれば、それこそ本物のポエジーだろう。(吉行淳之介『文章読本』)

2016年10月2日日曜日

柿の木と梨の木

・私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème. (Lacan,17 mai 1976 AE.572)

・ポエジー poésie だけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。(ラカン、S.24.1977).

…………

(これは)たんなる詩の問題ではない。これは、意味の効果でありながら、また穴の効果でもある詩である。

意味とはシニフィアンの助けにて共鳴するものだ。しかし共鳴は十分ではない。それはむしろ穏やかだ。意味は共鳴を拭い去る。

意味は我々を眠りに誘う。詩も同じく。もし詩が意味から意味へと移行するなら。

眠りから覚めるのは、我々が理解しないときである。

この「新しいシニフィアン」--問題となっているのはシニフィアンの別の使用法であるーーが目を眩ます効果をもつ。そのとき意味の眠りから身を起こす。
.
この強制するもの forçage が詩を通して作働する。

詩人の「離れ技 tour de force」は、意味を不在にすることである。(ミレール、2007ーーInterprétation, semblant et sinthome por ANNE LYSY-STEVENS)


ああかけすが鳴いてやかましい(西脇順三郎ーー生垣の「結び目をほどく」詩人


…………

悟り(「禅」における出来事)とは、多少なりとも強い地殻変動であり(厳粛なものではまったくない)、認識や主体を揺らめかせるもの qui fait vaciller la connaissance, le sujet である。つまり、悟りはパロールの空虚 un vide de parole を生じさせてゆく。そして、パロールの空虚こそがエクリチュール écriture をかたちづくる c'est aussi un vide de parole qui constitue l'écriture。(ロラン・バルト『記号の国』)

《現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.》(ラカン、S.18)

ーーラカンは、人間の現実を「見せかけの世界 le monde du semblant」と考えた。(ヴェルハーゲ、2001)

《無意識は常に、主体の裂け目のなかに揺らめくものとして顕れる。l'inconscient se manifeste toujours comme ce qui vacille dans une coupure du sujet,ラカン、S.11)

《精神分析とは、見せかけ semblant を揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fai les semblants , le Witz fait vaciller les semblants]》(ジャック=アラン・ミレール,1996

《すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant.》 (ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER

プルーストの作品は、過去と記憶の発見とに向けられているのではなく、未来と習得の進展とに向けられている。重要なことは、主人公は最初は或ることを知らなかったが、徐々にそれを習得して、ついには最終的な啓示 révélation を受け取るということである。したがって、彼は必然的に失望を味わう。つまり、彼は《信じ》、幻想 illusions を持っていたが、世界は習得の過程の中で揺らめくのである。il« croyait », le monde vacille dans le courant de l'apprentissage. (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

・エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだという。(中井久夫「顔写真のこと」)

・散文を歩行に、詩を舞踏に例えたのはポール・ヴァレリーである。T・S・エリオットはこれにやんわりと異議を唱えて、詩と散文とはそれほど明瞭に区別されるものではないと述べている。(中井久夫「訳詩の生理学」

・「詩とは言語の徴候優位的使用によってつくられるものである」――これが私の詩の定義である。(中井久夫「世界における索引と徴候」)

・詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である。(中井久夫『現代ギリシャ詩選』序文


…………

We are the hollow men
We are the stuffed men
Leaning together
Headpiece filled with straw. Alas!
Our dried voices, when
We whisper together
Are quiet and meaningless
As wind in dry grass

俺たちのなかみはからっぽ
俺たちのなかみはつめもの
俺たちはよりそうが
頭のなかは藁のくず、ああ!
俺たちがささやきあうと
かわいた声が
うつろにひびく
まるでかわいた草をふきわたる風

ーーエリオット「うつろな人間 the hollow men」より 高松雄一訳


T・S・エリオットは、十七世紀の詩人ジョン・ダンについての評論の中でこの詩人は「観念をバラの花の匂いのごとくに感じる」と述べている。この一句には最近あらためて考えさせられるものがあった。観念には匂いと非常に似ているところがある。まず、それはいっときには一つしか意識の座を占めない。二つの匂いが同じ強度で共在することはありえないが、観念もまた、二つが同じ強度で共存することはーーある程度以下の弱く漠然としたものを除いてはーーきわめて例外的で、病的な状態においてかろうじてありうるか否かというくらいのものである。

第二に、匂いは、たしか二十秒くらいしかとどまらない。匂い物質は送られてきても、それに対する嗅覚は急速に作働しなくなってしまう。これは、嗅覚が新しい入力に対応するためで、こうなくてはならないことである。

観念はどうであろう。観念を虚空に把握しつづけることは、それこそ二十秒以上はむつかしいのではなかろうか。とすれば、持続的といわれる幻覚、妄想、固定観念も、たえざる入力によってくり返しくり返し再出現させて維持されていることを示唆する。ただ、この入力は、決して“ 自由意志 ”によるものではない。

最後に、両者とも、起そうとして起せるものではない。観念も、意識的というか人工的に催起させられるものではない。両者とも、基本的には意識を「襲う」ものである。少なくとも重要な気づきは、はげしい香りと同じく、ひとを打つのである、科学的、思想的発見であっても、パースナルな気づきであっても。(中井久夫「世界における索引と徴候」『徴候・記憶・外傷』所収)


観念と
現実の間に
運動と
行動との間に
影が降りる

Between the idea
And the reality
Between the motion
And the act
Falls the Shadow

ーーT.S Eliot,The Hollow Men


《アクチュアルではないがリアルであり、抽象的ではないが観念的》(プルースト「見出された時」)――この観念的なリアルなもの、この潜在的なものがエッセンスである。« Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits. » Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence. réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

……ところが、すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現時ではなく現実的であり、抽象的ではなく観念的である Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits →「アクチュアルではなくリアルなもの、抽象的ではなく観念的である」二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまちにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそとに存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう?(プルースト『見出された時』井上究一郎訳

…………

詩の擁護又は何故小説はつまらないか  谷川俊太郎

ーー「詩は何もしないことで忙しいのです」ビリー・コリンズ(小泉純一訳)

初雪の朝のようなメモ帳の白い画面を
MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない
そんなのは小説のやること
詩しか書けなくてほんとによかった

小説は真剣に悩んでいるらしい
女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか
それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか
そこから際限のない物語が始まるんだ
こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの
やれやれ

詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね

人間の業を描くのが小説の仕事
人間に野放図な喜びをもたらすのが詩の仕事

小説の歩く道は曲がりくねって世間に通じ
詩がスキップする道は真っ直ぐ地平を越えて行く

どっちも飢えた子どもを腹いっぱいにしてやれないが
少なくとも詩は世界を怨んじゃいない
そよ風の幸せが腑に落ちているから
言葉を失ってもこわくない

小説が魂の出口を探して業を煮やしてる間に
宇宙も古靴も区別しない呆けた声で歌いながら
祖霊に口伝えされた調べに乗って詩は晴れ晴れとワープする

人類が亡びないですむアサッテの方角へ

路地を通り抜ける時試に立止つて向うを見れば、此方は差迫る両側の建物に日を遮られて湿つぽく薄暗くなつてゐる間から、彼方遥に表通の一部分だけが路地の幅だけにくつきり限られて、いかにも明るさうに賑かさうに見えるであらう。殊に表通りの向側に日の光が照渡つてゐる時などは風になびく柳の枝や広告の旗の間に、往来の人の形が影の如く現れては消えて行く有様、丁度灯火に照された演劇の舞台を見るやうな思ひがする。夜になつて此方は真暗な路地裏から表通の灯火を見るが如きは云はずとも又別様の興趣がある。川添ひの町の路地は折々忍返しをつけた其の出口から遥に河岸通のみならず、併せて橋の欄干や過行く荷船の帆の一部分を望み得させる事がある。此の如き光景は蓋し逸品中の逸品である。(永井荷風『路地』)


十三秒間隔の光り 田村隆一

新しい家はきらいである
古い家で生れて育ったせいかもしれない
死者とともにする食卓もなければ
有情群類の発生する空間もない
「梨の木が裂けた」
と詩に書いたのは
たしか二十年まえのことである
新しい家のちいさな土に
また梨の木を植えた
朝 水をやるのがぼくの仕事である
せめて梨の木の内部に
死を育てたいのだ
夜はヴィクトリア朝期のポルノグラフィを読む
「未来にいかなる幻想ももたぬ」
というのがぼくの唯一の幻想だが
そのとき光るのである
ぼくの部屋の窓から四〇キロ離れた水平線上
大島の灯台の光りが

十三秒間隔に


・昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。

・女が孕んで、立っている姿は、なんという憂愁にみちた美しさであったろう。ほっそりとした両手をのせて、それとは気づかずにかばっている大きな胎内には、二つの実が宿っていた、嬰児と死が。広々とした顔にただようこまやかな、ほとんど豊潤な微笑は、女が胎内で子供と死とが成長していることをときどき感じたからではないか。(リルケ『マルテの手記』)





2016年9月6日火曜日

荷風という「純粋なフェティシスト」

以下、「人はみなフェティシストである」に引き続く。
…………

マルクスとフロイトの「フェティシズム Fetischismus」という用語の意味合いは異なる。

マルクスのフェティシズムの場合、モノではなく、形態 Form が強調される。

…労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、それではどこから生ずるのか? 明らかにこの形態 Form そのものからである。(マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」ーー芸術作品とフェティシズム Fetischismus)

これは、マルクスが「貨幣のフェティシズム」から「商品のフェティシズム」へと遡行してフェティシズムを分析したことに大きくかかわる。

貨幣物神 Geldfetischs の謎は、ただ、商品物神 Warenfetischs の謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』)

貨幣物神とすれば、我々はすぐさま黄金物神を想起し、それは、モノというフェティッシュを崇めること「錯覚」してしまう。だが商品物神への遡行とは、ある関係構造の場に置かれることを分析したということにかかわり、それが(柄谷行人、岩井克人、あるいはジジェクによれば)マルクスの価値形態論の核心である(参照:柄谷参照:岩井参照:ジジェク)。

大切なのは、或る物が商品であるか貨幣であるかは、それがおかれた「位置」によるということである。或る物が貨幣となるのは、それが等価形態におかれるからである。その或る物は、金や銀であろうと、相対的価値形態におかれるときは、商品である。《相対的価値形態と等価形態は、たがいに依存しあい、交互に制約しあう不可分の要因であるが、しかし、同時に、互いに排斥しあう、あるいは対置される両端である》(『資本論』)。ーー柄谷行人『トランスクリティーク』2001)

いわゆる中期柄谷行人なら次のように言う。

貨幣のフェティシズムは、守銭奴において、あるいは「黄金欲」において、典型的にあらわれる。しかし、マルクスが指摘したように、それは黄金という対象物に由来するのではなく、 黄金がたまたま(一般的)等価形態にあるということに由来する。守銭奴の貨幣フェティシ ズムは、黄金というもの(使用価値)に向けられた欲望から生じるのではなく、それが等価 形態にあり、したがって「直接的交換可能性」(交換価値)をもつがゆえに、その「可能性」 のみを蓄積しようとするところから生じている。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986,P.112)

他方、フロイトのフェティシズムとは、(一般に)フェティシュとしてのモノにかかわる。これは、われわれの通念上のフェティシズム、たとえば、足フェチ、靴フェチ、下着フェチ等々に合致する。

呪物 Fetisch とは、男児があると信じ、かつ断念しようとしない女性(母)の陰茎に対する代理物なのである。(…)

足とか靴が呪物――あるいはその一部――として優先的に選ばれるが、これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性性器のほうへかけて注意深く探っているからである。毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー瞥見した陰毛の生えている光景を定着させる。これにはあの強く求めていた女性の陰茎の姿がつづいていたはずなのである。(フロイト『呪物崇拝 Fetischismus』旧訳 フロイト著作集)

ジジェク=ラカンは、このフロイトのフェティシズムの捉え方を、マルクスの「形態」に近づけて再解釈する。

《母のペニスの欠如は、ファルスの特性が現われる場所である[… ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus]》(Lacan,E.877)。われわれは、この指摘にあらゆる重要性を与えなければならない。それはまさにファルスの機能とその特性を識別するものである。

そしてここに、我々はフロイトの紛らわしい「ナイーヴな」フェティッシュ概念、すなわち主体が、女のペニスの欠如を見る前に見た最後の物としてのフェティッシュという考え方を更生(リハビリ)すべきである。フェティッシュが覆うものは、単純に女におけるペニスの欠如ではない(…)。そうではなく、この、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者的」意味において、差延(ズレ)的であるという事実にある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

《この、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者的」意味において、差延(ズレ)的であるという事実》という表現から、わたくしは、ロラン・バルトの「出現ー消滅 apparition-disparition」をめぐる叙述を思いおこさざるをえない。

身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

モノではなく、出現ー消滅の演出にどうしようもなく魅せられてしまうのが、真のフェティシストではないだろうか。




次のGIFは「純粋なフェティシスト」としてのわたくしには、いささか見えすぎるきらいがあるが、おおむね不純なフェティシストであるだろうみなさんのために掲げておこう。






ところで、現在のマルクス研究者のなかにも、通念としてのフェティシズム概念に囚われてか、「形態」ではなく「物象化」ーー使用価値等のモノ化--としていまだ捉えている場合も多いのかもしれない(すなわち彼らもいまだ不純なフェティシュ解釈にとどまっている)。

…我々は、標準的なマルクス主義者の「物象化 Versachlichung」と「商品のフェティシズム」の題目を徹底的に再形式化するように強いられる。それは、後者が、確固とした対象としてのフェティッシュ、その安定した現前が社会的仲裁を煙に巻くものとしてのフェティッシュ概念に依拠しているかぎり、においてである。

逆説的に、フェティシズムは、フェティッシュ自体がまさに「脱物質化」されたときに、そのアクメ(絶頂)に達する。それは、流動的な「非物質的」ヴァーチャルな実在 entity に変換される。貨幣のフェティシズムとは、電子的形式への移行に伴って最高潮に達する。すなわち、貨幣の物質性の最後の痕跡が消滅するときである。(同ジジェク、2012)

とすればーージジェクのいうように、《流動的な「非物質的」ヴァーチャルな実在》が純粋なフェティッシュであるならばーー、いわゆる「足フェチ」の谷崎潤一郎よりも、「覗き趣味」の永井荷風のほうが、純粋なフェティシストであるということは言えないだろうか?

まず、谷崎という「不純な」フェティシストの文章を抜き出そう。

丁度四年目の夏のとあるゆうべ、深川の料理屋平清の前を通りかかつた時、彼はふと門口に待つて居る駕籠の簾のかげから、真っ白な女の素足がこぼれて居るのに気づいた。鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持つて映つた。(谷崎潤一郎『刺青』)
私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああこの足、このすやすやと眠っている真っ白な美しい足、これは確かに俺の物だ。彼女が小娘の時分から毎晩毎晩お湯に入れて(『痴人の愛』)
春琴は寝床に這入つて肩を揉め腰をさすれと云われるままに暫く按摩しているともうよいから足を温めよと云ふ畏まつて裾の方に横臥し懐を開いて彼女の蹠を我が胸の上に載せたが胸が氷の如く冷えるのに反し顔は寝床のいきれのためにかつかつと火照つて歯痛がいよいよ烈しくなるのに溜まりか、胸の代わりに脹れた顔を蹠へあてて辛うじて凌いでいると忽ち春琴がいやと云ふ程その顔を蹴つたので佐助は覚えずあつと云つて飛び上がつた。(『春琴抄』)
盛リ上ガッテイル部分カラ土蹈マズニ移ル部分ノ,継ギ目ガナカナカムズカシカッタ。予ハ左手ノ運動ガ不自由ノタメ,手ヲ思ウヨウニ使ウコトガ出来ナイノデ一層困難ヲ極メタ。「絶対ニ着物ニハ附ケナイ,足ノ裏ダケニ塗ル」ト云ッタガ,シバシバ失敗シテ足ノ甲ヤネグリジェノ裾ヲ汚シタ。シカシシバシバ失敗シ,足ノ甲ヤ足ノ裏ヲタオルデ拭イタリ,塗リ直シタリスルコトガ,又タマラナク楽シカッタ。興奮シタ。何度モ何度モヤリ直シヲシテ倦ムコトヲ知ラナカッタ。(『瘋癲老人日記』)

以下は、荷風の覗き趣味の「噂」である。

「……小西夫妻の寝室の障子には毎晩、廊下ざかひの障子に新しい破れ穴ができて荷風がのぞきに来るらしいといふので、小西の細君がノイローゼ気味になつたのが、小西の荷風に退去を求めた理由であつたと説く者もある」 (半藤一利と新藤兼人、そして松本哉の語る永井荷風
関根歌というそんなに美人さんじゃない芸者がいたんですが、荷風はこの関根歌を落籍せ、麹町に「幾代」という待合の店を持たせました

ここで素人客の部屋を覗き見することにしたのです
小さい柄のついた細長い鋸を買って、押入れの中で穴をあける作業に夢中
小さな穴が開くと、本気で大喜びし、夢中でのぞきました

でもって、「今のはあんまりよくなかった」とか、「あの方たちはいい。席料はまけてあげなさい」なんて言ったりしてました(のぞき癖
昭和四十年頃に私は或る同人誌に加わっていたが、その同人の一人で戦中にお年頃を迎えた女性がこんな話をしていた。終戦直後、その女性は千葉県のほうにいたらしいのだが、或る日総武線の電車に乗っていたら市川の駅から、荷風散人が乗りこんできた。例の風体をしていて、まず車内をじわりと物色する。それからやおらその女性の席の前に寄ってくると、吊り皮につかまって、身を乗り出すようにして、しばし脇目もふらずに顔をのぞきこむ。

色白の細面、目鼻立ちも爽やかな、往年の令嬢の美貌は拝察された。それにしても荷風さん陣こそ、いかに文豪いかに老人、いかに敗戦後の空気の中とはいえ、白昼また傍若無人な、機嫌を悪くした行きずりの客に撲られる危険はさて措くとしても、当時の日本人としては何と言っても懸け離れた振舞いである。(古井由吉『東京物語考』)

これらは名高い話で荷風ファンなら当然知っているだろうが、なんと彼は戦後住まった市川の自宅まで覗きをしていたらしい。なんという至高のフェティシストよ!





…………

文脈の都合上、谷崎を不純なフェティシストとしてしまったが、もちろん異なった観点があるのを知らないわけではない。上にかかげた文だけを抜き出して足フェチに焦点を絞る見方は、たんなる通念としての谷崎のイメージの範囲を出ない。

『盲目物語』でも『春琴抄』でもべつだんとりたてて女性の乳房が登場するわけではない。だが、そこには、視力の喪失によってのみ可能となるような特異な官能性が漲っており、それは性交によるオルガスムスの擬似体験よりはむしろ、無意識的な幼児期における乳首と唇との至福の交合の不意の再現に近いものであるかに思われるのだ。谷崎の繰り出しつづける粘着的な言葉の流れに身を浸していると、人はあたかも羊水に全身を浸して暗闇を漂っているかのような印象さえ受ける。もはや遠近のパースペクティヴもなく、中心と周縁とを分かつヒエラルキーもない、パースペクティヴやヒエラルキーといった視覚的秩序によって組み立てられた世界像、つまり世界のイメージそのものが刻々と崩壊し、ワタシニ触レルナカレという命令が平然と無視されて、言葉と言葉との結びつきが肌の滑らかさや肉の柔らかさによってのみ可能となるような、イマジネール以前のイマジネールが展開してゆく。『春琴抄』の佐助は、晩年になってから「しばしば掌を伸べてお師匠様の足はちやうど此の手の上へ載る程であつたと云ひ、又我が頬を撫でながら踵の肉でさへ己の此処よりはすべすべして柔らかであつたと」語ったという。だがこれは、むしろ谷崎の言葉が言葉それ自身をめぐって呟いている感想なのではないか。

女体への谷崎の執着が、とりわけ足という部位に焦点を結ぶものであったことはよく知られている。若い女の柔らかな蹠をフェティッシュとして聖化しそれで顔を踏まれることの快楽を夢想してやまない谷崎的マゾヒズムが、文学的に昇華された倒錯的症例の一形態としてしばしば語られるわけだが、谷崎の織り上げてゆく言葉の物質的表情それ自体は、むしろ乳房と唇とのかすかな触れ合いがいつまでも引き延ばされてゆくといった印象をかたちづくっているように思う。盲目という特権的主題がそれをさらに誇張するのだが、瞳を失った者のイマジネールは、内面的な暗闇の中に引き籠もってゆく代わりに、肉と肉の物質的な接触へと向かってあくまで凶暴に開かれてゆくことになるのだ。乳首と唇のエクリチュール。……(松浦寿輝『官能の哲学』 「乳房が眼を閉じる」)

谷崎は盲目のエクリチュール、あるいは触覚の作家なのだ。この松浦寿輝の叙述する谷崎に「出現ー消滅 apparition-disparition」、「揺らめく閃光 un éclair qui flotte」(「揺らめかすvaciller というロラン・バルトの鍵言葉」)の作家谷崎潤一郎に思いを馳せないでどうしていられるというのだろう?

またすくなくとも谷崎のモノとしてのフェティッシュという「通説」の範囲にとどまってさえ、彼にとってのモノは、足から乳房へ、またその逆へ、と揺らめいているということは十分ありうる。たとえば「乳房」は随筆である『陰影礼賛』にさえあらわれる。

私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたゝかい温味(ぬくみ)とを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよぷよした肉体を支えたような感じでもある。吸い物椀に今も塗り物が用いられるのは全く理由のあることであって、陶器の容れ物ではあゝは行かない。第一、蓋を取った時に、陶器では中にある汁の身や色合いが皆見えてしまう。漆器の椀のいゝことは、まずその蓋を取って、口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持である。人は、その椀の中の闇に何があるかを見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁(ふち)がほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち昇りつゝあることを知り、その湯気が運ぶ匂に依って口に啣(ふく)む前にぼんやり味わいを豫覚する。その瞬間の心特、スープを浅い白ちゃけた皿に入れて出す西洋流に比べて何と云う相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。
私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。 (谷崎潤一郎『陰翳礼讃』)

この谷崎の側面は、「雪子のシミ」でも示したが、『細雪』とは、雪子の顔にあらわれる「出現ー消滅の演出」の物語としても読める。






2016年5月17日火曜日

声に末期の 水をのみ

早くして 仕舞いなと 下女ひんまくり (摘)

をしいこと まくる所を下女 呼ばれ(摘)






したい時ア いつでも云えと 下女に云い(摘)

したい時ア 半時待てと 嚊に云い

ふた刻で 効験あらかた カマストラ

良薬を 用いた晩は なきわめき(摘)




若後家の、胡粉で白く塗られた足の指は、傳來の畫法によつて、悉く内側へ深く撓められてゐる。からめた白い腿から顫動が走つて、足指のところで堰かれて、曲られた指の緊張が、無限に流れ去らうとする恍惚を遁がすまいと力んでゐるように見える。(三島由紀夫「春の雪」)

をみなごのふち澄みうるほひ をりふしにおとがひあげて 鶴さはに鳴く

もう一つ させてたもれと ゆり起こし(摘)

初々しく またぐら おっぱたげ (摘)





裏表 下女二た晩に おねだり出し (摘)

死にますの 声に末期の 水をのみ (摘)

嚊と婢女 汐干にみえぬ貝と貝 やらやらもあり





三度の飯は常食にして、佳肴山をなすとも、おやつになればお茶菓子もよし。屋台店の立喰、用足の帰り道なぞ忘れがたき味あり。女房は三度の飯なり。立喰の鮓に舌鼓打てばとて、三度の飯がいらぬといふ訳あるべからず。家にきまつた三度の飯あればこそ、間食のぜいたくも言へるなり。此の理知らば女房たるもの何ぞ焼くに及ばんや。(荷風『四畳半襖の下張』)

2016年3月16日水曜日

死んだ子どもをクローンにすることの不気味さ

標準的な哲学の観察において、我々は現象を知ることと、現象を認める・受け入れる・存在するものとして取り扱うとのあいだの区別をすべきだというものがある。ーー我々は「本当には知らない」、我々の周りの他の人々たちが、心を持っているのか、たんにやみくもに行動するようプログラムされたロボットなのかを、と。

しかしながら、この観察は核心を外している。すなわち、もし、私が対話者の心を「ほんとうに知っている」なら、間主体性そのものが消滅する。相手は主体的地位を失い、代わりに、私にとって、透明な機械となる。

言い換えれば、他者に知られていないということは、主体性ーー我々が「心」を相手に帰したときに意味することーーの決定的特質である。すなわち、あなたが「ほんとうに心を持っている」のは、それが、私はにとって不透明な限りである。

とはいえたぶん、我々は古き良きヘーゲル-マルクスの話ーー私の最も内密な主体的経験の徹底した間主体的な特徴の話題ーーを復活させるべきだ。

ゾンビ仮説が間違っているのは、他の人々すべてが、ゾンビであるならば(より正確に言えば、彼らをゾンビとして感知するなら)、私は自分自身を十全な現象学的意識を持っていると感知しえないことだ。
…クローンの不気味さ…よく知られた事例を取り上げよう。愛する唯一の子どもが死んで、両親は彼をクローンすることに決めた。そして彼を取り戻す。結果はゾッとするものであるのは明らかではないだろうか?

新しい子どもは、死んだ子どもの全ての属性を持っている。しかし、この同一性自体が、差異をいっそう明白にするーーまったく同じに見えるにもかかわらず、彼は同じでない。だから、彼は残酷なジョーク、恐るべき詐欺師だーー。失われた息子ではない。そうではなく、冒瀆的なコピーなのだ。彼の現前は、私にマルクス兄弟の古いジョークを想起させないではいられない。《あなたのすべては、私にあなたを思い出させる--、あなたの目、あなたの耳、あなたの口、あなたの唇、あなたの手と足……すべてだ、あなた自身以外の!》(ジジェク、パララックス・ヴュー、2006、私訳)


ところで、手に入れらねなかった、ひどく惚れた女をクローンできるとしよう。そのときも冒瀆的なコピーの印象を生むのだろうか、《あなたのすべては、私にあなたを思い出させる--、あなたの目、あなたの耳、あなたの口、あなたの唇、あなたの手と足……すべてだ、あなた自身以外の!》と(これはマルクス兄弟によるほとんどラカンの対象aの定義だ)。

しばらく考えてみたが、手に入れられるという思い自体が、わたくしの惚れ度のひどい凋落を生み、想到できない。

どんなに惚れた女も
手に入ると
手に入ったというそのことで
ほんの少しうんざりするな


さて、〈あなたがた〉はどうだろうか。

得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない。(永井荷風『歓楽』)

スワンのオデットへの愛、主人公のアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。プルーストが繰り返し書いたのは、「愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在しないこと」だった。

若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト『ゲルマントのほう 二』)



2016年1月11日月曜日

風景と女の二眼ローライ(永井荷風)

断腸亭日乗 昭和十一年 荷風散人年五十八

十月廿六日。午後より時々驟雨あり。草稿を添削す。夜久辺留に往く。安藤氏に託して写真機を購ふ 金壱百四円也

どんな写真機を手に入れたのかといえば、ネット上には、二眼レフの元祖ローライと言っている人が多い。だがローライフレックスかローライコード(フレックスの廉価版だがその軽量さなどのためジャーナリストが多用したそうだ)かあるいはまたそれ以外の機種なのかは判然としない。





次ぎの写真はローライコードだそうだが、どちらにしろひどく美しい機械だ。




荷風もすくなくとも購入当初はこの美しい機械を首からぶらさげて散策するのが嬉しくて堪らなかったはずだ。

昭和十一年 十二月九日 (……)昼飯を食して後直に写真機を携へ亀戸に至り、大嶋羅漢寺前大通を歩み、薄暮銀座に出で、不二氷菓店に飯して早く家にかへる。
同 十二月三十日 (……)乗合バスにんて小名木川に抵る。漫歩中川大橋をわたり、そのあたりの風景を写真にうつす。




写真機購入代金「金壱百四円也」とあるが、昭和十年の物価は次ぎの通りらしい。

白米10kg2円39銭、みそ1貫80銭、醤油1升53銭、さけ缶詰23銭、天丼20銭、うな丼25銭、いのしし鍋30銭、ビフテキ1円、金太郎飴30銭、あんみつ13銭、最中2銭、石油ストーブ18円、国民ソケット75銭、風鈴10銭、鉱山労働者平均日給1円75銭、巡査初任給47円、東大生平均生活費月学47円59銭、山小屋宿泊2円、ダットサン1900円、アサヒ号オートバイ340円、幼児三輪車2円80銭~、ヤマハオルガン27円~





これからみると初任給の二倍ほどとなる。 おそらく荷風の購入したのは、廉価版のローライコードではないか(ローライフレックスは当時三百円ほどだったという情報もある)。

昭和十年の写真を眺めてみると、たとえばこんなものがある。

煙草屋(昭和10年撮影)



次ぎの写真もその前後のもの。







実に美しい。とはいえ、わたくしの住んでいるインドシナの土地には、このたぐいのファッションがいまでもみられる。上の煙草屋などはことさらそうで、中華街にある漢方薬店とほとんどみまがうばかりだ(もっともわたくしがそのチョロン地区にしばしば出入りしたのは十年ほどまえだが)。






荷風写真機購入して三ヶ月後には次ぎのような叙述もみられる。

昭和十二年丁丑  荷風散人年五十九


二月三日。快晴の天気立春の近きを知らしむ。午後銀座に往き食料品を購ひて帰る。霊南坂を登るに坂上の空地より晩霞の間に富士の山影を望む。余麻布に卜居してより二十年いまだかつて富士を望み得ることを知らざりき。家に至るに名塩君来りカメラ撮影の方法を教へらる。夜八時W生その情婦を携来る。奇事百出。筆にすること能はざるを惜しむ。この日より当分自炊をなす事とす。一昨日下女去りて後新しきものを雇入るるには新聞に募集の広告をなすなど煩累に堪へざるを以てなり。W生帰りて後台処の女中部屋を掃除し、夜具敷きのべて臥す。畳の上に寝るも久振りなれば何ともなく旅に出でたるが如き心地なり。

…………

わたくしは御覧の通り荷風をひどく愛するが耽溺を諌める意味で荷風罵倒文を最後につけくわえておこう。

荷風は生れながらにして生家の多少の名誉と小金を持つてゐた人であつた。そしてその彼の境遇が他によつて脅かされることを憎む心情が彼のモラルの最後のものを決定してをり、人間とは如何なるものか、人間は何を求め何を愛すか、さういふ誠実な思考に身をさゝげたことはない。それどころか、自分の境遇の外にも色々の境遇がありその境遇からの思考があつてそれが彼自らの境遇とその思考に対立してゐるといふ単純な事実に就てすらも考へてゐないのだ。
風景も人間も同じやうにたゞ眺めてゐる荷風であり、風景は恋をせず、人間は恋をするだけの違ひであり、人間の眺めに疲れたときに風景の眺めに心をやすめる荷風であつた》(坂口安吾「通俗作家 荷風 ――『問はず語り』を中心として――」)



2015年12月17日木曜日

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

ベッドに縛りつけられると、荷風に手が伸びる。漱石でも鴎外でもなく、荷風がわたくしにはいい。青空文庫にある作品をiPadを腹の上に載せて読む。

断腸亭日記は大正六年から始まる、荷風歳卅九歳である。

十一月三十日。この頃小蕪味ひよし。自ら料理して夕餉を食す。今朝肴屋の半台にあなごと海鼠とを見たり。不図思出せば廿一二歳の頃、吉原河内楼へ通ひし帰途、上野の忍川にて朝飯くらふ時必ずあなごの蒲焼を命じたり。今はかくの如き腥臭くして油濃きものは箸つける気もせず。豆腐の柔にして暖きがよし。夜明月皎皎たり。

三九歳でこんなことを記している荷風は、なぜ晩年カツ丼ばかり喰っていたのだろう。とはいえ、なんとも不思議だ、ーーと不粋に言いはなってしまうほどではなく、最近ではそれなりに荷風の心境がわからないわけでもないつもりになっている。

ぼくがお金をためているって、ケチだとかなんとか、言っているそうですが、ぼくがお金をためているからこそ、戦時中、10年間1枚もの原稿も売れず、一文の印税収入もない時代、 僕は他人に頭1つ下げないで、思い通りの生活ができました。いまは平和です。平和の声 の裏には戦争がありません。それは紙一重のものなんですよ。だから、作品が売れる時は、 売れるだけの貯金をしておきます。人間の一生には浮き沈みということがあります。(永井荷風

ところで、〈あなた〉は《ウニのコノワタのと小ざかしいやつの世話にはならない》タイプかい?

どうもオレはいけない、ウニにもコノワタにもお世話になりたいタイプだ。

すききらひを押し通すにも、油斷はいのちとりのやうである。好むものではないすしの、ふだん手を出さうともしないなんとか貝なんぞと、いかにその場の行きがかりとはいへ、ウソにも附合はうといふ愛嬌を見せることはなかつた。いいや、いただきません、きらひです。それで立派に通つたものを、うかうかと……このひとにして、魔がさしたといふのだらう。ぽつくり、じつにあつけなく、わたしにとつてはただ一人の同鄕淺草の先輩、久保田萬太郞は地上から消えた。どうしたんです、久保田さん。久保勘さんのむすこさんの、ぶしつけながら、久保万さん。御當人のちかごろの句に、湯豆腐やいのちのはてのうすあかり。その豆腐に、これもお好みのトンカツ一丁。酒はけつかうそれでいける。もとより仕事はいける。ウニのコノワタのと小ざかしいやつの世話にはならない。元來さういふ氣合のひとであつた。この氣合すなわちエネルギーの使ひ方はハイカラといふものである。(石川淳「わが万太郎」『夷齋小識』所收)




久保田萬太郞の死因は、梅原龍三郎邸にて設けられた宴席で赤貝のにぎり寿司を勧められて、ーー日頃は噛みにくい赤貝は口にしなかったのだがーー気を遣い断らずに赤貝を口に入れての窒息死だ。わたくしは赤貝も大好物なのだが、当地では稚貝しか手に入らずかつまた衛生上やや不安なので(ただしひどく安価で手に入る、蛤のほうが高価なくらいだ)、火をいくらか通して食すことにしている。最近は天ぷらなどにもする、「赤貝やころものはてのちぢこまり」。




少年時代、隣りに住んでいた母方の叔父がしばしばなまこを大量に購入してみずから調理し、このわたを大量に桶に入れてその薫りにうっとりしながら、家族一同で(子供や女性軍は炊きたてのごはんにのせて、男性軍は日本酒とともに)食す習慣があった。同時に作られるなまこ酢はむしろ副産物のようなものだった。




小な汚しい桶のままに海鼠腸が載っている。小皿の上に三片ばかり赤味がかった松脂見たようなもののあるのは鱲である。千住の名産寒鮒の雀焼に川海老の串焼と今戸名物の甘い甘い柚味噌は、お茶漬の時お妾が大好物のなくてはならぬ品物である。

先生は汚らしい桶の蓋を静に取って、下痢した人糞のような色を呈した海鼠の腸をば、杉箸の先ですくい上げると長く糸のようにつながって、なかなか切れないのを、気長に幾度となくすくっては落し、落してはまたすくい上げて、丁度好加減の長さになるのを待って、傍の小皿に移し、再び丁寧に蓋をした後、やや暫くの間は口をも付けずに唯恍惚として荒海の磯臭い薫りをのみかいでいた。

先生は海鼠腸のこの匂といい色といいまたその汚しい桶といい、凡て何らの修飾をも調理をも出来得るかぎりの人為的技巧を加味せざる(少くとも表示せざる)天然野生の粗暴が陶器漆器などの食器に盛れている料理の真中に出しゃばって、茲に何ともいえない大胆な意外な不調和を見せている処に、いわゆる雅致と称る極めてパラドックサルな美感の満足を感じて止まなかったからである。

由来この種の雅致は或一派の愛国主義者をして断言せしむれば、日本人独特固有の趣味とまで解釈されている位で、室内装飾の一例を以てしても、床柱には必ず皮のついたままの天然木を用いたり花を活けるに切り放した青竹の筒を以てするなどは、珍々先生はこんな事を考えるのでもなく考えながら、多年の食道楽のために病的過敏となった舌の先で、苦味いとも辛いとも酸いとも、到底一言ではいい現し方のないこの奇妙な食物の味を吟味して楽しむにつけ、国の東西時の古今を論ぜず文明の極致に沈湎した人間は、是非にもこういう食物を愛好するようになってしまわなければならぬ。(永井荷風『妾宅』)

これも荷風の食道楽を示すのではなく、風流ぶりを気取っていると読めないでもない。それでなかったら晩年カツ丼ばかりなどということがありうるだろうか。

わたくしの今回の痛風症状の発作もじつはーーこのわたはまったく手に入らない土地だがーー、なんとか似たものを喰いたいと思い、イカ墨が大量にとれる種類のイカをすこし大目に購入して(ふだんはイカ墨スパゲッティかリゾットを作る)、塩からを作り(いくらか赤貝の稚貝を混ぜて)、友を招いて酒を半日ほど飲んだせいだ(友がスッポンを持って来て捌き、日本酒をドバドバ入れた鍋にして、同時に食べたのもよくなかった・・・)。

ところで京都の大市のすっぽん鍋をゴゾンジだろうか? すっぽん鍋はあのようにシンプルにかぎる。



スッポンやいのちの腫れの場処ちがひ、--と記したところで、この数日の読書でエリティスの美しい詩句に出会ったことを思い出した。

きみは思うな、骨まで青く染める今ひとたびの夏を(中井久夫訳)

とすれば、これも変奏しておこう、「きみは思うな、骨まで赤く腫らす今ひとたびの海鼠腸まがいを」

…………

私は物語を書き終えたノートブックを閉じ、それを内ポケットに入れた。で、ポルチュゲーズ牡蠣を一ダースと、その店にある辛口の白ぶどう酒を水さし半杯分もってくるよう、ウェイターにたのんだ。物語を書いたあとは、まるで愛の行為をしたときのように、いつも空虚な感じがし、悲しいような楽しいような気持になるのだった。そしてこれがとても良い物語だということを確信した。どのくらい良いものかは、その次の日にそれを読み返すまでは、ほんとうにはわからないだろうが。

牡蠣は強い海のにおいとかすかな金属の味がしたが、冷たい白ぶどう酒はそれを洗い流して、あとにただ海の味と汁気を残した。私はその牡蠣を食べ、一つ一つの貝殻から冷たい汁を飲み、さわやかな味のぶどう酒で、それを流し込んだ。そうしていると空虚な感じが消え、楽しくなって、こえからの計画を立て始めた。(ヘミングウェイ『移動祝祭日―回想のパリ』福田陸太郎訳)



 ーーああ、なんとすてきな文章だろう。ひとは雑誌や作家のエッセイなどで、この文の変奏ーー牡蠣と辛口の白ワイン(たとえばシャブリ)をめぐる--に何度も遭遇して、小粋な料理屋を探したのではないか。

わたくしの手許にはヘミングウェイの作品はこの『移動祝祭日』しかないが、この最晩年の小説はときたま覗いてみる習慣がある。ヘミングウェイの食べ物の叙述にはとても惹きつけられる。

で、なんの話だったかーー。荷風に戻ろう。




日本にいる外国人は日本人が自分たちをあまり家に招かないとよく言う。私は幸運にも多くの作家から自宅へ招かれた。一番忘れ難いのは、永井荷風の家だ。(中央公論の)嶋中さんが荷風に会う時に私を同伴したのである。市川に向かい、狭まった道路を歩くと表札もなく目立たないお宅に着く。私たちは女中らしい人に案内されて中へ通された。日本人はよく「家は汚いですが」と謙遜しても実は大変清潔であるが、荷風の部屋は腰を下ろすと埃が舞い立った。荷風は間もなく現れたが、前歯は抜け、ズボンのボタンも外れたままの薄汚い老人そのものだった。ところが話し出した日本語の美しさは驚嘆するほどで、感激の余り家の汚さなど忘れてしまった。こんな綺麗な日本語を話せたらどれほど仕合わせだろうと思った。(ドナルド・キーン「私の大事な場所」)




荷風散人年八十一

三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自働車を雇ひ乗りて家にかへる。
(……)
四月十九日。日曜日。晴。小林来話。大黒屋昼飯。



ほぼ毎日、店が休みでも先生がいらっしゃるとお作りしました。いつもきまって「並のカツ丼」と「上新香」、「お酒一合」をただ黙々と召し上がられました。

亡くなられた前日にも、いつもの「カツ丼」を召し上がっていかれました。(永井荷風と大黒屋




ーー荷風は一日一食主義であったという話もあるが、いつの頃からかはよくわからない。

 ……晩年の荷風は、毎日正午になるとハンコで捺したように何とかいう近くの食堂(京成電車沿線の何とかいう駅前にいまもあるらしい)にあらわれて、ハンコで捺したようにカツ丼(確かにカツ丼は独身男の象徴みたいな食物だと思う)を食ったそうだ。世の中には食物の味のわからない(あるいは食物の書けないだったか?)小説家に文豪なしという説(ビフテキと茶漬けでは西洋文学にかないっこなし、というのとはまた別の説らしい)もあるらしいが、その説でゆくと荷風などはどうなるのだろう?(後藤明生『壁の中』)



……昭和二十三年以降の「日乗」を読み進むにつれて私には、だんだんに荷風の後姿しか見えなくなってくるーーそれまでの、背が見えていたかと思うとくるりと顔がこちらへ向き直るという戦慄が年ごとに薄れて、老人の健脚がひたすら遠ざかっていく、とそんな印象を受けてならない。全集が刊行され、浅草の踊子たちに親しみ、芝居が上演され、役者たちと《鳩の街》を見てまわる。新聞記者に追いまわされ、街娼にまで顔を知られるようになり、やがて文化勲章を受けて、鞄の置き忘れ事件によって財産状態が世人の目を惹くところとなる。そうして身辺が多事になっていくにつれて「日乗」の記載は年々短くなる。(古井由吉『東京物語考』)


(文化勲章受章(昭和27年)前列左より辻善之助(仏教文化に功績)熊谷留蔵(結核の臨床科学に功績)梅原龍三郎(日本画)後列左より安井曹太郎(肖像画)朝永振一郎(物理学)荷風)

三十年頃までは《夜浅草》あるいは《燈刻浅草》という記が多くて夜の繁華街歩きになかなか精を出していたようなのが、やがて《午後、浅草》となり、人と会うことも減って一人で洋画を見ることが多くなる。(……)

さらに《午後》が《正午過ぎ》となり、三十三年頃にはただの正午、《正午浅草》あるいは《小林来話、正午浅草》あるいは《正午浅草、燈刻大黒屋》という短い記の羅列に近く、こうなるとかえって後姿なりにまた目の前に大きくアップされてきたようで、朝方に地元の不動産屋氏の御機嫌伺いを受けてから京成電車で押上まで出て浅草の洋食屋で昼飯を摂り、おそらくさしたることもなく早目に家にもどって、夕刻には地元駅前の大黒屋なる店に足を運ぶという、判で捺したような老年の生活の反復が伝わってくる。

(……)

そして三十四年三月一日、日曜日、雨の中を《正午浅草》に出たところが路上でにわかに歩行困難になり驚いて家に帰ったとあり、それから一週間あまり寝つくと、《正午浅草》もなくなって《正午大黒屋》となり、四月二十日以降は《小林来話》だけになる。

(……)

この素っ気もないような記録こそ、住まいは江戸川を渡った市川菅野であっても、わが東京物語の極みである。長年の孤立者がさらに年ごとにひとりになり、やがて月ごとにひとりになり、ついにひとりになる。しかしぎりぎりまで歩く。範囲は日ごとに狭まってきても、とにかく歩かないことには生きられない。最後には三町ばかりの道だけになり、同じ道の往き返りだけになり、それでもまっすぐ、はてしなく歩きつづける心地でいたのかもしれない。

四月廿九日、祭日、陰――と、なぜだか、最後の日まであるのだ。翌三十日の朝、通いの手伝いの女性に発見されたという。

昭和五十七年の八月に私は東京駅を出た新幹線の中でたまたま開いた週刊誌のグラビアに、昭和三十四年四月末の荷風終焉の姿を見て吃驚させられた。取り散らした独り暮しの部屋の、万年床らしい上から、スボンをおろしかけた恰好のまま、前のめりに倒れこんで畳に頬を捺しつけていた。ちょうど外食から帰宅したところで、吐血だったという。墜落だ、これは、と私はつぶやいたものだ。八十一歳の老人というよりも、むしろ壮年の死だ。孤立者は死ぬまで老年になるわけにはいかない。いまや文豪の死というよりも、一般市民の覚悟しなくてはならない最後の姿だ、と。(同上 古井由吉『東京物語考』)




昭和34年(1959)4月30日、79歳。2年前に新築した京成電車・八幡駅のすぐ北、八幡小学校裏手の自宅六畳間。荷風はいつも通り近所の食堂「大黒家」でカツ丼一杯を平らげ、日本酒一合を呑んだ。真夜中。急に気分が悪くなって胃から血を吐き、窒息で急逝。翌朝、家事手伝いの老婦が掃除にやってきて死んでいるのを発見された。哀しいことに、臨終の写真が昭和34年5月17日号(10日売り)に掲載された。(毎日新聞社「昭和史全記録」1989刊の628頁にも掲載) 居間から発見された現金二十八万円、定期預金八百万円、普通預金二千万円の通帳は、威三郎氏の名義で三菱銀行八幡支店に預けられたという。棺は市川署から葬儀社に手配した二千五百円の質素なものだったという。遺体をきよめた小問勝二氏は左腕に「こうの命」の刺青を見た。32歳の荷風が新橋芸者・豊松(吉野こう)と互いに彫りあった刺青だった。「落ちる葉は残らず落ちて昼の月…荷風」。合掌。(大田蜀山人・永井荷風・谷崎潤一郎 “遊学”

当時の《現金二十八万円、定期預金八百万円、普通預金二千万円の通帳》とは、現在のいくらほどになるのか?

1958年(昭和33年) 銀行員大卒初任給  12700円
1959年(昭和34年) 公務員大卒初任給  10200円

ーーなどというデータがネット上にはあるが、かりに当時の二十倍としたら、六億円ほどということになる。





2015年10月16日金曜日

姉様かぶり

羽織かくして、  袖ひきとめて、  どうでもけふは行かんすかと、
言ひつつ立つて櫺子窓、  障子ほそめに引きあけて、
あれ見やしやんせ、  この雪に。

わたくしはこの忘れられた前の世の小唄を、雪のふる日には、必ず思出して低唱したいような心持になるのである。この歌詞には一語の無駄もない。その場の切迫した光景と、その時の綿々とした情緒とが、洗練された言語の巧妙なる用法によって、画よりも鮮明に活写されている。どうでも今日は行かんすかの一句と、歌麿が『青楼年中行事』の一画面とを対照するものは、容易にわたくしの解説に左袒するであろう。(永井荷風『雪の日』)

ーーと読んで喜多川歌麿の『青楼年中行事』の絵を探してみたのだがそれらしきものに遭遇できない。かわりに次ぎの画像に行き当たったので貼り付けておく。

まずは明治大正時代の吉原。





昭和6年の吉原。





1932年(昭和7年)の吉原。





今日もとうとう雪になったか。と思うと、わけもなく二番目狂言に出て来る人物になったような心持になる。浄瑠璃を聞くような軟い情味が胸一ぱいに湧いて来て、二人とも言合したようにそのまま立留って、見る見る暗くなって行く川の流を眺めた。突然耳元ちかく女の声がしたので、その方を見ると、長命寺の門前にある掛茶屋のおかみさんが軒下の床几に置いた煙草盆などを片づけているのである。土間があって、家の内の座敷にはもうランプがついている。

友達がおかみさんを呼んで、一杯いただきたいが、晩くて迷惑なら壜詰を下さいと言うと、おかみさんは姉様かぶりにした手拭を取りながら、お上んなさいまし。何も御在ませんがと言って、座敷へ座布団を出して敷いてくれた。三十ぢかい小づくりの垢抜のした女であった。

はて、姉様かぶりとはなんだったか。わたくしはこのあたりにことさら無知である。何度かはこの言葉に行き当たっているには違いないが、いままで調べてみようとは思わなかった。




 もうすこし探ってみると、喜多川歌麿ではなく、 歌川国芳の朝櫻楼:『艶 發合』に出会うことができた。




さて荷風の『雪の日』をもうすこし続ける。荷風を読んでいるとどうしても懐旧モードになる。この随筆はことさらそうだ。いつ書かれたのだろうか。いまいくらか資料を見てみても判然としない。

本文中に《七十になる日もだんだん近くなって来た。七十という醜い老人になるまで、わたくしは生きていなければならないのか知ら》とはある(荷風は1879年生まれ)。とすれば戦後に書かれた文か。だがどうもそんな感じはしないのだ。終戦直前か。

焼海苔に銚子を運んだ後、おかみさんはお寒いじゃ御在ませんかと親し気な調子で、置火燵を持出してくれた。親切で、いや味がなく、機転のきいている、こういう接待ぶりもその頃にはさして珍しいというほどの事でもなかったのであるが、今日これを回想して見ると、市街の光景と共に、かかる人情、かかる風俗も再び見がたく、再び遇いがたきものである。物一たび去れば遂にかえっては来ない。短夜の夢ばかりではない。

友達が手酌の一杯を口のはたに持って行きながら、

雪の日や飲まぬお方のふところ手

と言って、わたくしの顔を見たので、わたくしも、

酒飲まぬ人は案山子の雪見哉かな

と返して、その時銚子のかわりを持って来たおかみさんに舟のことをきくと、渡しはもうありませんが、蒸汽は七時まで御在ますと言うのに、やや腰を据え、

舟なくば雪見がへりのころぶまで

舟足を借りておちつく雪見かな

 その頃、何や彼かや書きつけて置いた手帳は、その後いろいろな反古と共に、一たばねにして大川へ流してしまったので、今になっては雪が降っても、その夜のことは、唯人情のゆるやかであった時代と共に、早く世を去った友達の面影がぼんやり記憶に浮んで来るばかりである。(荷風『雪の日』)

姉様かぶりをした《三十ぢかい小づくりの垢抜のした女》が、《お寒いじゃ御在ませんかと親し気な調子で、置火燵を持出して》くるのにであい、それを《親切で、いや味がなく、機転のきいている》と感じる。

《こういう接待ぶりもその頃にはさして珍しいというほどの事でもなかったのであるが、今日これを回想して見ると、市街の光景と共に、かかる人情、かかる風俗も再び見がたく、再び遇いがたきものである。物一たび去れば遂にかえっては来ない。短夜の夢ばかりではない》ともある。





荷風の時代でも稀になっていたのだから、いまならなおさらだろう。

1987年に書かれた古井由吉の「中山坂」には、その僅かな生き残りの「気さくなお神」さんが出てくる。

「ああ、ネエさん、悪かったな、ここの店でちょっと休んでいくよ」

しっかりとした老人の声に、もうはずれに角に近い茶店を見ると、軒からお赤飯とか、ところ天とか、埃まみれの札をさげ、小笊に盛った里芋やらちょっとして土産物やらを並べた店さきに、主人〔あるじ〕らしい中年の男とそのお神さんらしいのが立って、驚きの色も見せず、若い女の肩につかまって着いた老人を、おかしそうに眺めやった。

「なんだよ、野中さん、今日はまた美人の看護婦さんに付添われてさ。ますます元気じゃないか」
「いや、駄目だよ。馬場が、来るたびに遠くなりやがる」
「毎週毎週、歩いてきて、ようがんばるよ。もう明日きりで府中だねえ」

弱音を吐きながら女の肩を離れると足がすっくと立って、老人は鷹揚な背つきで店さきに近づき、追って傘をさしかけた女のほうを振り返ってオヤという目をしてから、笑って店の主人をたしなめた。

「おいおい、看護婦さんなんて、気安く言うなよ。お名前はまだうかがっていないが、この人は、命の恩人だ。大門の下で、大げさによろけかかってな。うしろから支えてもらわなければ、足腰がヤワになっているから、もろに転げて、頭蓋骨ぐらいは壊してたぞ。いまごろは、あんたたち、ピーポーの音を聞いて、爺さんとうとう往ったかって、喜んでいたところだ。ついでに向脛を打ってな、ここまで肩を借りてきた」

嘘も闊達で、勝手知ったふうに店の奥に入り、畳の間にあがって壁の柱を背に大きな胡坐をかくと、遠くから軒の外をすかし見るようにして、ゆったりと女をまた手招いた。

わたし、ここで失礼します、というこころで女は傘の下から頭を深くさげたが、その傘をすぼめて店さきに立てかけたとたんに、なにやらヌレネズミみたいな惨めたらしい恰好になり、三人に揃って眺められてちょっとたじろいだところを、気さくなお神に腕を取られて軒の下に入った。

畳〔うえ〕に上がるように主人にすすめられたが、ちゃぶ台に肘をついて競馬新聞を睨んでいる老人の、にわかにいかめしげな姿にけおされて、上がり口のはずれに腰を浅く斜めにかけ、額から首すじへ髪へとハンカチで拭ううちに、お神が寄ってきて、濡れて白っぽくなっているらしい顔を見て、お酒でもつけましょうか、と心配そうにたずねるので、また困っていると、うしろで老人が呼んだ。

「お嬢さん。人助けのついでにな、もうひとつ助けてくださらんか。後生ですから」
かけた腰を右にひねるか、左へはずすか、変なところで迷ってしどろもどろに振り向くと、老人は新聞を下に置いて女の顔を見つめた。
「ネエさんは」と物言いが先の調子にもどった。「知らないところに行っても、あまりまごつかないほうだろうね」
「平気なほうだと思いますけど。根が田舎者なんで、かえって」
「足も丈夫そうだね」
「さあ、どうかしら」
「これからひとつ、走ってくれないか」
「走る ……」

女の剥いた怪訝の色に押っかぶせるふうに、老人はちゃぶ台の前に居ずまいをただして懐から大きな財布を取り出し、万札を二枚抜いて台の上にいったんぽんと置いてから、紙きれとかさねてつかんで女の胸もとに差し出すと、女は胸を庇うみたいにしてそれを受け取ってしまい、万札だけをおずおずと台の隅に戻して紙きれに目を落とした。

「今が一時、まあ、ちょうどだ。大門からここまで十分もかかったか。七レースの発馬が二十分、締切りがその三分前だ。これから十五分ほどで競馬場まで行ってもらいたいのだ。紙が二枚あるな、その一と書いたほうを、着いたらすぐその足で、近い窓口に黙って突っこんでくれ。ただ、黙って。間違えたら、窓口のほうが教えてくれる。金を払ったら馬券を大事に抱えて、じきにレースが始まるから、後学のために見物しとくといい。つぎに前売りの窓口に行く。いいかね、前売りだ。案内所があちこちにあるのでそこで聞く。これは、次のレースを抜いておいたので、そんなに急ぐことはない。窓口まで行って、二枚目の紙をただ差し出して、言われたとおりに金を払って馬券を受け取る。そうしたら、ここまでまた、ぶらぶらともどってきてくれ。温かいものでも、仕度させて待っているよ」(古井由吉『中山坂』)



2015年8月22日土曜日

「むちむち」という駄洒落

(「無知な女子高生」を沖縄に連れ出し「愛のムチ」を打つNHK番組「むちむち!」に「女性蔑視」批判)

@nhk_Etele: 新番組「むちむち!」とは、街でスカウトしたちょっとムチな女子高校生に、番組ディレクターが愛のムチを打つ、全体的にムチッとした番組です。Eテレ20(木)19:25~。http://t.co/ht6lyPP5d1 #Eテレ

という番組の告知が「炎上」していたようだ。たとえば東京大学で教師をしておられるフェミニストの清水晶子さんは次ぎのようにお怒りになっている。

@akishmz: この番宣ツイート、どうなの。どうして常に「無知な女子高生に教えてあげる」なんだよ!セクシズムだろそれ!というレベルはもちろんあるけれど、そこに(名目上は無関係なはずの)エロス化が臆面もなく持ち込まれているのが、シンプルにキモい。
@akishmz: NHKとしてもEテレとしても「むちむち!」のタイトル/設定/番宣のセクシズム(1. 「女子高生」に「無知」を代表させ、2. 未成年女性を性的対象として表象する)が公共放送の教育番組として問題だという批判は黙殺なさるのですね。 https://t.co/OEUBFbBK5L

「性的対象として表象する」とあるように、女子高生が性的対象であることが問題ではなく、天下のNHKの教育番組が「むちむち!」というタイトル/設定/番宣をしてしまうのが問題だということだろう。

「むちむち」とは「もち肌」とか「むちむちした太腿」とかを想起させないわけではない、無知と鞭だけではないだろう。どんな風に使われるのか、と探ってみれば、次のような文章に行き当たった。

「そうだ。まず入れ入れが大事なんだ。儀式みたいなもんだ。  まずは入れ入れ。〜  おっぱいむちむち、肌はつるつる、腰はくねくね、  あそこはぐしょぐしょ、ばりんばりんのセックス・マシンだ。……」(村上春樹『海辺のカフカ』)


わたくしはーー時代錯誤的なのかもしれないがーー、なぜ「むちむち」程度のいわゆる駄洒落で人びとが騒ぎ立てるのか不思議でならなかった。いきすぎた「苦情の文化 CULTURE OF COMPLAINT」の顕れではないかとさえ感じたが、とはいえ「お怒り」になる方がいらっしゃるのはよくわかる。

というわけで--腫れ物にはできるだけ触らないようにしてーーここでは別の角度から記す。





実際のところ、16~18歳の少女たちが、多くの幅広い年齢層の男たちにとっての性的対象でないわけがない。それは同じ齢の少年たちが、多くの女性たちにとっては性的対象から外れるだろうこととは対照的だ(女性のことはよくわからないから、そうでないのかもしれないが)。

幼女期とか、青春期とか、中年とか、老年とか、そういう分節化は女にはない。女の一生は同じ調子のもので、女たちは男と違って、のっぺらぼうな人生を生きている。養老孟司という解剖学者はそう語って、わたしを驚かせた。その意見を伝えると、吉行淳之介という作家はほとんど襟を正すようにして、その人はじつによく女を知っていると述べた。(丸谷才一・評 『きことわ』=朝吹真理子・著
昭和二十年五月廿五日。 空晴れわたりて風爽かに、初て初夏五月になりし心地なり。室内連日の塵を掃はむとて裏窓を開くに隣園の新綠染めしが如く、雀の子の巣立ちして囀る聲もおのづから嬉しげなり。この日予は宿泊人中の當番なれば午後止むことを得ず昭和通五六町先なる米配給所に至り手車に米、玉蜀黍二袋を積み載せ曳いてかへる。同宿人の中江戸川區平井町にて火災に罹り其姉のアパートに在るを尋來りし可憐の一少女あり。年十四五歳なれど言語、擧動共に早熟、一見既に世話女房の如し。予を扶けて共に車を曳く。路すがら中川邊火災當夜の事を語れり。是亦戰時の一話柄ならずや。(永井荷風 断腸亭日乗)


まさか女子高生たちを「性的対象」--異性としてのときめきの対象ーーにしてしまう男たちの心性までを非難するということではあるまい。実際、既に小学校の高学年頃から男女の成熟の度合いは際立って異なり、少年たちはそのことを痛感して育ってきているはずだ。あの頃の思いは容易に消えない。とくに利発で活発な少女に対してなら少年時代の男たちのだれもが、《朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》(中井久夫)のようなものを覚えた少女たちが何人かいるに違いない。その「まぶしさ」に戸惑いあるいは反撥感を抱きつつ育ってゆく男たちもいるではあろうが。




母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』私訳)



《愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきである》(ヴェルハーゲ)--であるならば、少年時代に覚えた《隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》とは母への愛の(最初の)代替物とさえいえる場合がある筈だ。あるいは荷風のいうような《年十四五歳なれど言語、擧動共に早熟、一見既に世話女房の如し》少女を男性軍の〈あなたたち〉は記憶のなかに一人も持っていないだろうか。

場合によっては四十男も五十男も少年時代の自らと同一化してあの時の少女への憧憬と同じ心持をもってこの今かたわらにいる少女を愛することさえあるはずだ。





とはいえわたくしはエリック・ロメールのようにハイ・ティーンの膝を愛するわけでもないし、むちむちを(たいして)愛するわけでもない。




ーー試合に負けちゃったけど、そんなにがっくりすることないわよ、ね、気を落さないで。

こういった光景を見て、あの頃の母の代替物のような少女の存在を愛するのだ。

……そんなとき、突然私が目にとめるのは、雨にぬれた路面が日ざしを受けて金色のラッカーと化した歩道にあらわれて、太陽にブロンドに染められた水蒸気の立ちのぼるとある交差点の舞台のハイライトにさしかかる宗教学校の女生徒とそれにつきそった女の家庭教師の姿とか、白い袖口をつけた牛乳屋の娘とかであって、(……)バルベックの道路と同様に、パリの街路が、かつてあんなにしばしばメゼグリーズの森から私がとびださせようとつとめたあの美しい未知の女性たちを花咲かせながら、それらの女性の一人一人が官能の欲望をそそり、それぞれ独自に欲望を満たしてくれる気がする、そんな光景に接するようになって以来、私にとってこの地上はずっと住むに快く、この人生はずっとわけいるに興味深いものであると思われるのであった。(プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」井上究一郎訳)
私は窓のところに行き、内側の厚いカーテンを左右にひらいた。ほの白く、もやが垂れて、あけはなれている朝の、上空のあたりは、そのころ台所で火のつけられたかまどのまわりのようにばら色であった、そしてそんな空が、希望で私を満たし、また、一夜を過ごしてから、ばら色の頬をした牛乳売の娘を見たあんな山間の小さな駅で目をさましたい、という欲望で私を満たした。(同「逃げさる女」)

スワンのオデットへの愛、主人公のアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。プルーストが繰り返し書いたのは、「愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在しないこと」だった。


2015年8月16日日曜日

勝夢酔とその息子

『安吾史譚』のなかに「勝夢酔」という文がある。勝夢酔とは勝海舟(勝安芳)の父であり、《捧腹絶倒的な怪オヤジであるが、海舟に具わる天才と筋金は概ね親父から貰ったものだ》と安吾はいっている。

人の目から見れば放蕩無頼で、やること為すことトンチンカンで収支つぐなわざるバカモノにすぎないが、このオヤジの一生にはチャンと心棒が通っていた。トンチンカンのようで、実は一貫した軌道から全心的に編みだされている個性的な工夫から外れていることがない。社会的には風の中のゴミのようにフラフラしている存在だが、彼の個性にジカに接触した者には、誰よりもハッキリと大地をふみしめてゆるぎのない力のこもった彼の人生がわかるはずだ。(坂口安吾「勝夢酔」)

とあるようにひどく愉快になる人物であり、かつまたひどく愉快になる安吾の文章である。《人の目から見れば放蕩無頼で、やること為すことトンチンカンで収支つぐなわざるバカモノにすぎないが、このオヤジの一生にはチャンと心棒が通っていた》とはまさに安吾の生き方を語ったものとさえいえる。

ーーといまざっと書いて上から読み返しているのだが、ここで以前写経した石川淳の文章を想い起こした。わたくしの場合、読み返すと挿入につぐ挿入でどうも記事が長くなる悪癖があるのだが、以下の文は捨て難い。

生活に於て家といふ觀念をぶちこわしにかかつた坂口安吾にしても、この地上に四季の風雨をしのぐ屋根の下には、おのづから家に似た仕掛にぶつかる運命をまぬがれなかつた。ただこれが尋常の家のおもむきではない。風神雷神はもとより當人の身にあつて、のべつに家鳴振動、深夜にも柱がうなつてゐたやうである。ひとは安吾の呻吟を御方便に病患のしわざと見立てるのだらうか。この見立はこせこせして含蓄がない。くすりがときに安吾を犯したことは事實としても、犯されたのは當人の部分にすぎない。その危險な部分をふぐの肝のやうにぶらさげて、安吾といふ人閒は强烈に盛大に生き拔いて憚らなかつたやつである。

家の中の生活では、さいはひに、安吾は三千代さんといふ好伴侶に逢着する因緣をもつた。生活の機械をうごかすために、亭主の大きい齒車にとつて、この瘦せつぽちのおくさんは小さい齒車に相當したやうに見える。亭主と呼吸を一つにして噛み合つてゐたものとすれば、おこりえたすべての事件について、女房もまた相棒であつたにひとしい。亭主が椅子を投げつけても、この女房にはぶつかりつこない。そのとき早く、女房は亭主から逃げ出したのではなくて、亭主の内部にかくれてゐたのだろう。安吾がそこにゐれば、をりをりはその屬性である嵐が吹きすさぶにきまつてゐる。しかし、その嵐の被害者といふものはなかつた。すなはち、家の中に悲劇はおこりえなかつた。それどころか、たちまち屋根は飛んで天空ひろびろ、安吾がいかにあばれても、ホームドラマにはなつて見せないといふあつぱれな實績を示してゐる。たくまずして演出かくのごときに至つたについては、相棒さんもまたあづかつて力ありといはなくてはならない。

安吾とともにくらすこと約十年のあとで、さらに安吾沒後の約十年といふ時閒の元手をたつぷりかけて、三千代さんは今やうやくこの本を書きあげたことに於て安吾との生活を綿密丁寧に再經驗して來てゐる。その生活の意味がいかなるものか、今こそ三千代さんは身にしみて會得したにちがひない。會得したものはなほ今後に持續されるだらう。この本の中には、亡き亭主の證人としての女房がゐるだけではない。安吾の生活と近似的な價値をもつて、當人の三千代さんの生活が未來にむかつてそこに賭けてある。この二重の記錄が今日なまなましい氣合を發してゐ所以である。石川淳「坂口三千代著「クラクラ日記」序」)

バー・クラクラ



ーーこの画像に行き当たって思い出した石川淳の文なのだが、なぜか投稿せずにほうってあった。

さて安吾の文に戻る。

「おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有まいと思う故に孫やひこの為に話してきかせるが、よく不法もの馬鹿もののいましめにするがいいぜ」 これは彼が自分の無頼の一生を叙述して子孫のイマシメにするために残した「夢酔独言」という奇怪にして捧腹絶倒すべき自叙伝の書き出しの文章である。

しかし彼は子孫が真人間になるようにといくらか考えたが、自分自身が真人間になることは考えなかった。まだ天罰がこないのはフシギだといぶかりつつ純粋に無頼の一生を終ったのだ。「孫やヒコのイマシメのために」とあって、子供のイマシメ、と書いてないのは、子供の出来がよかったからである。つまり海舟やその妹が子供ながら出来がよくて、オヤジがイマシメを言うところは何もなかった。仕方がないから、まだ生れない孫やヒコを相手に、世にも異様な怪自叙伝をイマシメとして書き綴ったのである。序文の文句は次のように結ばれている。「先にも言う通りおれは之までなんにも文字のむずかしいことはよめぬから、ここにかくにもかなのちがいも多くあるからよくよく考えてよむべし」(坂口安吾「勝夢酔」)


ところで安吾はもちろん息子の勝海舟についても言葉を費やしている。その箇所も面白い。いやわたくしは日本史にひどく疎く、とくに明治維新前後の英雄たちの消息はおそらく高校生ほどの知識もない、――ビジネス書などで成功のモデルとしてあげられる彼らの名やら大河ドラマやらをひどく毛嫌いしてきたのだーー、そのせいで新鮮なだけなのかもしれないが。

海舟という人は内外の学問や現実を考究して、それ以外に政治の目的はない、そして万民を安からしめるのが政治だということを骨身に徹して会得し、身命を賭して実行した人である。近代日本に於ては最大の、そして頭ぬけた傑物だ。

明治維新に勝った方の官軍というものは、尊皇を呼号しても、尊皇自体は政治ではない。薩長という各自の殻も背負ってるし、とにかく幕府を倒すために歩調を合せる程のことに政治力の限界があった。

ところが負けた方の総大将の勝海舟は、幕府のなくなる方が日本全体の改良に役立つことに成算あって確信をもって負けた。否、戦争せずに負けることに努力した。

幕府制度の欠点を知悉し、それに代るにより良き策に理論的にも実際的にも成算があって事をなした人は、勝った官軍の人々ではなく、負けた海舟ただ一人である。理を究めた確実さは彼だけにしかなかった。官軍の誰よりも段違いに幕府無き後の日本の生長に具体的な成算があった。

負けた大将だから維新後の政治に登用されなかったが、明治新政府は活気はあったが、確実さというものがない。それは海舟という理を究めた確実な識見を容れる能力のない新政府だから、当然な結果ではあった。

維新後の三十年ぐらいと、今度の敗戦後の七年とは甚だ似ているようだ。敗戦後の日本は外国の占領下だから、明治維新とは違うと考えるのは当らない。 

前記明治二十年の海舟の建白書に、
「日本の政治は薩長両藩に握られ、両藩が政権を争ってるようなものでヘンポである」 
とあるが、つまり薩長も実質的には占領軍だった。薩長政府から独立しなければ、日本という独立国ではなかったのである。維新後は三十余年もダラダラと占領政策がつづいていたようなもので、ただ一人幕府を投げすてた海舟だけが三十年前から一貫して幕府もなければ薩長もなく、日本という一ツの国の政治だけを考えていた。

つまり負けた幕府や旗本というものは、今の日本で云うと、旧軍閥や右翼のようなものだ。軍閥や右翼は敗戦後六七年で旧態依然たるウゴメキを現しはじめたが、明治の旗本は全然復活しなかった。いち早くただの日本人になりきってしまった。海舟という偉大な総大将が復活の手蔓を全然与えなかったのだ。明治新政府の政治力によるものではなかったのである。(坂口安吾「勝夢酔」)

もちろんいくら日本史に無知のわたくしでも、勝海舟が《近代日本に於ては最大の、そして頭ぬけた傑物》という評価を受けることが多かったり、逆に福沢諭吉が『痩我慢の説』で、《勝氏が和議を主張して幕府を解きたるは誠に手際よき智謀の功名なれども、これを解きて主家の廃滅したるその廃滅の因縁が、偶ま以て一旧臣の為めに富貴を得せしむるの方便となりたる姿にては、たといその富貴は自から求めずして天外より授けられたるにもせよ、三河武士の末流たる徳川一類の身として考うれば、折角の功名手柄も世間の見るところにて光を失わざるを得ず》などと書いたことぐらいは知っている。

福沢諭吉の「痩我慢の説」は書いてから十年ほど隠されたのちに発表されたものだが、この論を素直に読めば、小林秀雄が随筆「福沢諭吉」で書くように、勝安芳と榎本武勇は《ともに幕臣の身でありながら、官軍と妥協し或は敵に降参した腰抜けであった》ということになる。

そして前者の「頭抜けた傑物」の評価なら、たとえば荷風の日記にこうある。

昭和二十年九月廿八日。(……)

我らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝するが如き事のあり得べきを知ら ざらりしなり。此を思へば幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下より遥に名誉ありしものならずや。今日此事のこゝに及びし理由は何ぞ や。幕府瓦解の時には幕府の家臣に身命を犠牲にせんとする真の忠臣ありしがこれに反して、昭和の現代には軍人官吏中一人の勝海舟に比すべき智勇兼備の良臣 なかりしが為なるべし。(『断腸亭日乗』昭和二十(1945)年 荷風散人年六十七)

いずれにせよ(わたくしにとって)安吾の文がことさら面白かったのは、《薩長も実質的には占領軍だった》、《負けた幕府や旗本というものは、今の日本で云うと、旧軍閥や右翼のようなものだ。軍閥や右翼は敗戦後六七年で旧態依然たるウゴメキを現しはじめた》云々という箇所である。江戸幕府にとっては、薩長は、太平洋戦争敗戦後の米国と同様に、実質的には占領軍だったとすれば、日本はその占領軍の末裔に21世紀になってふたたび占領されつつある。安倍やら「日本会議」やらの「戦後レジームからの脱却」なる標語がその「占領」の標語でなくてなんだろう。

小林教授:日本会議に沢山の知り合いがたくさんいるので私が答えますが、日本会議の人々に共通する思いは、第二次大戦で敗けたことを受け入れ難い、だから、その前の日本に戻したいと。かれらの憲法改正案も明治憲法と同じですし、今回もそうですが、日本が明治憲法下で軍事五大国だったときのように、アメリカとともに世界に進軍したいという、そういう思いを共有する人々が集まっていて、かつそれは、自民党の中に広く根を張っていて、かつよく見ると、明治憲法下でエスタブリッシュメントだったひとたちの子孫が多い。そうするとメイクセンスでしょ(笑)。(小林節

ところで『青空文庫』に勝海舟の小文が五編ほどありこの機会に読んでみたが、どれもこれも愉快になる文章であり、かつまたその文体が思い掛けなかった。たとえば以下は「大勢順応」の全文である。

憲政党が、伊藤さんに代つて、内閣を組織した当時、頻りに反対して騒ぎまはつた連中も、己れは知つて居るよ。だが随分見透しの付かない議論だと思つて、己れなどは、独りで笑つて居たのさ。御一新の際に、薩摩や、長州や、土州が政権を執れたとて、なに彼等の腕前で、迚も遣り切れるものかと、榎本や、大鳥などは、向きになつて怒つたり、冷やかしたりした連中だ。所がどうだ、暫くすると、自分から始めて薩長の伴食になつたではないか。何も大勢さ。併し今度の内閣も、最早そろ〳〵評判が悪くなつて来たが、あれでは、内輪もめがして到底永くは続くまいよ。全体、肝腎の御大将たる大隈と板垣との性質が丸で違つて居る。板垣はあんな御人よし、大隈は、あゝ云ふ抜目のない人だもの、とても始終仲よくして居られるものか、早晩必ず喧嘩するに極つて居るよ。大隈でも板垣でも、民間に居た頃には、人の遣つて居るのを冷評して、自分が出たらうまくやつてのけるなどゝと思つて居たであらうが、さあ引き渡されて見ると、存外さうは問屋が卸さないよ。所謂岡目八目で、他人の打つ手は批評が出来るが、さて自分で打つて見ると、なか〳〵傍で見て居た様には行かないものさ。(勝海舟「大勢順応」)


あるいは「猟官運動」の全文はつぎのとおり。

併し、何にせよ今度の政変は、第二維新だ。猟官の噂もだんだん聞くが、考へて見れば、是れも無理はない話しさ。それは御一新の際には、武士が皆な家禄を持つて居たから遊んで居ても十分食へたのだ。尤も脱藩の浪士などの間には、不平家も少しはあつたが、大抵な人は所謂恒の産があつたから、そんなに騒がなくつてもよかつたのだ。西郷などは、固より例外だが、それは流石に立派なもので、幕府が倒れた時に、最早平生の志を遂げたのだからこれから山林にでも引き籠つて、悠々自適、風月でも楽んで、余生を送らうと云ひ出した位だ。処が今の政党員は、多くは無職業の徒だから役人にでもならなければ食へないのさ。だからそれは猟官もやるがよいが、併し中には何んの抱負もない癖に、つまり財政なり外交なり、自分の主張を実行するために、就官を望むのではなくて、何んでも善いから月給に有り就きさえすればよいといふ風な猟官連は、それは見つともないよ。(勝海舟「猟官運動」)

己れは知つて居るよ

己れなどは、独りで笑つて居たのさ

傍で見て居た様には行かないものさ

考へて見れば、是れも無理はない話しさ

それは見つともないよ

ーーこれらはツイッター文体とでもいうべきものではないか