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2017年4月26日水曜日

プンクトゥム=テュケー

バルトのストゥディウムとプンクトゥムは、オートマンとテュケーへの応答である。

Les Studium et punctum de Barthes répondent à automaton et tuché( jacques-alain miller 2011,L'être et l'un)

上のように、ミレールは最近になってようやくバルトのストゥディウム/プンクトゥムが、ラカンのオートマン/テュケーのことだと気づいているが、遅くても気づかないよりはマシである。世界にはミレールの凡庸さとは比較しがたい超凡庸な連中で犇めいているのだから。

残念ながら蚊居肢散人はいささかミレールに遅れをとっており、気づいたのは、2016年のことであるが、これでさえ、そのあたりの寝言ロラン・バルト研究者やラカン派には及びもつかないことである。とはいえ蚊居肢散人の新しさは、前回の「友情=ストゥディウム/愛=プンクトゥム」でみたように、プンクトゥムをプルーストに結びつけたことであるが、ま、それはこの際ーーくどくなりすぎるのでーー、いまは自慢はしないでおく。

というわけで、超凡庸なみなさんにも、いささかの教養をさずけてさしあげることにする。なによりもまず次の二文をじっくり眺めてみればよいのである。

写真は絶対的な「個 Particulier」であり、反響しない、ばかのような、この上もなく「偶発的なもの Contingence」であり、「あるがままのもの Tel」である(ある特定の「写真」であって、「写真」一般ではない)。要するにそれは、「偶然 Tuché(テュケー)」の、「機会 Occasion」の、「遭遇 Rencontre」の、「現実界 Réel」の、あくことを知らぬ表現である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ)

教養の足りない超超凡庸なみなさんにさらなる援助の手を差し伸べるという親切ささえ蚊居肢散人はもっている。以下は代表的なテュケーの注釈である。

オートマンとテュケーは共存し絡み合っている。シンプルに言えば、テュケーはオートマトンの裂目である。…どの反復も微細な仕方であれ、象徴化から逃れるものが既に現れている。…裂目のなかに宿る偶有性の欠片、裂目によって生み出されたものがある。そしてこの感知されがたい微かな欠片が、喜劇が最大限に利用する素材である。(ムラデン・ドラー、喜劇と分身、2005年、私訳)
ラカンは、よく知られたセミネール11 の講義にて、偶然(経験上の偶発性)と絶対的遇発性とのあいだの区別をしている。…アリストテレスの『自然学』第4、5章から引用して、彼は二種類の偶然性、 automaton と tyche があると主張している。

オートマンはシニフィアンの論理(象徴界)に属し、この水準では、恣意性は究極的に常に見かけにすぎない。というのは共時的構造が、通時性のなかに「選択的効果 effets préférentiels」を促し、定まったカードで主体を戯れさせるだけだから。

テュケーは現実界に結びつけられる。よりよく言えば、象徴構造への現実界の侵入にかかわる。それは純粋で無条件的(絶対的)である。

しかしながら、科学とは異なり精神分析は、言語は非全体 pas-toutであり全体化されえないと仮定する。したがって、シニフィアンのネットワーク内部での蓋然的偶然としてのオートマンは、テュケーによって可能・支えられていると同時に、テュケーによって土台を崩される。すなわち、物質的原因として理解されなければならない構造の穴の絶対的遇発性によって。 (ロレンツォ・キエーザ、 2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF )

おわかりいただけただろうか。ようはフロイトである。フロイトの快原理の此岸/快原理の彼岸、これがオートマン/テュケー、ストゥディウム/プンクトゥムである。

これは時期の異なるバルトのふたつのテキストを眺めれば、どんな凡庸な連中でも瞭然とすることである。

ストゥディウム(studium)、――、この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。(……)

プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さな斑点 petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽(享楽 jouissance)のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがす fait vaciller もの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

遺作『明るい部屋』と『テクストの快楽』のあいだに書かれたテクストをさらに付け加えておこう。

『テクストの快楽』につけ加えて。享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』)

もちろんここで「漂流(逸脱 dérive)」という語彙に注目しなければならない。

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dérive と命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S.20)

そしては「出会い損ね」としてのテュケーは、《精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた》ともあった。

これについてもさらなる援助の手が必要であろうか。

我々は「トラウマ的 traumatisch」という語を次の経験に用いる。すなわち「トラウマ的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、1916年、私訳)

まだおわかりにならない知性の幼稚園児を自認している方々には、「基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)」を読むことをおすすめする。

超越的馬鹿に対してのみ記述するのは、もうこれ以上は遠慮しておこう。とはいえ「超越的馬鹿」とは、そのあたりの、たとえば東京大学表象文化論とかいう馬鹿集団の教授やらロラン・バルト研究者のたぐいのことであるから、ご心配ないように。

さて最後に超越的バカではなく、ほどほどの馬鹿、つまり蚊居肢散人の十分の一程度の頭脳はもちあわせていそうなお方々のために、次の文をプレゼントしよう。

私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値 valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスと呼ぶもの qu'on appelle la réminiscence に思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。

…私は、現実界は法のないものに違いないと信じている je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi。…真の現実界は法の不在を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )
対象a、それは穴のことである。 l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

もちろんこの「穴」、「穴ウマ troumatisme」とは、《書かれぬことをやめぬもの ce qui ne cesse de ne pas s'écrire》(Lacan, S.20)のことである。

そしてドゥルーズの《「時間の結晶」(cristal du temps)あるいは「リトルネロ」(ritournelle)》をバルトの次の文とともに読めば一丁上がりである(参照:時の悲痛な叫び

ある種の写真に私がいだく愛着について(……)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

こうしてプルーストとの出会いが生じることになる。

失われた時を考えるよう我々を強制する forcent シーニュがある。時の経過 passage du temps・過去にあったものの無化 anéantissement de ce qui fut・存在の交替 altération des êtres を考えさせるシーニュである。それはかつて親しかった人たちに再会したときに顕現 révélationする。なぜなら、彼らの顔は、もはや我々にとって習慣的なものではなくなっているので、純粋な状態での時のシーニュと時の効果 l'état pur les signes et les effets du temps を保っているから。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』 )

いやあ、あまりにもの明晰な記述をしてしまった。蚊居肢散人はこういったことを好まないが、たまにはやむえないことである。《わたしの使命の偉大さと、わたしの同時代者たちの卑小さとの間の不均衡はあまりに大き》いのであるが、諸般の事情により《本来はわたしの習慣に反し、それ以上にわたしの本能の誇りに反することではあるが》このような記述を提示せざるをえない。

わたしは近いうちに、これまで人類に突きつけたらた要求の中でのもっともむずかしい要求を人類に突きつけねばならなくなろう。そのことを予測して、わたしには、わたしが何びとであるかを述べておくことは、どうしてもしておかねばならぬことのように思われる。もっとも、本当のことを言えば、それは一般に知られていていいはずなのだ。わたしはこれまで、自分というものを「身元不明のまま」にしておいたことはなかったのだから。しかし、わたしの使命の偉大さと、わたしの同時代者たちの卑小さとの間の不均衡はあまりに大きく、その結果、誰もわたしに耳を傾けず、目も向けないということになってきた。つまりわたしがこの世に生きているのは、ひとには一切資金を仰がず、ただ自分時寸のもとでにたよっているようなものだ。それとも、わたしが生きているというのは、単なる独り合点にすぎないのかもしれない? …………こういう事情であるから、本来はわたしの習慣に反し、それ以上にわたしの本能の誇りに反することではあるが、次のように言う義務がわたしに生じてくるのである。わたしの言を聴け! わたしはしかじかの者だから。何よりも、わたしを取り違えてくれるな! と。(ニーチェ『この人を見よ』)

このようにして、プルースト、ラカン、ドゥルーズ、ロラン・バルトの四人を結びつけたのであるが、ここでさらにニーチェを結びつけるという屋上屋を架すことだけは、やめておかねばならない。それはいくら超超馬鹿どもにもここまで記せば自ずと浮かぶはずのものだから。《ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで,長い間避けていたのだった。》(フロイト『自己を語る』1925)

悦楽(享楽Lust)は常にすべてのことの永遠ならんことを欲する、蜜を欲する、おりかすを欲する、酔いしれた真夜中を欲する、息を欲する、墓を欲する、墓の涙の慰藉を欲する、金色にちりばめた夕映えを欲するーー

Alle Lust will aller Dinge Ewigkeit, will Honig, will Hefe, will trunkene Mitternacht, will Gräber, will Gräber-Thränen-Trost, will vergüldetes Abendroth –

悦楽が欲しないものがあろうか。悦楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』ーー「悦楽は常にすべてのことの永遠ならんことを欲する」(ニーチェ)

もちろんフロイトの「快の獲得 Lustgewinn」とは、ラカンの剰余享楽のことであり、ここでは巷間のやぶ邦訳者に反して‟Lust”を悦楽(享楽)と訳したのである。

フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)

そして上のニーチェの文が、快原理の彼岸、ラカンの享楽の重要な起源のひとつであることはもはやいうまでもあるまい?

…この女性的マゾヒズムは、原初の、性的(催情的) erotogenicマゾヒズム、苦痛のなかの快である。Der beschriebene feminine Masochismus ruht ganz auf dem primären, erogenen, der Schmerzlust, (フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924 )

知の幼稚園児向けの記述もとっくの昔から準備されている。→「基本版:現実界と享楽の定義」。