《ほらほら、主語せよ、木の芽吹く花鬼宿る》
ぼってり濡れた言葉で
腰の奥から迸る言葉でね
ほらほら、客語で語ってばかりいないで
囁き声だっていいの
暁方ミセイのパクリだが、ミセイの詩は、蚊居肢散人をこのように責める。彼女は実に美しい詩人だよ。わたくしはネット上から拾い読みするだけだが。
「緋色の筋のまわりにひろがる繊細な苔におおわれた丘」(レミ・ベロー)
ひとはミセイにはまらなければならない
「丘のうなじがまるで光つたやうではないか
灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎないのに」(大岡信)
いま稀有の「蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる」
エロスを紡ぎ出す詩人だよ
駐アカシック、ニュー稲荷前トゥーム(暁方ミセイ)
ひとつ確かなのは、ヒトがいたことだ、早春の
薮には見えないものがいっぱい
右から左へ走っては、どうっと鳴らす
ほらほら、主語せよ、木の芽吹く花鬼宿る
蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、
五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子、
影絵のように映し出されて薄青色のお天気の下、
杭や小川や台車や納屋は、ますます黄色く、野暮たくぬくめ
死んだからといって、レコーディングされるのだ
取り消せない時間と出来事の、苛烈と絶対
新しく生まれる者をかなしむことはないよ
何千年も先まで連なるものを、いつかはみんな、わたしと呼ぶだろう
ひとつ確かなのは、ヒトがいたことだ、早春の
海にもおかにも、ここからずっと遠くまで、きらめくもの
形成し続けるもの
ほらほら、主語せよ、木の芽吹く花鬼宿る
不安がもだえそうに淡い炎がゆだっている
道端の青い小さな花を煮る六月十日は、
(ひそひそと話をしている)
(柑子の木のあたり、雨に濡れそぼって、ふたりで、小声で)
(おおそのうえ古語で、)
(聞き取れない話をしている。雨の庭の古い濡れた柑子の木のあたりで)
((ちがうよ、あれは鳩だよ))
(人の様な、くぐもってずっと話している。何十羽もいる。)
何十羽も鳩がいる。茂みのなかで鳴いている。
遠く潰れた緑のうえに、
誰かの面影が、こんもりと盛られて、動かないでいる。
今は時々きらっと反射して、
もうすぐ隠れて
見えなくなる。(暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」より)
……自我であるとともに、自我以上のもの(内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器)だった。 il était moi et plus que moi (le contenant qui est plus que le contenu et me l’apportait).(プルースト『ソドムとゴモラ Ⅱ「』心情の間歇」ーー友情=ストゥディウム/愛=プンクトゥム)