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2017年4月27日木曜日

ほらほら、主語せよ あなたたち

《ほらほら、主語せよ、木の芽吹く花鬼宿る》

ほらほら、主語せよ あなたたち
ぼってり濡れた言葉で
腰の奥から迸る言葉でね
ほらほら、客語で語ってばかりいないで
囁き声だっていいの

暁方ミセイのパクリだが、ミセイの詩は、蚊居肢散人をこのように責める。彼女は実に美しい詩人だよ。わたくしはネット上から拾い読みするだけだが。


彼女は濡れている
「緋色の筋のまわりにひろがる繊細な苔におおわれた丘」(レミ・ベロー)
ひとはミセイにはまらなければならない
「丘のうなじがまるで光つたやうではないか
灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎないのに」(大岡信)
いま稀有の「蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる」
エロスを紡ぎ出す詩人だよ

駐アカシック、ニュー稲荷前トゥーム(暁方ミセイ)


ひとつ確かなのは、ヒトがいたことだ、早春の
薮には見えないものがいっぱい
右から左へ走っては、どうっと鳴らす
ほらほら、主語せよ、木の芽吹く花鬼宿る

蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、
五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子、
影絵のように映し出されて薄青色のお天気の下、
杭や小川や台車や納屋は、ますます黄色く、野暮たくぬくめ

死んだからといって、レコーディングされるのだ
取り消せない時間と出来事の、苛烈と絶対
新しく生まれる者をかなしむことはないよ
何千年も先まで連なるものを、いつかはみんな、わたしと呼ぶだろう

ひとつ確かなのは、ヒトがいたことだ、早春の
海にもおかにも、ここからずっと遠くまで、きらめくもの
形成し続けるもの
ほらほら、主語せよ、木の芽吹く花鬼宿る

不安がもだえそうに淡い炎がゆだっている
道端の青い小さな花を煮る六月十日は、
(ひそひそと話をしている)
(柑子の木のあたり、雨に濡れそぼって、ふたりで、小声で)
(おおそのうえ古語で、)
(聞き取れない話をしている。雨の庭の古い濡れた柑子の木のあたりで)
((ちがうよ、あれは鳩だよ))
(人の様な、くぐもってずっと話している。何十羽もいる。)
何十羽も鳩がいる。茂みのなかで鳴いている。
遠く潰れた緑のうえに、
誰かの面影が、こんもりと盛られて、動かないでいる。
今は時々きらっと反射して、
もうすぐ隠れて
見えなくなる。(暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」より)

いやあほんとにプンクトゥムだな

プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなしみ petite tache、小さな裂け目 petite coupure のことでもありーーしかもまた、骰子の一振り coup de dés のことでもある…。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺すme point 偶然 hasard (それだけなく、私にあざをつけme meurtrit、私の胸をしめつけるme poigne)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
--既存訳からだが、「小さな斑点」とあったものを「小さなしみ」とした。他も一部変更。

たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

もちろんロラン・バルトのいうように、ミセイの詩は蚊居肢散人にとってだけのプンクトゥムでありうる。

……自我であるとともに、自我以上のもの(内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器)だった。 il était moi et plus que moi (le contenant qui est plus que le contenu et me l’apportait).(プルースト『ソドムとゴモラ Ⅱ「』心情の間歇」ーー友情=ストゥディウム/愛=プンクトゥム

◆On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller janvier 2010
我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。