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2017年4月28日金曜日

男女の愛:「名前をつけて保存と上書き保存」

いやあ、コメントをもらっているが、わたくしも詳しくは分からない。前回記したミレール=ラカンの愛の定義は「理想論」であり、種々の劣化ヴァリエーションがあるはずだから。

再掲しよう。

◆On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller janvier 2010

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。

…………

われわれの日常では、巷間で流通している名言「男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存」がある程度の真理をついているのではないか。

この名言を裏付けるラカン派の二つの文を掲げよう。

男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader,1996)の観察によれば)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(ポール・バーハウ、1998、Love in a Time of Loneliness)
……男と女を即座に対照させるのは、間違っている。あたかも、男は対象を直ちに欲望し、他方、女の欲望は、「欲望することの欲望」、〈他者〉の欲望への欲望とするのは。(……)

真実はこうだ。男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

なぜこういったことが起こるのかといえば、ここでは簡略に記すが(例外はもちろんある)、フロイト・ラカン派では次のように言われることが多い。

①男女とも最初の愛の対象は女である。つまり最初に育児してくれる母=女である。

②男児は最初の愛のジェンダーを維持できる。つまり母を他の女に変えるだけでよい。

③女児は愛の対象のジェンダーを取り替える必要がある。その結果、母が彼女を愛したように、男が彼女を愛することを願う。つまり少女は少年に比べて、対象への愛ではなく愛の関係性がより重要視される傾向をもつようになる。

より詳しくは、「古い悪党フロイトの女性論」を参照。

…………

そもそも愛がどういうものなんてのは、わかるわけがないので、注釈者たちは、目安を言っているにすぎない、と捉えたほうがいいんじゃないか。

以下のドゥルーズ=プルーストは、理想論と現実論の中間か、ややミレールよりの観点で、わたくしは最近はこういったほうを珍重気味である(男としてのわたくしは、としておこう)。

友情は、観察と会話とで育って行くことができるが、愛は、沈黙した解釈から生まれてそれを養分とする。愛される者は、ひとつのシーニュとして、《魂》として現われる。そのひとは、われわれにとっては未知の、ひとつの可能な世界 un monde possible inconnu を表現する。愛される者は、解読すべきひとつの世界、つまり解釈すべきひとつの世界を含み、包み、とりこにしている implique, enveloppe, emprisonne。(…)

…愛するということは、愛される者の中に包まれたままになっているこの未知の世界を展開し、発展させようとすることである。われわれの《世界》に属していない女たち、われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛するようになるのはこのためである。

愛される女がしばしば次のような風景と結びついているのもそのためである。…たとえばアルベルチーヌは、《浜辺と砕ける波》を含み、まぜ合わせ、化合させる enveloppe, incorpore, amalgame 。

もはやわれわれが見ている風景ではなく、逆に、その中でわれわれが見られているような風景に、どのようにして到達できるだろうか。《もしも彼女が私を見たとして、私は彼女に何を示すことができたのか。どのような世界の内部から、彼女は私は見わけるのか。》(プルースト)

ーードゥルーズ『プルーストとシーニュ』

《われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛する》んだな、どうしてかわからなかったけど、しみじみとした実感はかつてからあるね・・・

「ぼくの生涯の何年かをむだにしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、一番大きな恋をしてしまったなんて、ぼくをたのしませもしなければ、ぼくの趣味にもあわなかった女のために」(プルースト「スワンの恋」)