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2017年4月28日金曜日

秋の日の傾きかける海べり

…愛するということは、愛される者の中に包まれたままになっているこの未知の世界を展開し、発展させようとすることである。われわれの《世界》に属していない女たち、われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛するようになるのはこのためである。

愛される女がしばしば次のような風景と結びついているのもそのためである。…たとえばアルベルチーヌは、《浜辺と砕ける波》を含み、まぜ合わせ、化合させる enveloppe, incorpore, amalgame 。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』ーー男女の愛:「名前をつけて保存と上書き保存」

次の文に蚊居肢散人のアルベルチーヌがいるのさ
《浜辺と砕ける波》ではなくて
《秋の日の傾きかける海べり》に

ある日、海岸へ散歩に行くと、砂浜の手前の空地で、喚声がきこえ、近づいて見ると、十人あまりの若い男女があつまって野球をやっていた。いや、若いといったが、彼等の年恰好も身分も職業も僕には分からなかった。わかるのは、彼等が何の屈託もなしにボール遊びをやっているということだけだ。なかで一人、派手な横縞のセーターを着た女の動きが目についた。内野か外野か、とにかく彼女は野手なのだが、球が上るたびに、両手を拡げて誰よりも早くその落下点に駆けて行く。

「オーライ、オーライ」

喚声のなかから、彼女の声だけが際立って高くきこえた。秋の日の傾きかける海べりで、そんな光景を眺めながら僕は、なにか現実の中で夢を見ている心持だった。――これがあの長い間、待ちつづけてきた“平和”というものなのだろうか。それともやっぱり、おれは幻影を見ているだけなのだろうか。(安岡章太郎『僕の昭和史Ⅱ』)

やたらに派手な女ってのは、趣味じゃないんだけど
それに活発すぎるってのもね、たいして好みじゃないな




馬乗りされるのは嫌いじゃないさ、
でも上下運動だけじゃなくって横降りってのか回転運動なしじゃ
色気もへったくれもないよ
趣味じゃないね
どっちかというと情緒派なんだよ

肌身とはぴつたり合つて、女の乳房わが胸にむず痒く、開中は既に火の如くなればどうにも我慢できねど、こゝもう一としきり辛棒すれば女よがり死するも知れずと思ふにぞ、息を殺し、片唾を呑みつゝ心を他に転じて、今はの際にもう一倍よいが上にもよがらせ、おのれも静に往生せんと、両手にて肩の下より女の身ぐツと一息にすくひ上げ、膝の上なる居茶臼にして、下からぐひぐひと突き上げながら、片手の指は例の急所攻め、尻をかゝえる片手の指女が肛門に当て、尻へと廻るぬめりを以て動すたびたび徐々(そろそろ)とくぢつてやれば、女は息引取るやうな声して泣きぢやくり、いきますいきます、いきますからアレどうぞどうぞと哀訴するは、前後三個処の攻道具、その一ツだけでも勘弁してくれといふ心歟欺。髪はばらばらになつて身をもだゆるよがり方、こなたも度を失ひ、仰向の茶臼になれば、女は上よりのしかゝつて、続けさまにアレアレ又いくまたいくと二番つゞきの淫水どツと浴びせかけられ、此だけよがらせて遣ればもう思残りなしと、静に気をやりたり。(永井荷風「「四畳半襖の下張」)

こうじゃなくっちゃな
笑いながらよがられてもね




でも人は《われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛する》のさ
そしてあとあと次のように思うことだってありうるわけだな

「ぼくの生涯の何年かをむだにしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、一番大きな恋をしてしまったなんて、ぼくをたのしませもしなければ、ぼくの趣味にもあわなかった女のために」(プルースト「スワンの恋」)

やあまいったね

いずれにせよさっきの一文だけで
安岡章太郎はプンクトゥム作家だね

じつは「秋の日の傾きかける海べり」ってのは嘘なんだよ
4月の桂川の河川敷だから「春の日の傾きかける川べり」なんだな、
あの女にイカレチマッタのは。
夕方マンションの敷地内で散歩してると
土手向こう側で喚声があがったわけさ
《喚声のなかから、彼女の声だけが際立って高くきこえた》
どんな女だろうって飛んで見に行ったね




人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。(加藤周一『絵のなかの女たち』)