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2017年5月1日月曜日

「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」と「自動的主体 automatisches Subjekt 」

フロイトの「資本」論と「快の獲得」」にて、資本論第一巻から次のように引用した。

諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。

これに反して、流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体 ein automatisches Subjekt に転化する。

自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。

しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値 Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。

なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung であるからである。(マルクス『資本論』第一巻)

そして「自動的主体 automatisches Subjekt 」とは、ラカンの「無頭の主体 sujet acéphale」のことであるだろうことを示した。

欲動は「無頭の主体」のモードにおいて顕れる。

la pulsion se manifeste sur le mode d’un sujet acéphale.(ラカン、S11、13 Mai 1964)

 ところで資本論第三巻においてより鮮明な叙述があることを見出した。それは次のものである。

利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。

Im zinstragenden Kapital ist daher dieser automatische Fetisch rein herausgearbeitet, der sich selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld,……(マルクス『資本論』第三巻)
ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物象化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。

Hier ist die Fetischgestalt des Kapitals und die Vorstellung vom Kapitalfetisch fertig. In G - G´ haben wir die begriffslose Form des Kapitals, die Verkehrung und Versachlichung der Produktionsverhältnisse in der höchsten Potenz: zinstragende Gestalt, die einfache Gestalt des Kapitals, worin es seinem eignen Reproduktionsprozeß vorausgesetzt ist; Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion - die Kapitalmystifikation in der grellsten Form.(同『資本論』第三巻)

(「中身なき形態 begriffslose Form」は、通常、「無概念的形態」等と訳されている。だがここでは、この文の前段に「inhaltlose Form」(内容なき形式・形態)という表現があり、これと相同的なものとして捉え、敢えてこう訳した。)

さて、ここでの「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」とは、「自動的主体 automatisches Subjekt 」と等価であろう(ラカン自身、「無頭の主体 sujet acéphale」といった数年後「無頭の知 savoir sans tête」と言い換えている。「無頭」と「主体」とは本来、相反する。「自動」と「主体」が相反するように)。

柄谷行人が最近の英語論文で、「絶対フェティッシュ absolute fetish」と呼んでいるものがこれに相当するはずである。

・資本の蓄積運動は、人間の意志や欲望から来るのではない。それはフェティシズム、すなわち商品に付着した「精神」によって駆り立てられている (driven) 。資本主義社会は、最も発達したフェティシズムの形態によって組織されている。

・株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…ヘーゲルの「絶対精神」と同様に…株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)

このように類推するのは、次のジジェク文に依拠する。

われわれは、 標準的なマルクス主義者の「物象化 Versachlichung」と「商品フェティッシュWarenfetischs」の題目の、徹底した再形式化が必要である。(……)

逆説的なことに、フェティシズムは、フェティッシュが「脱物象化」されたときに頂点に達する。(ジジェク、LESS THAN NOTHIHNG,2012)

そして、次のジジェク文の、外密 Extimitéとしての対象a ーー《対象a とは外密である。l'objet(a) est extime》(ラカン、S16)ーーは、柄谷のいう「絶対フェティッシュ」のこととして捉えられる。

ラカンが、象徴空間の内部と外部の重なり合い(外密 Extimité)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

フェティシュ=対象aは、すくなくとも二種類あるのである。

女性の享楽は非全体pas-tout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓 bouchon de ce (a) を見いだす(ラカン、S20, 09 Janvier 1973)
対象a、それは穴である。 l'objet(a), c'est le trou (Lacan、S16, 27 Novembre 1968)

この穴自体と穴埋めの二種類の対象aの両義性は、次の文でジジェクが示していることである。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

そして、マルクスにも、形態 Form そのもののフェティシュ/物象化されたフェティシュ(たとえば黄金物神 Geldfetisch)がある、ということになる。

この形態としてのフェティシュをめぐっては、「フロイトの「資本」論と「快の獲得」」にてやや詳しく記述した。

別に、以前、谷崎潤一郎と永井荷風のフェティシストとしての相違を、やや冗談っぽく記したことがある(参照:荷風という「純粋なフェティシスト」)。

なぜこんなことに関心があるのか? 

ーー蚊居肢散人は荷風寄りのフェティシストだからである・・・ロラン・バルト寄り、といってもよい。《私は倒錯する j'entre dans la perversion 》

◆ロラン・バルト、『テキストの快楽』( Le plaisir du texte 、Date de parution 01/02/1973

テクストの舞台には、客席との間の柵がない。テクストのうしろに、能動的な者(作者)もいない。テクストの前に、受動的な者(読者)もいない。主体も、対象もない。テクストは文法的な態度を失わせる。それは、ある驚くべき著述家(アンゲルス・シレジウス Angelus Silesius)の語っている区別できない眼だ。《私が神を見ている眼は、神が私を見ている眼と同じである。L'œil par où je vois Dieu est le même œil par où il me voit
報告された快楽から、どのようにして快楽を汲み取るのか(夢の話、パーティの話の退屈さ)。どのようにして批評を読むのか。唯一の手段はこうだ。私は、今、第二段階の読者なのだから、位置を移さなければならない。批評の快楽の聞き手になる代わりにーー楽しみ損なうのは確実だからーー、それの覗き手 voyeur になることができる。こっそり他人の快楽を観察するのだ。私は倒錯する j'entre dans la perversion 。すると、注釈は、テクストにみえ、フィクションにみえ、ひびの入った皮膜 une enveloppe fissurée にみえてくる。作家の倒錯(彼の快楽は機能を持たない)、批評家の、その読者の、二重、三重の倒錯、以下、無限。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

ーーラカンは『テクストの快楽』出版直後、バルトをパクっている。

◆ラカン、セミネール20(「アンコール」、20 Février 1973

例えば、アンゲルス・シレジウス Angelus Silesius 。彼は自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同している confondre son œil contemplatif avec l'œil dont Dieu le regarde。そこには、倒錯的享楽 la jouissance perverse があるといわざるをえない。(ラカン S.20, 20 Février 1973)

…………

※付記

以下は、いわゆる通常のーーフロイト的なーーフェティシュの記述である。

呪物 Fetisch とは、男児があると信じ、かつ断念しようとしない女性(母)の陰茎に対する代理物なのである。(…)

足とか靴が呪物――あるいはその一部――として優先的に選ばれるが、これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性性器のほうへかけて注意深く探っているからである。毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー瞥見した陰毛の生えている光景を定着させる。これにはあの強く求めていた女性の陰茎の姿がつづいていたはずなのである。(フロイト『呪物崇拝 Fetischismus』1927,旧訳)

◆セミネール13 22 Décembre l965 André GREEN による対象a のプレゼンテーション(ラカンは褒め称えている)。

A) Le (a), médiation du sujet à l'Autre
B) Le (a), médiation du sujet à l'idéal du moi
C) Le (a), objet du désir
D) Le (a), fétiche
E) Le (a), objet du manque, cause du désir
F) Le (a), produit d'un travail


ラカンの定式において、フェティシストの対象は、− φ (去勢)の上の「a」である。すなわち去勢の裂け目を埋め合わせる対象a である。(ジジェク、パララックス・ヴュー、2006)
ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、「我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien」

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)