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2017年4月19日水曜日

フロイトの「資本」論と「快の獲得」

まずフロイトの「資本」論から。

夢が必要とした欲動の力 Triebkraft は、ある願望 Wunsche によって提供されねばならなかった。夢の欲動の力として振舞う願望 Wunsch als Triebkraft des Traumes、それを捕えることが、心配の関心事だった。

この状況は次の喩えで説明しうる。すなわち日中思考は、夢にとって企業家 Unternehmers の役割を大いに演じうる。しかし企業家ーープランを抱いてそれを実現しようとする彼ーーは、資本なしでは何もできない ohne Capital nichts machen。彼は、出資 Aufwand してくれる資本家 Capitalisten が必要である。夢にとっての心的出資 psychischenAufwand を提供する資本家 Capitalist とは、その日中思考がどんなものであろうと、例外なしに必ず、無意識からの願望 Wunsch aus dem ünbewussten である。

資本家 Capitalist が同時に企業家 Unternehmer を兼ねる場合もある。いやこれがもっともありふれた夢の場合なのである。日中作業によって、ある無意識的な願望が刺激を受ける。そしてこの願望が夢を作り出す。… (フロイト『夢解釈』第七章)


次にマルクスの『資本論』より。

諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。

これに反して、流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体 ein automatisches Subjekt に転化する。

自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。

しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値 Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。

なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung であるからである。(マルクス『資本論』)

「自動的主体 automatisches Subjekt 」とは、ラカンの「無頭の主体 sujet acéphale」のことである。

欲動は「無頭の主体」のモードにおいて顕れる。

la pulsion se manifeste sur le mode d’un sujet acéphale.(ラカン、S11、13 Mai 1964)

そしてマルクスの「剰余価値」とは「症状」のことである。

…症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。(ラカン, S18, 16 Juin 1971)

そして、

剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽である。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)
フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)

である。

フロイトの「快の獲得」概念は、1905年の『機知』論文に初めて出現するが、ここでは最晩年の叙述を抜き出す。

まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

《栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたもの》とあるが、これをラカンは《享楽欠如の拡張生産》としている。

この宝貝、つまり剰余価値、それはひとつの経済が自らの原理をつくるための欲望の原因である。この原理とは、「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、つまり飽くことをしらないものとしてのそれである。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)

なぜ享楽欠如というのか。

フロイト曰く「栄養とは無関係」だから。
マルクス的に言えば、実際の使用価値を断念して自己目的(自己増殖)となるから。

…………

フロイトの「資本」論に戻る。「夢が必要とした欲動の力 Triebkraft」 とは「資本」とあった。そして《企業家ーープランを抱いてそれを実現しようとする彼ーーは、資本なしでは何もできない 》ともあった。

フロイトの「資本」をめぐる叙述と「快の獲得」概念を、ラカンの「資本の言説」にあてはめれば、次のようになる。



さらにまた《資本家 Capitalist が同時に企業家 Unternehmer を兼ねる場合もある。いやこれがもっともありふれた夢の場合なのである》という記述を生かし、快の獲得=剰余価値、プランとは商品の生産・売買とすれば、次のように図示できる。





資本の言説は主人の言説の突然変異であり(参照:四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説))、ラカンがまだ資本の言説概念を提出していない時期に、主人の言説について次のように言っている。

主人の言説は主体の支配とともに始まる。主人の言説が、超限定された神話・それ自身のシニフィアンに同一化すること [ $ ≡ S1 ] によってのみ支えられる傾向がある限りで。(S17、18 Février 1970)

これは企業家$と資本S1の合体である[ $ ≡ S1 ]。

ラカンはこれまた「資本の言説」とは別の文脈においてだが、《真理のなかでの主体と主人の出現の地平 l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une vérité》において、 《それ自体、等価 égalité à soi-même》となることを、主人の言説の特徴としている。

Il en est tout autre chose de ce qui se trouve à l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une vérité qui s'affirme de son égalité à soi-même, de cette « je-cratie » dont je parlais une fois, et qui est, semble-t-il, l'essence de toute affirmation dans la culture qui a vu fleurir entre toutes ce discours du Maître. (Lacan, S17, 11 Février 1970 )

上にあらわした図は、真理のポジションにおいて、「動作主 agent のポジションにある企業家$」と「真理 verite のポジションにある資本S1」が合体したことを示したのである。




こうしてマルクスのG-W-G'(M-C-M' )、すなわち「貨幣-商品-貨幣+剰余価値」は、フロイトの資本論のなかにもあることが形式的に理解できる。

Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious, 2015)

…………

もちろん上の叙述自体は、柄谷行人がすでに『トランスクリティーク』で明晰に言っていることでもある。

広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

ーーフロイトの無意識論も、『マゾヒズムの経済的問題』を想い起すまでもなく、つねに「経済的なもの」である。その経済的=交換的なもののことを、ラカンは「言説」と呼ぶ。ラカンにとってのその意味は、《社会的つながりの機能 fonction de lien social》(1972)である。

まず最初の誤謬を取り除かねばならない。想い起こそう、(ラカンにとって)「言説」とは「語の集合」ではないことを。「資本家の言説」という表現は、資本主義の生産様式の支配に由来する社会的絆を指している。ある意味で、「言説」という用語は「生産様式」という用語に代替される。(capitalist exemptIon,Pierre Bruno,2010、pdf)

このPierre Brunoの考え方は、岩井克人の資本の主義/資本の論理の区別とともに読むといっそう味わい深い(参照:「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行)。

ようするに資本の生産様式が移行すれば、人間間の社会的つながり方は変わるのである。これをラカン派では主に神経症から倒錯への移行(主人の言説から資本の言説への移行)とする。

資本の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDF)

人間は誰もがもともと倒錯的であるにしろーー《倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme》(Lacan, S24, 1977)ーー、ある時期からの社会的つながりは、エディプス(主人)のタガが外れて、前エディプス的な裸の倒錯に近いものになっている、という考え方である。

資本主義は、社会的つながりの水準で、倒錯的享楽の一般化を強いる。それは克服できない地平であり、数多くの倒錯が咲き乱れる。他方、一般的な社会の枠組は変わらないないままである。商品形態の閉じられた世界、その多形性は、アンタゴニズムのすべての形態の加工・同化・中性化を可能にする。資本主義の主体は去勢を嘲笑し、去勢は時代錯誤的で、ポストモダン社会がきっぱりと克服した男根社会の残滓だと宣言する。(Samo Tomšič, 2015, The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan)

 サモ・トムシックがこの‟The Capitalist Unconscious” 以降に書いた小論では、さらに次のように言っている。

…(フロイト・ラカンによる)「社会的生産様式」を支えるメカニズムへの固有の洞察。決して誇張ではない、次のように主張することは。すなわち、「資本主義のなかの居心地の悪さDas Unbehagen im Kapitalismus」のほうが「文化の中の居心地の悪さ Das Unbehagen in der Kultur」より適切だと。というのは、フロイトは抽象的な文化を語ったのでは決してなく、まさに産業社会の文化を語ったのだから。強欲な消費主義、増大する搾取、繰り返される行き詰まり、経済的不況と戦争によって徴づけられる産業社会の文化を。(Samo Tomšič: Laughter and Capitalism, 2015,PDF

さて、これらの文脈のなかで、柄谷行人の『トランスクリティーク』におけるマルクスの価値形態論、あるいはフェティシュをめぐる記述を読んでみると、資本の論理(資本の欲動)がいかに倒錯的(フェティシュ的)であるのかがあらためてよく理解できる。

マルクスの考えでは、金が貨幣となるのは、それが金だからではなくて、一般的等価形態におかれたからである。彼が見ようとしたのは、そこに位置する生産物を商品たらしめたり、貨幣たらしめる「価値形式」 ――相対的価値形態と等価形態 ――である。それが素材的に何であろうと、排他的に一般的等価形態におかれたものは貨幣である。一般的等価形態におかれた物(そしてその所有者)は、他の何とでも交換できる「権利」をもつ。人が或るもの、たとえば金を崇高と見なすのは、それが金だからではなく、それが一般的等価形態におかれているからだ。マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動 ――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である、この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にはそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
……財の生産と消費として見える経済現象には、その裏面において、根本的にそれとは異質な或る倒錯した志向がある。 G’( G+ ⊿G )を求めること、それがマルクスのいう貨幣のフェティシズムにほかならない。マルクスはそれを商品のフェティシズムとして見た。それは、すでに古典経済学者が重商主義者の抱いた貨幣のフェティシズムを批判していたからであり、さらに、各商品に価値が内在するという古典経済学の見方にこそ、貨幣のフェティシズムが暗黙に生き延びていたからである。だからここでいう商品のフェティシズムは消費社会における商品のフェティシズム ―たとえば人を店のショーウィンドウに釘付けにするような ―と混同されてはならない。むしろ、それは消費するかわりに、いつでもそうできるという「権利」を持とうとする欲動なのであり、それが一商品(金)を崇高なものとするのである。

私がここで焦点を当てたいのは、資本の自己増殖がいかに可能か( ……)ではなく、なぜ資本主義の運動がはてしなく( endlessly)続かざるをえないか、という問いである。実は、それは end-less(無目的的)でもある。貨幣(金)を追いもとめる商人資本=重商主義が「倒錯」だとしても、実は産業資本をまたその「倒錯」を受けついでいる。実際に、産業資本主義がはじまる前に、信用体系をふくめてすべての装置ができあがっており、産業資本主義はその中で始まり、且つそれを自己流に改編したにすぎない。では資本主義的な経済活動を動機づけるその「倒錯」は、何なのか。いうまでもなく、貨幣(商品)のフェティシズムである。

マルクスは、資本の源泉にまさしく貨幣のフェティシズムに固執する守銭奴(貨幣退蔵者)を見いだしている。貨幣をもつことは、いつどこでもいかなるものとも直接的に交換しうるという「社会的権利」をもつことである。貨幣退蔵者とは、この「権利」ゆえに、実際の使用価値を断念する者の謂である。貨幣を媒体ではなく自己目的とすること、つまり「黄金欲」や「致富衝動」は、けっして物(使用価値)に対する必要や欲望からくるのではない。守銭奴は、皮肉なことに、物質的に無欲なのであるちょうど「天国に宝を積む」ために、この世において無欲な信仰者のように。守銭奴には、宗教的倒錯と類似したものがある。事実、世界宗教も、流通が一定の「世界性」 ――諸共同体の「間」に形成されやがて諸共同体にも内面化される ――をもちえたときにあらわれたのである。もし宗教的な倒錯に崇高なものを見いだすならば、守銭奴にもそうすべきだろう。守銭奴に下劣な心情(ルサンチマン)を見いだすならば、宗教的な倒錯者にもそうすべきだろう。(『トランスクリティーク』)

この柄谷行人の文は意図せずに、ラカンの次の言明の解説になっている。

欲望の搾取、これが資本の言説の偉大な発明である L’exploitation du désir, c’est la grande invention du discours capitaliste(ラカン、Excursus, 1972)

柄谷行人は最近の英論文でもこう言っている。

資本の蓄積運動は、人間の意志や欲望から来るのではない。それはフェティシズム、すなわち商品に付着した「精神」によって駆り立てられている (driven) 。資本主義社会は、最も発達したフェティシズムの形態によって組織されている。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)

剰余価値というフェティシズムは、形態が核心である。

…労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、それではどこから生ずるのか? 明らかにこの形態 Form そのものからである。(マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

つまり、もの(対象)ではなく、形態がマルクスのフェティシズムの核心である。

株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…ヘーゲルの「絶対精神」と同様に…株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)

この「絶対フェティシュ」(絶対的フェティシュ)は、絶対的剰余価値の「絶対」とは全く意味が異なる。

では絶対フェティシュとは何か?

われわれは、 標準的なマルクス主義者の「物象化 Versachlichung」と「商品フェティッシュWarenfetischs」の題目の、徹底した再形式化が必要である。(……)

逆説的なことに、フェティシズムは、フェティッシュが「脱物象化」されたときに頂点に達する。(ジジェク、LESS THAN NOTHIHNG,2012)

次のジジェク文の、外密 Extimitéとしての対象a は、柄谷のいう「絶対フェティッシュ」のことである。

ラカンが、象徴空間の内部と外部の重なり合い(外密 Extimité)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

以下の文の「対象a=剰余価値」に「フェティシュ」を代入して読んでおこう。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

これでマルクスの二種類のフェティシュが理解できるだろう。すなわち、形態 Form そのもののフェティシュ/物象化されたフェティシュ(たとえば黄金物神 Geldfetisch)が。