このブログを検索

2017年4月15日土曜日

「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行

以下、「自我理想と超自我の相違(基本版)」に記したことにかかわるが、なによりもの核心は、ジジェクの「眼差しー恥ー自我理想」/「声ー罪ー超自我」論ーーーーわたくしの知る限り2012年の書にはじめてあらわれたーーであり、その2016年版である。

◆Slavoj Žižek 2016、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? PDF

眼差しと声は、標準的社会関係の領野において、恥と罪の仮装の中に刻み込まれる。恥は、大他者の眼差しにつながっている。すなわち、私が恥じ入るのは、 (公的)大他者が剥き出しの私を見たり、私の汚れた内面が公けに曝露されたとき等々である。反対に罪は、他者たちが私をどう見るか、彼らが私について何を話すかについては関係がない。すなわち、私が自分自身において有罪と感じるのは、私の存在の核から送り届けられる声から生じる、内部から来る罪の圧迫による。

したがって、「眼差し/声」の対立は、「恥/罪」の対立と同様に、「自我理想/超自我」の対立とつなげられるべきである。超自我は、私に憑き纏い非難する内部の声である。他方、自我理想は、私を恥じ入らせる眼差しである。

この対立のカップルは、伝統的な資本主義から現在支配的な快楽主義的-放埓的ヴァージョンへの移行の把握を可能にしてくれる。ヘゲモニー的イデオロギーは、もはや自我理想としては機能しない。自我理想の眼差しに晒されたとき、その眼差しが私を恥じ入らせる機能はもはやない。大他者の眼差しは、その去勢力を喪失している。すなわちヘゲモニー的イデオロギーは、猥褻な超自我の命令として機能している。その命令が私を有罪にするのは、(象徴的禁止を侵害するときではない。そうではなく)、十全に享楽していないため・決して十二分に享楽していないためである。(ジジェク 2016、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint?)

冒頭にも記したとおり、2012年のLESS THAN NOTHINGにもほぼ同様の叙述がある。ただひとつだけ新しいのは、《伝統的な資本主義から現在支配的な快楽主義的-放埓的ヴァージョンへの移行》と「恥から罪への移行」(自我理想から超自我への移行)を明瞭に関連付けていることだ(もっともジジェクを読み込めば、1990年前後からすでにそれを暗示しているという観点もあるだろう)。

これは「資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式」で引用した岩井克人の「資本の主義/「資本の論理」にダイレクトにつながる。

じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。 

実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。(『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)

「資本の主義」の時代から「資本の論理」(資本の欲動)の時代への移行とは、ラカンの「主人の言説」から「資本の言説」への移行のことでもあり(参照)、現代ラカン派内では、「20世紀の神経症の時代から21世紀のふつうの精神病の時代へ」と言われたり、「ふつうの倒錯の時代へ」と言われたりすることにもかかわる(資本の言説が倒錯の言説でありうるのは、「四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説)」にやや詳細に記した)。

イデオロギーあるいは主人(父の名)の斜陽の時代とは、「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften」(フロイト)の観点からは、三者関係から二者関係への移行があったということである(それはエディプス的超自我から前エディプス的超自我への移行でもある[後述])。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』

中井久夫が、《今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である》(「アイデンティティと生きがい」)とするとき、やはりすくなくとも冷戦終結後1990年からーー実態は学園紛争後の1970年代から漸次である(ラカンが「主人の言説」から「資本の言説」への移行を指摘したのは、1972年である)ーー、世界的な文化病理として、三者関係から二者関係への如実な移行があったことを示している。

重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウ1999,Verhaeghe, P., Social bond and authority,PDF

ここで、名高いアーレントの見解ーー長い間、時代錯誤的として捉えられていたーーを引用することもできる、 《権威とは、人びとが自由を保持する服従を意味する》(ハンナ・アーレント『権威とは何か』)

※参照:「帝国」と「帝国主義」の相違(柄谷行人、ラカン)

もっとも一神教でない日本では、父の権威などかつてからなく(明治以降敗戦までの疑似一神教時代を除いて)、神経症的ではなくむしろ精神病的あるいは倒錯的社会と言われてきたので、この移行は、それほど鮮明には感知されていないかもしれない(参照:日本社会において自我理想は正常に機能しない)。

いずれにせよ、ここで一つの問いがある。日本では恥の文化ということが言われてきた、《日本は「恥の文化」だけあって恥のかかせ方も恥の感じ方も実に微妙で隠微だ》(中井久夫「暴力について」)。この観点を考え出すと、ジジェク風の「眼差しー恥ー自我理想」/「声ー罪ー超自我」は、安易には首肯しがたくなる。

それともある時期までの日本には自我理想に相当するものが何か機能していたのだろうか?

(日本において)主体がおのれの基本的同一化として、 単一の徴(一の徴 le trait unaire=自我理想) にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する。「おまえ le Tu」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支持されるということである。(ラカン、「リチュラテール Lituraterre, 1971, in Autres Écrits

この問いはここでは宙に放り出したままにしておくが、中井久夫には別に、「恥」ではなく「意地」を強調する日本文化論がある。

「日本人の意地は欧米人の自我に相当する」とは名古屋の精神科医・大橋一恵氏の名言である。中国人の「面子」にも相当しよう。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・外傷・記憶』所収)
意地について考えていると、江戸時代が身近に感じられてくる。使う言葉も、引用したい例も江戸時代に属するものが多い。これはどういうことであろう。

一つは、江戸時代という時代の特性がある。皆が、絶対の強者でなかった時代である。将軍も、そうではなかった。大名もそうではなかった。失態があれば、時にはなくとも、お国替えやお取り潰しになるという恐怖は、大名にも、その家臣団にものしかかっていた。農民はいうまでもない。商人層は、最下層に位置づけられた代わりに比較的に自由を享受していたとはいえ、目立つ行為はきびしく罰せられた。そして、こういう、絶対の強者を作らない点では、江戸の社会構造は一般民衆の支持を受けていたようである。伝説を信じる限りでの吉良上野介程度の傲慢ささえ、民衆の憎悪を買ったのである。こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である。そういう社会での屈折した自己主張の一つの形として意地があり、そのあるべき起承転結があり、その際の美学さえあって、演劇においてもっとも共感される対象となるつづけたのであろう。………(中井久夫「意地の場について」--「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ

「意地」とはおそらく二者関係的なものだろうが、このあたりは一神教の伝統内の理論であるフロイト・ラカン派の考え方をそのまま日本に適用できないことに注意しなくてはならない(ラカンの指摘する「自我理想」が機能しない日本とはこれにかかわる)。

さて難題は当面脇に置くことにして、ジジェクの「眼差しー恥ー自我理想」/「声ー罪ー超自我」論が大きく依拠しているのは、ラカンは学園紛争後、つまりは権威の実質的な死の時代に突入したときに言い放った次の言明であるはずだ。

きみたちは言いうるだろう、もはやどんな恥もないと。vous pouvez dire qu'il n'y a plus de honte. (Lacan,S.17, 17 Juin 1970 )

ーー恥とは去勢の敬意のことである。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972ーー四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説)

日本が西欧とは異なるとはいっても、旧世代の人間たちは、以前とくらべて今の若者たちに「恥」の喪失があるのではないかとは、たぶんわたくしだけではなく、多くの人が感じているのではなかろうか。

もっともこういう言い方は気をつけなくてはならない。ここで梅崎春生の名言を想い起しておこう、《近頃の若い者云々という中年以上の発言は、おおむね青春に対する嫉妬の裏返しの表現である》。

…………

【補足】

以下、この数か月の間に繰り返してきたことの拾い集めである。

表題をシンプルに眼差しから声への移行とせず、「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行としたのは、次の引用群などからのわたくしの想定である。

まず基本的な「超自我」の考え方のベースを提示する。

・超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、セミネール7)

・享楽を強制するものはない、超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「享楽せよ!」 Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »,(ラカン、セミネール20)

冒頭に引用したジジェクによる、現代の《ヘゲモニー的イデオロギーは、猥褻な超自我の命令として機能している。その命令が私を有罪にするのは、(象徴的禁止を侵害するときではない。そうではなく)、十全に享楽していないため・決して十二分に享楽していないためである》は、上のセミネール20の「享楽せよ!」にかかわる。

だが超自我の命令は不可能な命令である。というのは先ずなりよりも、われわれは言語使用による物の殺害(象徴的去勢)を経た存在ーー《言語によって囚われ拷問を被る主体  le sujet pris et torturé par le langage》(S3)--であり、《享楽欠如manque-à-jouir》(AE435)の存在なのだから。

もちろんラカンはファルスの彼方の享楽(フロイトの快原理の彼方=不気味なもの[参照])を語ってはいる、《ファルスの彼方には Au-delà du phallus、身体の享楽 la jouissance du corps がある。》(S20)。《非全体の起源 pas toute…それは、ファルス享楽 jouissance phallique ではなく他の享楽 autre jouissanceを隠蔽している。いわゆる女性の享楽 jouissance féminine を。》(S19)

だがその享楽はファルス秩序の裂け目に不可能なものとして現われるのみであり、出会い損ねとして遭遇するだけである。

テュケーTuchéの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね rencontre manquée」としての「現前 présence」である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ)

むしろ(標準的な)人間にとっては、耐え難い出会いなのである(参照)。

ここでやや文脈からはずれるが、ドゥルーズ=プルーストを引用しよう。

無意志的記憶の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。

…les révélations de la mémoire involontaire sont extraordinairement brèves, et ne pourraient se prolonger sans dommage pour nous…(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

よく知られているように(?)、無意志的記憶とは、トラウマのことである(参照:Involuntary memory:Wikipedia)

「レミニサンス réminiscence」 あるいは「無意志的記憶 la mémoire involontaire」は、基本的にはトラウマと同じ構造をもっている。《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である》(中井久夫)のと同じように。

トラウマの不透明性 l’opacité du traumatismeーーフロイトの思考によってその初期作用 fonction inaugurale のなかで主張されたものであり、私の用語では、意味作用への抵抗 la résistance de la signification であるがーー、それはとりわけ想起の限界 la limite de la remémorationを招くものである。(ラカン、セミネール11, 15 Avril 1964)
私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値 valeur を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。

…私は、現実界 le Réel は法のない sans loi ものに違いないと信じている。…真の現実界は法の不在を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

※参照:「 レミニサンス réminiscence」と「穴馬 troumatisme」

…………

次に、「父の眼差し」/「母の声」という想定をした核心的なラカン文を引用する。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

ーー上に自我理想から超自我への移行(資本のイデオロギーから資本の論理への移行) が、エディプス的超自我から前エディプス的超自我への移行である、としたのはこれらの文に依拠する。

超自我とは確かに「法」である。しかし鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴・正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「単一」unary のシニフィアンとしての法である。…超自我は、独自のunique シニフィアンから生まれる形跡・パラドックスである。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(……)

「母なる超自我」( surmoi mère) ……思慮を欠いた法としての超自我は、父の名によって隠喩化され支配される以前の「母の欲望」にひどく近似している。超自我は、法なき気まぐれな勝手放題 capricious whim without law としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996,PDF)

ミレールの文に出現する穴 trouとは、Ⱥとも書かれ、原トラウマ(原対象a)のことでもある。 《経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 》(フロイト『制止、症状、不安』1926年) 。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )
対象a、それは穴のことである。 l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

ここにあるように穴とは欠如ではない。欠如とはファルス秩序のみの用語である。ファルスの彼方にあるのは、欠如の欠如である。《欠如の欠如が現実界を作る。Le manque du manque fait le réel》(Lacan、1976 AE.573)

すこしまえテュケーとの出会いは人間には耐えがたいと記したが、テュケー、つまりブラックホールȺとの遭遇にいかに耐えうるというのか?

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ーーもちろんこのブラックホールであるヴァギナデンタータは、非全体の比喩として読んでもよい。

こういった「詩的な」表現がお嫌いな方々のために、初期柄谷行人が、マルクスの《超感覚的なもの、あるいは社会的なもの sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge》( 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」から読みとった「非全体」の記述にて補足しておこう、《無根拠であり非対称的な交換関係》(『マルクスその可能性の中心』1978年)。

…………

次に、上の記述を裏付けうる現代ラカン派の代表的論者たちの引用を列挙する。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)

 …………

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕 stigmata を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF
サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)

母の法は非全体を受け継いでいる、とある。母の法 S(Ⱥ)=サントームΣとはーーサントームには別に「縫合SUTURE」の意味もあるにしろーーまずなによりも原抑圧(原固着)であり、《享楽の原子》(ジジェク、2012)、かつまた初期フロイト概念の「境界表象 Grenzvorstellung」である。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。(フロイト書簡(フィリス宛)、1896年)

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung, (Freud, Briefe an Wilhelm Fliess,1896)

ーーもちろんここでの「抑圧」は--当時のフロイトには原抑圧概念はなかったーー、「原抑圧」として捉えなければならない。そして境界表象とは、上に引用したコレット・ソレール曰くの「原リアルの名 le nom du premier réel」・「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

…………

父親は不在で、父の機能(平和をもたらす法の機能、「父の名」)は中止され、その穴は「非合理的な」母なる超自我によって埋められる。母なる超自我 maternal superego は恣意的で、邪悪で、「正常な」性関係(これは父性隠喩の記号の下でのみ可能である)を妨害する。(……)父性的自我理想 paternal ego-ideal が不十分なために法が獰猛な母なる超自我 ferocious maternal superego へと「退行」し、性的享楽に影響を及ぼす。これは病的ナルシシズムのリピドー構造の決定的特徴である。「母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃欲動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り食う鳥としてあらわれるのである」(Christopher Lasch)(ジジェク『斜めから見る』原著1991年)

ーーここでジジェクは「父の名」を、父性的自我理想とし、「母なる超自我」を前エディプス的超自我としている。

以下のポール・バーハウの倒錯をめぐる注釈も同じことを言っている。

倒錯者の不安は、エディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安としてしばしば解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ2004、Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

…………

ところで超自我と、自我理想・父の名とはどう異なるのか。

超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)
ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School

超自我は、基本的に、「母なる超自我」である(幼児は誰もが最初に「母なる大他者」に世話をうける)。 父の名・自我理想・父の法に超自我の側面があるのは、父の名が母なる超自我・母の法(≒母の欲望)を覆いつつつも、それを徴示しているからである(これがコインの裏表の意味)。

ミレールの文を再掲しよう。

「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

父の名は、母なる超自我をたしかに覆う。だがそこには必ず「残存現象」がある。 これは、最晩年のフロイトが記述したことである。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり以前の段階の現象が部分的に進歩から取り残されて存続するという事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な様子を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

最晩年の微妙な表現は別に、標準的なフロイトにのみに依拠した超自我論は、--フロイトは超自我=自我理想としているーー父の名(自我理想あるいは父なる超自我、父の法)と本来の超自我(原超自我あるいは母なる超自我、母の法)の 関連がみえてこない(日本の大半の論者、たとえば柄谷行人の九条=超自我論の曖昧さはここにある)。

もっともある時期までは、ラカン派でさえ、超自我の機能については曖昧なままであった。

ラカンの教えにおいて「超自我」は謎である。「自我」の批評はとてもよく知られた核心がある一方で、「超自我」の機能についての教えには同等のものは何もない。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez, 1996、PDF

わたくしが今、上のように記したことは、最近になっての議論を参照にしつつの、あくまで「想定」であり、ラカン注釈者たちが明瞭に上のように言っているわけではない。 その意味で、ジジェクの最近になっての叙述は貴重である、とわたくしは思う。

フロイト自身は終生エディプスの父に固執したとされるが、いくつかの論でほとんど超自我の起源は母であると口に出しかかっている。

最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的であり、かつ永続的であるにちがいない。このことは、われわれを自我理想の発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代、すなわち幼年時代における父との同一化である(註)。(フロイト『自我とエス』旧訳p.278、一部変更ーー参照
註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわち陰茎の欠如に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。……(同『自我とエス』)

そして1939年上梓の論文と死後出版1940年の論文には次のようにある。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
・超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。

・患者が分析家を彼の父(あるいは母)の場に置いた時、彼は自らの超自我が自我に行使する力能を分析家に付与する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

あるいはこう引用してもよい。

誘惑者 Verführerin はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933年)
母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版1940、私訳)

※より詳しくは、「二種類の超自我と原抑圧」を参照。