僕とはいったいなんだ?
僕の僕とはいったいなんだ?(中上健次『海へ』)
僕の僕とはいったいなんだ?(中上健次『海へ』)
…………
あの悩みが、どんなに個性もなく、
すべての人々の上を過ぎていったかを予感し見ぬくこと……
そうして、それでも出て行くこと、手から手をふりほどき、
癒やされた傷口をあらためて裂くように。(リルケ「放蕩息子の家出」(高安国世訳)
……
昭和二十一年
飢餓の喜びにふるえた
女の
陰部から
ビロードの不幸をまとって
父のない
流動体のスピロヘータがとびだした
ーー中上健次、「履歴書」
自分には名前が三つある、と秋幸は昔思ったことがあった。実際にそうだった。秋幸はフサの私生児としてフサの亡父の西村という籍に入り、中学を卒業する時に義父の繁蔵が自分の子として認知するというカタチで竹原に籍に入った。その男は浜村龍造と言った。(中上健次『枯木灘』)
《父の諸名les Noms-du-père 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことである。》(ラカン、セミネール22,.R.S.I., 3/11/75)
初期の理論でさえ、ラカンはエディプスの父の機能における象徴的側面を強調した。父の名の隠喩は実にその名を通して作用する。この仮説とは次のようなものである。すなわち、子どもに父の名との組み合せによる彼自身の名前を与えることは、子どもを原初の(母子の)共生関係から解放する。後期のラカン理論では、ラカンは名づけることのこの側面をいっそうくり返し強調した。したがってラカンは複数形で使用したのだ、Les Noms-du-Père と。疑いもなく文化人類学の影響を受けて、ラカンは次ぎの事実を分かっていたに違いない、母系制文化においてさえ、分離の機能は名づけることを通して作用することを。それは伝統的な欧米の核家族の外部でさえもである。主体にもともとのシニフィアン、すなわち母のそれではなく異なったアイディンティティのシニフィアンを提供することは、分離を惹起し、こうして保護を与える。これはわれわれに重要な結論を齎してくれる。すなわちエディプスの法は、古典的なエディプス、たとえば家父長制の外部でとても上手く設置することができる。――これは重要である。というのはそれが意味するのは、われわれは、基本的な信頼を取り戻すために、古き良き家父長制に戻ることを承認する必要はないということだから。(ポール・バーハウ1999、Paul Verhaeghe,Social bond and authority: everyone is the same in front of the law of difference、PDF)
問題は父親にたいする母親の関係である、
《単に母親が父親にいかに対応するかだけではなく、母親が父親の言葉、正確には父親の権威、にどのような地位を与えるか、いいかえれば法のプロモーションにおいて母親が父の名のために空けてある場所をどうするか》(ラカン、E579)、である。
図を描いたほうがわかりやすいのだが、母は三つの姓名(木下・鈴木・中上)を名のったのである。僕の兄や姉たちは最初の木下勝三(病死)の血をつなぎ、末っ子の僕だけが鈴木留造の子であった。放蕩者でバクチ好きの鈴木は、他に二人の女をつくって妊ませ、結局、僕には母千里の産みだした郁平、鈴枝、静代、君代の四人と、鈴木留造が女どもに産ませた一人の妹と二人の弟、そしてどこにいるのか生きているのか死んでいるのかわからない幻の妹が一人と、血のつながった兄姉妹でも九人いる計算になる。かくて幼い僕は母につれられて、最後の「父」である中上七郎の庇護をうけ、「父」の子である中上純一らと家庭を構成することになる。(中上健次「犯罪者宣言及びわが母系一族」)
「父の名」、それは自我理想であり超自我でもある。
ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School)
超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)
この「父の名」を考えることは、個人だけでなく社会的縫合の機能としてとても重要である。中上健次は父の名=父の苗字が機能していなかった。すなわち《子どもに父の名との組み合せによる彼自身の名前を与えることは、子どもを原初の(母子の)共生関係から解放する》--この共生関係からの解放がなかった。
すると原初の享楽の父に席捲されることになる。享楽の父は「浜村龍造」だけではない。むしろ母自体が享楽の父である。枯木灘の前半まではフロイト的原父の物語(ファミリーロマンス)に近似する。だが「真の作家」としての中上健次はその嘘に耐えれない(あのまま続ければ村上春樹の物語となんの変わるところもない)。ウソに耐えれない中上のエクリチュールはその中盤で物語を崩壊させる。そして後半に向けて真の享楽の父である母へと向かう。
女の問題とは、(……)空虚な理想の象徴的機能を形作ることができないことにある。これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊 fantasmatic specter であり、それは S1ではなく対象 aである。「女は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の「享楽の父」である(神話的な前エディプスの、集団内のすべての女を独占した父)。だから彼の地位は〈女〉のそれと相関的なのである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
中上健次は「路地」というシニフィアンを発明したが、あれは父の名の代替物である。あれはサントームである。
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008)
彼はあのシニフィアンを発明することで享楽の父の穴をかろうじて塞いだ。《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。》(ラカン、S24、17 Mai 1977)
くり返せば、享楽の父とは父ではない、「原父」などフロイトのファミリーロマンスだったことはすでによく知られている。柄谷行人が徹底的に優れているのは、そのことを早い時期から掴んでいたことだ。
フロイトは、世界宗教を「抑圧されたものの回帰」とみなす。私はそれに同意する。しかし、抑圧されたものは「原父」のようなものではなく、いわば「社会的なもの」である。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)
「社会的なもの」はマルクス概念であり 《無根拠であり非対称的な交換関係》(柄谷『マルクスその可能性の中心』1978年)、つまりラカンの非全体=女である。
この非全体概念は後期ラカンのものだが、ラカンが次のように言っていることの「真意」を読みとれば、既に前期から非全体 pas-tout=斜線を引かれた女 Lⱥ femme=S(Ⱥ)はある。
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)
それにもかかわらずほとんどのラカン派というのはいまだ寝言をいっている・・・超自我についてなにもわかっておらん・・・
享楽の父とは、むしろ貪り喰うクロコダイルマザーである。
母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ c’est le désir de la mère(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。(ラカン、S.17)
ーーこの母、それは《満足していない母というだけでなく、またすべての力をもつ母である。そしてラカンの母の形象のおどろおどろしい様相は、彼女はすべての力を持ちかつ同時に不満足であることである。》(Miller, “Phallus and Perversion,”)
あおむけに達男は山の茂みの中にたおれ、オリュウノオバは達男の上に重なり、ふと達男が笑みを浮かべもしない真顔で自分を見ているのを知り、恐ろしくなった。達男がオリュウノオバの乳をまさぐり、丁度腹の下に巌のようにふくれ上った一物が当たったのに気づいて、オリュウノオバは自分から達男に触れたのを忘れたように身をふって金切り声をあげ、起き上ろうとして組み敷かれた。
十五の達男の流した汗が黄金の光りから鉛に変り、輝きがとれるたびに若い衆の刃鋼のような体が現われ、オリュウノオバは産んだわが子と道ならぬ事をやり、 畜生道に堕ちるように心の中で思う。 (中上健次『千年の愉楽』)
路地では、いま「哀れなるかよ、きょうだい心中」と盆踊りの唄がひびいているはずだった。言ってみれば秋幸はその路地が孕み、路地が産んだ子供も同然のまま育った。秋幸に父親はなかった。秋幸はフサの私生児ではなく路地の私生児だった。(中上健次『枯木灘』)
俺はどこにもいない。それが機嫌のいいときの口癖だった。そのあとにはかならず、路地はどこにでもある、という言葉が続いた。(四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 一番はじめの出来事”)
ーーいやあこれはまったくアカデミックな話ではない。父の名が機能していない子供は誰もが(多かれ少なかれ)やっていることだ。やらなかったらとんでもないことになる。 ガチガチの神経症連中だけが知らないことである。ラカン理論は、ガチガチの神経症者がほとんどである日本的ラカン研究者の寝言からでは何も学べない、まともな詩人や作家を読むべきである。村上春樹程度ではけっしてダメである。作家ならせめて安吾、大江、中上、あるいは古井由吉程度でなければ役立たない。つまりは、《女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです》(古井由吉「すばる」2015年9月号)ということが分かっている作家でなくてはならぬ。
構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe))
ところで一神教でない日本社会を縫合するもの(父の名)は何なのか?
かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003年 )
この中井久夫の文にケチをつけるつもりはない、だがここでの「超自我」は「父なる超自我」に置き換えなければならない。「自我理想」としてもよい・・・いやいや中井久夫いはケチをつけたくはない、ここでは「一神教でない社会には「自我理想」は機能しない」と変換して読むだけにしよう。
……構造的欠如を基盤とする象徴秩序において、要素を結びつけたり統合するものは何か? この問題は一見アカデミックなもののようにみえるが、そうではない。究極的には、人のアイデンティティにおいて要素を結びつけるものは何かという問いに関わるからだ。このときまでに、ラカンは常に強調していた、主体性における根本的な疎外と分裂を。そこでは統一の感情は脇に置かれていた。後者(統一)は父の名の効果だと想定された。
ラカンがこの理論から離れたとき、彼は、人のアイデンティティにおける主体の統一のために別の説明を生み出さねばならない。ラカンは休むことなしに続けた、次のような用語を再公式化したり言い換えたりと。「父の諸名」という複数形から、おそらく基礎的かつひどく格言的な「一のようなものがある il y a de l'Un」まで。しかし、ラカンの絶え間ない問いは事態を明瞭化することに貢献しない。そして最終的な答が欠けている。皮肉なことに、これはラカンの新しい理論の本質と極めて首尾一貫したものだ。(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009ーー「一の徴」日記②)
上にあるようにラカン理論だって最後までいい加減である。 「大他者の大他者はない」のだからやむえない。ラカン理論を支える大他者など何もない。あるのは〈女〉だけである。
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…彼女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、セミネール20「アンコール」)
よく知られているように《女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut》(Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838)のである。
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要性toute nécessité。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。 (ラカンS23、16 Mars 1976)
さて話を戻すが、もちろん日本社会の縫合・絆にかかわるものは天皇制に決まっている。あの構造的な空洞に。だがたんに「かかわる」だけだ。
憲法を開くと、第三条にこう書いてあります。天皇の国事に関するすべての行為は内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負う、と。すなわち、日本の天皇の行うことは、すべて日本政府の意思によるものであり、それは国民主権の下では、 私たち国民自身の意思によるものなのです。これが象徴天皇制というものの意味です。
問題はこの憲法上の規定と現実の国民意識との乖離です。日本列島の歴史の中にいつしか成り成りてきた天皇制は、今日まで連綿と続いてきました。その中に生まれた私たちにとって、天皇とは私たちの意志を超えて、既にそして常に存在してきたもののように見えています。私たちは、過去のみならず現在においても、自分たちがその天皇に対して主権者であるという意識をもてない。今の象徴天皇制は、私たちの意志を象徴するどころか、私たちが自分で自分の国の運命を選べないことのまさに象徴となっているのです。
実はこのことは、天皇自身が天皇であるのを選べないことと表裏一体をなしています。天皇には、職業選択の自由も居住の自由も信教の自由もなく、選挙権も被選挙権もない。そもそも天皇には、即位を辞退する自由も自らの意志で退位する自由もないのです。国民が自らの運命を選べないことと天皇が天皇であるのを選べないこととは、合わせ鏡のように互いの主体性の不可能を映し 合っているのです。ここに真の意味での無責任体系が成立します。
日本の中心には主権の空洞があるのです。そしてこの空洞があその良い例が、「お言葉」の問題です。象徴天皇制においては、本来ならば天皇の言葉は私たち国民の言葉であるはずです。だが多くの国民にとって天皇の言葉は「お言葉」であり、 それに対して、自分たちが責任をもっているとはとても思うことができないのです。それでいて、天皇自身もその「お言葉」 に責任をとることができないのです。
今の日本の中心に一つの空洞があります。それは、自らは主権を奪われ、他からは主権を奪う構造的な空洞です。この空洞があるかぎり、日本の国民は自らの国の運命に自ら責任をとることができず、世界の人々に根源的な恐れをあたえ続けることになるのです。(岩井克人「憲法九条および皇室典範改正試案」初出1996年(『二十一世紀の資本主義論』所収)より)
見ての通り、あの構造的な空洞を徴示す「象徴的天皇制」は、父の名ではなく、むしろ「原穴の名」であり、「母の名」と呼ぶことさえできる。
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
だがら柄谷行人が次のように言うとき、それは(ある意味)限りなく正しい。
◆インタビュー・柄谷行人「改憲を許さない日本人の無意識」2016(「文学界」7月号)
編集部:「憲法の無意識」で驚いたのは、憲法一条(象徴天皇制)と九条との密接な関係を示されたことです。
柄谷:マッカーサーは天皇制の維持を重視していたが、ソ連や連合国だけでなくアメリカ国内でも天皇の戦争責任を問う意見が強かった。彼らを説得する切り札として戦争放棄条項を必要とした。
今は(国民の無意識に根を下ろしている)九条の方が重要であるが、その有力な後援者が一条の(今上)天皇・皇后である。
編集部:・・・つまり、天皇が国民の無意識を代弁している・・・。
原穴の名は何かで塞がなくてはならない。あの無責任体制の穴を。もちろんここで問うことはできる。その穴埋め機能を任せるのは憲法九条でなくてもよいではないか、と。
「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)
いずれにせよ「父の名」は「母の穴」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、あの「構造的な空洞」は飼い馴らされる。「父の名」がないなら、かわりのサントームでふさがなければならない。
母なる超自我は(個人の発達史においては)削減しようのない《原超自我 surmoi primordial》(ラカン、S5)である。だが父なる超自我は替えうる。それはラカンが次のように言っている真意である。《S1 とは構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père 》のことであり(S17)、それが父の機能(縫合機能)を持てば、どんなシニフィアンでもよい。《quel signifiant, après tout …le signifiant-Maître》(S17)
憲法九条=超自我論における最近の柄谷ーー日本的環境においてはかねてから徹底的に突出して「すぐれた」柄谷行人ーーの唯一の問題は、「父なる超自我」と「母なる超自我」を混淆させて語ってしまったことだ。フロイトのみに依拠すれば已む得ないとはいえ、フロイトにも「母なる超自我」の痕跡がないではない。
『自我とエス』(1923年)の第三章「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」には次の文がある。
最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的であり、かつ永続的であるにちがいない。このことは、われわれを自我理想の発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代、すなわち幼年時代における父との同一化である(註)。(フロイト『自我とエス』旧訳p.278、一部変更)
…… Dies führt uns zur Entstehung des Ichideals zurück, denn hinter ihm verbirgt sich die erste und bedeutsamste Identifizierung des Individuums, die mit dem Vater der persönlichen Vorzeit.
そして註には次のように書かれている。
註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわち陰茎の欠如に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。……(同『自我とエス』)
Vielleicht wäre es vorsichtiger zu sagen, mit den Eltern, denn Vater und Mutter werden vor der sicheren Kenntnis des Geschlechtsunterschiedes, des Penismangels, nicht verschieden gewertet.
そもそも最初の同一化の対象として母が先立つのは発達段階的にはごく当然である。ここから人は母なる超自我を読みとらねばならないのだ。
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…
最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
ーーいやいやこの話はやめておく、今のわたくしには重荷すぎる・・・
さて戦争トラウマの穴の名とは、結局、次のようなものだ。
……現実はむしろ夢魔に似ていたのかもしれない。GHQに挨拶に出かけた天皇が、マッカーサーと並んで立っている写真は、まるでコビトの国の王様のようであった。かと思うと、そのマッカーサー司令部のある皇居と向い合せのビルの前で、釈放された共産党員その他の政治犯たちが、「マッカーサー万歳」を唱えたというような記事が新聞に出ていた。(安岡章太郎『僕の昭和史 Ⅱ』)
……国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。醒めている者も、ふつう亡命の可能性に乏しいから、担いでいるふりをしないわけにはゆかない(中井久夫「戦争と平和についての観察」2006年初出『樹をみつめて』所収)
実は誰もが知っているあの「コビトの国のおみこしの熱狂と無責任」、それが戦争トラウマの名(原穴の名 le nom du premier trou)である。
「原穴の名」を何かで覆わなくてはならない。この「穴の名」は原トラウマに直結している「境界表象 Grenzvorstellung」あるいは「原固着Urfixierung」 に過ぎないのだから。もちろん塞ぐ蓋が軟弱だったら原トラウマがすぐさま滲み出でしまうにしろ。
我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る(開ける)。
nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )
塞がなければ、次のようなものに占領される。それは人だけでなく社会も同じである。
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)
もちろんコルク栓が緩ければ、残存現象と呼ばれるものがふんだんに噴き出る。《女性の享楽は非全体pas-toute の補填(穴埋め suppléance )を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓を見いだす。》(ラカン、 セミネール20)
コルク栓が緩く、残存現象で溢れ返るのが、この今の日本である(もちろん全世界的にも「父の名」の斜陽によってこれは当てはまるのだが、彼らにはいまだ一神教の残照がある・・・)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり以前の段階の現象が部分的に進歩から取り残されて存続するという事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な様子を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
ーーいやあひどく雑然と記してしまった・・・以上はあくまでメモである・・・そのうちもうすこしはマシな形で記そう・・・死ぬまでには・・・これは父の苗字が機能せず母の名に貪り喰われかかった者の妄想的「戯言」でありうる・・・ひどい戦争トラウマをかかえた母、分裂病と誤診された母、あの母のブラックホール・・・
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)
ああコレット・ソレールの文など読まなかったらよかった・・・
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
人は《癒やされた傷口をあらためて裂く》ようなことはしてはならないのではなかろうか・・・あの原リアルの名、その穴を塞ぐコルク栓などをさぐってどうするというのだ・・・をそんなことをすればサントームなどかさぶたでありすぐ剥がれ落ちてしまう・・・