2016年12月3日土曜日

「一の徴」日記②

「一の徴」日記 にて引用した、同一化セミネール9 にはこうあった。

われわれはシニフィアンの集合 batterie du signifiant における単一の印 trait unique、einziger zug(一の徴)に当面しているのである。 シニフィアンの連鎖 chaîne signifiante を構成するあらゆる要素と交換可能なものであり、それだけでそして常に同じものとしてこの連鎖を支えることができるのである。(ラカン、セミネール9)

そしてセミネール17 からも引用した。

・ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。

・例えば「一の徴 le trait unaire」にて…人は「主人のシニフィアンsignifiant-Maître」の機能を問うことが出来る。 (ラカン、セミネール17)

主人のシニフィアンS1が「一の徴」と同じ機能をもっているとある。ここでセミネール17の冒頭にある主人のシニフィアンの機能の叙述を見てみることにする。



我々はS2 という記号 le signe S2 で示されるものを「シニフィアンの集合 la batterie des signifiants」と考える。それは「既にそこにある déjà là」。(……)

S1 はそこに介入する。それは「特別な徴 trait spécifique」であり、この徴が、「主体 le sujet」を「生きている個人 l'individu vivant」から分け隔てる。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)

これはまず、人は生まれた瞬間から、S2の世界があるということを言っている。上の図でAとS2が重なっているように、Autre(大他者、あるいはシニフィアンの大他者)の世界に生まれて来る。

つまり人間は象徴界のなかに生れて来るということを言っている。

ラカンの観点からは、精神病と神経症の共通の基盤はなにか? 精神生活の始まりはなにか? 古典的ラカンにおいて精神生活の始まりは、ラカンが想像界と呼んだものだ。誰もが想像界とともに始まると想定される。これは古典的ラカンだ。それは疑わしい。というのは、言語の出現を遅らせているから。事実としては、主体は、最初から言語に没入させられいる。だが、古典的ラカンにおいて、精神病についての彼の古典的テキストにおいて、さらに『エクリ』のほとんどすべてのテキストにおいて--ひどく最後のテキストのいくつかを除いてーー、ラカンは、主体の根本次元を想像的次元に付随したものとして「構築」した。(……)私は「構築」と言った。というのは、あなたは、言語の抽象作用を理解しなければならないから。言語は既に最初からある。(Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited、2008 私訳、PDF

上にかかげたセミネール17 の文でのもうひとつの注目点は、《S1という「特別な徴 trait spécifique」が…「主体 le sujet」を「生きている個人 l'individu vivant」から分け隔てる》とあったことだ。

これは主体の発生以前に、「生きている個人 l'individu vivant」と呼ばれるものがある、と言っていることになる。そしてそこにS1という「特別な徴 trait spécifique」が介入することによってはじめて主体が生まれる。

ラカンによる名高い欲求・要求・欲望の区分があるが、《欲求(段階)においては、いまだ主体はない le besoin, ce n'est pas encore le sujet》(S.5)。つまり、この生きている個人とはいまだ主体になっていない欲求の生き物(そして身体の欲動の生き物)であり、ラカンには別にこの段階を表わす表現として、「享楽の主体 sujet de la jouissance」、「原主体 sujet primitif」、「無頭の主体 sujet acéphale」等々の表現がある。

欲望する主体、それはもはや享楽の主体ではない « sujet désirant » : non plus « le sujet de la jouissance »(セミネール10)



ラカンは通常は、 $ (斜線を引かれた主体)を主体と呼ぶが、上の図にある斜線を引かれていない主体S(原主体 sujet primitif)を「享楽の主体 sujet de la jouissance 」と当面呼んでみようということが不安セミネールⅩには書かれている。

主体になることとは、常に言語の主体になることであり、主体化の過程は、既に存在しているシニフィアンを通して起こる。

ところでエクリには次のような記述がある。

欲求が原抑圧を構成したのち……欲望としての人間が現われる《besoins constitue une Urverdrängung …se présente chez l'homme comme le désir 》(.E.690)。

ラカンは後年も次のように言っている。

幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧(のようなもの)がある、と私は理解している。À partir du moment où il parle, eh ben… à partir de ce moment là, très exactement, pas avant …je comprends qu'il y ait du refoulement.(Lacan,S.20)

以上から、S1あるいは一の徴の介入とは、(基本的に)原抑圧 Urverdrängung にかかわるという理解ができる。

主体の発生以前の「生きている個人 l'individu vivant」(「原主体sujet primitif」、「享楽の主体sujet de la jouissance」)は、表現の仕方がやや異なるが、セミネールⅩⅠにも「生きものの到来 l'avènement du vivant」/「主体の到来 l'avènement du sujet」という区分けがなされている(参照)。


生き物の到来とは生れたとき発生する。というより、《生きもの l'être vivant》が《生み出された=ジェンダー化される s'engendre》のは、《性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuée》(S11)に入ったときであり、母胎内にて生き物はすでに到来している。

そしてその生きもののにとっては世界に生まれて出て来たとき、すでにS2(シニフィアンの集合)があるが、そこにS1が介入することによって主体が生まれ、二番目の喪失が生じる。二番目というのは生きものとして生まれたとき、第一番目にすでに喪ってしまったものがあるからだ。これはラカンがセミネール11で「二つの欠如Deux manques」を語っている内容のさわりである(参照:基本版:二つの欠如)。

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11)

この《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》(S.11)が第一の喪失ーー《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuée》において齎された欠如である。他方、主体の発生による喪失は次のように説明されている。

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(S17)

上の文は、「四つの言説」理論の代表的な言説「主人のシニフィアンの言説」のことを言っている。


このようにして、 $(分割された主体)と対象a が生まれる。

我々は勿論、フロイトから引き出した「喪われた対象の機能 fonction de l'objet perdu」をこの点から示し損なっていない。…「話す存在 l'être parlant」における固有の反復の意味はここにある。というのは、生物学的意味におけるどんな記憶の効果(影響 effect)の反復の問題では全くないから。反復はこの主体とこの知との明白な関係性 にある。その境界(限界 limite)にあるものを「享楽 la jouissance」 と呼ぶ。(S17)


こうして我々は永遠に反復運動する生を送ることになる。



《「一の徴 le trait unaire」にて…人は「主人のシニフィアン signifiant-Maître」の機能を問うことが出来る》とラカンが言っているように、S1のポジションに「一の徴」が基本的には代入できる。




ただしS1をまったく「一の徴」と同じものとしてしまうのは、問題がある。ジャック=アラン・ミレールは次のように言っていることを付記しておこう。

ラカンは「一の徴」を熟慮した後、S1(主人のシニフィアン)というマテームを発明した。S1 は「一の徴」よりも一般的なマテームである。しかし疑いなく、S1 の価値のひとつは「一の徴」である。

私は信じている、「一の徴」というシニフィアンの卓越した機能、そして幻想のなかの対象a 、この両者への主体の連携のあいだには関係性がある、と。(…)

しかしこの両方の定式を比較すると、多くの問題が湧き起こってくる。……(Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm

ーーというわけで、ここからが実は難問なのである。

実際、「一の徴」をめぐる記述を読んでいると、S1より対象aのほうに近似しているように思えることさえある(参考1参考2)。

ミレールに依拠することが多く、Lacan.com の常連である Ellie Ragland はこう記している。

・The object (a) is a metaphor for the unary traits of jouissance (Ellie Ragland,The Topological Dimension of Lacanian Optics, 2008)

・The object (a) is proximate to unary traits (S1) (Ellie Ragland,Logic of Sexuation, The: From Aristotle to Lacan, 2012)

いやあこう記してさてこのあと続けるべきか、分からないままでありながら・・・

自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。(ドゥルーズ『差異と反復』)

1996年の時点でミレールは、わたくしにはtrait unaire に相当すると思われるものを、「たったひとつきりのシニフィアン signifiant tout seul」という言い方をしている(L'interprétation à l'envers, 1996)。

わたくしが依拠することの多いポール・ヴェルハーゲもこう言っている。

(後期)ラカンは「文字 lettre」、あるいは対象 a を、主人のシニフィアン S1 と等価とする。それは次の条件においてである。すなわち、この S1 は S2 (他の諸シニフィアンの一群)から 隔離されたものとして理解されるという条件において。「文字」S1 は、S2 とつながった時にのみ、ひとつのシニフィアンに変換される。 (ヴェルハーゲ、2002ーー欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ)

これは日本でも松本卓也氏が次のように注釈している。

逆方向の解釈によって取り出されるのは、他の誰とも異なる、それぞれの主体に固有の享楽のモード、すなわち、「ひとつきりの<一者>」と呼ばれる孤立した享楽のあり方である。精神病の術語をもちいれば、それは他のシニフィアンS₂から隔絶された、「ひとつきりのシニフィアンS₁」としての要素現象であり、自閉症の用語をもちいれば、それはララング(S₁)を他のシニフィアン(S₂)に連鎖させることなくララング(S₁)のまま中毒的に反復する事に相当するだろう。いずれの場合でも、そこで取り出されているのは無意味のシニフィアンであり、そこに刻まれている各主体の享楽のモードである。ミレールがいうように、現代ラカン派にとって、「症状を読む」こととは、症状の意味を聞き取る=理解することではなく、むしろ症状の無意味を読むことにほかならないのである。(松本卓也『人はみな妄想する』)


ここでの要素現象にも注目しておこう。この前期ラカンの概念「要素現象 phénomènes élémentaires」とは、主体が象徴界のなかの穴に遭遇し、その後引き続いて発生するシニフィアンである。ミレール(2008)によれば、要素現象は、隠喩と換喩の不在のせいによる意味作用の失敗によって特徴付られる。

そして前回みたように後期ラカンの治療上の核心概念サントームさえこの「一の徴」と近似性がある。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

このようにして多くの主要概念が「一の徴」につながってくる。

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”2008)
主人のシニフィアンは、無意識のサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006)

いやあ、みなさん勝手なことを言ってくださる。この際、もうすこし列挙しておこう。

「一の徴」は原抑圧にかかわるだろうことを上で見た。

◆原抑圧とは現実界のなかに〈女〉を置き残すことである。

本源的に抑圧されているものは、常に女性的なるものではないかと疑われる。(Freud, Draft M. Repression in hysteria ,1897).
原抑圧とは、現実界のなかに〈女〉を置き残すことと理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)


◆女 Lⱥ Femme のシニフィアンはS(Ⱥ)である。

S(Ⱥ)は、La Femme n'existe pas(女は存在しない)を意味する(徴示する)。…La Femme n'existe pas、すなわち、Lⱥ Femme…(Paul Verhaeghe,Does the Woman Exist? ,1999)
S(Ⱥ) とは、大他者のシニフィアンの不可能性を表す(徴示する)。「大他者の大他者はない」という事実、大他者の領野は、本質として非一貫的にであるという事実のシニフィアン(徴示素)である。(ジジェク、Woman is One of the Names-of-the-Father, 1995)


◆神とは女La femme のことである。

「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。[La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».](ラカン、セミネール23)

◆女とは父の諸名 les Noms-du-père のひとつである。

ファルス機能を構成する例外の典型的な例として、人はふつう、享楽の原父という幻想的・猥褻な形象に言及する。この享楽の原父は、どんな禁止にも邪魔されず、全ての女たちを隈なく享楽する。しかしながら、宮廷貴婦人恋愛の形象は、この原父の勝手放題の決定力に十全に合致しないだろうか。彼女もまた、全てを欲する気まぐれな主人、どんな法にも囚われず、彼女の騎士-召使いに専横非道な試練を課す主人ではないか?

この正確な意味において、〈女〉は父の諸名のひとつである。ここで見逃してならない決定的な細部は、複数形の使用と大文字 capital letters の欠如だ。すなわち、Name-of-the-Father ではなく、names-of-the-father のひとつである。つまりは、原父と呼ばれる過剰の候補者の一人だ。 (Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation、1995ーー「S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme」)


◆女 Lⱥ Femme とは対象aである。

女の問題とは、(……)空虚な理想ーー象徴的機能――empty ideal‐symbolic function—を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊fantasmatic specterであり、それは S1ではなく対象 aである。「女は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の「享楽の父」である(神話的な前エディプスの。集団内のすべての女を独占した父)。だから彼の地位は〈女〉のそれと相関的なのである。(ジジェク,LESS THAN NOTHING 2012ーー難解版:「〈他者〉の〈他者〉は外-存在する」(ジジェク=ラカン))

◆ひとりの女は対象aではない。

Une femme, pas plus que l'homme, n'est un objet(a)(Lacan,S.22)

◆ひとりの女は症状である。

Pour qui est encombré du phallus : « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme !(S.22)

◆ひとりの女は他の身体の症状である。

Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569)


◆ひとりの女はサントームである。
une femme est un sinthome pour tout homme(Lacan,S23)


◆サントームとは名付けにかかわる。JȺ とはサントームのことである。

JȺーーラカンがサントームと呼ぶもの--は現実界の名付けに関わる。(Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)


◆父の諸名とは名付けのことである。

父の諸名とは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ[…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、セミネール22,.R.S.I., 3/11/75)


◆サントームは、症状と幻想の混淆である。

Le sinthome, un mixte entre symptôme et fantasme (ミレール、Revue de la Cause Freudienne n°39, mai 1998)

さて、みなさんそれぞれの文をどうぞタノシンデクダサイ・・・いやひょっとして思いの外一貫性があることにすぐさま気づくかもしれない。

これらの理解に近づく核心のひとつはマルクスの価値形態論を通してラカンを読むことである(参照:価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン))。

いやまず基本的にはこっちのほうがいいかもしれない→「至高の「倒錯」思想家(マルクス・フロイト・ラカン)

冗談抜きでラカンまわりを読んでいて混乱するとマルクスに思いを馳せる、そうするとスコシハすっきりする・・・あくまでスコシハであるが。

ーーそのうちジジェクの弟子筋あたりが華麗な注釈書を出すんじゃないだろうか。その意味で、Samo Tomšičは有望である。

…………

※付記

ある時期のミレールは「享楽の主体」についてこう言っている(このThe Axiom of the Fantasm という論文はいつ記されたのか判然としないが、すくなくとも90年代、もしくはそれ以前と思われる)。

「享楽の主体 sujet de la jouissance 」という表現は用心して使わなければならない。私が知る限り、ラカンは一度しかその表現を使用してない。問題はまさに享楽の主体のようなものがあるのかどうかだ。差し当たって、我々が知っていることの全ては、まさに問題含みの幻想のなかの主体の位置である。(ミレール、The Axiom of the Fantasm Jacques-Alain Miller

そして最近のミレールは、この享楽の主体を探し求めているように思える。

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER

この「話す身体 le corps parlant」は、ラカンのアンコール(S20)の最後のほうに現れる。ミレールがラカンの転回点とする叙述のひとつである。

現実界は…話す身体 corps parlant の神秘 、無意識の神秘だ。 Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient  (S.20)

さらにミレールが依拠するのは、3年後のセミネール23にあらわれる次の文である。

法のない現実界(le Réel sans loi)……本当の現実界は、法の欠如を意味する。現実界は、秩序がない[Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre](セミネール23)

多くの現代ラカン派は「話す身体 corps parlant」概念の扱いについて模索しているようにみえる。

言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体le corps parlant とは、自ら享楽する身体 un corps joui である。(The mystery of the speaking body,Florencia Farías, 2010、PDF
主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララング lalangue によって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen「21世紀における話す身体とその欲動 LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDF)

ミレールは、セミネール11からセミネール20までのラカンは道に迷ったのではないだろうか、とさえ仄めかしている。

セミネールX「不安」1962-1963では…対象a の形式化の限界が明示されている。…にもかかわらず、ラカンはそれを超えて進んだ。

そして人は言うかもしれない、セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだと。何という反転!

そして私は、ラカンはセミネールX 後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と自問した。…いや私はそんなことは言わない。それは私の考えていることでない。

ラカンはセミネールXXに引き続くセミネールでは、もはや形式化に頼ることをしていない。…あたかもセミネールX にて描写した視野を再び取り上げるかのようにして。

…不安セミネールにおいて、対象a は身体に根ざしている。…我々は分析経験における対象a を語るなら、分析の言説における身体の現前を考慮する。それはより少なく論理的なのではない。そうではなく肉体を与えられた論理である。(ミレール,Objects a in the analytic experience、2006

というわけで基本はすぐれた臨床家のみなさんにおまかせしなくてはならない。だが核心は「身体」である。前期ラカンの大他者に囚われた身体ではなく、後期ラカンの自ら享楽する身体 un corps joui である。

…………

※以下、別投稿しようと思ったがメモの範囲を出ることは書けそうにないので、ここに純粋なメモとして付記。


ところで、なぜこういった問いが臨床家でない我々にもときには必要なのか。それは人のアイデンティティとは何かという問いに行きつくからだ。

「一の徴」や「主人のシニフィアン」は、かつての「父の名」の変種である。かつまた「一の徴trait unaire」は、セミネール9 では自我理想とされてる(フロイト起源の「einzige Zug(一の徴)」も同様)。

ほかにもたとえばオートル・エクリにも次のような叙述がある。

「一の徴」、それは理想として機能することになる原同一化の徴である。le trait unaire, la marque d'une identification primaire qui fonctionnera comme idéal.(Lacan,PROBLEMES CRUCIAUX POUR LA PSYCHANALYSE 5 avril 1966)

ここで、ポール・ヴェルハーゲの説明を掲げておこう。

以前は、父の名は父(の機能)の保証だった。丁度、フロイトの原父がどの父をも基礎づけたように。今や、父の名が保証するものは大他者における欠如である。あるいは主体の象徴的去勢である。そして象徴的去勢を通して、主体はあらゆるものを取り囲む決定論から離れ、彼(女)自身の選択が、たとえ限定されたものであるとはいえ、可能となる。

この変貌の波紋は、ラカンのその後の仕事全体を通して、轟き続けた。まさに最後まで、絶え間なく寄せてはかえす波のように。実に理論の最も本質的なメッセージは、どの理論も決して完璧ではないということだ。循環する論述によって組み立てられた閉じられたシステム、それを我々はフロイトとラカンとともに以前は見出した(原父や父の名によって保証される父、逆も同様)。だがそれは一撃で破棄された。

同時に、新しい問題が出現する。構造的欠如を基盤とする象徴秩序において、要素を結びつけたり統合するものは何か? この問題は一見アカデミックなもののようにみえるが、そうではない。究極的には、人のアイデンティティにおいて要素を結びつけるものは何かという問いに関わるからだ。このときまでに、ラカンは常に強調していた、主体性における根本的な疎外と分裂を。そこでは統一の感情は脇に置かれていた。後者(統一)は父の名の効果だと想定された。

ラカンがこの理論から離れたとき、彼は、人のアイデンティティにおける主体の統一のために別の説明を生み出さねばならない。ラカンは休むことなしに続けた、次のような用語を再公式化したり言い換えたりと。「父の諸名」という複数形から、おそらく基礎的かつひどく格言的な「〈一者〉があるil y a de l'Un」まで。しかし、ラカンの絶え間ない問いは事態を明瞭化することに貢献しない。そして最終的な答が欠けている。皮肉なことに、これはラカンの新しい理論(の本質と極めて首尾一貫したものだ。(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009

ラカンの新しい理論とは、もちろん「大他者の大他者はない」である。

1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…

一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの 場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013、PDF

そして「一の徴」理論とは、問い詰めてゆくと、《Credo quia absurdum 私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから》になりかねない理論である。だからIいまどき「神の愛」などとマガオでのたまうラカン派さえ出現する。ああいった連中を叩き潰すにはどうしたらいいか思案しているのだがーーかなりマガオでーー、ラカン理論上では容易ではない。

はっきりしているのは、我々は「父の名」という排他的なシニフィアンから長い道のりを歩んだことである。これは疑いもなく最も難解なテーマであり、ラカンはセミネールXXでふたたび取り上げた。主体の形成がなされるためには、S1の介入が必要である。そのときの問題は、このS1はどこから来るかだ。

ラカンはトートジカル(同義反復的)な答えを提供する。S1はシニフィアン〈一者〉から来る、その格言「〈一〉のようなものがある」(Y a de l'Un)にて。これに基づいたS1はどんなシニフィアンでもいい。こういうわけで、彼の言葉遊びS1、essaim(ミツバチの密群)がある。問題はシニフィアンの特質ではなくその機能である。一つの袋(envelope封筒)を与え、そのなかで全てのシニフィアンの鎖が存続できるようにするのだ。

(アンコール essaim 箇所の図)

これはラカンが既に同一化のセミネールで提示した思考の一連の流れにある。そのセミネールIXで、彼は主体の同一化の起源を他の主体から来る「一の徴」の上に置いた。その「一の徴」が主体をシンギュラーな〈一者〉として刻印する。セミネール17でも、「一の徴」は反復の必要があると言われている。というのは、〈一者〉は不在の上に来るから。底に横たわる実体的な主体はない。ただヒュポケイメノン hupokeimenon(アリストテレス=ハイデガー)、想定された現存 presence があるだけである。これはシニフィアンと物とのあいだの関係とまさに同じである。シニフィアンは他のシニフィアンに差し向けられるだけだ。他方、物自体は諸シニフィアンの鎖の外部にある。

この一連の理由づけにある袋小路は起源の問いにかかわる。ラカンはその全仕事を通してくり返したのだが、答えることは不可能だった。主体の形成は、S1 から引き出される。そしてそのS1は、底に横たわる不在の上で反復される必要がある「一の徴」から来る。私の読解では、これはまさにフロイトが陥ったのと同じ袋小路であり、しかも同じテーマにおいてである。父を基礎づけるために、フロイトは原父が必要だった。なにも不思議ではない、フロイトがこの循環論法で終わったのは。それは次の言葉とともにだった。 「Credo quia absurdum 私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」、と。(Paul Verhaeghe, Enjoyment and Impossibility,2006、私訳)

※S1がどのシニフィアンでもいいのは、セミネール17において既に示されている。

c'est très précisément cette insistance du Maître, cette insistance en tant qu'elle vient à produire… et je l'ai dit : de n'importe quel signifiant, après tout …le signifiant-Maître.(S.17)