2016年12月2日金曜日

「一の徴」日記

フロイトが「一の徴 der einzige Zug」と呼んだもの(ラカンの Ie trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。(『ジジェク自身によるジジェク』2004、私訳)

…………

ラカンは「一の徴」を熟慮した後、S1(主人のシニフィアン)というマテームを発明した。S1 は「一の徴」よりも一般的なマテームである。しかし疑いなく、S1 の価値のひとつは「一の徴」である。

私は信じている、「一の徴」というシニフィアンの卓越した機能、そして幻想のなかの対象a 、この両者への主体の連携のあいだには関係性がある、と。(…)

しかしこの両方の定式を比較すると、多くの問題が湧き起こってくる。……(Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm

このミレールのThe Axiom of the Fantasmはかなり前に書かれたものではないかと思うが、いつ書かれたのかは不詳。

「一の徴」が主人のシニフィアンの機能をもつのはラカン自身も言っている。

・ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。

・例えば「一の徴 le trait unaire」にて…人は「主人のシニフィアンsignifiant-Maître」の機能を問うことが出来る。 (ラカン、セミネール17)

そしてミレールの次の記述から、「一の徴」=サントームと読む解釈者もいる。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

Ce qui fait insigne という論文自体も1986 - 1987の講義からだが、2007年のミレール派肝入りの論集に再掲されているので、2007年の時点でも見解は変わらないはず。

というわけで、基本的には「一の徴」≒S1(主人のシニフィアン)≒サントームΣであると仮にしておこう。

ところで、trait unaire は「一の徴」とジジェク訳語だったかで一度見た覚えがあるので当面使用しているが、実際は徴ではない。英訳ではone strokeとされることが多く、つまりは水泳の「一かき」、書道の「一筆」、あるいは狩猟の「一撃」等々とでもいうべきものである。

バディウの存在論の中核表現のひとつ l'un, qui n'est pas というのも「一の徴」と等価であるか、すくなくとも親族である。opérationという用語が STROKE を表している。

・ Ce qu'il faut énoncer, c'est que l'un, qui n'est pas, existe seulement comme opération.

・un pur ‘il y a' opératoire


ところでラカンのセミネールⅨ(29 Novembre 1961)にはこんな図が示されている。




その直前の週のセミネールには、「一の徴」は自我理想ともある。

われわれはシニフィアンの集合 batterie du signifiant における単一の印 trait unique、einziger zug に当面しているのである。 シニフィアンの連鎖 chaîne signifiante を構成するあらゆる要素と交換可能なものであり、それだけでそして常に同じものとしてこの連鎖を支えることができるのである。

消失していく主体のデカルト的経験そのものの限界に見出すのは、この保証の必要性、もっとも単純な構造の特徴、まったく非人格化した、単一の印 trait unique の必要性である。それは単に主体的なあらゆる内容の抽象のみではなく、この印、単一の印であることによって「一」である Un d'être le trait unique この印を超えるすべての変化を抽象する非人格化である。この印が構成する一の基盤づけはその単一性unicité にのみ由来する。これについては何よりも印として構成されるもの、この印に支持されることによって、すべてのシニフィアンに共通するものとしか言うことができない。

われわれの具体的な経験においてこのようなものにめぐり合うことがあるだろうか。これは哲学思想に多大な被害を与えた機能、つまり古典的伝統におけるすべての主体の構成が持っているほとんど必然的に観念論的な傾向にたいして理想化の機能 fonction d'idéalisation を置き換えるということである。

私が自我理想の形態 la forme de l'idéal du moi のもとに説明した構造的必要性がこの機能の上に成立するのである。根源的なシニフィアンへの主体の始源的同一化という、神話的なものではなく、まったく具体的なもの、 プロチヌスの一者からではなく単一の印 trait unique そのものから出発して、知らない者としての主体の展望が厳密に開くのである。今回はもっとも困難なものについて考察したのであって、これを通してより実践的な定式化が可能であることを期待しよう。(ラカン、S.9、22 Novembre 1961、向井雅明試訳)

この一の徴=自我理想はエクリにもたしか二度ほど表れるが今は割愛。

ところで06 Décembre 1961には次のような叙述が現われる。

サド公爵は女性と交渉を持つたびにベットの頭に小さな印でマークした。そして彼は幽閉されるまでこれを続けるのであった。自らの性的遂行の追及においてどこまで到達したかを確めようとするこのような必要性を持つとは、少なくとも性行為という人間の最もありふれた経験が教えることからすると、欲望の冒険によほどのめりこんでいなければまずできないことである。しかしながらサドのように人生の恵まれた時期において十進法の世界の中で自分がどこにいるかわからなくなるというのは考えられないことではない。(ラカン『同一化セミネール』向井雅明試訳)

原文は、par de petits traits chacun des « coups »となっており、« coups »からstrokeが想起される。

この徴もサド独特の「一の徴」ということになる。みなさんも簡単に「自我理想」の徴を得ることができる。ぜひおススメしたい・・・かつてわたくしの友人で陰毛の収集家がいたのだが、あれもひょっとして「一の徴」だったのだろうか?

ところで同じ日のセミネールにこうある。

…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.9,1961-1962)

ドゥルーズ概念として名高い「純粋差異」ともちろん同じ意味合いである。ラカンは後年も次のように言っている。

純粋差異としての「一」は、要素概念と区別されるものである。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(S.19,1971-1972)

なぜこんな「一の徴」がラカン理論の核心ーーそしてラカンにとっては人間存在の核心ーーなのだろうか。

「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)

最初にオカアチャンがわれわれに「一の徴」を刻印してくれるかららしい。

・その徴は、裂目clivage ・享楽と身体とのあいだの分離 séparation de la jouissance et du corps から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription は、この瞬間からその問いが立ち上がる。(S17)

・反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(S.17)

おそらく種々の刻印の仕方があるだろう、「ボウヤ、マンマよ」といいつつを乳房を差し出すのが標準的な最初の刻印ではありはしても、「マンマよ」という声自体がララング(喃語の変種)と呼ばれる刻印であったりするのだろう(いまわたくしはテキトウに記しているのでご注意を)。

主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララング lalangue によって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen「21世紀における話す身体とその欲動 LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDF)

ミレール派の中心人物Pierre-Gilles Guéguenは、この2016年にララングのみを強調している。どうもこのあたりがわたくしには瞭然としない。

オカアチャンの癖がわるかったらオチンチンをさわってばかりかもしれない。とすればオチンチンに「一の徴」が刻印されるのではなかろうか。もちろん肛門の世話に熱心なオカアチャンもいるだろう・・・

とすると生涯クセのわるい人間ができあがる。王家の子供たちはだいたい乳母に世話されてオチンチンを触って寝入らせるくせがあるらしい(噂によれば)。だから王族はだいたいクセが悪い・・・と蚊居肢散人はにらんでいる。

この「一の徴」は、ラカン派でさえーー最も核心的な概念であるのは認めつつもーー明瞭に注釈している人はすくなく(わたくしの知るかぎり)、ラカン自身でさえ最後まで曖昧だったという話もあるくらいで難問のひとつであるらしい。