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2015年11月4日水曜日

「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」)

以下、おおむね資料。

ポール・ヴェルハーゲ『享楽と不可能性』(Paul Verhaeghe enjoyment and impossibility、2006)より(ラカンのセミネールⅩⅦ英訳に付された解説文のひとつ)。

別の解説者の一人ジュパンチッチの指摘を先に付しておこう。

人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、“純粋に”機能することの不可能性inabilityであると。より正確に言うなら、シニフィアンのそれ自身に対するこの不十分性とは、二つの名を持っている。言わば、二つの異なった実体entitiesにおいて現われるのだ。それはラカンのディスクール理論のシューマにおける二つの非シニフィアン化要素nonsignifying elementsである。すなわち主体と対象aである。シンプルに言おう。主体は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を代表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を代表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動きreferential movementを支えているのだ。他方、対象aは、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽surplus enjoymentと呼んだものである。剰余享楽surplus enjoymentのほかには享楽enjoymentはない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。(When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value(Alenka Zupancic)ーー「享楽とシニフィアン」より)

《享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにある》とは、セミネールⅩⅦになって唐突に出てきたのではない、という観点もあるだろう。

たとえばセミネールⅩⅣには、《すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴 示)することができないこと》とある。

il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( S.14,Logique Du Fantasme)

セミネールⅩⅦの三年後のセミネールⅩⅩ(アンコール)には、まさにジュパンティッチがセミネールⅩⅦから見出したとする考え方と上のセミネールⅩⅣを混淆させたような表現がある。

・il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a), et que l'autre ne saurait dans aucun cas être pris pour un « Un »

・l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre. (S.20)

《〈一〉と autre (つまり,petit a) との関係の不十分性(非十全適合性)》とは、シニフィアン l'« Un » には、常に残余としてのl« autre »があるということだ。


さて、ヴェルハーゲの『享楽と不可能性』からである(途中にあるセミネールⅩⅦ、ⅩⅩの仏原文はわたくしが挿差している)が、ヴェルハーゲ自身もジュパンチッチと同じ口調で、三つの驚きを記している(「三つの驚き」としたが実質上は「二つの驚き」であるとも言える)。


【享楽とシニフィアンとの原初の関係性】

セミネール XVII の驚きをもたらす新しい主題は、享楽とシニフィアンのあいだの原初の関係性という考え方である。その意味は、シニフィアン組織の起源は、享楽と密接に結びつけられていることにかかわる。この考え方は、倫理のセミネール VII とは正反対のものである。そこでは、享楽は象徴界と対立するものと見なされていた。この件にかんして、セミネールXVII におけるシニフィアンと享楽のあいだの連繋はいささか逆説的でもある。(…)ラカンにとってシニフィアンとは、享楽に到達することの不可能の原因でもあり、同時に、享楽の達成への途でもあるのだ。

セミネールの冒頭にて、ラカンはフロイトの Jenseits(彼岸)概念に再訪する。生は死への途における自己流の回り道である。大抵の場合は、終点に到るのにそんなに急ぐことはない(pp.17-18)、と。人は、二人のアルコール依存症者のジョークを想い出させられる。「アルコールはきみをゆっくり殺すらしいぜ」「そうさ、そんなに急ぐことはないだろ?」

ラカンはこの回り道を本能 l'instinct と結びつけている。それは、享楽とある種の知の形式とのあいだを関連付けながらである。

《l'idée de l'instinct est bien l'idée d'un savoir》(S.17)

ーーラカンはここで本能l'instinctと言っていることに注意。

《フロイトのいう欲動 der Trieb を、ただちに本能 der Instinkt の概念に重ね合わせることはできない。本能とは『遺伝によって固定されたその種に特徴的な行動を示すための概念』であり、欲動とはそのような本能からのずれ、逸脱、『偏流 dérive』だからである》(ラカンS.20 藤田博史訳)ーー欲動の最も美しい定義(フロイト=ヴェルハーゲ)


この本能は、父祖伝来の知を含んでおり、生を死への途の上にゆっくり進むようにさせる。

死は享楽の最終的な形式なので、この回り道は同時に享楽への途である。知としての本能の論理は、ある種の知と享楽とにあいだに原初の繋がりがあることを意味する。

《Ce rapport primitif du savoir à la jouissance》(S.17)


【知と享楽のあいだの繋がり】

これはラカンの以前の理論の観点からみれば、さらにいっそう驚きをもたらす新しい主題を提供する。すなわち知と享楽のあいだの繋がりが、主体におけるシニフィアン組織の導入にとって基礎となるのだ。

ラカンはフロイトの反復理論にこの説明を見出している。反復とは、享楽に到達しようとする試みに根ざしている。…だが、ラカンは、フロイトと異なり、この享楽への回り道が歩まれる仕方の独特な詳述(elaboration)を展開する。

この論拠の流れは次の通り。すなわち、享楽は、侵入 irruption を通して、身体に起こる。この侵入は徴を獲得する。その徴は、大他者の介入を通して、身体の上に刻印される inscribed。享楽への途に沿って歩むなか、人は避けがたくこの徴に従うことになる。その徴とは、享楽の途のりの上で、以前に勃然としたもの erected である。本能的な知は、この地図作成の上に接ぎ木される。

《La répétition, c'est une dénotation, dénotation précise d'un trait… que j'ai dégagé du texte de FREUD comme identique au trait unaire, au petit bâton, à l'élément de l'écriture …d'un trait en tant qu'il commémore une irruption de la jouissance. 》(S.17)

※参照:享楽の「侵入」

人はこの論拠の胚芽をフロイトのなかに見出せる。フロイトは、どの母親も子どもを世話しているときに、子どもを「誘惑する」と仮定した。セミネールXXにて、ラカンは「享楽する実体 la substance jouissante」としてのリアルな身体を描いた。その「享楽する実体」のさなかの享楽の初期の経験(侵入 irruption)は、同時に身体の上への刻印を意味する。

《…le jouir d'un corps… d'un corps qui « l'Autre, le symbolise » …et comporte peut-être quelque chose de nature à faire mettre au point une autre forme de substance : la substance jouissante. 》(S.17)




【母のララングの介入・刻印】

これは「使用価値」であり、しかしそれ自体としては、主体の観点からは、享楽について語るには十分でない。不可欠な補足は、母の介入--「母のララング」--である。その介入が、子どもとの交流のうちに、享楽の侵入を徴付ける

この介入を通して、原初の使用価値は、主体と大他者のあいだの弁証法的交換に入っていく。そして享楽の経験は「交換価値」を獲得する。このように、享楽の地図は、徴の記号を通して構築される。

「侵入」と「刻印」の概念的分身 double は重要である。というのは、それが原初の両義性を設置し、この時点以降からのみ、その両義性が拡大していくのだから。侵入は享楽する身体にかかわる。「享楽の存在 being of jouissance」としての身体に。一見したところ、これは前期ラカン理論と完全に符合する。そこでは、享楽は、現実界の審級の何ものかと見なされていた。

他方、刻印は、刻印する何か、あるいは誰かにかかわる。すなわち大他者にかかわる。その上、「大他者の享楽 jouissance de l'Autre」は、セミネールXXにおいて、両義的な表現をもつようになる。そこでは、「大他者」は〈身体〉であると同時に、その身体の上に享楽を徴付ける大他者でもあるのだ。

ーーそもそも〈他者〉とか大文字の他者と訳される"L'Autre"は、「大文字の他」であり、人でなくてもよい。ラカンはすでにセミネールⅩⅣで、《大他者は身体である》と言っている。

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! 》(10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

そして注意しなくてはならないのはこの身体は前期ラカン(鏡像段階)のイマジネールな身体ではないことだ(参照:ラカンの三つの身体)。


【刻印と「一つの徴」】

刻印の最も単純な形式は、「一つの徴 unary trait」である。同一化のセミネール IXにて、ラカンは、主体形成の出発点として「一つの徴」概念を使った。主体は大他者から来る「一つの徴」と同一化する。主体の存在欠如を覆って、各自のアイデンティティを構築するために。

セミネールXVII において、ラカンは「一つの徴」と大他者のあいだの繋がりを、享楽概念を通して展開した。大他者は「一つの徴」を通して、享楽する身体の侵入を徴付ける。強制的な mandatory 反復はーー「強制的な」というのは、その侵入は享楽への途を徴付けるからだがーー、シニフィアンの起源に横たわっている、とラカンは云う。それゆえ、分析家の私たちに関心を与える知の起源である、と。

《…la fonction du trait unaire, c'est-à-dire de la forme la plus simple de marque, c'est-à-dire ce qui est, à proprement parler, l'origine du signifiant. …c'est que c'est du trait unaire que prend son origine tout ce qui nous intéresse, nous analystes, comme savoir. 》(Lacan,Séminaire ⅩⅦ Staferla 版 P.56)


【無頭の知 savoir acéphale】

このようにして、驚くべき結論がもたらされる、人間は、享楽を通して、シニフィアンについて学ぶのだ、と。言い換えれば、享楽はシニフィアン組織への玄関なのである。

刻印の反復は、シニフィアンの基礎を形作る。そして、古来の本能的な知へ、内容を授ける。これは無頭の知 savoir acéphale 、「頭なしの知」、すなわち自己意識なしの知である。これがフロイトが「原抑圧」と呼んだものの核心を形作る。…

その内容の観点からいえば、刻印の反復、無頭の知とは、生と死にかかわる。死に向かった生によって敷き詰められた回り道にかかわる。知として、それは身体に刻印される。身体の上への享楽の侵入は大他者によって徴付けられる。結果として、この知は、原初的に享楽の手段である。これは「話すこと speech」 自体とは殆ど関係ない。構造の問題なのだ。四つの言説理論は、これを最もよく説明している。というのは、実際の発言に先行する基礎的な関係を図示してくれるから。…

※参照:「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe)

…………

※参考

一般によく知られている享楽は次ぎの四種類である。

・剰余享楽 la plus-de-jouir
・ファルスの享楽 la jouissance phallique
・大他者の享楽la jouissance de l'Autre
・意味の享楽 Jouis-sens

他に、セミネール22からセミネール23への移行期に、

・棒線を引かれた大他者の享楽 jouissance de l'Ⱥutre

ーーというのがある。

これはボロメオの輪にあらわれる。




さらには、

・他の享楽 l'autre jouissance
・女性の享楽 jouissance feminine
・大他者の身体の享楽 la jouissance du corps de l'Autre

・享楽する実体 la substance jouissante

ーーがある。わたくしの今のところの理解では、この四つは(最終的には)同じものである。

《 le signifiant se situe au niveau de la substance jouissante》(S.20.p.38)


「他の享楽 l'autre jouissance」と「大他者の享楽  jouissance de l'Autre 」は、(標準的には)別のものであることに注意しなければならない、しばしば「〈他者〉の享楽」と和訳される後者を、その混乱を避けるために、ここでは「大他者の享楽」とした。

[la jouissance phallique vise « L femme » comme S1 mais ne saisit que des objets (a) (objets partiels) et s'avère impuissante à aboutir à la jouissance du corps de l'Autre (l'autre jouissance) ce qui amène à distinguer les conceptions de l'amour physique et de l'amour extatique et l'Aphrodite « Ouranienne » de l'Aphrodite « populaire » ] (S.20.p.76)


ーーもっともこのあたりは実にワカラナイ。

日本の有能な若手ラカン派からも次ぎのような言葉が漏れる。

後期ラカン読むときに結び目の理論を勉強する必要はまったくないと思う。あれを真面目に受け取ってるのはヴァップローとか一部の超マニアックなラカニアンだけで、ミレールはじめ普通のラカニアンはあれを無視した上で、singularitéの議論とか、使えそうなところだけを取り出してる (松本卓也)

Lorenzo Chiesaはラカンの享楽の四つのヴァリエーション、ファルスの享楽 La jouissance phallique、大他者の享楽 La jouissance de l'Autre、他の享楽 JA( l'autre jouissance)、斜線を引かれた大他者の享楽JȺ(La jouissance de l'Ⱥutre)は、事実上すべて対象a(剰余享楽 Le plus-de-jouir)であるとしている。

ラカン後期のセミネール、そのなかでも最も注目に値するのはセミネールXXIIIにて、ラカンは少なくとも四つの異なった享楽概念の形態を活用しているが、にもかかわらず、私の意見では、直接的あるいは間接的に、すべて対象aに繋がっている。(Subjectivity and Otherness A Philosophical Reading of Lacan” 2007ーー超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)

そしてロレンツォ・キエーザは、女性の享楽jouissance feminineとは、アンコールのセミネールでは、他の享楽JAであったものが、ジョイス(サントーム)のセミネールでは、JȺになったとしている。そして、JȺとはΣ(sinthome)サントームのことでもある、と。

ヴェルハーゲはそこまで言っていないが、彼の(2009年時点での)「享楽」の説明は次の通り。これは2006年の論文で、《「大他者」は〈身体〉であると同時に、その身体の上に享楽を徴付ける大他者》とあることの詳述化であるだろう。

以下は上に「大他者」と訳した言葉が「〈他者〉」となっているが、敢えて変更はしない。

しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳ーー「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」より)

…………

※参考2:「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」より

ラカンは、その仕事の展開を通して、ずっと探し求めていた、S (象徴的見せかけ semblance)とJ (享楽の現実界)のあいだの「縫合点」、S と J をひとつにまとめる、あるいは少なくともそのふたつを仲介するリンクを。主な解決法は、まずは、ファルスを欠如のシニフィアンに昇格させること、すなわち去勢のシニフィアンとして、象徴秩序内の享楽の場を保持することだった。その後には、享楽の喪失から生み出される剰余享楽としての対象a自体がある。それは象徴秩序へのエントリーの相対物であり、現実界の享楽のサイドに位置する享楽ではなく、パラドキシカルにも、象徴界のサイドに位置する享楽である。

「リチュラテール Lituraterre 」(Autres écrits 所収)にて、ラカンは、最終的に象徴的松果体(デカルトにとっての身体と魂が交流する身体的な徴である)のこの探求を断念し、ヘーゲリアンの解決法を取った。すなわち、S と J を永遠に分離するギャップ自体がこの二つを一つにまとめるというものだ。というのは、このギャップが各々の二つを構成しているのだから。

象徴界は、己れを十全な享楽から分離するギャップを通して生じる。そしてこの享楽自体は、象徴界のギャップと穴によって生み出された幽霊 specter である。

この相互依存性を示すために、ラカンは「波打ち際 littorale 」という用語を導入する。それは「海岸のような」次元における文字を表している。それによって「ある領域、そっくりそのまま他にとっての前線を作る領域を描くこと、それらの存在は、相互の関係に陥いらない範囲で、互いに異物であるのだ。その痕跡とは知の穴の縁ではないか?」(ラカン「リチュラテール Lituraterre」)

だからラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際 littorale がある」と言うとき、jouis‐sense の喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽の徴示する形式 signifying formula of enjoyment に縮減された文字の jouis‐sense を、である。ここに後期ラカンの最終的な「ヘーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束 convergence は、まさに不一致 divergence によって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

※「リチュラテール Lituraterre 」は、1971年に書かれている(セミネールⅩⅦ(1969-1970)の直後)。