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2015年6月2日火曜日

欲動の最も美しい定義(フロイト=ヴェルハーゲ)

Enfin pour l'instant on a Les Trois Essais sur la sexualité auxquels je vous prie de vous reporter d'ailleurs, dont j'aurai à faire usage, comme j'ai fait autrefois usage de ces écrits sur ce que j'appelle « la dérive » pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (LACAN,Encore,1972–73 )

《きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしは《la dérive》と命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive漂流」と翻訳する》(ラカンセミネールⅩⅩアンコール私訳(イイカゲン訳))

※2015.7.2追記:《dérive de la jouissance[悦の逸脱]と同義の表現として,1973年の Télévision に見出される égarement de notre jouissance[我々の悦のさまよい](Autres écrits, p.534) も想起されます》(7/2小笠原晋也氏ツイート)--とあるようにdérive は「逸脱」とも訳されるようだ。ただし「さまよい」を同義としているので、「漂流」でもおかしくはないだろう。

…………


PAUL VERHAEGHE,の『New studies of old villains』2009から引用するが、書名を訳せば、「古い悪党たちの新しい研究」 とでもできる。ポール・ヴェルハーゲにとっての研究対象である古い悪党たちは二人いる。それはフロイトとラカンである。この二人に対して、それなりの批判(吟味)がなされている論ということになる。

ーーと書けば、誤解を恐れるので、先に、次ぎの文を掲げておこう。これは1998年前後に書かれた論文での見解であり、最近のヴェルハーゲ自身は当時の見解そのままかどうかは窺い知れないが。

ラカンに関するかぎり、彼が構造主義者であるかどうかという問いへ答えるのはやや困難です。このたぐいの論議は、すべて、そこに付随する定義しだいなのですから。それにもかかわらず、ひとつだけは、私にとって、とてもはっきりしています。フロイトは構造主義者ではありませんでした。もしラカンが唯一のポストフロイト主義者、すなわち精神分析理論をほかのより高い水準に上げたとするならば、この止揚(Aufhebung)、ヘーゲル的意味での「持ち上げ」は、すべてラカンの構造主義と形式主義にかかわります。残りのポストフロイト主義者は、フロイトの後塵を拝しています。プレフロイト主義の水準に戻ってしまっているとさえ、とても多くの場合、言いうると思います。フロイトが根本から革新的であったことははっきりしています。彼は、人間の研究の新しいパラダイムに向けて、彼独自による進化を実践しました。フロイトは、あまりにも根本から革新的だったので、それを超えることなど、ほとんど不可能にさえ見えます。だがら、もしラカンが止揚(Aufhebung)したというなら、わたしたちはそれが何の意味なのか説明する必要があります。ラカンはその理論において何を獲得したのか? と。

……この点に関して、最も重要なラカンの構造は、もちろん四つのディスクールにおける理論です。(……)

これらの形式的構造の長所は明らかです。まずなによりも、抽象化の水準で目を瞠る利点があります。たとえばラカンのアルジェブラalgebra。あなたはそれらの“petites lettres”、小さな文字、aやSやA、そしてそれらの間の関係によって、なんでも代表象することができます。まさにこの抽象化の水準で、わたしたちはどの個別の主体も大きな枠組みにフィットさせることが可能になります。

第二に、これらの形式的構造は、血と肉の外皮を十分に剝いでいるで、心理学化の可能性を減少させてくれます。たとえば、ひとが、フロイトの原父とラカンの主人のシニフィアンS1を比較するなら、その差異ははっきりしています。前者なら、誰もが、白い顎ひげの、彼の女たちのあいだをうろつく年配者を思い浮かべるでしょう。S1を使うことによって、白い顎ひげを思い浮かべるのはとても困難です。……これが、このとても重要な機能の別の解釈の可能性を開示してくれます。そしてそれが三番目の長所をもたらしてくれます。これらの構造は臨床上の実践をとても効率的に舵を取らせてくれます。

実に、これは大きな相違をもたらしてくれます。たとえば、主人のディスクールやヒステリーのディスクールをある所定の状況で使うとしましょう。それぞれの式は、あなたの選択した効果を予想させてくれるでしょう。もちろんこのシステムの短所もあります。フロイトの解決法、すなわち神話や古来の昔話に比較して、ラカンのアルジェブラalgebraは退屈で、うんざりさせさえします。実際、それはなんの血も通っていません。というのは裸の骨にしか関心がないのですから、そのために、フロイトの話に溢れかえる想像な秩序の魅惑は完全に欠けているのです。それは支払わねばならない代価です。〔『FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES』(Paul Verhaeghe) 私訳)

…………

さて、「古い悪党たちの新しい研究」からである。この文は敢えて邦訳するまでもないだろうから、英文のままとする。

Freud's most beautiful definition: "a drive is without quality, and, so far as mental life is concerned, is only to be regarded as a measure of the demand made upon the mind for work" (Freud, 1978 [1905d], p. 168), to which he added in 1915: "in consequence of its connection with the body" (1978 [1915c], p. 122).(PAUL VERHAEGHE 2009、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex )

――ヴェルハーゲの論文や書物をこの二年前ぐらいから比較的熱心に読んでいるのだが(わたくしは専門家ではないので、もちろん断続的に、である)、このフロイトの性欲論にある「最も美しい定義」という表現に、既に三度目か四度めぐり合っている。


というわけで、彼に敬意を表して、まずはフロイトの標準的な英訳(Freud - Complete Works. Ivan Smith 2000, 2007, 2010)から拾っておく(独原文から拾うのは遠慮しておく)。ただしこの英訳は、Trieb(欲動)の訳語が、driveではなくinstinct(本能)になっていることで悪評が高い(?)。

本能と欲動をめぐっては、日本でさえ既に1980年代の初め、20代前半の若き浅田彰の次のような指摘がある。

本能という語は、有機体を生のサンスにかなった行動に導くガイドとして機能する内的な情報機構を指し示している。これに対し、過剰なサンスを孕むことによって錯乱してしまった本能が欲動である。例えば、性本能が種の保存のために、「正しい」相手に対する、時宜にかなった、「正しい」性行動を導くのに対し、性欲動は時と場所を選ばずありとあらゆる対象に向かって炸裂する。フロイトが喝破した通り、本来、人間は多形倒錯なのである。「正しい」異性愛のパターンが社会制度として課されねばならないのは、まさにこのためである。また、攻撃本能が適当なシグナルによって解除され、同類の無用な殺し合いが避けられるのに対し、攻撃欲動は見境なしに発動され、恐るべきジェノサイドを現出する。人間の歴史はまさしく血塗られた歴史であり、いかなる社会的規制も、より大きな暴力をもたらしこそすれ、永続的に平和を築くことができなかったというのは、周知の事実である。(浅田彰『構造と力』)

ヴェルハーゲならこうである。

動物にはアウシュビッツもコソボもない。生物学の要素は心理学に転換され得ないし、逆も真である。欲動はこの二つの領域のあいだの中間地帯に現れ、境界線の不可能な越境の効果である。欲動にしばしば伴う怒りも攻撃性も、動物には馴染みのない不能と無力の表現である。動物には本能はあるが、欲動はない。(ポール・ヴェルハーゲ Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE,1998)

さて寄り道が長くなった。まずは『性欲論三篇』1905からである。

By an ‘instinct' is provisionally to be understood the psychical representative of an endosomatic, continuously flowing source of stimulation, as contrasted with a ‘stimulus', which is set up by single excitations coming from without. The concept of instinct is thus one of those lying on the frontier between the mental and the physical. The simplest and likeliest assumption as to the nature of instincts would seem to be that in itself an instinct is without quality, and, so far as mental life is concerned, is only to be regarded as a measure of the demand made upon the mind for work. What distinguishes the instincts from one another and endows them with specific qualities is their relation to their somatic sources and to their aims. The source of an instinct is a process of excitation occurring in an organ and the immediate aim of the instinct lies in the removal of this organic stimulus.¹ There is a further provisional assumption that we cannot escape in the theory of the instincts. It is to the effect that excitations of two kinds arise from the somatic organs, based upon differences of a chemical nature. One of these kinds of excitation we describe as being specifically sexual, and we speak of the organ concerned as the ‘erotogenic zone' of the sexual component instinct arising from it.

手元にある人文書院のフロイト著作集からも抜き出しておくが、何の「美しさ」もない訳文である。岩波新訳ではどうなっているのか、――は知るところではないし、たいして知りたくもない。

「欲動」という名のもとにわれわれが理解することができるのは、さしあたり、休むことなく流れている、体内的な刺激源の心的な代表者以外のなにもにでもないのであって、これは個別的な外部からやってくる興奮によってつくりだされる「刺激」とは異なるものである。だから欲動は心理的なものを身体的なものから区別する概念の一つである。The concept of instinct is thus one of those lying on the frontier between the mental and the physical. この欲動の本性についてのもっとも単純でもっともらしい仮定は、欲動はそれ自身いかなる性質をももたず、心的生活に対する作業促進の尺度として問題になるのすぎない、というものだろう。あまたの欲動をそれぞれ区別して、これに特殊な性格を付与するのは、その身体的な源泉やその目標に対する欲動の関係なのである。欲動の源泉はある器官のなかで起こる刺激的な過程なのであって、欲動の当面の目標はこういう器官の刺激を除去することにあるのである。(フロイト1905、性欲論三篇、P35)

次ぎはヴェルハーゲ曰く、フロイトが1915年に付け足したとされる"in consequence of its connection with the body"の箇所(『欲動とその運命』)から。

If now we apply ourselves to considering mental life from a biological point of view, an ‘instinct' appears to us as a concept on the frontier between the mental and the somatic, as the psychical representative of the stimuli originating from within the organism and reaching the mind, as a measure of the demand made upon the mind for work in consequence of its connection with the body
次に生物学的側面から精神生活を考察してみると、「欲動」は精神的なものと身体的なものthe somaticとのあいだの境界概念であるように思われる。すなわち欲動は肉体organism内部に由来して、精神の中に到達する刺激の心的代表者であり、肉体body的なものとの関係の中で、精神的なものに課せられる活動要求を測る一つの尺度である。(フロイト1915、欲動とその運命、p63)

 …………

※追記


冒頭近くにやや曖昧に、《フロイトが根本から革新的であったことははっきりしています。彼は、人間の研究の新しいパラダイムに向けて、彼独自による進化を実践しました。フロイトは、あまりにも根本から革新的だったので、それを超えることなど、ほとんど不可能にさえ見えます》(1998)というヴェルハーゲの見解は当時のままかどうか窺い知れないと記したが、その所以は次ぎの文を読んだせいである。別の話題をめぐってすこし前、雑に訳したものだが、この文が活用できるのはいつのことになるやらわからないので、とりあえずここに先に貼り付けておこう。同じ、PAUL VERHAEGHE,の『New studies of old villains』2009からである。


実のところ、母が行ったり来たりすることは、幼児にとって予測できない。その意味は、母の欲望は予測できない、故に脅迫的だということだ。それが脅迫的というのは、幼児は、判然としない理由でそこにいたりいなかったりする誰かに依存しているからだ。そのとき、母は子どもを超えて別の関心があることがはっきりする。すなわち、母の行ったり来たりは、まずは〈父〉への欲望によって決定づけられている。母の欲望に対して不快感に襲われる幼児の感覚は、幼児が母の欲望を象徴的・ファルス的用語でシニフィアン(意味づけ)出来るときに鎮められる。この意味は、母もまた規則に隷属している、すなわち社会の法と構造に服従しているということだ。そしてそれは父の名を通してシニフィエされる。

これらの相違点にもかかわらず、この点までのラカン理論は、フロイト理論と根本的に異なるところはない。しかし父の隠喩を導入した後すぐさま、ラカンは1960年に、象徴秩序における構造的に決定づけられた欠如の考え方を提示する。これはラカン自身の(そしてフロイトの)以前の論拠からのラディカルな旅立ちをしるすものだ。そして、フロイト用語では殆ど言い表せない何か根本的に新しいものを導入している。父の名は、もはや〈他者〉の、すなわち象徴秩序の、保証ではない。逆も同様である。反対に、〈他者〉の〈他者〉はいない("il n’y a pas d’Autre de l’Autre")。

以前は、父の名は父(の機能)の保証だった。丁度、フロイトの原父がどの父をも基礎づけたように。今や、父の名が保証するものは〈他者〉のなかの欠如である。あるいは主体の象徴的去勢である。そして象徴的去勢を通して、主体はあらゆるものを取り囲む決定論から離れ、彼(女)自身の選択が、たとえ限定されたものであるとはいえ、可能となる。

この変貌の波紋は、ラカンのその後の仕事全体を通して、轟き続けた。まさに最後まで、絶え間なく寄せてはかえす波のように。実に理論の最も本質的なメッセージは、どの理論も決して完璧ではないということだ。循環する論述によって組み立てられた閉じられたシステム、それを我々はフロイトとラカンとともに以前は見出した(原父や父の名によって保証される父、逆も同様)。だがそれは一撃で破棄された。

同時に、新しい問題が出現する。構造的欠如を基盤とする象徴秩序において、要素を結びつけたり統合するものは何か? この問題は一見アカデミックなもののようにみえるが、そうではない。究極的には、人のアイデンティティにおいて要素を結びつけるものは何かという問いに関わるからだ。このときまでに、ラカンは常に強調していた、主体性における根本的な疎外と分裂を。そこでは統一の感情は脇に置かれていた。後者(統一感)は父の名の効果だと想定された。

ラカンがこの理論から離れたとき、彼は、人のアイデンティティにおける主体の統一感のために別の説明を生み出さねばならない。ラカンは休むことなしに続けた、次のような用語を再公式化したり言い換えたりと。「父の諸名」という複数形から、おそらく基礎的かつひどく格言的な「〈一者〉があるil y a de l'Un」まで。しかし、ラカンの絶え間ない問いは事態を明瞭化することに貢献しない。そして最終的な答が欠けている。皮肉なことに、これはラカンの新しい理論の本質と極めて首尾一貫したものだ。

…………

※追記2:

フロイトの「性欲論」と「欲動とその運命」の原文は次ぎの通り。

◆Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie

Unter einem »Trieb« können wir zunächst nichts anderes verstehen als die psychische Repräsentanz einer kontinuierlich fließenden, innersomatischen Reizquelle, zum Unterschiede vom »Reiz«, der durch vereinzelte und von außen kommende Erregungen hergestellt wird. Trieb ist so einer der Begriffe der Abgrenzung des Seelischen vom Körperlichen. Die einfachste und nächstliegende Annahme über die Natur der Triebe wäre, daß sie an sich keine Qualität besitzen, sondern nur als Maße von Arbeitsanforderung für das Seelenleben in Betracht kommen. Was die Triebe voneinander unterscheidet und mit spezifischen Eigenschaften ausstattet, ist deren Beziehung zu ihren somatischen Quellen und ihren Zielen. Die Quelle des Triebes ist ein erregender Vorgang in einem Organ, und das nächste Ziel des Triebes liegt in der Aufhebung dieses Organreizes.

◆Triebe und Triebschicksale

Wenden wir uns nun von der biologischen Seite her der Betrachtung des Seelenlebens zu, so erscheint uns der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem, als psychischer Repräsentant der aus dem Körperinnern stammenden, in die Seele gelangenden Reize, als ein Maß der Arbeitsanforderung, die dem Seelischen infolge seines Zusammenhanges mit dem Körperlichen auferlegt ist.

藤田博史氏の次のような訳文にめぐりあったので追記しておく。

「・・・・・《欲動》は、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenz-begriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代表 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。」(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)
「フロイトのいう欲動 der Trieb を、ただちに本能 der Instinkt の概念に重ね合わせることはできない。本能とは『遺伝によって固定されたその種に特徴的な行動を示すための概念』であり、欲動とはそのような本能からのずれ、逸脱、『偏流 dérive』だからである」(ラカンS.20 藤田博史訳)