《精神分析は入り口に「女性というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はありません。というのも、そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめるのです。》(ミレール『もう一人のラカン』)
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以下、ポール・ヴェルハーゲのPAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009(「古い悪党たちの新しい研究」)におけるフロイトの(悪評高い)女性論のまとめ箇所の抜粋(私訳)。
一連の文章だが、やや長いので段落を分けて小題をつけている。
【10年のあいだ〈女〉を探し求めたフロイト】
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以下、ポール・ヴェルハーゲのPAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009(「古い悪党たちの新しい研究」)におけるフロイトの(悪評高い)女性論のまとめ箇所の抜粋(私訳)。
一連の文章だが、やや長いので段落を分けて小題をつけている。
【10年のあいだ〈女〉を探し求めたフロイト】
フロイトの自伝(『自己を語る』(……)、最初のヴァージョンである1925年版においては、エディプスコンプレックスは次のように要約されている。少年は性的欲望を母へと集中する。それ故、ライバルである父に対して憎悪感を育む。少女にとっても、類似した状況が当然の如く起る。欲望される対象としての父とともに、母はライバルの役割が授けられる。10年後、フロイトは注を付し、このエディプスの発展の問題において、少年と少女のあいだに想定された類似性を廃棄する。この10年のあいだ、フロイトは〈女〉を探し求めていた。結果として、彼は母に遭遇したのだ。(……)
このフロイト理論の箇所は、比較的よく知られている。というのは、主にその議論の余地が大きい特徴のせいである(Grigg, 1999)。…まず問題含みの箇所を要約してみよう。
少年も少女もともに、母が最初の愛の対象である。息子にとっては、前エディプス期、エディプス期ともに、母は愛の対象のままである。そこで、父の介入がはっきりした効果を生む。すなわち去勢コンプレックスである。去勢不安のせいで、母は(愛の)対象としては放棄される。そして父の権威の内面化が生じる。このように、男性のエディプスコンプレックスは、去勢を施す父への恐怖の影響で、超自我を形成して終わる (『エディプスコンプレックスの消滅』 [1924])。近親相姦の禁止が、族外愛の強制を伴って設置される。いったん男になったら、以前の息子は性交にも同様にアクセスするが、他の女に対してである。この移行が常にはスムーズにいかないことは、既にフロイトによって、偉大な臨床的手練を以て叙述されている (『男性に見られる対象選択の特殊なタイプについて』[1910])。
事実上、前エディプス期の発見は、男-息子にかんするフロイトのエディプス理論に大きな変更を与えていない。ただ一つの例外がある。母はもはや、単に欲望される対象、受身の対象ではなくなる。彼女は前エディプス期の中心的形象となる。
【少女の愛の対象の母から父への移行】
少女にとっては、事態ははるかに複雑である。前エディプス期のあいだ、彼女は母に向けて能動的な愛の衝動をもつ。それは少年と同様である。だが、それからどうやって正式の愛の対象、すなわち父への移行が起るのか? フロイトによれば、これは少女によるペニスの発見と「ペニス羨望」の出現によって引き起こされる。少女がペニスを与えられていないという事実は、劣等感と嫉妬感の上に、彼女は憎悪を以て母から身を翻し父へと向かうことを意味する。父へと向かうのは、彼女に欠けているものを父から受け取ろうと希望するからである。去勢不安の女性版対応物、ペニス羨望は、このようして、エディプスコンプレックスの設置を引き起こすものとなる。そこでは、少年側は事実上、エディプス期の終焉の始まりなのだが(『解剖学的な性差の若干の心的帰結』[1925])。フロイトにとって、女性のエディプスコンプレックスは男性と同じような明確な終焉点をもっていない。そしてこれは、女性の超自我が男性のそれのような厳しさを獲得することが決してないのを説明する。
【二重の置換:クリトリス→ヴァギナ、母→父】
フロイトは二つのジェンダーのあいだの相違を、少女にのみ当て嵌まる二重の置換にて要約している。まず最初に、少女は性感帯を変えねばならない。男根的クリトリスはヴァギナと交換されねばならない。第二に、対象が変更されねばならない。父が母の場を占めるのだ(「女性性」[1933])。
この二つの移行は、さらにはっきりと解明され得る。最初の移行は、能動的・男性的クルトリスが、受動的で迎え入れる性質をもつ女性的ヴァギナと交換されなけばならないことを意味する。対象としての父への移行は、さらに二つの含意がある。第一に、もともと父から来るものとして欲望された対象としてのペニスは、子ども(赤ん坊)への欲望に変換されねばならない。第二に、この子どもは結局、男、彼女の男から欲望されなければならない。この男とは、彼女の父の場所を代わりに占める男だ。結局、フロイトは次のように書くことになる、女も後年、彼女の後の愛の対象として自分の母を探し求める、丁度どの男もそうするように、と(『女性の性愛』 [1931])。
【女になることの困難】
このように考えると、女になることはひどく複雑で困難な試みであるだけでなく、希望をもてないものになってしまう。注意深い読み手なら気づくことだろう、我々は振り出しに戻っていると。すなわち、母とともに始まり、最終的に母に戻るのだ、その母とは、すなわち、彼女自身が母となる少女である。さらに全体の過程は、男-父によって指図されている。男-父が事実上、女-母を生むのだ。この理論は数多くの拒絶反応を引き起こした。それがフェミニストからだけではないのは、驚くことではない。臨床的実践がたいした立証をもたらさないため、批判はさらに強くなる。
実際、ペニス羨望の存在はまったく明らかではない。そしてすべての娘が母から身を翻すわけではない。なぜ少女は父に向けて移行すべきなのか? フロイトの説明ーーペニスの欠如の発見に従った少女にとってのナルシシスティックな屈辱感が、少女を母から身を翻させて父に向かわせるーーこれは、ポストフロイト時代を通して、ひどく疑われた。そしてフロイト自身の論拠においてさえ、あのような展開は袋小路に行き着く。すなわち、少女は女にならない。単に母に変身させられるだけだ。こういったわけで、全く異なった解釈が可能だ。
【受動的ポジションから能動的ポジションへ】
袋小路はしばしば誤った前提の結果である。対象の変更のための動機としてのペニス羨望を、さらにもう少し検討しなくてはならない。フロイトが(少女が)母から身を翻す動機としてペニス羨望を議論したとき、彼は常に数多くの他の動機に言い及んでいた。それらは通常、ポストフロイト派の議論において無視されてしまっているが。
その動機の内で、中心的なものは、受動的なポジションから能動的なポジションへの移行である。我々はこう言うことさえできる、他者の他者であることから主体性への移行だと。ペニス羨望や去勢不安を言う前に、子ども、少年も含んだどの子どもも、既に、母との関係における受動的なポジションから離れて、能動的ポジションに移行しようと試みる。
【原不安としての分離不安と融合不安】
フロイトとともに、私はこの移行に、はるかに基本的な動機を見分ける。すなわち、最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的なsomatic未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。
そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。
フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安fusion anxietyと呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。
このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。
【ラカンの考え方】
ラカン理論は後者を強調した。そしてそれを母なる〈他者〉 (m)Otherに享楽される単なる対象に格下げされる幼児の不安として解釈した。フロイトの受動的ポジションと同様に、である。
これはラカン理論における必要不可欠な父の機能を説明する。すなわち第三者の導入が、二者-想像的段階にとって典型的な選択の欠如に終止符を打つ。第三者の導入によって可能になる移行は、母から身を翻して父に向かうということでは、それ程ない。むしろ二者関係から三者関係への移行である。これ以降、主体性と選択が可能になる。
【エディプスコンプレックス劇場】
「前エディプス」期に先行されるエディプスコンプレックスという考え方は、主体の母、あるいは父への各々の焦点の輪郭を描くことになる。エディプスコンプレックス劇場では、全体として、父母の両方の人物像の配役がある。中心的な登場人物は母を以て始まる。母は、どの子ども、そのジェンダーにかかわりなく、いずれの子どもにとっても、最初の愛の対象である。この最初の関係は、とても特徴ある配役設定をもたらす。
一方で、能動的権力の体現者としての母がいる。拒絶したり、供与したり、さらに悪い場合は、不在である。他方、受動的で、受け取るしかないポジションの幼児がいる。そこでが選択は限られており、受諾か拒絶しかない。
ーー《エディプスコンプレックス自体が、症状である》(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ)
成人の神経症者に見られるいわゆる全能感は、想定された幼児期の全能感に戻ることではない。そうではなく、母の全能性への幼児期の同一化である。実に "Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut"(女が欲することは、神も同様に欲する)は次のように読むべきだ、"Ce que la maman veut, Dieu Ie veut" (母が欲することは、神も同様に欲する)と。既に(フロイトの症例ハンスの)小さなハンスが知っていた通りである。
もっとはっきり言うなら次の如し。成人の神経症の全能感は、幼児のファリックマザーとの同一化に戻ることだ(Lacan, 1994 [1956-57])。その意味は、ファリックマザーとは、欠如なしの母であり、母は子どもによってそう感受される。パラノイアが我々に示すのは、この関係性が取る病理的な形式である。より詳細には、母に殺される・貪り食われる・毒される恐怖である(フロイト『女性の性愛』 [1931])。
フロイトの所見によれば、受動性は常に独特の反応を伴う。すなわち能動的反復である。人が受動的に経験しなければならなかった物事の能動的反復である(フロイト『女性の性愛』 [1931])。前エディプス期の母-子どもの関係はこの規則の例外ではない。
子どもは能動的に振舞いたい(上演したい)のだ、母から受動的に我慢せざるを得なかったことを。最初の移行は、母乳を飲まされることから能動的に乳を啜ることの段階にかかわる。それは場合によって口唇-サディスティックな局面を伴う。病理的事例では、これは間違えようがない。母に向けての攻撃的な口唇-サディスティック衝動はその反対物を見出す。母に殺される恐怖である。
この口唇期の例は単なる暗号ではない。実際、二つの対立する極ーー能動性対受動性ーーは、母と子の関係における享楽の局面に関係する。
受動の極から能動の時空への移行をする子どもの試み(それは少女だけではなく少年も同様)は、次のように理解されなければならない。すなわち、(母の)享楽の受動的対象にあるポジションから逃れ出し、快の能動的コントロールに向かう試みだと。
【子どもを誘惑する母】
最初期の理論にて、フロイトは、父による誘惑という考え方と神経症者にとっての基盤として幼児の性的トラウマを唱えた。神経症の遍在はこの考え方から距離をとることを余儀なくさせたのだ、もっとも実際にはそれを廃棄することは決してなかったが(Freud, letter to Fliess, September 21, 1897 [1978 (1892-99)])。
三十年後、彼はこの考え方を定式化し直した。原初の誘惑は、保育する状況以外の何ものでもない。母が子どもをある享楽の形式に「誘惑する」のだ。後ほど、すなわち最終のエディプス段階に過ぎない、誘惑者のポジションが、子どもの想像力のなかで父に移行するのは。
ついにフロイトは見出したのだ、想定されたトラウマ的誘惑の遍在にとっての本当の基盤を。どの保育状況も、潜在的に、誘惑的であり享楽的である。このまさに同じ状況における、トラウマ的で故にぞっとさせる側面は次の事実に関係する。すなわち、主体は他者の享楽の受動的対象のポジションに陥れられることである。そのような関係の原初のヴァージョンは、初期エディプスの、母と子のあいだの紐帯である。
【二者関係から三者関係へ】
この二者関係からの退出は、第三の形象、父によって可能になる。それは受動的から能動的なポジションへの移行を伴っている。
初期ラカンの枠組み内での類似の論考は次の通り。子どもはもともと二者関係内で母の享楽の受動的対象である。この享楽は、シニフィアンの象徴的秩序外部に位置するため、シニフィエ(意味づける)ことが不可能である。
ふつうは、父の介入が、意味作用と規制を導入することを通して、象徴秩序を導入する。ふたたび注意すべきなのは、この論旨において、フロイトとラカンともに、危険は母にあり、救いは父にあるということだ。二人のあいだの相違は、ラカンにとって、原父どころか父自身でもなく、父の象徴的機能にアクセントが置かれていることである。
【補遺】--ここまでは一連の文章だが、以下は同じ書物の別の箇所から抜き出している。
後期の理論で、ラカンはフロイトの錯誤を公然と非難した。
それにもかかわらず、現在、フランスに精神分析のある保守的な層において、権威ある父の再生された懇願が聞かれうる (NAOURI , A. 2004)
この非難はラカンのセミネールの極めて後期に現れる。それ以前は、フロイトとラカンは異なった時代に書いているにもかかわらず、彼らの理論は、この点に関して、とてもよく似ている。二人ともエディプス理論を展開したのだ。それは父への懇願であったり、父への謝罪でさえある。その父とは、母に関する欲動に駆られた危険に対する不可欠な保証人である。
この二人のあいだにある最も重要な相違は、フロイトにとって、危険は、母への子どもの欲望(事実上、息子の欲望)を起源とすることだが、ラカンにとっては、全く反対方向だということだ。すなわち彼にとっては、子ども(事実上、息子)をあまりにも欲望する母に起源があるということだ。
この相違を脇にやれば、彼らの理論は似通っており、どちらも絶大な権威をもった父の形象から解決を期待している。まさに彼らの理論のこの側面が、私が考えるに、底辺に横たわる問題への神経症的な応答、その治療上の(理論の媒介による)承認に過ぎないのだ。後に詳述するが、この問題は、ラカンがその後期理論にて理解したものとしての「享楽」概念にすべてが関係する。
ーー以上のヴェルハーゲの叙述において注目すべきなのは、フロイトの「去勢不安」(かつ「ペニス羨望」)を、ふたつの原不安である分離不安と融合不安として再構成したことだ。
そして「分離」と「融合」という言葉は、タナトスとエロスにかかわる用語である。
エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)
《ますます大きな統一に包括しようと努》めることは、「融合」であり、かつエロス欲動である。
《統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする》ことは、「分離」であり、タナトス欲動である。
ただし上に抜き出した箇所だけでは、なぜ一般的に女性が男性を愛するようになるのかの説明が不十分である。だが、それについてはヴェルハーゲはかつてからくり返しているので、ここでは省いたと思われる。たとえば、1998年に上梓された書にはこうある。
【男の子と女の子の愛の対象】
男児はジェンダー的な意味での最初の愛の対象を維持できる。彼はただ母を他の女性に取り替えるだけでよい。これは次の奇妙な事実を説明してくれる。つまり結婚後しばらくすれば、多くの男たちは母に対したのと同じように妻に対するということを。
反対に、女児は愛の対象のジェンダーを取り替えなければならない。具体的にいえば、最初の愛の対象であった母を父に取り替えなければならない。最初の愛の関係の結果、女の子はいままでどおり母に同一化しており、それゆえ父が母に与えたのと同じような愛を父から期待する。これは同じように奇妙な次の事実を説明してくれる。多くの女たちは妻になり子供をもったら、女たち自身の母親のように振舞うということを。
この少女たちの愛の対象の変換の最も重要な結果は、彼女たちは関係それ自体により多く注意を払うようになるということだ。それは男たちがファリックな面に囚われるのと対照的である。少女における、対象への或いはファリックな面への興味の欠如と、関係性への強調は、後年、その関係を願う相手は、(ひとりの)男とである必要はない結果を生むかもしれない。結局のところ、彼女の最初の対象は同じジェンダーであり、思春期の最初の愛はほとんどいつも他の少女に向けられることになる。(Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、Paul Verhaeghe)
そしてジジェクなら、こういった考え方から次ぎのように言うことになる。
【女はパートナーに依存することが少ない】
男は自分の幻想の枠にフィットする女を欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底的に男のなかに疎外する(男のなかに向ける)。女の欲望は男に欲望される対象になることである。すなわち男の幻想の枠にフィットすることであり、女は自身を、他者の眼を通して見ようとするのだ。“他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?” という問いにたえまなく煩わせられている。しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ないのだ。というのは彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、ギャップ自体、パートナーからの距離なのだから。そのギャップ自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェクZizek『Less Than Nothing』 2012)
《女は、はるかにパートナーに依存することが少ない》とは一見、奇妙かもしれない。それについては、仏女流分析家第一人者のコレット・ソレールの考え方によれば次の通り。
【失恋による〈他者〉としての彼女自身の喪失】
女性が失恋したとき、悲しみへの没入、あるいは自傷行為さえもしばしば起こる。とはいえ、どうしてこの喪失がそんなに絶望的な反応を引き起こすのだろう?ラカンに依拠しつつ、コレット・ソレールは、それは女性の享楽の特質のせいであると主張する。人は女性のなかに選択された愛への特別な呼びかけを見出す。それはファルスの享楽と女性の享楽のあいだの不調和を解消し得ない。
「愛は彼女から立ち去る。そのとき、彼女の他者性とともに独りぼっちだ。しかし少なくとも、愛が齎した〈他者〉は、彼女の愛人の名ともに彼女を刻印する。ロメオによってジュリエットは永遠化され、トリスタンによってイゾルデ、ダンテによってベアトリーチェ…。私たちはこの事実から推しはかることができる、女にとって、愛の喪失は、フロイトが還元してしまったファリックな局面を超えたものだということを。愛を喪ったことで女が喪失したものは、彼女自身、〈他者〉としての彼女自身なのだ。」(Colette Soler, “A ‘Plus' of Melancholy 1998)ーー(Renata Salecl,Love Anxieties 2002 私訳)
《男にとって〈女〉は〈他者〉だが、女にとっても〈女〉は〈他者〉である》“woman is the Other for both men and women。”(Miller)。ーー男と女をめぐって(ニーチェとラカン)
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※附記:ラカンの『ファルスの意味作用』より
【去勢感をおぼえる少女】
幼い少女は、一時的であるにせよ、ファルスを奪われたという意味で自分は去勢されたと考えます。少女は自分を去勢した相手を、まず最初は自分の母親であると認識し、そして――これ〔=この転換〕が重要な点なのですが――、続いて自分を去勢したのは父親である、と認識するようになりますが、これは一体何故なのでしょうか。ここに言葉の分析的な意味における転移を認めなければならないでしょう*7
※注7
去勢を施したのが最初は母親であり、次に父親であると思うという少女における現象には、転移が認めらる、ということ。フロイトの論文「女性の性愛について」では、女性において、父親に対して特に激しい愛情が存在する場合には、それ以前に、同じように強い愛情を母親に注いだ時期があったことを指摘している。つまり、幼い少女の心的生活において、愛情の対象を母から父に取り替える作業が行われるのである。ラカンはこのことを「父性隠喩」という概念で論じる。cf.Lacan, S4, Jb225/Fr367.「母による去勢の先行性があり、父による去勢はその代入です。」その他、 S5, Ja253-257/Fr173-176.など。
【ファリック・マザー】
次は、さらに根源的な話になりますが、少女だけでなく少年も、母親をファルスを授けられたもの、つまり、いわゆるファリック・マザー*8として考える、ということは一体どう解釈すればよいのでしょうか。
※注8
ファリック・マザー[mere phallique]は、男性同性愛の構造の問題と関わっている。ラカンは、男性同性愛ではエディプスの三つの時において、法をなしたのが父ではなく母であり、母が父に対して法をなしたことを強調している。反対に、異性愛者では父が母に対して法をなす。cf.S5, Ja305-310/Fr208-212ならびにS5, Jb392/Fr516. セミネール5巻でのファリック・マザーについての言及はもう一箇所あり、そこでラカンは、服装倒錯では主体がファリック・マザーに同一化しているとの俗見を排して、服装倒錯の主体が同一化するのは、母の衣装の下に隠されたファルスに対してであると主張している。cf.S5, Ja270/Fr184.
【母の去勢】
去勢の意味作用[signification]が症状の形成に関して、かなりの重みを担っていることは臨床的に明らかなとおりですが、〔上にあげた二つの問題と〕相関して、それ〔=去勢の意味作用による症状形成〕は、その去勢が「母の去勢」であると発見されることに基づいてのみ起こる*9、というのは、一体どうしてなのでしょうか。
※注9
母の去勢によって、事後的に去勢コンプレックスが確立される、ということ。セミネール5巻「エディプスの3つの時」の講義と、当論文の後半の議論を参照のこと。
※参照:母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢
【クリトリスの自慰の享楽】
以上三つの問題は、最終的には、発達において「ファルス期〔=男根期〕」*10が存在するのは何故なのか、そして何のためなのか、という問題に至ります。みなさんご存知の通り、フロイトは最初の生殖的成熟について言及するに際してこの〔ファルス期という〕用語を使っています。フロイトは、ファルス的属性の想像的優位や自慰の享楽がファルス期の特徴であるとしているようです。しかしまた一方で、フロイトは次のようにも言っています。つまり、この〔自慰の〕享楽は女性の場合ではクリトリスに局在させられ、それによって〔女性にとっては〕クリトリスがファルスの機能へと昇格するのである、と。フロイトはこのようにして、このファルス期の終わり、つまりエディプス・コンプレックスの解消が起こるまでは男性においても女性においても膣を生殖的な挿入の場所として本能的にマッピングすることがまったく起こらないとしているように思われます。
※注10
幼児(ファルス期)の性生活は成人(性器期)の性生活と酷似しているが、幼時期の体勢においては、両性において一つの性器(つまりファルス)だけが重要な役割を果たしている、とフロイトは指摘している。(フロイト「幼児の性器体勢」、『エロス論集』pp.204-5.)
【膣への無知】
このような〔ファルス期において、膣を性的な挿入の場とみなさないという〕無知[ignorance]は、技法的な意味での用語としての「誤認 [meconnaissance]」の疑いが大いにあります。また、このような無知は、ときに捏造された無知であることもあるだけに、いっそう「誤認」の疑いがあるのです。ロンゴスは、ダフニスとクロエー〔という二人の男女〕の性行為が開始されるためには、ある老女の説明が必要であった、という寓話*11を描きましたが、この寓話はまさにこのような誤認と合致しているのではないでしょうか。
※注11
cf. ロンゴス『ダフニスとクロエー』松平千秋訳、岩波文庫、1987. ロンゴスの牧歌劇[pastorale]『ダフニスとクロエー』についてラカンは何度か言及しているが、とりわけS11, J265/Fr186.を参照。「性的関係というものは《他者》の領野の偶然に任されているのです」。その他、E669等。