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2015年4月4日土曜日

母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢

〔エディプスの衰退、父への同一化に〕先立って、父が母を剥奪するものとして機能し始める瞬間があります。つまり、父が母とその欲望の対象との関係の背後に、「去勢するもの」として姿を現す瞬間があるのです。(……)この場合、去勢されるのは主体ではなく、母だからです。(ラカン セミネールⅤ)

さて、このセミネールⅤでラカンは何を言っているのだろう。まずはなによりも「去勢」は子供の去勢ではなく、母の去勢であるということだ。母の去勢? 母にはおちんちんはもちろんない。だがファルスはある。母のファルス、想像的ファルスである。

以下にジジェクの2012年に上梓された文章を英文のまま付す。

The most important part of the imaginary is what cannot be seen. In particular, taking the pivot of the clinical practice that, for example, is developed in Seminar IV, La relation d'objet, it is the female phallus, the maternal phallus. It is a paradox to call it the imaginary phallus when precisely one cannot see it; it is almost as if it were a question of imagination. In Lacan's celebrated observations and theorizations on the mirror stage, Lacan's imaginary register was essentially linked to perception. While now, when the symbolic is introduced, there is a disjunction between the imaginary and perception, and in some way this imaginary of Lacan is linked to the imagination. … This implies the connection of the imaginary and the symbolic and thus a thesis that is separated from perception: the image is a screen for what cannot be seen. Insofar as the maternal phallus is by definition veiled, this brings us to the positive/constitutive ontological function of the veil: the image/screen/veil itself creates the illusion that there is something behind it—as one says in everyday language, with the veil, there is always “something left to the imagination.”(ZIZEK、LESS THAN NOTHING)

※末尾に私訳貼付有り。


さて、すこし前に戻れば、ラカンはこう言っていることになる、《父は、母に介入し、禁止を命ずる。お前は、お前が生み出したもの(想像的ファルスとしての子供)を取り返してはいけない!と》。

人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。(……)

子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。(向井雅明――「鰐なる母=女の口、あるいは象徴的ファルスと想像的ファルス」)


 ラカンは後年も次のように言っている。

フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていません。つまり去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよ と脅かすパパからくるものではないのです。 「(テレヴィジョン」)

フロイトは「母の去勢」についてこう書いている。

人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの別離を意味し、母の去勢(子供すなわち陰茎の等式により)に比較できるかもしれない。(フロイト『制止、症状、不安』)

この根源的な不安を「去勢」やら「ファルス」用語で説明するのは、《有機体の水準での根源的な喪失を、主体と〈他者〉のファルスの欠如として再-解釈》(ポール・ヴェルハーゲ)しているだけという見解もある。

この「母の去勢」は、むしろ出産外傷、あるいは原トラウマ、もし「去勢」という語を使いたいなら、「原去勢」にかかわるといってよいのかもしれない。

ランクは出生という行為は、一般に母にたいする(個体の)「原固着」Urfixerungが克服されないまま、「原抑圧」Urverdrängungを受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出生外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。後になってランクは、この原外傷Urtraumaを分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

ラカン自身、オットー・ランクの「出産外傷」と似たようなことをいっている。

根源的な喪失とはなにか。永遠の生の喪失である。それは、矛盾しているように思われるかもしれないが、性的存在として産まれた瞬間に喪われる。(ラカン セミネールⅩⅠ)

わたくしは、小笠原晋也氏の独特のマテームφ barréを「原去勢」、あるいは「出産外傷」と読む。以下、小笠原氏の説明を付すが、氏は独特の訳語を使い馴れないと読みづらい。以下の「徴象,影象,実在」は、通常、「象徴界、想像界、現実界」である。「徴示素」はシニフィアン、「悦」は享楽、「学素」はマテームである。

…phallus についてですが,Lacan は精神分析において三つの phallus を区別するよう教えています.それは,徴象,影象,実在の三つの位に応じての区別です.

まず「去勢の影象的な関数」としての phallus : ( - φ ) があります.第二に「悦の徴示素」signifiant de la jouissance と規定される phallus : Φ があります.第三に,signifiant de l'Aufhebung, signifiant de la perte と Lacan が呼ぶ phallus : φ barré があります.この学素はわたしの工夫ですが,その概念はちゃんと Lacan のなかにあります.

以上の三つの phallus はいずれも signifiant ですが,( - φ ) は imaginaire, Φ symbolique, φ barré は réel の位にそれぞれ位置づけられます.

他方,去勢とは何でしょうか?精神分析において去勢は,基本的に,去勢複合,すなわち,去勢不安として問題になります.そして,去勢不安という表現は冗長であって,精神分析においてかかわる不安はすべて去勢不安です.去勢との連関における不安です.

不安は,a が φ barré を代理する限りにおいて,a との出会いにおいて惹起されます.つまり,去勢とは φ barré そのものです.かくして,phallus と去勢との関繋を整理すると,こうなります.まず,φ barré は去勢そのものです.

( - φ ) は φ barré の影象的な相関者であり,女の欠如せる phallus です.最後に Φ は,男の性別構造において φ barré の穴を塞ぐ仮象であり,(……)男において特に強い精神分析への抵抗(男性的抗議)を惹起するものです.

ですから,le phallus est le signifiant de la castration とひとくちに Lacan が言ったことは無いのではないでしょうか?勿論,そう言ったこともあったかもしれませんし,それはそれで,上述の三つのうちいずれを意義しているのか読解できる だろうと思いますが,先ほど Lacan のおもだったテクストを見た限りでは,le phallus est le signifiant de la castration ともろに言われている箇所は見つかりませんでした.代わりに,わたしの引用した表現は,Lacan 自身のものです.(ラカンの S(Ⱥ)をめぐって

小笠原晋也氏自身、オットー・ランクの名を出して次ぎのようにいっている。

もし仮に主体と他 A との“交わり” [ intersection ] に phallus が有り,それにより性関係が成り立つなら,性本能の完全な満足が得られるだろう.そこにおいて成就される十全たる悦は,現実において性行為がもたらすかもしれぬ束の間の快や満足ではなく,而して,もし例を想像するなら,聖書神話におけるエデンの園において人間が神との関係において得ていただろう至福,あるいは,それに劣らず神話的な Otto Rank の想定する“幸福な子宮内生活”(cf. Freud, 1926, p.166)〈其こにおいては,母胎内で子が母と完全に一体となっている〉に相当するかもしれぬような悦であろう.

ともあれ,明らかに,現実の人生においては,如何なる幸運に見まわれようと,そのような悦は実現しない.したがって,帰謬法により,結論される: 主体と他 A との性関係を実現させ得るようなphallus は無い: φ barré .(『ハイデガーとラカン』)

ここから、φ barré原去勢と読むことができるだろう。

…………

さてここまで書かれたことは、ポール・ヴェルハーゲの説明ならこうなる。

去勢不安そのものは、すでに地層にある原初の不安の防衛的なエラボレーションである。地層にある原初の不安とは、主体と〈他者〉 とのあいだの関係から起こる。各々の主体の原初の不安とは〈他者〉に 呑み込まれ貪り喰われることである。すなわ ち、〈他者〉の享楽の受動的な対象に還元されてしまうことである。概念的な用語なら、これが意味するのは、分離の可能性のない全的な疎外を意味する。

その原初の形式においては、この法は母にかかわる。彼女は禁じられているのだ、彼女の生産物を保持することを、たとえば子どもを彼女自身のものにすることを。 これが近親相姦の最初の意味である。すなわち、あなたは、あなたの子どもを自らの享楽 として捕えてはならない、ということだ。現在の、父と子とのあいだの近親相姦への強調は、 この原初の意味がほとんど忘れられてしまっているようなものだ。(「社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)」)

「ファルス」用語で解釈されるのは防衛的なエラボレーションであるという前提を受け入れて、その上であえて「ファルス」用語で書き綴るのなら、父の「象徴的ファルス」(大きなファルスΦ)による「象徴的去勢」とは、まずなによりも母のファルス、「想像的ファルス」(小さなファルスーφ)をちょんぎることなのである。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)

もちろん、象徴的ファルスの介入によって、〈母〉に貪り食われるのは止んだとしても、今度は大きなファルスとしての〈父〉に貪り喰われてしまったら、元も子もない。

重要なのは、父とその機能を差異化することである。機能は母と子どもの分離にかかわる。 それは〈他者〉の享楽から子どもを解放することを必然的に伴なう。もしこの分離が、二番目の〈他者〉としての父への疎外として終わってしまうのなら、それは構造的には母への疎外となんの相違もない。ラカンの意図はこの点を超えていくことであった。そしてそれがラ カンがこの機能――分離――とその象徴的特性に焦点を絞った理由である。象徴的特性の意味とは、作用する要素がシニフィアンであるということである。(Paul Verhaeghe、Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way

(おそらく続く)

…………

※追記

冒頭近くにジジェクの『LESS THAN NOTHING』から英文のまま貼り付けた文があるが、その前段のいくらかも含めての私訳。


ラカンが想像的領域imaginary registerについて語ったとき、彼は見ることができるイメージについて話していた。……しかし、いったん象徴的なものが導入されても想像的なものについて話すことをやめた分けではない。彼は想像的なものについて、相変わらず多くのことを語った。しかしその定義を全く変化させた想像的なものについてである。象徴的なものの導入後の想像的なものは、導入前の想像的なものとひどく異なる。…

想像的なものの概念はいかに変形したのか、象徴的なものの導入された後に。まさに正確に次の如し。想像的なものの最も重要な箇所は、見ることのできないものとして、である。特に、臨床診療の中心を取り上げるなら、例えば、セミネールIVの「対象関係」で展開されたのは、女性のファルス、母のファルスである。人はそのファルスを見ることができないのに、母のファルスを想像的ファルスと呼ぶのはパラドックスである。すなわちそれは、ほとんど想像力の問題なのである。

ラカンの名高い鏡像段階における観察と理論化において、ラカンの想像的領域は、本質的に知覚とリンクされていた。ところが象徴的なものが導入されたこの今、想像的なものと知覚の分裂がある。そしてこの想像的ものは、何らかの形で、想像力とつながっている。これが意味するのは、想像的なものと象徴的なもののつながりであり、故にそれは知覚から分離したものという命題である。「イメージは見られないもののためのスクリーンである」(Jacques‐Alain Miller, “The Prisons of Jouissance,” 2009)。

母のファルスは、定義上、ヴェールで覆われたものである限り、これは、肯定的/構成的なヴェールの存在論的機能をもたらす。すなわち、イメージ/スクリーン/ヴェール自体が、その裏に何かが隠されているという錯覚illusionを生む。日常的にヴェールという語彙を使うとき、いつも「何かが想像力に残されている何か」があるのと同様である。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)