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2016年3月23日水曜日

ラカンのテキストの「痴呆的」解釈

ラカンの「LA DIRECTION DE LA CURE」1958には、《 Le vrai de cette apparence est que le désir est la métonymie du manque à être.》という文がある。

この「欲望は存在欠如の換喩」という文を取り出して、次のように解釈する人物がいる。

「欲望は存在欠如の metonymia である」という Lacan の命題に関しては,この「存在欠如の metonymia」の「の」は同格を表しています: manque à être = métonymie(2014.9.14)
欲望が一次的である,ということをより明確に示しているのが,「欲望は,存在欠如の metonymia である」という命題です.そこにおいて,「存在欠如の metonymia」という表現のなかの「の」は,同格を表します.つまり,存在欠如はそのものとして metonymia です.(2015.5.18)

通常、所有格として使用される du を同格として扱って読みましょう、と言っているわけだ(英語のof でもそういう使い方がないわけではない)。ここから、彼は、欲望 = 存在欠如としている。

欲望の概念は,抹消された存在,すなわち存在欠如 [ manque-à-être ] へ還元されます.それは,埋め合わせ不可能な欠如です.欲望を本当に満足させることは不可能です.にもかかわらず何らかの jouissance[悦]があるとすれば,それは,まやかしであり,勘違いです.(2016.3.17)

これは通常の解釈とはまったく異なる。

まず du を同格とはけっして扱えないラカン自身の文を掲げよう。

…si le désir est la métonymie du manque â être, le Moi est la métonymie du désir. E640

「欲望は存在欠如の換喩なら、エゴは欲望の換喩である」と訳せよう。

この後半の文を上の人物のように解釈すると、エゴ=欲望となる。

すると、欲望=存在欠如=エゴとなってしまう。

セミネールⅩⅤでの「エゴは偽の存在」に代表されるように、ある時期のラカンの格闘はーーラカンをすこしでも齧ったことがある人なら周知のようにーー、エゴと主体の区別をすることだった(エゴサイコロジーに対抗して)。サイコロジーとは、ラカンにとって、エゴロジーのことである。

ところで、この人物は別にTrieb = $ = désir とも言っている。

Freud が「本能」(Trieb) と呼んでいるものは,$, すなわち,その破壊不可能性における欲望です.(2016.3.19)

この文の本能=Trieb 自体誤謬だが、ここでの話題ではない。いまはラカン自身の言葉を掲げておくだけにする。

セミネール十一巻の6、7、8、9、そして13、14章を読んで、Triebを本能と訳 さないことne pas traduire Trieb par instinctによって得られるもの、そしてこの欲動を漂流と呼びcette pulsion de l'appeler dérive、子細に検討して、フロイトに密着しながら、その奇妙さを分解したのち、組み立て直すことによって得られるものを実感しないひとがいるでしょうか。(ラカン『テレヴィジョン』向井グループ訳)

さて、ここまでの話題の人物の見解をまとめれば、欲動(本能) = 主体$ = 欲望 = 存在欠如であり、しかもこれがラカンの続いてある文から判断すれば、エゴ le Moi と等しくなってしまう。

ブルース・フィンクは、ラカンのエクリ全英訳後の問い直しエッセイ集で、「欲望は存在欠如の換喩なら、エゴは欲望の換喩である」をめぐって、次のように言っている。

欲望の重要な部分としての換喩の横滑りは、エゴと等しい。エゴが、我々の存在欠如を覆い隠すcover over ものとして構築されている限り。(Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely Bruce Fink、2004)

欲望とは存在欠如を覆い隠すもの、と言っていると読んでいいだろう。

ジジェクなら、次のように言う。

欲望は、歴史的-ヒステリー的であり、主体化されている。常に、そして定義上、不満足なもの、換喩的 metonymical であり、ひとつの対象から別の対象へと移行する。というのは、私は実際には、私が欲するものを欲望していないからだ。私が実際に欲望するのは、欲望自体を持続させるため、その満足のおぞましい瞬間を延期するためである。(From desire to drive,1996)

この二者の解釈が正しいのは、ラカンの次の文が示す。

le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance. E825


「欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である」と通常訳されるが、この訳の是非はともかく、欲望は防衛であると言っている。欲望は存在欠如の防衛である、


……我々の存在の核に、この捻じ曲がりを生む空虚がある。その空虚は、すべて身体的な欲動にかかわる。他方で、我々は自己表象をもっている。それはラカンが「象徴秩序」と呼ぶものを基盤にしている(象徴秩序とは、すべての典型的な文化生産物から成り立っている。言語、慣習、社会構造などだ)。その「象徴秩序」を基盤とした表象は、「manque à être(存在欠如)」を決して充分には掴み取ったり覆ったりしえない。

ラカンは言う、「manque à être(存在欠如)」は実際は「want to be (ありたい)」として機能する、と(ラカンは、"manque-à-être" の英訳を "want-to-be"にするよう提案している。)

言い換えれば、内部の欠如は、主体の欲望を駆り立ててdrives、補完物を求めるよう促す。人間は、典型的には、他者のほうに向くことによって、この欠如に打ち勝とうと目指す。人は、他者に呼びかけ、それによって暗黙に想定するのだ、他者への弁証法的関係において、存在の贈物が達成されうると。「欲望は…「ありたい want-to-be」に光をもたらす。〈他者〉からの補完物を受け取るための呼びかけとともに」(Lacan, 1958)。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR by Stijn Vanheule & Paul Verhaeghe,2005 PDF,私訳)

すなわち、欲動に対する防衛が欲望である。

ラカンは別に次ぎのように言っている。

La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir. [Lacn,E827] 

去勢が意味するのは、享楽は拒否されなければならない、欲望の〈法〉の逆さになった梯子の上に到りうるために、と訳せるだろう。

ここでは明らかに、享楽と欲望を対照させて語っている。

そして享楽とは、ラカンがフロイトの欲動 Trieb を練り上げて作った概念である。

・« la dérive » pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (S.20)

・« pulsionnelle » …ce qui en dérive (Trieb) (L'ÉTOURDIT)

・pulsion de l'appeler dérive(TELEVISION)
欲望と享楽との区別でいえば、欲望は従属したグループです。法を破る諸幻想においてさえ、欲望がある点を越えることはありません。その彼岸にあるのは享楽であり、 また享楽で満たされる欲動なのです。(ミレール”Donc”1994

ミレールは2011年の力の入った論「L'être et l'un」でもほぼ同じことを言っている。

この人物は以前にもわたくしには驚くべき誤謬にみえる主張をしていたが(参照)、いまは固有名、つまり名前さえ掲げるのに抵抗がある。

ただし、この人物は、欲望と欲動のミレール解釈などにかかわりつつ、次のようにさえ言っており、いささかほうっておくには限度を越えていないでもない。

Miller は,Lacan が言っているのとは反対のことをテクストに固定化し,さらにそれに基づいて,Lacan の教えの誤った解釈を世界的に広めてさえいます.実例は既に示しました.そのような Miller を信用するか,それとも Lacan 自身を信頼するか?答えは明白です.(2016.3.15)

ミレールにもちろん誤読はあるだろう。かつて「私のラカンはミレールのラカンです」と言ったジジェクさえも、今世紀にはいってからは強い批判をしており、なんらかの思いがけない誤謬があるには決まっている。だが、この人物の主体やら欲望やらの最も基本的概念の「痴呆的」誤読には実に呆れ返らざるをえない。

ここまで、主体 $ の誤謬には触れていないが、Trieb = $ はあきらかに間違っている。

セミネール11には、l'avènement du sujet /l'avènement du vivant が対照されている。つまり主体の出現以前に、生きた存在の出現がある。主体が発生するのは、世界S2に、原シニフィアンが介入してのちである(参照:S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴))。

なおかつ、セミネール17には、 《c'est le sujet, en tant qu'il représente ce trait spécifique, à distinguer de ce qu'il en est de l'individu vivant》 という文がある。すなわち、「主体は、特殊な徴(一の徴)の介入により、生きた個人 l'individu vivant と区別される」。この生きた個人は、主体 $ 発生以前の「原主体」と言ってよいだろう。

主体発生以前の存在とは、やや図式的すぎるきらいはあるにせよ、解釈者によって Sujet du désir / sujet de la pulsionや sujet du désir /sujet du corps と対照され、その後者、つまり「欲動の主体」、「身体の主体」である(標準的な神経症の、ポストエディプス的「欲望の主体」に対して)。

※図式的ではなく、より綿密に捉えるなら、実際には二項対立ではなく外立(ex-sistence = le réel )にかかわる(参照:話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant)。

これらはそれぞれラカンのテキストにあらわれている言葉であり、それ以外にも assujet や sujet acéphale などがある。

主体の発生とは、原抑圧が起ったあと、としても捉えられる。

たとえば、ラカンは、欲求が原抑圧を構成して後に、欲望は現われる、と言っている、 《besoins constitue une Urverdrängung …se présente chez l'homme comme le désir 》(.E.690)。これは、この時点で主体 $ が現われるという意味でもある。

原無意識はフロイトの我々の存在の中核あるいは臍であり、決して(言語で)表象されえず、固着の過程を通して隔離されたままであり、背後に居残ったままのもの a staying behind である。これがフロイトが呼ぶところの原抑圧である。このフロイトの臍が、ラカンの欲動の現実界、対象aだ。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive,2001,私訳)

事実、《le besoin, ce n'est pas encore le sujet》(S.5)、つまり欲求(段階)においては、いまだ主体はない、ともある。

セミネールⅩⅦの冒頭から鮮明に記されていることを要すれば、主体の発生以前に、世界には既に S2(シニフィアン装置 batterie des signifiants)が存在している。S2 に介入するものとしての S1 (主人のシニフィアン)は、しばらく後に、人と世界のゲームに参入するが、そのS1は、主体のポジションの目安となる。この S1 の導入とは、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことだ。S1とS2 との間の弁証法的交換において、反復が動き始めた瞬間、原主体は分割された主体 $ (le sujet comme divisé )となる。

《Miller は,Lacan が言っているのとは反対のことをテクストに固定化し,さらにそれに基づいて,Lacan の教えの誤った解釈を世界的に広めてさえいます》とあったが、彼は、あきらかにラカンの教えの誤った解釈を小粒ながら日本ツイッター界に広めようとしている、しかもそれは、今指摘したように、ラカンの最も基本的概念、主体と欲望にかかわってさえである。

ツイッターなどは、誰もまともに扱っていないのだから、ほうっておけ、という立場もあるだろうが、とはいえ、この痴呆的=妄想的誤謬ぶりには茫然自失としてしまう。

もちろん専門家でもなんでもないわたくしがこんなことを言うこと自体、厚顔無恥ではあるが、ラカンのテキストから判断するかぎり、ーーかつ、ミレール派やヴェルハーゲなどの解釈に鑑みるかぎりーーそうならざるをえない、という意味である。


※補遺:主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten

2016年3月8日火曜日

ラカン派の「母の欲望」désir de la mèreをめぐる

主にメモ。

まず、ラカンのセミネールⅤから名高い箇所を画像のまま貼り付ける。




これは少しでもラカンに関心があるものは、誰でも掠め読んだか、解説書などによって聞き知っているか箇所だろう。


たとえば、向井雅明氏によって、次のように説明されている(向井雅明「精神分析と心理学」 『I.R.S.―ジャック・ラカン研究―』第 1号,2002)。

母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。

つまり母親のファルスとなる。だが、母親の欲望の法は気まぐれな法であって、子どもはあるときは母親に飲み込まれてしまう存在となり、あるときは母親から捨て去られる存在となる。母親の欲望というものは恐ろしいもので、それをうまく制御することは子どもの小さなファルスにとって不可能である。ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。
漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。
これは何を意味するのであろう。子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。

隠喩とはひとつのシニフィアンを別のシニフィアンで置き換えるものだとするなら、ここにはひとつの隠喩が認められる。母親の欲望を何らかのシニフィアンで表すと、もうひとつのシニフィアンであるこの「他のもの」は前者の代わりに来るのであるからひとつの隠喩である。そしてこの隠喩はワニの口、すなわち母親の語る言葉の中に認められるもので、子どもにとってそれは母親の欲望を満足させる秘密、ファルスを意味するものである。有名なラカンの父の名の公式がここに認められる。






今、引用した向井雅明氏とほぼ同じように、ベルギーの精神分析家ポール・ヴェルハーゲはこう書く。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ c’est le désir de la mère(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(S.17)(Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995 PDF

他にも、ネット上で拾える文から抜き出せば、藤田博史氏は、向井氏の記す「大きなファルス(Φ)」がうまく機能しない場合(倒錯)をも含めた説明のなかで、「母の欲望」を次ぎのように記している(『入れ墨、フェティシスム、男性同性愛』)。

……「母なしでは生き延びてゆけない」という絶対的無力を抱えたヒトの子は、結局死ぬまで「(母に)愛されたい」という願望を抱き続ける不思議な動物だ。発達のごく初期(生後六〜十八ヵ月)に、つまり言葉の世界に巻き込まれる以前に母と二人だけで過ごした蜜月の期間は、ヒトという哺乳類に或る特殊な情念の世界を賦与する。精神分析において「想像界」と呼ばれるこの言葉以前の世界では、唯一であろうとする自我にとって「母=自我の鏡像」は愛の対象であると同時に憎しみの対象でもある。これは母の殺害がそのままそれが自分の死を意味するような矛盾に満ちた関係である。  

母にしてみれば、子は自らの身体像に欠けている「あるもの」を補ってくれる対象なのであり、だからこそ母は子をあたかも自らの身体の一部であるかのように愛して止まない。想像界のなかで母の庇護を求める寄る辺なき子は、「母の欲望」を欲望することによって母を自らにつなぎ留めている。つまり子の欲望は母の欲望を求める欲望として相乗されている。しかし母の場所には決定的に「あるもの」が欠けており、これに対し、子はこの欠如の場所から母の欲望が生じていることを受け入れることができず、幻想のなかで、母の場所における欠如を補填せざるを得なくなる。つまり子は自らの幻想のなかで母にペニスを賦与する。しかしこのような幻想はまもなく挫折することになる。なぜなら子は早晩母の股間にペニスがないことを目撃してしまうからである。この「母にペニスがない」という現実を受け入れることは失望と痛みをともなうが、通常、子はこの堪え難き現実を認め、ペニスの有無に基づく基本的な判断基準を心的な構造のなかに導入する。つまりここで「去勢コンプレックス」が導入される。  

以上のような一般的な経過に反し、この現実を「否認」する子が表われる。このような子は、母におけるペニスの欠如を最終的に認めることができない。このような子は自らの幻想のなかで母のペニスの欠如している場所に「それに代わるもの」を設置して「母にペニスがない」という堪えがたき現実を否認し続けている。このとき、そこに設置された対象が「ペニスの代理人」としての「自己の鏡像」であるならば、子は母が自分を愛したように自分の愛の対象を選択して男性同性愛者となる。また、設置された対象が「ペニスの代理物」としての「モノ(=フェティッシュ)」であるならば、その子はフェティシストの道を歩むことになるだろう。  

「なにかが足らない」という視覚的現実に対して、この現実を「認めない」という心的機制が働き、不足しているものの代わりに同性の人物や代理のモノを愛の対象として選択してしまうこと、これが男性同性愛やフェティシスムという倒錯を生み出している基本的なメカニズムである。(「現実の否認 déni de la réalité」

※倒錯の機制のやや詳細については、「あの女さ、率先してヤリたがったのは(倒錯者の「認知のゆがみ」機制)」を参照のこと。

上の藤田氏の文にある、《母の庇護を求める寄る辺なき子は、「母の欲望」を欲望することによって母を自らにつなぎ留めている》に関しては、ラカンのセミネールⅤに次の文がある。

原象徴化 première symbolisation のなかで、子どもの欲望は確証され、未来の全ての象徴化が始まる、《(子どもは)母の欲望の欲望 であるil est désir du désir de la mère……

Dans cette première symbolisation, le désir de l'enfant s'affirme, amorce toutes complications ultérieures de la symbolisation en ceci qu'il est désir du désir de la mère et ……(S.5)


これらのネット上にある短い論であり、著書にはより精緻に記されていることだろうが、一般的に、ラカン派の「母の欲望」とは、このように語られることが多いだろう。


ところでツイッターセミネールをやっておられる小笠原晋也氏 @ogswrs には、次ぎのような文がある。

母の欲望」と呼ばれたものは,その本有において,他 Ⱥ の欲望であり,そしてそれは,その本有においては,存在欠如である.つまり,抹消された存在です: https://pic.twitter.com/Z2OAWDFr17(2016.1.25)
存在の在処に関する問い,それは,他の欲望 Ⱥ に関する問いでもあります.なぜなら,ex-sistence としての存在は Lacan が manque-à-être[存在欠如]と呼ぶところのものであり,それは Freud が無意識のなかに見出した欲望の正体であるからです.(2015.11.11)
Freud が死の本能と呼んだものは,我々の学素では φ barré です.Lacan の概念では,欲望です.(2014.9.4) 

冒頭の文のみに「母の欲望」が出てくるが、この三つの文はすべて同じことを言っている。つまり母の欲望は、存在欠如であり、死の本能(死の欲動)だといっていることになる。

わたくしはこの小笠原晋也氏のツイートを、ここで難詰するつもりはない(彼の「欲望」という語の取り扱いにひどく違和がある身ではあるが。彼が「欲望」と口に出すとき、そのおおくは「純粋欲望」ではないか、という疑念がある。--そして、純粋欲望の状態 l'état de pur désir をめぐって、次のように指摘する論者がいる、《主体の解任、すなわち欲望の根源的顕現は、逆説的に、欲望の終結を引き起こす》Lorenzo Chiesa 2007ーー結局、純粋欲望とは欲動のことである)。

とはいえ、彼の上のツイートは、父の名の介入によって父の隠喩作用が成立する以前の「母の欲望」に焦点を絞っており、それほど文句を言うつもりはない。

ただし、彼は、母の欲望をȺと言ってしまっている(「その本有において」が二度反復されて曖昧化されてはいるが)。だが、わたくしの今のところの理解では、隠喩化以前の「母の欲望」désir de la mèreとは、Ⱥ がシニフィアン化された(原象徴化された)のちのS(Ⱥ)であるはずだ。そこがわたくしには抵抗がある。

事実、ジャック=アラン・ミレールは、90年代だが、次のように言っている(THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)。

超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴、正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、独特のしにから生まれる形跡・パラドックスだ。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。

ミレールは母なる超自我 surmoi mère ーー1938年の初期ラカンの記述を捉え直した概念ーーの問いを明瞭化するパラグラフで、こうつけ加えている。

思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配さえされする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。

このミレールの叙述さえ、20年前のものということもあるせいもあり、今読むといささか違和がないでもないが、ここでそれに触れるつもりはない。

(原初の)〈母の欲望〉とは、おそらく、母なる〈他者〉の享楽の侵入にかかわるのではないか(参照:S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴))。

…la fonction du trait unaire, c'est-à-dire de la forme la plus simple de marque, c'est-à-dire ce qui est, à proprement parler, l'origine du signifiant.(S.17)

すなわち、最初のシニフィアンtrait unaire(「一」の徴)の機能は、《徴のもっともシンプルな形であり、厳密に言って、シニフィアンの起源である》であり、これが享楽の侵入の原初形態である。

享楽は、侵入 irruption を通して、身体に起こる。この侵入は徴を獲得する。その徴は、大他者の介入を通して、身体の上に刻印される inscribed。(Paul Verhaeghe enjoyment and impossibility、2006ーー「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」)

これは純シニフィアンにもかかわるはずであり、純シニフィアン signifiant pur とは、もちろん Ⱥ ではなく、S(Ⱥ)の領野にある(参照:純シニフィアンの物質性)。

…………

母の欲望はシニフィアンであろうことは、たとえば、若きラカン派の松本卓也氏のツイートを拾えば、次の通り。

たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、Phallus et fonction phalliqueの説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。Φは全体としてのシニフィエの諸効果を指し示すシニフィアン…

…であって、つまるところシニフィアンとシニフィエの結びつきを調整するもの。一方、父の名のほうは、意味作用が関わってくる水準。つまり、ファルス享楽についての謎に答えるために、先行する母の欲望(=シニフィアン)を隠喩化することでファリックな意味作用を作り出すという機能が父の名にはある

父の名は意味作用に関わる。だからこそ、父の名の隠喩が不成立であった場合(排除)、通常成立するはずのファリックな意味作用が成立せず、世界が「謎めいた意味」の総体になるわけです(分裂病急性期)。(松本卓也,2012、ツイート)
Pierre Naveau: Sur le déclenchement de la psychose. Ornicar ?, 44 : 77-87, 1988  ラカンが「精神病は〈父の名〉の隠喩がない」と言った意味を,ものすごく明瞭に説明してくれている.すこし引用する.

「ラカンは,〈父の名〉の隠喩が排除されたときの効果について述べている.もし〈父の名〉が排除されていなければ,そこで隠喩によって生産される意味作用は,ファルス的意味作用である ….このことは,x=(―φ)という式で示される

精神病の発病時には, …隠喩によって生産されていた意味作用すなわちファルス的意味作用の代わりに,穴( trou)が現れる.こうして隠喩は失敗し,〔母の欲望に対する〕代理の操作が生じない. …DM/x.母の欲望のシニフィアンによって生産された意味作用は謎めいたままにとどまる.x=?」

フロイトの発見は,神経症の症状は,すべて隠喩として構成されており,そのために性的な(ファルス的な)意味を持つということであった.それをラカンは継承している.つまり,隠喩は意味が(+)であり,換喩は意味が(ー)である(「文字の審級」).

そして,神経症を支配している最大の隠喩こそが,〈父の名〉の隠喩である.母の欲望は,何を欲望しているか分からない( DM/?).母の欲望のシニフィアンを,〈父の名〉で代理すること( NP/DM )によって父性隠喩が成立し,症状や夢,機知といったあらゆる象徴表現の可能性がうまれる.

E557 の父性隠喩の式の読み方はこれで分かる. NP/DM ・DM/x=+ファルス.父の名が母の欲望を代理することによって,ファルス的意味作用が成立する,ということ.( ※NP=父の名,DM =母の欲望)

精神病では〈父の名〉が排除されているということは,隠喩が作れず,よって神経症症状も形成されず,母の欲望があらわすものが謎のxのままにとどまるということ.だから,精神病の発病時には,世界の総体がひとつの大きな謎として主体に立ち現れるのである.

神経症では,〈父の名〉( Nom-du-Père)と出会い,ファルス的意味作用( signification phallique)が成立する.一方,精神病では,父なるもの( Un-Père)と出会い,謎の意味作用 (signification énigmatique)が成立する.(同上)

…………

※附記

別途投稿しようと思ったが、ここに貼り付けておこう。以下には、 Pierre BrunoのPhallus et fonction phalliqueに依拠しての松本卓也氏のツイートの内容といささか齟齬がある内容がある。

《たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、Phallus et fonction phalliqueの説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。》(松本卓也)に対して、

……事態は変わる、ラカンが「〈他者〉の〈他者〉はない」の結論に到ったときにすぐさま。大他者の大他者はない、とは、単純に次のことを意味する。超越的な法はない。したがって、象徴界はそれ自体ーー精神病や倒錯の病理とは独立してーー、構造的に欠けているものがある秩序であることを。この点で、正しい性別化/エディプス的解決の責務を負うという役割は残存しているにもかかわらず、〈父の名〉は次のものとなった。(a) 象徴的ファルスと完全に同一なもの。(b) 他のどんな(倒錯的)主人のシニフィアン(S1)でもよいレヴェルへと質的に「品格を下げられる」。 (Lorenzo Chiesa 2007)

Pierre Brunoがどんな文脈で語っているのかはしらないが、わたくしの今のところの理解では、上のロレンツォ・キエーザやポール・ヴェルハーゲの立場(参照)をとる。

セミネールV(1957‒1958)は、議論の余地なく、「〈他者〉の「他者〉は存在する」という仮定のもとに、父の隠喩の機能を導入している。ラカン曰く、《分析の経験が我々に示してくれるのは、〈他者〉にかんする〈他者〉Other with respect to the Otherによって提供される背景[arrière-plan] の必須性である。それなくしては、言語の世界は自らを分節化できない》。

一年もたたないうちに、今度はセミネールVIで、躊躇なく宣言することになる、《〈他者〉の〈他者〉はない…シニフィアンのどんな表明の具体的な成り行きconsequenceを支えるシニフィアンは存在しない》。(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by 2007)
……父の名は、もはや〈他者〉の、すなわち象徴秩序の、保証ではない。逆も同様である。反対に、〈他者〉の〈他者〉はいない("il n’y a pas d’Autre de l’Autre")。

以前は、父の名は父(の機能)の保証だった。丁度、フロイトの原父がどの父をも基礎づけたように。今や、父の名が保証するものは〈他者〉のなかの欠如である。あるいは主体の象徴的去勢である。そして象徴的去勢を通して、主体はあらゆるものを取り囲む決定論から離れ、彼(女)自身の選択が、たとえ限定されたものであるとはいえ、可能となる。

この変貌の波紋は、ラカンのその後の仕事全体を通して、轟き続けた。まさに最後まで、絶え間なく寄せてはかえす波のように。 実に理論の最も本質的なメッセージは、どの理論も決して完璧ではないということだ。循環する論述によって組み立てられた閉じられたシステム、それを我々はフロイトとラカンとともに以前は見出した(原父や父の名によって保証される父、逆も同様)。だがそれは一撃で破棄された。  (PAUL VERHAEGHE『New studies of old villains』2009


松本卓也氏もこのあたりのことが分かっていないはずはないので(参照:『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』抜粋)、上に抜き出されたツイートのみを捉えた場合の齟齬としてよいだろう。

寄り道したが、ここでの関心の焦点は、冒頭からの「母の欲望」である。


◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDFより

(1) 〈母の欲望〉Desire-of-the-Mother とは、ラカンにとって、全体としての原象徴的 protosymbolic 母-子関係の一般的呼称である。あるいは、よりうまく言えば、母子関係を構成する・母子関係において構成される、原象徴的 protosymbolic「諸シニフィアンsignifiers」の呼称である。

(2) 〈母の欲望〉Desire-of-the-Mother とは、いまだ組織内されず、あるいはグループ化されていない対立する「諸シニフィアンsignifiers」の流れである。

(3) より正確に言えば、これらの「諸シニフィアン signifiers」は、(絶え間なく変化する不確かな代理としての)母の欲望 mother's desire の換喩的対象に相当する。…

したがって、それらの諸シニフィアンは対立的である。というのは、不在の背景に対して、換喩的対象の場を一時的に占めるどんな対象にも当てられるから(既に象徴的対象として経験されたというゆえに)。

平行して、それらの諸シニフィアンは、流れ flow を表象すると言いうる。というのは、集合化されていないにもかかわらず、換喩的鎖を形作るから。そのような流れは、要求の永続的不満足によって支えられている。集合化は、後に、最初の父の隠喩によってもたらされる。

(4) 「原-諸シニフィアン」Primordial signifiers とは、なによりもまず、想像的シニフィアンであり、それ自体、記号 signsである。もし、一方で、それらの対立的側面ーー「いないないばあ Fort!–Da!」のような発声を伴ったーーは、それらを「諸シニフィアン」として考えさせてくれるとしたら、他方で、それらはまた、フロイトの「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」の意味での、記号 (Zeichen)でもある。

※「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」(仏語 représentant-représentation,英語 ideational-representative )。表象代理とは、「主体の生活史をつうじて欲動 Triebe の固着の対象となり、また、心的現象への欲動の記載のための媒介となる表象ないしは表象群」。

ラカンによれば、〈母の欲望〉を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における(子どもの)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィアン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。すなわち、子どもが、要求のなかで、彼の欲求を表明 articulate し、要求が想像的シニフィアンを創造すれば、子どもは抑圧をこうむる。

ここから、我々は結論づけることができる。フロイトとは異なり、ラカンにとって、すべての「表象代理」Vorstellungsrepräsentanz は、それ自体、原無意識 proto-unconscious のなかに、必然的に抑圧/刻印される。いったん無意識が、父の隠喩の作用によって、自己意識から正しく区別されたら、そのような表象代理の絶え間ない刻印が続いてゆく。この理由で、我々は言うことだできる、ラカンにとって、正当な原抑圧が起こった後、すべてのシニフィアンは二重に刻印される、と(意識的な通時的鎖 diachronic chain と無意識的な共時的鎖 synchronic chains のなかに)。
〈母の欲望〉の複合的な徴示 signifying 機能は、必然的に、〈父の名〉の地位にとって重要な飛び火をもたらす。

両方ともシニフィアンと考えられる範囲において、二つのあいだの置換作用は、正しく(父の)隠喩と呼びうる。他方で、〈母の欲望〉は、同時に、ただの原シニフィアン protosignifier 、表象代理の組織化されていない流れーーその想像的-象徴的徴示要素は、まだ何らかの形で、トラウマの現実界 Real of a trauma と直かの接触があるーーであることを考えれば、〈父の名〉はまた、記号として捉えうる。

我々は、少し前、やや異なった視点から結論づけたように、ファルスの意味作用を促進することによって、〈父の名〉は、両-一義的に bi- univocally 、謎めいた「彼女は何を欲しているのか?」ーー子どもは(完全には)象徴化しえるどころではない謎--を徴示する。まさにこの意味で、ファルスは、主人のシニフィアン (S1)と見なされるべきだ、うまくエディプス・コンプレックスに入場し崩壊させた主体たちの無意識のS1として。

セミネールVから、ラカンの最も有効な表現のひとつを使えば、ファルスは、結局、「signe constituant」である。興味深いことに、この段階におけるラカンは、この表現を、記号/想像的シニフィアンーーたとえば鞭や棒などーーのみに適用しているように見える。「異常な」エディプス関係において、それは、「代替的な」形で、子どもを能動的に象徴秩序に入場させる、と(マゾヒズム的倒錯によって徴づけられるものとして)。

《Il y en a parmi ces signes qui sont des signes constituants, je veux dire par où la création de la valeur est assurée, je veux dire par où ce quelque chose de réel qui est engagé à chaque instant dans cette économie est frappé de cette barre qui en fait un signe.》(S.5)

…もっと一般的に言えば、我々は強調しなければならない。父の法の超越性が、象徴的〈他者〉の自己充足性を与える限り、ラカンは、標準的なファルス幻想ーーそれはエディプス・コンプレックスの成功した施行にかかわる--を、あからさまには explicitly 認めていないことを。幻想は、倒錯の領野のなかに隔離されている。…

だが事態は変わる、ラカンが「〈他者〉の〈他者〉はない」の結論に到ったときにすぐさま。大他者の大他者はない、とは、単純に次のことを意味する。超越的な法はない。したがって、象徴界はそれ自体ーー精神病や倒錯の病理とは独立してーー、構造的に欠けているものがある秩序であることを。この点で、正しい性別化/エディプス的解決の責務を負うという役割は残存しているにもかかわらず、〈父の名〉は次のものとなった。(a) 象徴的ファルスと完全に同一なもの。(b) 他のどんな(倒錯的)主人のシニフィアン(S1)でもよいレヴェルへと質的に「品格を下げられる」。

言い換えれば、S1としての、父の名/象徴的ファルスは、どんな場合でも、象徴界のなかの欠如に対する最も標準の幻想的代償、あるいは防衛として考えられるようになり、「倒錯的」主人のシニフィアンと区別されるどんな構造的相違もない。父の名は、もはや大他者を「取り囲み encircle」はしない。それは、大他者の欠如を「ヴェール」することによって、単に「縫合 suture」するだけである。

結果として、諸主人のシニフィアン S1s は、それら各自の諸シニフィアンS2 が依拠する、平等に特権化されたシニフィアンとして定義される。しかしながら、そうした依拠は、意味作用のレヴェルに限られる。シニフィアン S2 は、所定の S1 に依拠するーーS2 は、彼の S1 に対して無意識の主体を表象、あるいは徴示するーーという事実は、S1 はその S2s を徴示することをもはや意味しない。

もはや諸シニフィアンのどんなシニフィアンもない。ただ相互に排他的なーー潜在的な無限性を通しての--諸シニフィアン S1 の複数性があるだけだ。それは、基本的幻想のなかで主体の無意識を固定することにより、シニフィエをシニフィアンする(意味されるものを徴示する)。

代数的なの幻想の式 $◇a ーーこれは、「去勢された主体の、原トラウマとしての現実界への(遡及的な)関係」と読まれるーーにかんして言えば、S1 はまさにこの二つの要素($、a)を結びつけるものである。

ーーここでの抜粋私訳は、ロレンツォのラカンセミネールⅤ解釈にもとづいているが、彼は別にセミネールⅩ(不安)にも依拠しつつ、「母の欲望」について詳細な記述がなされているが、ここでは割愛(わたくしにはいまだ納得できていない箇所がある、ということもある。彼の著書の核心そのものは、セミネールⅩⅩⅢの核心的記述(その一つは、この文)から、遡及的に過去のセミネールを読むという態度である)。

以下、いくらかラカン自身の文から引用しておこう。

ロレンツォの議論の核心の議論の一つは「欠如の欠如」である。すなわち、the lack is lacking” / “le manque vient à manquer” (1962)。まず、このリンク先には記載されていない文をひとつ抜き出しておく。

Ceci que ce sur quoi on met un accent qui n'est pas bien centré… à savoir que soi-disant l'angoisse serait liée à l'interdiction par la mère des pratiques masturbatoires …est vécu, perçu, par l'enfant comme présence du désir de la mère s'exerçant à son endroit.

Qu'est-ce que l'angoisse en général dans le rapport avec l'objet du désir ? Qu'est ce que nous apprend ici l'expérience si ce n'est qu'elle est tentation, non pas perte de l'objet, mais justement présence de ceci : que les objets ça ne manque pas !

Et pour passer à l'étape suivante, celle de l'amour du surmoi avec tout ce qu'il est censé poser dans la voie dite de l'échec, qu'est-ce que ça veut dire sinon que ce qui est craint, c'est la réussite, c'est toujours le : « ça ne manque pas ». P.91 S.10

あるいは、ロレンツォの論には、「不安」セミネールからの下記の文にからんだ解釈がある。

Il у а, au stade oral, un certain rapport de la demande au désir voilé de la mère.

Il у а au stade anal, l'entrée en jeu pour le désir, de la demande de la mère.

Il у а au stade de la castration phallique, le moins phallus (-φ), l'entrée de la négativité quant à l'instrument du désir, au moment du surgissement du désir sexuel comme tel dans le champ de l'autre.(Lacan,S.10)

・口唇期には、要求とヴェールされた母の欲望とのあいだある関係。

・肛門期には、母の要求の欲望にとっての機能開始がある。

・ファルスの去勢期には、マイナス-ファルス(-φ)、性欲望の興奮の瞬間に、欲望機構にかかわる否定性の登場、 …………という意味合いのことが記されている。



2015年10月4日日曜日

エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論

表題を「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」としたが、「旧態依然の破廉恥な精神分析家」の補遺でもある。

ここでの核心のひとつは次ぎの文にある。

(これはまた)精神分析実践の目標が、人を症状から免がれるように手助けすることではない理由である。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することだ。
That is also why the aim of a psychoanalytic practice is not to help someone get rid of his or her symptoms in order to find the right satisfaction. The aim is to install a different kind of symptom on top of the impossibility of jouissance.(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

《享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install すること》、これがラカンのサントームであるというPaul Verhaegheの主張である。

上の文と次ぎの文をともに読んでみよう。

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”)
主人のシニフィアンは、無意識的なサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。

The Master-Signifier is the unconscious sinthome, the cipher of enjoyment, to which the subject was unknowingly subjected.(ジジェク『パララックス・ヴュー』)

フロイトのエディプス理論の「父」、ーーあるいはラカン的には主人のシニフィアンS1ーー、それは無意識なサントームなのであり、われわれはそのイデオロギー的「父の名」を取り払っていったん裸になり、その上に、つまり《享楽の不可能の上に》、意識的な、かつ個人特有の「父の名」ーー敢えて挑発的に「父の名」としたが、より穏健には「父の機能」とするべきだろう(参照)--を設置するのが、ラカンのサントーム理論である。

「creatio ex nihilo無からの創造」などと言われることもあるが、実態は裸の《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ》(Séminaire XXIV)なのであり、分析治療によってなにも自然にサントームが芽ばえてくるわけではない。このあたりの誤解があると、被分析者は裸の欲動のなずがままになってしまい、自殺衝動や破壊欲動の発露などが起こりうるはず(論理的にはそう思われるということであり、わたくしはまったく専門家でないことはここで断わっておこう)。

さる分析家の言葉を名を記さずに引用しておこう。

・わたしが殺人罪で服役した経歴を持ちながらも敢えて精神分析家として仕事を続けるのは,精神分析がわたしの lifework だからです.Lifework とは,存在 barréが請求していることです.

・他殺であれ自殺であれ,それは,死そのものである φ barré が a を破壊し,呑み込んでしまうことです.わたしは身をもってその極限状態を経験しました.文字どおり,突然足もとに穴が開いて,そこに呑み込まれてしまう感覚でした.実存構造の突然にして急激な解体が起きた場合,そのようなことが起こり得ます. 

同じ人物による《Lacan は芸術的創造を論ずるとき,「無からの創造」creatio ex nihilo という神学的概念を持ち出します.強調されるべきは,この ex nihilo です.これは,復活に関する決まり文句:「死者のうちからの復活」を想起させます》というツイートもある。

…………

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがサントームである。上にサントームが意識的なS1(主人のシニフィアン)だと敢えて断言したのは、この文に由来する(別の見解があるのは承知で、という意味である)。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

無からの創造をするためには、裸の症状=享楽の不可能性を露出させなければなならない、《精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする》(ヴェルハーゲ、末尾掲載文より)。

あるいは、日本の若きすぐれたラカン派の次の文を引用してもよい。

ラカンは、分析は終結する、ということをはっきりと確信していた。…精神分析は結局のところ治癒不可能なものを前景化させてしまうことになる。しかしラカンは、逆説的にも、症状のこの治癒不可能な部分…を肯定し、これこそが分析の終結を可能にすると考える(松本卓也『人はみな妄想する』)

この《治癒不可能なものを前景化》させることはラカン用語では、「主体の解任 destitution subjective」、「幻想の横断traversée du fantasme」(フロイト用語ならば「徹底操作durcharbeiten」)とされる。

ところが、次ぎのような指摘もあるのだ(参照:Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる))。

ミレールについては、彼は我々に思い出させてくれる、ラカンの後期の仕事で、ラカンはしばしば、精神分析の治療の終わりは、症状と「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」の用語にて理解されるべきだと言ったことを。

ミレールは、こうして次の問いに導かれてゆく、「症状のノウハウは、反復の終了をもたらすのか、それとも反復の新しい作法をもたらすのか?」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私はここで指摘しなければならない。ミレールにとって、上記の二者択一ともに、ア・プリオリに根本的幻想を除外してしまっていると。というのは、彼は奇妙にも 「反復として考えられた」享楽と「幻想として考えられた」享楽とを対照させているからだ。さらにもっと思いがけないのは、彼は、「症状のノウハウ」と「根本的幻想の横断」とを対照させている。後者は、次のように定義される、たんなる「逸脱、分析において手掛けられる逸脱…空虚に向かう、あるいは主体の解任に向かう招き」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私が考えるに、これらの鋭い対照化はひどく疑わしいし、十分に議論されていない。例えば、私は驚いてしまうことは、ミレールは躊躇なく、(反復される、あるいは反復されない)症状の仮説を、精神分析の終わりとして提案しているのだが、それは、症状は、主体の解任が起きなければ、定義上、イデオロギー化されたものだという事実を問題視しないままなのである。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007)

これはLorenzo Chiesaによるジャック=アラン・ミレールへの批判である。ようするに幻想の横断、主体の解任を軽率に取り扱っているというものだ。ミレールはそれらを置き去りにしてしまっている、それではイデオロギー化された「父の名」やイマジネールな対象aが除去されないままではないか? 裸の欲動の固着が露出しないままで「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」などということがありえるのか、と。

このミレールの21世紀に入ってからの考え方は、ジジェクもラカンの言葉とともに引用して説明している。

◆「ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって」より

後期ラカンは、ラディカリズムを放棄し、精神分析の治療法をひどく穏健な方法にて捉え直した。「人は真理のすべてを学ぶ必要はない、僅かで充分だ。」(Lacan, “Radiophonie,”)ここではラディカルな"限界経験"としての精神分析の考え方が拒絶されている。「人は分析をあまりに遠くまで押し進めるべきではない。患者自身が生きていくのに幸福だと思えば、それで充分である。One should not push an analysis too far. When the patient thinks he is happy to live, it is enough」(Lacan, “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))

なんと遠くにわれわれはいることだろう、アンティゴネの英雄的な試みーー禁じられたate(迷妄)の領域に入り込み"純粋欲望"を獲得しようとする試みから! 精神分析の治療は、いまや主体性のラディカルな変質ではもはやなく、局所的な糊塗patching‐up なのであり、それは長期間の跡づけさえ置き去りにするleave any long‐term traces(この見解の流れのなかで、ラカンは次の無視されている事実に注意を促している。すなわち、フロイトが鼠男の治療後数年経って彼に再会した時、鼠男は完全にフロイトの治療のことを忘却していた事実に)。

このよりいっそう穏健な取り組みは、後期ラカンに照準を当てたジャック=アラン・ミレールの読解において、余すところなく明瞭に言い表されている。晩年のセミネールで、ラカンは、精神分析過程の締め括りの節目である"幻想の横断"概念を置き去ってしまう。その場所に、ラカンは全く反対の振舞いを導入する、すなわちサントームと呼ばれる究極の分析不能な障害を受け容れることを。症状が、解釈を通して解消される無意識の形成物であるなら、サントームは、"分割不能な残余"であり、それは解釈と解釈による溶解に抵抗する。サントームとは、最小限の形象あるいは瘤であり、主体のユニークな享楽形態なのである。このようにして、分析の終点は"症状との同一化"として再構成される。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

ーージジェクの記述はこの箇所にかんしてはひどくミレール寄りであり(同じ『LESS THAN NOTHING』には多くのミレール批判があるにもかかわらず)、Paul VerhaegheやLorenzo Chiesaの見解とは齟齬があるように思える。

あるいはまた上に引用した《他殺であれ自殺であれ,それは,死そのものである φ barré が a を破壊し,呑み込んでしまうことです.わたしは身をもってその極限状態を経験しました》とする精神分析家は次ぎのように言っている。

症状を成す悦,つまり剰余悦は,精神分析の経験のなかで失墜し,脱落し,捨て去られねばならないものです.なぜならそれは,異状を成す仮象にすぎないからです.仮面,偽り,誤り,否認なども仮象に関連する語彙です.

Miller は Lacan の sinthome としての症状の概念を全く誤解しています.それは,Lacan が saint homme[聖人]に言及したとき,Miller はそれが Lacan の冗談か何かだと思って,それについて真剣に考えなかったからでしょう.

ーーーここでの《症状を成す悦,つまり剰余悦は,精神分析の経験のなかで失墜し,脱落し,捨て去られねばならないもの》とは幻想の横断や主体の解任のことを言っており、それなりの正当性をもつ。だが彼の問題は、聖人=サントームを強調しすぎていることで、ひょっとしたら《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ》(Séminaire XXIV)が視野に入っていないのではないかと疑わざるをえない発言が多いところだ。

“En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.” J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 12/13, 1977, pp. 6-7

上にも引用したが技法的な側面を曖昧にしたまま「無からの創造」creatio ex nihilo という神学的概念のみを強調してはならないだろう、肝腎なのはラカンの死の二年前の言葉「新しいシニフィアンを発明すること」のはず。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Lacan, Le Séminaire XXIV, 1979, p. 21)

ここでひょっとして(隠された文脈上においては)ぴったりとしたミレールの言葉を掲げておこう。

「幻想の横断」は翼を与えるには違いないが、ある者はプラトンのハトになり、またある者はアホウドリになるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

ーーラカン的精神分析治療の分析は、凡庸な、あるいは十分な理解をしていないままの精神分析家がやると、ひどく危険なのではないのだろうか?

※別の側面からのジョイス=サントームをめぐっての記事が投稿しないままーー曖昧な理解のままだったのでーー放置してあるのだが、そのうち公開するかもしれない。


というわけだが、ここでの引用を中心にした叙述は、Paul VerhaegheとLorenzo Chiesaの読解に傾いたものであることを強調しておこう。

前置きが長くなったが以下本題にかかわる引用(私訳)である。

…………

1924年に、フロイトは『エディプスコンプレックスの没落』を上梓した。そこで叙述されているのはフロイトが考えるところのこの《幼児期の性的発達段階における中心的現象》(フロイト著作集6 p.310)の必要不可欠な破壊である。

ここで、エディプス願望は破壊される必要があるとしている。そして実に要求されているのは破壊であり、抑圧ではないのだ。《抑圧は病的作用を発揮する》(同 p.313)のみである。だがフロイトの経験が、そのような破壊の事例はきわめて稀であることを彼に教えるようになった時、1937年に、彼は結論づけざるを得なかった、精神分析的実践は、男の去勢不安と女のペニス羨望という生物学的行き詰りに遭遇する、と。

これは我々に最後のテーマをもたらす。もしエディプスコンプレックスが破壊されるべきなのに(フロイト)破壊されないのなら、そしてもしエディプス構造が享楽 jouissance の不可能の欠かすことのできない飼い馴らしstyling(ラカン)であるなら、そのとき享楽はいかにして扱われうるか?

この点にかんして、ラカン理論における応答は、フロイトの生物学的袋小路よりもすぐれて興味深い。ラカンの読解では、エディプス複合は、主体が自身の身体から来る欲動ととりわけ享楽に対処する欠かせない構造を隠している

その構造において、享楽の不可能は禁止に変形され、その結果、絶え間ない欲望と症状形成をもたらす。エディプスコンプレックスはそれ自体「症状」なのであり、その意味は、〈他者〉を媒介とした欲動の現実界のまわりのイマジネールな構築物だということだ。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

*ここでの〈他者the Other〉に注意(後述)

ここでの叙述から読み取れるのは、後期ラカンのサントーム理論でさえ、フロイトのエディプス理論の変種であるということだ。

この理由で、フロイトは正しく指摘している、どの症状も満足の形式である、と。ラカンが今つけ加えたのは、症状の不可避性である。セクシャリティ、欲望、そして享楽にかんして、症状のない主体はない。(後述)

これはまた精神分析実践の目標が、人を症状から免がれるように手助けすることではない理由である。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install するこだ。

フロイトによるエディプスコンプレックスの終結点、ーー父との同一化ーーの代わりに、ラカンが奨励したのは、精神分析実践の最終ゴールとしての症状との同一化である。これが彼に次の対照を許すようになる、すなわちエディプス的解決と、現実界における解決と彼が呼ぶところのものの対照である。(同上、PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

※サントームについてのより具体的な記述は

1、「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない
2、「ラカン派の二種類のサントーム・症状

などを見よ。

…………

以下捕捉。

◆〈他者the Other〉について

そもそも〈他者〉とか大文字の他者と訳される”L'Autre”は、「大文字の他」であり、人でなくてもよい。ラカンはすでにセミネールⅩⅣで、《〈他者〉は身体である》と言っている。

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

あるいは、
主体が囚われているのは意識ではない、身体である。(ラカン「哲学科の学生への返答」(1966 私訳)

"Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps."(Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse Jacques Lacan, 1966)

※参照:ラカンの三つの身体

ラカンの使用法では、〈他者Autre〉が常に身体corpsではないにしろ、この観点は、日本語の訳語では見逃されがちだ。

しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳)

ーーこの文は主にラカンのセミネールⅩⅦとⅩⅩの記述をめぐっているのだが、ラカンの〈他者〉理解として決定的な文章のひとつではないだろうか。わたくしはこの文によって、いままで多くの不明だったラカン派の解釈者の叙述(その誤解もふくめ)を眺め直す機縁になった(くり返せばこの説明が完全に正しいということを言いたいのではない。別の解釈もあるだろう)。

※参照:享楽への道とは死への道(ラカン)


…………

 ◆〈症状のない主体はない〉について

ーーこれについては今まで私訳しつつメモしたものを貼り付けておくだけにする。

よくある臨床状況から始める。患者は、耐えられなくなった症状があるために、我々のもとに訪れてくる。ヒステリーの文脈内では、この症状は殆どあらゆるものであり得る、古典的な転換症状からはじめて、恐怖症の訴え、性的/関係性的問題、そして最後にはもっと漠然とした憂鬱や不満の訴えである。

患者は治療者に自らの問題を提示する。そして標準的な期待は、治療の努力によって、症状が消滅し、かつstatus quo ante、すなわち以前の健康な状態に戻ることだとされる。これは勿論、とてもナイーヴな観点である。なぜひどくナイーヴであるかといえば、注目すべき小さな事実を考慮していないからだ。その事実とは、大抵の場合、症状は急性なものではなく、反対に、むしろ古くからの、何月も前からの、ときには何年も前からのものでさえあるということだ。

そのとき訊ねるべき問いは、勿論、なぜ患者はこの今、訪れたのか、なぜもっと早く来なかったのか、ということである。人はこの状況を観察すれば、常に同じ答えを見出すだろう、すなわち、主体にとって何かが変化し、その結果、症状はその正しい機能を失った、と。

症状が、いかに苦しく或いはいかに無価値なものであろうと、明らかなことは、この変化以前は、症状は主体にとってある種の安定化を確保してくれるものだったということだ。この安定化の機能が故障したときのみ、主体は助けを求めるのだ。これが、ラカンが治療者は患者に彼の現実に順応させようとすべきではないと述べた理由である。反対に、患者はすでにあまりにも順応し過ぎているのだ。というのは、患者はまさに現実の構築にいそしんでいるのだから。

この点で、我々はフロイトの重要な発見のひとつに出会う。それは、どの症状も先ずは回復の試みだということだ。一定の心理構造の安定化を確保する試みなのである。この意味で、我々は患者の期待を言い換えねばならない。彼は症状の消滅を求めているのではない、否、彼はただ症状の元々の安定化機能を修復して欲しいのだ、その機能は状況の変化のせいで故障してしまっているのだから、と。

これがフロイトがひどく奇妙な考え方、奇妙というのは、上で言及したナイーヴな観点の下ではだが、すなわち「健康への逃避flight into health」という考え方を提示した理由である。この表現は鼠男のケーススタディに見られる。治療者はまだ始めたばかりで、いくらかの成果しかない。そして患者は中断する決心をする。彼は遥かに改善していると感じるからだ。症状そのものはほとんど変化していないが、見たところ、それは患者を悩ましていない。ただ驚いた治療者を悩ますだけである。(Paul Verhaeghe,PSYCHOTHERAPY, PSYCHOANALYSIS AND HYSTERIA、1994)

フロイトによる無意識の発見以来、病理上の過程は「防衛」を基にして説明されるようになる。すなわち「抑圧」概念が特権的な場所を占めるようになる。だがフロイト以後、多かれ少なかれ忘れられてしまったのは、「抑圧」そのものが病因のダイナミズムにおける二次的な重要性しかないということだ。実際、抑圧は欲動に対する防衛的過程の苦心作elaborationでしかない。

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』:人文書院旧訳より抜き出している:引用者)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。

精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする。これらの固着はもはやそれ自体としては変えようがない。身体の決断は取り消しようがない。これは欲動の過程に向けた主体の立場としてはその限りではない。欲動の固着は覆すことができる。二つの可能性があるのだ。主体が以前に拒絶した享楽の形態を今は受け入れるか、あるいは、主体はその拒絶を肯定するか、の二つがある。

抑圧はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の素朴な防衛手段である。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も本能支配のためにそれを利用しようとするのである。新しい葛藤は、われわれのいい表わし方をもってすれば「後抑圧」Nachverdrangungによって解決されるというわけである。《……しかし分析は、一定の成熟に達して強化される自我に、かつて未成熟で弱い幼児的な自我が行った古い抑圧の訂正を試みさせるのである。抑圧のあるものは棄て去られ〔欲動は主体によって受け入れられる〕、あるものは承認されるが、もっと堅実な材料によって新しく構成される〔欲動はより断固たる方法で拒絶される〕》。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』旧訳からだが、亀甲括弧〔〕内はPaul Verhaeghe and Frédéric Declercqによる註釈)

この過程は、抑圧と症状形成の過程にはもはや属さない拒絶を必然的に伴う。「一言で言えば、分析は抑圧を有罪判決condemnationに変えるのである。」(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』(少年ハンス)人文書院5 p273)

われわれが強調しなくてはならない事実とは、この主体の決断は、純粋な形での欲動にのみ関わるということだ。すなわち、そのような決断をすることが可能なためには、主体は直接的な方法で<対象a>に結びつかねばならない、分析過程において事態を成行きにまかせて純化の仕事を成就しなければならない。その意味するところは、まずは抑圧を取り除くこと、すなわち、症状から象徴的な要素を片づけ去らなければならない。従って、分析の手間を省いて直接に基礎的な原因、つまり欲動の根元に向かうことは不可能なのである。フロイトによるこの考え方への答は、オットー・ランクの提案への返答に見出すことができる。ランクの提案とは、出産外傷の原トラウマに直接に取り組むべきだというものだが、フロイトはそれに対し、「おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合に、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すことだけに満足する、といってことになってしまうのではないか」(『終りになき分析と終りある分析』人文書院6 P378)と答えている。

ラカン理論における現実界と象徴界のあいだの関係は、いっそう首尾一貫した観点を提示してくれる。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より鮮明な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar VII)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。精神病理学の症状とのこの類似性は、象徴界の星座の練磨を通してのみ欲動の現実界は現れるということだ。これが精神分析学が新しい主体を創造するという理由である。《われわれの理論は、自我の中に自然発生的にはけっして存在しえない状態、すなわち分析という操作を受けた人間と受けない人間とのあいだの本質的な相違が明らかにされるような状態を、新しくつくり出そうとする要求を掲げているのではなかろうか。》(『終りある分析と終わりなき分析』P387)(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq).2002)

※英原文は次を見よ→ 症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)

2015年7月25日土曜日

ラカンの注釈者たちの(ほぼ満場一致での)見落とし:「性関係はない」

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)


ラカニアンサークル内部において「象徴的去勢」やら「斜線を引かれた主体」という用語さえが分かっていないのであるなら、たとえばより厄介な「性関係はない」という表現などの解釈はとんでもない言説が跳梁跋扈しても止む得ない。それを責めてもいたしかたない、「世界とはその程度のものです」(蓮實重彦)。それぞれの分野での「真の」専門家というのは実は世界に十人ぐらいしかいない。

とすればそれに溢れたそれぞれが似非専門家やにわか専門家として自らの「思いこみ」を流通させるのは致し方ないのだ。

…………

手短かに言えば、ラカンは信じていたのだ、象徴的法(セクシャリティにおける)は人間という種族の生存に欠かせないと。すなわち象徴的性別化の終焉は、人間を単に動物の性交へと閉じ込めることはない。そうではなく、種の絶滅へと導く。

注釈者たちは、ラカンに依拠して、ふつうは強調するのは、象徴界が「性関係はない」という事実の責任を負っているということだ。たとえばEvansは簡潔に、「男と女のポジションのあいだには、相互関係、あるいは対称性はない。というのは象徴的秩序は基本的に非対称的だから」と言う。すなわち、ファルスが、両性のあいだの関係を支配する唯一のシニフィアンなのだから、と(.(Dylan Evans,An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis)

反対に、注釈者のほとんどが(満場一致で)見落としているのは、次の事実だ。象徴界は、(生殖的な)人間の性関係が起こる可能性の構造的条件を構成するという事実である。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

ここに「手短かに言えば」とあるが、Lorenzo Chiesaは、この後数十ページにわたりながながと説明している。だいたいこのように「注釈者たち」のマヌケぶりをめぐる箇所の断片だけを切り取って引用すること自体、誤解を招くもとかもしれない。だが「世界とはその程度のものさ!」。

ただし、Lorenzo Chiesaの《注釈者のほとんどが(満場一致で)見落としているのは、次の事実だ。象徴界は、(生殖的な)人間の性関係が起こる可能性の構造的条件を構成するという事実である》というのはいささか言い過ぎなのかもしれない。

だが通常はこのように語られる。

ラカンは精神分析における不可能を「性的関係は存在しない」という命題で表しました。動物においては雄と雌の性的な行動様式は本能に書き込まれており、動物は本能的に性的関係を持つことができるます。ところが人間の男と女は類としての性的行動様式を与えられておらず、人間の性的活動は多様であり、様々な倒錯的傾向が認められます。男と女は性的行動様式を他者から学ばなければならないのです。そして性的行為の多くは生殖とは関係ない領域で繰り広げられています。ですから人間の言語世界には性的関係が書き込まれておらず、それが象徴界の穴として不可能を構成するのです。(向井雅明 精神分析とトラウマ)

わたくしは向井雅明氏をそれなりに信頼しているのだが、上に掲げたLorenzo Chiesaのいう文脈に限っていえば、次の小笠原晋也氏の発言のほうがマシかもしれない(重ねて強調しておけば、これはわたくしの向井雅明氏の文の切り取り方が悪いせいかもしれないと言っておこう)。

「性関係は無い」はずいぶんびっくりさせる命題かもしれませんが,さほど突飛なものではありません.Freud のリビード発達論の文脈で考えれば.つまり,Freud が想定したような性的成熟としての性器段階は無い,と Lacan は言っているのです.Primat des Phallus 「ファロスの優位」と Freud が呼んだ「正常」な成人の性の発達段階はただの社会規範からの要請,想定にすぎません.(小笠原晋也、ツイート)

ここにはChiesaのいう《象徴的法》あるいは《象徴界は、(生殖的な)人間の性関係が起こる可能性の構造的条件を構成するという事実》が、《「正常」な成人の性の発達段階はただの社会規範からの要請,想定にすぎません》という文に現われている。ただし小笠原氏のほかの殆んどのツイートは、「性関係がない」を根源的なものとしてあまりにも強調しすぎるきらいがある。

ツイッターなどで発話するには、次の程度でいいのだ。あの場は「手短に」しか語れない場なのだから。詳しくは論文で書くべきであろう。

……「性関係はない」。人間の性は、取り返しのつかない失敗の刻印を押され、性差とは二つの性的立場の対立であり、両者の間に共通分母はない。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

というわけだが、わたくしは何も比較的若い「哲学的」あるいは「政治的」ラカン派のLorenzo Chiesaを全面的に信頼しているわけではない。ただ彼の上に掲げた著書には、「注釈者たちは云々Commentators usually… 」という表現が頻出する。そこを眺めてニヤニヤすることができる貴重な書ではある。





2015年7月20日月曜日

ハイデガー化されたラカン研究者小笠原晋也氏の「口すべり」

《ラカンはわれわれに教えてくれたーーこのように一瞬あらわれてはその後すぐに忘れられる区別には最大限の注意を払わなければならない》

 以下、小笠原晋也氏ツイートより。


【2015.07.01】


【2015.07.08】



「ラカンの言葉につられて」とある。それはラカンの言葉を素直に読めば、Triebは剰余悦であるということだろう。

……ラカンはわれわれに教えてくれたーーこのように一瞬あらわれてはその後すぐに忘れられる区別には最大限の注意を払わなければならない、なぜならそれらを通して、フロイトの決定的に重要な洞察を探り当てることができるからだ、フロイト自信はその洞察の重大な意義に気づいていないのだ、と(一例だけ挙げるならば、ラカンが、これと同様の、自我理想と理想自我との「口がすべったかのような」区別から何を引き出したかを思い出してみようではないか)。(ジジェク 『斜めから見る』)



【2015.07.11】




わたくしはこれらの言葉から、シツレイながら、小笠原晋也氏のハイデガー化されたラカン解釈の崩壊の端緒をみるーーいや遠慮してそれを疑う、といっておくだけにしよう(究極的には ex-sistenceの解釈をめぐるがここでは触れない)。彼は「無意識的には」それに気づきつつあるのではないか、と。


◆小笠原晋也氏 2015年07月12日(日)ツイートより。


さて,誤謬や矛盾に陥ることを恐れずに,先に進みましょう.というのも,わたし自身,『ハィデガーとラカン』に書いたことが部分的に過っていたことに気づいたからです.それは特に,l'objet a est de l'ordre du réel という命題に関してです.

1965-66年の Séminaire XIII L'objet de la psychanalyse[精神分析の客体]の1966年1月5日の講義において Lacan は「a は,実在の位のものである」と初めて公式化します.

そして,この「実在」は,厳密に,1974-75年の Séminaire XXII RSI において Lacan が実在を ex-sistence と定義したとおりに取るべきです.

「a は実在の位のものである」と公式化する直前,Lacan は,根本的な異状としての同一化を惹起する image, 異状化する影像の学素 i(a) について論じ,次いでこう言っています:a は,この囚われ,この幻の核心において,同一化を実在的に支えるものである.

i(a) への同一化を a が実在的に支える.この命題は,この学素によって形式化され得ます: https://pic.twitter.com/wNrIkjjmnW



この Séminaire XIII において Lacan は déchet[ごみ,屑]としての客体 a を強調しています.déchet は,外へ捨てられるものです.つまり,ex-sistent となるものです.

身体から脱落し,捨てられ,déchet となる客体 a は,まさに ex-sistence としての実在の位のものであり,そのような a を同一化の仮象は保匿する.Séminaire XIII における Lacan の議論はそう読解され得ます.

かくして,a は,RSI のボロメオ結びの図に示されているとおり,同時に,解脱実存,穴,定存として,実在,徴在,影在の位のものである,と言うことができます.「同時に」を強調しておきましょう. https://pic.twitter.com/cwHYzJ0yoA







ーーーこれらの言葉によって、彼は懸命に自らのハイデガー化されたラカン理論を護ろうとしているようにみえる。

とはいえこのようにして、彼のツイートの二転三転を追うのはやや退屈してきた。

参照1:メモ:ラカンのセミネールⅩⅩⅡからⅩⅩⅢへの移行(JA→JȺ)
参照2:「仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)(柄谷行人=ラカン)」の後半

彼は自分が「無意識的」に気づいていることを否定するために、ハイデガー流の「深淵な」解釈までするようになってしまった(ようにみえる)。




さる質問者の問い。

しばらくお休みだそうですが、忘れないうちにくり返せば、アンコールのあの文において、あなたに確認しているのは、これだけなんですけど。私には「文法的には」①にみえるけど、あなたの「深淵な」解釈では②だということでいいのでしょうか? → 

①悦という本来的なものからの逸脱。
②悦が本来的なものから逸らされていること。

S/sとしたら

①Trieb(plus-de-jouir) / jouissance impossible
②jouissance(plus-de-jouir)/ Trieb( ex-sistence)
 https://twitter.com/ogswrs/status/612895301351837696 … @ogswrs


◆小笠原晋也(2015.06.22)ツイート


実際、二週間もたたずに言うことが二転三転している。

いずれにせよ彼のセミネールⅩⅩ(アンコール)の上掲した解釈をふくめた訳は、「深いメタフォリカル」な解釈かもしれないが、リテラルには、あるいは文法的には、間違っている、--すくなくともわたくしはそう疑う。


要するに、《深遠な理念であれ、深さを誇るならすぐさまいかがわしいものと堕する》ということをいいたいのだが、彼をハイデガーの「いかさま」と並べるのは、その「いかさま」ぶりがあまりにもちゃちでハイデガーにたいして失礼であろう・・・

そうはいっても小粒の疑似ハイデガー論理の信奉者であることは間違いなさそうだ。

「[自国語に対する]素朴さを喪失した[亡命からの]帰国者は、自国語とのもっとも内的な関係と、自国語が促進する一切の妄想への倦むことを知らぬ警戒心とを(mit unermudlicher Wachsamkeit)結合させるべきです。それは、ドイツ語で説明される形而上学の真意なり、形而上学一般についての真実なりが、ドイツ語の形而上学的な過剰(den metaphysischen Uberschuss der deutschen Sprache)と私が命名したく思うものによってすでにあらかじめ保証されている、と信仰することに対する警戒心でもあります。わたしが『Jargon der Eigentlichkeit[本来性という隠語]』」を書いたのはそのためであると、事のついでに告白しても、たぶんお許し願えるのではないでしょうか。 (中略)形而上学的言語構造は特権ではありません。深遠な理念であれ、深さを誇るならすぐさまいかがわしいものと堕するのであり、それは形而上学的言語構造には帰しがたいものであります。ドイツ的魂という概念についても同様です。(中略)ドイツ語で書き、己れの思想がドイツ語によって浸透されていることを知るものは、こうした問題に関する、ニーチェの批判を忘却してはならないでしょう」(アドルノ、『批判的モデル集II-見出し語』)

とはいえ、このような「症状」--いや現象にツイッター上で出会えるのは、わたくしにはとても興味深かった、ということを認めるのに吝かではない。

以上は、わたくしの「誤解」であるかもしれず、それは読者の判断にまかせる。

読者? 彼の「道化師的」ツイートをまともに追っている読者などいるようには思えない・・・
むしろいくらかまともに追ってしまったわたくし自身に忸怩たる思いを抱かないでもない。

ーーいやここでわたくしはたちまち「言い直し」ている。実はいまだ小笠原晋也氏の「紆余曲折ぶり」がすこぶる興味深いのだ・・・

以上、ハイデガーにほとんど無知なものが失礼なことを書いてしまったかもしれない。すなわちこの文は個人的なメモの範囲を出ない。

…………

→① ラカンのテキストの「痴呆的」解釈

→② 今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない



2015年7月13日月曜日

仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)(柄谷行人=ラカン)

フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。

そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』p59)
カントの『判断力批判』は三つの「批判」の最後に来て、前の二つの批判においてあった問題を解決するもの、すなわち芸術を認識と道徳、自然と自由を媒介するものとして位置づけるものと見なされている。この判断力は、認識において、感性と悟性を媒介する構想力と相同的である。カントの考えでは、芸術は、概念から出発しないが潜在的に概念を実現している。いいかえれば、芸術は、認識あるいは道徳が達成すべきことを直感的(感性的)に実現するものである。こうした芸術の位置づけは、ロマン主義以後の哲学者に、重大なヒントを与えた。彼らは、芸術こそが本来の「知」であり、科学も道徳もそこに派生するのだと考える。芸術において、「綜合」がすでになされている。ヘーゲルは哲学を芸術の上におくが、それはすでに哲学が美学化されているからである。ハイデガーも「存在と時間」から「時間と存在」への転回において、芸術(詩)を根源に位置せしめる。

カントが科学、道徳、芸術の関係を明示したことは確かである。しかし、カントが、第一批判、第二批判において示した「限界」を、第三批判において解決したと考えるのはまちがっている。彼が示したのは、これらの三つが構造的なリングをなしているということである。それは、現象、物自体、超越論的仮象がどれ一つを除いても成立しないような、ラカンのメタファーでいえば、「ボロメオの環」をなすということと対応している。だが、こうした構造を見いだすカントの「批判」は、第三批判で芸術あるいは趣味判断を論じることで完成したのではない。……(同p62)

柄谷行人は上の文で、《仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)》としている。そして下の文では、ラカンのボロメオの環に言及しつつ、《現象、物自体、超越論的仮象》としている。

ここで別の論から、「仮象」、「現象」、「超越論的仮象」の説明を聞こう。

柄谷行人は、長池講義では次のように語っている。 

カントが否定的に見ているのは、仮象(Schein)である。仮象は現象(Erscheinung)と違って、感性的な直観にもとづかない。ただ、考えられただけのものだ。考えられただけのもの(例えば神)が、実際に「存在する」というためには、(感性的)直観を通さなければならない。

通常、仮象は、理性によって取り除くことができる。古来、哲学は、感覚にもとづくドクサと、理性にもとづくエピステーメーを区別してきた。同様に、カン トに先行する啓蒙主義者は、理性にもとづいてさまざまな仮象を批判した。しかし、カントは、彼は、感性だけでなく、理性もまた仮象をもたらすと考えたので ある。それが形而上学である。

感覚によってもたらされる仮象は、理性によって訂正される。しかし、理性によってもたらされる仮象は、理性によっては是正されない。そもそも、それは理性が必要とするものであるから。カントは、理性がどうしてもさけられない仮象を、「超越論的仮象」と呼んだ。自由、神、魂の不死などがそれである。

例:超越論的仮象としての自己。デカルトの「スム:我在り」は、「同一の自己がある」ということを意味する。それに対して、ヒュームは、同一の自己などは仮象である、という。たとえば、前日の自分と今の自分とは違う。自己同一性などない。しかし、同一の自己という幻想がなくなると、実際に、深刻な病気 (統合失調症)になる。自分という仮象は、生きていくために不可欠なのだ。さらに、社会的に、同一の自己がないと、行為に対して責任をとることができない ということになる。ゆえに、同一の自己は仮象であっても、取りのぞけないような仮象、つまり、超越論的仮象である。

カントは、ある種の超越論的仮象は、実践的に有益であり、不可欠だと考えた。その場合、彼はそのような仮象を「理念」と呼んだ。ゆえに、理念とは、そもそも、仮象である。

ここでは《仮象は現象(Erscheinung)と違って》とあるにもかかわらず、《理性がどうしてもさけられない仮象を、「超越論的仮象」》と呼んでいることから判断すれば、冒頭の二つの文の叙述は、次のように想定できるのか(たぶん?--であり、信用しないように)。


(想像的なもの) (象徴的なもの) (リアルなもの)

  仮象         形式       物自体

  現象  ⇔   超越論的仮象    物自体


いや下段の現象と超越論的仮象の位置関係はカントに無知なわたくしには見定めがたい。いずれにせよ、想像界はつねにいつも象徴界(形式)によって構成されている。ここでは想像的なもの+象徴的なもの/リアルなものとしての二項対立としてみるべきかもしれない。

カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。(柄谷行人『トランスクリティーク』P312)
彼(カント)が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシラーによって「象徴形式」といいかえられている。P101

実際、ジジェクなどは、最近は象徴界と現実界しか主に語っていない。

ラカンは、その仕事の展開を通して、ずっと探し求めていた、S(象徴的見せかけsemblance)とJ(享楽の現実界)のあいだの「縫合点」、SとJをひとつにまとめる、あるいは少なくともそのふたつを仲介するリンクを。(ジジェク、2012ーー「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」)

もっとも上の柄谷行人の見解については、彼自身はラカンをそれほど読み込んでいないはずなので、おおむねあのように置けるということでだけであり、さらにはラカン自身は現実界と物自体は違うといっている。

……この概念(リアルなもの)はまったくカント的でない。私はこのことをあえて強調したい。もし<現実界>という概念があるとしたら、それは極端に複雑で、それゆえ理解不能である。そこから<すべて>を引き出すようなふうには理解できないのである。(Lacan”Le Triomphe de La Religion)

とはいえ、ラカン自身がカントの物自体概念を柄谷行人なみに摑んでいたかどうかも疑わしい。くり返せば、概ねあのようになるのだろうということであり、柄谷行人の提案自体は多くの示唆を生むということだけはいえる(ジジェクは『トランスクリティーク』を何度も引用して称揚しているが、この箇所については何もいっていない)。

ヘーゲルがおこなったカントについての基本的な修正は、したがって、次のようなものである。理性の三つの領域(理論的・実践的・美的)は、主体の態度の移行、すなわち「カッコに入れること」で出現する。つまり、学の対象は、道徳的判断と美的判断をカッコに入れることで出現する。道徳的領域は、認識的–理論的関心と美的関心をカッコに入れることで出現する。美的領域は、理論的関心と道徳的関心をカッコに入れることで出現する。たとえば、道徳的関心と美的関心をカッコに入れるなら、人間は、自由ではない、因果的関連に全面的に条件づけられたものとしてあらわれる。逆に、理論的関心をカッコに入れるとすれば、人間は、自由で自律的な存在としてあらわれる。したがって、もろもろのアンチノミーは物象化されるべきではない — アンチノミーをなす複数の立場は、主体の能度の移行によって生みだされる。柄谷の画期的成功は、しかしながら、そのようなパララックスな読みかたをマルクスに適用したこと、マルクスその人をカント主義者として読んだことにある。 (ジジェク『パララックス・ヴュー』P.94)

さてここでラカンの現実界にかかわる言葉を二つだけ拾ってみよう。

・« le réel s'affirme dans les impasses de la logique »[現実界は,論理の行き詰まりにおいて確証される](Lacan, 1971-72, p.41).

・« le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation »[現実界は,形式化の行き詰まりによってしか記入され得ないであろう](Lacan, 1972-73, p.85).

ーーなどとラカンの言葉を読めば、物自体に限りなく近いことをいっているようにも見えるのだ。

『純粋理性批判』を出版した後、カントは、同書における記述の順序に関して、現象と物自体という区分について語るのは、弁証論におけるアンチノミーについて書いてからにすべきだったと述べている。

実際、現象と物自体の区別から始めたことは、彼のいわんとすることを、現象と本質、表層と深層というような、伝統的な思考の枠組みに引き戻す結果を招いてしまった。カント以後に物自体を否定した者は、そのようなレベルで考えているのである。また、ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている。

しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。

カントがアンチノミーを提示するのは、必ずしもそう明示したところだけではない。たとえば、彼はデカルトのように「同一的自己」と考えることを、「純粋理性の誤謬真理」と呼んでいる。しかし、実際には、デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p81)

ラカンはSéminaire XXII R.S.I. の1975年2月18日の講義において、現実界と象徴界、想像界の新たな定義を加えている。

現実界 [ le réel ] は外-存在(解脱実存) [ ex-sistence]
象徴界[ le symbolique ] は穴 [ trou ]
想像界 [ l'imaginaire ] は定存 [ consistance ] 

ーーおそらく象徴界が穴というのがいっけん奇妙だろう。これについてはいろいろな議論があるが、ここでは次のパズルの図を示しておくだけにしよう。





このように穴が開いているおかげで、象徴界のシニフィアンの連鎖が起こりうる。〈あなた〉が今喋っているのも穴が開いているせいである。

“A = A”は、象徴秩序内においてのみ起こり得る。そこでは、Aの同一化は「唯一の特徴unary feature」によって支えられ構成されているのだ。その「唯一の特徴」は、その核心にある空虚を徴づけている(その空虚の代わりとなっている)。「あなたはジョンだ」は意味するのは次ぎのことである。あなたのアイデンティティの核心は、あなたの名前で示された言葉で言い表わせないje ne sais quoi深淵なのである。だからどのアイデンティティも、つねに挫折させられ、実質がなく、虚構である(ポストモダンの「脱構築主義者」の呪文のように)だけではない。アイデンティティそれ自身が、厳密な意味で stricto sensu、その反対物の徴、それ自身の欠如の徴、自己アイデンティティとして主張される実体は十全のアイデンティティを喪失しているという事実の徴なのである。(ジジェク LESS THAN NOTHING 私訳)
ヘーゲルが『論理の科学』で、悪戯っぽく言ってる、もしAがそれ自体と同じなら、どうして反復する必要があるんだい?と。“A = A” のような同語反復の同一の反復は、実際はそれ自体との非-同一の徴を示している。(Levi R. Bryant、The Democracy of Objects、2011
象徴界と現実界を分ける棒線は、厳密に象徴界の内部のものである。というのは、その棒線が、象徴界が「それ自身になる」のを妨げるのだから。シニフィアンにとっての問題は、現実界に触れ得ないことではなく、「それ自身に到達する」ことが出来ないことだ。シニフィアンに欠けているものは、特別な言語の対象ではなく、「シニフィアン」自身、棒線を引かれない、何物にも邪魔されない〈一者〉である。(ジジェク『為すところを知らざればなり』For They Know not What They Do; Enjoyment as a Political Factor - Slavoj Žižek 1996 私訳)

とはいえ、これもヘーゲル派の考え方であり、信用したくなかったら信用しなかったらよろしい・・・

穏やか系の臨床医の叙述ではこうである。

象徴秩序、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、〈一者One〉を同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。システムとしての象徴秩序は、差異をもとにしている(ソシュール参照)。差異自体を示す最初のシニフィアンは、ファルスのシニフィアンである。それ故、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に〈一者〉と非一者である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二項対立の論拠、ある者かそのある者でないか、を適用することによって、一体化の形で作用する。(ポール・ヴェルハーゲPaul Verhaeghe、Lacan's Answer to the Classical Mind/Body Deadlock 2002 私訳)

※附記:以下はハイデガー系の議論である(小笠原晋也氏ツイート)。

…………

20150708

さて,Zizek の最新の大著 Less Than Nothing[無以下]の一節に関して御質問をいただきましたので,読んでみましょう.先ほど提示したように,blog に原文と翻訳を掲載しました:
http://ogswrs.blogspot.jp/2015/07/zizek-acan.html…

「無以下」とは何か? Heidegger と Lacan の表現で言えば,Ek-sistenz, ex-sistence, 解脱実存,すなわち,抹消された存在,抹消されたファロスです: https://pic.twitter.com/weLG0ONwSq



Zizek が ex-sistence という用語を活用しているかどうかは知りません.ともあれ,以前にも指摘したように,Zizek はあまりに多忙すぎて,もはや Lacan をみづからじっくり読まないようです.もっぱら Jacques-Alain Miller に頼っています.

Zizek は S と J という記号を用いていますが,それは Encore p.83 のこの図に準拠してであろうと思われます: https://pic.twitter.com/lrSFKNycgd




Zizek は J を the Real of Jouissance[悦という実在]と規定しています.それは,Jacques-Alain Miller の解釈を踏襲してです.しかし,図を見ればわかるように,J は R, S, I が成す正三角形の中心に置かれています.つまり:

RSI のボロメオ結びの Venn 図様平面投影図において中心に置かれた剰余悦 a と同じ座に J は置かれています.ということは,J は,不可能在としての実在に相当する不可能な悦ではなく,剰余悦を差し徴している,と読めます. https://pic.twitter.com/aUIjbNPzRQ






◆(ここで質問が入る)
分かっていない私が言うのもなんですが、この二つの図を同じレヴェルで扱うことはどうも理解外です。次のようになってしまいます。 http://t.co/dr0kkVJjt9




Lacan において,彼が1950年代前半に point de capiton[留め縫いの縫い目]と呼んだ機能は,彼の晩年に至るまで重要であり続けた,という Zizek の指摘は正しいです.全く同意します.ボロメオ結びはまさにその問いへの答えのひとつだからです.

しかし,Less Than Nothing からの引用の最初の段落における phallus に関する Zizek の所論は,非常に雑です.話が長くなりますから,明日続けましょう.


2015年07月09日

Bonjour, mes amis ! 昨日提示した Encore p.83 の図が Staferla 版でどう描かれているか確認してみました: https://pic.twitter.com/FbgnetRwoX




(◆小笠原氏、質問者の指摘に慌てた様子あり)

2015年07月11日(土)

Encore p.83 の図に関して,Miller 版のものと Staferla 版のものとの相違には,驚かざるを得ません.三角形の中央部の J が単純に Miller の創作だとも思えません.Patrick Valas が当該のセミネールに出ていたかどうか,訊いてみましょう.

ついでにお伝えしておくと,Patrick Valas の site に公表されている Lacan の Séminaire の編纂者は,Staferla という偽名のもとに匿名であり続けることを決意しているそうです.

ちなみに,staferla という語は,Lacan が1968年3月27日の séminaire で用いた言葉遊びです.cette affaire-là をくだけた調子で発音すると,staferla と聞こえます.

affaire は「事」です.ドイツ語では Sache に相当します.cette affaire-là, その事,あの事.どの事か? Heidegger が Zu den Sachen selbst ! と言うときの「事」,つまり,存在そのもの,存在の真理そのものです.

ともあれ,Patrick Valas の site で公表されている版は,version Staferla, Staferla 版と呼んでください.Miller 版と読み比べると,しばしば,より良い読解の手助けとなってくれます.

1975-76年の Séminaire XXIII Le sinthome p.134 の図の「真なる穴」に関して. https://pic.twitter.com/CM6Dvi0c6S





Staferla 版の図も挙げておきましょう: https://pic.twitter.com/0izY1ESvyy




Lacan は徴在を穴と定義しながらも,ほかの図で JȺ と表示されているこの領域について「真なる穴はここにある」と言っています.

JȺ ≡ S(Ⱥ)

JȺ ≡ φ barré

これらふたつの相異なる等価性が Lacan の言っていることから導かれます.

しかし,このような矛盾を以て Lacan の「理論」は無価値だと論ずるのは,Roudinesco 流の不毛な議論です.むしろ,この矛盾に気づくことができたのは,ひとつの積極的な成果です.実在とは不可能在ですから,矛盾の地点にこそ実在はひそんでいます.

…………

彼は真摯で誠実なラカン研究者であるにもかかわらず、二つの図をくっつけてジジェク批判をしようと試みたことについては、その粗忽ぶりを晒している。

※この内容の前段にかかわる小笠原晋也氏の紆余曲折ぶりについては、「メモ:ラカンのセミネールⅩⅩⅡからⅩⅩⅢへの移行(JA→JȺ)」を見よ。小笠原晋也氏が最近「このような矛盾」に気づいたことがわかる(なお、ジジェクはすでに90年代半ばに、この矛盾に(別の角度から)気づいていたと、--具体的な記述はないにしろーーわたくしは見る:参照:象徴界(言語の世界)の住人としての女)。






2015年7月10日金曜日

メモ:ラカンのセミネールⅩⅩⅡからⅩⅩⅢへの移行(JA→JȺ)

まず、小笠原晋也氏の最近のツイッターセミネールからのメモ。

最近はそのツイートにやや混乱がみられ、質問者からの質問のたびに言を翻すようにさえみえるが、そうはいっても彼がすぐれたラカン解説者であるにはかわりない。ただし、一連のツイートのひとつにみられるように、Séminaire XXIIからXXIIIににおける JA→JȺ の移行をいまだ十分に把握していないことがその混乱の理由のひとつであるようには思われる。

(敢えていえば微笑を誘うほどの二転三転である。ハイデガー化されたラカン主義者への皮肉のひとつでも、括弧つきで書いておけば、 ‘Mange ton Dasein!'――「汝の現存在を食べよ」

これはラカンのハイデガーにたいする繰り返される皮肉な嘲弄らしいがさてどういう意味であるのかは、知るところではない)。

なお小笠原氏の訳語は特殊であり、たとえば悦は享楽であり、剰余悦は剰余享楽である。


…………

2015年06月25日(木)

「悦の禁止」ないし「禁止された悦」と言うとき以外は,Lacan が単純に jouissance と言うとき,それはもっぱら,剰余悦のことです.剰余悦という表現が作り出される前も後も,そうです.その限りで,悦と実在とを相互に等価な概念と見なすことは間違いです.

la jouissance de l'Autre[他の悦]と Lacan が言うときも,1972-73年の Séminaire XX においては,「他 A の身体を悦すること」と Lacan が注釈しているように,それは剰余悦です.

ただし,1975-76年の Séminaire XXIII Le sinthome において Lacan が la jouissance de l’Ⱥutre と言うとき,それは「性関係は無い」と等価の概念となります.

ですから,この図に関して先日 JȺ と S(Ⱥ) とが相互に等価であると言ってしまいましたが,それは誤りです.訂正します.Lacan 自身が le vrai trou est ici と言っていることにつられてしまいました. https://pic.twitter.com/Q6Eg0Qp8Yo

(2015年06月22日、次のようにツイートしているが、これは間違いだったということ。)

jouissance de l'Ⱥutre[他 Ⱥ の悦]は,穴としての a です.それは,学素 S(Ⱥ) が差し徴していること,すなわち,他 A の場処のなかの欠如の穴です.我々はこう書くこともできます: https://pic.twitter.com/hWRTl9thYn









より正確には,JȺ は,穴ではなく,Heidegger の表現で Ab-grund[無底深淵,無根拠としての根拠であるような深淵]と言うべきです.

厳密には,穴と深淵とは区別されます.深淵は,ex-sistence としての le réel のことです.それに対して,穴は,深淵の裂口として,le symbolique のことです.

ですから,措定されるのはこの等価性です: https://pic.twitter.com/By3HReMlDL




(この等価性の見解は、後に曖昧になる:6月30日のツイート参照。:引用者)

6月30日:果たして「他の悦」は,不可能な悦として φ barré であるのか,あるいは,何らかの穴として a が位置づけられる座のものであるのか?すぐさま決着をつけず,なおも思考し続けて行きましょう.


2015年06月28日(日)

Bonsoir, mes amis ! いただいた幾つかの御質問のうち,今日はふたつを考えてみましょう.ひとつは,jouissance de l’Ⱥutre が深淵であるなら,なぜボロメオ結びの図で JȺ の場所に位置づけられるのか? https://pic.twitter.com/o4sB8hoqNE

三輪ボロメオ結びを平面に投影して,ひとつの Venn 図のように描くことを,Lacan は1974-75年の Séminaire XXII RSI で初めて提示しています.その際には,JȺ ではなく JA と表記されています. https://pic.twitter.com/4a6hiT2TQA





わたしは RSI はまだ十分に読み込んでおらず,つまみ食いしているだけですが,Lacan は RSI では jouissance de l'Autre を,1972-73年の Séminaire XX Encore におけるように「他 A の身体の悦」と規定しているようです.

ということは,1974-75年の RSI では,剰余悦 a のまわりの意味悦とファロス悦と他の悦は三つとも,剰余悦 a の三つの様態である,と言うことができるかもしれません.そして,それは図の対称性の観点からは,より整合的であると言えるでしょう.

ところが,1975-76年の Séminaire XXIII Le sinthome においては Lacan は,JA ではなく JȺ と表記し,こう言っています:「徴在は,穴として特殊化されることによって分別される.しかし,驚くべきことに,真なる穴はここ [ JȺ ] にある.そこにおいて,他の他は無いということが啓かされる」(Séminaire XXIII, p.134).

さて,なぜ Lacan は JA から JȺ へ変えたのか?この問いに答えることは,わたしには今はまだできません.公式版のまだ出版されていない Séminaires XXI と XXII をもっと読みこんでみなくてはなりません.

さて,ふたつめの問い,l'Autre jouissance について.改めて調べてみると,Lacan 自身は l'Autre jouissance という表現は使っていないようです.

l'Autre jouissance という表現は,Jacques-Alain Miller が Encore のこの文 (p.77) に基づいて作ったものだと思われます:

C'est en tant que sa jouissance est radicalement Autre que la femme a davantage rapport à Dieu que tout ce qui a pu se dire dans la spéculation antique en suivant la voie de ce qui ne s'articule manifestement que comme le bien de l'homme.

「女の悦は根元的に他なる悦である限りで,女は,古代の思弁において明らかに人間[男]の善としてしか述べられないことの道に従いつつ言われ得たことすべてよりも,より多く神との関係を有している.」

Lacan の言葉は,日本語に訳してしまうとますます分かりにくくなってしまいます.ともあれ,女の悦,la jouissance féminine は,根元的に他なる悦である.何と異なるのか?勿論,男にとって可能な悦,つまり,ファロス悦とは異なる.

女の悦は,ファロス悦とは根元的に他なる悦である.そして,それがゆえに,女と神との関係は,男と神との関係より,より近しい,または,より密接である.あるいはそもそも,こう問わねばなりません:男は,男として,神との関係を持ち得るのか?

「関係」は原文で rapport です.つまり,「性関係」[ rapport sexuel ] の「関係」です.女は,神との性関係を持ち得る.Encore において Lacan は,アヴィラの聖テレサを始めとする神秘経験に準拠しつつ,そう考えます.

アヴィラの聖テレサと並んで神秘経験者のひとりに数えられる saint Jean de la Croix[十字架の聖ヨハネ,または聖ホアン]について,彼は女の側に位置づけられる,と Lacan は述べています (Encore, p.70).

神との性関係,それはまさに,jouissance de l’Ⱥutre です.男はファロス悦の関数のなかに記入される限りにおいて,そのような根元的に他なる悦に与ることはできません.

…………

2015年06月30日(火)

Bonsoir, mes amis ! 御質問をいただいたおかげで jouissance de l'Autre ないし jouissance de l’Ⱥutre について改めて考えてみると,ボロメオ結び投影図の JA ないし JȺ の領域はまさに神秘的になってきます.

果たして「他の悦」は,不可能な悦として φ barré であるのか,あるいは,何らかの穴として a が位置づけられる座のものであるのか?すぐさま決着をつけず,なおも思考し続けて行きましょう. https://pic.twitter.com/L0TD72wKcq





ともあれ,jouissance という用語に関しては,Lacan のテクストにおいて jouissance は le réel の位のものである,と無条件に断定することは誤りです.そう気づくまでにかなり苦労しました.

以前にも指摘したように,Jacques-Alain Miller の頭には,1966年1月5日の Séminaire で Lacan が提示した命題 : le a est de l'ordre du réel[a は実在の位のものである]が刷り込まれています.

Jacques-Alain Miller は当時21歳でしたから,彼がこの「a は実在の位のものである」という Lacan の命題をひとつの絶対的な断定と受けとめてしまったとしても,いたしかたありません.

ですから,Lacan が1968-69年の Séminaire で新たに a を plus-de-jouir と定義したとき,Jacques-Alain Miller は「悦は実在の位のものである」と思い込んでしまいました.

Les six paradigmes de la jouissance からも読み取れるように,Jacques-Alain Miller は jouissance そのものとの関連における plus-de-jouir の概念について十分に思考していません.

最も根本的な構造は,「性関係は無い」を代補する剰余悦というこの構造です: https://pic.twitter.com/kM7cCJ3L4a




しかし,1972-73年の Séminaire XX Encore においては Lacan は,ファロス悦に対して他なる悦としての jouissance féminine[女の悦,女性悦]に関して思考しています.この女性悦は,剰余悦 a に還元され得ません.

女性悦は,他 A の場処のなかの欠如の徴示素 S(Ⱥ) との関繋として思考されています: https://pic.twitter.com/bSzk1FLsq9



1973年2月13日の Séminaire において Lacan は,この女性悦について非常に微妙なことを言っています : s'il y en avait une autre, il ne faudrait pas que ce soit celle-là.

この命題をどう読むべきか?明日,引き続き考えて行きましょう.

Encore p.102 の dérive de la jouissance という表現に関しては,dérive は「本来的なものから逸れること」です.ですから,それは剰余悦を指していると解釈することができます.
(この黒字強調も後に曖昧化される:7月01日ツイートをみよ)


2015年07月01日(水)

Bonsoir, mes amis ! Encore p.102 の dérive de la jouissance という表現に関して,追加の御質問をいただいていますので,先に考えてみましょう.このフランス語表現においては,de は確かに両義的に解釈され得ます.

ひとつには : jouissance が,plus-de-jouir として,本来的なものから逸れる.もうひとつには : jouissance という本来的なものからの逸脱.いずれにせよ,Freud が Trieb と呼んだものは plus-de-jouir である,と言えます.

(Freud が Trieb と呼んだものは plus-de-jouir である、これは後に否定される)
※参照:2015年07月08日(水)

Bonjour, mes amis ! 6月30日から7月2日にかけて注釈した Séminaire XX p.102 の pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance に関して述べたことに混乱があったので,改めて御説明します.

Freud が性本能と呼んだものの本有は,抹消された存在,抹消されたファロス φ barré です.しかし,そのようなものとしての性本能は,そのものとしては存続し得ず,而して,剰余悦に支えられた構造においてしか思想可能ではありません. https://pic.twitter.com/rZtD7oISfJ

剰余悦 a を支えとする構造における性本能の現象を,Freud は,前オィディプス的ないし前性器的な部分本能の満足の現象として見出しました.Freud は,症状は代理満足である,とも言っています.実現され得ない性本能の満足の代理です.それも剰余悦の概念に包摂されます.


2015年07月01日(水)に戻る

Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie[性理論のための三論文]は,Freud の著作のなかでも最も重要なものに属します.最初1905年に書いたものに,Freud は,1910年,1915年,1920年と三回にわたってかなりの量の補足を行っています.

三論文の標題は: Die sexuellen Abirrungen, Die infantile Sexualität[小児における性本能],Die Umgestaltungen der Pubertät[思春期における性本能の変様].

最初の sexuelle Abirrung は要するに性倒錯のことですが,しかし,すぐさまそう訳してしまっては,このことが見えてきません : Abirrung は,本来的なものから逸れること,つまり dérive です.

性関係は無いのですから,あらゆる可能的な jouissance は本来的なものから逸れています.つまり,広い意味で性倒錯的です.plus-de-jouir とは,そのような可能的 jouissance です.

Séminaire XXIII p.121 の「膀胱を提灯と勘違いする」は,「性関係は無い」を剰余悦と勘違いする,というこの代理構造を差し徴している,とも解釈され得ます. https://pic.twitter.com/klJ1qwxmzw



jouissance という語について付け加えるなら,動詞 jouir の命令形を以て,Lacan は超自我の命令を公式化します.すなわち,超自我とは jouis ![悦せよ!]という定言命令です.そして,補足するなら,それは「性関係の本来的な悦を悦せよ !」です.

しかし,性関係は無いのですから,性関係の本来的な悦を悦することは不可能です.それゆえ,jouis ![悦せよ]という超自我の定言命令に対しては,こう応ずることしかできません : j'ouïs[我れは聞けり](Écrits, p.821).

jouis ![悦せよ]に対して,j'ouïs[我れは聞けり].つまり,性関係の本来的な悦ではなく,ひとつの剰余悦 a としての声を聞くことの悦を悦することしかできません.

さて,RSI のボロメオ結びの図における imaginaire と穴との関連について Lacan が Séminaire XXIII でこう言っているのに気づきました:

身体は言語存在の唯一の consistance である (p.66).

身体は,幾つかの裂口の支えである (p.56).

鏡像の悦,身体の悦は,裂口[の座]を占める相異なる客体を定立する (p.56).


とりあえず三つに分けて表記した Lacan の命題は,Jacques-Alain Miller 編纂のテクストからはやや読み取りにくいです.Valas 版のテクストを読み比べていて,やっと気づくことができました.

……

2015年07月02日(木)

Bonsoir, mes amis ! 引き続き jouissance に関して御質問をいただいています.jouissance は Lacan の最も重要な概念のひとつです.徹底的に問い続けねばならないことです.質問者に感謝します.

まず Séminaire XX Encore p.102 の la dérive pour traduire Trieb : la dérive de la jouissance の箇所に戻りましょう.

Freud は1915年の Metapsychologie 諸論文のひとつ Verdrängung[排斥]においてこう言っています : eine Triebbefriedigung ist immer lustvoll[本能満足は,常に Lust に満ちている].

Freud は勿論,性本能のことを論じようとしています.「性本能の満足は Lust に満ちている」と言うとき,Lust は単純に plaisir[快]と訳すことはできません.なぜなら,性本能の満足においては,「快の彼方」がかかわっているからです.

快の彼方としての Lust を翻訳するために,Lacan は jouissance という語を用います.

(……)

la dérive de la jouissance に戻ると,より正確には,Trieb すなわち dérive ではなく,そう呼ばれ得るのは,部分本能としての性本能の満足です.そのような性本能の満足は,広い意味で性倒錯的です.

dérive de la jouissance[悦の逸脱]と同義の表現として,1973年の Télévision に見出される égarement de notre jouissance[我々の悦のさまよい](Autres écrits, p.534) も想起されます.

さらに,1973-74年の Séminaire XXI Les non-dupes errent[だまされぬ者らは,さまよう].だまされないことの反対は,勿論,だまされることです.何にだまされるのか?「無意識にだまされる」のです.「何かが語る」としての無意識.

無意識において何かが語る.語るのみならず,真理を言う.そう信ずることは,だまされることです.なぜなら,何かは真理をすべて言うわけではなく,語り出された言表は,真理そのものではなく,真理の仮象にすぎないからです.

にもかかわらず,無意識の場処に知を仮定しつつ,何かが真理を言っている,と信ずること.そう信ずる者は dupe[だまされた者]です.しかし,だまされない者たちはさまよう.つまり,悦のさまよい,悦の逸脱に陥る.つまり,性倒錯的な剰余悦に捕らわれたままとなっている.

そのようなさまよいから脱出するためには,一旦,だまされることが必要です.無意識にだまされること.無意識の場処に知を仮定すること.つまり,転移において,みづから精神分析を経験すること.それを通ることによって初めて,悦のさまよいから脱することができます:精神分析の終わりにおいて.


※追記(質問者の疑義に応じて)

2015年07月11日(木)ツイート

Lacan は徴在を穴と定義しながらも,ほかの図で JȺ と表示されているこの領域について「真なる穴はここにある」と言っています.
JȺ ≡ S(Ⱥ)
JȺ ≡ φ barré
これらふたつの相異なる等価性が Lacan の言っていることから導かれます

しかし,このような矛盾を以て Lacan の「理論」は無価値だと論ずるのは,Roudinesco 流の不毛な議論です.むしろ,この矛盾に気づくことができたのは,ひとつの積極的な成果です.実在とは不可能在ですから,矛盾の地点にこそ実在はひそんでいます.

…………

ラカンのJA→JȺ の移行を詳細に説明する解釈者は、わたくしの知るかぎりひどく少ない。以下、いままで何度か部分的に私訳してしめしてきたLorenzo Chiesaの書物から英文のまま抜き出しておく。もちろんこの解釈が正しいなどというつもりは毛頭ない。わたくしが巡りあった唯一の詳細にわたる解釈というだけである。

◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007

The third variant refers to what Lacan names Other-jouissance, which he denotes with the algebraic sign JA; in the early 1970s, Other-jouissance is famously associated with feminine jouissance. Other-jouissance should definitely not be confused with the jouissance of the Other. Should we then regard it as extrasymbolic? If, on the one hand, it is true that, in Seminar XX, Other-jouissance seems to indicate the pure jouissance of the Real beyond any symbolic contamination—indeed, it is located “beyond the phallus”270—on the other, it should be evident by now that such a definition of Other-jouissance is highly problematic for any serious attempt to develop a consistent theory out of Lacan's antistructuralist move. The first versions of the so-called Borromean knot—a topological figure which Lacan uses to represent the interdependency of the orders of the Real, the Symbolic, and the Imaginary in the subject (see graph 5.4 below)—show us precisely where the difficulty , if not the contradiction, lies:271 JA (Other—feminine—jouissance) lies outside the ring of the Symbolic, but it is not outside all the rings. In other words, without the ring of the Symbolic it would not be possible to have the Borromean knot and, consequently , not even JA. The important point to grasp here is that feminine jouissance remains indirectly related to the Symbolic: the feminine not-all is ultimately both different from and dependent on the phallic Symbolic, precisely insofar as it stands as the not-all of the Symbolic, its constitutive point of exception. . . . 272 Consequently JA cannot stand for the jouissance of the “real Real”: in other words, there is no Other-jouissance given that there is no Other of the Other.

Lacan seems to become aware of this deadlock in Seminar XXIII, in which in fact J (A barred), a fourth variant of the notion of jouissance, takes the place of JA in the Borromean knot (see graph 5.5).273 In one of the most important lessons of that year, Lacan says: “J (A barred) concerns jouissance, but not Other-jouissance . . . there is no Other-jouissance inasmuch as there is no Other of the Other.”274 The passage from the notion of Other-jouissance JA to that of the jouissance of the barred Other J (A barred) epitomizes the distance that separates Saint Teresa's holy ecstasy , as referred to by Lacan in Seminar XX, from the “naming” of lack carried out by Joyce-le-saint-homme, as analyzed in detail in Seminar XXIII. In this seminar, JA (of Woman; of God) becomes impossible; however, feminine jouissance could be redefined in terms of J (A barred).275 J (A barred) is therefore a (form of ) jouissance of the impossibility of JA. Most importantly , I must emphasize that the jouissance of the barred Other differs from phallic jouissance without being “beyond” the phallus.

The elaboration of the notion of J (A barred) also has a significant repercussion for Lacan's late dictum according to which “Y a d' l'Un (“There's such a thing as One”).276 In Seminar XX, Lacan seems to identify this One with JA, with the idea of a pure Real conceived of in the guise of pure difference, a fermenting Nature; although in Seminar XXIII he declares that JA is meant to designate the fact that there is a Universe, he nevertheless specifies that it is quite improbable that the Universe is, as such, a Uni-verse, that the Universe is a One (of pure, Other-jouissance).277 That is to say , a pure, mythical Real—the undead—must be presupposed retroactively , but it cannot be counted as (a self-enjoying, divine) One, not even as the supposedly “weaker” One of pure difference.

At this stage, we should ask a crucial question: how does the jouissance of the impossibility of Other-jouissance, the jouissance of the barred Other, distinguish itself from “standard” phallic jouissance? After all, the latter is also, in its own way , a form of barred jouissance, of jouis-sans. . . . Lacan's straightforward answer is: phallic jouissance makes One, whereas J (A barred) makes the individual. If phallic jouissance (of the object a) makes the symbolic One, increasingly pretending to obliterate the lack, on the other hand, J (A barred), which also enjoys the object a, makes the individual who, as it were, develops “his own” Symbolic from that lack. Joyce is “the individual” for Lacan insofar as he succeeds in subjectivizing himself by (partially) individualizing the object a, the lack in the Symbolic;278 the individual is not the ideological One, but stands for another modality of the One, another (nonpsychotic) way of inhabiting the Symbolic, “starting” from its real lack. In this way , the leitmotiv of the ex nihilo finds a new expression which goes beyond the “suicidal” figure of Antigone.

Here, I should particularly emphasize the way in which Lacan closely associates the emergence of J (A barred)—which he also more famously calls the sinthome— with the issue of the naming of the Real and the “marking” of jouissance, with the long-deferred question concerning the way in which the subject should bring about a reinscription in and a resymbolization of the Symbolic after he has temporarily assumed the real lack in the Other.279 For Lacan, Joyce is indeed “Joyce-le-sinthome.”280 If, on the one hand, it is true that Joyce “abolishes the symbol”281 (his “subscription to the [existing, hegemonic] Unconscious”),282 on the other, it is equally the case that the “identification with the sinthome” (as the naming of one's Real) advocated in Lacan's last works as the aim of psychoanalysis could never amount to a permanent subjective destitution, a psychotic nonfunctioning of the Symbolic. In opposition to such a mistaken conclusion, I should stress that:

(1) Joyce is—to adopt a formula proposed by Leader—a “non-triggered” psychotic. He is initially “in between” neurosis and psychosis, and subsequently man-ages to produce a (partially) individualized Symbolic;

(2) neurotics can eventually turn their ideological symptom—the jouissance imposed by hegemonic fundamental fantasies—into a nonpsychotic sinthome when they undergo the traversal of the fundamental fantasy , the moment of separation from the Symbolic and the subsequent process of symbolic reinscription through a new, individualized Master-Signifier. This also means that Joyce, despite not being a psychotic, does not initially need to traverse any fundamental fantasy . Unlike neurotics, he is already separated from the Symbolic; instead, he needs to create his founding Master-Signifier. As Miller puts it: “[Joyce's] authentic Name-of-the-Father is his name as a writer . . . his literary production allows him to relocate himself in the meaning he lacked.”283

※註

270. The Seminar of Jacques Lacan, On Feminine Sexuality, The Limits of Love and Knowledge. Book XX, Encore, 1972–1973 (New York: Norton, 1999), p. 74.

271. Graph 5.4 represents a synthesis of the different versions of the Borromean knot proposed by Lacan in Seminar XXII, “R.S.I.,” 1974‒1975, unpublished (see lessons of January 21, 1975 and January 14, 1975).

272. “The feminine ‘non-All’ does not mean that there is a mysterious part of woman outside the symbolic, but a simple absence of totalization”( S. Zˇizˇek, The Puppet and the Dwarf: The Perverse Core of Christianity [Cambridge, MA: MIT Press, 2003], p. 68).

273. See Le séminaire livre XXIII, p. 55.

274. Seminar XXIII, lesson of December 16, 1975. This passage has been modified beyond recognition in the Seuil version of Seminar XXIII. I rely here on the version provided by the École Lacanienne de Psychanalyse.

275. In this way, it would be easy to think of Joy-cean jouissance as a thorough reelaboration of the jouissance of the mystic which Seminar XX had already paired up with feminine jouissance. It then also becomes clear why Lacan’s recurrent parallelism between Joyce and a saint is far from being gratuitous (“Joyce-the-sinthome is homophonous with sanctity”; J. Lacan, “Joyce le symptôme,” in Le séminaire livre XXIII, p. 162).

276. See, for example, The Seminar. Book XX, p. 5.

277. Le séminaire livre XXIII, p. 64. Lacan also unequivocally states: “I would say that nature presents itself [se spécifie] as not being one. From this then follows the problem of which logical procedure [we should adopt] in order to approach it” (ibid., p. 12).

278. “Joyce identifies himself with the individual” (“Joyce le symptôme,” p. 168).

279. As for the strict relation between the sinthome and a particular form of jouissance, Lacan writes: “Joyce is in relation to joy, that is, jouissance, written in the llanguage that is English; this en-joycing, this jouissance is the only thing one can get from the text. This is the symptom” (ibid., p. 167).

280. Ibid., p. 164.

281. Ibid.

282. Ibid.

283. J.-A. Miller, “Lacan con Joyce: Seminario di Barcellona II,” La Psicoanalisi, no. 23 (1998), p. 40.


※なお、Lorenzo Chiesaの論文に出てくる“Y a d' l'Un”については、「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る」を見よ。