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2015年10月22日木曜日

S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴)

たとえば、trait unaire(一つの特徴)の機能は、《徴のもっともシンプルな形であり、厳密に言って、シニフィアンの起源である》、そしてさらに《知としてわれわれ分析家に関心をもたらす全ては、trait unaireに起源がある》というような意味のことをラカンはセミネールⅩⅦで言っている。

…la fonction du trait unaire, c'est-à-dire de la forme la plus simple de marque, c'est-à-dire ce qui est, à proprement parler, l'origine du signifiant.

Et j'avance, ceci qui n'est pas dans le texte de FREUD… j'avance ceci qui n'est pas vu dans le texte de FREUD, et qui ne saurait d'aucune façon être écarté, évité, rejeté, par le psychanalyste …c'est que c'est du trait unaire que prend son origine tout ce qui nous intéresse, nous analystes, comme savoir. (Lacan,Séminaire ⅩⅦ Staferla 版 P.56)

trait unaireは《享楽の侵入の記念物》commémore une irruption de la jouissance(p.105)などともある。

さらにはこうもある。

C'est à savoir par exemple que le trait unaire… pour autant qu'on peut s'en contenter, on peut essayer de s'interroger sur le fonctionnement du signifiant-Maître p.323

この文から、trait unaire(一つの特徴)は主人のシニフィアンS1であるとはダイレクトには言えないにしろ、ほとんどそういっているとしてよいだろう。

ジュパンチッチは《ラカンは、フロイトのたった一つの特徴を、彼がS1として書くものと繋げている》としているが、この文自体、S1=trait unaireと直接的に言っているわけではない。

とはいえ、主人のシニフィアンS1を考えるときに、このtrait unaire(一つの特徴)概念は欠かせないはずだ。

しかもラカン自身が《知としてわれわれ分析家に関心をもたらす全ては、trait unaireに起源がある》[c'est que c'est du trait unaire que prend son origine tout ce qui nous intéresse, nous analystes, comme savoir]と言っているのだから。

「ひとつの特徴」"trait unaire" とはフロイトが『集団心理学と自我の分析』での用語 einziger Zugの訳である(参照:享楽とシニフィアン(ジュパンチッチ=ラカン))。

ポール・ヴェルハーゲは上に掲げたラカンの言葉を引用しつつ、次ぎのように記している(参照:享楽の「侵入」)。

享楽は、侵入を通して身体に生じる。この侵入は徴(unary traitとそれに引き続く全ての主人のシニフィアン)を得る。すなわち享楽は、大他者の介入を通して、身体に刻印される。((Paul Verhaeghe,Enjoyment and Impossibility, 2006 私訳)

※ここにある「侵入」の徴とは、最初の大他者、(m)Otherによる侵入の刻印、おそらくtrait unaireだが、後ほどやや詳しい引用をする。


フロイト、ラカンともにはっきりと語らなかった原固着、原抑圧もおそらくこのtrait unaire(一つの特徴)にかかわるのではないか。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている「固着」である。

②「正式の抑圧(後期抑圧)」の段階はーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ既に抑圧の第二段階である。

③第三段階は抑圧の失敗、侵入という現象、「抑圧されたものの回帰」である。この侵入とは「固着」点から始まる。そしてその点へのリビドー的展開の退行を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』からだが、英訳より摘要)

※ジジェクは原抑圧は抑圧ではなく、抑圧を生みだす形式である、と言っている。

Is what Freud called Ur‐Verdrängung (primordial repression) a candidate for this role? Primordial repression is not a repression of some content into the unconscious, but a repression constitutive of the unconscious, the gesture which creates the very space of the unconscious, the gap between the system cs/pcs and the unconscious.(ZIZEK.2012)

…………

 さて以下、ポール・ヴェルハーゲの(原)固着や原抑圧をめぐる記述をいくつか並べておこう。

原無意識はフロイトの我々の存在の中核あるいは臍であり、決して(言語で)表象されえず、固着の過程を通して隔離されたままであり、背後に居残ったままのもの a staying behind である。これがフロイトが呼ぶところの原抑圧である。このフロイトの臍が、ラカンの欲動の現実界、対象aだ。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive,2001,私訳)

 ※参照:夢の臍、あるいは菌糸体

《フロイトの臍が、ラカンの欲動の現実界、対象aだ》とあるが、ここでの対象aは、【Lorenzo Chiesaによる対象aの五つの定義】に従えば、③のものに相当する。

①S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目の想像的表象
②主体から想像的に切り離されるうる部分対象
③シニフィアン化される前の、すなわちS(Ⱥ)以前の Ⱥ
④母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望
⑤アガルマ、すなわち隠された秘宝、あなたのなかにあってあなた自身以上のもの。

さらに《背後に居残ったままのもの a staying behind》については、次の文がよいだろう。

フロイト理論において、快感原則は、"シニフィアン内部"で機能する、すなわち表象Vorstellungenとともに、ということである。そこでの"拘束されたbound"エネルギーは、いわゆる二次的な過程内部に結びつけられる。快感原則の彼岸に横たわるものは、表象によって表現され得ず、一次的な過程内部での"自由なfree"エネルギーとともに作動する。後者は自我にトラウマ的な影響を与える。ラカンの現実界とは、フロイトの、原抑圧された無意識の臍であり、固着のせいで居残ったstays behindものである。"居残るstays behind"が意味するのは、「シニフィアンに、言語に転換されない」ということである(Freud, letters to Fliess, dd. 30th May 96, 2nd Nov.96)。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive)

…………

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、《象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外-存在(外立ex-sistence)するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動》である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)
ラカンは言明している、主体は二つの条件のみで享楽を経験し得ると(S.17)。その二つとは、享楽は刻印されなければならず、反復はその刻印を中心に置かねばならないということだ。

この理屈の胚芽はフロイトに見出される。彼はどの母親も子どもを世話するとき「誘惑する」と言っている。事実、世話をする行為は、常に身体の境界領域であり、享楽がある場と同じである(口唇、肛門、性器、肌、目、耳)

セミネールXX(アンコール)で、ラカンは「享楽の実体」としてのリアルな身体を叙述している(p. 23)。享楽の初期の経験(侵入)は同時に身体の上の刻印であると(p. 89)。(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、PAUL VERHAEGHE 2009)

ヴェルハーゲの見解では、母親の「誘惑」によって徴づけられたものが「一つの特徴trait unaire」であり、その徴は、口唇、肛門、性器、肌、目、耳などになされるということになる(参照)。そして、ここでの「耳」は、ただ母親に触られるだけではなく、(幼児の喃語に応じる)母親の喃語≒ララングとしても解釈できるはずだ。

これらがシニフィアンの起源であり、ひょっとしたらS1(主人のシニフィアン)の起源でもありうる。

これからお話しするのは、皆、おそらく混同していることが多々あるからです。わたしのスピーチがある種のオーラを発していて、そのことで皆、言語について、混同している点が多々見受けられます。わたしは言語が万能薬だなどとは寸毫たりとも思っていません。無意識が言語のように構造化されているからではありません。(ラカン『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74
「言語は無意識からのみの形成物ではない」とわたしは断言します。なにせ、lalangue  に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができるのですから。他の知、それは、どこか、フロイトが想像した場所にあります。(ラカン、於Scuala Freudiana 1974.3.30)

…………

ところで、S1 ≒ trait unaire なら、S2(諸シニフィアンの連鎖)との関係はどうなるのだろう。

セミネール17のまさに始めから、我々は学ぶだろう、S2は、主体のような何かがある以前にすでに現前presentしていることを。S1は後に、S2のなかの干渉interferenceとしてゲームに参加するだけである、かつ主体のポジションの徴indicationとして。S1の導入は、構造的オペレーターとしての父の機能である。S1とS2とのあいだの弁証法的な交換のなかで反復が動きはじめる瞬間から、主体は分割された主体となる。その主体は享楽を得るためにS2に到ろうとする。これはまさに享楽の喪失のまさに原因であるにもかかわらず。(ヴェルハーゲ,2006)

ラカンは一方で S1 ≒ trait unaire が最初のシニフィアンだといい、 他方、人は生れた瞬間から(いやそれ以前から)S2があるという。これをどのように理解したらいいのだろう?

ロレンツォ・キエーザLorenzo Chiesaは『主体性と他者性Subjectivity and Otherness』2007にてReal-of-language—as unmediated, unsymbolized letterということを言っている。

すなわち《言語の現実界ーーなにものにも仲介されていない、象徴化されていない文字》と。

もし、一方で、〈大他者〉の立場からは、言語と象徴界は完全に一致するとしても、他方、新生児にとってはそれは全く当てはまらない。赤子にとって言語はいつも-常にそこにあるが、構造的に言語に伴う象徴的関係はまったく謎のままである。結果として、幼児は積極的に「学ばなければならない」、象徴界としての〈他者〉に入場するやり方を。かつまた個人として〈他者〉にいかに入場するかを。というのは、最初は、幼児は言語のなかに受動的に疎外されているだけなのだから。(Lorenzo Chiesa,2007)

ロレンツォの見解を「額面通り」とればーー彼はそこまで言っていないがーー、最初からS2なるものがあるとするのは厳密に言えば間違いだということになる(新生児にとっては)。S2ではなく《なにものにも仲介されていない、象徴化されていない文字Letter》しかない、と。

文字letterは、それ自体、無意識のなかに物質的に存在するシニフィアン以外のなにものでもない。それはどんな(意識的な)意味作用の影響からも独立して、在る。ミレールははっきりと言っている、文字は「記号である、シニフィエとしての影響のなかには定義されえず、対象としての特質のなかで定義される記号である」(J.-A. Miller, “Préface,” in Joyce avec Lacan, 1987)と。(Lorenzo Chiesa,2007)

S1、あるいはそれに近い機能を果たすものが導入されて後、はじめて文字はシニフィアンに漸次変わってゆく。

子どもは、エディプスコンプレックス(その消滅)を通して象徴界への能動的な入場 active entry をする前に、文字 letter としての言語、言語のリアル Real-of-language に関係する。 人は原初の肝所を思い描くことを余儀なくされる、肝所、すなわちペットのように言語のなかに全き疎外されている状態を。これはたんに神話的な始まりを表すだけに違いないとは いえ、それにもかかわらず、子どもは、いかに話すかを学んだのちも、(文字としての)言語によって話され be spoken by language 続ける。(Lorenzo Chiesa,2007)

すなわち、《ある数のシニフィアンーーS2s を越えたものでありながら正当な S1 の地位を獲得していないいくつかのシニフィアンの手段によってのみ》、文字はシニフィアンに変わってゆく。

これは初期ラカンの次ぎの言明を説明する、《人間にとって、「正常 normal」と呼ばれるためには、彼は「最低限の数」の縫合点 “a minimal number” of quilting points を獲得しなけ ればならない》(The Seminar Book III, pp. 268‒269)。(参照:精神病、あるいは「父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す」症状)。

※「最低限の数」の縫合点とは、la conjonction minimale(S.3 Staferla 版,p.410)であり、有名なpoint de capiton(ポワン・ド・キャピトン〔クッションの綴じ目〕)(同、p.564)ではないが、殆ど同じ意味だろう。

ラカン曰く、人が「昼と夜」と言えるようになる前には、昼と夜はない。 ただ光のヴァリエーションがあるだけだ。

世界に「昼と夜」というシニフィアンが導入されたとき、何か全く完全に新しいものがうまれる。 (ミレール、The Axiom of the Fantasm、 Jacques-Alain Miller、2013)


ここでの「光のヴァリエーション」がシニフィアンの鎖S2(S2s)ーーいやS2になる以前の言語の現実界=文字Lettreーーであり、「昼と夜」がS1(主人のシニフィアン)、ーーいや、ここでもロレンツォの言い方なら、《S2s を越えたものでありながら正当な S1 の地位を獲得していないいくつかのシニフィアン》ーーである。

《S1はどんなシニフィアンでもいい》(セミネールⅩⅦ)、かつS1は「留め金stopper」とはこの意味合いから理解できるだろう。

S1はシニフィアン〈一〉から来る、その格言「〈一〉のようなものがある」(Y a de l'Un)にて。これに基づいたS1はどんなシニフィアンでもいい。こういうわけで、彼の言葉遊びS1、essaim(ミツバチの群)がある。問題はシニフィアンの特質ではなくその機能である。一つの袋(envelope封筒)を与え、そのなかで全てのシニフィアンの鎖が存続できるようにするのだ(S.20)。 (Paul Verhaeghe, (2006). Enjoyment and Impossibility ポール・ヴェルハーゲ「享楽と不可能性」より、2006,私訳ーー"Credo quia absurdum"ーー「私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」

最後にこうつけ加えておこう。これはいまだ消化不良であり、S1はゼロ記号ではないか(神とはゼロ記号ではないか)という問いにかかわるものだ(参照:「メタランゲージはない」と「他者の他者はない」)。

S1とS2の間の差異は同じ領域内の二つの対立する差異ではない。むしろ〈一 〉(One)の用語に固有のこの領域内の裂け目である。すなわち原初のカップルは二つのシニフィアンのカップルではない。そうではなくシニフィアンとその二重化reduplicatio、シニフィアンとその記銘 inscription の場、〈一〉とゼロのあいだのカップルである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

…………

※附記

言語の現実界=文字lettreとは、《分節しがたいものの不定形なマグマ状の連続体》ではなく、《すべての要素がそれぞれに異なった自分をわれがちに主張しあっている》カオス(現前化しつつある差異の立ち騒ぐ領域)として理解できるのではないか。

たとえば「シニフィアンとシニフィエの絆は、ひとが混沌たる塊に働きかけて切り取ることの出来るかくかくの聴覚映像とかくかくの観念の切片の結合から生じた特定の価値のおかげで、結ばれる」とソシュールが書くとき、その「混沌たる塊」こそ、現前化しつつある差異の立ち騒ぐ領域なのである。ソシュール自身のよってときにカオスとも呼ばれ、丸山圭三郎がイェルムスレウの術語の英語訳としてのパポートを採用しているものにも相当するこの「混沌たる塊」は、しかし、『ソシュールの思想』の著者が考えているように、分節しがたいものの不定形なマグマ状の連続体といったものではない。たしかにソシュール自身もそうした誤解を招きかねない「星雲」といった比喩を使ってはいるが、あらゆるものがもつれあっているが故にそれがカオスと呼ばれるのではなく、そこにあるすべての要素がそれぞれに異なった自分をわれがちに主張しあっているが故にカオスなのである。

なるほど、一見したところそこには秩序はないが、しかし、秩序はそこからしか生じえないはずのものであり、これを「コスモス=分節化されたもの」と「カオス=分節化以前のもの」の対立としてとらえるかぎり、作家としてのソシュールが視界に浮上する瞬間は訪れないだろう。「作家」とは、みずからを差異として組織することで「作品」という差異を生産するものだからである。もちろんこの差異はコスモスには属していない。

「『星雲』というのは、シーニュによる分節以前の実質である意味のマグマを指して」いると丸山圭三郎が主張している(『ソシュールを読む』、四〇頁)が、では彼は、「シーニュ」の分節能力はどこからくるというのだろうか。ソシュールにとって、「ラング」が差異の体系だといったことぐらいなら、いまでは誰もが知っている。事実、「シーニュがあるのではなく、シーニュの間の差異があるだけだ」といったたぐいのことをソシュールはいたるところで口にしているし、「シーニュ」は「純粋に否定的で示差的な価値」しか持ってはないとさえ念をおすことを忘れてはいない。だがソシュールが、そうした記号概念を知っているということは、同時に、彼自身がまぎれもなく書いた言葉の中に、あからさまにそうと明言されてはいなくとも、彼がまぎれもなく知っている別のことがらを読み取ることをうながしているはずである。(蓮實重彦『「魂」の唯物論的擁護にむけて』

ほかにも蓮實重彦は《体系化された否定的な差異と体系化されることのない積極的な差異との差異》ということを言っている(参照:ソシュールの記号概念をめぐって〔蓮實重彦))。

ここで前回引用した、ドゥルーズ&ガタリの美しい文、《暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ……歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ》 をどう読むべきか、を判断するのは〈あなた〉しだいである、といっておこう。

カオスとは、分節しがたいものの不定形なマグマ状の星雲なのか、それともそこにあるすべての要素がそれぞれに異なった自分をわれがちに主張しあっている状態なのか、そして、そのカオスの秩序をもたらす小さな歌声はシニフィアンの起源のひとつではないのか、と。


…………

さてこう記してきて、ひとつの言葉をやっといま思い起した。

ラカンのセミネールⅩⅩ(アンコール)に出てくる signifiance、もしくは l’être de la signifiance である。(シニフィアンの実在? なんという美しいパラドックス! と記すのは、ポール・ヴェルハーゲ2002だ)。

Et l'être de la signifiance, je ne vois pas en quoi, n'est-ce pas, je déchois aux idéaux, aux idéaux je dis, parce que c'est tout à fait hors des limites de son épure, au matérialisme, tout à fait en dehors des limites de son épure de reconnaître que la raison de cet être de la signifiance c'est la jouissance en tant qu'elle est jouissance du corps. P.73

ーー《signifianceの実在は享楽、身体の享楽のこと》とある。

L'atome, c'est simplement un élément de signifiance volant. C'est un στοιχεῖον [stoïkheion] tout simplement.p.73

ーーかつまた飛翔する signifiance の要素は、στοιχεῖονとある。

στοιχεῖον の意味は、要素element、原要素principal constituent、文字letter、あるいは発言の部分part of speechである、とブルース・フィンクは自らのアンコール英訳の注にて説明している。

すなわち文字、あるいは原要素である。ラカンはこの時期になってS2なるものの真のあり様を明瞭化したと言ってよい(いや「精神病」のセミネールにて、すでに《aspect de signifiant pur》、すなわち純シニフィアンの側面という表現が出て来ているのを忘れないでおこう、これは明らかに文字Lettreやsignifianceと相同性がある)。

Comme tout ça se produit n'est-ce-pas, grâce à… à l'être de la signifiance, et que cet être n'a d'autre lieu que ce lieu de l'Autre que je désigne du grand A, on voit la biglerie – hein ? – de ce qui se produit : c'est comme cela aussi, enfin, que s'inscrit la fonction du père en tant que c'est à elle que se rapporte la castration, alors… alors on… on voit que ça fait pas deux « Dieu », mais que ça n'en fait pas non plus un seul. P.78

ーーさらに signifiance の存在 l'être de la signifiance は、大文字のAを示す他の場処 [ le lieu de l'Autre ]ともある。

これらから signifiance とはロレンツォの云う象徴化される以前の文字 Lettre であることがわかる。しかもそれが身体の享楽であるなら、ララング lalangue との関連がある(そしてστοιχεῖονも文字lettreである)。

セミネールⅩⅩ(アンコール)の最後近くに見事にラカンの重要概念が重なって現われる。

c'est l'essaim dont je parle. Le signifiant comme maître, à savoir en tant qu'il assure l'unité, l'unité de cette copulation du sujet avec le savoir, c'est cela le signifiant maître, et c'est uniquement dans lalangue, en tant qu'elle est interrogée comme langage, que se dégage - et pas ailleurs – que se dégage l'ex-sistence de ce dont ce n'est pas pour rien que le terme στοιχεῖον [stoïkeïon] : élément [élément premier→ élémentaire] soit surgi d'une linguistique primitive[cf. RSI, 18-02-1975], ce n'est pas pour rien : le signifiant 1[S1] n'est pas un signifiant quelconque, il est l'ordre signifiant en tant qu'il s'instaure de l'enveloppement par où toute la chaîne subsiste. P.135

・le signifiant maître 主人のシニフィアン
・linguistique primitive 原言語学
・lalangue ララング 
・l'ex-sistence 外-在(現実界)
・στοιχεῖον 原要素(=lettre 文字)
・l'enveloppement par où toute la chaîne subsiste 全てのシニフィアンの鎖が存続するものとしての封筒 l'essaim(=S1)

ほかにもアンコールにはl'êtrernel という合成語がある。

フィンク英訳注にはこうある。

l'êtrernel is a conflation of être (being) and eternel (eternal), and perhaps of lettre (letter) as well. l'Éternel is a term for God .

いずれにせよ、être de la signifiance などが照射するのは、《大文字のAを示す他の場処 [ le lieu de l'Autre ]》なるものが、通念とは全く異なったもの、少なくとも言語の否定的な差異のみの場では全くない、という側面だ。

すなわち《体系化された否定的な差異》の大文字のAではなく、《体系化されることのない積極的な差異》の大文字のAという側面である。

それはロレンツォ・キエーザの表現なら、《言語の現実界ーーなにものにも仲介されていない、象徴化されていない文字》ということになるはずだ。

ーーとすれば、ポール・ヴェルハーゲさん、あなたがこう記すのは、なにか核心的なものをハズシテイルるのではナイデショウカ?

象徴秩序、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、〈一者 One〉を同じものとするラ カンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。システムと しての象徴秩序は、差異をもとにしている(ソシュール参照)。差異自体を示す最初のシニ フィアンは、ファルスのシニフィアンである。それ故、象徴秩序は、ファルスのシニフィアン を基準にしている。一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダ ーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に〈一者〉と非一者である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二項対立の論拠、ある者かそのある者でないか、を適用 することによって、一体化の形で作用する。(ポール・ヴェルハーゲ Paul Verhaeghe、 Lacan's Answer to the Classical Mind/Body Deadlock 2002 私訳)

…………

もちろん、我々は、カオスの秩序をもたらす小さな歌声はシニフィアンの起源であるのか、と問うたことにより、「リトルネロ」とつぶやくことができる。

われわれは、リトルネロ(リフレイン)こそ、まさに音楽の内容であり、音楽にひときわ適した内容のブロックであると考える。一人の子どもが暗闇で心を落ち着けようとしたり、両手を打ち鳴らしたりする。あるいは歩き方を考え出し、それを歩道の特徴に適合させたり、「いないいない、ばあ」(Fort-Da)の呪文を唱えたりする(精神分析家は《Fort-Da》を適切に語ることができない。《Fort-Da》は一個のリトルネロだというのに、彼らはそこに音素の対立関係や、言語としての無意識を代理する象徴的構成要素を読みとろうとするからだ)。タララ、タララ。一人の女が歌を口ずさむ。「小声で、やさしく一つ節を口ずさむのが聞こえた。」小鳥が、独自のリトルネロを歌いはじめる。ジャヌカンからメシアンにいたるまで、音楽は実にさまざまな形で、小鳥の歌に貫かれている。ルルル、ルルル。音楽は幼児期のブロックによって、また女性性のブロックによって貫かれている。音楽はありとあらゆるマイノリティに貫かれているが、それでもなお絶対な力能を構成する。子供たちのリトルネロ、女たちの、さまざまな民族の、さまざまな領土の、そして愛と破壊のリトルネロ。そこにリズムが生まれる。シューマンの全作品はリトルネロや幼児期のブロックから成り立ち、そこに独自の処理がほどこされている。こうしてシューマン独自の子供への生成変化と、クララという名をもつ女性への生成変化が生まれる。子供の遊戯や子供時代の光景、そして小鳥の歌をすべて拾いあげ、音楽史上のリトルネロが示す斜線上の、あるいは横断的な用例を一覧表にまとめあげることはできるだろう。しかし一覧表など何の役にも立たない。実際には音楽にとって本質的で必然的な内容が問題となっているのに、一覧表を作ってしまうと、主題や題材のモチーフの豊富な実例に目を奪われることになるからだ。リトルネロのモチーフは不安、恐怖、悦び、愛、労働、行進、領土など、さまざまでありうる。しかしリトルネロ自体はあくまでも音楽の内容なのである。

われわれは、リトルネロが音楽の起源であるとか、音楽はリトルネロをもって始まると主張しているのではない。いつ音楽が始まるのか、実のところよくわからないのだ。それにリトルネロは、むしろ音楽を妨げ、祓いのけ、あるいは音楽なしですませるための手段ではないか。しかし音楽が存在するのは、リトルネロもまた存在するからだ。音楽は内容としてのリトルネロととりあげ、これをつかもとって表現の形式に組み入れるからだ。音楽がリトルネロとブロックをなし、それを別のところにもたらすからだ。それ自体は音楽でない子供のリトルネロが、音楽の<子供への生成変化>とブロックをなす。(千のプラトー「強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……」p344)

黒字強調したことが何を意味するのかは、いうまでもないだろう。

そして上に見たように、ラカンによって提出された、lettreや signifiancelalangue などの概念の意味合いが分かれば、このドゥルーズの批判はラカンに当てはめるわけにはいかない(もっとも1960年代にシニフィアンのラカンが強調されすぎた、ということはあるだろうが)。

ドゥルーズ(&ガタリ)自身、フロイト批判の文脈で言っており、たとえば『アンチ・オイディプス』には、《確かに彼(ラカン)は、オイディプス的構造によって無意識を封じこめてはいないのだ》云々の記述がある。

そもそもsignifiant purという表現がすでに1950年代にあることを再度念押ししておこう。