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2015年10月20日火曜日

「メタランゲージはない」と「他者の他者はない」

《メタランゲージはない》とは《大他者の大他者はない》のことである。

そもそも〈他者〉とされたり、いま記したように大他者としたりする他者とは実は大文字のAであり、人でなくてもいい。

この”L'Autre”をめぐって、たとえばラカンはセミネールⅩⅣで、《〈他者〉は身体である》と言っている。

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

すなわち本来は他Aとでもすべきか。だが慣例上、大他者とした。

ところでラカンはある時期から「メタランゲージはある」のラカンから「メタランゲージはない」のラカンに変わった。

たとえばセミネールⅢ(1955-1956)ではこう言っている。

c'est que tout le langage implique un métalangage . (Séminaire Ⅲ Staferla 版 p.510)

他方、エクリのなかに所収されている「主体のくつがえし」(1960)ではこうある。

Ce que nous formulons à dire qu'il n'y a pas de métalangage qui puisse être parlé, plus aphoristiquement : qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre. C'est en imposteur que se présente pour y suppléer, le Législateur (celui qui prétend ériger la Loi). (SUBVERSION DU SUJET ET DIALECTIQUE DU DÉSIR)

ようするに1950年代の後半、方向転換している。

もちろん後年も「メタランゲージはないil n'y a pas de métalangage」とくり返している。たとえばアンコールから拾えば次の通り。

Je vais dire… Je vais dire, c'est ma fonction… Je vais le dire une fois de plus, je me répète… Je vais dire une fois de plus ce qui est de mon dire et qui s'énonce : il n'y a pas de métalangage. P.122

だがこうもある。メタランゲージはex-sister(外-立)する、と。

C'est par mon dit que cette formalisation [cf. les α,β,γ,δ, de La lettre volée] - idéal « métalangage » - je la fais ex-sister (ex tiret sister). C'est ainsi que le symbolique ne se confond pas - loin de là - avec l'être, mais qu'il subsiste comme ex-sistence du dire. C'est ce que j'ai souligné, dans le texte dit L'Étourdit -d.i.t - …c'est ce que j'ai souligné de dire que : le symbolique ne supporte que l'ex-sistence.p.123

ーーで、なんだったか、ex-sistenceとは。(参照:ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz

いずれにせよ、いろいろな見解がある。大きく分ければ、ex-sistenceは象徴界の内部にしかない(カントの無限判断の変奏としての象徴界のpas‐tout非全体に外立する)と、象徴界の彼方(フロイトの快原則の彼岸)にあるのが、外立とする見解だ(参照:二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe))。これはわたくしの理解では女性の論理/男性の論理の対立である(「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン)。

たとえば後者の見解であるならば、やはりメタランゲージはあるのか? という疑念がわく。あるいは、大他者の大他者はあるのか、と。

あるいはシニフィアンの定義や四つの言説のマテームであるS1とS2というのがあるが(参照:シニフィアンの定義)、S2を支えるS1などあるのかい?という疑念がわくーー他者の他者はないのに、なんでそんなものあるんだい? S2のS1はないだろ? 

ーーS1を考える上に肝要なのはゼロ記号だね・・・

……「構造」はそれを統合する超越論的主観を暗黙に前提としている。しかし、構造主義者がこうした「主観」なしにすませうるのみならずそれを否定しうると考えたのは、彼らが、存在しないが体系を体系たらしめるものを想定したからである。それが、ゼロ記号である。たとえば、ヤーコプソンは音韻の体系を完成させるためにゼロの音素を導入した。《ゼロの音素は、……それが何らかの示差的性格をも、恒常的音韻価値をも内包しないという点において、フランス語の他のすべての音素に対立する。そのかわり、ゼロの音素は、音素の不在を妨げることを固有の機能とするのである》(R.Jakobson、……1971)。このようなゼロ記号はむろん数学から来ている。ブルバキによって定式化された数学的「構造」とは、変換の規則である。それは形のように見えるものではなく、見えていない働きである。変換の規則においては、変換しないという働きが含まれなければならない。ヤーコブソンによって設定されたゼロの音素は数学的な可変群における単位元に対応するものだといってよい。それによって、音素の対立関係の束は構造となりうる。レヴィ=ストロースがヤーコブソンの音韻論に震撼されたのは、それによって多様で混沌としたものが秩序的であることを示すことが可能だと考えたからである。《音韻論は種々の社会科学に対して、たとえば核物理学が精密科学の全体に対して演じたのと同じ革新的な役割を演ぜずにはいない》(『構造人類学』)。レヴィ=ストロースは、クライン群(代数的構造)を未開社会の多様な親族構造の分析に適用した。ここに、狭義の構造主義が成立したのである。

だが、ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換えなのであって、それを取り除くことではない。ゼロは紀元前のインドで、算盤において、珠を動かさないことに対する命名として、実践的・技術的に導入された。ゼロがないならば、たとえばニ○五と二五は区別できない。つまりゼロは、数の「不在をさまたげることを固有の機能とする」(レヴィ=ストロース)のである。ゼロの導入によって、place-value-system(位取り記数法)が成立する。だが、ゼロはたんに技術的な問題ではありえない。それはサンスクリット語においては、仏教における「空」(emptiness)と同じ語であるが、仏教的な思考はそれをもとに展開されたといっても過言ではない。ドゥルーズは、「構造主義は、場所がそれを占めるものに優越すると考える新しい超越論的哲学と分かちがたい」(「構造主義はなぜそうよばれるか」)といったが、place-value-system(位取り記数法)において、すでにそのような「哲学」が文字通り先取られているといってもよい。この意味で構造主義はゼロ記号の導入とともにはじまったのだが、構造主義者自身はその哲学的含意について考えなかった。たんに、彼らはそのことによって、主観から始まる近代的思考を払拭しえたと信じた。だが、主観なしにすませると思いこんだとき、彼らは暗黙に主観を前提としていることを忘れたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』pp.119-121)

ーーなどという文章をしばらく眺めていたのだが、数学に疎いものとしては、S1=ゼロ記号などと言いうるほどには、分かっていないーーイヤ全ク分カッテイナイ

S1=aではありうるし、S1=S(Ⱥ)というのは当然ありだ(参照:父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって

S(Ⱥ) c'est tout autre chose,que Φ(Séminaire ⅩⅩⅢ)

まあそれぞれの解釈者にまかせよう。勝手にしてしたらよろしい。神があるなら、大他者の大他者ぐらいはあるさ。神とはゼロ記号であってなにがわるいだろ? (参照:“A is A” と “A = A”)。

“Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, Seminar XXIII)

ーー《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ。》

ゼロ度とは、厳密に言えば、何もないことではない。ないことが意味をもっていることである。(ロラン・バルト『零度のエクリチュール』1964)


《神とは シンプルに〈女〉のことさ、他者の他者があるなら、〈女〉が存在するってことさ》(ラカン、S.23)

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (Séminaire ⅩⅩⅢ Staferla 版 p.173)

ーーこの〈女〉とは、ジジェクの見解では対象aである(参照:難解版:「〈他者〉の〈他者〉は外-存在する」(ジジェク=ラカン))。



…………

というわけで?、ここでは無難に、大他者の大他者はあるのラカンから、大他者の大他者はないのラカンの移行を叙述するふたりのラカン派の文章を並べておこう。

・ロレンツォ・キエーザLorenzo Chiesaの『主体性と他者性Subjectivity and Otherness』2007

・ポール・ヴェルハーゲPAUL VERHAEGHEの『古い悪党の新しい研究 New studies of old villains』2009

ーーからである。

1960年代から1970年代にかけて、ラカンの理論は、《〈他者〉の〈他者〉はない》(それはアルジェブラとしてはȺとして言い表される)という前提にしっかりと依拠しているようにみえる。ラカンの思考のこのフェーズは、別の思考に先行されているが、この事についてラカンはしばしば相反する言明を提供しており、この本質的な結論が、初めて十全に想定された特定の瞬間をはっきりと同定するのは難しい。

セミネールV(1957‒1958)は、議論の余地なく、「〈他者〉の「他者〉は存在する」という仮定のもとに、父の隠喩の機能を導入している。ラカン曰く、《分析の経験が我々に示してくれるのは、〈他者〉にかんする〈他者〉Other with respect to the Otherによって提供される背景[arrière-plan] の必須性である。それなくしては、言語の世界は自らを分節化できない》。

一年もたたないうちに、今度はセミネールVIで、躊躇なく宣言することになる、《〈他者〉の〈他者〉はない…シニフィアンのどんな表明の具体的な成り行きconsequenceを支えるシニフィアンは存在しない》(=メタランゲージは存在しない:訳者)。

我々はこの明らかに折り合いのつかない二つの引用文をどう取り扱えばいいのだろう? 私は示唆しておきたいのだが、せっかちに選定してしまうこと、すなわちセミネール V とVI のあいだのどこかに根本的な転回Kehreをみることは、おそらくラカンの思考の多面的かつ非線形の進化を見逃がすことになるだろう。

とはいえ、1958年から1963年にわたる実りの多い年月のあいだに、ラカン理論が目醒しく動いたのはたしかだ。それは1950年代の半ばに優勢だったものを超えて、「構造」概念に向う。その概念にとって「〈他者〉の〈他者〉はない」は、暗黙のモットーとして考えられるべきだろう。……(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by 2007
以前は、父の名は父(の機能)の保証だった。丁度、フロイトの原父がどの父をも基礎づけたように。今や、父の名が保証するものは〈他者〉における欠如である。あるいは主体の象徴的去勢である。そして象徴的去勢を通して、主体はあらゆるものを取り囲む決定論から離れ、彼(女)自身の選択が、たとえ限定されたものであるとはいえ、可能となる。

この変貌の波紋は、ラカンのその後の仕事全体を通して、轟き続けた。まさに最後まで、絶え間なく寄せてはかえす波のように。実に理論の最も本質的なメッセージは、どの理論も決して完璧ではないということだ。循環する論述によって組み立てられた閉じられたシステム、それを我々はフロイトとラカンとともに以前は見出した(原父や父の名によって保証される父、逆も同様)。だがそれは一撃で破棄された。

同時に、新しい問題が出現する。構造的欠如を基盤とする象徴秩序において、要素を結びつけたり統合するものは何か? この問題は一見アカデミックなもののようにみえるが、そうではない。究極的には、人のアイデンティティにおいて要素を結びつけるものは何かという問いに関わるからだ。このときまでに、ラカンは常に強調していた、主体性における根本的な疎外と分裂を。そこでは統一の感情は脇に置かれていた。後者(統一感)は父の名の効果だと想定された。

ラカンがこの理論から離れたとき、彼は、人のアイデンティティにおける主体の統一感のために別の説明を生み出さねばならない。ラカンは休むことなしに続けた、次のような用語を再公式化したり言い換えたりと。「父の諸名」という複数形から、おそらく基礎的かつひどく格言的な「〈一者〉があるil y a de l'Un」まで。しかし、ラカンの絶え間ない問いは事態を明瞭化することに貢献しない。そして最終的な答が欠けている。皮肉なことに、これはラカンの新しい理論の本質と極めて首尾一貫したものだ。(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009


《この問題は一見アカデミックなもののようにみえるが、そうではない。究極的には、人のアイデンティティにおいて要素を結びつけるものは何かという問いに関わるからだ》とあるが、これらの問いは実際にわたくしのようにΦ=S1がまったく機能していない少年期を送ったものにとっては、オレは何でもってきたのだろう、ひょっとして14か41がオレのS1ではなかったかという問いに繋がるものである、ーーオマエマジカ?

アルファベットを数字に置き換える方法がある。Aを1、Bを2と置き換えていくと、BACHは2+1+3+8で14になる。昔のドイツ語にはJという字が使われなかったのでヨハンはIOHANNと綴る。それでI.S.BACHを数字化すると9+18+14で41になる。(41小節目はJ.S.バッハの小節