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2015年10月19日月曜日

Steven Isserlisのフォーレと「わが片足すでに墓穴に入りぬ」




ここに次のような方法がある。若いたましいが、「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか、お前のたましいをひきつけたのは何であったか、お前のたましいを占領し同時にそれを幸福にしてくれたのは何であったか」と問うことによって、過去をふりかえって見ることだ。(ニーチェ『反時代的考察』)

ーー振り返ったら、音楽ばかりだね、ほかに本当に愛してきたものがあっただろうか?

…………

フォーレのOp. 117は長いあいだ M.Gendron, J.Françaix | 1964の録音で聴いていたのだが、Steven Isserlisの演奏に行き当たった。

◆Steven Isserlis & Jeremy Denk — Fauré: Sonata for Cello & Piano No. 2 in G minor, Op. 117




Johann Sebastian Bach—Cello Suites—Steven Isserlis (cello)

わたくしはどういうわけか(何度も記したのでいまさらだが)、バッハとフォーレをひどく好むのだが(わたくしの葬式用の音楽、「Faure OP.121 アンダンテ」)、Steven Isserlisはいいねえーーこのヤロウ! 芸術家ぶりやがってと思わないでもないが、これだけ巧ければなんでも許すよ。

だいたいバッハが上手い演奏家はフォーレかシューマンも上手い。

Evelyne Crochetは最近聴きだしたのだが、いいねえ、彼女も。たとえばBWV872の冒頭のなんという繊細さ!(◆Evelyne Crochet BWV872

◆Evelyne Crochet plays Piano Music of Gabriel Fauré - Nocturnes






ああ、でもグールドのように驚くべき演奏家はいないのか。

中学2年のとき(13才かもしれないが、どうしても14才にしておく)、グールドのアリオーソに出会ったときのような、ーー音が遠くからやってくるような演奏はないものか(Steven Isserlisはいくらかその気配がわたくしにとってはある)。

死なずに生きつづけるものとして音楽を聞くのがわたしは好きだ。音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる。《遠くからやってくるように》、シューマン(<ノヴェレッテ>作品二一の最終曲、<ダヴィッド同盟舞曲集>作品六の第十八曲(第十七曲の間違いのようにも思われるが詳しいことは不明:※引用者))あるいはベルク(<ヴォツェック>四一九-四二一小節)に認められるこの指示表現は、このうえなく内密なる音楽を指し示している。それは内部からたちのぼってくるように思われる音楽のことだ。われわれの内部の音楽は、完全にこの世に存在しているわけではないなにかなのである。欠落の世界、裸形の世界ですらなく、世界の不在にほかならない。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』)
ベートーヴェンの作品のレコード録音では、和声の肉付きの薄いシュナーベルのような音の響きを追求した。それに対して、レコーディング・エンジニアはこんな応答をしている。「長距離電話で聞けば、そんなふうになりますよ。」(……)音楽によって他人とそして彼自身と遠くから接触をはかろうとするのが彼の物理学と形而上学なのだ。演奏している、誰を呼んでいるのかはわからない。自分自身の内部で誰が呼んでいるのかもわからない。ふたつの遠隔地のあいだの単なる空気の振動、ただ迷っているということのほかにはなにもわからないふたりの存在を結びつけ、かすかなざわめきを発する線。

……音楽は遠ざかろうとするなにかであり、
人がつかまえたと思っても、どこかへ行ってしまうようななにかだ。
留まるものと逃れ去るもののあいだに張られた絆。
逃れ去る女。光が死に絶えてもなおあとに残る不定形のうごめき。

演奏するという潜勢力と演奏しないという潜勢力は、必然的にすべてのピアニストに属しているとしても…その潜勢力をただ現勢力に向けるばかりではなく、その非-潜勢力に向けることによって、彼(グレン・グールド)はいわば演奏しないという潜勢力をもって演奏しているのである。(アガンベン)


◆Bach - Keyboard Concerto No. 5 in F minor, Largo - Glenn Gould




あの頃、グールドのアリオーソを聴き、そしてスウィングル・シンガーズのアリオーソを聴いた。

◆Les Swinger Singers J S Bach Concerto in F Major largo 1969




別に彼らのSinfonia XI (Three Part Invention) BWV 797にも出会った。

幼少期、わずかに習ったピアノをこのときふたたび始めた、なんとかインヴェンションのこの曲を弾きこなそうとして(Cubus plays Sinfonia No. 11)。くりかえすが、14才のときだーー。

アルファベットを数字に置き換える方法がある。Aを1、Bを2と置き換えていくと、BACHは2+1+3+8で14になる。昔のドイツ語にはJという字が使われなかったのでヨハンはIOHANNと綴る。それでI.S.BACHを数字化すると9+18+14で41になる。(41小節目はJ.S.バッハの小節
アルファベットは26文字です。12の倍数の聖数に合わせるためには2文字あまってしまいます。なのでIとJ、UとVをひとつと数えてそろえるようにしています。IとJがひとつなのは、ドイツ語の発音が同じだからともききました。
そこで、BACHはB=2、A=1、C=3、H=8で足して14。
S・BACHは41(14の逆)
JOHANN SEBATIAN BACH は140(14の10倍です。)ーーBachと数字

ーーわたくしの名前は姓名判断の数え方だと、41になる。


…………

以下、いくつか「わが片足すでに墓穴に入りぬ」を並べておこう。


◆Chris Hinze & Claron McFadden- J.S. Bach (bew Ch. Hinze)/Largo






◆Maria Joao Pires - Riccardo Chailly - J.S.Bach





◆David Fray Largo & Presto from Bach's Concerto No 5 in F Minor BWV 1056)

 


ーー二人ともわるくはないが、音は遠くからきこえてこないーー。同じアリオーソ ARIOSO(歌うように)でも、なぜこんなに異なってしまうのだろう? 

グールドにあるわずかなズレ、分節構造からはみ出るかすかな裂け目も生れてこない。

「裂け目の光のなかに保留されているもの」(ラカン)をききわけることができない。
沈黙のなかの叫びもゆらめく閃光もない。


◆Glenn Gould - Bach Toccata BWV 914




その効果は切れ味がよいのだが、しかしそれが達しているのは、私の心の漠とした地帯である。それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである。(『明るい部屋』)

…………

◆Bach - Cantata BWV 156 『わが片足すでに墓穴に入りぬ』のシンフォニア( 鈴木雅明 指揮)



Arioso, Bach - Diane Bish


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冒頭のマタイと次ぎのヨハネはわたくしのテーマ曲のようなものだ