このブログを検索

ラベル フォーレ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル フォーレ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年7月30日木曜日

唯一の祈りの対象



ーーとってもいいスチール画像だな。映画の一場面なんだろうか、ちょっとわからない。



フロイトにとって、信じることのの最も大きな問題は、結局、父を信じること[la croyance au père]だ。(…)

ラカン は考えた、父を信じることを超えるのは完全に可能だと。では問いが生じる。男にとってどうやって可能となるのだろう。男はまったく簡単に女というものを信じる[la croyance à La femme]ようになるが、それをなしで済ますには。そして女にとってどうやって可能になるのだろう。彼女について語るパートナーを被愛妄想的に信じること[la  croyance érotomaniaque en un partenaire qui parlerait d'elle]から自由になるには。(エリック・ロラン Éric Laurent 、Conversation des AE du 21 mars 2012 à Paris, « Savoir y faire avec son symptôme »)


エリック・ロランは、フロイト大義派(ミレール 派)のナンバーツーだが、女というものを信じちゃダメなのかな、ボクは完全に信仰してるけど。


問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

ムリなこと言われてもな、女なる神への信仰はやむことはないよ

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)
女というものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を撮って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。[La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont,](J-A. MILLER, エル・ピロポ El Piropo , 1979年)

問題は女性のほうの信仰だよ、《彼女について語るパートナーを被愛妄想的に信じること[la  croyance érotomaniaque en un partenaire qui parlerait d'elle]》なんてのからは、絶対逃れなくちゃな。男と同様、女なる神のみを信仰しといたらいいのさ。

ラカン だってこう言っている。

定義上、異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女たちを愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)

もっとも「女というもの La femme」じゃなくて「女たち les femmes」になっているから、《女というものは存在しない。だが女たちはいる》ーーの女たちだ。

ひとりの女が複数いる、ようはひとりの女の複数をみんな愛すべきだね、男も女も。異性愛とは異者愛さ。これは誰もそう言っているのに出会ったことはないけど、論理的必然だよ。

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une bizarrerie, c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)
異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

不気味なものが「真に存在する」神でないわけないさ

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

これは別名「穴」と呼ばれる。女の穴。ーー《女は何も欠けていない La femme ne manque de rien》(ラカン, S10, 13 Mars 1963)。

不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)を置いた場に現れる。(-φ)とは、想像的去勢castration imaginaire を思い起こさせるが、それは欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠如している manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre 1962)
欠如の欠如が現実界を為す Le manque du manque fait le réel(AE573、1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

ラカンは別に「享楽の穴」とも呼んだが、フロイトの「愛の引力」のことだ。アソコは、人の子の故郷なんだから、ブラックホールの力があるに決まっている。

あの穴にどうして祈りを捧げずにいられるわけがあろう?

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)
人はみなトラウマ化されている。…この意味は、すべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )


ボクはフォーレの遺作op.121のアンダンテの次の箇所を聴くと、必ず女の穴への祈りの体制に入るんだが、きっとフォーレ自身も死をひかえて祈りつつ作曲したんじゃないかな、穴に吸い込まれていく感じがするよ。今のところ葬儀用音楽にきめてんだけど。






2020年7月25日土曜日

若いカルテットのメンバーたち





シューマンカルテットは三人兄弟にひとりの女性という組み合わせだが、このハイドンは実にすばらしい、こんなに生き生きとしてハイドンは聴いたことがない。彼らの別の演奏を聴いたもどうということはないのだが。

若いカルテットが好きだ。むかしはオッサン、というか爺さんたちのカルテットばかりをきいてその重苦しさにいささか辟易気味になったせいもあるが。女性がひとり混じっていたらさらにいい。




ーーこの記事は、この映像に行き当たったので記しているのだが、4人の集まりが続くのは我慢が必要だ、2人の結婚だって難しいのに4人だったらずっと難しいよ、と言っている第一ヴァイオリンのピエール・コロンベの言葉は重いね。

エベーヌカルテット Quatuor Ebène は、15年来のメンバー、ビオラのマチュー・ヘルツォク Mathieu Herzog が2014年にグループから離れた(彼は現在指揮者をやっているが、たぶん苦闘中。みずからアンサンブルを結成しているのだが、ときに昔の仲間、第二ヴァイオリンのガブリエルをコンサートマスターに呼んだりしている)。

Mathieu Herzog の後釜は、約3年のあいだ Adrien Boisseau だった(彼は今ソロ奏者をやっていて内田光子との共演もある)。そして2017年から上の映像のなかの女性マリー・シレム Marie Chilemmeである。

最近のフォーレop121三楽章とマチュー・ヘルツォク時代の同じ三楽章を貼り付けておこう(op121は偏愛の曲でとくに二楽章のアンダンテが格別なのだが、ここでは三楽章のアレグロ)。



第一ヴァイオリンのピエール・コロンベ Pierre Colombetはもとからとってもうまいんだが、この演奏では第二ヴァイオリンのガブリエル・ル・マガデュール Gabriel Le Magadureの歌にとても惹かれる。3分12秒あたりからビオラのマリー・シレムの音がよく聞こえてくるのも、こんな風にきこえてきたことはなかったのでとても印象的。チェロのラファエル・メルラン Raphaël Merlinだって控えめながらとってもいい。ときにもう少しツヤのある音を出してほしいと思わないことはないがそれは贅沢というものだろう。





これは上のコンサート録音とは違いスタジオ録音で、そうであってもとても情動的演奏で、ああ若いカルテットはとってもいいなと感じ、エベーヌに真に惹かれた最初のものなのだが、今は2018年のほうを取る。




2018年3月9日金曜日

愛するものがつまびくのか/遠方の友をおもい青春の日々をしのぶのか

ひっそりと街は静まる。灯のともされた小路にひと気は絶え
松明の飾り馬車のひびきは遠ざかる
昼の楽しみにもひとは倦み 憩いをもとめて家路をたどり
得失をかぞえ賢しい頭〔こうべ〕は
家にくつろぐ、ぶどうも花もとりかたされ
手仕事のいとなみの跡とてなく 広場のざわめきもいまはとだえる
ふと弦の音が遠くあたりの庭からひびきだす。おそらくは
愛するものがつまびくのか あるいは孤独な男が
遠方の友をおもい青春の日々をしのぶのか。泉は
絶え間なくあふれ ひたひたとかぐわしい花壇にここちよい
夕暮れの大気の中 ひっそりと鐘が鳴り
数を呼ばわり夜警が時をふれまわる。
いま風がたち 杜の梢をひそかにゆする。
見よ! われらの大地の影の姿 月も
しのびやかにたちのぼる。陶然たつもの 夜がきたのだ。
星々に満ち われらのことなど気にとめぬ顔に
目を見張らせ ひとの世にあり見知らぬものが
山のかなたに悲しげにまた壮麗にたちのぼり輝きわたる。

ーーーヘルダーリン「パンとぶどう酒」


こう引用して音楽をつけくわえるなら、ドイツ系の、大地や森のにおいがする音楽をかかげるべきなんだろうな、だが《愛するものがつまびくのか あるいは孤独な男が/遠方の友をおもい青春の日々をしのぶのか》とある、ブラームスでもマーラーでもダメだな、シューベルトやシューマンはどうか? 歌曲は浮かんでくるさ、でもどうもぴったりくる弦楽曲は、わたくしにはない。

とうわけで、偏愛のフォーレとなるんだな、後期フォーレを愛する「病理学的な存在」だよ、ボクは。

◆Violin Sonata No. 2 in E Minor, Op. 108 ANDANTE




ひとは何よりもまず、この人物の口から発せられる調子、あの晴れた冬空に似た静穏な調子を、正しく聴きとらねばならぬ。そうしてこそ、かれの英知にふくまれた意味をみじめに誤解することがなくなるのだ。「嵐をもたらすものは、もっとも静寂な言葉だ。鳩の足で歩んでくる思想が、世界を左右するのだーー」

「いちじくの実が木から落ちる。それはふくよかな、甘い果実だ。落ちながら、その赤い皮は裂ける。わたしは熟したいちじくの実を落とす北風だ。

このようにいちじくの実に似て、これらの教えは君たちに落ちかかる。さあ、その果汁と甘い果肉をすするがいい。時は秋だ、澄んだ空、そして午後――」

ここで語っているのは、狂信家ではない。ここで行われているのは「説教」ではない。ここで求められているのは信仰ではない。無限の光の充溢と幸福の深みから、一滴また一滴、一語また一語としたたってくるのだ。ねんごろの緩徐調が、この説話のテンポだ。こういう調子は、選り抜きの人々の耳にしかはいらない。ここで聴き手になれるということは、比類のない特権だ。ツァラトゥストラの言葉を聴く耳をもつことは、誰にでも許されていることではないのだから……。(ニーチェ『この人を見よ』)

ああ、また標準的な耳には、フォーレとまったく合致しない文を掲げちまったよ、でもこれが晩年のフォーレさ

もちろんこうピッタリと引用したっていいが、《それは一羽の小鳥なのか、小楽節のまだ完成していない魂なのか、一人の妖精なのか》と。

最後の部分がはじまるところでスワンがきいた、ピアノとヴァイオリンの美しい対話! 人間の言語を除去したこの対話は、隅々まで幻想にゆだねられていると思われるのに、かえってそこからは幻想が排除されていた、話される言語は、けっしてこれほど頑強に必然性をおし通すことはなかったし、こんなにまで間の適切さ、答の明白さをもつことはなかった。最初に孤独なピアノが、妻の鳥に見すてられた小鳥のようになげいた、ヴァイオリンがそれをきいて、隣の木からのように答えた。それは世界のはじまりにいるようであり、地上にはまだ彼ら二人だけしかいなかったかのようであった、というよりも、創造主の論理によってつくられ、他のすべてのものにはとざされたその世界―――このソナタ―――には、永久に彼ら二人だけしかいないだろうと思われた。それは一羽の小鳥なのか、小楽節のまだ完成していない魂なのか、一人の妖精なのか、その存在が目には見えないで、なげいていて、そのなげきをピアノがすぐにやさしくくりかえしていたのであろうか? そのさけびはあまりに突然にあげられるので、ヴァイオリン奏者は、それを受けとめるためにすばやく弓にとびつかなくてはならなかった。すばらしい小鳥よ! ヴァイオリン奏者はその小鳥を魔法にかけ、手なずけ、うまくつかまえようとしているように思われた。すでにその小鳥はヴァイオリン奏者の魂のなかにとびこんでいた。すでに呼びよせられた小楽節は、ヴァイオリン奏者の完全に霊にとりつかれた肉体を、まるで霊媒のそれのようにゆり動かしていた。スワンは小楽節がいま一度話しかけようとしているのを知るのであった。(プルースト「スワン家のほうへ」)

いやでもじつは、すべての遺作のop121のアンダンテにあるんだ。なぜこんなに美しいんだろう?

◆Faure, String Quartet, Movement 2



ここには、ヘルダーリンがもとめた「表現の澄明さ die Klarheit der Darstellung」がある。この美はみずから充足し、ボク抜きで存在する。それでいて嫌になるほど執拗に呼びかけ、ボクにはわかるはずもない答えを要求する。しまいには音が耳にきえてくるのではなく、ボクを聴くものとなる・・・

いやあシツレイ!

《私の愛するもの、愛さないもの J’aime, je n'aime pas》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない mon corps n'est pas le même que le vôtre》。というわけで、好き嫌い des goûts et des dégoûts を集めたこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象である。ここに、身体による威嚇 l'intimidation du corps が始まる。すなわち他人に対して、自由主義的に寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。(『彼自身によるロラン・バルト』)
愛の形而上学の倫理……「愛の条件 Liebesbedingung」(フロイト) の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)


2018年3月3日土曜日

コロンベと亜希子

◆Gabriel Fauré : Trio avec piano en Ré mineur Op. 120



ーーいいね、とっても。

ヴァイオリンは、エベーヌ四重奏団 Ebene Quartet 第一ヴァイオリンのピエール・コロンベ (Pierre Colombet)。ボクは彼の大ファンだ。

Marc Coppeyのチェロにもうすこしふくらみがあればもっといいのだけれど、ま、これでいいよ。

ピアニストのAkiko Yamamotoさん、山本亜希子と書くようだが、どんな方かと検索してみれば、ツイッターやっているや。すこし遡ってみてみたけど、たぶん仏在住の子持ち女性でキサクな方だ。演奏には派手さはないけど、この曲にはこれでいいんじゃないか。





このop120とは、ボクの偏愛のフォーレ遺作弦楽四重奏op121の直前に作られた曲だけれど、この曲もあまりに演奏されることが少ない。こんなに美しいピアノ三重奏がほかにあるとは思えないのに。

その楽節は、ゆるやかなリズムで、スワンをみちびき、はじめはここに、つぎはかしこに、さらにまた他のところにと、気高い、理解を越えた、そして明確な、幸福のほうに進んでいった。そしてその未知の楽節がある地点に達し、しばし休止ののち、彼がそこからその楽節についてゆこうと身構をしていたとき、突然、楽節は方向を急変し、一段と急テンポな、こまかい、憂鬱な、とぎれない、やさしい、あらたな動きで、彼を未知の遠景のかなたに連れさっていった。それから、その楽節は消えた。彼は三度目にその楽節にめぐりあいたちとはげしく望んだ。すると、はたして、その楽節がまたその姿をあらわしたが、こんどはまえほどはっきりと話しかけてくれなかったし、まえほど深い官能をわきたたせはしなかった。しかし、彼は家に帰ると、またその楽節が必要になった、あたかも彼は、行きずりにちらと目にしたある女によって生活のなかに新しい美を映像をきざみこまれた男のようであり、その名さえ知らないのにもうその女に恋をし、ふたたびめぐりあうてだてもないのに、その女の新しい美の映像がその男の感受性にこれまでにない大きな価値をもたらす場合に似ていた。(プルースト「スワン家のほうへ」)

ボクはこう言わねばならない、最晩年のフォーレに魂を震わせない「あなたに音楽を愛しているとは言わせない」と。

スティーヴン・イッサーリス、やってくれないかな、この曲をぜひ。

Op117の彼にはホントにほれぼれした。

◆Steven Isserlis & Jeremy Denk — Fauré: Sonata for Cello & Piano No. 2 in G minor, Op. 117





2017年12月28日木曜日

Naoumoff、愛し愛しつづける人(amateur)

ふたたびナウモフの即興。

◆Improvisation 5675




◆Improvisation 5676




ーーなぜやらないんだろうな、ほかのピアニストたちは。プロフェッショナルのせいだろうか、アマトゥールではなくて。


◆Faure Andante Opus 121



いやあ、ナウモフは、永遠の童貞みたいな男だな、ボクとソックリだ・・・

バッハの結婚カンタータ「しりぞけ、もの悲しき影 Weichet nur, betrübte Schatten」の編曲に、一番最初に惚れ惚れしたんだが。

◆Naoumoff's transcription of Bach's Cantata 202




◆Naoumoff plays his own piano transcription of Bach's Aria from Cantata BWV202 Weichet nur betrubte schatten




でもこんな映像もあるな、生徒とヤッチまうこともあるかもな、いい肢だよ、この娘は。






2017年6月5日月曜日

世界のはじまり

一週間ほど前「眼差しとしてのプンクトゥム」でケルテスのYouTubeを貼り付けた。

◆Masters of Photography: Andre Kertesz



ああ、なんと美しいバッハのフーガだろう、と思い、
このふと流れてきたヘ短調のフーガ(BWV857)を
楽譜をみたり(自分でボロンと弾いてみたり)
何人かの演奏家の演奏を聴き直してみた
Rosalyn Tureck やら Richter やらGulda やら Gould やら。

これはバッハの至高のフーガのひとつだろう。
でもそれでさえ飽きるね、
何回も聴いたり自分で演奏したりしてると。
天使が通り過ぎるように、鳥が通り過ぎるように
ふときこえてきたときが最も美しい。
プロの演奏家ってのはどうしてるんだろう
彼らは何度も演奏して飽きないんだろうか?
バッハならまだしもベートーヴェンなんて
とくに中期のベートーヴェンなんてよくやるよ
あんな媚態いっぱいの曲なんて

彼(ベートーヴェン)は、声をあげて泣いていた。その泣き声は泣いている間も、ずっと彼の耳から離れない。彼が誇張したとはいわないが、その泣き声が、どんな影響をきく人に与えるかを、彼はよく知っていた。(吉田秀和)

実は退屈してんんじゃないのだろうか、彼らは。
ただ観客に要求されるから演奏するんじゃなかろうか

父の死のとき、アニェスは葬儀のプログラムをつくれねばならなかった。儀式は弔辞なし、音楽としてマーラーの『第九交響曲』の「アダージョ」(第四楽章)を流したいと彼女は望んだが、それを父はとりわけ好んでいたのだった。だが、この音楽はひどく悲しいものなので、アニェスは式のあいだ涙を抑えられないのではないかと心配していた。衆人環視のなかで泣くのは許されないことだと思ったので、彼女は『アダージョ』をレコードプレイヤーで録音して、聴いてみた。一度、それから二度、それから三度。音楽は父の思い出を呼びおこし、彼女は泣いた。しかし八度目だったか九度目だったか、「アダージョ」が部屋のなかにひびいたとき、音楽の力は衰えていたし、十三度目になると、アニェスはパラグアイの国家がすぐ眼の前で演奏されるくらいにしか心を動かされなかった。この訓練のおかげで、彼女は葬儀で涙を流さなかった。

感情といいうものは、そもそも、われわれのなかに知らず知らずに、そしてしばしば意に逆らって湧きあがってくる。われわれがそれを感じようと欲すると(ドン・キホーテがドゥルネシアを愛そうと決めたように、われわれがそれを感じようと決めると)、感情はもはや感情でなくなり、感情を模倣する紛いもの、感情の誇示になってしまう。ふつう一般にヒステリーと呼ばれるものになってしまう。だからしてホモ・センチメンタリスは(いいかえれば、感情を価値に仕立てた人間は)、じっさいホモ・ヒステリクスと同一なのである。

そう言ったからといって、感情を模倣する人間は、その感情を感じないということを意味するのではない。老いたリア王を演じる俳優は、舞台の上で、観客を前にして、見捨てられて裏切られた人間の正真正銘の悲しみをはっきり感じているが、しかしその悲しみは上演が終る瞬間に消えてしまう。だからしてホモ・センチメンタリスは、その強烈な感情によってわれわれを眩惑したすぐあとで、今度は説明しがたい無感動でわれわれを面食らわせるのである。(クンデラ『不滅』)

ま、いいさ、
なにか別の悦びがあるんだろう
人のことは言えない
〈彼〉はたとえばフォーレになかなか飽きない

◆Steven Isserlis & Jeremy Denk — Fauré: Sonata for Cello & Piano No. 2 in G minor, Op. 117




いやあこの Isserlisの演奏するチェロソナタは、
まるでヴァントゥイユだよ
すくなくともこのop117をこれほど美しく演奏したチェロ奏者は
いままで誰もいない、ーー〈彼〉はそうは断言する。

最後の部分がはじまるところでスワンがきいた、ピアノとヴァイオリンの美しい対話! 人間の言語を除去したこの対話は、隅々まで幻想にゆだねられていると思われるのに、かえってそこからは幻想が排除されていた、話される言語は、けっしてこれほど頑強に必然性をおし通すことはなかったし、こんなにまで間の適切さ、答の明白さをもつことはなかった。

最初に孤独なピアノが、妻の鳥に見すてられた小鳥のようになげいた、ヴァイオリンがそれをきいて、隣の木からのように答えた。それは世界のはじまりにいるようであり、地上にはまだ彼ら二人だけしかいなかったかのようであった、というよりも、創造主の論理によってつくられ、他のすべてのものにはとざされたその世界――このソナタ――には、永久に彼ら二人だけしかいないだろうと思われた。それは一羽の小鳥なのか、小楽節のまだ完成していない魂なのか、一人の妖精なのか、その存在が目には見えないで、なげいていて、そのなげきをピアノがすぐにやさしくくりかえしていたのであろうか? 

そのさけびはあまりに突然にあげられるので、ヴァイオリン奏者は、それを受けとめるためにすばやく弓にとびつかなくてはならなかった。すばらしい小鳥よ! ヴァイオリン奏者はその小鳥を魔法にかけ、手なずけ、うまくつかまえようとしているように思われた。すでにその小鳥はヴァイオリン奏者の魂のなかにとびこんでいた。すでに呼びよせられた小楽節は、ヴァイオリン奏者の完全に霊にとりつかれた肉体を、まるで霊媒のそれのようにゆり動かしていた。スワンは小楽節がいま一度話しかけようとしているのを知るのであった。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)

最晩年のフォーレは人生に似ていた。
それはピアノ五重奏OP115や遺作弦楽四重奏OP121も同じである。

このソナタは人生に似ていた。しかし、そうした偉大な傑作は、人生のようには幻滅をもたらすことはないが、それがもっている最上のものをはじめからわれわれにあたえはしない。ヴァントゥイユのソナタのなかで一番早く目につく美は、またあきられやすい美であり、そうした美がすでに人々に知られている美とあまりちがっていないのも、まず早く目にとまる美だからである。

しかしそんな美がわれわれから遠ざかったとき、そのあとからわれわれが愛しはじめるのは、あまり新奇なのでわれわれの精神に混乱しかあたえなかったその構成が、そのときまで識別できないようにしてわれわれに手をふれさせないでいたあの楽節なのである。われわれが毎日気がつかずにそのまえを通りすぎていたので、自分から身をひいて待っていた楽節、それがいよいよ最後にわれわれのもとにやってくる、そんなふうにおそくやってくるかわりに、われわれがこの楽節から離れるのも最後のことになるだろう。われわれはそれを他のものより長く愛しつづけるだろう、なぜなら、それを愛するようになるまでには他のものよりも長い時間を費していたであろうから。

それにまた、すこし奥深い作品に到達するために個人にとって必要な時間というものはーーこのソナタについて私が要した時間のようにーー公衆が真に新しい傑作を愛するようになるまでに流される数十年、数百年の縮図でしかなく、いわば象徴でしかないのである。(プルースト『花咲く乙女たちのかげにⅠ』)

ところでバッハにとってヘ短調は特別の調だった。
インヴェンションのヘ短調も際立って美しい。
二声のBWV 780も三声のBWV795も。





2017年5月13日土曜日

偏愛の対象

彼は偏愛の対象として、バーバラ・ヘンドリックスの歌うフォーレをもっている。

◆Barbara Hendricks、Fauré - Les roses d'Ispahan, Op. 39 Nº. 4




ーー苔むした台座のなかの、イスファハンの街の薔薇、Les roses d'Ispahan dans leur gaîne de mousse………




あの当時、今住んでいる地に住もうかどうかを決心するために、ひと月街中(ドンコイ街)にアパートを借りた。長方形の殺風景な部屋、月500ドル。

そのときグールドのバッハとともにバーバラのCDも携えていた。吉田秀和が褒めていて旅行の直前に手に入れた。

毎日のように彼女の歌声を聴いた。部屋は天井が高く音がよく響く。窓と扉だけは古いが重厚なものがついていた。それが珍しかった。窓は鎧戸で上品な緑色(ターコイズグリーンというのかエメラルドグリーンというのか)で塗られていた。

そう、マネのあの絵のなかにある鎧戸のような色。



当地はかつて仏植民地だったせいなのか、この色やもう少し濃い緑の窓がよく目につく。




彼の住んでいたアパートは下のような色と形の窓だった。朝は鎧戸から漏れる光にみとれた。バーバラの歌声がそれにとても似合った。





窓の外からは物売りの声がきこえてきた。



狭い路地の向いの外国人向けアパートでは少女が掃除をしたり洗濯物を干していた。おぼえたての当地の言葉で朝の挨拶を送ってみた。可憐な笑顔でチャオ!と送り返してきた。それからは毎日のように彼女と言葉を交わすようになった。

例へば松林の間を貫く坂道のふもとに水が流れてゐて、朽ちた橋の下に女が野菜を洗つてゐるとか、或は葉雞頭の淋し氣に立つてゐる農家の庭に、秋の日を浴びながら二三人の女が筵を敷いて物の種を干してゐるとか、又は、林の間から夕日のあたつてゐる遠くの畠を眺めて豆の花や野菜の葉の色をめづると云ふやうな事……特徴のないだけ、平凡であるだけ、激しい讃美の情に責めつけられないだけ、これ等の眺望は却て一層の慰安と親愛とを催させる。普段着のまゝのつくろはない女の姿を簾外に見る趣にも譬へられるであらう。(永井荷風『畦道』)

今の妻と出会ったのもこの路地だ。二十歳になったばかりの彼女は、薄紫色のアオザイを匂いやかにまとって、昂然とーー気高くーーそり返ってシクロの上で足を組み、仕事に出かけるところだった。

ファウスト

もし、美しいお嬢さん schönes Fräulein。
不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。

マルガレエテ

わたくしはお嬢さんFräulein ではございません。美しく schön もございません。送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。

ファウスト

途方もない好い女だ。Beim Himmel, dieses Kind ist schön!
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。 それからあの手短に撥ね附けた処が、 溜まらなく嬉しいのだ。

(メフィストフェレス登場。)

おい。あの女 Dirne を己の手に入れてくれ。

(ゲーテ『ファウスト』森鴎外訳)

よく知られているように、《男は誰に恋に陥るのか? 彼を拒絶する女・つれないふりをする女・決してすべてを与えることをしない女に恋に陥る。》(ポール・バーハウ 1998)




あの路地界隈に出入りするシクロタクシーの車夫たちは洒脱な男が多かったが、彼らは彼女の気っ風のよさに惚れこんでいた。彼らにたずねると、彼女は家族離散のせいで一人で五人のきょうだいの生活を支えていた。

「そのくらいなら、どこへ行ったって、自分一人くらい何をしたって食べて行きますわ」(徳田秋声『黴』)
お島のきびきびした調子と、蓮葉な取引とが、到るところで評判がよかった。物馴れてくるに従って、お島の顔は一層広くなって行った。(『あらくれ』)

もっともシクロに乗る女たちは昂然としていなくてもとても絵になる。アオザイを着ているとなおさら。



ーーいまは交通規制でこういった光景は稀になってしまった。

あの当時はじつに世界が変わったような気分だった。
バーバラ・ヘンドリックスにはこれらの記憶がからみついている。

◆Bárbara Hendricks - Fauré - Les Berceaux




◆リルケ「オルフォイスに寄せるソネット」より 高安国世訳

立ち昇る一樹。おお純粋の昇華!
おおオルフォイスが歌う! おお耳の中に聳える大樹!
すべては沈黙した。だが沈黙の中にすら
新たな開始、合図、変化が起こっていた。

静寂の獣らが 透明な
解き放たれた臥所から巣からひしめき出て来た。
しかもそれらが自らの内にひっそりと佇んでいたのは、
企みからでもなく 恐れからでもなく

ただ聴き入っているためだった。咆哮も叫喚も啼鳴も
彼らの今の心には小さく思われた。そして今の今まで
このような歌声を受け入れる小屋さえなく

僅かに 門柱の震える狭い戸口を持った
暗い欲望からの避難所さえ無かったところに――
あなたは彼らのため 聴覚の中に一つの神殿を造った。

…………

昨晩バーバラの歌う「きみはわが憩い Du bist die Ruh」に出会った。彼女のDu bist die Ruhは初めて聴く。彼はこのシューベルトの作品に、小学五年生のときに出会った。偏愛の曲のひとつである。

◆Barbara Hendricks; "Du bist die Ruh"; Franz Schubert




いままで主に Gundula Janowitz と Elly Ameling の歌うこの曲を愛してきた(ときに Dieskau)。この曲の Schwarzkopf は好まない。音が遠くからきこえてこない。《音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる》(シュネデール)



2017年4月18日火曜日

「夕暮れの涼しいときに」と「白い月影は森を照らし」

◆マタイ第64曲 Am Abend, da es kühle war 夕暮れの涼しいときに(Karl Richter、Fischer-Dieskau 1958)



◆Faure、La lune blanche luit dans le bois 白い月影は森を照らし (Ian Bostridge)




ーーいやあ実によく似ている。昨日、何度か「夕暮れの涼しいときに」を聴いていて、ふと気付いてしまった。世界中でまだ誰も言っていない。「世界初」の発見である。コレハヒョットシテのーべる音楽批評賞モノノ発見デハナカロウカ・・・

ここで記念にこの100年あまりのあいだで「唯一」の真の作家プルースト(ノーベル文学賞はプルースト文学賞と改名すべきである)の文をバッハとフォーレ、そして蚊居肢散人に捧げておく。

その楽節は、ゆるやかなリズムで、スワンをみちびき、はじめはここに、つぎはかしこに、さらにまた他のところにと、気高い、理解を越えた、そして明確な、幸福のほうに進んでいった。そしてその未知の楽節がある地点に達し、しばし休止ののち、彼がそこからその楽節についてゆこうと身構をしていたとき、突然、楽節は方向を急変し、一段と急テンポな、こまかい、憂鬱な、とぎれない、やさしい、あらたな動きで、彼を未知の遠景のかなたに連れさっていった。それから、その楽節は消えた。彼は三度目にその楽節にめぐりあいたちとはげしく望んだ。すると、はたして、その楽節がまたその姿をあらわしたが、こんどはまえほどはっきりと話しかけてくれなかったし、まえほど深い官能をわきたたせはしなかった。しかし、彼は家に帰ると、またその楽節が必要になった、あたかも彼は、行きずりにちらと目にしたある女によって生活のなかに新しい美を映像をきざみこまれた男のようであり、その名さえ知らないのにもうその女に恋をし、ふたたびめぐりあうてだてもないのに、その女の新しい美の映像がその男の感受性にこれまでにない大きな価値をもたらす場合に似ていた。(プルースト「スワン家のほうへ」)

わたくしはあまり人が好まないフォーレ(本来の発音はフォレである)のいくつかの作品にひどく惹かれるのだが、フォーレへの愛はその多くがバッハ起源ではなかろうか? 十代半ばからの数年のあいだほとんどバッハしか聴かなかった。三年のドイツ赴任から帰ってきた自動車会社勤務でクラッシックファンの叔父がわたくしのレコード棚を見て呆れ果てていたことを想い出す。あの頃の影響が生涯、色濃く残っているには相違ない。

わたくしがこよなく愛するフォーレ遺作の弦楽四重奏も、ああここにはバッハがある! と感じてしまうのだが、上のようにぴったりとーーわたくしの妄想的頭のなかでーー、合致するものを見出せない。少年時代の一時期、毎日のように聴いていたオルガン小曲集(オルゲルビュッヒライン Orgelbüchlein)かトリオソナタの緩徐楽章あたりにあるのではないか、とは疑っているのだが。





いやこれはーーすばらしく美しい曲にはちがいないがーーちょっと違う。長い間きいていない『音楽の捧げもの』あたりのトリオソナタを探すべきか。それとも平均律のフーガを弦楽四重奏に編曲したものを聴き込めば第二の発見に至るかもしれない・・・

…スワンや彼の妻はこのソナタに、明瞭にある楽節を認めるのだが、私にとってその楽節は、たとえば思いだそうとするが闇ばかりしか見出せない名前、しかし一時間も経ってそのことを考えていないときに最初はあれほどたずねあぐんだ綴がすらすらとひとりでに浮かびあがってくるあの名前のように、ソナタのなかにあって容易にそれとは見わけにくいものなのであった。また、あまりききなれないめずらしい作品をきいたときには、すぐには記憶できないばかりでなく、それらの作品から、ヴァントゥイユのソナタで私がそうであったのだが、われわれがききとるのは、それほどたいせつではない部分なのである。(……)

そればかりではない、私がソナタをはじめからおわりまできいたときでも、たとえば距離や靄にさまたげられてかすかにしか見ることのできない記念建造物のように、やはりこのソナタの全貌は、ほとんど私に見さだめられないままで残った。そこから、そうした作品の認識にメランコリーがむすびつくのであって、時間が経ってからのちにそのまったき姿をあらわすものの認識はすべてそうなのである。

ヴァントゥイユのソナタのなかにもっとも奥深く秘められた美が私にあきらかになったとき、はじめに認めてたのしんだ美は、私の感受性の範囲外へ習慣によってさそわれて、私を離れ、私から逃げだしはじめた。私はこのソナタがもたらすすべてを時間をかさねてつぎつぎにでなければ好きになれなかったのであって、一度もソナタを全体として所有したことがなかった、このソナタは人生に似ていた。しかし、そうした偉大な傑作は、人生のようには幻滅をもたらすことはないが、それがもっている最上のものをはじめからわれわれにあたえはしない。

ヴァントゥイユのソナタのなかで一番早く目につく美は、またあきられやすい美であり、そうした美がすでに人々に知られている美とあまりちがっていないのも、まず早く目にとまる美だからである。しかしそんな美がわれわれから遠ざかったとき、そのあとからわれわれが愛しはじめるのは、あまり新奇なのでわれわれの精神に混乱しかあたえなかったその構成が、そのときまで識別できないようにしてわれわれに手をふれさせないでいたあの楽節なのである。

われわれが毎日気がつかずにそのまえを通りすぎていたので、自分から身をひいて待っていた楽節、それがいよいよ最後にわれわれのもとにやってくる、そんなふうにおそくやってくるかわりに、われわれがこの楽節から離れるのも最後のことになるだろう。われわれはそれを他のものより長く愛しつづけるだろう、なぜなら、それを愛するようになるまでには他のものよりも長い時間を費していたであろうから。それにまた、すこし奥深い作品に到達するために個人にとって必要な時間というものはーーこのソナタについて私が要した時間のようにーー公衆が真に新しい傑作を愛するようになるまでに流される数十年、数百年の縮図でしかなく、いわば象徴でしかないのである。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに Ⅰ』)

やむえないことである。公衆にとっては、《真に新しい傑作を愛するようになるまでに流される》年月は、100年でも足りないのである。もう100年か200年ほどはお待ちしよう。1750年に死んだバッハが真に理解されたのは、1950年代のカール・リヒターとグレン・グールドによる。それまでに19世紀のメンデルスゾーンによる「ロマンティック的」バッハの発見はありはしても。他にはシューマンによるバッハの発見という僅かな例外があるだけである。

もちろん「真のバッハ」とは虚構である。真理とは常に虚構の構造をもっている--《La vérité a structure de fiction》--これはラカンが言ったことであるがニーチェも同じことを言っている(参照)。すなわち真理とはレトリックである。だがリヒターとグールドは長持ちするレトリックを1950年代に発明したのである。わたくしもリヒターなみになんとかフォーレのレトリックを発明したいと祈願している、そろそろフォレの死後100年に至るので頃合いではある(やや力不足の点があるのを認めるのに吝かではないが)。

◆Faure, String Quartet, Movement 2(OP121)



ーーもちろんフォーレはこの作品をベートーヴェンの後期弦楽四重奏のいくつかを念頭に置きながら作っているには相違ない。

フォーレ(1845ー1924)は妻への手紙に、「ベートーヴェンの弦楽四重奏は、ベートーヴェンでないすべての作曲家に、弦楽四重奏を怖がらせる」と書いている(1924)。ラヴェルやドビュッシーによる若書きでよく演奏される弦楽四重奏などは彼には問題外だった。

彼は最晩年の死去の前年1923年までピアノなしのカルテットを書かなかった、いやおそらく書けなかった(OP121は1923年から1924年にかけて作曲されている)。そして批評家たちにベートーヴェンの影響を指摘されることに心配した。フォーレは最初に第2楽章のアンダンテを書いた。これがOP121の中心であることは疑いない。

だがここにはベートーヴェンだけではなく、バッハのコラールがかならずある。そもそも彼は教会オルガニストの職にてキャリアを始めたのだから。そしてわたくしにいわせれば、フォーレのレクイエムなど許しがたい凡作である。フォーレの核心は、ピアノ伴奏の歌曲と最晩年のいくつかの作品にしかない。

それはバッハを愛して編曲し、同時にフォーレをひどく愛するナウモフがよく知っている(いや口がすべってしまったが、ナウモフはなぜかレクイエムのピアノ編曲をしており、たぶん血迷ったのであろう・・・)。





ナウモフにはバッハのBWV614などの編曲もあるが、クルターグの編曲よりはかなり劣るのはやむえない。至上「最高」の寡作作曲家クルターグの類まれなる愛の結晶なのだから。

以下のクルターグ夫妻の演奏は、クルターグ90歳時であり、マルタは88歳である。

◆Márta and György Kurtág play Bach-transcriptions by Kurtág



ーーじつにここには今ではどこかにいってしまった「祈り」がある。

フォーレのOP121の話に戻すが、この作品は三楽章も際立って輝かしい楽章でありながら、なぜか演奏されることが極めて少ない。おそらくラヴェルやドビュッシーの弦楽四重奏の演奏回数の十分の一以下だろう。

OP121が演奏される回数が少ないのは、ひどく馬鹿げている。もっとも音楽家とはおおむね聴く耳をもたない連中の集まりであるのはよく知られている。

かつて音楽は、まず人々の―特に作曲家の頭の中に存在すると考えられていた。音楽を書けば、聴覚を通して知覚される以前にそれを聞くことができると考えられていたんです。私は反対に、音が発せられる以前にはなにも聞こえないと考えています。ソルフェージュはまさに、音が発せられる以前に音を聞き取るようにする訓練なのです……。この訓練を受けると、人間は聾になるだけです。他のあれこれとかの音ではなく、決まったこの音あの音だけを受け入れられるよう訓練される。ソルフェージュを練習することは、まわりにある音は貧しいものだと先験的に決めてしまうことです。ですから〈具体音の〉ソルフェージュはありえない。あらゆるソルフェージュは必然的に、定義からして〈抽象的〉ですよ……。(ジョン・ケージ『小鳥たちのために』)

地上には小鳥たちはわずかにしかいず、阿呆鳥が大半なのだからやむえない。アホウドリとは。、別名ブラヴォードリと呼ばれるのはよく知られてはいなかっただろうか?

彼らは、芸術作品に関することになると、真の芸術家以上に高揚する、というのも、彼らにとって、その高揚は、深い究明へのつらい労苦を対象とする高揚ではなく、外部にひろがり、彼らの会話に熱をあたえ、彼らの顔面を紅潮させるものだからである。そんな彼らは、自分たちが愛する作品の演奏がおわると、「ブラヴォー、ブラヴォー」と声をつぶすほどわめきながら、一役はたしたような気になる。しかしそれらの意志表示も、彼らの愛の本性をあきらかにすることを彼らにせまるものではない、彼らは自分たちの愛の本性を知らない。しかしながら、その愛、正しく役立つルートを通りえなかったその愛は、彼らのもっとも平静な会話にさえも逆流して、話が芸術のことになると、彼らに大げさなジェスチュアをさせ、しかめ顔をさせ、かぶりをふらせるのだ。(プルースト「見出されたとき」) 

《深い究明へのつらい労苦》をしなくてはならないのに、時代のドグマが「名曲」だとしたり仲間内で「流行」になりつつある作品に対してのみ、他人に《ブラヴォー》と叫び立てる種族をアホウドリと呼ぶのである。

かつまた《あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている》(プルースト)のにもかかわらず、対象の鞘におさまった部分のみを喚き立てる種族をもアホウドリと呼ぶのである。

ブラヴォードリは、他人の欲望の幻想的囮/スクリーンになる社会的つながりを確立しようとする言説構造をもっており、これを「倒錯者の言説」と呼ぶことについては、「倒錯者の言説(マゾヒストの言説)」にてやや詳述した。そもそも日本ツイッター社交界においては思想・文学・芸術・映画などをめぐってアホウドリ以外にお目にかかることは稀である。

(ところで、蚊居肢散人はどこかで似たようなことをやっていなかっただろうか・・・ま、その探求はこの際、脇にやる。というのは、《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている》(エリオット)のであり、自らの振舞いについてはメクラなのである。)

フォーレは晩年、象徴的音の生垣に穴をあけ現実界を垣間見せたのである。ソルフェージュの箍からはずれた音を書いたのである。音楽家たちがそれを聴き分ける耳がないのは、オベンキョウしすぎたためである。

これは音楽家だけの話ではない。専門家とは自分の専門の真理が分からなくなってしまう種族なのである。すなわちドクマというタガメ女に飼い馴らされてしまい、ラカン風に言えば《幻想の窓 fenêtre du fantasme》(S11)を通してしかものが見えなくなる、ロラン・バルト風に言えば、《見るものを窓枠自体によって作り上げてしまう》(『S/Z』)のである。

最晩年のラカン自らのマヌケ宣言は、いま記した意味で捉えなければならない。

私は相対的には relativement マヌケ débile mental だよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様にマヌケだな。というのは、たぶん、いささか啓蒙petite lumière されているからだな(ラカン、S24,17 Mai 1977)

たださらに遺憾なことに、専門家はおおむね勉強しすぎて、相対的なマヌケどころか、絶対的マヌケになってしまう。世界が非一貫的なもの(非全体pas-tout)であることを忘却してしまうのである。彼らの不感症ぶりは、すこし観察すればすぐ瞭然とすることである。

ニーチェの「真理は女である」とは、真理は非全体であるという意味である。

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

…………

いやあ音楽だけ貼り付けてすまそうと思っていたのだが、ひどい「自由連想」をしてしまった。シツレイ!!

音楽について記すと、どうも妄言・暴言を吐きたくなる傾向があるのは、これはいったいどうしたわけか?

ーー《人はつねに愛するものについて語りそこなう》(ロラン・バルト)


2016年10月16日日曜日

愛のセリーの起源

母さんが教えてくれた「差異と反復」」を投稿したところで、投稿しないままてあった在庫(重なる箇所はあるが)をこの際投稿しておく(だいたいわたくしはこの類の下書きがかなりあるのだが、たまには在庫消化)。

いやあ最近なんだか下書きが溜まりすぎてしまった・・・



以下、わたくしの十人のアルベルチーヌである、c'est dix Albertines……多すぎるのは分かっているがどうしても減らしがたい。

…………

われわれの愛は、われわれが愛するひとたちによっても、愛しているときの、たちまちに消え去る状態によっても展開されるものではない。Nos amours ne s'expliquent pas par ceux que nous aimons, ni par nos états périssables au moment où nous sommes amoureux.(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)


◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave"



母 mère に対する主人公の愛の中に、愛のセリーの起源 l'origine de la série amoureuse を見出すことは、常に許容される。しかしわれわれはそこでもまたスワンに出会うことになる。スワンはコンブレ―へ夕食に来て、子供である主人公から母の存在を奪うことになる。そして、主人公の苦しみ、母にかかわる彼の不安は、すでにスワンがオデットについて彼自身体験した苦しみであり不安である。《自分がいない快楽の場、愛するひとに会うことのできない快楽の場で、そのひとを感ずる不安、それを彼に教えたのは愛である。その愛にとって不安は或る意味で始めから運命として存在しているのだ。その愛によって、不安は独占され、特殊なものにされている。しかし、私にとってそうであるように、愛がわれわれの生活の中に現れて来る前に、不安がわれわれの内部に入ってくるとき、それはあいまいで自由なものとして、期待の状態で浮動している……》恐らく、母のイメージ image de mère は、最も深いテーマではなく、愛のセリーの理由でもないという結論がここから出されよう。確かに、われわれの愛は、母に対する感情を反復している。しかし、母に対する感情は、われわれ自身が経験したことのないそれとは別の愛を、すでに反復しているのである。母はむしろむしろひとつの経験からもうひとつの経験への移行として、われわれの経験の始まり方として現われるが、すでに他人のよってなされたほかの経験とつながっている。極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

◆Elizabeth Schwarzkopf - Songs my Mother taught Me



要するに、究極的な項などは存在しないのであって、わたしたちの愛は母なるものを指し示してはいない nos amours ne renvoient pas à la mère のである。母なるものは、たんに、わたしたちの現在を構成する系列のなかでは、潜在的対象に対して或るひとつの場所を占めているだけであって、この潜在的対象は、別の主体性の現在を構成する系列のなかで、必然的に別の人物によって満たされ、しかもその際、つねにそうした対象=x〔潜在的対象〕の遷移が考慮に入れられているのである。それは、言ってみれば、『失われた時を求めて』の主人公が、自分の母を愛することによって、すでにオデットに対するスワンの愛を反復しているようなものなのだ。親の役割をもつ人物はどれも、ひとつの主体に属する究極的な項なのではなく、相互主体性に属する中間項〔媒概念〕であり、ひとつの系列から他の系列へ向かっての連絡(コミュニカシオン)と偽装の形式であって、しかも、その形式は、潜在的対象の運搬によって規定されているかぎりにおいて、異なった諸主体にとっての連絡と偽装の形式なのである。仮面の背後には、したがって、またもや仮面があり、だからもっとも隠れたものでさえ、はてしなく、またもやひとつの隠し場所なのである。何かの、あるいは誰かの仮面をはがして正体を暴くというのは、錯覚にほかならない。反復の象徴的な器官たるファルスは、それ自体隠れているばかりでなく、ひとつの仮面でもある。(ドゥルーズ『差異と反復』)

◆Frantz Schubert - Du bist die Ruh', D.776 - Gundula Janowitz




ーーいやあ、この曲は選択に迷うな、Elly AmelingBarbara Bonney もひどく美しく歌っている。わたくしの母さんである Bernarda Fink はやや劣るかもしれない。

彼女らの顔は動くが、その動くうちにも、目鼻立が比較的固定しはじめて、そこから、貨幣にうちだされた肖像のようなものが、輪郭をぼかした、伸縮自在の大きさであらわれてくるようになって、私の欲望は、ますます官能を増しながら、彼女らのあいだをさまようのであった。顔と顔とのあいだにある相違 différences に、目鼻立ちの、長さや幅のなかいあるおなじような相違が呼応することは、まず望まれないが、目鼻立というものは、これらの少女たちがどんなに相違 différences しているように見えても、たがいに一方を他方にかさねあわせることができるといっていいだろう。しかし、われわれがおこなう顔の認識は、けっして数学的ではない。まず、われわれの認識は、部分部分を測定することからはじめないで、一つの表情、顔全体を出発点にしている。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅡ」井上究一郎訳)

◆Bárbara Hendricks - Fauré - Les Berceaux


たとえば、アンドレでいえば、繊麗な、やさしい目が、ほっそりとつまみあげた鼻によくマッチし、その鼻筋は細い一本の曲線をひいたようで、双眸の微笑のかさなりのなかにはじめて二分されていた繊細な意図が、その鼻筋のただ一つの線の上でつづけられているようであった。おなじようにまた一つの微妙な線が彼女の髪のなかに、しなやかな、深い畝をつくっていて、まるで風が砂に跡づけた線のようであった。そして、そのことは、まさに遺伝をあらわすものに相違なく、アンドレの母親の真白な髪は、大地の起伏にしたがって盛りあがったりへこんだりしている雪のように、ここではふくらみをつくり、そこではくぼみをつくりながら、おなじように波うっていた。(……)

◆Lois Marshall sings Gabriel Fauré's "Chanson d'amour"




なるほど、アンドレの鼻の細い輪郭にくらべると、ロズモンドの鼻は、ひろい面積を提供していて、がっちりとした土台の上にすえられた高い塔のように見えた。表情は、極微のものがつくる相違 différences entre ce que sépare un infiniment petit のあいだに、大きな相違 énormes différences を考えさせる力をもつものであるとしてもーーほんの極微のもの un infiniment petit が、それだけで、一つのまったく特殊な表情、一つの個性を創造することができるとしてもーー彼女らの顔をたがいに相殺できないもののように見せているのは、そうした極微の線と独自の表情ばかりではなかった。

◆Fauré: Au bord de l'eau - Régine Crespin




私の女の友人たちの顔のあいだには、色彩がまたいっそう深い差異 séparation plus profonde encore をつけていたのであって、その差異は、いくらかは、色彩が顔にもたらす調子、つまり顔色が示すさまざまの美によって生じたのであり、その顔色がひどく対照的なあまり、私はロズモンドのまえでもーーこれは硫黄色をおびた一種のばら色で、その地色に目のみどり色のかがやきが目立っていたーーまた、アンドレのまえでもーーこれはその白い頬が、その髪の黒さできりっと目立っていたーー同じような快感をおぼえたが、その快感は、たとえば、ひるのあいだ、燦々と日の照る海のほとりのゼラニウムと、夜、闇のなかに咲く白椿とを、こもごもにながめているような快感であった、しかし、とりわけ顔の差異は、色彩というこの新しい要素によって、線の極微の差 différences infiniment petites des lignes が法外に大きく見えるようになり、面と面との関係がまったく変えられてしまったから生じたのであって、色彩は、顔に調子をもたらすとともに、顔の面積のすぐれた再生者、すくなくとも変更者なのだ。(……)

◆Anne Sofie von Otter; "La lune blanche luit dans les bois"; Gabriel Fauré



アルベルチーヌも、その点では、やはり友人たちとおなじであった。日によっては、ほっそりして、顔色は灰色にくすみ、陰鬱そうに見える、そして、海でときどき見かけるように、何か透明なむらさき色のものが、目の奥から、斜にちらとおりてきて、そんな彼女は、遠い島流しの悲しみを味わっているようだった。またある日は、いつもよりなめらかな彼女の顔面は、その表面に塗られたニスに私の欲望を膠着し、欲望がもっと奥にはいるのをさまたげるようであった、そんなときはふいに横向きから彼女をながめればよかった。なぜなら白い蠟のようにその表面を血色を失った頬も、横から透かすとばら色で、それを見ると、しきりにその頬に接吻したくなり、そんな奥に逃げこんでいるその変わった色あいをとらえたくてたまらなくあんるからであった。またあるときは、幸福が、非常によく動くあかるい光でのその頬をひたしていて、そのために、ぼんやりと液体化してみえる皮膚は、さらによく見ると皮下のまなざしとでもいったものを透かしている、そしてその皮下のまなざしが、皮膚を実際の目とはちがった色だが物質はおなじものであるように見せているのだった、……(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅡ」井上究一郎訳、pp.338-341)

◆Elly Ameling: Notre amour ♦ Le secret ♦ En sourdine by Fauré



ところで私の視線が早く接吻するようにと私の口にうながしていた頬、その頬にまず私の口が近づきはじめたとき、その接近につれて、私の視線は、移動しながら、つぎつぎに新しい頬を目にすることになった、そしてぐっと間近に、拡大鏡で見るように知覚された首筋は、その皮膚の粗いきめのなかに、一種のたくましさを見せ、そのたくましさが、顔の性格を一変した。(……)

アルベルチーヌが以前バルベックでしばしば私にちがって見えたのとおなじように、このときも(……)私の唇をアルベルチーヌの頬に向けるその短い行程において私が目に見たのは、十人のアルベルチーヌ c'est dix Albertines que je vis なのだ、そしてこのたった一人の少女がいくつもの顔をもった女神のようになって、私が近づこうと試みると、このまえバルベックで最後に私が見た顔は、またべつの一つの顔にとってかわるのであった。すくなくとも、私がそれにふれなかったあいだは、その顔は、私の目に見え、ほのかな匂をそこから私にまでつたえてきた。しかし、ああ! ――くちづけをするには、唇のつくりがまずいように、われわれの鼻孔や目もその位置がまずいので、――突然、私の目はみることをやめた、こんどは鼻が、おしつぶされて、どんな匂も感じなくなった、そして、そのために、待望のばら色をしたものの味をそれ以上深く知ることもなく、こんな厭うべき捺印によって、ついに私は自分がアルベルチーヌの頬に接吻しているところだということをさとった。(プルースト「ゲルマントのほうⅡ」pp.97-98)

◆Ninon Vallin, En sourdine (Fauré)


かつてあんなにきびしい顔つきで拒んだものをいま彼女がこんなにやすやすと私にゆるしたのは、私たち二人が、バルベックの場面とは逆の場面(物体の逆回転という形であらわされる)を演じていて、寝ているほうが私であり、起きているのは彼女で、乱暴な攻撃に会えばうまく身をかわすことがでいたし、自分の勝手のいいように快楽をみちびきだすことができたからであろうか? (なるほど、以前のあの顔つきと、この日私の唇が近づくときに彼女の顔がたたえていた官能的な表情となあいだには、線のきわめてわずかな偏差 déviation de lignes infinitésimales しかなかった、しかしそうした偏差のなかには、相手に切りつけてそれにとどめを刺そうとする男の身ぶりと、そんな相手を救おうとする男の身ぶりとのあいだにあるような、そんなへだたりがあるといえよう。)(プルースト「ゲルマントのほうⅡ」井上究一郎訳、pp.98-99)


2016年10月15日土曜日

白い月 La Lune Blanche の差異と反復

芸術家が年老いることがないのは、おのれを反復するためである。なぜならば、差異が反復の力であるのに劣らず、反復は差異の力であるからである。

Un artiste ne vieillit pas parce qu'il se répète; car la répétition est puissance de la différence, non moins que la différence, pouvoir de la répétition.(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

◆Arleen Auger "Weichet nur, betrübte Schatten" J.S. Bach, BWV202



私はいまも思いだす、そのときの暑かった天気を、そんな日なたで給仕に立ちはたらいている農園のギャルソンたちの額から、汗のしずくが、まるでタンクの水のように、まっすぎに、規則正しく、間歇的にしたたっていて、近くの「果樹園」で木から離れる熟れた果物と、交互に落ちていたのを。そのときの天候は、かくされた女のもつあの神秘とともに、こんにちまでもまだ私に残っている、――その神秘は、私のためにいまもさしだされている恋なるもののもっとも堅固な部分なのだ。(プルースト「ソドムとゴモラⅠ」)

◆Elly Ameling - La Lune Blanche Luit Dans Les Bois




本質によって包まれた世界は、常に世界一般の始まりであり、宇宙の始まり、絶対的な、ラディカルな始まりである。《最初に孤独なピアノが、妻の鳥に見すてられた小鳥のようになげいた、ヴァイオリンがそれをきいて、隣の木からのように答えた。それは世界のはじまりにいるようであり、地上にはまだ彼ら二人だけしかいなかったかのようであった、というよりも、創造主の論理によってつくられ、他のすべてのものにはとざされたその世界――このソナタ――には、永久に彼ら二人だけしかいないだろうと思われた》。 (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

白い月が森を照らし
枝々から
その葉を伝って
囁きがもれる

ああ、愛する人よ


深い鏡のように
池が映し出す
黒々とした柳の影を
風が泣いている・・・

夢見よう、今この時


広々としたやすらぎが
やさしく降りてくるようだ
月の光が虹色に染める
空の果てから

今、えもいわれぬこの時

ーーヴェルレーヌ(Paul Verlaine)

芸術作品の中に示されるような本質とは何であろうか。それは差異、究極的な、絶対的な差異 la Différence ultime et absolue である。 それは存在を構成するもの、われわれに存在を考えさせるものである。それが、本質をあらわに示す限りでの芸術だけが、生活の中でわれわれが求めても得られなかったものを与えることを可能にする理由である。《生活や航海の中では求めても得られなかった多様性diversité ……》 《差異の世界 Le monde des différences は、われわれの知覚が一様なものにするあらゆる国ぐにの間で、地上の表面には存在しないのであるから、まして社交界の中には存在しない。それはどこかほかのところに存在するのだろうか。ヴァントゥイユの七重重奏曲は、この問に対して、存在すると答えているように思われた。》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

◆Ian Bostridge - La lune blanche luit dans le bois (Faure)




夕食後、自動車はふたたびアルベルチーヌをパルヴィルから連れだしてくるのだ。まだ暮れきらないで、ほのかなあかるさが残っているのだが、あたりのほとぼりは多少減じたものの、焼けつくような日中の暑気のあとで、私たち二人とも、何か快い、未知の涼気を夢見ていた。

そんなとき、私たちの熱っぽい目に、ほっそりした月があらわれた(私がゲルマント大公夫人のもとに出かけた晩、またアルベルチーヌが私に電話をかけてきた晩にそっくりで)、はじめは、ひとひらのうすい果物の皮のように。またときどき、私のほうから、女の友をむかえに行くときは、時刻はもうすこしおそくて、彼女はメーヌヴィルの市場のアーケードのまえで、私を待つことになっていた。最初の瞬間は、彼女の姿がはっきり見わけられなくて、きていないのではないか、勘ちがいしたのではないか、と早くも心配になってきた。そんなとき、白地に青の水玉模様のブラウスを着た彼女が、車のなかの私のそばへ、若い娘というよりは若い獣のように、軽くぽんととびこんでくるのを見るのだ。そしてやはり牝犬のように、すぐに私を際限なく愛撫しはじめるのだった。

夜が完全にやってきて、ホテルの支配人がいうように、一面の星屑夜になるころ、私たちは、シャンパンを一びんもって森へ散歩に行くのでなければ、砂丘の下で寝そべるのだが、かすかなあかりに照らされた堤防の上を、まだ散歩者たちがぶらついているけれども、砂の上は暗くて、一歩先のものは何一つ彼らの目にとまるものはなかったから、べつに遠慮することはいらなかった、かつて波の水平線を背景に通りすぎてゆくのをはじめて私が目にした少女たちの、あの美しい肉体、スポーツ的な海の女性美がやわらかく息づいているあのおなじ肉体、それを私は自分のからだにぴったりとくっつけるのだ、ふるえる一筋の光の線がなぎさを区切っている不動の海の間近で、おなじ一枚のひざかけの下で、そうして、私たちは、飽かずに、海にきき入る、その海が息をひそめて、潮のひきがとまったかと思われるほど、じっと長くそのままでいるときも、またついに、息を吐いて、私たちの足もとで、その待たれた、おそい、ささやきをもたらすときも、おなじ快楽をもって、私たちはそれにきき入るのだった。(プルースト「ソドムとゴモラⅡ」)

◆Anne Sofie von Otter; "La lune blanche luit dans les bois"; Gabriel Fauré



通ってゆく汽車の汽笛がきこえ、その汽笛は、遠くまた近く、森のなかの一羽の鳥の歌のように、移ってゆく距離を浮きたたせながら、さびしい平野のひろがりを私に描きだし、そんな空漠としてなかを、旅客はつぎの駅へいそぐのだ、……それは一羽の小鳥なのか、小楽節のまだ完成していない魂なのか、一人の妖精なのか、…… (プルースト「スワン家のほうへ」)(プルースト「スワン家のほうへ」)

La lune blanche
luit dans les bois.
De chaque brahche part une voix
sous la ramée.

O bien aimée....


L'étang reflète,
profond miroir,
la silhouette du saule noir
où le vent pleure.

Rêvons,c'est l'heure.


Un vaste et tendre apaisement
semble descendre
du firmament
que l'astre irise.

C'est l'heure exquise!

連続的な愛のセリーだけが存在するわけではない。それぞれの愛は、それ自体でセリーのひとつのかたちを借りている。ふたつの愛の間には見出される小さな差異 petites différences と、対立関係とを、われわれはすでに同一の愛の中に発見している。たとえばアルベルチーヌへの愛と、もうひとつの愛である。なぜならば、アルベルチーヌは、数多くの魂と、数多くの顔を持っているからである。確かに、それらの顔と魂は、同じ面の上にはなく、セリーを構成している。(対立の法則によれば、《最小の変化 le minimum de variété は…ふたつである。われわれは精力的な一瞥、大胆な態度で思い出すのであるが、次に出会ったときに驚き、ほとんど独自の仕方で衝撃を受けるのは、どうしても次の機会に、ほとんどやつれたような横顔、一種の夢見るような甘さ、つまり、その前の思い出の中では無視されていたものによってである。》)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』) 

◆Arleen Auger - Gehe nicht ins Gericht 2/3 - JS Bach - Kantate BWV 105




そのようにして、アルベルチーヌへの私の愛は、それがどのような差異を見せようとも、ジルベルトへの私の愛のなかにすでに書きこまれていた……Ainsi mon amour pour Albertine, et tel qu'il en différa, était déjà inscrit dans mon amour pour Gilberte ...(プルースト「見出された時」)




2016年1月7日木曜日

愛する女のように、未来を愛する人たちがいた

年少の友達から《――愛する女のように、未来を愛する人たちがいた、というアイルランドの詩人の一節を読みました》と、手紙に書いてきた。(『人生の親戚』)

(Amedeo Modigliani)


いいなあ、ほれぼれするなあ、

僕の前にまっすぐ支えられたまり恵さんの頭は、薄い脂肪のついた頸のいくつかのほくろと、固めた蠟のような質感の耳たぶが、そこに眼をとどめることにうしろめたさを感じさせるほどの印象なのだった。(同 大江健三郎 P.12)

大江健三郎の『人生の親戚』もいいなあ、ほかの作品と比べるほど、大江をたくさん読んでいるわけでもない、小説を数多く読んでいるわけでもないけど。

まり恵さんは、階段の昇り口からすぐ眼につくところのに、向日葵のプリントをしたワンピースの裾をひろげ、悠然と膝をくみ、頭をまっすぐあげて坐っていた。どこかの避暑地のホテルにしっくりしそうな雰囲気のまり恵さんは、鍔の狭い、軍帽のような麦藁帽子を、僕に向けて胸のところにかざした。その快活な身ぶりとはズレをきざんで、羞じらっていながら、しかしナニクソと自分を励ましている気配もあきらかで、僕はのちに受験に失敗した次男が報告に戻って示した表情から、この日のまり恵さんを思い出したものだ……(p.34)






以前、この写真を眺めてなにかのイメージと似ているな、と感じてそのままほうってあったのだけど、まり恵さんのイメージかもな、彼女はこの写真の女性よりずっとインテリだけどさ

彼女はうすものを羽織っているのみで、(……)下半身は裸、合成樹脂の黒いパイプ椅子に足を高く組んで掛けている。こちらはその前に立っているのだが、足場が一段低いので、頭はまり恵さんの膝の高さにある。p80

かつて「僕」が、まり恵さんと一緒に、プールで泳いだとき、《彼女の大きく交差して勢いよく水を打つ腿のつけねに、はみ出た陰毛が黒く水に動き、あるいは内腿の皮膚にはりつくのを見た》、その「出来事」が夢の表象として現われるーー。

まり恵さんの、腿に載せたもう片方の腿があまりに引きつけられているので、性器の下部が覗きそうだが、そこに悪魔の尻尾がさかさまに守っている。つまりはしっとりした黒い陰毛が、クルリと巻きこむように性器を覆っている。p80

ーー上の写真の女性は陰毛も淡すぎるし、脚の筋肉もまり恵さんのように訓練を積んだものではないんだけどな

ーー子供の頃、アメリカの学校で陸上競技をやらされたから、その時ついた筋肉はあまり変わらないのね、と深く背を曲げるストレッチ運動をしているまり恵さんは、しっかり張った尻の下に腿の紡錘形がふたつ並んでいる間からゆったりした声をかけてよこした。p.35

そうかといってモディリアーニの女というわけでもないな




ああ、モディリアーニもいいねえ、大江の文章と同じくらいか、それよりもずっともっと。

はたち前後にほれぼれした三十過ぎの女ってのは、もうオレにはないからな、いま二十前後の〈きみたち〉にしかないぜ、ワカルカ?

隠しマイクによる録音、ということからの先入見を裏切って、シーツのこすれる音もはっきりと聞こえる音の良さで、男と女の言葉少ない会話が再生された。すぐ性交にうつり、また会話。あらためて性交が始まろうとして、あきらかに男に対して年長の落着きをあらわした女が、――うしろからやろうよ、といい、カサカサとシーツが鳴り、――ちょっと待ってね、足をひろげるから、とさらに女はいった。おとなしく男はしたがうのだが、女がおおいにとりみだした後、男は余裕をえた具合に、――二度イッタけど、まだこんなだよ、という。――大きいのねえ、さすが二十三歳よ、と女は嗄れた声で心から応じていた……

男が、若さからの自己中心主義と、無経験からのおとなしさをあわせ示し、かつは性交をかさねるにつれて、しだいに大きな態度になる。その自然な変化に僕は興味を持ったが、はじめはピルを服用していることなど、経験豊かな様子で男の不安をしずめていた女が、二度目の性交が終ると男に対していかにも柔軟になっている、その性格の良さをあらわす進み行きに、僕は好意を感じた。……(大江健三郎『人生の親戚』p.37)

人間の原則はあのころのスケベ心だからな、それが凋みつつある齢になったらそろそろおしまいさ

人皆の根底にはその人の「原則」が巨大な文字で彫りつけてある。それをいつも見つめているわけではない。一度も読んでいないことも稀ではない。だが人はそれをしっかり守り、人の内部の動きはすべて、口では何と言おうとも、書かれているところに従い、決して外れることはない。考えも行いもそれに違うことはない。心の奥のそこには傲慢、弱点、頬を染める羞恥、中核的恐怖、孤立、なべての人が持つ無知がきらめいていて、世にあるほどのバカげた行為をいつも今にもやらかしそうだ―――。

愛しているものの中にあれば弱く、愛しているもののためとあらば強い。(ヴァレリー『カイエ』Ⅳ(中井久夫訳)より)

あの原宿のカフェ・バーの名なんというんだったけな、70年代の後半のことさ、すてきなおねえさんに昼日中、安上がりで出会える稀な場所だったよ

出会える、だって?--いやウブなオレは眺めているだけだったよ、ほとんどな

そのようにしてまり恵さんと三人組が遊ぶ足場にしていた、原宿のカフェ・バーでーーこの種のものがあらわれはじめた最初のころだった。つまりまだ一般的な場所というのではなかったーー、その場には三人組も居あわせたのだが、ある日まり恵さんはテレヴィ局の録音技術者と知り合った。……p.31


(1979年の表参道)

ロマン主義的な追憶の描写における最大の成功は、かつての幸福を呼び起こすことではなく、きたるべき幸福がいまだ失われていなかった頃、希望がまだ挫折していなかった頃の追想を描くことにある。かつての幸福を思い出し、嘆く時ほどつらいものはない――だがそれが、追憶の悲劇という古典主義的な伝統である。ロマン主義的な追憶とは、たいていが不在の追憶、一度たりと存在していなかったものの追憶である。(ローゼンのシューマン論 ―― Slavoj Zizek/Robert Schumann-The Romantic Anti-Humanistよりの孫引き)

◆Faure Pavane Op 50 - Die 12 Cellisten der Berliner Philharmonker



2015年12月16日水曜日

さまざまの事おもひ出す腕を、ちょっとだけ縛ってかな

さまざまの事おもひ出す桜かな(芭蕉)

吉行淳之介好みの女ってのはどうもいけなかったよ
上野毛の吉行宅まで散歩に誘われたんだけどさ
坂道に面した、庭がとっても広い家だったな

オレはまだひどくウブだったころだ
なぜかヤラなかったんだな

……露わになった腋窩に彼が唇をおし当てたとき、
京子は嗄れた声で、叫ぶように言った。
「縛って」
(……)
「やはり、その趣味があるのか」
京子は烈しく首を左右に振りながら、言った。
「腕を、ちょっとだけ縛って」
吉行淳之介『砂の上の植物群』





いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、
ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、
回想する年齢だね。(大江健三郎『人生の親戚』)

でもやっぱりヤラなかった女のほうがいっそう懐かしいんじゃないか

若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト『ゲルマントのほう 二』)

どんなに惚れた女も
手に入ると
手に入ったというそのことで
ほんの少しうんざりするな

どんなに惚れた女も
手に入らないと
手に入らないというそのことで
ほんの少しきらいになるんだよ

ーーだれのパクリだかわかるだろうな?

ところでまるで光が歌っているかのような女ってのがいるんだな
くらくらしたよ

ナオミさんどうしてるんだろ?

ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)

くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のような女ってのもいたよ
後期フォーレみたいなね





フローベールは『ボヴァリー夫人』を
「わらじ虫がうようよする片隅のあのカビの色みたいな感じを出したい」
ために書いたそうだけど

まだ十代のころそんな少女と気があっちまったことがあるな
バッハのトリオソナタの緩徐楽章が好きだっていったらさ
めかくしが好きな女だったね





ニーチェもフロイトも美は性欲にありって言ってるからな

それでとーー
ちょっともう続けようがないなこの先は


2015年11月8日日曜日

戸口をすぎて行く隙間風の匂い

……彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのない無意識的な回想 réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラ Ⅱ」 井上究一郎訳 p.168)

ドゥルーズがその著書『プルーストとシーニュ』で引用している断片だが、ああ、この文自体がわたくしをクラクラさせる。

人生はこのような時間の積み重ねで出来ている、もし〈あなた〉が、陶酔している者に対して「あなたはすきま風がお好きなようですね」というタイプでなければ。

以下の大江健三郎の文は、おそらくプルーストの『見出された時』にある「純粋過去 passé pur」をめぐる箇所、《純粋な状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》という表現ーードゥルーズ解釈なら、《過去の時間の中での差異 différence dans l'ancien moment と、現在の時間の中での反復 la répétition dans l'actuel》ーー、あるいは(プルーストに戻れば)、《「死」という言葉 mot de « mort » はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそとに存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう?》などをすくなくとも頭の片隅に置きつつ書かれたにちがいない、とわたくしは思う。’

……この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。真紅といいたいほどの赤いのと、黄色のと、そしてまが明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだよ。もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。生まれて初めて感じるような、深ぶかとした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ……

それからは、自分を訓練するようにして、人生のある時々にさ、その一瞬よりはいくらか長く続く間をね、じっくりあじわうようにしてきたと思う。それでも人生を誤まつことはあったけれど、それはまた別の問題でね。このように自分を訓練していると、たびたびではないけれどもね、この一瞬よりはいくらか長く続く間にさ、自分が永遠に近く生きるとして、それをつうじて感じえるだけのことは受けとめた、と思うことがあった。……

自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮ぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか? 

……私としてはきみにこういうことをすすめたいんだよ。これからはできるだけしばしば、一瞬よりはいくらか長く続く間の眺めに集中するようにつとめてはどうだろうか? (大江健三郎『燃え上がる緑の木 第一部』p148-150)

一陣の風が、おまえの豊かな髪をねじって
おまえの夢見がちな精神に奇妙なざわめきを運び
木の嘆きと夜々の溜息のうちに
おまえの心が「自然」の歌声に耳を傾けていた…(ランボー「オフェリア」鈴木創士訳) 

通ってゆく汽車の汽笛がきこえ、その汽笛は、遠くまた近く、森のなかの一羽の鳥の歌のように、移ってゆく距離を浮きたたせながら、さびしい平野のひろがりを私に描きだし、そんな空漠としてなかを、旅客はつぎの駅へいそぐのだ、(「スワン家のほう」)

◆ Ian Bostridge - La lune blanche luit dans le bois「白い月影は森を照らし」 (Faure)



あたかも演奏者たちは、小楽節を奏しているというよりは、むしろ小楽節に強要されるままに、その小楽節が姿をあらわすに必要な聖なる儀式をとりおこなっているように見え、小楽節を呼びだす奇蹟に成功しそれをしばらくひきのばすために必要な呪文をとなえているように見えたので、スワンはーーその小楽節が紫外線の世界に属してしまったかのようにもはやそれを見ることもできず、またそれに近づいたとき、突然おそわれた一時の失明のなかで、変身の爽快な感覚にも似たものを味わっていたスワンはーーその小楽節が、彼の恋の秘密をきいてくれる守護女神であって、聴衆をまえにして彼のかたわらに近づき、彼を脇に連れていって話しかけようと、そうした楽の音に身をやつして現前しているのだ、と感じるのであった。そしてその女神が、彼に必要な言葉を告げながら、香水のように、軽く、心をやわらげ、そっとささやいて通りすぎてゆくあいだに、彼はその一語一語を玩味し、その言葉がそんなに早くとびさるのを惜しみながら、なだらかに、逃げて行くように過ぎさる、その調和あるからだに、無意識のうちに、くちづける動作をするのだった。(プルースト「スワン家のほうへ 第二部」 P.454)
もはや彼はただひとり遠いところに追放されているとは感じていなかった。なぜなら、小楽節のほうから、彼に言葉をかけてきて、オデットのことを小声で話してくれたからであった。つまり、彼はかつてのように、オデットも自分も小楽節に知られていないという印象をもはやもたなかったのだ。小楽節は、彼らのよろこぼをあんなにもたびたび目撃していたのだ! なるほど、小楽節はまた、たびたび二人の恋のはかなさを彼に警告した。そしてあのころ、小楽節のほほえみのなかに、熱中からさめた、澄みきった、その抑揚のなかに、彼は苦しみを読みとってさえいた。しかしいまはそのなかに彼はむしろ陽気に近いあきらめの美しさを見出すのであった。 (同上)

◆Anne Sofie von Otter; "La lune blanche luit dans le bois"; G. Fauré




……スワンは音楽の種々のモチーフを、べつの世界、べつの秩序に属する、真の思想〔イデ〕と呼ばれるべきものと見なしていた、それは闇で被われた、未知の思想であり、理知がはいりこめない思想であったが、それでいてやはりその思想の一つ一つがまったく明瞭に区別され、価値も意味もそれぞれひとしくない思想なのであった。はじめてヴェルデュラン家を訪れた晩、あの小楽節を演奏してもらった彼が、その夜会のあとで、なぜ小楽節が匂のように愛撫のように自分をとりまき自分をつつんだかを見きわめようとつとめたとき、あの身が縮まるような、冷気がしみこむような、快い印象がわきおこったのは、小楽節を構成する五つの音のあいだのわずかなひらきと、それらのなかの二つの音の不断の反復によることをスワンは理解したのであった。 (プルースト「スワン家のほうへ 第二部」 P.455)

◆Fauré - Piano Quartet No1 in C minor, Op.15 (2)



最後の部分がはじまるところでスワンがきいた、ピアノとヴァイオリンの美しい対話! 人間の言語を除去したこの対話は、隅々まで幻想にゆだねられていると思われるのに、かえってそこからは幻想が排除されていた、話される言語は、けっしてこれほど頑強に必然性をおし通すことはなかったし、こんなにまで間の適切さ、答の明白さをもつことはなかった。最初に孤独なピアノが、妻の鳥に見すてられた小鳥のようになげいた、ヴァイオリンがそれをきいて、隣の木からのように答えた。それは世界のはじまりにいるようであり、地上にはまだ彼ら二人だけしかいなかったかのようであった、というよりも、創造主の論理によってつくられ、他のすべてのものにはとざされたその世界―――このソナタ―――には、永久に彼ら二人だけしかいないだろうと思われた。それは一羽の小鳥なのか、小楽節のまだ完成していない魂なのか、一人の妖精なのか、その存在が目には見えないで、なげいていて、そのなげきをピアノがすぐにやさしくくりかえしていたのであろうか? そのさけびはあまりに突然にあげられるので、ヴァイオリン奏者は、それを受けとめるためにすばやく弓にとびつかなくてはならなかった。すばらしい小鳥よ! ヴァイオリン奏者はその小鳥を魔法にかけ、手なずけ、うまくつかまえようとしているように思われた。すでにその小鳥はヴァイオリン奏者の魂のなかにとびこんでいた。すでに呼びよせられた小楽節は、ヴァイオリン奏者の完全に霊にとりつかれた肉体を、まるで霊媒のそれのようにゆり動かしていた。スワンは小楽節がいま一度話しかけようとしているのを知るのであった。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)

◆Faure, String Quartet, OP.121 andante







2015年11月1日日曜日

火傷するほど「熱い」Raquel Andueza

歌をうたうとかさ、そういうことが大事だってことをもう一度思い出さなきゃ。大事なのは、音楽が非常にパーソナルな、個人的なものだ、一人ひとりの人間に一人ひとりの音楽があるということだからさ。-武満徹

…………

Chanson d'amour(Lois Marshall)」という投稿をするときに、フォーレの「Chanson d´Amour」を何人かの歌手の録音で聴いてみたのだが、そのとき、Raquél Andueza(ラケル・アンドゥエサ)の歌い方には、いささか違和があった。思い入れが込められすぎている、感情過多だ、清澄さに欠ける等々、--これではフォーレにふさわしくない、と感じたのだ。

◆Chanson d´Amour, Gabriel Faure, Raquél Andueza.




昨晩ふたたび聴いてみると、以前とは異なってとても惹きつけられる。二十前後の青春期の男が、このオネエサンすごいなあ、と口をポカンと開けて聴き惚れているような感覚にとらわれた。すなわち、青春期に戻った気分になっているわたくしを見出した。

なぜそうなったのかは記すと長くなるのでーーそれだけでなく、わたくしのヒミツにも触れそうな気がするのでーー書かない。ようするに、《火傷するほど「熱い」》ことにかかわりそうなのだ。

わたくしは当時、アマチュア合唱団に所属していた(大学内部のではなく、年輩者も多い合唱団である。 岡村喬生と共演したこともある、--といってもわたくしは後ろにひかえる多人数の一人であったにすぎないのは言うまでもない、小澤征爾のような髪型をしたやんちゃな指揮者が合唱団員をしごいた、指揮棒が飛んできた・・・ )。

ヴェルディのラクリモーサを歌うあのときのおねえさんはひどくウツクシカッタ・・・




すでに出版された自著への態度は人によって非常に異なるようである。私は普通、改訂はしない。読み返すこともほとんどない。書店に入っても著書が並んでいる本棚の前は避けて通ってしまう。私にはまだ手にとって火傷するほど「熱い」のである。

翻訳の場合にはこの過敏症はない。特に訳詩となると、これは少し間を置けば何度読み返しても飽きないし、少しずつ訂正してしまう。書店に並んでいるとほっとしてその書店を祝福したくなる。これはおそらく私が翻訳という安全な隠れ蓑を着て私の著作家としてのナルシシズムを安全無害に放電しているのであろう。もし私の詩集という実在しないものが書店に並べば私はその前をとおりにくいのは他の著作以上だろう。 (中井久夫「執筆過程の生理学」)

Raquel Anduezaはもともとバロック以前の作曲家たちの歌い手のようだ。Philippe Jarousskyとも共演しているが、わたくしは彼の歌唱に馴染めないので貼り付けない(これもいつ変わるかわからない)。





◆Raquel Andueza - L'amante segreto - Barbara Strozzi




◆Sé que me muero - RAQUEL ANDUEZA & LA GALANÍA




◆Raquel Andueza y la Galanía, con Monteverdi



プルーストのいうように、書物だけでなく芸術作品は自分を読む「眼鏡」である。《自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせる》ものなら、なんでもすばらしい。もちろん最低限の形式的な美をもっていなくてはならない、という観点はあるだろう。

だがプルーストは次ぎのようにさえ言っている、《われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。》(プルースト「逃げさる女」)

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。

したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。

本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。書物が述べていることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりであって、著者のテキストと読者のテキストのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に負わせることができる。

さらにつけくわえれば、単純な頭の読者にとって、書物が学問的でありすぎ、難解でありすぎることがある、そんなときはくもったレンズしかあてがわれなかったように、読者にはよく読めないことがあるだろう。しかし、それとはべつの特殊なくせ(倒錯のような)をもった読者の場合には、正しく読むために一風変わった読みかたを必要とすることもあるだろう。著者はそれらのことで腹を立てるべきではなく、むしろ逆に、最大の自由を読者に残して、読者にこういうべきである、「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

プルーストは未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の「粗悪音楽礼賛」のくだりでこう述べている。

粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ。

こう引用したからといって、Raquel Anduezaが「粗悪の歌手」だとか「石鹸の広告」だとか言いたいのではない。彼女のBarbara Strozzi(バルバラ・ストロッツィ)などの清澄な歌声の裏には、冒頭のフォーレと末尾のモンテヴェルディの歌い方がある、ということを言いたいだけだ。

彼女のバッハを二曲ほど聴いてみたが、あれは、--ちょっといけない。
実は『失われた時を求めて』執筆の前にプルーストが手がけた未完の二人称小説『ジャン・サントゥイユ』の中には、主人公ジャンがサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに耳傾ける場面があるのだという。このことから、サン=サーンスを好まないと1915年の時点で書簡にプルーストは書いているものの、人の嗜好は変化するものであって、プルーストのサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに寄せる思いは、『失われた時を求めて』の語り手がジルベルトに寄せる思いと同じく、初恋のようなものではなかったか、とアンヌ・ペネスコは推測している(p108)。プルーストは、やはりサン=サーンスのヴァイオリン・ソナ夕に魅了されていたのだとペネスコは断じる。かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思いが、文学テクスト上のヴァントゥイユの音楽の創出にあずかっていたというのが、ペネスコの見立てである。(安永愛

スワンのオデットへの愛、主人公のジルベルトやゲルマント公爵夫人、あるいはアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。プルーストが繰り返し書いたのは、「愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在しないこと」だった。


2015年10月31日土曜日

杣径のなかの信仰を持たない者の祈り

「信仰を持たないでいても、ある宗教的なものといいますか、祈りのようなものを自分が持っていると感じる時が、人生の色々な局面であったのです。やはり信仰の光のようなものがあって、向こうからの光がこちらに届いたことがあると私は思っているのです。」(大江健三郎『信仰を持たない者の祈り」)

◆「まことに神の子であった Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen.」



「つつしみ」といったが、それは礼儀作法のもっと原初的で包括的なものである。ちなみに「宗教」の西欧語のもとであるラテン語「レリギオ」の語源は「再統合」、最初の意味は「つつしみ」であったという。母権的宗教が地下にもぐり、公的な宗教が父権的なものになったのも、その延長だと考えられるかもしれない。ローマの神々も日本の神々も、威圧的でも専制的でもなく、その前で「つつしむ」存在ではないか。母権的宗教においては、この距離はなかったと私は思う。それは、しばしば、オルギア(距離のない狂宴)を伴うのである。母親の名残りがディオニュソス崇拝、オレフェウス教として色濃く残った古代ギリシャでは「信仰」はあるが「宗教」にあたる言葉がなかったらしい。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」『時のしずく』所収


◆マタイ受難曲BWV244「愛ゆえに 我が救い主は死に給うAus Liebe will mein Heiland sterben 」


Gundula Janowitzー Karajan

ーー「主よ、信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコによる福音書9章24節)

聖歌を唱う者にとって、聴衆のための演奏など思いもよらぬことであった。彼らが唱うとき、彼らを通して神の声が唱う。あるいはそれは天使の声であるかもしれない。しかしそこに集う者たちは聴くためだけではなく秘儀をとりおこなうために来ているのだ。音楽は信徒に語りかけるのではない。彼らに代わって唱われるのであり、しかも聖歌は誰もそれを聴く人間がいなかったとしてもまったく変わることはないはずだ。それは物理的な顕現でしかない。仮りに音楽が聴く者に外部から触れるとしても、そのほんとうの源は聴く者の内部にある。聖歌は音響に姿を変えた祈りとなるのだ。(シュネデール)

◆カンタータ BWV 127「魂はイエスの手にて憩う Die Seele ruht in Jesu Händen」



BWV 127 :Eileen Farrell-Robert Shaw


どのような入り方をしても
いきなり深い
そのように森はあった
抜け道はふさがれ
穴は隠されて
踏み迷う

空を裂く
鳥の声は小さな悲鳴
両手を泳がせ
枝をかきわけて
つくる小径
星と虫
死骸の層に靴は沈み
凶兆の泥が付着する
実と見れば齧り
青くしびれる舌
…………(「森」  須永紀子


◆ カンタータ BWV202 「しりぞけ、もの悲しき影 Weichet nur betrubte schatten」



BWV202 AugerーGerard Schwarz




「森の道」 Holzwege(1950) :森林の空地 Lichtungに至る森のなかの道、それは人跡未踏の道、迷いの道であり、 Lichtung とは存在の Lichtungである(ハイデガー

◆ Cantata BWV 12 「泣き、歎き、憂い、怯えweinen klagen sorgen zagen」


BWV12 Ton Koopman

存在者を越えて、しかし離れてではなく、それに先立って、もう一つ別のことが起る。存在者全体の真只中に一つの開けた場所 eine offene Stelle が現成する。一つのLichtung がある。存在者の側から考えれば、それは存在者より以上に存在する。この開けた中心 die offene Mitte は、従って存在者によって囲まれているのではなく、この光を与える中心 die Iichtende Mitte そのものが一切の存在者を包む umkreisen のである。存在者は、このLichtung のなかに入って照らされるときにのみ、存在者として存在しうる。このLichtung のみが我々人間に我々以外の存在者への通路と、我々自身である存在者への接近を贈り、保証する。……存在者がそのなかに立つLichtung はそれ自身において同時に隠蔽である。隠蔽は存在者の只中において二種の仕方で行なわれる(Holzwege)


◆カンタータ BWV 105「いかにおののき、よろめくことかWie zittern und wanken」


BWV105 鈴木雅明

聖アウグスティヌスによれば、神とは包み込みながら満たすものだというが、音楽はそのような神の属性をそなえている。音楽はまわりを取り巻き、包囲し、しかも内部にとどまっている。それは部分の部分であり、耳に向かってたちのぼってくる苦痛あるいは快楽の切っ先である。(シュネデール)

◆カンタータBWV 106「神の時こそいと良き時Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit」



BWV 106 (Ton Koopman)

一切のものは、独白的芸術に属するか観客相手の芸術に属するかのいずれかである。この後者には、なおまた、神への信仰を内に抱くあの見せかけだけの独白芸術、つまり祈祷の叙情詩の全部が、含められる。というのも、信心深い者には孤独というものがまだ存在しないからだ。こうした区別の案出は、われわれが、背神の徒であるわれわれがはじめてやったことなのだ。

総体的に見た上での芸術家の光学に関しては、つぎのような区別にまさる深い区別を、私は知らない。—それはすなわち、芸術家が観客の目を起点として自分の生成中の芸術作品の方(「自己」の方—)を眺めているのか、それともまた、すべての独白的芸術の本質がそうであるように、「世界を忘却して」いるのか、という点からする区別である。—独白的芸術は忘却に基づいている、それは忘却の音楽なのだ。( ニーチェ「悦ばしき知識」信太正三訳)

◆ Bach -Furtwängler"Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen"





ひかりといふひかりが……   生野幸吉

ひかりといふひかりがはしり抜ける
蒼ぞらは不意にあかるくなり
ひとびとは不可解な
どよめくあらしの一塊にみえる……
(……)

ひとり慄へるやうに かぜにたましひを投げわたすやうに……



…………

いちじくの樹よ、すでに久しい以前からおんみはわたしに意味深いのだ、
いかにおんみは花期をほとんど飛び越えて、
遅疑することなく決意した果実のなかへ、
世の声高い賞讃もうけず、おんみの清純な秘密を凝集することか。
噴水の管(くだ)にも似ておんみのしなやかな枝々は、
樹液を下へ、上へと送り、それはほとんど醒めることなしに、眠りの中から
甘美な事業の幸福へとおどり入る。
さながら神があの白鳥に転身したように。(リルケ『ドゥイノの悲歌』第六 手塚富雄訳)

◆Faure Andante Opus 121



Faure Andante Opus 121(Emile Naoumoff piano transcription)

……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」)

◆Gabriel Fauré,. Quatuor à cordes, Allegro




立ち昇る一樹。おお純粋の昇華!
おおオルフォイスが歌う! おお耳の中に聳える大樹!
すべては沈黙した。だが沈黙の中にすら
新たな開始、合図、変化が起こっていた。

静寂の獣らが 透明な
解き放たれた臥所から巣からひしめき出て来た。
しかもそれらが自らの内にひっそりと佇んでいたのは、
企みからでもなく 恐れからでもなく

ただ聴き入っているためだった。咆哮も叫喚も啼鳴も
彼らの今の心には小さく思われた。そして今の今まで
このような歌声を受け入れる小屋さえなく

僅かに 門柱の震える狭い戸口を持った
暗い欲望からの避難所さえ無かったところに――
あなたは彼らのため 聴覚の中に一つの神殿を造った。

ーーリルケ「オルフォイスに寄せるソネット」より 高安国世訳



2015年10月21日水曜日

にわかに逞しくなった膝

 人間は、人殺しだとか、裏切りだとか、泥棒だとかいう言葉を、平気で人前でしゃべり散らしているくせに、どうして性交という言葉は、歯の間で噛み殺してしまうのであろう、言葉に出して発散してしまわない方が、その思想を拡大することができるというわけか知らん、とモンテエニュは言っている。続いて、この苦労人は、世間で最も稀れにしか使われぬ言葉が、世人に最もよく広く知られた言葉であるとは、実におもしろいことである、と言う。おもしろいことかもしれない。あるいは恐ろしいことかもしれない。人間という奇妙な動物は、己れを恐れている、これも確かモンテエニュの言葉である。いずれにせよ、これは、あらゆる好色文学が花を咲かせる謎めいた地盤のように思われる。(小林秀雄「好色文学」昭和二十五年七月)

…………

ツイッターの古井由吉botで次の文を拾った。

・病気ではない、この二年半の間にどこかの男とよほど深い関係にあったのだ、と岩崎は睨んだ。もう切れたあとか、切れかけているのか、それとも澱んでしまっているのか知らないが、おそらく佐枝はその関係の始まる前の時点にもどろうとして、岩崎の存在を思出したのにちがいない。

・そう言えば抱かれている時にも、孤独を守っていた。岩崎によって、男にたいして孤独になろうとしていた。

・「わかってるよ。お前が男と暮しているとは思っていないさ。男が部屋へ通ってくるとも、思っていない。そんな艶っぽいことのある女の顔はしてないさ。ただ、なんとなく、嫉くんだよ。お前がそれを許すんだ。村では、俺の横着さをどこまでも許したが」

・にわかに逞しくなった膝で、佐枝は岩崎の身体を押しのけるようにする。それにこたえて岩崎の中でも、相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちてきて、かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出す。鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかける。

・やがて佐枝は細く澄んだ声を立てはじめる。男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だった。(古井由吉『栖』「栖」)

ーーなんという目が眩むような文だろう、 〈あなた〉は性戯の最中に女をからかたことなどにより、《にわかに逞しくなった膝で》《身体を押しのけるように》されたことはないか。

そしてその反動で《相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちて》きて凶暴な心持に襲われたことはないか。

《かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出》したことは〈あなた〉ではない〈わたくし〉にはないが、《鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかけ》たことぐらいはある。

ああ、そうしたあと、女は《細く澄んだ声を立てはじめる》、だが《男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だ》。

私はいまも思いだす、そのときの暑かった天気を、そんな日なたで給仕に立ちはたらいている農園のギャルソンたちの額から、汗のしずくが、まるでタンクの水のように、まっすぎに、規則正しく間歇的にしたたっていて、近くの「果樹園」で木から離れる熟れた果物と、交互に落ちていたのを。そのときの天候は、かくされた女のもつあの神秘とともに、こんにちまでもまだ私に残っている、――その神秘は、私のためにいまもさしだされている恋なるもののもっとも堅固な部分なのだ。プルースト「ソドムとゴモラ Ⅰ」井上究一郎訳)




そして突然夢のなかでサン=ルーは愛人がいつものくせのように官能の瞬間に規則正しく間歇的に発するあのさけび声をはっきり耳にしたのであった。 (プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」)

ああ女にはかなわない。われわれはつねに負ける。

ーー「負ける」だって? 愛とは勝ち負けじゃないわよ、などとほどよく聡明なお方がたぶんおっしゃられることだろう。

「ほどよく聡明な」とは場合によっては「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(小林秀雄)のことである。負ける/勝つとは受動性と能動性のことさ。

女性、享楽、不安はエロスの部分である。男性、ファリックな快楽、悲哀はタナトスの部分である。この性向が意味する分岐は、快楽はあまりにも大きな喪失を生み出すということだ(Tristis post Coitum 性交後の悲しみ)。不安は自我の消滅にかかわり、それが享楽の条件である(たとえば性的融合によってエゴは消え去る刻限がある)。悲哀はファリックな快楽(たとえばオーガズム)の結果による共生の喪失にかかわる。この観点から言えば、男性と女性の対立は、まったく相対的なものであり、それは能動性と受動性の対立として捉えなおすべきだ、すなわち、どの主体も他者に相対するときに取り得る態度として。(Paul Verhaeghe 、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、1998)

ほかに肝腎なのは、《〈他〉の性自体は、両方の性にとって、女性の性female sexである。それは、男にとっても女にとっても〈他〉の性である》(The Axiom of the Fantasm ,Jacques-Alain Miller)、すなわち男女とも最初の愛の対象〈女=母〉が〈他〉の性であることだ。

そしてどの現実の女性にもこの〈他〉の性の影が落ちており、他方、現実の男性にはこの〈他〉の性の影が稀にしかないということだ。


男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。( カーミル・パーリア「性のペルソナ」




ーー瞬間的に「勝った」と思ってもダメだ、すぐそのあとが待っている。

われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは……かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝*1とある皇后*2自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上のことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。(モンテーニュ)

*1 ティトゥス・イリウス・プロクルス。
*2 クラディウス帝の妃メッサリナ。

ティレジアスの神話を御存知ですか。彼は女性の享楽がどんなものか知りたく、ゼウスから女になることを許されたのです。ティレジアスの性転換です。彼が男に戻った時にこう言います-世の中に享楽が十あるとすると、九つは女のもので一つだけが男のものだ。ここでは簡単に触れることしかできませんが、それはこういう考えなのです-男が一つのものとすると、女は常に他(Autre)のものである。フロイトが超自我の欠けた存在である女について言っていることに関して例えばピロポが教えてくれるものによると、女性はまさに超自我的な他者(Autre)の場所を占めるものなのです。現実に女は結構上手にそこに腰を据えてようですが...また財布の紐はしばしば奥さん方がにぎっています。フランス語ではよく俗に妻をかみさんbourgeoise[お金を持っているブルジョアから来ている]と呼びます。(ジャック=アラン・ミレール『ピロポ』)




構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》

このことは、われわれに想い起こさせる、スフィンクスとその謎に直面した状況を。スフィンクスはあなたを貪り食うだろう、もしあなたが正しい答え、すなわち、正しいシニフィアンを齎さなかったら。実のところ、われわれは実在の女について話しているわけではもはやない。逆に、すべての女は、二重の仕方でこの姿形の餌食になるのだ。主体として、彼女はこのおどろおどろしい形象に直面する(すなわち、男と同じように、生れたときは、母の欲望に直面する:引用者)。さらに、女として、彼女はこの畏怖すべき形象の姿を纏わせられる。あなたがこのおどろおどろしい女性の姿形の説明を知りたいのなら、カミール・パーリアの書物、『性のペルソナ』をにおける性と暴力をめぐる最初の章を読んでみるだけでよい。彼女は正しく、この姿形と自然自身とを同一化している。もしこの姿形に直面した男性の不安の臨床的な説明を読みたいなら、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格』Geschlecht und Charakterを読んでみよう、ジジェクのコメントとともに。この二つとも意図されずに、臨床的的な事実の説明となっている。すなわち、防衛的な機能とともに、おどろおどろしい女性の姿形のアポステリオリな(後天的な)構築物であるという事実の。もし意図された臨床的な説明がほしいなら、Klaus Theweleitによる美しい『Männer Phantasien』を手に入れ、繙いてみればよい。(Paul Verhaeghe、NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、私意訳)。

…………

この半年ぐらい歌曲をかなり聴いたのだが、歌曲とはくり返し聴いていると飽きる。とくに歌い手の個性が強く出すぎているものは、最初はひどく惹きつけられるが、しばらくするとウンザリしてくる。

◆NINON VALLIN "Les berceaux" Fauré






ーーおい、スゴイ声だな、NINON VALLINって。でももういいよ。


たくさん聴いたなかで生き残っているのは、モンテヴェルディをうたうBernarda Finkの「すべてをお忘れなさい Oblivion soave 」だ。この〈母〉なる声にすべてを忘れよう、たとえも貪り食われてもいいじゃないか。

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)




暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつも分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』p359)

この歌声はカオスの中に秩序をつくるだけじゃない、アリアドネの糸に引っ張られて母胎のなかに吸い込まれる感覚をもたらす。

・迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。(ニーチェ 遺稿)

・賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』(Dionysos-Dithyrambus)第七歌「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne)

そしてあの〈母〉なるものに抵抗しようとするEZIO PINZAの「全てを忘れろ!」である。

◆EZIO PINZA "OBLIVION SOAVE" CLAUDIO MONTEVERDI




…………

さて、なにが言いたかったのだろう。

しらばっくれる性質の人たちの家系でよくあることだが、表立った理由もなく弟が兄を訪ねにきて、帰りぎわにドアのところで、ちょっと挿入句のような形でひとことものをたずね、べつにその答をきいているようすもないが、そのためかえって兄には、そのひとことこそ弟の訪問の目的なのだということがぴんとくる、なぜなら、本筋から切りはなされたようにつくろうようす、括弧つきのようにしてもちだされる言葉は、兄には十分身におぼえがあるからであり、兄自身何度もその手をつかったことがあるからである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)