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2016年10月15日土曜日

白い月 La Lune Blanche の差異と反復

芸術家が年老いることがないのは、おのれを反復するためである。なぜならば、差異が反復の力であるのに劣らず、反復は差異の力であるからである。

Un artiste ne vieillit pas parce qu'il se répète; car la répétition est puissance de la différence, non moins que la différence, pouvoir de la répétition.(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

◆Arleen Auger "Weichet nur, betrübte Schatten" J.S. Bach, BWV202



私はいまも思いだす、そのときの暑かった天気を、そんな日なたで給仕に立ちはたらいている農園のギャルソンたちの額から、汗のしずくが、まるでタンクの水のように、まっすぎに、規則正しく、間歇的にしたたっていて、近くの「果樹園」で木から離れる熟れた果物と、交互に落ちていたのを。そのときの天候は、かくされた女のもつあの神秘とともに、こんにちまでもまだ私に残っている、――その神秘は、私のためにいまもさしだされている恋なるもののもっとも堅固な部分なのだ。(プルースト「ソドムとゴモラⅠ」)

◆Elly Ameling - La Lune Blanche Luit Dans Les Bois




本質によって包まれた世界は、常に世界一般の始まりであり、宇宙の始まり、絶対的な、ラディカルな始まりである。《最初に孤独なピアノが、妻の鳥に見すてられた小鳥のようになげいた、ヴァイオリンがそれをきいて、隣の木からのように答えた。それは世界のはじまりにいるようであり、地上にはまだ彼ら二人だけしかいなかったかのようであった、というよりも、創造主の論理によってつくられ、他のすべてのものにはとざされたその世界――このソナタ――には、永久に彼ら二人だけしかいないだろうと思われた》。 (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

白い月が森を照らし
枝々から
その葉を伝って
囁きがもれる

ああ、愛する人よ


深い鏡のように
池が映し出す
黒々とした柳の影を
風が泣いている・・・

夢見よう、今この時


広々としたやすらぎが
やさしく降りてくるようだ
月の光が虹色に染める
空の果てから

今、えもいわれぬこの時

ーーヴェルレーヌ(Paul Verlaine)

芸術作品の中に示されるような本質とは何であろうか。それは差異、究極的な、絶対的な差異 la Différence ultime et absolue である。 それは存在を構成するもの、われわれに存在を考えさせるものである。それが、本質をあらわに示す限りでの芸術だけが、生活の中でわれわれが求めても得られなかったものを与えることを可能にする理由である。《生活や航海の中では求めても得られなかった多様性diversité ……》 《差異の世界 Le monde des différences は、われわれの知覚が一様なものにするあらゆる国ぐにの間で、地上の表面には存在しないのであるから、まして社交界の中には存在しない。それはどこかほかのところに存在するのだろうか。ヴァントゥイユの七重重奏曲は、この問に対して、存在すると答えているように思われた。》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

◆Ian Bostridge - La lune blanche luit dans le bois (Faure)




夕食後、自動車はふたたびアルベルチーヌをパルヴィルから連れだしてくるのだ。まだ暮れきらないで、ほのかなあかるさが残っているのだが、あたりのほとぼりは多少減じたものの、焼けつくような日中の暑気のあとで、私たち二人とも、何か快い、未知の涼気を夢見ていた。

そんなとき、私たちの熱っぽい目に、ほっそりした月があらわれた(私がゲルマント大公夫人のもとに出かけた晩、またアルベルチーヌが私に電話をかけてきた晩にそっくりで)、はじめは、ひとひらのうすい果物の皮のように。またときどき、私のほうから、女の友をむかえに行くときは、時刻はもうすこしおそくて、彼女はメーヌヴィルの市場のアーケードのまえで、私を待つことになっていた。最初の瞬間は、彼女の姿がはっきり見わけられなくて、きていないのではないか、勘ちがいしたのではないか、と早くも心配になってきた。そんなとき、白地に青の水玉模様のブラウスを着た彼女が、車のなかの私のそばへ、若い娘というよりは若い獣のように、軽くぽんととびこんでくるのを見るのだ。そしてやはり牝犬のように、すぐに私を際限なく愛撫しはじめるのだった。

夜が完全にやってきて、ホテルの支配人がいうように、一面の星屑夜になるころ、私たちは、シャンパンを一びんもって森へ散歩に行くのでなければ、砂丘の下で寝そべるのだが、かすかなあかりに照らされた堤防の上を、まだ散歩者たちがぶらついているけれども、砂の上は暗くて、一歩先のものは何一つ彼らの目にとまるものはなかったから、べつに遠慮することはいらなかった、かつて波の水平線を背景に通りすぎてゆくのをはじめて私が目にした少女たちの、あの美しい肉体、スポーツ的な海の女性美がやわらかく息づいているあのおなじ肉体、それを私は自分のからだにぴったりとくっつけるのだ、ふるえる一筋の光の線がなぎさを区切っている不動の海の間近で、おなじ一枚のひざかけの下で、そうして、私たちは、飽かずに、海にきき入る、その海が息をひそめて、潮のひきがとまったかと思われるほど、じっと長くそのままでいるときも、またついに、息を吐いて、私たちの足もとで、その待たれた、おそい、ささやきをもたらすときも、おなじ快楽をもって、私たちはそれにきき入るのだった。(プルースト「ソドムとゴモラⅡ」)

◆Anne Sofie von Otter; "La lune blanche luit dans les bois"; Gabriel Fauré



通ってゆく汽車の汽笛がきこえ、その汽笛は、遠くまた近く、森のなかの一羽の鳥の歌のように、移ってゆく距離を浮きたたせながら、さびしい平野のひろがりを私に描きだし、そんな空漠としてなかを、旅客はつぎの駅へいそぐのだ、……それは一羽の小鳥なのか、小楽節のまだ完成していない魂なのか、一人の妖精なのか、…… (プルースト「スワン家のほうへ」)(プルースト「スワン家のほうへ」)

La lune blanche
luit dans les bois.
De chaque brahche part une voix
sous la ramée.

O bien aimée....


L'étang reflète,
profond miroir,
la silhouette du saule noir
où le vent pleure.

Rêvons,c'est l'heure.


Un vaste et tendre apaisement
semble descendre
du firmament
que l'astre irise.

C'est l'heure exquise!

連続的な愛のセリーだけが存在するわけではない。それぞれの愛は、それ自体でセリーのひとつのかたちを借りている。ふたつの愛の間には見出される小さな差異 petites différences と、対立関係とを、われわれはすでに同一の愛の中に発見している。たとえばアルベルチーヌへの愛と、もうひとつの愛である。なぜならば、アルベルチーヌは、数多くの魂と、数多くの顔を持っているからである。確かに、それらの顔と魂は、同じ面の上にはなく、セリーを構成している。(対立の法則によれば、《最小の変化 le minimum de variété は…ふたつである。われわれは精力的な一瞥、大胆な態度で思い出すのであるが、次に出会ったときに驚き、ほとんど独自の仕方で衝撃を受けるのは、どうしても次の機会に、ほとんどやつれたような横顔、一種の夢見るような甘さ、つまり、その前の思い出の中では無視されていたものによってである。》)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』) 

◆Arleen Auger - Gehe nicht ins Gericht 2/3 - JS Bach - Kantate BWV 105




そのようにして、アルベルチーヌへの私の愛は、それがどのような差異を見せようとも、ジルベルトへの私の愛のなかにすでに書きこまれていた……Ainsi mon amour pour Albertine, et tel qu'il en différa, était déjà inscrit dans mon amour pour Gilberte ...(プルースト「見出された時」)