いやあ、すごいよ・・・、
前にもびっくりしたんだけど(Duo Márta et György Kurtág, Bach / Kurtág)、
とくにBWV618があんなに美しい曲なのをはじめて知った。
こんどのはもっとすごい
とくにBWV614のなんと美しいこと!
この沈みこむような燻銀色の
ピアノの響きのせいなのだろうか
BWV614 はオルガンでももっとくすんだ音でやってほしいと願っていて、
真に気に入った演奏に行き当たらなかったのだが・・・
1926年生れだから90歳の演奏、
でも齢は関係ない
武満徹のマタイ“Wenn ich einmal soll scheiden(いつの日かわれ去り逝くとき)”のギター編曲もすごかったけど(2:10)。
◆Chorale: Wenn ich einmal soll scheiden (J.S. Bach, Mathew Passion)
とはいえまだ死なないでください
もっとあなたのバッハをきかせてください
どうでしょうか、たとえばトリオ・ソナタ BWV 528 アンダンテの編曲なんて
◆J.S. Bach - BWV 528 (2) - Sonata IV - Andante h-moll / B minor
昨日はマタイ受難曲を全部聴いたんだよ。いやぁバッハはすごいね。僕らはクリスチャンじゃないけどなんなんだろう……(武満徹 1996年2月19日)
翌日、武満は亡くなる(1930年10月8日 - 1996年2月20日)。
ーーいや、ダイジョウブだ、バッハ愛好家共同体の幻想にすぎないから気にするな・・・(バッハ不感症の方々に向けて言っておくが)
一つの作品それ自体の価値でもって世間に通用していくかというと、そうじゃないと思う。その作品自体の価値が狭いながら共同幻想をかきたてる。畏れ多くも共同幻想の拡大というものがあるわけです。
たとえばバッハの音楽だって譜面の音じゃないでしょう。あの譜面から出る音を共同幻想が増幅して、強さと深みを与える。それにまた仲介者として指揮者が演奏者に伝えるわけですよね。(古井由吉「文學界」2008年4月 座談会)
◆Chorale: Wenn ich einmal soll scheiden (J.S. Bach, Mathew Passion)
…………
じつにこういうことを書いても(他人には)何の役にも立たないのであって、たんなる威嚇効果しかない。共犯関係はだれとも結びたくないから(もともとこのブログは殆ど個人的なメモでしかないが、こういう「私の好きなもの」の叙述はことさらそうである)。
武満徹のレヴェルの人間だったら言ってもゆるしてもいい。だが加藤周一程度じゃだめだ。
《私は藝術についての漠然として主観的なお喋りを、私自身のそれを含めて、好まない。》(加藤周一「芸術の精神史的考察」)
じつにこういうことを書いても(他人には)何の役にも立たないのであって、たんなる威嚇効果しかない。共犯関係はだれとも結びたくないから(もともとこのブログは殆ど個人的なメモでしかないが、こういう「私の好きなもの」の叙述はことさらそうである)。
《私の好きなもの、好きではないもの》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない》。というわけで、好き嫌いを集めたこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象である。ここに、身体による威嚇が始まる。すなわち他人に対して、《自由主義的に》寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。(『彼自身によるロラン・バルトバルト』)
武満徹のレヴェルの人間だったら言ってもゆるしてもいい。だが加藤周一程度じゃだめだ。
《私は藝術についての漠然として主観的なお喋りを、私自身のそれを含めて、好まない。》(加藤周一「芸術の精神史的考察」)
個人の好き嫌いということはある。しかしそれは第三者にとって意味のあることではない。たしかに梅原龍三郎は、ルオーを好む。そのことに意味があるのは、それが梅原龍三郎だからであって、どこの馬の骨だかわからぬ男(あるいは女)がルオーを好きでも嫌いでも、そんなことに大した意味がない。昔ある婦人が、社交界で、モーリス・ラヴェルに、「私はブラームスを好きではない」といった。するとラヴェルは、「それは全くどっちでもよいことだ」と応えたという。(加藤周一『絵のなかの女たち』「まえがき」より)