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2019年9月10日火曜日

力への意志・レミニサンス・反復強迫の三幅対

以下、前回の「排除=外立=固着」と重なるところの多い記述だが、ここではニーチェの「力への意志」を中心において記述する。

………

ドゥルーズとクロソウスキーはほぼ同時期にこう言っている。

力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retourは力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。…

しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

この言明は今もって正面から受け止められているように見えないが、二人の言うように、力への意志は欲動であり、永遠回帰とは欲動の反復強迫であると断言してよい。

例えば人は、ニーチェの実質上の最後の年(狂気に陥る前年の1888年)に書かれた次の二文を読めばよい。

力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: …

すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...

「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?ist "Wille zur Macht" eine Art "Wille" oder identisch mit dem Begriff "Wille"? ……

――私の命題はこうである。これまでの心理学における「意志」は、是認しがたい普遍化であるということ。そのような意志はまったく存在しないこと。 mein Satz ist: daß Wille der bisherigen Psychologie, eine ungerechtfertigte Verallgemeinerung ist, daß es diesen Willen gar nicht giebt, (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。

Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」第3節『偶然の黄昏』所収、1888)

ニーチェははっきりと力への意志は欲動(駆り立てる力 alle treibende Kraft)だと言っているのである。あるいは「力への意志=欲動の飼い馴らされていない暴力」と。

そもそもフロイトが《自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動 ungebändigten Triebregung》 (『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)と表現するとき、ニーチェの文を想起して書いたとさえ憶測できる。

ラカンならこうである。

欲動蠢動は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung(Triebregung) est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、14 Novembre 1962)

そしてこの欲動蠢動が永遠回帰=反復強迫である。

心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregung から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)

なぜ欲動の反復強迫が起こるのか。それはフロイトとラカンの捉え方によれば、「原抑圧=欲動の固着」のせいである。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
この欲動蠢動 Triebregungは(「自動反復=自動機械 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する要素 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


ニーチェ自身こう表現している。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)

「典型的経験」とは、フロイトの「リビドーの固着」(欲動の固着=享楽の固着)、ラカンの「身体の出来事」に他ならない。

分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
症状は現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)

ーーこの症状は「固着としての症状 Le symptôme, comme fixion」(Colette Soler, 2017年)の意味であり、「書かれることを止めない」とは反復強迫のことである。

享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

この固着が原症状としてのサントームのことであり、現代ラカン派が「サントームの享楽」というとき、それは「固着の反復享楽」ということである。

サントームの享楽 la jouissance du sinthome (Jean-Claude Maleval , Discontinuité - Continuité 2018)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である Le sinthome, c'est le réel et sa répétition(MILLER、L'Être et l'Un, 9/2/2011)


この欲動の固着=享楽の固着をフロイトは「トラウマへの固着」とも呼んだ。

このトラウマは自己身体の上への経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)

フロイトにおけるトラウマとは心的装置に捉えられない「身体的の上への刻印」のことを言い、事実上、外傷神経症である。

(心的装置による)拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)

このトラウマへの固着もドゥルーズは分かっていた。

トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける(フロイトの)「自動反復=自動機械」 « automatisme » という考え方は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)

この固着によってエスの反復強迫がおこる。

この欲動蠢動 Triebregungは「自動反復=自動機械 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する要素 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


反復強迫とは、ドゥルーズの表現なら「強制された運動の機械」である。すなわち欲動固着によるタナトス。

強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)

こうしてニーチェ、フロイト、プルーストの三幅対が構成される。

『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの l'involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの force à penser、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章、第2版、1970年)

たとえばドゥルーズは次の文で、プルーストの無意志的記憶の回帰と、フロイトの死の欲動、ニーチェの永遠回帰をほぼ同じものと扱っている。

エロスは共鳴 la résonance によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le tempsの形式である。(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)


心の間歇ーープルーストは『失われた時を求めて』を当初「心の間歇」という題にしようと考えていたーーは、外傷神経症的回帰症状(フラッシュバック)である。

(プルーストの)「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。…

解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)
遅発性の外傷性障害がある。震災後五年(執筆当時)の現在、それに続く不況の深刻化によって生活保護を申請する人が震災以来初めて外傷性障害を告白する事例が出ている。これは、我慢による見かけ上の遅発性であるが、真の遅発性もある。それは「異常悲哀反応」としてドイツの精神医学には第二次世界大戦直後に重視された(……)。これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』)


ニーチェの力への意志は、プルーストのレミニサンスに限りなく近似するのである、「身体の記憶=身体の出来事=身体の上への刻印」の無意志的反復強迫に。

私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶 le corps et la mémoireによって、身体の記憶 la mémoire du corpsによって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)

ここでトラウマ的記憶の回帰について誤解のないようにふたたび中井久夫を引用しておこう。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

ーーもっとも喜ばしい記憶の回帰であっても、《無意志的記憶 la mémoire involontaire の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない》(『プルーストとシーニュ』)。なぜなら主体の通常の生の「時と空間」の土台を揺り動かすものだから。

無意志的記憶の回帰はささやかなものなら誰にでもあるはずである。

彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンス réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラ」)
要は下駄を脱ぎ捨てて足袋の底に冷めたい廊下のすべすべした板を蹈んだとき、一瞬間遠い昔の母のおもかげが心をかすめた。蔵前の家から俥の上を母の膝に乗せられて木挽町へ行った五つか六つの頃、茶屋から母に手を曳かれて福草履を突っかけながら、歌舞伎座の廊下へ上るときがちょうどこんな工合であった。(谷崎潤一郎『蓼食う虫』)
立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)


ラカンにおいて、享楽=現実界=トラウマ=レミニサンスである。

享楽は現実界にある la jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


ラカンのいう「享楽回帰」とは身体的なもののレミニサンス、反復強迫=永遠回帰なのである。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)


なぜこういった話がニーチェ研究者からもドゥルーズ 研究者からも今もって出てこないのか。おそらく彼らがフロイトやプルース音痴か、すくなくとも充分に読みこなしていないためであろう。

ニーチェが「力への意志=心理学の女王」と言うとき、事実上、フロイトの「メタ心理学 Metapsychologie」のことである。

これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学 morphologyと力への意志 Willens zur Macht 展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。…

心理学者は…少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび「諸科学の女王 Herrin der Wissenschaften」として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年)

………

※付記

静かに!静かに! いまさまざまのことが聞こえてくる、昼には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいま、ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?

Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, -

- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第3節、1885年)


そもそもフロイトにとってのエスとは、なによりもまずグロデック経由のニーチェのエスに由来し、未知の制御できない力によって駆り立てられることである。

ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我Ichと呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」»gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächtenと。…

(この力を)グロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。

グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。(フロイト『自我とエス』1923年)

フロイトが「エスの力」や「エスの意志」等と呼んでいるものが、力への意志である。

エスの力 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe(リビドー)と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)



2019年7月30日火曜日

日本社交界のラカン派ドゥルーズ派諸君に命ずる!

最近になってもラカン研究者プロパのなかでさえ「ボク珍のラカンはアンコールまでのラカン」とか言っている人物がいるらしいが、そんな輩はラカン派ではまったくない。

なぜなら中期ラカンは「道に迷った」のだから。フロイトの道を踏み外したのである。たぶん不安セミネール直後におこった「破門」のせいもあろうから、ラカンに対しては情状酌量の余地はたぶんにあるが、21世紀のラカン研究者には情状酌量の余地はまったくない。今後いっさい戯言系の書物など出版しないことを蚊居肢散人は命ずる!

セミネールX「不安」1962-1963では…対象a の形式化の限界が明示されている。…にもかかわらず、ラカンはそれを超えて進んだ。

そして人は言うかもしれない、セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだと。何という反転!

そして私は自問した、ラカンはセミネールX 「不安」後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と。セミネール「不安」は、…形式化の力への限界を示している。いや私はそんなことは言わない。それは私の考えていることでない。

ラカンはセミネールXXに引き続くセミネールでは、もはや形式化に頼ることをしていない。…あたかもセミネールX にて描写した視野を再び取り上げるかのようにして。

…不安セミネールにおいて、対象a は身体に根ざしている。…我々は分析経験における対象a を語るなら、分析の言説における身体の現前を考慮する。それはより少なく論理的なのではない。そうではなく肉体を与えられた論理である。(ジャック=アラン・ミレール、Objects a in the analytic experience、2006ーー2008年会議のためのプレゼンテーション)

ーーミレールは「道に迷った」と口に出したあと、即座に否定しているが、フロイトの『否定』論文の定義上、「中期ラカンは道に迷った」が本音である。それを意図してミレールが2006年の段階でああ言っているのは、後年の発言をみれば明らかである→「女性の享楽簡潔版」。

ミレールの言っている不安セミネールの「身体」の核心のひとつは、最近何度か掲げている次の文である。

(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) という記号(去勢記号)は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では、投影されず ne se projette pas、備給されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上還元されない irréductible 形で、次の水準において深く備給されたまま reste investi profondément である。

ーー自己身体の水準において au niveau du corps proper
ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(Lacan, S10, 05 Décembre 1962)

この文の前には次の二つの図が示されている。



下図に「自己身体 corps propre」とあるが、ようするに究極の「自己身体」は去勢されているのである。

で、これが後期ラカンーーアンコールの最後から始まる後期ラカンの鍵である。



四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

サントーム=原抑圧の穴は《どんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale》とあり、セミネール10では《(-φ)は、これ以上還元されない irréductible》とある。

あとは去勢(-φ)と穴trouは同じかどうかを問えば、一丁あがりである。

(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)

ーーおよろしいでしょうか? 去勢は穴です。身体には去勢の穴があるのです。

身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
穴ウマ=トラウマ troumatisme (ラカン, S21, 19 Février 1974)

ミレール注釈ではご不満の方々のために、「原ナルシシズムと原マゾヒズムの近似性」でながながと引用した文の一部を抜き出そう。


原ナルシシズム: 去勢された母なる自己身体を取り戻す運動
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)


前期フロイトから「自己身体」という語は頻出するが、ここでは最晩年のフロイトからもうひとつだけ引用しておこう。

われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…

このトラウマは自己身体の上への経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…また疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…

これらは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)

ーーああ、ここにも「ナルシシズム的屈辱」なんてあるよ、ボクは見逃してたけど。

ようするに原ナルシシズムとは母なる身体を取り戻す運動、究極的には出生によって去勢-分離されてしまった母胎と融合しようとするエロス運動である。これを自体性愛(=自己身体エロス欲動)、自己身体の享楽、自閉症的享楽等々と呼ぶのである。

よく知られているように(?)、エロスとは死の欲動である(参照:死への道は愛である)。これはすこし考えてみれば当たり前である。フロイトのエロスとは融合である。母なる大地と融合するのが究極のエロスであり、それは死である。だがこの当たり前のことさえ日本フロイト派・ラカン派のボク珍たちはいまだ認知していない。

死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(J.-A. MILLER, A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance( PAUL VERHAEGHE,  Enjoyment and Impossibility, 2006)


死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)


さて以下のフロイト・ラカン派語彙群はすべて同じ意味である(遠慮してほぼ同一といっておいてもよい)。



上段は、固着による無意識のエスの反復強迫(あるいは上に引用したトラウマへの固着とその反復強迫)であり、下段のラカン派語彙は、サントーム(原症状)のことである。

この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する瞬間 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

ーー「自動反復 Automatismus」とは言葉の成り立ち上、「自己身体機械」のことでもある。たとえば「自閉症 Autismus」は、ギリシア語のautos-(自身)と-ismos(状態)を組み合わせた造語である。

この固着による自身機械=反復強迫が、ラカンのサントームであり、自己身体の享楽、自閉症的享楽なのである。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。 Le sinthome, c'est le réel et sa répétition (MILLER, L'Être et l'Un,, 9/2/2011)
自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 2000)
ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、…反復的享楽La jouissance répétitiveであり、…S2なきS1[S1 sans S2](=固着)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(MILLER、L'Être et l'Un, 23/03/2011)
サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉的的享楽に帰着する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)

というわけで一丁あがりである。

原無意識(現実界的無意識)について」で引用した次の文を再掲して念押しおいてもよい。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ここで確認しておけば、固着とは身体的なものが心的なものに翻訳されないことで、この心の外(言語外・象徴界外)にあるものをフロイト・ラカン派ではトラウマ=現実界と呼ぶ。そしてこれが身体の自動反復をもたらす。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマtraumatismeと呼ばれるものの価値を持っている(Lacan, S23, 13 Avril 1976)


さらに怒涛の引用癖のある蚊居肢散人は、身体の自動機械のようにして、--あるいはエロ画像を貼り付けるようにしてーーこう引用しておいてもよい。


永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a (喪われた対象)の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance  。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求 Bedürfnisses のあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzungを受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)

「備給Besetzung」を「リビドーLibido」で置き換えてもよい。(フロイト『無意識』1915年)



………

ところでである。

まず「欲望機械という倒錯機械」で1960年代後半のドゥルーズの仕事から列挙した文からここではエキスのみ抜き出そう。


固着によって強制された運動の機械
トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復」 « automatisme » という考え方は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)
強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年


冒頭の文にあるフロイト用語「Automatismus(automatisme)」 は先ほど示したように「自己身体機械(自身自動作用)」とも訳せる語で、ラカン派用語では自閉症的享楽でもある。

すなわちドゥルーズの「強制された運動の機械」とは自閉症的機械のことである!

最近「ドゥルーズと自閉症」なる研究会があるらしいが、この観点をぬかしたオベンキョウカイなら即座に罵倒の対象である。蚊居肢散人の口から火が吹くのである。オワカリダロウカ?

そもそも欲動は自閉症的なものである。

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

ーーこの文は、完全にラカンの考えに則っている(参照:ラカン派の自閉症)。

「欲動は自体性愛的 autoerotisch」だということは、「欲動は自己身体エロス欲動」だということだ。

自体性愛Autoerotismus。…この性的活動 Sexualbetätigung の最も著しい特徴は、この欲動 Trieb は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自己身体 eigenen Körper から満足を得るbefriedigtことである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

で、自閉症概念創出者のブロイラーは「自閉症≒自体性愛」だと言っている。

自閉症が自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものであるAutismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. 。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムLibido und Erotismusは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。(ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』1911年)

だから、DSMの自閉症ではなく、起源としての自閉症概念を受け入れるなら、「欲動は自閉症的」「享楽は自閉症的」だということだ。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

で、フロイトの欲動の最後の定義は次のもの。

欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ようするにこういうことだ。



で、これはニーチェが言っていることの言い換えである(参照:人はみな自閉症である)。

君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)

「ドゥルーズと自閉症」の諸君! ニーチェをはずしてはけっして本源的な意味での「自閉症」を語れません。オワカリダロウカ?

自閉症の究極の定義とはツァラトゥストラのグランフィナーレ「酔歌」にあるのをご存知ないのでしょうか?


ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』第4部、1885年
静かに!静かに! いまさまざまのことが聞こえてくる、昼には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいま、ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが?  あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?  
Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, -  

- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!  

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht!   第3節


以下続きは→「原ナルシシズムと原マゾヒズムの近似性」の末尾をごらんなされたし(どうせみないだろうけどさ)。

そもそも厳密に言って、晩年のフロイト読解からえたラカンの洞察とは、人の起源には「自閉症」(=自己身体状態 [エス])があり、その自閉症からどうやって非自閉症的人間になるか、というものである。

この非自閉症的になる手段のひとつが晩年のラカン用語では「妄想」である。

ジャック=アラン・ミレールは妄想の底にはトラウマがあるといっている。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ミレール、Vie de Lacan、2010)

このトラウマとはラカン用語では穴であり、かつまた去勢であるのは上に示した。ようするに自閉症的享楽とは身体の穴のまわりの循環運動である。ジャック=アラン・ミレールが《去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である》(Introduction à l'érotique du temps、2004)あると言っている真意はこれである。

というわけで、やめといたほうがいいんじゃないか、「ドゥルーズと自閉症」研究会の諸君! 中止しろよ。20年ぐらいはやいよ。マツタク程度をいれても役に立たないよ。彼はまだ若すぎる。フロイトが真のフロイトになったのは1920年64歳以降である。真のラカンは1973年72歳以降である。そして蚊居肢散人のみるところコクブンくんは知的にはゼロだな、彼には生徒会長ぐらいのまとめ役が適任である。ゼロとはシツレイな! ま、甘すぎるということである。自閉症を問うなら、まずスピノザ研究者として次の文を想い起こさねばならないのに、うわさによればその気配が毛頭ない。

自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質に他ならない。
Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia,(スピノザ、エチカ第三部、定理9)

ーー現在、蚊居肢散人の知るスピノザ解釈者においては、appetitus は欲動 Trieb とされることが多い。たとえば「Körper Trieb (appetitus) 」あるいは「Appetitus ist Trieb」と注釈されている。

したがって「衝動とは人間の本質に他ならない」とは「欲動とは人間の本質に他ならない」とである。

以上、ここでも蚊居肢散人は命ずる!

ニーチェ、プルースト、フロイト、ラカンをじっくり読んでからだな、可能なのは。

『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。(ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』第2版 1970年)

………

ま、ここまでは言いすぎだといっておいてもよろしい。

だが一番肝心なのは、DSMなる「自閉症スペクトラム」の「自閉症」を基盤にして自閉症を語らないことである。

少し前に引用したが、DSMの自閉症ってのは徴候群(シンドローム)なんだから、《すべてを始めからやりなおさなければならない》に決まってんだろ?

マゾッホを一行でも読んでみれば、彼の世界がサドの世界とまったく無縁のものだとすぐに感知できる。(……)問題視されているのは、サド=マゾヒスムと呼ばれる単位性そのものなのだ。医学には、徴候群 syndromesと症状 symptômes の区別がある。すなわち症状とは、一つの疾患の特徴的な符牒 signes spécifiques d'une maladieであるが、徴候群とは、遭遇または交叉からなる幾つかの単位であり、大そう異質な因果系統や可変的なコンテキストとの関係を明らかにする。…われわれはサディストとマゾヒストが同一者であるという言葉を聞かされすぎてきた。ついにそれを信ずるまでに至ってしまったのである。すべてを始めからやりなおさなければならない。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳ーーただし「症候 symptômes」を「症状」に変更)

したがって最低限、DSMなる最悪の精神医学マニュアルを叩き潰すことが「ドゥルーズと自閉症」研究会の目標にしていただきたい。これこそ真に蚊居肢散人は命ずる!



DSM(精神障害の診断と統計のマニュアル)批判
1980年に米国でDSM‐Ⅲが公刊されると、この黒船によって、日本の精神医学はがらりと変わった。本質的にクレペリン精神医学によって立ち、クルト・シュナイダーK.schneiderの操作主義とエルンスト・クレッチマーE.Kretschmerの多次元診断によって補強されたDSM体系は、日本の精神医学の風土を変えた。(中井久夫『関与と観察』2005年)
医学・精神医学をマニュアル化し、プログラム化された医学を推進することによって科学の外見をよそおわせるのは患者の犠牲において医学を簡略化し、疑似科学化したにすぎない。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法とは何か」2002年)

DSM は精神病理学と科学哲学を 2つの柱にしつつ,そのいずれもが,専門的見地からみるなら初歩的な水準にとどまっています.そのようなものが,その後3 0 年以上も生き延び,それどころか世界の精神医学の指導原理となっているのは,不思議といえば不思議なことです.(内海健「うつ病の臨床診断について」2011年)
英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)は最近、精神医学の正典的 DSM の下にある疾病パラダイムを公然と批判している。その指弾の標的である「精神障害 mental disorder」の診断分類は、支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している、と。それは、科学的に「客観的」知に根ざした判断を表すことからほど遠く、その診断分類自体が、社会的・経済的要因の症状である。(Bert Olivier, Capitalism and Suffering, 2015)


これは蚊居肢散人によるボウヤたちのために親身になった妥協策である。あの諸君たちには、ニーチェ、プルースト、フロイト、ラカンをじっくり読むなどということはまったく不可能であるのは最初から知っている。

したがって最低限の仕事は、DSMという屑を崩壊させることとなる筈である。

精神医学診断における新しいバイブルとしての DSM(精神障害の診断と統計の手引き)…。このDSM の問題は、科学的観点からは、たんなるゴミ屑だということだ。あらゆる努力にもかかわらず、DSM は科学的たぶらかしに過ぎない。…奇妙なのは、このことは一般的に知られているのに、それほど多くの反応を引き起こしていないことである。われわれの誰もが、あたかも王様は裸であることを知らないかのように、DSM に依拠し続けている。(⋯⋯)

DSMの診断は、もっぱら客観的観察を基礎とされなければならない。概念駆動診断conceptually-driven diagnosis は問題外である。結果として、どのDSM診断も、観察された振舞いがノーマルか否かを決めるために、社会的規範を拠り所にしなければならない。つまり、異常 ab – normal という概念は文字通り理解されなければならない。すなわち、それは社会規範に従っていないということだ。したがって、この種の診断に従う治療は、ただ一つの目的を持つ。それは、患者の悪い症状を治療し、規範に従う「立派な」市民に変えるということだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy, 2007ーー時代の病「DSMと自閉症」

「ドゥルーズと自閉症」の研究会諸君がかじっているらしい、たとえばトゥルニエ論の孤島のロビンソンやらルイス・キャロルやらが自閉症的なのはあったりまえなのである。創造的退行を旨とする詩人たちはすべて自己身体に向かう自閉症者である。それでなかったら本来の詩人ではない。詩人とは身体の穴に敏感な種族である、ーー「ただ この子の花弁がもうちょっとまくれ上がってたら いうことはないんだがね」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

詩の吐露 Le dire du poèmeは、…「言語という意味の効果 effets de sens du langage」と「ララング(=母の言葉のリトルネロ )という意味外の享楽の効果 effets de jouissance hors sens de lalangue」を結び繋ぐ fait tenir ensemble。それはラカンがサントーム(=自閉症的享楽)と呼んだものと相同的である Il est homologue à ce que Lacan nomme sinthome。(コレット・ソレール Colette Soler、Les affects lacaniens、 2011)

ララングとはきみたちドゥルーズのリトルネロだよ、 《リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle》 (Lacan、S21, 08 Janvier 1974)

で、すぐに思い出さなくっちゃな。

ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)

問いはむしろ学者センセたちはなんであんなに非詩的、非自閉症的でニブイんだろう、ということである。

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

………

すこしまえにもうこの自閉症の話をやめにする、と記したところだが、どうも消化不良で腹具合がよくなかったのである。この文はすかしっ屁のようなもんである。8月以降はすっきりしてエロに専念したいものである。






2019年2月5日火曜日

岡崎乾二郎「賛」

岡崎乾二郎の立場は、芸術制作においても芸術批評においても現在に至るまで、次のものだろう。

岡崎乾二郎)……だから、ぼくの立場はやはり形式主義ということになります。そんな得体の知れないものが対象としてあるように見えて、実際は掴むこともできないのはわかっている。よってそれを捉まえるよりも、具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか、そういうレヴェルでしか技術は展開しない。(共同討議「『ルネサンス 経験の条件』をめぐって」『批評空間』 第3期第2号, 2001)


この岡崎の立場を浅田彰は、少なくとも1990年代以降、称揚し続けている。

浅田彰)…美共闘か村上隆か、「美共闘」の歴史主義かポストモダン消費社会の歴史否定かというのは不毛な対立にすぎない。個人的に言うと、いわばその中間に隠れている岡崎乾二郎が圧倒的に重要だと思うんです。[…]アーティストとしても、ああいう理論的な人は世界的にはほとんど受け入れられない。日本人アーティストが理論的に考えるなどということは認められないので、アニメのパロディでもやってないと受け入れられないわけですよ。だとすれば、批評はまずそういう人存在にこそ焦点を当てるべきではないか。(浅田彰・椹木野衣対談「新世紀への出発点」)

岡崎乾二郎の理知的な批評という相は、高橋悠治に始まった反小林秀雄の立場であり(参照)、これについては1990年の大江健三郎との対談で浅田彰は明瞭に語っている。

浅田:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。

大江:浅田さんには「自分は単なる明晰にすぎない」という、つつましい自己規定があるんですね。明晰な判断力ではとらえきれないものがあって、それは明晰さより上のレベルだと思っていられる。天才というようなものが働くレベルというか。文学というあいまいな場所で生きている人間からすると、上等な誤解を受けている気がします・・・・・・(笑い)。

浅田:ところが不思議な転倒現象があるんです。戦後の文学界で最も明晰なのは三島由紀夫であり、明晰であるべき批評家たちが不透明に情念を語ることに終始したんですね。三島は、最初から作品の終わりが見え、そこから計算しつくされたやり方で作品を組み立てて、きらびやかであるだけいっそう空虚な言葉の結晶を残した。他方、小林秀雄の亜流の批評家たちは、作品をダシにおのれを語るばかりだった。二重の貧困です。(平成2年5月1日朝日新聞夕刊  対談 大江健三郎&浅田彰)


浅田は、《戦後の文学界で最も明晰なのは三島由紀夫》と言っているが、岡崎乾二郎もたぶん戦後の芸術界で最も明晰なんだろう。で、「芸術制作者としての岡崎乾二郎の貧困」と浅田彰はなぜ言わないんだろ?

《小林秀雄の亜流の批評家たちは、作品をダシにおのれを語るばかり》の時代への反動としての理知的「批評」にそれほど文句をつけるつもりはないが(オベンキョウとしてはそれでいいんだろう)、制作者の態度としてあれでいいんだろうかね、ほんとに。いま、まったく門外漢として言うが。要するに《明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまっ(た)》芸術制作ってありなんだろうか? 

ラカンに壺作りの話があるが、たぶん可能なのはそのセンだろうな。

現実界の中心にある空虚の存在 existence de ce vide au centre de ce réel をモノ la Choseと呼ぶ。この空虚は…無rienである。

…壺作り職人potierは、彼の手で空虚の周りに壺を創造する crée le vase autour de ce vide avec sa main (ラカン、S7、27 Janvier 1960)
壺は穴を創造するものである。その内部の空虚を。芸術制作とは無に形式を与えることである。創造とは(所定の)空間のなかに位置したり一定の空間を占有する何ものかではない。創造とは空間自体の創造である。どの(真の)創造であっても、新しい空間が創造される。

別の言い方であれば、どの創造も覆い(ヴェール)の構造がある。創造とは「彼岸」を創り出し暗示する覆いとして作用する。まさに覆いの織物のなかに「彼岸」をほとんど触知しうるものにする。美は何か(別のもの)を隠蔽していると想定される表面の効果である。(ジュパンチッチ1999、 Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan, 1999)

とはいえ、《明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまっ(た)》とは「精神の中流階級」の態度だ。その態度に居残ったままで真の創造行為ができるもんなんだろうか?

学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』1882年)


精神の中流階級から離反するとは、中井久夫によれば「退行」することだ。

何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。…

思い返せば、著述とは、宇宙船の外に出て作業する宇宙飛行士のように日常から離脱し、頭蓋内の虚無と暗黒とに直面し、その中をさしあたりあてどなく探ることである。その間は、ある意味では自分は非常に生きてもいるが、ある意味ではそもそも生きていない。日常の生と重なりあってはいるが、まったく別個の空間において、私がかつて「メタ私」「メタ世界」と呼んだもの、すなわち「可能態」としての「私」であり「世界」であり、より正確には「私 -世界」であるが、その総体を同時的に現前させれば「私」が圧倒され破壊されるようなもの、たとえば私の記憶の総体、思考の総体の、ごく一部であるが確かにその一部であるものを、ある程度秩序立てて呼び出さねばならなかった。(中井久夫「執筆過程の生理学」初出1994年『家族の深淵』所収)


ところで岡崎、浅田などが批判した小林秀雄はこう言っている。

人々は批評といふ言葉をきくと、すぐ判断とか理性とか冷眼とかいふことを考へるが、これと同時に、愛情だとか感動だとかいふものを、批評から大へん遠い処にあるものの様に考へる、さういふ風に考へる人々は、批評といふものに就いて何一つ知らない人々である。

この事情を悟るには、現実の愛情の問題、而もその極端な場合を考へてみるのが近道だ。(小林秀雄「批評について」)

※より詳しくは、 「こんなに恥ずかしいこと言うやついるのか」(浅田彰)。

小林秀雄の立場とはムッシュー・クロッシュの立場だな。

(ムッシュー・クロッシュ曰く)作品を通して、それらを生み出させた様々な衝動や、それらが秘めている内的な生命を見ようとするんです。めずらしい時計かなぞのように作品を分解することで成り立つ遊びより、ずっと面白くはありませんか ? (『ドビュッシー作曲論集 反好事家八分音符氏』)

小倉朗もこう言っている、《バッハの作品を見て、それが理論的であり、規則に厳格であると人はしばしば感嘆する。しかし、理論的であり、規則に厳格だからバッハの音楽が美しいと考えたら嘘になろう》(ツイッターbot)。

たとえば浅田は岡崎の作品に衝動力を感ずることあるんだろうかね。優等生として形式的には頑張ってるんだろうけど(繰り返せば門外漢として言わせてもらえば)岡崎の作品は、ネット上の画像を見る限りでは、おおむね退屈だな。カンセイユタカナ浅田くんはきっとちがうだろうけどさ。

フロイトは巧みに書いてる、理知的な態度と創造者の態度の相違を。

われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方作家の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。(フロイト「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢」1907年)

岡崎や浅田のいう形式的態度に徹してしまえば、《無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け》ることにおろそかになりがちなんじゃないだろうか。

すこし飛躍して言わせてもらえば、なんでもパララックスなんだから、そろそろ揺り戻しが必要なんじゃないか。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」)

つまり批評世界で、理知論がドミナントになってしまったのだから、そろそろ衝動論を復活させるべきじゃないのか。貧乏人は小林秀雄の真似するな! なんてケチなこと言わないでさ。

ショボい理知的批評ばっかりだよ、いまでは。たとえば田中純が岡崎乾二郎の新著『抽象の力』の書評してるがね、「谺する言語」「谺するかたち」と。で、どうした?と言いたくなるね。

ダニエル・ヘラー=ローゼンの『エコラリアス──言語の忘却について』(関口涼子訳、みすず書房、2018)…。「エコラリアス」とは「谺する言語」の意味であり 、そこで谺となるのはそれ自体としては消滅して忘れ去られた言語、たとえば、言葉を話すようになる前に 幼児が発する雑音めいた喃語である。喃語の谺はオノマトペや或る言語の発話者が別の言語を模倣しようとするときの「異言語の音」、あるいは感嘆詞のほか、人間ではないものを人間が模倣しようとして発する音声のうちに聞き取れる、と著者は言う──「言語は、それ自身の音から離れ、言葉を持たない、あるいは持ち得ないものの音、すなわち動物の鳴き声、自然や機械の出す音を引き受ける時にこそもっとも言葉そのものになりうる」。この表現を借りれば、「抽象の力」とは「具象的イメージがそれ自身の形態から離れ、 形態を持たない、あるいは持ち得ないものの形態」になったときの形態の力ではないだろうか。幼児用遊具や玩具とは「人間ではないものを人間が模倣しよう」とするときに手がかりとする事物ではないか。つまり 、抽象とは「谺するかたち」ではないだろうか。(田中純「谺するかたち ──岡崎乾二郎『抽象の力』、ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス 』2018年)

遡求的に「谺する言語」と「谺するかたち」への認識に至ってゆく方法なんだろうが、人間の原体験はもともと「谺する言語」と「谺するかたち」だよ。前者は「母の言葉の永遠回帰」、後者は「ロスコとプロトパシー」にメモがある。

そもそも幼児が《視力が1.0になるには、3歳頃まで時間を要する》そうだからな(参照:寺師恵子「赤ちゃんの視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の不思議な発達!」)。

母の乳房だってロスコの作品のように見えてる筈さ、われわれの原感覚においてはね。




ーーすこし人は幼児化もしくは退行したら、最初の世界はこのようなものだとワカルハズだけどね・・・

で、なぜ原感覚ーー原初の視覚映像における「唯物論的」な「身体の出来事」--が「谺するかたち」であることに気づかないんだろ? たぶんやっぱり「精神の中流階級」のせいなんだろうよ、「精神の貴族階級」なんて言わなくとも、一度でもいいから「精神の下層階級」になったらーー蓮實重彦のいう「凡庸」から「愚鈍」に移行したらーーすぐ分かることなんだがな。

そう、たとえばフーコーのように。

じっと耳を傾けて、世界のあのつぶやきのほうへかがみこみ、けっして詩とならなかったあの多くのイマージュ、けっして覚醒状態の色調をおびなかったあの多くのファンタスムを知覚する努力をしなければならないだろう。(フーコー『狂気の歴史』)

そう、たとえばドゥルーズ が言うように。

われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章


つまりはプルーストのように。

未知の表徴 signes inconnus(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴 signes en relief)、そんな未知の表徴をもった内的な書物といえば、それらの表徴を読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。

だから、いかに多くの人々が、そういう書物の執筆を思いとどまることだろう! そういう努力を避けるためなら、人はいかに多くの努力を惜しまないことだろう! ドレフェス事件であれ、今次の戦争であれ、事変はそのたびに、作家たちに、そのような書物を判読しないためのべつの口実を提供したのだった。彼ら作家たちは、正義の勝利を確証しようとしたり、国民の道徳的一致を強化しようとしたりして、文学のことを考える余裕をもっていないのだった。

しかし、それらは、口実にすぎなかった、ということは、彼らが才能〔ジェニー génie〕、すなわち本能をもっていなかったか、もはやもっていないかだった。なぜなら、本能は義務をうながすが、理知は義務を避けるための口実をもたらすからだ。ただ、口実は断じて芸術のなかにはいらないし、意図は芸術にかぞえられない、いかなるときも芸術家はおのれの本能に耳を傾けるべきであって、そのことが、芸術をもっとも現実的なもの réel、人生のもっとも厳粛な学校、そしてもっとも正しい最後の審判たらしめるのだ。そのような書物こそ、すべての書物のなかで、判読するのにもっとも骨の折れる書物である、と同時にまた、現実réalité がわれわれにうながした唯一の書物であり、現実 réalité そのものによってわれわれのなかに「印刷=印象 l'impression」された唯一の書物である。

人生がわれわれのなかに残した思想が何に関するものであろうとも、その思想の具体的形象、すなわちその思想がわれわれのなかに生んだ印象の痕跡は、なんといってもその思想がふくむ真理の必然性を保証するしるしである。単なる理知のみのよって形づくられる思想は、論理的な真実、可能な真実しかもたない、そのような思想の選択は任意にやれる。われわれの文字で跡づけられるのではなくて、象形的な文字であらわされた書物、それこそがわれわれの唯一の書物である。といっても、われわれが形成する諸般の思想が、論理的に正しくない、というのではなくて、それらが真実であるかどうかをわれわれは知らない、というのだ。

印象だけが、たとえその印象の材料がどんなにみすぼらしくても、またその印象の痕跡 trace がどんなにとらえにくくても、真実の基準となるのであって、そのために、印象こそは、精神によって把握される価値をもつ唯一のものなのだ、ということはまた、印象からそうした真実をひきだす力が精神にあるとすれば、印象こそ、そうした精神を一段と大きな完成にみちびき、それに純粋のよろこび pure joie をあたえうる唯一のものなのである。

作家にとっての印象は、科学者にとっての実験のようなものだ、ただし、つぎのような相違はある、すなわち、科学者にあっては理知のはたらきが先立ち、作家にあってはそれがあとにくる。われわれが個人の努力で判読し、あきらかにする必要のなかったもの、われわれよりも以前にあきらかであったものは、われわれのやるべきことではない。われわれ自身から出てくるものといえば、われわれのなかにあって他人は知らない暗所 l'obscurité qui est en nous et que ne connaissent pas les autres から、われわれがひっぱりだすものしかないのだ。(プルースト「見出された時」)


というわけだが、岡崎乾二郎の「抽象の力」ーー豊田美術館ーーのとってもかっこいいフライヤーについて書こうとしたんだけど、ま、やめとくよ。これは「批評としては」まったく悪くない、とシロウトのぼくは感じているだけだから、たいしたことが言えるわけではない。





ボクがなにやら記すより、プルーストでも貼り付けておくほうが、よっぽどためになるからな。

【批評の遊戯】
・昔から、一つの作品が完全に理解され勝利を博するころには、まだ無名の、べつの作家の作品が、一段と気むずかしい何人かの知識人のまわりに、新しい礼讃をまきおこしはじめ、やがて強い威力をほとんど失ってしまった有名作家にとってかわらなかったためしはめったにない。

・私は知っていた、――あまりにも長期にわたってかがやかしい名声を博していたものを闇に投じたり、決定的に世に埋もれるように運命づけられたかと思われたものをその闇からひきだしたりする批評の遊戯なるものは、諸世紀の長い連続のなかで、単にある作品と他の作品とのあいだにのみおこなわれるものではなく、おなじ一つの作品においてさえもおこなわれるものであることを。(……)天才たちがあきられたというのも、単に有閑知識人たちがそれらの天才たちにあきてしまったからにすぎないのであって、有閑知識人というものは、神経衰弱症患者がつねにあきやすく気がかわりやすいのに似ているのである。(『ゲルトマントのほうⅡ』)


【株の値上がり】
……証券取引所で一部の値あがりの動きが起きると、その株をもっているグループの全体がそれによって利益を受けるように、これまで無視されていた何人かの作曲家たちが、この反動の恩恵を受けるのであった、それは彼らがそのような無視に値しなかったからでもあるし、また単にーーそんな彼らを激賞することが新しいといえるのであればーーただ彼らがそのような無視を受けたからでもあった。

さらにまた人々は、孤立した過去のなかに、何人かの不羈独立の才能を求めにさえ行くのであった、現在の芸術運動がそれらの才能の声価に影響しているはずはないように思われたのに、新しい巨匠の一人が熱心に過去のその才能ある人の名を挙げるといわれていたからであった。それはつまり、一般に、誰でもいい、どんな排他的な流派であってもいい、ある巨匠が、彼独自の感情から判断し、自分の現在の立場を問わずにどこにでも才能を認めるということ、また才能とまでは行かなくても、彼の青春の最愛のひとときにむすびつくような、彼がかつてたのしんだ、ある快い霊感といったものを認めるということ、しばしばそういうことによるのであった。(プルースト 「ソドムとゴモラⅠ」)


【自分でやりたかったと思ったことを過去の作品に見出す】
またあるときは、自分でやりたかったと思ったことにあとでその巨匠が次第に気づくようになった、そんな仕事に似た何かを、べつの時代のある芸術家たちが、何気ない小品のなかですでに実現していた、ということにもよるのである。そんなとき、その巨匠は、古い人のなかに先覚者を見るのであって、巨匠は、べつの形による一つの努力、一時的、部分的に自分と一心同体の関係にある努力を、古い人のなかで愛するのである。

プッサンの作品のなかにはターナーのいくつかの部分があるし、モンテスキューのなかにはフローベールの一句がある。そしてときにはまた、その巨匠の好みが誰それであるといううわさは、どこから出たとも知れずその流派のなかにつたえられた一つのまちがいから生まれたのだ。しかし、挙げられた名がたまたまその流派の商号とちょうどうまくだきあわされてその恩恵を受けることができたのは、巨匠の選択には、まだいくらかの自由意志があり、もっともらしい趣味もあったのに、流派となると、そのほうはもう理論一辺倒に走るからなのである。

そのようにして、あるときはある方向に、つぎには反対の方向に傾きながら、脱線しそうになって進むというそんな通例のコースをたどることによって、時代の精神は、いくつかの作品の上に天来の光を回復させたのであって、そうした諸作品にショパンの作品が加えられたのも、正当な認識への欲求、または復活への欲求、またはドビュッシーの好み、または彼の気まぐれ、またはおそらく彼が語ったのではなかった話によるのである。人々が全面的に信頼感を抱いていた正しい審判者たちによって激賞され、『ペレアス』がひきおこした賞賛によって恩恵を受けながら、ショパンの作品は、ふたたび新しいかがやきを見出したのであった、そして、それをききなおさないでいた人たちまでが、どうしてもそれを好きになりたくなり、自分の自由意志かれではなかったのに、そうであったような幻想にとらえられて、それを好きになるのであった。(プルースト 「ソドムとゴモラⅠ」)

以上、『抽象の力』を読んでいない者が記した衝動的「印象批評」でした。みなさん、けっしてマネをしないでください!

⋯⋯⋯⋯

※付記

岡崎乾二郎が美術展フライヤーで《物質、事物は知覚をとびこえて直接、精神に働きかける》とか、『抽象の力』冒頭で《人が感覚を超えて把握し認識している対象のリアルかつ確実な姿》とか言っているのは、ボクの憶測と、この半年ぐらい、ラカンのボロメオ結びのヴァリエーションとして使っているスキーマで言えば、∅の箇所(身体の出来事、あるいはリビドー固着、表象代理)に相当するんじゃないかな。



(モノ、自我、言語の円は、ラカン用語では、それぞれ現実界、想像界、象徴界)

ようするに多くの芸術作品、あるいは今までの鑑賞法は、モノから時計の針と反対まわり(⤴)で自我まで来ていたけれど(言語的、物語的、フェティッシュ的に)、抽象芸術の本質は、モノから「身体の出来事」をとおして直接、自我に来るもの、その鑑賞を促すものとしているんじゃないか(いま、岡崎乾二郎の『抽象の力』を読んでいない人間としてテキトウに言っていることを念押ししておくけど)。

∅(身体の出来事)とは、ラカン=フロイトの表象代理 Vorstellungsrepräsentanz だ。

世界が表象 représentation(vótellung)になる前に、その代理représentant(Repräsentanz)ーー私が意味するのは表象代理 le représentant de la représentationであるーーが現れる。 (ラカン, S13, 27 Avril 1966)

これはニーチェ図式でも相同的(参照





2019年1月11日金曜日

けげんそうなまなざし

【何も知らないような顔】
相手の男が近寄ってくるのを待ち、しばらくお前のまわりをぶらつかせておくこと。誘惑してきたら、すこし驚いてみせなくてはいけない。相手を見て、何も知らないような顔をすべきかどうか判断することが肝心だ……(ジャン・ジュネ『泥棒日記』朝吹三吉訳)


【おどろいたようすをしたいという欲望をあらわしている、あの一種のけげんそうなまなざし】
夕闇がおりてきた、ひきかえさなくてはならなかった、私はエルスチールを彼の別荘のほうに送っていった、そのとき突然、ファウストのまえに立ちあらわれるメフィストフェレスのように、通路の向こうの端にーー私のような病弱者、知性と苦しい感受性との過剰者には、およそ縁のない、ほとんど野蛮残酷ともいうべき生活力、私の気質とは正反対な気質の、非現実的な、悪魔的な客観化であるかのようにーーほかのどんなものとも混同することのできないエッセンスの斑点のいくつか、あの少女たちの植虫群体をなすさんご虫のいくつかが、ぱっとあらわれたが、彼女らは私を見ないふりをしながら、私に皮肉な判断をくだそうとしていることはうたがいをいれなかった。(……)

折から私たちが通りかかっているアンティックの店のショー・ウィンドーのほうへ、まるで急にそれに興味をおぼえたように、身をかがめたが、そんな少女たちよりもほかのことを考えることができる、というふりをするのは自分でもわるい気がしなかった、そしてエルスチールが私を紹介しようとして呼ぶとき、おどろきそのものをあらわしているのではなく、おどろいたようすをしたいという欲望をあらわしている、あの一種のけげんそうなまなざしを自分がするだろうことを、私はすでにひそかに予知していたしーーそんな場合、誰しもわれわれは下手な役者であり、相手の傍観者は上手な人相見だーーまた指で自分の胸をさしながら、「私をお呼びですか?」とたずね、知りたくもない人たちに紹介されるために、古陶器の鑑賞からひきはなされた不快を顔につめたくかくし、従順と素直とに頭をたれ、いそいで自分が走ってゆくであろうことを、私は予知していた。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」井上究一郎訳)



【ぼんやりと気のなさそうなようすをあらわそうとした】
彼(シュルリュス男爵)はポケットから手帖を出し、ポスターにある芝居の外題を写しとるふうを装い、二、三度時計をとりだし、黒のむぎわら帽を目深におろし、誰かきたのではないかと見るようにして手をかざして目庇をつくり、ずいぶん待たされたことを人に見せつけるような、実際に待っているときはけっしてわれわれのやらない、不満そうな身ぶりをし、それから、こんどは帽子をあみだにして、頭の上は短く平に刈りあげているのが両側にはかなり長い鳩翼状のウェーヴがついた鬢を残しているその髪形を見せながら、あまり暑くもないのに暑くてたまらないようすを見せたいと思う人がよくやるように、ふうっと音を立てて息を吐いた。

私はホテル破落戸〔ごろ〕かと思った、その男なら、まえから祖母と私とをつけねらっているらしいので、何かわるいことをたくらんで私の隙をうかがっているところを不意に見つけられたことに気がつき、私の目をごまかすために、おそらく急に態度を変え、ぼんやりと気のなさそうなようすをあらわそうとしたのだが、それがあまり強く誇張されたので、彼の目的は、すくなくとも、私が抱いたと思われる疑念を一掃することにあったと同時に、私が無意識のうちに彼に加えたかもしれない侮蔑のしっぺいがえしをやること、おまえは人の注意をひくほど大した人間ではない、そんなおまえをおれは見ていたのではない、という考えを私に植えつけることであるように思われるのであった。

彼は挑戦的な態度でぐっと肩を張り、唇をかみ、ひげをひねりあげ、そのまなざしのなかに、冷淡な、冷酷な、ほとんど侮蔑的なと思われるものを溶けこませていた。したがって、そんな表情の特殊性が、彼をどろぼうではないか、それとも精神病者ではないか、と私に考えさせるのであった。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)

…………

私は監獄で「花咲く乙女たちのかげに」を読んだ。最初の巻だ。我々は監獄の中庭にいて、こっそり本を交換していた。戦争中のことだった。さほど本に気を取られていなかったので、私は後回しだった。「ほれ、おまえのぶんだ」と言われた。それがマルセル・プルーストだった。私は独語した。「こりゃ、きっとうんざりさせられるぞ」。ところがだ。どうか、私のいうことを信じて欲しい。かならずしもいつも私があなたに対して誠実ではないとしても、これだけは信じてもらいたい。私は「花咲く乙女たちのかげに」の出だしのフレーズを読んだ。それはプルーストつまり書き手の父母の家に、夕食に招かれたノルポワ氏を紹介する場面だ。そのフレーズはとても長い。そこを読み終えたとき、私は本を閉じ、自分に言い聞かせた。「もう、心配無用だ。これから私はめくるめく想いをするに違いない」。最初のフレーズは密で美しかった。この胸の高鳴りが燎原の火をもたらす最初の炎だった。元に戻るのにほとんど丸一日かかった。夜になって、ようやく私は再び本を開いた。そして、まさしく、めくるめく想いが押し寄せてくるのだった。(Jean Genet L'ennemi declare)

2017年9月17日日曜日

愛する対象の非全体

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

スワンのオデットへの愛、マルセルのアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。あるいは小説家ベルゴットへの愛でさえも。

冒頭のドゥルーズ文は、『失われた時を求めて』に繰り返し出現する主要テーマにかかわり、たとえば最終巻の「見出された時」にはこうある。

バルベックの美は、一度その土地に行くともう私には見出されなかった、またそのバルベックが私に残した回想の美も、もはやそれは二度目の逗留で私が見出した美ではなかった、ということを。私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。また、失われた時を私が見出すであろうのは、バルベックへの二度の旅でもなければ、タンソンヴィルに帰ってジルベルトに会うことでもないのと同様に、もはやサン・マルコの広場の上ではないということを。また、それらの古い印象が、私自身のそとに、ある広場の一角に、存在している、という錯覚をもう一度私の起こさせるにすぎないような旅は、私が求めている方法ではありえない、ということを。

またしてもまんまとだまされたくはなかった、なぜなら、いまの私にとって重大な問題は、これまで土地や人間をまえにしてつねに失望してきたために(ただ一度、ヴァントゥイユの、演奏会用の作品は、それとは逆のことを私に告げたように思われたが)、とうてい現実化することが不可能だと思いこんでいたものにほんとうに自分は到達できるのかどうか、それをついに知ることであったからだ。(プルースト「見出された時」)

《またしてもまんまとだまされたくはなかった》とあるが、人はことあるごとに騙されてしまうのだ。わたくしはこのところ安吾を読んでいるが、わたくしの安吾への愛は、安吾のなかにない、と常に疑わねばならないのに、ついうっかり忘れてしまう。

もっともプルーストは上にあるようにヴァントゥイユの作品という例外を語っている。これについてドゥルーズは、プルースト文にあらわれる非物質性(シネ・マテリア Sine materia)という語を取り出して注釈してはいる(参照:社交・愛・感覚・芸術のシーニュ)。真の芸術のシーニュは、愛する対象のなかにあると言えるのかもしれないが、それについてはわたくしはいまだ処理できていない(シネ・マテリア自体、後述のシミ=対象a=純粋差異ではないだろうか、と考えているところがある)。

一般にはドゥルーズがプルースト文を引用して記しているように「対象の鞘のなかの印象/己れ自身の内部にのびている印象」の後者が肝腎であるというのが、プルーストの「もう騙されたくはなかった」の意味合いである。

我々のどの印象もふたつの側面を持っている。《あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている》。それぞれのシーニュはふたつの部分を持っている。それはひとつの対象を指示しdésigne、他方、何か別のものを徴示する signifie。客観的側面は、快楽 plaisir、直接的な悦楽 jouissance immédiate 、それに実践 pratique の側面である。

我々はこの道に入り込む。我々は《真理》の側面を犠牲にする。我々は物を再認reconnaissons する。だが、我々は決して知る connaissons ことはない。我々はシーニュが徴示すものを、それが指示する存在や対象と混同してしまう。我々は最も美しい出会いのかたわらを通り過ぎ、そこから出て来る要請 impératifs を避ける。出会いを深めるよりも、容易な再認の道を選ぶ。ひとつのシーニュの輝きとして印象の快楽を経験するとき、我々は《ちぇ、ちぇ、ちぇ zut, zut, zut 》とか、同じことだが《ブラボー、ブラボー》とかいうほかない。すなわち対象への賞賛を表出する表現しか知らない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

とはいえ、愛する理由は愛する対象のなかにはなく、己自身の内部にのびているもととするとき、その具体的なあり方は何か。

そのひとつの解釈としては、愛する理由は対象のなかに書き込まれているシミにある、という観点である。

プンクトゥム punctum とは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなシミ petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことでもありーーしかもまた、骰子の一振りcoup de dés のことでもある…。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺すme point 偶然 hasard (それだけなく、私にあざをつけme meurtrit、私の胸をしめつけるme poigne)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第10章)

このシミが人を動顛させ突き刺す(参照:眼差しとしてのプンクトゥム)。

ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻である。ある何ものかの徴がつけられることによって、写真はもはや任意のものでなくなる。そのある何ものかが一閃して、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのでる(指向対象が取るに足りないものであっても、それは大して問題ではない)。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

バルトが《指向対象が取るに足りないものであっても、それは大して問題ではない》と記していることに注目しよう。

たとえば誰かがわたくしの書いた「駄文」を愛するとする。だが彼(女)がわたくしの文を愛する理由は、わたくしの書いた文の内容では直接にはない。たまたまわたくしの書いた文に、彼(女)を触発するシミが書き込まれていて、《小さな震動》をもたらした、という側面が十分にありうる。おそらく、わたくしの駄文という「石鹸の広告」にパスカルの『パンセ』を読んだのである。

われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」)

ラカン派的にいえば次の通り。

・確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau.

・そして私が絵の中の何ものか quelque chose dans le tableau なら、…それは染み tâche としてある。

・眼差しは外部にある le regard est au dehors…私は眼差される je suis regardé、すなわち私は絵である je suis tableau…私は写真に写される je suis photo, photo-graphié(ラカン、S11)

《主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。「対象以上の対象のなか」(=対象a)に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。》(ジジェク、パララックス・ヴュ―、2006)


いま引用したラカン文をムラデン・ドラ―がたくみに注釈している。ようするに愛を抱く対象には、主体が刻印されているのである。これを「表象は非全体 pas-tout」と言っている。

写真の動きが、視野の主体に宿っている。人は視野の領野において、写真を写す主体として己れを孤立化しうる以前に、あたかも人は写真に写されている。人が視野のなかで、写真に写され、掴み取られ、捕獲されるそのあり方、それは写真のなかに斑点、染み、歪みとしての徴を残す。すなわち眼差しという不透明なスクリーンである。

ここで問題になっている事は、表象概念ではない。表象 Vorstellungs とは常に主体にとっての表象である。すなわち彼の前に置かれたもの (vor-stellen 表-象)である。染みは、スクリーンの機能を所有しており、眼差しの代役のようなものである。染みは、主体とその欲望の、対象化された外部の「代理」であり、究極的には、言語とシニフィアンの領野における、(フロイトの)悪評高い「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」と同じ機能をもっている。

染みは、構造的に喪われている表象の代役(喪われているシニフィアンのシニフィアン)である。表象の全領野は染みに依拠している。染みという代理は、構造的に喪われているにもかかわらず、この代役は他の諸表象と同じ水準にあり、絶えず閉じ・脱境界化し・全体化する表象の領野の不可能性にとっての代役である。表象は「すべてではない」。表象は非全体 pas-tout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのだが、その主体の刻印のためである。

ここにはショート short-circuit がある(したがってまたラカンの名高い聖典的公式《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代理する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant 》がある。すなわち、表象を、徴示的連鎖と無限への換喩に内在的な固有のものにする。この公式の決定的カナメは、主体は代理された何かとして重要な役割をなすということであり、一般に考えられているように、主体の代わりに何かが代理されるということではないことである。)

ここで問題になっている事はまた、ある種の「表象の彼岸」ではない。あるいはラカンが用いるカント的用語における、現象の領域の彼岸ではない。…(ムラデン・ドラ―2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf

…………

※付記

シミが鑑賞者を眼差していることに気づかないことは大いにありうる。

視野においてはすべてが、二律背反的な二つの項がある。

①物 choses の側には眼差し regard がある。すなわち、物が私を眼差す regardent。

②私にはそれらの物が見える voir。

聖書においてしきりに強調される、《彼らは、見えないかもしれない眼をもっている Ils ont des yeux pour ne pas voir》という言葉は、この意味で理解されなければならない。

何が見えないかもしれないのか Pour ne pas voir quoi ? それはまさしく、物が私を眼差している les choses me regardent ことである。(ラカン、S11、11 mars 1964)

プルーストには、自らの作品の役割は、読者が己れを読むことにあるとする、とても美しい文章がある。

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。

本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。書物が述べていることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりであって、著者のテキストと読者のテキストのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に負わせることができる。さらにつけくわえれば、単純な頭の読者にとって、書物が学問的でありすぎ、難解でありすぎることがある、そんなときはくもったレンズしかあてがわれなかったように、読者にはよく読めないことがあるだろう。しかし、それとはべつの特殊なくせ(倒錯のような)をもった読者の場合には、正しく読むために一風変わった読みかたを必要とすることもあるだろう。著者はそれらのことで腹を立てるべきではなく、むしろ逆に、最大の自由を読者に残して、読者にこういうべきである、「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

そしてこの文のすぐれた注釈としてドゥルーズ文をも掲げる。

プルーストにおいて新しいもの、マドレーヌの永遠の成功、永遠の意味作用にしているものは、単に忘我や特権的瞬間の存在ではない。文学には、そのような特権的瞬間の例が無数にある。それはまた、プルーストがそれらの瞬間を提示し、彼の文体の中で分析する独創的なやり方だけでもない。むしろそれはプルーストがそれらの瞬間を生産するという事実、そしてそれらの瞬間が、文学機械 machine littéraire の効果になるという事実である。

そこから、『失われた時を求めて』の終りの部分で、ゲルマント夫人の家において、反響 résonances が増大するとこになる。それはあたかも文学機械がその完全な体制を見出すかのようである。もはや、文学者が報告したり、利用したりする超文学 extra-littéraire 的な経験が問題なのではなく、文学によって生産される芸術的実験、文学の効果が問題である。ここで効果というのは、電気的効果とか、電磁的効果とかいう意味での効果である。(… )

芸術が生産するための機械であるということ、そして特に効果を生産するための機械であることについての、プルーストは、最も生なましい意識を持っている。ここで効果というのは、他人に対する効果である。なぜならば、読者または観客は、彼ら自身の内部と外部に、芸術が作品が生産しえたのと似た効果を、発見しようとするからである。《女たちが街を通りすぎて行くが、昔の女とは違っている。なぜならば、彼女たちはルノアールだからである。それは、昔われわれが女たちであると見るのを拒否したルノアールである。馬車も、水も、空もルノアールである。》 プルーストが、自分の書いた本は眼鏡であり、光学機械 instrument d'optique だと言うのは、この意味においてである。

プルーストを読んだあとで、彼が記述する反響に似た現象を体験したなどというおろかなまねをする痴者 imbéciles は大ぜいはいないし、また、そのような体験が、記憶錯誤症・記憶喪失症・記憶過多症のケースではないかと自問するようなペダンティックな者 pédants も多くはいない。プルーストの独自性は、この古典的な領域に、彼以前には存在しなかったメスを入れ、操作を導入した点にある。しかし、単に他人に対して生産された効果だけが問われるのではない。芸術作品こそが、それ自体の内部で、またそれ自体に対して、それ固有の効果を生産し、それによってみたされ、それを養分とするのである。芸術作品は、おのれが生む真実を養分とする。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

…………

※追記

ジジェクの解釈においては、対象aあるいはシミとはドゥルーズやラカンの「純粋差異」のことである(参照)。

……対象a はカントの超越論的対象 transcendental object に近似している。なぜなら、対象a は「知られていないX」、仮象の彼方の対象の「ヌーメノンNoumenon」的核を表すから。それは《あなたのなかにあるあなた以上のもの quelque chose en toi plus que toi》である。

したがって対象a は、純粋視差対象 pure parallax objectとして定義される。…さらに厳密に言えば、対象a は、視差の裂目 parallax gapの「原因」である。

ここでのパラドクスは厳密なものである。まさにこの点にて、純粋差異が現れる。差異はもはや「二つの可能的に存在する対象 two positively existing objects」のあいだの差異ではない。そうではなく「「一」とそれ自体からの同じ対象を分割する divides one and the same object from itself」差異である。この差異「それ自体」は即座に測り知れない unfathomable 対象と一致する。

諸対象の間の単なる差異とは対照的に、純粋差異はそれ自体、対象である。(パララックス・ヴュー、私訳、原文

2016年12月15日木曜日

私の好きな女が、みんな母に似てるぢやないか!

母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。

私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。
三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだつぴろい誰もゐない部屋のまんなかに私がゐる。母の恐ろしい気配が襖の向ふ側に煙のやうにむれてゐるのが感じられて、私は石になつたあげく気が狂れさうな恐怖の中にゐる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきづり、窖のやうな物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。
 ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!

 私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」)

◆Anne Sofie von Otter; "La lune blanche luit dans les bois"; Gabriel Fauré


私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。

私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつたからだつた。 ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはゐられなくなる。その遊びは、私にとつては、常に陳腐で、退屈だつた。満足もなく、後悔もなかつた。(坂口安吾「私は海をだきしめてゐたい」)
私は学校を休み松林にねて悲しみに胸がはりさけ死ねときがあり、私の魂は荒々しく戸を蹴倒して我家へ帰る時があつても、私も亦、母の鼻すら捩ぢあげはしないであらう。私はいつも空の奥、海のかなたに見えない母をよんでゐた。ふるさとの母をよんでゐた。 

そして私は今も尚よびつゞけてゐる。そして私は今も尚、家を怖れる。いつの日、いづこの戸を蹴倒して私は死なねばならないかと考へる。一つの石が考へるのである。(坂口安吾「石の思ひ」)
母と私はやがて二十年をすぎてのち、家族のうちで最も親しい母と子に変つたのだ。私が母の立場に理解を持ちうる年齢に達したとき、母は私の気質を理解した。私ほど母を愛してゐた子供はなかつたのである。母のためには命をすてるほど母を愛してゐた。(坂口安吾「をみな」)

◆Frantz Schubert - Du bist die Ruh', D.776 - Gundula Janowitz



あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち、等々。

もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の性格特徴を見出すならば、われわれはこの「同一物の永劫回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかにつよくわれわれのこころを打つ。

一例として、ある婦人の話を想い起こす。彼女は、つぎつぎんい三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった。(フロイト『快原理の彼岸』1920年,pp,161-163、人文書院旧訳よりだが一部変更ーーあらゆる人間関係が、つねに同一の徴に終わるような人がいる

◆Lois Marshall sings Gabriel Fauré's "Chanson d'amour"




母親への愛着はそれが最初のものでありあまりに強すぎるからこそ、破滅しなければならないということなのであって、これに似たことは最初の、しかも非常に強い恋愛によってむすばれた若い婦人の結婚の場合にしばしばみることができる。(フロイト『女性の性愛について』1931)

《私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらにする。[Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.]》(ラカン、セミネール11)

母親への依存性のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、母親に殺されてしまう(食われてしまう?)というのはたぶん、驚くべきではあるが、きまっておそわれる不安であるように思われるからである。このような不安は、小児の心に躾や身体の始末のことでいろいろと制約をうけることから、母親に対して生まれてくる敵意に対応すること、また、投影 projektion のメカニズムが早期の心的な体制によって助長されるということは、容易に仮定できる。(フロイト『女性の性愛について』)

《自我であるとともに、自我以上のもの moi et plus que moi》(プルースト「ソドムとゴモラ」

容易に観察されるのは、性愛の領域ばかりではなく、心的体験の領域においてはすべて、受動的にうけとられた印象が小児には能動的な反応を起こす傾向を生みだす、ということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。それは、小児に課された外界を征服しようとする仕事の一部であって、苦痛な内容をもっているために小児がそれを避けるきっかけをもつこともできたであろうような印象を反復しようと努める、というところまでも導いてゆくかもしれないものである。小児たちの遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置をくりかえすのである。受動的なことに反抗し能動的な役割を好むということが、この場合は明白である。(フロイト『女性の性愛について』)

◆Bárbara Hendricks - Fauré - Les Berceaux



母 mère に対する主人公の愛の中に、愛のセリーの起源 l'origine de la série amoureuse を見出すことは、常に許容される。しかしわれわれはそこでもまたスワンに出会うことになる。スワンはコンブレ―へ夕食に来て、子供である主人公から母の存在を奪うことになる。そして、主人公の苦しみ、母にかかわる彼の不安は、すでにスワンがオデットについて彼自身体験した苦しみであり不安である。《自分がいない快楽の場、愛するひとに会うことのできない快楽の場で、そのひとを感ずる不安、それを彼に教えたのは愛である。その愛にとって不安は或る意味で始めから運命として存在しているのだ。その愛によって、不安は独占され、特殊なものにされている。しかし、私にとってそうであるように、愛がわれわれの生活の中に現れて来る前に、不安がわれわれの内部に入ってくるとき、それはあいまいで自由なものとして、期待の状態で浮動している……》恐らく、母のイメージ image de mère は、最も深いテーマではなく、愛のセリーの理由でもないという結論がここから出されよう。確かに、われわれの愛は、母に対する感情を反復している。しかし、母に対する感情は、われわれ自身が経験したことのないそれとは別の愛を、すでに反復しているのである。母はむしろむしろひとつの経験からもうひとつの経験への移行として、われわれの経験の始まり方として現われるが、すでに他人のよってなされたほかの経験とつながっている。極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

◆Schumann Der Nussbaum Bernarda Fink



《フランソワーズは、レオニ叔母のかたわらで、乳母のイメージである 》(リシャール1974、Jean-Pierre Richard, Proust et le monde sensible)

子どもの最初のエロス対象は、彼(女)を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、子どもの母という人影のなかへ統合される。その母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse 、1940、死後出版)

《他の性 l'Autre sexe は、男たちにとっても女たちにとっても〈女〉La Femme である。》(Jacques-Alain Miller,The Axiom of the Fantasm)

女性性féminité について問いめぐるなか、ラカンは症状としての女性を語る。他の性 l'Autre sexe を支える症状である。最後のラカンの教えにおいて、私たちは症状と女性性とのあいだの近接性を感知しうる。(Florencia Farìas, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin, 2010、PDF





《マルセルの性的な理想は女中なのだ。女中は彼への配慮を拒否することができないからだ。母ならこれを断ることもできる。女中は満足を与える母である。》(J. Francis レイユ--ーーJean-Yves Tadie, Proust, Belfond, 1983より)

私が白木の大きな机に向かってすわり、たとえばわれわれのかたわらを離れずに暮らしてわれわれの目ざすつとめにある種の直感をもっている気負いのない人間にぴったりの、そんなフランソワーズに見まもれ(……)、そんなフランソワーズのそばで、彼女とほとんどおなじように(いまはひどく年老いて、目もろくに見えないが、せめて彼女が昔やっていたのとおなじように)、私が仕事をするであろうことを。彼女とおなじように、ということはつまり、ここかしこに補足の紙きれをピンでとめながら、私は自分の書物を築いてゆくだろうということなのだ。何もそう野心的に大聖堂のように、などとはいうまい、ただ単に一着の服を仕立てるように。フランソワーズがいうところの、私のばらばらの紙きれ〔パプロール〕が私のそばにみんなそろっていなかったり、また私に必要なそのなかの一枚がちょうど欠けていたりすると、フランソワーズは私のいらだちがよくわかるだろう、そういう彼女は、必要な番手の糸やボダンがないと裁縫はできない、といつも口にしていたのだから。(……)

フランソワーズが紙きれと呼んでいる私のあのばらばらの紙片は、やたらに貼りかさねられて、あちこちでやぶれていた。いざとなったら、私をたすけてフランソワーズはそのやぶれた紙片に裏打ちをしてくれるだろう。それは、自分の服のすりきれた部分に彼女が継ぎをあてたり、私が印刷屋を待つようにガラス屋を待ちながら、料理場の窓のこわれた板ガラスのところに、彼女が新聞紙を貼りつけたりするのと、おなじことではないだろうか? フランソワーズは、虫が食った木材のように傷んでいる私の草稿帳〔カイエ〕を指さしながら、私にいうだろう、「すっかり虫ぼろです、ごらんなさいませ、いやですねえ、ほらこのページの端は、もうレースというよりほかありませんね」、そして仕立屋のようにくわしく目をそのページに通しながら、「もう私にはつくろえそうもありません、だめでございますよ。残念ですねえ、ここのページはあなたさまの一番りっぱなお考えかもしれませんのに。コンブレーで申しますように、毛皮を食う虫以上に目の利く毛皮屋はおりませんですよ。虫はいつも一番いい品物につくのですからねえ。」

それにまた、一つの書物のなかでは、個々の存在は(人間であろうとそうでなかろうと)数多くの印象からつくりあげられるのであって、しかもそれらの印象は、多くの少女、多くの教会、多くのソナタからひきだされて、一つのソナタ、一つの教会、一人の少女をつくりあげるのに役立っているのだから、私が私の書物をつくりあげるのも、あのように多くの部分から選んだ肉片を加え、あのようにそのゼリーを風味ゆたかにして、フランソワーズがノルボワ氏にほめられた、あのブーフ・モードのようなつくりかたでやるのではないだろうか? そしてついに私は現実化することになるだろう、――ゲルマントのほうの散歩で、あのように私が欲したことを、そしてあのように不可能だと思ったことを。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

◆"Ich liebe dich" E. Grieg




……そんなとき、突然私が目にとめるのは、雨にぬれた路面が日ざしを受けて金色のラッカーと化した歩道にあらわれて、太陽にブロンドに染められた水蒸気の立ちのぼるとある交差点の舞台のハイライトにさしかかる宗教学校の女生徒とそれにつきそった女の家庭教師の姿とか、白い袖口をつけた牛乳屋の娘とかであって、(……)バルベックの道路と同様に、パリの街路が、かつてあんなにしばしばメゼグリーズの森から私がとびださせようとつとめたあの美しい未知の女性たちを花咲かせながら、それらの女性の一人一人が官能の欲望をそそり、それぞれ独自に欲望を満たしてくれる気がする、そんな光景に接するようになって以来、私にとってこの地上はずっと住むに快く、この人生はずっとわけいるに興味深いものであると思われるのであった。(プルースト「ゲルマントのほうⅠ」)
私は窓のところに行き、内側の厚いカーテンを左右にひらいた。ほの白く、もやが垂れて、あけはなれている朝の、上空のあたりは、そのころ台所で火のつけられたかまどのまわりのようにばら色であった、そしてそんな空が、希望で私を満たし、また、一夜を過ごしてから、ばら色の頬をした牛乳売の娘を見たあんな山間の小さな駅で目をさましたい、という欲望で私を満たした。(プルースト「逃げさる女」)
勿論かうした山中のことで、美人を予期してゐないのが過大な驚異を与へるわけだが、脚絆に手甲のいでたちで、夕靄の山陰からひよいと眼前へ現れてくる女達の身の軽さが、牝豹の快い弾力を彷彿させ、曾て都会の街頭では覚えたことがないやうな新鮮な聯想を与へたりする。牝豹のやうに弾力の深い美貌の女が山から降りてくるのも見ました。また黄昏の靄の中で釣瓶の水を汲んでゐる娘の姿を、自然の生んだ精気のやうな美しさに感じたこともあるのです。また太陽へながしめを送りかねない思ひのする健康な野獣の意志を生き甲斐にした日向の下の女も見ました。その人たちがその各々の美しさで、僕をうつとりさせたのですね。(坂口安吾「木々の精、谷の精」)

◆Elizabeth Schwarzkopf - Songs my Mother taught Me




要するに、究極的な項などは存在しないのであって、わたしたちの愛は母なるものを指し示してはいない nos amours ne renvoient pas à la mère のである。母なるものは、たんに、わたしたちの現在を構成する系列のなかでは、潜在的対象に対して或るひとつの場所を占めているだけであって、この潜在的対象は、別の主体性の現在を構成する系列のなかで、必然的に別の人物によって満たされ、しかもその際、つねにそうした対象=x〔潜在的対象〕の遷移が考慮に入れられているのである。それは、言ってみれば、『失われた時を求めて』の主人公が、自分の母を愛することによって、すでにオデットに対するスワンの愛を反復しているようなものなのだ。親の役割をもつ人物はどれも、ひとつの主体に属する究極的な項なのではなく、相互主体性に属する中間項〔媒概念〕であり、ひとつの系列から他の系列へ向かっての連絡(コミュニカシオン)と偽装の形式であって、しかも、その形式は、潜在的対象の運搬によって規定されているかぎりにおいて、異なった諸主体にとっての連絡と偽装の形式なのである。仮面の背後には、したがって、またもや仮面があり、だからもっとも隠れたものでさえ、はてしなく、またもやひとつの隠し場所なのである。何かの、あるいは誰かの仮面をはがして正体を暴くというのは、錯覚にほかならない。反復の象徴的な器官たるファルスは、それ自体隠れているばかりでなく、ひとつの仮面でもある。(ドゥルーズ『差異と反復』)

ドゥルーズはフロイトの原抑圧un refoulement dit « primaire »に言及しつつ、このことを語っている。

本源的に抑圧されているものは、常に女性的なるものではないかと疑われる。(Freud, Draft M. Repression in hysteria ,1897).
原抑圧とは、現実界のなかに〈女〉を置き残すことと理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999ーー「一の徴」日記②

◆Arleen Auger "Weichet nur, betrübte Schatten" J.S. Bach, BWV202




女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut (Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838)

いや、母が欲することは、神も欲する Ce que la maman veut, Dieu Ie veut

ドゥルーズの《母はむしろむしろひとつの経験からもうひとつの経験への移行として、われわれの経験の始まり方として現われるが、すでに他人のよってなされたほかの経験とつながっている。極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している》における「超越的な遺伝」とは、「母の法」、「母の徴」と読み替えなければならない(参照:「一の徴」日記⑦:トラウマの徴と愛の徴)。

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。(Geneviève Morel、2009)

《母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである》(Lacan.S5)

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF

《非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …》(S19, 03 Mars 1972)

もちろん肝腎なのはドゥルーズのいうように「母のイメージ」ではなく「母(最初の養育者)による徴」である。

反復は本質において象徴的なものである。記号、シミュラークルが反復自体の文字である。la répétition est symbolique dans son essence, l symbole, le symuracle, est la lettre de la répétition même. (ドゥルーズ『差異と反復』)
反復の概念は転移の概念とは何の関係もない le concept de repetition n'a rien a faire avec celui de transfert.(ラカン、S11、1964)
・転移は反復に要求の形式を与える le transfert donne à la répétition la forme de la demande

・転移以外には、反復は本質的に要求はない Hors transfert, la répétition n’est pas essentiellement demande (コレット・ソレール、2010_« La réptition ne se produit qu’une seule fois »par Colette Soler)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(Lacan, S.17)
「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S.19)
…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.9,1961-1962)

女性の享楽の徴・母の徴(原症状)とは神の徴である。いや逆が真である。

「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、セミネール23、16 Mars 1976)
ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。 (ラカン、セミネール17、14 Janvier 1970)
何かが原初に起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、「A」の形態 la forme Aを 取るような何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

◆Bach-karl ritcher"Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen"





2016年12月1日木曜日

ファストフード的知的消費者向け作文

以下、まずは1902年生の小林秀雄の1936年の文章である。

君にいわせれば、僕は批評的言語の混乱というものを努めて作り出そうと心掛けて来た男だ。そして愚かなエピゴオネンを製造し、文学の進歩を妨害している。そういう奴は退治してしまわねばならぬという。豪そうな事をいうなとは言うまい。しかし、君が僕を眺める眼は大変感傷的なのである。もし僕がまさしく君のいう様な男であったら、僕が批評文で飯を食って来たという事がそもそも奇怪ではないか。批評的言語の混乱に努力し、その努力を批評文に表現する様な人間は、どんな混乱した社会にあっても、存在する事が出来ないのは、わかりきった話だ。僕が批評家として存在を許されて来た事には自ら別の理由がある。その理由について僕は自省している。君の論難の矢がそこに当る事を僕は望んでいたのである。君は僕の真の姿を見てくれてはいない。君の癇癪が君の眼を曇らせているのである。(……)

僕は「様々なる意匠」という感想文を「改造」に発表して以来、あらゆる批評方法は評家のまとった意匠に過ぎぬ、そういう意匠を一切放棄して、まだいう事があったら真の批評はそこからはじまる筈だ、という建前で批評文を書いて来た。今もその根本の信念には少しも変わりはない。僕が今まで書いて来た批評的雑文(謙遜の意味で雑文というのではない、たしかに雑文だと自分で思っているのだ)が、その時々でどんな恰好を取ろうとも、原理はまことに簡明なのである。原理などと呼べないものかも知れぬ。まして非合理主義だなぞといわれておかしくなるくらいである。愚かなるエピゴオネンの如き糞でも食らえだ。(……)

君は僕の文章の曖昧さを責め、曖昧にしかものがいえない男だとさえ極言しているが、無論曖昧さは自分の不才によるところ多い事は自認している。又、以前フランス象徴派詩人等の強い影響を受けたために、言葉の曖昧さに媚びていた時期もあった。しかし、僕は自分の言葉の曖昧さについては監視を怠った事はない積りである。僕はいつも合理的に語ろうと努めている。どうしても合理的に語り難い場合に、或は暗示的に或は心理的に表現するに過ぎぬ。その場合僕の文章が曖昧に見えるというところには、僕の才能の不足か読者の鈍感性か二つの問題しかありはしない。僕が論理的な正確な表現を軽蔑していると見られるのは残念な事である。僕が反対して来たのは、論理を装ったセンチメンタリズム、或は進歩啓蒙の仮面を被ったロマンチストだけである。(……)

僕等は、専門語の普遍性も、方言の現実性も持たぬ批評的言語の混乱に傷ついて来た。混乱を製造しようなどと誰一人思った者はない、混乱を強いられて来たのだ。その君も同様である。今はこの日本の近代文化の特殊性によって傷ついた僕等の傷を反省すべき時だ、負傷者がお互いに争うべき時ではないと思う。(小林秀雄「中野重治君へ」昭和十一年四月二日―三日『東京日日新聞』初出)

実に美しい文章だ。「豪そうな事をいうな」、「批評文で飯を食って来た」、「癇癪が君の眼を曇らせている」などの生きた言葉遣い、あるいは、《僕が反対して来たのは、論理を装ったセンチメンタリズム、或は進歩啓蒙の仮面を被ったロマンチストだけである》という対句。

論理を装ったセンチメンタリズム
啓蒙の仮面を被ったロマンチスト

ーーところで、この21世紀、これ以外の批評の書き手などいるんだろうか・・・

《専門語の普遍性も、方言の現実性も持たぬ批評的言語の混乱》などという問いさえもとっくの昔に何処かに行ってしまった(これは加藤周一がいった「雑種文化」にもかかわるはずだが、問いが消えたのは雑種文化が定着したってことだろうか)。

こういったこととは別に、あのような時代もあったのだ、という感慨が沸き起こってくる。

小林秀雄は《批評的言語の混乱に努力し、その努力を批評文に表現する様な人間は、どんな混乱した社会にあっても、存在する事が出来ないのは、わかりきった話だ》と言っているが、これは或る意味で、当時の知識人階級をいまだ信頼していたからこそこう言えたのだろう。そして小林秀雄のこの勇ましい断言は甘すぎるとする観点もあるはずだ。たとえばここでプルーストの文章を引用してみよう。

批評は、何一つ新しい使命をもたらさない作家を、彼に先立った流派にたいする彼の横柄な口調、誇示的な軽蔑のゆえに、予言者として、祀りあげる。批評のこのような錯誤は、常習となっている(プルースト『見いだされた時』)

この有様が「批評文で飯を食って来た」書き手の常道だったのは、かつてからだったといえる。少なくとも「馬鹿」を相手にする大衆文化が生まれて以降は。

……一八六三年の二月一日に一部五サンチームで売り出された小紙面の『ル・プチ・シュルナル』紙は、その安易な文体と情報の単純さによって、日刊紙としては初めて数十万単位の読者を獲得することに成功する。一八五〇年当時、パリの全日刊紙をあわせても三十万程度であったことを考えれば、一紙で三十五万の読者を持つ『ル・プチ・シュルナル』紙の創刊は、言葉の真に意味でマス・メディアと呼ばれるにふさわしいものの出現を意味することになる。(……)ここでの成功が、みずからの凡庸さを装いうるジャーナリストの勇気に負うものだという点を見落としてはなるまい。人類は、おそらく、一八六三年に、初めて大量の馬鹿を相手にする企業としての新聞を発明したのである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

だがインターネットが普及した現在ーーつまりは大量の馬鹿が書くようになった時代ーーには、「批評的言語の混乱に努力」する批評家が大手をふるって存在できるようになった。いや批評はそうでなくては読まれない。もちろん批評だけではない。《いいものは売れなくて当然》(蓮實重彦)は昔からだったかもしれないが、《愚かさは進歩する!》(フローベール)のだから、いまではいっそうそうだ。

つまり比較的よく読まれている書き手の文章とは馬鹿向けの寝言だと疑わなくてはならない(これはツイッターでの大量RTの囀りをすこしでも垣間見れば歴然としている)。

ここでジジェクのジョン・グレイ罵倒を掲げよう。現在の批評とはこの程度のものだということを示すために。

あなたは、あなたが批評しているところの著作がどのようなものであるかを全く無視している。あなたは論争の道筋を再構成する試みを全く放棄している。その代わりに、曖昧模糊とした教科書的な通則やら、著者の立場の粗雑な歪曲、漠然とした類推、その他諸々を一緒くたにして放り投げ、そして自身の個人的な従事を論証するために、そのような深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えているのだ(「見ろ!あの著者は新たなホロコーストを主張しているみたいだぞ!」といったように)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(スラヴォイ・ジジェク:彼の批判に応答して)

ーーこれはジョン・グレイの『LESS THAN NOTHING』 (ジジェク 2012)『Living in the End Times』(同)の書評「The Violent Visions of Slavoj Žižek」(John Gray)に対するジジェクの反論の断片である。

ジョン・グレイ(1948~)は、イギリスの政治哲学者であり、オックスフォード大学教授を経て、現在、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス名誉教授。1949年生れのジジェクと同世代ということになる。

グレイの著作は、バラードなどにも賞賛されたことがある。

《Gray’s work has been praised by, amongst others, the novelists J. G. Ballard, Will Self and John Banville,etc》(Wikepedia)

だがジジェクの反論は明らかに正しい。このそれなりに名高い政治哲学者のジジェク批判は、ジジェクの著書をまともに読んでさえいなくて書かれており、まさに「ファストフード的な知的消費者」向けのものである。

そして、いま日本のネット界に流通する「批評」などというものはーーほんの僅かの例外を除いて、と一応留保しておこうーーさらにいっそう、ファストフード的な知的消費者が望んでいるもの、《道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式……人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせる》ものでしかないのは明らかだろう(書いている本人はそのつもりがなくても)。

その書き手が信頼されるのはすぐれた批評を書くせいではまったくない。記号の記号の流通の海を巧みに泳いでいる者のみが信用される。それが知の大衆化現象である。

大衆化現象は、まさに、そうした階層的な秩序から文化を解放したのである。そしてそのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記号でしかない。(……)読まれる以前にすでに記号の記号として交換されているのである。したがって、まだ発表されてさえいない作品の作者たる人物が、そこで交換されているものの特権的な発信者とは呼べないだろう。

(……)聴衆が競いあってオッフェンバックの喜歌劇の切符を買い求め、読者が先を争ってポンソン・デュ・デラーユの連載小説の載る『ラ・プチット・プレス』紙の予約購読を申し込むのは、ぜひともその作品に接したいという欲望とはまったく別の理由からである。それは、みずからも、記号の記号としての固有名詞の流通に加担したいという意志にほかならない。

この意志は、隣人の模倣に端を発する群集心理といったことで説明しうるものではない。そこに、流行という現象が介在していることはいうまでもないが、実は流行現象そのものでもない。問題は、欠落を埋める記号を受けとめ、その中継点となることなのではなく、もはや特定の個人が起源であるとは断定しがたい知を共有しつつあることが求められているのである。新たな何かを知るのではなく、知られている何かのイメージと戯れること、それが大衆化現象を支えている意志にほかならない。それは、知っていることの確認がもたらまがりなす安心感の連帯と呼ぶべきものだが、マクシムが苛立っているのも、まさにそれなのだ。そこにおいて、まがりなりにも芸術的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない、ともにその名を目にしてうなずきあえる記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

蓮實重彦がこう書いたのは、1980年代である。いまではこういったことさえ全く念頭にない読み手が、そこらじゅうを大手を振るって歩き回り頷き合っている。

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)